鶴見 宜信(つるみ よしのぶ、1879年〈明治9年〉8月28… 鶴見 宜信(つるみ よしのぶ、1879年〈明治9年〉8月28日 - 1941年〈昭和16年〉8月14日)は、日本の軍人、政治家。 陸士10期。栄典は正五位勲三等。最終階級は陸軍歩兵大佐。第14代日光町長。 栃木県上都賀郡日光(現日光市)士族出身。1898年(明治31年)11月、陸軍士官学校(10期)を卒業。翌32年6月に少尉に任官され、歩兵第3連隊附。のち新潟県中頸城郡高田町の歩兵第58連隊に転属。 中隊長であった1911年(明治44年)、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍(英語版)少佐テオドール・エードラー・フォン・レルヒよりスキー専修員班長として指導を受ける。また、ドイツ語が堪能だった鶴見は、レルヒ少佐の通訳に抜擢され、彼を補佐しながら各地で指導に当たった。
春藤 嘉平(しゅんどう かへい、1879年(明治12年)8月… 春藤 嘉平(しゅんどう かへい、1879年(明治12年)8月27日 - 1953年(昭和28年)4月4日)は、日本の内務・警察官僚。官選青森県知事、呉市長、川崎市長。 後の岡山県児島郡八浜町(現:玉野市)で春藤常治の長男として生まれる。 第一高等学校を卒業。1905年10月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。内務省に入省し山梨県属となる。1907年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 以後、栃木県事務官、千葉県事務官・警察部長、三重県事務官・警察部長、埼玉県警察部長、山梨県内務部長、熊本県内務部長、宮城県内務部長などを歴任。 1921年3月9日、青森県知事に就任。河川改修事業を推進した。
酒匂 宗次郎(さこう そうじろう、1879年(明治12年)8… 酒匂 宗次郎(さこう そうじろう、1879年(明治12年)8月27日 - 没年不明)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県姶良郡、のちの姶良町(現姶良市)で生まれた。1902年(明治35年)陸軍士官学校第14期卒業。 1927年(昭和2年)7月に陸軍歩兵大佐・福岡連隊区司令官、1930年(昭和5年)3月に歩兵第19連隊長に就任。第一次上海事変に従軍した。1932年(昭和7年)8月8日に陸軍少将に進級と同時に待命、同月30日に予備役に編入した。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
瀧 廉太郎(たき れんたろう、1879年〈明治12年〉8月2… 瀧 廉太郎(たき れんたろう、1879年〈明治12年〉8月24日 - 1903年〈明治36年〉6月29日)は、日本の音楽家・ピアニスト・作曲家。 明治期における西洋音楽黎明期の代表的な音楽家の一人で、歌唱共通教材として「荒城の月」が知られている。戸籍名では旧字体の「瀧」を用いるが、現代の教科書などでは新字体の「滝」でも表記される。 1879年(明治12年)8月24日に、旧・日出藩士(現:大分県速見郡日出町)の瀧吉弘の長男として東京府芝区南佐久間町2丁目18番地(現:東京都港区西新橋)に生まれた。両親は吉弘と正子で、瀧家は江戸時代に豊後国日出藩の家老職を代々務めたいわゆる上級武士の家柄である。父・吉弘も日出藩の家老で1872年(明治5年)に上京し、大蔵省から内務省に転じて大久保利通・伊藤博文らの下で内務官僚として勤務したのち、地方官として神奈川県・富山県を経て大分県竹田市に移り住んだ。
常吉 徳寿(つねよし とくじゅ、1879年(明治12年)8月… 常吉 徳寿(つねよし とくじゅ、1879年(明治12年)8月20日 - 1934年(昭和8年)1月6日)は、日本の大蔵官僚。台湾総督府官僚。 佐賀県東松浦郡浜崎村(現唐津市)出身。1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。大蔵省に入り、税務監督官を務めた後、中華民国財政部顧問となった。その後、台湾総督府に転じ、専売局参事、新竹州知事、台中州知事を歴任、1928年(昭和3年)7月に専売局長となった。 1928年8月に退官した後は、自治研究会理事兼主任を務めた。 心臓病で療養中であったところ1934年(昭和8年)1月6日、東京府滝野川区西ヶ原町(現東京都北区西ケ原)の自宅で死去、54歳。
貝原 良介(かいばら りょうすけ、1879年8月17日 - … 貝原 良介(かいばら りょうすけ、1879年8月17日 - 1918年10月22日)は、日本の教育者、物理学者。 福岡藩士族貝原信の長男として、福岡県に生まれる。1898年福岡県立尋常中学修猷館、1901年第五高等学校理科を経て、1904年東京帝国大学理科大学理論物理学科を卒業。 1906年学習院教授に就任し、物理、数学を講じた。 1918年10月22日、腎臓病により死去、従五位勲六等。
孤峰 智璨(こほう ちさん、1879年8月16日 - 196… 孤峰 智璨(こほう ちさん、1879年8月16日 - 1967年11月1日)は、日本の曹洞宗の僧侶。神奈川県最乗寺住職、總持寺独住18世貫首。俗姓は奥田。号は瑩堂。 明治12年富山県生まれ。1892年13歳で得度、石川県永光寺の孤峰白巌の法をつぐ。1901年から臨済宗円覚寺の釈宗演、長国寺の杉本道山、西宮海青寺の中原南天棒、原劉洲らに師事。1904年曹洞宗大学林(現駒澤大学)卒業。1909年教導講習院卒業。 1905年から千葉泉福寺、長野県頼岳寺、石川県永光寺、神奈川県最乗寺各住職。1928年師家となり、最乗寺専門僧堂長、長野県専門尼僧堂長、曹洞宗総持寺副監院、藍院、副貫首を経て1957年貫首。
青木 存義(あおき ながよし、1879年8月15日 - 19… 青木 存義(あおき ながよし、1879年8月15日 - 1935年4月19日)は、日本の国文学者、唱歌作詞家、小説家、教育者。童謡『どんぐりころころ』の作詞者として知られる。 宮城県宮城郡松島町幡谷新田出身。宮城県尋常中学校(現在の宮城県仙台第一高等学校)、東京帝国大学文科大学卒業(1906年)。1917年に東京音楽学校教授就任。その後は文部省図書編集部長(1924年)、旧制新潟高等学校校長(1934年)などを歴任。文部省在職中に『どんぐりころころ』などを始め、文部省唱歌を数多く作りあげた。また青木苫汀(せんてい)の名で『我や人妻』などの小説も書いている。 180cmの長身で温和な性格だったと伝わる。
奈良磐松(なら いわまつ、1879年(明治12年)8月15日… 奈良磐松(なら いわまつ、1879年(明治12年)8月15日 - 1961年(昭和36年)3月13日)は、日本の銀行家。政治家。元秋田銀行頭取。元金足村(かなあしむら)村長。秋田縣多額納税者 。秋田縣士族。 秋田県南秋田郡金足村(現・秋田市)の「豪農」奈良家の次男として生まれ、兄が死去したため家督を継いだ。父は奈良茂。 奈良家は磐松の孫である奈良岩雄の代をもって直系が断絶し、その血統は現在、小野寺家および升屋家の二家にのみ継承されている。 旧制秋田中学(現・秋田県立秋田高等学校)中退、東京専門学校(現・早稲田大学)政治学科を卒業後、帰郷。金足村村議を経て、同村長を務めたほか秋田県町村会会長、秋田高等家政女学校(現国学館高等学校)理事長も歴任した。
大城 幸之一(おおしろ こうのいち / おおぐすく こうのい… 大城 幸之一(おおしろ こうのいち / おおぐすく こうのいち、1879年(明治12年)8月15日 - 1932年(昭和7年)11月2日)は、日本の衆議院議員(政友本党→立憲民政党)。医師。 沖縄県島尻郡玉城村(現在の南城市)出身。沖縄県病院附属医生教習所に入学し、在学中に医術開業試験試験に合格した。1900年(明治33年)に教習所を卒業し、県病院に勤務した。翌年には郷里に医院を開業し、後に沖縄県医師会代議員、島尻郡医師会副会長を務めた。1909年(明治42年)に玉城村会議員に選ばれ、さらに沖縄県会議員、同議長に選ばれた。 1925年(大正14年)、衆議院補欠選挙で当選を果たした。 その他、玉城村中部信用販売購買組合長、奥武漁業組合長を務めた。
村上 巧児(巧兒、むらかみ こうじ、1879年(明治12年)… 村上 巧児(巧兒、むらかみ こうじ、1879年(明治12年)8月14日 - 1963年(昭和38年)10月21日)は、日本の実業家、政治家。西日本鉄道社長、貴族院勅選議員。 大分県下毛郡中津諸町(現中津市諸町)で、旧中津藩藩医・教育者、村上田長の四男として生まれた。大分中学中津分校(のち中津中学、現大分県立中津南高等学校)を経て、1903年、早稲田大学政治経済科を卒業した。 大学卒業後、大阪毎日新聞社に入社し記者となる。1908年、三越呉服店に転じ、広告部、通信販売部で勤務した。1912年、和田豊治の勧誘で九州水力電気に入社し、同社取締役、常務を歴任。1930年、九州水力の九州電気軌道(九軌)買収に伴い、九軌専務に就任。
斎藤 勧治(さいとう かんじ、1879年〈明治12年〉8月1… 斎藤 勧治(さいとう かんじ、1879年〈明治12年〉8月13日 - 没年不明)は、昭和時代前期の政治家。広島県尾道市長。 1904年(明治37年)東京法学院大学法律専門部卒業。各府県における勤務を経て、1928年(昭和3年)6月に呉市助役に就任。1932年(昭和7年)6月に任期満了。ついで、1933年(昭和8年)5月に岡山市助役に就任し、1936年(昭和11年)10月に退職する。その後、翌年の1937年(昭和12年)1月13日に尾道市長に就任した。
小出 満二(こいで まんじ、1879年8月13日 - 195… 小出 満二(こいで まんじ、1879年8月13日 - 1955年5月29日)は、農政学者。 兵庫県養父郡伊佐村で、9代続く医家の6人兄弟の次男として生まれる。学制尋常4年を卒業後上京し、13歳で郁文館中学校に進学。同期生に石原純、橋元昌矣(石原の妻の兄)、三宅恒方、物集高量、浮田修身らがいた。 第一高等学校に首席で合格したが、一学年期に落第して人生に悩み、読書を通じて内村鑑三とキリスト教に出会い、隣に住んでいたクリスチャンの村田勤(1866 〜1921、牧師・教育者)と親交した。村田は同志社出身で、イエール大学で教会史学者のウィリストン・ウォーカー(en:Williston Walker)に学び、日本女子大学や明治中学校で教鞭をとった人物。
2代 三橋 四郎次(みつはし しろうじ、1879年(明治12… 2代 三橋 四郎次(みつはし しろうじ、1879年(明治12年)8月11日 - 1955年(昭和30年)3月22日)は、日本の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。初名・卓、号・光波子。 静岡県城東郡丹野村(のち小笠郡川野村、現菊川市)で、地主・初代三橋四郎次の二男として生まれる。1898年(明治31年)静岡県尋常中学校卒業。1901年(明治34年)東京専門学校(のちの早稲田大学)英語政治科を卒業。日露戦争に見習士官として出征し、陸軍歩兵中尉に昇進した。1906年(明治39年)家督を相続し四郎助(2代)を襲名した。 政界では静岡県会議員、同参事会員を務めた。1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙に静岡県第7区から出馬して当選し、立憲民政党に所属して衆議院議員を1期務めた。
後藤 脩(ごとう しゅう、1879年(明治12年)8月11日… 後藤 脩(ごとう しゅう、1879年(明治12年)8月11日 - 1957年(昭和32年)1月15日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(当選1回、三重県第二区選出)。三重県松阪市長。日本出版社長。 鳥取県会見郡彦名村(現在の米子市)出身。後藤綾の弟。学歴等は不明。 1903年(明治36年)より三重県津市で出版業を始める。1906年(明治39年)、組織を改めて「合資会社三重出版社」とする。1924年(大正13年)に組織を「三重出版社株式会社」に改め、社長に就任した。そのかたわら南勢新聞社常務取締役、松阪信用組合理事などに就任した。さらに松阪町会議員、同市会議員、三重県会議員、同参事会員に選出された。
田島 勝太郎(たじま かつたろう、1879年(明治12年)8… 田島 勝太郎(たじま かつたろう、1879年(明治12年)8月10日 - 1939年(昭和14年)1月28日)は、日本の商工官僚。衆議院議員(立憲民政党)、逓信政務次官。 大分県日田郡中津江村(現在の日田市)出身。田島儀市の二男。1906年、東京帝国大学法科大学法律学科卒業。大学院に進学後、高等文官試験に合格し、農商務省に入省した。水産講習所教授兼水産局書記官、製鉄所事務官、製鉄所参事、農商務書記官兼製鉄所理事などを歴任し、外務書記官に転じた。また製鉄所在任中には八幡市の市会議長に推された。 1923年6月、東京市助役に招かれ、関東大震災の対応に尽力した。その後、東京鉱山監督局長、福岡鉱山監督局長を経て、1930年に商工次官に就任した。
寺内 寿一(てらうち ひさいち、旧字体: 寺內壽一、1879… 寺内 寿一(てらうち ひさいち、旧字体: 寺內壽一、1879年(明治12年)8月8日 - 1946年(昭和21年)6月12日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は元帥陸軍大将。勲等は勲一等。爵位は伯爵。山口県出身。
日高善一(ひだか ぜんいち、1879年8月5日 - 1956… 日高善一(ひだか ぜんいち、1879年8月5日 - 1956年6月10日)は日本の牧師、聖書学者で「新約聖書全巻註解」を独力で執筆出版した。号は柿軒(しけん)。 1879年(明治12年)宮崎県児湯郡美々津町に日高新一の子として生まれる。1885年(明治18年)頃、6歳の頃より教会学校に通い、延岡藩校亮文社、鹿児島簿約義塾で学ぶ。1899年(明治32年)に鹿児島日本基督教会の牧師宗像慶二郎より洗礼を受ける。 1899年長崎の東山学院の3年に編入学する。その時の同級生に益富政助、都留仙次がいた。宣教師のヘンリー・スタウト、A・ピータースよりオランダ改革派のカルビニズム(カルヴァン主義神学)を学ぶ。 1903年(明治36年)に上京して植村正久の一番町教会(現・日本基督教団富士見町教会)の会員になる。
高武藏 源太郎(たかむさし げんたろう、1879年(明治12… 高武藏 源太郎(たかむさし げんたろう、1879年(明治12年)8月4日 - 1948年(昭和23年)4月30日)は、明治から大正期にかけての大相撲力士。本名は高橋源次郎、のち野地に改姓。 現在の埼玉県所沢市出身。元々行司として入門したらしく、1893年1月から1895年1月まで番付行司欄に見える木村源二郎と思われる[要出典]。その後力士となり、1896年5月に高武蔵源太郎で序ノ口、1897年5月序二段に上がる。1898年5月に一度三段目に昇進し、一旦序二段陥落の後1900年5月に三段目に再昇進してからは定着した。1903年5月には幕下に昇進し、1908年1月幕下9枚目まで昇進するが幕下が長く、1917年1月三段目に陥落するまで13年幕下にいた。
岩崎 小弥太(いわさき こやた、1879年(明治12年)8月… 岩崎 小弥太(いわさき こやた、1879年(明治12年)8月3日 - 1945年(昭和20年)12月2日)は、日本の実業家で、三菱財閥の4代目総帥。男爵。 2代目岩崎弥之助(岩崎弥太郎の弟)の長男として東京府(現・東京都)に生まれた。母は後藤象二郎の長女早苗である。 1891年(明治24年)に高師附属小(現・筑波大附小)、1896年(明治29年)に高師附属中(現・筑波大附中・高)を卒業。旧制第一高等学校入学。一高の寮同室には馬場鍈一がいた。一高を経て明治32年に東京帝国大学法科大学に入学するが翌年の明治33年に中退。 1905年(明治38年)ケンブリッジ大学を卒業し、翌年の明治39年に帰国して三菱合資会社の副社長となり、明治41年に父弥之助の死去に伴い男爵を継承して1916年(大正5年)には従兄である3代目岩崎久弥(弥太郎の長男)の後を継いで社長に就任、三菱財閥の4代目となった。
三隅 正(みすみ ただし、1879年(明治12年)8月3日 … 三隅 正(みすみ ただし、1879年(明治12年)8月3日 - 1935年(昭和10年)2月24日)は日本の弁護士、政治家。元東京府会議長。 1879年(明治12年)8月、島根県に生まれる。1907年(明治40年)、和仏法律学校(現・法政大学)を卒業する。 1909年(明治42年)に判事検事登用試験に合格し、司法官試補を経て、弁護士を開業する。その後、東京府会議員、麹町区会議長を経て、1933年(昭和8年)に東京府会議長に就任する。 1935年(昭和10年)2月24日に死去、57歳。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
和田 性海(わだ しょうかい、1879年8月2日 - 196… 和田 性海(わだ しょうかい、1879年8月2日 - 1962年3月9日)は日本の僧。歌人。元高野山真言宗管長、金剛峯寺座主。高野山大学学長。歌人としては正岡子規直門の弟子である。 明治12年(1879年)8月2日、兵庫県佐用郡幕山村大垣内1番地に和田桂次の9人兄弟の6男として生まれる。母親は作東中嶋の安藤氏の出である。生家は宍粟郡安志藩下の地方庄屋として栄えたが、桂次の代に事業に失敗し倒産するに至り、両親も病死した。 明治23年(1890年)2月17日に、12歳で檀那寺の正覚寺にて加賀美隆賀の許へ入寺するも隆賀が退寺する事となり、同26年(1893年)に佐用郡久崎村の清林寺の伊藤義禅の許へ転籍し出家した。
米沢 与三七(よねざわ よそしち、1879年(明治12年)8… 米沢 与三七(よねざわ よそしち、1879年(明治12年)8月1日 - 1966年(昭和41年)5月9日)は、大正から昭和時代の電気工学者、通信技術者。子に電電公社総裁を務めた米沢滋がいる。 富山県に生まれる。1906年(明治39年)東京帝国大学電気工学科卒業後、逓信省に入り、通信技手、同技師、名古屋郵便局電話課長、鹿児島郵便局工務課長などを経て、1920年(大正9年)逓信省臨時電話局第3課長、工務局電話課長、工務局長となる。この間欧米留学、1932年(昭和7年)にはマドリードの万国無線会議に政府代表委員として出席した。1934年(昭和9年)退官すると、日本放送協会理事、技術局長、電波技術協会会長などを歴任した。
碇潟 夘三郎(いかりがた うさぶろう、1879年8月 - 1… 碇潟 夘三郎(いかりがた うさぶろう、1879年8月 - 1928年3月18日)は、大阪府大阪市中央区出身で草風部屋(京都相撲)、出羽海部屋に所属した力士。本名は山口 卯太郎(やまぐち うさぶろう)(旧姓的場)。7代山響、9代佐ノ山。身長166cm、体重88kg。最高位は東前頭筆頭。得意手は掻っ撥き、下手投げ、叩き。 大工の長男で家業を継ぐべく修業していたが相撲好きで遊び回り、不義理もあり進退が窮まっていると、1896年に名古屋相撲の大関だった常陸山が大阪に来た際入門を願ったが、小兵で非力だったので断られた。そこで、同じ名古屋力士の相見山にも入門を願ったが雑用係代わりに使われたので逃げ、京都相撲の草風部屋に入門、糸柳で幕下上位へ進んだ。
鏑木 清方(かぶらき きよかた、1878年(明治11年)8月… 鏑木 清方(かぶらき きよかた、1878年(明治11年)8月31日 - 1972年(昭和47年)3月2日)は、明治期から昭和期にかけての浮世絵師・日本画家・随筆家。なお、姓は「かぶらぎ」でなく「かぶらき」と読むのが正しい。 近代日本の美人画家として上村松園、彼の門下より出た伊東深水と並び称せられる。清方の作品は風景画などはまれで、ほとんどが人物画であり、単なる美人画というよりは明治時代の東京の風俗を写した風俗画というべき作品が多い。 清方は1878年、東京・神田佐久間町に生まれた。本名は健一。元は條野(条野)姓であったが、1895年に母方の家督を継ぎ鏑木姓となった。父は条野採菊といい、ジャーナリストでありながら山々亭有人と号した幕末の人情本作家であった。
安住 忠治(あずみ ちゅうじ、1878年〈明治11年〉8月2… 安住 忠治(あずみ ちゅうじ、1878年〈明治11年〉8月24日) - 没年不明)は、日本の政治家。 鳥取県八頭郡那岐村大字奥本(現・智頭町)出身。安住房五郎の長男。小学校を卒業する。農業を営む。 収入役に選ばれる。1917年、村会議員に当選する。1918年、助役となる。1919年、郡会議員に選出、同時に参事会員となる。 有限責任那岐信用購買販売組合理事である。 那岐村に於ける有力家である。1922年に刊行された『八頭鳥取地価表 弐百円以上』によると、地価所有高は「1460円64銭」である。趣味は政治、植林。住所は鳥取県八頭郡那岐村大字奥本。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
戸田 虎雄(とだ とらお、1878年8月20日 - 1946… 戸田 虎雄(とだ とらお、1878年8月20日 - 1946年3月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 山形県出身。1896年、山形県立興譲館中学校、1898年、山形県工業学校別科卒。米沢市議、同議長となる。米沢商栄銀行取締役頭取、山形電気(株)、両羽銀行、東北送電各(株)取締役、米沢織物信用組合長、山形県信用組合連合会会長、米沢信用組合理事長、産業組合中央金庫評議員を歴任する。 1932年の第18回衆議院議員総選挙において山形1区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選した。1936年の第19回衆議院議員総選挙で落選した。
萩原 頼平 (はぎわら らいへい、1878年(明治11年)8… 萩原 頼平 (はぎわら らいへい、1878年(明治11年)8月20日 - 1951年(昭和26年)1月22日)は、山梨県出身の郷土史家。号は頼哉。 山梨県東山梨郡平等村落合(現在の山梨市)に生まれる。訓導の資格を得て、日下部小学校、平等小学校(現在の山梨市立山梨小学校)、富士川小学校(現在の甲府市立善誘館小学校)に勤務した後、教職を辞して大正10年1920年に山梨県教育会附属図書館に勤務、昭和7年1932年に退職、その後は郷土史の研究に力を注いだ。 昭和7年3月に甲斐志料刊行会を発会し、容易に得られない古文書や未刊史料を中心に山梨県に関する史料、文献を総合集成した全十二巻の「甲斐志料集成」を昭和7年10月5日から昭和10年9月にかけて発刊した。
黒沢 準(黒澤、くろさわ ひとし、1878年(明治11年)8… 黒沢 準(黒澤、くろさわ ひとし、1878年(明治11年)8月19日 - 1927年(昭和2年)9月5日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸軍有数の戦術家といわれた。 宮城県出身。黒沢嫡の長男として生れる。仙台の第二高等中学校(後の旧制第二高校、その後東北帝国大学を経て現・東北大学)を経て、1898年(明治31年)11月、陸軍士官学校(10期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第29連隊付となる。1902年(明治35年)8月9日陸軍大学校(19期)に入学するが、日露戦争期であったため1904年(明治37年)2月9日一時中退し、1906年(明治39年)3月20日に復校し、1907年(明治40年)11月30日に優等で卒業し参謀本部出仕となった。
上杉 慎吉(旧字体: 上杉 愼吉、うえすぎ しんきち、187… 上杉 慎吉(旧字体: 上杉 愼吉、うえすぎ しんきち、1878年〈明治11年〉8月18日 - 1929年〈昭和4年〉4月7日)は、日本の憲法学者。東京帝国大学教授。天皇主権説を主張する神権学派(君権学派)であり、天皇機関説と激しい論争を展開した。また、一君万民論の立場から普通選挙導入を主張した。学位は法学博士(1909年・文部大臣)。穂積八束に師事。教え子に竹内賀久治、安岡正篤、岸信介など。 1878年〈明治11年〉8月18日、福井県足羽郡福井町(現・福井市)生まれ。父上杉寛二は大聖寺藩(現・石川県加賀市)藩医だった。弟は大日本紡績(現・ユニチカ)や日本製粉(現・ニップン)取締役を務めた平野復男。
田中 茂穂(たなか しげほ、1878年8月16日 - 197… 田中 茂穂(たなか しげほ、1878年8月16日 - 1974年12月24日)は、日本の魚類学者であり、東京帝国大学の動物学の教授である。「近代魚類分類学の父」として知られる。魚類やサメに関する多くの論文を発表し、著名なアメリカ人科学者であるデイビッド・スター・ジョーダンおよびジョン・オターバイン・スナイダー(英語版)とともに日本の魚類に関する書籍(Jordan, Tanaka & Snyder 1913)を共著し、一般性の高い地方名に基づく標準和名を提唱した。財団法人板垣会顧問。 研究論文を約300編、書籍は50冊に及ぶ著作を行っている。
荒井 寛方(あらい かんぽう、明治11年(1878年)8月1… 荒井 寛方(あらい かんぽう、明治11年(1878年)8月15日 - 昭和20年(1945年)4月16日)は、近代の日本画家。本名は寛十郎。栃木県塩谷郡氏家町(現在のさくら市)生まれ。院展同人。 紋所や提灯の上絵を描く家に生まれる。父・藤吉は素雲と号し、瀧和亭に師事して南画を学んでいた。明治32年(1899年)瀧和亭の勧めで水野年方に入門、歴史画・風俗画を学ぶ。翌年、年方から「寛方」の号を与えられ、同門の四天王の一人と称される。明治34年(1901年)第10回日本絵画協会共進会に風俗画「温和」を出品し、2等褒状を受け、以後同会で受賞を重ねる。翌35年(1902年)国華社へ入社、同社出版の古美術雑誌『国華』で掲載する木製複製図版用に、仏画模写の仕事を通じて画家として修練を積んだ。
一戸 直蔵(いちのへ なおぞう、1878年8月14日 - 1… 一戸 直蔵(いちのへ なおぞう、1878年8月14日 - 1920年11月26日)は、日本の天文学者・科学ジャーナリスト。日本で最初の変光星の観測者・研究者。ジャーナリストとしては『現代之科学』を創刊し、反アカデミズムの立場をとったことでも知られる。 青森県西津軽郡越水村吹原(現・つがる市)出身。学問を許さなかった父の理解を得られず、家出し、紆余曲折の後、東奥義塾などを経て旧制第二高等学校に進学。仕送りが途絶えたため、一時郷里で教員をし、1903年東京帝国大学理科大学星学科を卒業。その後東大大学院に進学して天文学を研究したが、私設天文台の建設を自らの使命とし、1905年私費で渡米しシカゴ大学ヤーキス天文台に入った。
伊藤 眞雄(いとう まさお、1878年〈明治11年〉8月9日… 伊藤 眞雄(いとう まさお、1878年〈明治11年〉8月9日 - 1937年〈昭和12年〉10月8日)は、日本の経済学者。兵庫県立神戸高等商業学校初代校長、元大阪商科大学教授。専門は応用経済学。 新潟県刈羽郡の士族・伊藤男松の長男として新潟県北蒲原郡新発田町(現 新発田市)に出生。 1897年(明治30年)3月に新潟県尋常中学校を卒業、1900年(明治33年)7月に第四高等学校を卒業、1904年(明治37年)3月に京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。 1904年(明治37年)4月に堺中学校嘱託教授に就任、1905年(明治38年)4月に大阪高等商業学校嘱託教授に就任、9月に同校教諭に就任、1906年(明治39年)3月に堺中学校を退職、1912年(大正元年)9月から1915年(大正4年)2月までイギリスのロンドン・スクール・オブ・エコノミクスとドイツに留学、1917年(大正6年)2月に職制改正により大阪高等商業学校教授に就任、12月に同校校長事務取扱に就任、1918年(大正7年)4月に同校校長事務取扱を退任、1926年(大正15年)7月から1927年(昭和2年)11月まで欧米を視察、1928年(昭和3年)7月に大阪商科大学予科教授を兼任、1929年(昭和4年)3月に大阪商科大学教授に就任、同大学高等商業部教授を兼任、4月に同大学を依願退職、兵庫県立神戸高等商業学校校長事務取扱に就任、8月に兵庫県立神戸高等商業学校初代校長に就任。
真鍋 嘉一郎(まなべ かいちろう、正字体:眞鍋 嘉一郞、18… 真鍋 嘉一郎(まなべ かいちろう、正字体:眞鍋 嘉一郞、1878年(明治11年)8月8日 - 1941年(昭和16年)12月29日)は、明治後期から昭和初期の医学者、日本における物理療法(理学療法)、レントゲン学、温泉療法の先駆者。東京帝国大学教授。日本内科学会会頭、日本医学放射線学会初代会長を歴任。X線に「レントゲン」の名を初めて使用し日本に定着させたことでも知られ、医聖(いせい)と呼ばれた。族籍は東京府士族。 愛媛県新居郡大町村(現・西条市大町)に生まれる。真鍋虎吉の長男。1882年(明治15年)、家督を相続した。 西条高等小学校、愛媛県尋常中学校(現・松山東高)に学ぶ。中学の教員に夏目漱石、同級生に松根東洋城がいた。
阿刀田 令造(あとうだ れいぞう、1878年(明治11年)8… 阿刀田 令造(あとうだ れいぞう、1878年(明治11年)8月7日 - 1947年(昭和22年)5月21日)は、日本の西洋史学者である。宮城県仙台市の(旧制)第二高等学校第9代校長を務めた。 1878年(明治11年)に宮城県名取郡下増田村(現:名取市)で生まれる。父は下増田村初代村長阿刀田義潮(あとうだ よしとも)。宮城県仙台第一中学校(現:宮城県仙台第一高等学校)を卒業して、1902年(明治35年)に(旧制)第二高等学校(現:東北大学)に入る。大学卒業後、さらに東京帝国大学・京都帝国大学法学部に進学した。在学中、西洋学に興味を持った。東京帝大に在学中は真宗大谷派僧侶の近角常観が東京府東京市本郷区で主宰していた求道学舎に寄宿した。
第二代野村 徳七(のむら とくしち、1878年(明治11年)… 第二代野村 徳七(のむら とくしち、1878年(明治11年)8月7日 - 1945年(昭和20年)1月15日)は、日本の実業家。両替商の野村徳七 (初代)の長男で野村財閥を築いた二代目(幼名は信之助)。 1878年(明治11年)8月7日、初代野村徳七の長男として生まれる。幼名は野村信之助。野村元五郎は弟。 1892年(明治25年)大阪市立商業学校(大阪高等商業学校の前身校。後の大阪商科大学、大阪市立大学、現在は大阪公立大学)に入学。予科在学中1895年(明治28年)に肺炎になり休学。本科への進学は断念し家業に専念する。 八千代商店(後の八千代証券)での見習いを経て、野村商店を引き継ぎ、両替から公債や株式を扱うようになり1907年(明治40年)、初代徳七の隠居に伴い信之助が徳七を襲名し弟の実三郎、元五郎らと野村商店を運営した。
工藤 隆治(くどう りゅうじ、1878年(明治11年)8月5… 工藤 隆治(くどう りゅうじ、1878年(明治11年)8月5日 – 1966年(昭和41年)12月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。徳島市長。最終階級は海軍主計大佐。 徳島県麻植郡西尾村(現在の吉野川市)出身。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。海軍に入って、中主計、大主計、主計少監、主計中監、主計大佐と累進し、海軍省経理局第二課長・海軍大学校教官、広海軍工廠会計部長を歴任した。1924年(大正13年)、予備役編入。 1928年(昭和3年)、東京市主事・商工課長に就任。1932年(昭和7年)に品川区長となり、1936年(昭和11年)からは下谷区長を務めた。 1937年(昭和12年)、徳島市長に選出され、1941年(昭和16年)まで在任した。
大塚 武松(おおつか たけまつ、1878年8月2日-1946… 大塚 武松(おおつか たけまつ、1878年8月2日-1946年12月5日)は、日本の幕末史学者。 1878年、山口県岩国で生まれた。東京帝国大学文科大学史学科で学び、1903年に卒業。 1906年、東京大学史料編纂掛補助となり、まず外務省の『大日本外交文書』の編集に携わった。1911年に文部省維新史料編纂会常置委員となった。1917年に維新史料編纂会編纂官となり、『概観維新史』の執筆の中心となった。1927年、欧米留学を命じられた。1935年より東京高等師範学校教授を兼任。その他にも在任中には京都帝国大学、東京文理科大学などの講師を務めた。 1936年、『国体の本義』編纂委員となり、国史担当。1939年、『概観維新史』編述主任に就いた。
野州山 孝市(やしゅうざん こういち、1878年8月2日 -… 野州山 孝市(やしゅうざん こういち、1878年8月2日 - 1936年1月23日)は、現在の栃木県真岡市(旧芳賀郡)出身で尾上部屋、出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は直井 幸一。170cm、84kg。最高位は西前頭10枚目。 1897年1月初土俵(同期に玉椿憲太郎)、四股名は出身地の栃木県の旧国名の下野国(野州)より。1900年1月十両昇進。端整な顔立ちで女性に人気があり、1901年1月に入幕したが脱走。復帰後は相撲に精進していたが、1907年に再び脱走。常陸山谷右エ門が間に入って帰参を許されたのも束の間、5月に廃業した。 幕内5場所11勝19敗15休5分預 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。
家坂 幸三郎(いえさか こうさぶろう、1878年(明治11年… 家坂 幸三郎(いえさか こうさぶろう、1878年(明治11年)8月1日 - 1952年(昭和27年)10月24日)は、日本の医師。ハンセン病療養所である国立療養所宮古南静園、国立療養所沖縄愛楽園所長を務めた。クリスチャンで、現在でも宮古南静園に教会がある甦生会(よみがえりのかい)を結成した。 1878年、新潟県見附市に出生。早稲田大学の前身、東京専門学校、英語政治科卒業。外交官になりたかったが、既に医師になっていた五兄の勧めにより医学に進む。1906年に熊本医学専門学校を卒業後、同校実習病院、牧野研究所(東京)、芦屋町立病院(福岡県)に勤めた。1922年、沖縄県衛生技師としてマラリア予防に従事、1930年にアメリカの大学から沖縄県に「沖縄におけるらい事情」についての照会があったが、家坂が書いた報告書は高い評価をうけ、これを基にした論文で細菌学博士を贈られた。
井上 達三(いのうえ たつぞう、1877年〈明治10年〉8月… 井上 達三(いのうえ たつぞう、1877年〈明治10年〉8月29日 - 1950年〈昭和25年〉7月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 井上成美海軍大将の実兄。妻は荒城二郎海軍中将(海兵29期、米内光政海軍大将とクラスメートかつ親友)の妹。井上達三の家族関係については、井上成美#親族を参照。 本記事の出典は、特記ない限り、井上成美伝記刊行会編著 『井上成美』 井上成美伝記刊行会、1982年(昭和57年)、17-19頁。 宮城県仙台に生まれる。小学校時代は山梨勝之進海軍大将と同級。 東北学院を経て、陸軍士官学校に進んだ。士官候補生(士候)11期、1899年(明治32年)11月卒業。陸軍砲兵少尉に任官。
浅井 虎夫(あさい とらお、1877年〈明治10年〉8月23… 浅井 虎夫(あさい とらお、1877年〈明治10年〉8月23日 - 1928年〈昭和3年〉12月1日)は、日本の歴史学者。専門は中国法制史、日中関係史。 1877年(明治10年)、兵庫県神戸に生まれた。1896年、兵庫県尋常中学校を卒業し、熊本の第五高等学校に入学。1899年、東京帝国大学文科大学漢学科史部に入学。大学では東洋史の市村瓚次郎、国史の星野恒、経済史の内田銀蔵、法制史の宮崎道三郎らから学び、1902年(明治35年)に卒業。同大学大学院に進学した。 1905年、台湾総督府に設置された臨時台湾旧慣調査会の嘱託となり、『清国行政法』の編纂に従事。1915年(大正4年)、『清国行政法』完成と同時に調査会を辞職し、帰郷した。
奥村 千太郎(おくむら せんたろう、1877年8月23日 -… 奥村 千太郎(おくむら せんたろう、1877年8月23日 - 1954年5月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 滋賀県出身。1897年、東京専門学校政治経済科卒。大阪朝日新聞記者、同客員となる。中国に渡り、天津取引所常務取締役、天津信託(株)取締役、天津商業会議所評議員となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において滋賀4区から無所属で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1954年に死去した。
鈴木 久五郎(すずき きゅうごろう、1877年〈明治10年〉… 鈴木 久五郎(すずき きゅうごろう、1877年〈明治10年〉8月22日 - 1943年〈昭和18年〉8月16日)は、日本の株式相場師、政治家。衆議院議員(群馬県高崎市選出、当選1回)。通称「鈴久」。族籍は東京府平民。 埼玉県北葛飾郡八丁目村(現在の埼玉県春日部市八丁目)に生まれる。鈴木庄五郎の二男。東京専門学校(現在の早稲田大学)に学ぶ。 実兄の7代目兵右衛門が1897年(明治30年)、埼玉県南埼玉郡越ヶ谷町(現在の埼玉県越谷市)に鈴木銀行を設立し、1903年(明治36年)同銀行草加支店長となった。 海外の経済状態の視察中、香港から急遽帰国して株の買占めに着手し、日露戦争中に株売買で大儲けをし成金鈴木と話題を呼ぶ。
鳥潟 隆三(とりかた りゅうぞう、1877年明治10年)8月… 鳥潟 隆三(とりかた りゅうぞう、1877年明治10年)8月20日- 1952年(昭和27年)2月19日) 。医学博士。日本の生理学者。明治-昭和時代の外科医学者・免疫学者。 1877年、北海道函館市生まれ。幼名は隆一。その後、6歳まで父・鳥潟精一の故郷秋田県大館市花岡で過ごした。鳥潟家は慶長年間のころから続く旧家で、花岡村の肝煎を代々務める家柄であった。 6歳まで花岡で育ったのち、大分県で病院長だった叔父鳥潟恒吉・サイ夫妻の許で大分県立大分中学校を卒業。恒吉夫人が甥・息子らを引率して上京し、旧制第一高等学校に進学、卒業に当たり、狩野亨吉の勧めで京都帝国大学医科大学に入った。1904年、恩賜の銀時計を授与されて同大学医科大学を卒業した。
田中 不二(たなか ふじ、1877年(明治10年)8月20日… 田中 不二(たなか ふじ、1877年(明治10年)8月20日 - 1922年(大正11年)11月19日)は、日本の機械工学者。 東京出身。兄はカーバイド工業を開拓した藤山常一である。 1894年(明治27年)に田中林太郎の養子となった。正則尋常中学校、第一高等学校工科を経て、1901年(明治34年)に東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業した。同年7月に同学科の講師となった。同年11月に田中林太郎の娘の芳子と結婚した。 1902年(明治35年)に助教授となった。1904年(明治37年)に機械工学第一講座分担を命じられ、1906年に初の日本語による機械設計の教科書『機械設計及製圖』を同僚の内丸最一郎と共著で出版した。
石塚 三郎(いしづか さぶろう、明治10年(1877年)8月… 石塚 三郎(いしづか さぶろう、明治10年(1877年)8月15日 - 昭和33年(1958年)11月23日)は、日本の政治家・歯学者。衆議院議員(2期)。新潟県平民。 西武グループの総帥堤義明の祖父にあたる。 新潟県蒲原郡、のちの北蒲原郡安田村(安田町を経て現阿賀野市保田)に生まれた。地元の小学校に通いながら、父親が仕えている山林地主の旗野家(『大日本地名辞書』の編者で日本歴史地理学の先達、早稲田大学教授文学博士吉田東伍の生家)に奉公し、吉田東伍の実兄旗野餘太郎から英語、漢文、測量法などを学んだ。 1893年旗野餘太郎の命により医師の資格取得を目指して上京。神田猿楽町の大成学館国語伝習所の事務見習いとして働きながら学んだ。
太刀山 峯右エ門(たちやま みねえもん、1877年8月15日… 太刀山 峯右エ門(たちやま みねえもん、1877年8月15日 - 1941年4月3日)は、現在の富山県富山市吉作(出生時は石川県婦負郡吉作村)出身で友綱部屋に所属した大相撲力士。第22代横綱。本名は老本 弥次郎(おいもと やじろう)。 1877年に呉羽丘陵の近くの、農業の傍ら製茶業、豆腐業を営む老本治助の次男として生まれた。秀業小学校(現・富山市立呉羽小学校)卒業とされている。老本家の茶は品評会で常に一等で、幼い頃から茶葉の手揉みを手伝っていたことから怪力が付き、これによって針のごとく鋭い優良品を生み出し、茶の品評会では必ず優勝したという。兵役検査での優秀な成績が評判になり、友綱が貴重な逸材として欲しがったが本人は相撲に興味が無く、実家も長男を早く失っているので猛反対された。
冨家 政市(ふけ まさいち、1877年(明治10年)8月14… 冨家 政市(ふけ まさいち、1877年(明治10年)8月14日 - 1945年(昭和20年)9月28日[要出典])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。高松市長。 香川県、現在の高松市出身。香川県尋常中学校卒を経て、1898年(明治31年)11月25日、陸軍士官学校(10期)を卒業。1899年(明治32年)6月27日、陸軍工兵少尉に任官し、1924年(大正13年)2月4日に陸軍少将に至った。その間、陸軍士官学校教官、第3軍兵站電信隊長、工兵第5大隊中隊長、陸軍砲工学校教官、教育総監部工兵監部員、陸軍大学校教官、鉄道連隊附工兵第19大隊長、同第13大隊長を歴任した。少将としては対馬要塞司令官、陸軍科学研究所第1部長を務めた。