馬場 鍈一(ばば えいいち、1879年(明治12年)10月5… 馬場 鍈一(ばば えいいち、1879年(明治12年)10月5日 – 1937年(昭和12年)12月21日)は、日本の政治家、大蔵官僚、貴族院勅選議員。広田内閣で大蔵大臣、第一次近衛内閣で内務大臣をつとめた。蔵相時代に行った大規模な省内人事の刷新や極端な積極財政は、官界や財界に大きな混乱を招く結果となった。
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馬場 鍈一(ばば えいいち、1879年(明治12年)10月5… 馬場 鍈一(ばば えいいち、1879年(明治12年)10月5日 – 1937年(昭和12年)12月21日)は、日本の政治家、大蔵官僚、貴族院勅選議員。広田内閣で大蔵大臣、第一次近衛内閣で内務大臣をつとめた。蔵相時代に行った大規模な省内人事の刷新や極端な積極財政は、官界や財界に大きな混乱を招く結果となった。
馬場 鍈一(ばば えいいち、1879年〈明治12年〉10月5… 馬場 鍈一(ばば えいいち、1879年〈明治12年〉10月5日 - 1937年〈昭和12年〉12月21日)は、日本の政治家、大蔵官僚。法制局長官、日本勧業銀行総裁、貴族院勅選議員、広田内閣大蔵大臣、第一次近衛内閣内務大臣を歴任した。積極財政派で、蔵相時代に大規模な省内人事の刷新や極端な積極財政を行った馬場財政で知られる。 東京府芝区(現在の東京都港区)に、旧幕臣・山本時光の長男として生まれる。時光は一時期日雇人夫に身をやつしていたと伝えられ、生家は貧しかった。後に鉄道技師で、旧会津藩士の馬場兼の婿養子となり改姓する。麹町区富士見小学校高等科3年から1892年(明治25年)4月に東京府尋常中学校2年へ編入学、1896年(明治29年)3月に尋中を卒業し、第一高等学校文科政治科へ入学。
渡辺 釟吉(わたなべ はつきち、1879年〈明治12年〉10… 渡辺 釟吉(わたなべ はつきち、1879年〈明治12年〉10月5日 - 1967年〈昭和42年〉12月4日)は、日本の政治家、医師。愛知県挙母市の初代市長(1期、挙母市は豊田市の旧市名)。その他、挙母町長(2期)、愛知県会議員(2期)、挙母町会議員などを歴任した。 現在の愛知県豊田市常盤町2丁目に、医師で挙母町長を務めた渡辺良策の三男として生まれる。1897年(明治30年)、愛知県立医学専門学校(現・名古屋大学医学部)の予科を卒業。1901年(明治34年)、同校本科を卒業。1905年(明治38年)から自宅で父とともに医師として自宅で開業。 医師会においては、地方の医療体制の確立を念願し、辺地の医師派遣などに力を注いだ。
高山 輝義(たかやま てるよし、1879年(明治12年)10… 高山 輝義(たかやま てるよし、1879年(明治12年)10月4日 - 没年不詳)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。第16代若松市長。 福島県出身。会津中学(4回生)を経て陸軍士官学校を卒業(12期)。同期生に畑俊六、杉山元両元帥、小磯国昭らがいる。1901年(明治34年)6月、歩兵少尉任官。歩兵第65連隊中隊長、同連隊副官、近衛歩兵第2連隊大隊長などを経て、1928年(昭和3年)には歩兵第79連隊連隊長に就任し同職を3年勤めた。1931年(昭和6年)8月1日少将に進み、同月に予備役編入となる。1942年(昭和17年)には若松市長に就任し、戦前最後の市長となった。 1944年(昭和19年)、会津松平家当主・松平保男の急逝に際し、旧領代表として葬儀に参列したが、会津地方からは多数の参列者が物品を持参して上京した。
相原 四郎(あいばら しろう、1879年(明治12年)10月… 相原 四郎(あいばら しろう、1879年(明治12年)10月2日 - 1911年(明治44年)1月8日)は、日本の海軍軍人。 日本海軍の最初の搭乗員であり、また日本初の航空事故犠牲者とする見解もある。相原は仏海軍士官ル・プリウール、田中舘愛橘と協力して日本で最初のグライダー製作および飛行の成功に貢献し自らも搭乗した。この成功は日本における航空工学に則った機体飛行の最初の事例であった。最終階級は海軍大尉。 現在の愛媛県松山市に生まれる。農業を営む父相原久米兵衛、母信の間に生まれた第四子で長男であった。松山中学在学中に父を失った相原は、海軍予備校として知られた攻玉社に転じ、1898年(明治31年)海軍兵学校に入校した。
菊池 良一(きくち りょういち、1879年(明治12年)10… 菊池 良一(きくち りょういち、1879年(明治12年)10月1日 - 1945年(昭和20年)2月25日)は、大正から昭和前期の日本の実業家、弁護士、政治家。衆議院議員。中国通(支那通)として知られた。天文学者・一戸直蔵の義弟。 青森県中津軽郡弘前城下(現弘前市)で、旧弘前藩士の政治家・菊池九郎、久満子の長男として生まれる。東奥義塾、第二高等学校を経て、1908年(明治41年)京都帝国大学法科大学を卒業した。 青年時代から中国問題に関心を持ち、中国で貿易商を営み、日支商事会社長、山口商事取締役、東海漁業取締役などを務めた。その後、新聞記者、弁護士となる。また、合資会社ボルネオ物産商会代表者に就任した。
森川 桑三郎(もりかわ そうざぶろう、旧姓・住田、1879年… 森川 桑三郎(もりかわ そうざぶろう、旧姓・住田、1879年〈明治12年〉10月 - 没年不明)は、日本の実業家、大阪府多額納税者。森川印刷所社長。族籍は大阪府平民。 鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)、住田善平の三男。鳥取中学を経て、東京専修学校理財部を卒業。日本銀行に勤務する。森川竹窓の曽孫である先代桑三郎の養子となり1900年に家督を相続、前名隆吉を改め襲名し、印刷業を営む。 森川印刷所社長、大日本金粉箔工業、満州金属粉工業、新中国印書館、三共商事各取締役、日本印刷材料監査役などをつとめる。 趣味は旅行。宗教は真宗。大阪府在籍で、住所は大阪市北区東梅ヶ枝町、同市住吉区阿倍野筋、同市天王寺区東平野町。
下河辺 建二(しもこうべ けんじ、1878年(明治11年)1… 下河辺 建二(しもこうべ けんじ、1878年(明治11年)10月30日 - 1964年(昭和39年)2月28日)は、日本の実業家。大阪府平民。 大阪府下・下河辺俊斎二男。大阪商業学校(現・大阪市立大学)卒業後、大阪百三十銀行に就職。兵役のため銀行を辞め、その後藤田組の小坂鉱山で働く。そこで藤田組創立者の甥である久原房之助を知り、久原が興した久原鉱業の一員として同社が買収した日立鉱山で働く。久原が病に倒れ久原鉱業が日本産業として再建されると、専務として新社長の鮎川義介を支える。のちに日本鉱業(現・ENEOS)の社長、日産農林工業(現・兼松サステック)の会長等を歴任した。 戦後、公職追放となった。
南郷 三郎(なんごう さぶろう、1878年10月30日 - … 南郷 三郎(なんごう さぶろう、1878年10月30日 - 1975年10月2日)は、日本の実業家。 兵庫県灘(現・神戸市)に生まれる。父は元加賀藩士の南郷茂光、兄に講道館2代館長の南郷次郎、弟に画家の九里四郎がいる。 1900年(明治33年)、高等商業学校(現・一橋大学)を卒業。高商在学中は柔道部を創設するなどスポーツ面でも活動した。卒業同年に日本綿花(現・双日)に入社。1932年(昭和7年)に日本綿花社長に就任する。その後、尼崎土地をはじめ複数の企業で社長を歴任した。団体役員としては、日中輸出入協会理事長、日本貿易振興会会長、貿易統制会長、財団法人日本貿易振興協会副会長などを務めた。 1918年(大正7年)にアキレス腱断裂の怪我を負い、そのリハビリとしてゴルフを始める。
中沢 臨川(なかざわ りんせん、1878年(明治11年)10… 中沢 臨川(なかざわ りんせん、1878年(明治11年)10月28日 - 1920年(大正9年)8月9日)は、日本の文芸評論家、電気工学者。本名は重雄。 長野県伊那郡大草村(現・中川村)出身。生家である塩沢家は養命酒の製造元であり、地元の名家であった。旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)に入学し、2年上の窪田空穂(後に歌人)、1年下の吉江喬松(後に作家)らの影響で文学に興味を持つようになる。中学卒業後、第二高等学校(現・東北大学)に入学。ここで次第に西洋文学に興味を持つようになり、特にヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』に熱中した。1899年(明治32年)、南安曇郡梓村の中沢良作の養嗣子に入ると同時に結婚し、中沢姓となる。
中島 孤島(なかじま ことう、1878年10月27日 - 1… 中島 孤島(なかじま ことう、1878年10月27日 - 1946年4月9日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家。本名は茂一。 長野県北佐久郡三井村(現佐久市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1899年東京専門学校(現早稲田大学)卒業。坪内逍遥の門下生としてシェイクスピアを研究し、文学評論や海外文学の紹介などを新聞や雑誌に執筆した。『明星』『新小説』『読売新聞』等に文学評論を書き、1904年小説「新気運」を発表。1909年後藤宙外らと文芸革新会を組織して反自然主義をとなえ、島村抱月と対立。のち児童もの・歴史ものに移った。 グリム童話『赤ずきん』において「赤ずきん」という邦題を初めてつけたのは中島孤島であろうと言われている。
吉田 貞雄(よしだ さだお、1878年10月26日 - 19… 吉田 貞雄(よしだ さだお、1878年10月26日 - 1964年4月15日)は、日本の寄生虫学者。大阪大学名誉教授。
磯野 庸幸(いその つねゆき、旧姓・吉田、1878年〈明治1… 磯野 庸幸(いその つねゆき、旧姓・吉田、1878年〈明治11年〉10月25日 - 1981年〈昭和56年〉5月31日)は、日本の実業家・政治家(貴族院議員、神奈川県会議員、衆議院議員)、商人(丸二商会、貿易商)、神奈川県多額納税者。 神奈川県橘樹郡大豆戸村(現・横浜市港北区大豆戸町)出身。吉田吾山の四男で、上郎清助の弟。生家の吉田家は醤油醸造業を営んでいた。磯野國四郎の養子となり1920年、分家した。 1900年、横浜商業学校を卒業し横浜正金銀行に入った。陸軍三等軍吏に任ぜられ第1師団経理部部員として日露戦役に従軍、陸軍二等主計に任ぜられた。輸出入商・丸二商会を起し経営した。貿易商を営んだ。 1928年の第16回衆議院議員総選挙(第1回普通選挙)で神奈川県第一区から立憲政友会所属で立候補して当選し、衆議院議員を一期務めた。
松下 大三郎(まつした だいざぶろう、1878年(明治11年… 松下 大三郎(まつした だいざぶろう、1878年(明治11年)10月24日 - 1935年(昭和10年)5月2日)は、日本の国語学者、文法学者。文学博士。國學院大學教授。号は曲水。 1878年、静岡県磐田郡下野部村(野部村、磐田郡豊岡村を経て、現在は磐田市)生まれ。父・久三郎は野部村村長。 明治19年(1886年)4月、野部尋常小学校(現・磐田市立豊岡北小学校)初等二級生に入学。同級生に河合亀太郎(日本薬剤師会会長、薬学博士)がいた。明治21年(1888年)2月、同校を卒業。 明治22年(1889年)7月、二俣高等小学校に進学。少年時代には落合直文・小中村義象共著の『中等教育日本文典』と『スキントン英文典』を比較研究していた。
田村 鎮(たむら やすし、1878年〈明治11年〉10月24… 田村 鎮(たむら やすし、1878年〈明治11年〉10月24日 - 1942年〈昭和17年〉2月11日)は、日本の建築家。陸軍技師として数多くの軍関連施設を手がけた人物。陸軍技師として特に旧陸軍航空飛行隊の施設計画に深く関与していたこと、陸軍技師の中では筆頭格であったことがわかっている。一関藩最後の藩主・田村崇顕の長男。 北の丸公園に立地する旧近衛師団司令部庁舎(現東京国立近代美術館分室、1910年、国重要文化財)が代表作。 他に田村が設計に大きく関わったと推定されるものには、樺太守備隊司令官宿舎(現ロシア陸軍法務局サハリン州軍管区裁判所、1908)、所沢飛行場飛行船庫(1913年)、広島陸軍被服支廠倉庫(1914年、国重要文化財)などが知られる。
鮭延 信道(さけのべ のぶみち、1878年(明治11年)10… 鮭延 信道(さけのべ のぶみち、1878年(明治11年)10月22日 - 1954年(昭和29年)10月27日)は、日本の外交官。駐チリ公使。 東京府に田中貫一の二男として生まれ、軍医鮭延良治の養子となった。鮭延家は加賀藩藩医の家柄で、良治の父の良節は手塚良仙の実弟、母は大槻俊斎の妹であった。 1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、外交官及領事官試験合格した。領事官補、外務省参事官、大使館三等書記官、イギリス大使館二等書記官、カルカッタ(現在のコルカタ)総領事、大使館参事官、外務省大臣官房人事課長心得、駐チリ公使を歴任した。 1928年(昭和3年)に退官した後は、山中千之の後任として国際連盟常設委任統治委員会日本委員を務めた。
岡田 正平(おかだ しょうへい、1878年 <明治11年> … 岡田 正平(おかだ しょうへい、1878年 <明治11年> 10月19日 - 1959年 <昭和34年> 2月3日)は、日本の政治家。新潟県知事を務めた。位階は従四位。勲三等瑞宝章。 新潟県中魚沼郡中条村(現十日町市)出身。衆議院議員・岡田龍松の二男として生まれる。東京専門学校(現早稲田大学)で学んだ。 帰郷後、中条村長や中魚沼郡教育会長、新潟県会議員を歴任し、県の農会会長を務める。その傍ら、魚沼鉄道や魚沼水力電気の創設にも携わった。 1947年に新潟県知事選挙に出馬し、玉井潤次との決選投票の末に当選。同年10月に行われた昭和天皇の戦後巡幸では、随行役を務めた。県政では、従来から提唱していた農工併進を進め、特に只見特定地域総合開発計画に基づく只見川の電源開発事業に尽力し新潟平野に只見川の水を分水する「只見川分流案」を提唱。
田辺 治通(たなべ はるみち、明治11年(1878年)10月… 田辺 治通(たなべ はるみち、明治11年(1878年)10月17日 - 昭和25年(1950年)1月30日)は、日本の逓信官僚・政治家。大阪府知事・内閣書記官長・逓信大臣・内務大臣を歴任した。山梨県出身。妻は杉山叙の養子である正四位勲二等東京府士族杉山四五郎の養妹である真知。 山梨県東山梨郡神金村(現在の甲州市)の酒造業者の次男に生まれる。明治38年(1905年)に東京帝国大学法科大学を卒業後、逓信省に入省する。横浜郵便局長、大阪郵便局長、逓信監理局書記官、同事務官、逓信省参事官兼為替貯金局事務官、大阪逓信局長、東京逓信局長を務めフランスに留学した後、無線電信法の制定に尽力するなど、通信行政の専門家として活躍して大正13年(1924年)には通信局長になり、「通信閥」の長と見られていた。
大久保 利賢(おおくぼ としかた、1878年〈明治11年〉1… 大久保 利賢(おおくぼ としかた、1878年〈明治11年〉10月16日 - 1958年〈昭和33年〉12月16日)は、日本の実業家。大久保利通の八男。妻は高橋是清の妹の和喜子。子に大久保利春がいる。 1903年7月、東京帝国大学法科大学卒業。 1903年8月、横浜正金銀行入行。1911年9月、東京支店副支配人に就任。1914年3月、ロンドン支店副支配人に就任。1919年3月、ロンドン支店支配人に就任。1923年3月、横浜正金銀行本店支配人に就任。1926年3月、横浜正金銀行取締役に就任。1933年3月、横浜正金銀行副頭取に就任。1936年9月、横浜正金銀行頭取(第13代)に就任。 日本銀行参与理事、商工省貿易局顧問、全国金融統制会監事、学習院評議員、南洋協会相談役なども務めた。
多田 耕太郎(ただ こうたろう、1878年(明治11年)10… 多田 耕太郎(ただ こうたろう、1878年(明治11年)10月15日 - 1928年(昭和3年)10月13日)は、明治から昭和時代初期の水産功労者、漁業経営者、政治家。高知県多額納税者。 多田嘉七の長男として高知県安芸郡津呂村(現・高知県室戸市室戸岬町)に生まれ、1912年(大正元年)家督を相続する。大正期に発展した定置網漁業の経営者として県内外にて漁場を開発。三重県志摩半島にも進出しブリ飼付漁業を経営した。ほか、大北漁業、並村製糸場などの取締役を歴任した。 政治家としても活躍し、安芸郡会議員を経て、1923年(大正12年)高知県会議員に当選。1927年(昭和2年)再選される。立憲民政党の成立と同時に総務となり、1928年(昭和3年)7月に24代県会議長に就任した。
水野千里(みずのちさと、1878年(明治11年)10月14日… 水野千里(みずのちさと、1878年(明治11年)10月14日 - 1941年(昭和16年)6月26日)は、岡山県出身のアマチュアの天文愛好家。東亜天文協会(現東亜天文学会)名誉会員、倉敷天文台主事として天文の普及に努めた。その功績が認められ1925年9月、小惑星1993TMにMizunochisatoと命名された。 水野千里は1878年(明治11年)10月14日、岡山県岡山市に6男2女の長兄として生まれる。実弟に水野浩四がいる。父は千代之介(後に漸と改名は邑久郡郡長として地方行政に尽力した。) 水野は1893年(明治26年)岡山中学校に入学、この頃より星空に親しみ始める。1899年(明治32年)3月同中学を卒業。
山上 曹源(やまがみ そうげん、1878年10月12日 - … 山上 曹源(やまがみ そうげん、1878年10月12日 - 1957年3月21日)は、日本の仏教学者、曹洞宗の僧侶。第13代駒澤大学学長、駒澤学園創立者。号は霊岳。別名、天川(てんせん)。 佐賀県藤津郡能古見村(現・鹿島市)大野生まれ。1889年嬉野市永寿寺で出家得度。曹洞宗第一中学林(現・世田谷学園)、1906年(明治39年)曹洞宗大学(現・駒澤大学)卒業。同年11月曹洞宗海外研究生としてインド、セイロン(スリランカ)に留学。1907年よりインド・カルカッタ大学大学院で梵語(サンスクリット)、インド宗教、インド哲学、インド文学を研究。1910年同大学で仏教思想系統論を講じる。1913年(大正2年)帰国。
三沢 糾(みさわ ただす、1878年(明治11年)10月12… 三沢 糾(みさわ ただす、1878年(明治11年)10月12日 - 1942年(昭和17年)5月25日)は日本の教育者。広島高等師範学校教授を経て、和歌山県立海草中学校(現・向陽中学・高校)校長、大阪府立高津中学校(現・高津高校)初代校長、大阪府立第十二中学校(現・生野高校)校長事務取扱、台北高等学校校長、(旧制)成城高等学校校長、哈爾浜学院院長と多くの学校のトップを務めた。
清瀬 規矩雄(きよせ きくお、1878年(明治11年)10月… 清瀬 規矩雄(きよせ きくお、1878年(明治11年)10月11日 – 1944年(昭和19年)12月5日)は、衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 大分県宇佐郡四日市町(現在の宇佐市)出身。1897年(明治30年)から欧米各国に留学して法学・経済学を学び、サンフランシスコで「日米新聞」の記者となった。1910年(明治43年)に帰国した後は「東京朝日新聞」記者を経て、南満州鉄道株式会社総裁秘書を務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。原内閣・高橋内閣で山本達雄農商務大臣の秘書官を務めた。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙から4回連続当選。その間、阿部内閣で大蔵政務次官に就任した。
真下 飛泉(ましも ひせん、1878年〈明治11年〉10月1… 真下 飛泉(ましも ひせん、1878年〈明治11年〉10月10日 - 1926年〈大正15年〉10月25日)は、日本の教員・作詞家。本名は瀧吉(たききち)。京都府加佐郡河守町新町(現:京都府福知山市大江町新町)出身。代表作は『戦友』など。 1878年(明治11年)10月10日、京都府加佐郡河守町新町の貧しい農家の次男として生まれる。生家では農業の他、蝋燭製造や製紙業を営んでいたとされている。 1885年(明治18年)、河守学校初等科に入学〈翌年「小学校令」により尋常科に改名〉。河守尋常小学校を卒業後は、糸問屋に奉公し、その後実家の蝋燭製造に従事した。 1892年(明治25年)河守地方六ヵ町村組合立高等小学校3年に編入学。
浅野 猶三郎(あさの なおさぶろう、1878年10月9日 -… 浅野 猶三郎(あさの なおさぶろう、1878年10月9日 - 1944年3月17日)は、無教会主義キリスト教の創始者内村鑑三の初期からの弟子で、独立伝道者。 1878年、東京市麹町区で、父は後の宮中顧問官侍医伊東方成、母は伊東玄朴三女遊喜のもとに生を受ける。5歳で伯父の浅野家を継ぐ。1900年、内村鑑三の第1回夏期講談会に参加。1902年第一高等学校を卒業し、東大物理学科へ入学。1906年独立伝道を目指し、東大を中退。1907年仙台東北中学へ赴任。1909年香川県立粟島航海学校へ赴任。1910年粟島航海学校を辞して、芝浦工人会で聖書講義を開始。日本国内各地を伝道旅行。大賀一郎の支援を得て、1921年から1927年迄、毎年夏に満州伝道旅行に行く。
笠原 忠造(かさはら ちゅうぞう、1878年(明治11年)1… 笠原 忠造(かさはら ちゅうぞう、1878年(明治11年)10月7日 - 1926年(大正15年)11月12日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 長野県長野市に、薬種商を営む笠原十兵衛の長男として生まれる。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、長野市に弁護士事務所を開いた。弁護士業のかたわら、長野市会議員、同議長、長野県会議員、同議長を務めた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第15回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その他に、田川炭鉱株式会社常務取締役、京浜電力常務取締役、帝国石膏株式会社取締役を務めた。
真船 民伊(まふね たみい、1878年(明治11年)10月7… 真船 民伊(まふね たみい、1878年(明治11年)10月7日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。愛知県中央商工相談所常務理事。 福島県安積郡三代村(現在の郡山市)出身。1904年(明治37年)に東京高等師範学校英語部を、1910年(明治43年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業した。高等文官試験に合格し、福島県理事官、宮城県理事官、鳥取県警察部長、愛知県産業部長、島根県書記官・内務部長、香川県書記官・内務部長、茨城県書記官・内務部長、熊本県書記官・内務部長を歴任した。 退官後は豊橋市助役、愛知県中央商工相談所常務理事、愛知県嘱託を務めた。
石川 日出鶴丸(いしかわ ひでつるまる、1878年(明治11… 石川 日出鶴丸(いしかわ ひでつるまる、1878年(明治11年)10月5日 - 1947年(昭和22年)11月8日)は、医師。専門は生理学、鍼灸治療。 1878年(明治11年)、代々医家を営む石川昌徹の五男として石川県射水郡小白石村(後に富山県小杉町を経て、現在の射水市)に生まれた。1888年(明治21年)、10歳の時に父を亡くす。富山県尋常中学校(現・富山県立富山高等学校)、旧制第四高等学校を卒業し、東京帝国大学医学部に進んだ。1903年(明治36年)、東京帝国大学医学部を卒業。 卒業後は、1904年(明治37年)より京都帝国大学医科大学生理学教室の天谷千松の下で研究を続けた。1905年、京都帝国大学医学部助教授となった。
栗岩 英治(くりいわ えいじ、1878年10月1日 - 19… 栗岩 英治(くりいわ えいじ、1878年10月1日 - 1946年9月11日)は日本の郷土史家、新聞記者。号は酔古など。 長野県水内郡寿村(現・飯山市)の医者の家に生まれる。医業を志して明治27年(1894年)に上京し、旧制独逸協会中学に入学するが中退、同34年(1901年)に再び上京し、長谷川泰の済生学舎に学んだ。同35年(1902年)政教社の同人となり、「日本及び日本人」に寄稿し、美術雑誌「芸苑」などを発刊。満州や朝鮮に渡り、樺太で事業を起こしたが帰国し、「木更津新聞」主幹などを経て郷里に戻り、同43年(1910年)には「長野新聞」編集長となった。 その後は長野県の歴史研究に没頭、昭和4年(1929年)に「長野県史」編纂委員となって「信濃史料刊行会」の発足の中心人物となり、県内外を歩き回って史料を渉猟した。
大村 正雄(おおむら まさお、1878年10月1日 - 没年… 大村 正雄(おおむら まさお、1878年10月1日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名早坂 正巳(はやさか まさみ)。芸名の表記は大村 正夫、大村 正男と揺れがある。新派の舞台俳優としてキャリアをスタートし、黎明期の日活向島撮影所を支えたスター俳優として知られる。 1878年(明治11年)10月1日、秋田県北秋田郡大館町(現在の同県大館市)に生まれる。 東京に移り、満18歳を迎える1896年(明治29年)、東京府東京市神田区三崎町(現在の東京都千代田区神田三崎町)にあった、川上音二郎の川上座(のちの改良座、現存せず)で初舞台を踏んだ。以降、新派の舞台俳優として、各地の舞台に立った。1918年(大正7年)に発行された『花形活動俳優内証話』によれば、東京に来た経緯は、地元の旧制中学校を2年で中途退学して東京に移り、専修学校(現在の専修大学)に入学、その後、東京専門学校(現在の早稲田大学)に移ったとされている。
河野 徳之助(こうの とくのすけ、1878年〈明治11年〉1… 河野 徳之助(こうの とくのすけ、1878年〈明治11年〉10月1日 - 没年不明)は、日本の政治家(下関市会議員)、商人(米穀商)、山口県多額納税者、下関米穀取引所取引員、日本米穀市場員、実業家。埴生養殖場代表。炭鉱会社吉豊公司取締役。第一証券監査役。族籍は山口県平民。 山口県豊浦郡彦島町(現・下関市)出身。河野仁左衛門の三男、同久蔵の弟。彦島の一介の農家の生まれだが、幼い頃から才気縦横、僻村の一農民として終始すべき器でなかった。 小学校を出ると米穀商の前途があることを察知し16歳にして自ら店員に甘んじて下関市江村商店に入った。番頭、支配人と進級する。 26歳の頃独立して米穀仲買店舗を開いた。
北脇 永治(きたわき えいじ、1878年10月1日 - 19… 北脇 永治(きたわき えいじ、1878年10月1日 - 1950年1月23日)は、鳥取県(当時は島根県)高草郡三谷村(後の気高郡松保村大字桂見、現在の鳥取市桂見)出身の梨農家。鳥取での二十世紀梨の栽培・普及に尽力した篤農家である。 1904年(明治37年)、松戸覚之助から二十世紀梨の苗木を10本購入し、鳥取県に二十世紀梨をはじめて導入した。 二十世紀梨は換金作物としての魅力が高く、国内各地で生産され始めていた。北脇は「これを鳥取県に普及させて、農家の貧しさを救おう」との志を持ち、新聞広告等を通じて熱心に苗木の配布を行った。この熱い想いが、のちの「鳥取といえば二十世紀梨」の隆盛につながっていく。 当時、二十世紀梨は上品な香りと爽やかな酸味が受けて日本各地で栽培されていたが、黒斑病の大流行で栽培を断念する農家が続出。
11代 伊藤 伝七(いとう でんしち、1878年(明治11年… 11代 伊藤 伝七(いとう でんしち、1878年(明治11年)10月 - 1960年(昭和35年)6月26日)は、三重県四日市市出身の実業家。三岐鉄道社長や東洋紡績会長、志摩電鉄社長、貴族院議員等を歴任した。10代目伊藤伝七の甥で養子。 1878年(明治11年)10月に10代目伊藤伝七の弟・伝平の子・栄治郎(栄次郎とも)として生まれる。10代目伝七の二女せきの夫となり、伊藤家の家督を相続して11代目伊藤伝七を襲名する。1899年(明治32年)に高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業した。1910年(明治43年)7月に三岐鉄道株式会社の創立委員長となる。藤原岳にセメントの原料となる石灰岩がある事に注目した浅野セメントと小野田セメントの2大企業が、原料の確保とセメント製品の陸上運搬のために鉄道敷設を計画し、「藤原鉄道」と「員弁鉄道」の2つをそれぞれ候補名にして鉄道敷設免許の申請を昭和2年度に三重県に提出した。
島 欽一(しま きんいち、1877年(明治10年)10月28… 島 欽一(しま きんいち、1877年(明治10年)10月28日 - 1941年(昭和16年)10月28日)は、日本の実業家、グラフィックデザイナー。日本初の図案社とされる島丹誠堂図案社の創業者。 三代続く画人の家系に生まれたが、本格的な美術を捨て広告図案という商業美術の分野に専念し、当時珍しかった「石埭流」の文字を扱い、戦前における多くの新聞広告や図案を考案した。 石埭流は書家・永坂石埭(1845年 - 1924年)の書体だが、欽一が使用した書体はそれに創意工夫を加えたものだった。 欽一は、1934年にいすゞ自動車の初代社章(通称、さざなみマーク)を考案したことでも知られる。社章を考案した当初は自動車工業(いすゞ自動車の前身)の車の商標を制作したに過ぎなかったが、1949年にいすゞ自動車が設立された際に初代社章として採用された。
末広 恭二(すえひろ きょうじ、1877年10月24日 - … 末広 恭二(すえひろ きょうじ、1877年10月24日 - 1932年4月9日)は日本の造船工学者。東京帝国大学教授、地震研究所所長。日本の造船工業の発展に寄与。末広鉄腸の次男。末広恭雄の父。 1900年東京帝国大学工科大学を卒業、長崎三菱造船所に入社。1911年東大教授となる。 主に船体の応力・振動・動揺について研究した。1919年三菱造船所に研究所の設置を提案、自ら所長になる。また、関東大震災後、寺田寅彦とともに東京帝大地震研究所の創設につくし、初代所長となる。 1922年「伝動軸の捩れ計の研究」で帝国学士院賞を受賞する 1931年には米国土木学会に招かれ渡米し、日本の地震学、地震工学を紹介した。
河井 彌八(かわい やはち、1877年(明治10年)10月2… 河井 彌八(かわい やはち、1877年(明治10年)10月24日 - 1960年(昭和35年)7月21日)は、日本の官僚・政治家。侍従次長や参議院議長(第4代)を歴任する。静岡県出身。 静岡県佐野郡上張村にて生まれた。1897年(明治30年)静岡県尋常中学校卒業。1904年(明治37年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 内務省に入省して佐賀県内政部長代理などを歴任する。1918年(大正7年)に内閣法制局に移り、翌年に貴族院書記官長、1926年に内大臣府秘書官長となった。1927年(昭和2年)から侍従次長兼皇后宮大夫、1930年(昭和5年)から7年間にわたって皇后宮大夫兼侍従次長として昭和天皇・香淳皇后の側近として仕えた。
水上 泰生(みずかみ たいせい、1877年10月24日 - … 水上 泰生(みずかみ たいせい、1877年10月24日 - 1951年2月21日)は、日本の日本画家。
植松 雅道(うえまつ まさみち、1877年10月23日 - … 植松 雅道(うえまつ まさみち、1877年10月23日 - 1941年6月3日)は子爵植松家の第3代当主であり、松月堂古流家元。宮内庁式部官を務めた。 植松家は権大納言・千種有能の末子、植松雅永を祖とする旧公卿家。植松雅平の二男として1877年(明治10年)10月に東京で生まれた雅道は、大正天皇の六人の御学友の一人として学習院初等科で学び、1891年(明治24年)7月に卒業。1899年(明治32年)5月に慶應義塾へ入社するも、翌1900年11月に退学し、本籍地である京都へ移った。また一時、岩手県にあって日本で最初にコークス銑を産出した製鉄所として知られた釜石鉱山田中製鉄所に勤めている。 宮内省では主殿寮出張所の殿掌を務め、1915年(大正4年)4月に父・雅平が没すると翌月家督と爵位を継ぐ。
永瀬 狂三(ながせ きょうぞう、1877年10月23日 - … 永瀬 狂三(ながせ きょうぞう、1877年10月23日 - 1955年1月21日)は、大正・昭和戦前期の建築家。東京帝国大学建築学科卒業。京都帝国大学営繕組織に在籍して京都市を中心に活動したことから、京都大学に多くの作品を残している。 1877年(明治10年)、愛知県渥美郡田原(現・田原市)に生まれる。祖父は田原藩国元家老の鈴木弥太夫で、父・永瀬誉の代から永瀬姓を名乗った。「狂三」の名前は、『論語』子路篇の「不得中行而与之、必也狂狷乎、狂者進取、狷者有所不為也(中行を得てこれに与せずんば、必ずや狂狷か、狂者は進みて取り、狷者は為さざる所あり)」に由来している。 1906年(明治39年)10月、東京帝国大学建築学科を卒業。
角田 正喬(つのだ まさたか、1877年〈明治10年〉10月… 角田 正喬(つのだ まさたか、1877年〈明治10年〉10月18日 - 没年不詳)は、大正から昭和戦前期にかけての日本の実業家である。主として電気事業に関与し、名古屋電灯やその後身東邦電力で常務を務めた。群馬県出身。 角田正喬は、1877年(明治10年)10月18日、角田徳太郎の長男として生まれた。出生地は群馬県利根郡沼須村(のちの利南村、現・沼田市)。上京して慶應義塾大学部に学び、1903年(明治36年)5月理財科を卒業した。卒業後はまず横浜の石川商会に入るが、翌1904年(明治37年)8月、大阪の商社日本綿花へと転じる。1905年(明治38年)8月からは同社上海支店勤務となった。 1910年(明治43年)に日本綿花を退職し帰国。
丘 球學(おか きゅうがく、旧姓:山田、1877年10月17… 丘 球學(おか きゅうがく、旧姓:山田、1877年10月17日 - 1953年10月14日)は、愛知県出身の日本の曹洞宗の僧侶。 明治10年(1877年)10月17日、愛知県碧海郡筒針村(現・岡崎市)山田栄助の三男として生まれる。1891年、静岡県磐田郡井通村(現・磐田市)の正医寺住職榑松賢童に就いて出家得度。可睡斎で修行し西有穆山・丘宗潭に師事して後を継ぐ。 1902年(明治35年)に曹洞宗大学林(現・駒澤大学)を卒業、1915年(大正4年)に修禅寺38世住職・安泰寺住職を継ぐ。 曹洞宗大学林副学監、永平寺後堂、總持寺西堂、ソウル博文寺住職を歴任し、1947年(昭和22年)に帰国後、永平寺西堂、永平寺東京別院監院、永平寺副貫首となる。
立花 俊道(たちばな しゅんどう、1877年10月17日 -… 立花 俊道(たちばな しゅんどう、1877年10月17日 - 1955年4月2日)は、日本の仏教学者、哲学博士。曹洞宗の僧侶。第14代駒澤大学学長、学監。号は天眞。 佐賀県杵島郡南有明村(現・白石町)生まれ。東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)で修学。1905年(明治36年)曹洞宗大学(現・駒澤大学)卒業。宗門海外留学生としてセイロン(現スリランカ)に渡り、コロンボ市ピデョーダヤ・カレッジ(ピヂョノダヤ・カレッジ)でパーリ語や梵語(サンスクリット)、原始仏教を学ぶ。1919年(大正8年)インドシナ、タイ、ビルマなどを経て英国オックスフォード大学に留学。1922年、同大学にて哲学博士号を取得(研究成果は1926年「The Ethics of Buddhism」として出版)し帰国。
福井 直秋(ふくい なおあき、1877年10月17日 - 1… 福井 直秋(ふくい なおあき、1877年10月17日 - 1963年12月12日)は、日本の作曲家、教育者。富山県中新川郡上市町出身。帝国音楽学校校長、武蔵野音楽大学創設者であり初代学長。 富山県中新川郡宮川村(現上市町)浄誓寺住職・福井智拓の五男として誕生。1899年に東京音楽学校へ進学し授業補助をしていた瀧廉太郎と出会う。声楽指導法や歌曲集編纂に尽力する。歌曲、器楽曲の創作に意欲を燃やして約1000曲の音楽作品を遺した。1904年長野師範学校教諭、1928年に第一次帝国音楽学校校長に就任。同年辞任し同校生徒らと共に、翌1929年に武蔵野音楽大学の前身である武蔵野音楽学校を創設し移籍する。1949年に新制大学の武蔵野音楽大学の初代学長に就任した。
中島 守利(なかしま もりとし、1877年(明治10年)10… 中島 守利(なかしま もりとし、1877年(明治10年)10月15日 - 1952年(昭和27年)1月28日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、東京府南葛飾郡新宿町長。 東京府南葛飾郡新宿町(現東京都葛飾区新宿)で、農業・中島藤左衛門の長男として生まれる。5歳で勝鹿小学校(現在の葛飾区立新宿小学校)に入学し、13歳で同高等小学校を卒業。独学で学問を修め、17歳で新宿郵便局長に就任。その後、新宿町長、東京府会議員、同参事会員、同郡部会副議長、同農会議員、同教育会議員などを歴任。 1920年5月、第14回衆議院議員総選挙で東京府第十五区から立憲政友会所属で出馬して当選。その後、第18回総選挙まで連続5回の当選を果たしたが、1928年、京成電車疑獄事件に連座。
松本 烝治(まつもと じょうじ、明治10年(1877年)10… 松本 烝治(まつもと じょうじ、明治10年(1877年)10月14日 - 昭和29年(1954年)10月8日)は、日本の商法学者(憲法学者ではない)。東京府士族。法学博士。戦後、憲法草案(松本試案)を作成したことで知られる。
樺山 可也(かばやま かなり、1877年(明治9年)10月1… 樺山 可也(かばやま かなり、1877年(明治9年)10月14日 - 1932年(昭和7年)10月27日)は、日本の海軍軍人(最終階級は海軍少将)、政治家(鹿児島市長)。族籍は鹿児島県士族。元フィギュアスケート選手・八木沼純子の曾祖父。 鹿児島県薩摩郡藺牟田村(現・薩摩川内市祁答院町藺牟田)出身。医者の次男である。1877年、父が西南戦争に西郷軍の軍医として出征、戦死した。可也は貧しい少年時代を送った。教科書を買う金がなかったため友達から借りて書き写し勉強した。 1898年12月、海軍兵学校(26期)を卒業し、1900年1月、海軍少尉任官。「大和」航海長などを経て、日露戦争に「和泉」分隊長として出征し、同砲術長となった。
3代 阿由葉 勝作(あゆば かつさく、1877年(明治10年… 3代 阿由葉 勝作(あゆば かつさく、1877年(明治10年)10月13日 - 1952年(昭和27年)8月19日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(3期)。幼名は長之助。 2代阿由葉勝作の長男として栃木県足利郡利保村(北郷村を経て現足利市利保町)で生まれる。1894年(明治27年)7月、家督を相続する。慶應義塾に学び、農業を営む傍ら、北郷村長、同村会議員、栃木県会議員、同参事会員、同議長を歴任する。実業家としては東海銀行、足利瓦斯各取締役、野洲新聞社長、東野鉄道取締役、宇都宮常設家畜市場取締役、宇都宮米券倉庫監査役、第二特許織物取締役を歴任する。 1920年(大正9年)5月の第14回衆議院議員総選挙では栃木県第6区から憲政会所属で出馬し当選。
貝谷 真孜(眞孜、かいたに しんし、1877年(明治10年)… 貝谷 真孜(眞孜、かいたに しんし、1877年(明治10年)10月12日 - 1937年(昭和12年)11月2日)は、日本の技術者、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・野田。 郡長、税務署長、細川家顧問などを務めた熊本県人・野田慶幸の三男として生まれる。1900年(明治33年)貝谷弥三の養子となり、その長女・多美と結婚し貝谷に改姓。 小学校を卒業後に上京し、1899年(明治32年)7月、東京鉄道学校鉄道建設科を卒業し、鉄道作業局建設部、東京市土木技手、熊本県飽託郡道路組合嘱託、同県水力電気調査助手、天草郡吏員を歴任。 1905年(明治38年)4月、三池炭鉱に入社し、工手長心得、工手長、鉱務技士心得、鉱務技士、建築技師、庶務事務員などを務め、1926年(大正15年)10月に退職した。
飯沼 剛一(いいぬま ごういち、1877年10月9日 - 1… 飯沼 剛一(いいぬま ごういち、1877年10月9日 - 1960年1月11日)は、日本の実業家。大正海上火災保険会長や、東亜火災海上保険社長を務めた。 兵庫県出身。1902年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業、三井物産入社。三井物産台北支店長兼南洋協会台湾支部幹事を経て、1918年新設された大正海上火災保険の支配人に就任。1921年大正海上火災取締役支配人。1928年大正海上火災保険専務。1935年から大正海上火災保険会長として、戦時体制下での統合などを進めた。1940年東亜火災海上保険社長。1941年新設された日本損害保険協会の理事に就任。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。