島本 信二(しまもと しんじ、1880年12月2日 - 19… 島本 信二(しまもと しんじ、1880年12月2日 - 1927年12月31日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 熊本県出身。慶應義塾大学で学び、アメリカへ留学する。帰国後、熊本県会議員となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において熊本6区から立憲政友会公認で立候補して当選する。1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党公認で立候補して再選した。のち政友会に戻り、衆議院議員を2期務めた。1927年在職中に死去した。
梅谷 光貞(うめたに みつさだ、1880年〈明治13年〉12… 梅谷 光貞(うめたに みつさだ、1880年〈明治13年〉12月2日 - 1936年〈昭和11年〉9月27日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 兵庫県養父郡畑村(現・養父市)で、梅谷伊平の長男として生まれる。第一高等学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1909年1月、内務省に入省し警視庁警部となる。 1910年(明治43年)11月、警視庁警視に昇進。以後、岩手県警察部長、栃木県警察部長等、警察畑の要職を歴任した。1916年6月、台湾総督府に転出し、警視・民政部警察本署保安課長に就任。その後、警察官及司獄官練習所長事務取扱、台北庁長、総督府事務官、兼参事官、新竹州知事などを歴任。
渡辺 三郎(渡邊 三郎、わたなべ さぶろう、1880年(明治… 渡辺 三郎(渡邊 三郎、わたなべ さぶろう、1880年(明治13年)12月2日 - 1951年(昭和26年)1月8日)は、日本の工学者、実業家、政治家。工学博士、貴族院勅選議員。旧姓・大河原。「特殊鋼」の命名者。 群馬県碓氷郡松井田駅(現安中市)で、商業・大河原新七、野恵夫妻の三男として生まれる。松井田町尋常高等小学校、群馬尋常中学校、第一高等学校工科を経て、1907年(明治40年)6月、東京帝国大学工科大学採鉱冶金学科を卒業。 大学卒業後、古河鉱業所 (株)(現古河機械金属)に入社し足尾鉱業所精錬課溶鋼係長に就任。1908年(明治41年)6月、実業家・渡辺福三郎、多満子夫妻の五女で従姉妹の那べと入夫縁組して渡辺と改姓。
中野 太三郎(なかの たさぶろう、1880年(明治13年)1… 中野 太三郎(なかの たさぶろう、1880年(明治13年)12月 - 1941年(昭和16年)11月10日)は、朝鮮総督府官僚、実業家。玄洋社員。
前田 松韻(まえだ まつおと、1880年(明治13年)12月… 前田 松韻(まえだ まつおと、1880年(明治13年)12月 - 1944年(昭和19年)4月11日)は、日本の建築家。大連民政署の設計や、寝殿造の研究で知られる。 京都市生まれ。父は福井県士族前田松閣。1904年(明治37年)7月、東京帝国大学工科大学建築学科卒業。 日露戦争下の1904年に軍倉庫の建設に携わり、1905年2月、大連軍政署の嘱託技師、同年10月、関東都督府技師となる。在職中に大連民政署(現・遼寧省対外貿易経済合作庁)、大連の日本橋(現・勝利橋)を設計。 1907年(明治40年)10月、東京高等工業学校(現・東京工業大学)建築科教授に就任。日英博覧会の装飾を担当し、1909年12月よりロンドンに出張。
大川 寿賀(おおかわ すが、1879年(明治12年)12月2… 大川 寿賀(おおかわ すが、1879年(明治12年)12月28日 - 1970年(昭和45年)10月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1879年(明治12年)12月28日、高知県土佐郡小高坂村(現在の高知市)で生まれた。海南中学を経て、1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官。1929年(昭和4年)8月、歩兵第23連隊長(宮崎)に就任。1932年(昭和7年)4月、陸軍少将になる。 退役後は土佐在郷将校会副会長、帝国在郷軍人会高知市連合会長等を歴任。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。 1970年(昭和45年)10月、90歳で死去した。
葛原 猪平(くずはら いへい、1879年12月22日 - 1… 葛原 猪平(くずはら いへい、1879年12月22日 - 1942年1月15日)は山口県出身の実業家、政治家。日本の冷凍物流事業の先駆けとして知られる。大正期に山口電灯を設立し、次いで山口県下の電気事業者をまとめて山陽電気に改組した後、大型冷蔵庫の製造や冷凍船を建造するなど冷凍魚の保存及び販売事業を推し進めた。後に衆議院議員も務める。 1879年(明治12年)12月22日、 山口県吉敷郡小郡町上郷字新町東上で葛原富次郎の二男として生まれる。1897年(明治30年)に旧制高等商業学校(現・一橋大学) に入学。また、東京英語専修学校(現・立教大学)に修学。在学中の1900年(明治33年)に農商務省の海外実業練習生に応募すると、見事合格し渡米。
杉村 七太郎(すぎむら しちたろう、1879年(明治12年)… 杉村 七太郎(すぎむら しちたろう、1879年(明治12年)12月19日 - 1960年(昭和35年)11月25日)は、日本の医学者。専門は、外科学・泌尿器科学。東北帝国大学第一外科初代教授。東北帝国大学名誉教授。 1879年(明治12年)、静岡県磐田郡池田村に生まれる。同村尋常小学校、見附町高等小学校、静岡県立静岡中学校、第二高等学校第3部を経て、東京帝国大学医科大学、さらに同大学院に進学。佐藤三吉の下で外科学を専攻。当時新設予定の新潟医学専門学校の外科教授として外科総論及び泌尿器外科を担当することが内定したため、1908年(明治41年)、皮膚科泌尿器科、土肥慶蔵の指導も受けた。ドイツに留学し外科学を研鑽。
伊藤 東一郎(いとう とういちろう、1879年12月18日 … 伊藤 東一郎(いとう とういちろう、1879年12月18日 - 1950年10月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 岐阜県海津郡、後の城山村(城山町、南濃町を経て現海津市)出身。茨城県立水戸中学校卒業後は郷里に戻っていたが、1900年12月より一年志願兵として名古屋歩兵第6連隊第3中隊に属する。日露戦争に従軍後、陸軍歩兵中尉で除隊。その後は輪西中普通水利組合会議員、石津村議、岐阜県議、同参事会員、同副議長、自作農創調査委員、小作、金銭債務各調停委員となる。ほか帝国在郷軍人会海津郡連合分会長、大日本砂防協会評議員となる。 1936年の第19回衆議院議員総選挙において岐阜1区(当時)から立憲民政党公認で立候補して初当選。
古屋 慶隆(ふるや よしたか、1879年12月18日 - 1… 古屋 慶隆(ふるや よしたか、1879年12月18日 - 1945年3月10日)は、戦前日本の政治家。岐阜県恵那市出身。古屋家は典型的な地方の名望家であり、慶隆の父・善造も衆議院議員を1期務めた。 1903年明治大学法律科卒業。恵那郡大井町(現在の恵那市)会議員、所得税調査委員を経て1915年第12回衆議院議員総選挙で無所属で立候補し初当選。当選後立憲同志会に入党。その後憲政会、立憲民政党に所属。1928年の第16回衆議院議員総選挙に落選したのを唯一の例外として、1942年の翼賛選挙まで連続9回当選した。加藤高明内閣及び第1次若槻内閣で鉄道参与官を務めたのち、1931年1月民政党総務に就任し、同年4月には第2次若槻内閣の内務政務次官となった。
倉元 要一(くらもと よういち、1879年(明治12年)12… 倉元 要一(くらもと よういち、1879年(明治12年)12月17日 - 1942年(昭和17年)11月12日)は、日本の政治家、立憲政友会所属の衆議院議員。 福岡県宗像郡上西郷村(現・福津市)出身。明治大学法科専門部卒業。大阪府属、滋賀県警部、鳥取県警部、福井県今立郡長、坂井郡長、福井県理事官、静岡県浜名郡長、静岡県理事官・産業課長を歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、6回の当選を重ねた。その間、浜松市会議員を兼ね、文部大臣秘書官を務め、平沼内閣では司法政務次官に就任した。 1939年(昭和14年)の政友会分裂に際しては中島知久平総裁が率いる政友会革新同盟に所属し、政党解消後は翼賛議員同盟に加わらず興亜議員同盟に所属。
庄司 良朗(しょうじ よしろう、1879年(明治12年)12… 庄司 良朗(しょうじ よしろう、1879年(明治12年)12月17日 - 1931年(昭和6年)6月22日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。ジャーナリスト。実業家。 静岡県駿東郡原町(現在の沼津市)出身。静岡中学校を経て、1901年(明治34年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)行政科を卒業した。1903年(明治36年)、沼津商業学校教諭となるが、翌年に起こった日露戦争に陸軍近衛歩兵少尉として出征し、中尉に昇進した。その後、1908年(明治41年)に早稲田大学英語科を卒業した。 駿豆新聞社社長兼主筆、東駿銀行監査役、沼津市畜産組合長、東海石炭株式会社社長、静岡朝報社社主などを務めた。また駿東郡会議員、同議長、静岡県会議員、同参事会員に選出された。
人見 次郎(ひとみ じろう、1879年〈明治12年〉12月1… 人見 次郎(ひとみ じろう、1879年〈明治12年〉12月16日 - 1959年〈昭和34年〉12月2日)は、日本の農商務官僚、実業家。朝鮮総督府総督官房鉄道局長、台湾総督府総務長官。 京都府船井郡富本村(現:南丹市八木地区)で人見次郎八の二男として生まれる。第三高等学校を経て、1904年(明治37年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。農商務省に入り、山林局属となる。特許局事務官・庶務課長、兼特許局図書館長、衆議院事務局書記官兼特許局事務官などを歴任。 1908年(明治41年)、統監府に転じ、特許局事務官に就任。1910年(明治43年)8月に朝鮮総督府が設置されると、書記官・農商工部商工課長に就任。
梁瀬 長太郎(やなせ ちょうたろう 1879年〈明治12年〉… 梁瀬 長太郎(やなせ ちょうたろう 1879年〈明治12年〉12月15日 - 1956年〈昭和31年〉6月11日)は、日本の実業家である。株式会社ヤナセの創業者として知られる。
山中 秀二郎(やまなか ひでじろう、1879年(明治12年)… 山中 秀二郎(やまなか ひでじろう、1879年(明治12年)12月15日 – 1944年(昭和19年)3月1日)は、日本の検事、鉄道官僚。貴族院男爵議員。 陸軍中将・男爵山中信儀の二男として生まれ、1926年(大正15年)5月15日に男爵を襲爵した。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。翌年に司法官試補となり、東京地方裁判所・区裁判所検事、広島地方裁判所・区裁判所検事、福岡地方裁判所・区裁判所検事を歴任した。1923年(大正12年)、東京鉄道局副参事に転じ、水戸運輸事務所長、人事係長、参事、鉄道省事務官、鉄道監察官を歴任した。 1939年(昭和14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、公正会に所属して活動し死去するまで在任した。
小島 文八(こじま ぶんぱち、1879年(明治12年)12月… 小島 文八(こじま ぶんぱち、1879年(明治12年)12月14日 - 1937年(昭和12年)9月23日)は戦前日本の雑誌編集者、軍人、南洋開拓者。シャトーブリアン『哀調(フランス語版)』の訳者。 東京外国語学校でフランス文学を専攻し、卒業後『婦人界』主筆を務めた。日露戦争においては松山俘虜所に勤務、終戦後は職を転々とし、西沢島等の南洋事業に関わった。 1879年(明治12年)12月14日、静岡県静岡裏一番町に陸軍士官小島好問の子として生まれた。なお、生誕時父はフランスに留学していた。 1894年(明治27年)4月明治議会中学2年に編入、1896年(明治29年)4月父が呉に転任した頃塩谷青山塾に預けられ、そこから中学に通った。
坂田 幹太(さかた みきた、1879年(明治12年)12月1… 坂田 幹太(さかた みきた、1879年(明治12年)12月13日 - 1958年(昭和33年)10月18日)は、日本の内務官僚、政治家、実業家。県知事、貴族院議員。旧姓・水谷。
土井 権大(どい ごんだい、1879年(明治12年)12月1… 土井 権大(どい ごんだい、1879年(明治12年)12月12日 - 1938年(昭和13年)2月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)。 兵庫県揖保郡石海村(現・太子町)に生まれる。明治法律学校に学び、1903年(明治36年)、早稲田大学英語政治科卒。北米移民事業に従事し、ブラジル移民事業を開始する。兵庫県議、石海産業組合長、播州素麺同業組合副組合長のほか、隆文館図書、中日化工各(株)常任監査役、雑誌「農政研究」主幹などを務める。早稲田出身ということから大隈重信の率いる憲政本党に所属し、当初は同じ揖保郡出身の肥塚龍を熱心に支持していたが、肥塚が立憲同志会に移籍すると土井は立憲国民党(憲政本党から改組)に残留し肥塚とたもとを分かつ。
柏木 ベン(かしわぎ ベン、1879年〈明治12年〉12月1… 柏木 ベン(かしわぎ ベン、1879年〈明治12年〉12月12日 - 1963年〈昭和36年〉8月14日)は、宗谷のアイヌ。アイヌ語宗谷方言の話者であり、当地のアイヌ文化の保持者であった。アイヌ名はHatankoyma、ハタンコイマッ、ハタンコイマ。 1879年12月12日、イキコマナイ 'Ikikomanay(現・稚内市大字宗谷村会所前)に生まれる。父・柏木弁太(ベンタ)(嘉永3年(1850年)6月-?)はオランナイ 'Oran Nay(現・稚内市大字宗谷村字第二清浜)の人、父方祖父・イクニンケ 'Ikuninkeは紋別の人、父方祖母はオランナイの人であった。また、父は首長であった。母・シマ(安政4年(1857年)6月-?)はその父母ともに石狩の人であり(シマはオランナイ出身との記述もある)、宗谷のことは何も知らなかったという。
安田 昌(やすだ まさる、1879年12月11日 - 193… 安田 昌(やすだ まさる、1879年12月11日 - 1931年10月27日)は、日本の実業家。 士族・安田仲元の長男として、福岡県に生まれる。1897年福岡県立尋常中学修猷館を経て、1900年東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業。 日本鉄道に技手として入社し、機関庫主任などを務める。1907年明治製糖の創立に参画、後に同社常務取締役に就任する。 明治商店取締役、明治製菓取締役、河西鉄道監査役、十勝開墾監査役、東京高等工業学校講師なども務めている。
板倉 卓造(いたくら たくぞう、明治12年(1879年)12… 板倉 卓造(いたくら たくぞう、明治12年(1879年)12月9日 - 昭和38年(1963年)12月23日)は、日本の法学者、ジャーナリスト、新聞経営者、政治家。慶應義塾大学法学部教授。時事新報社長。貴族院勅選議員。広島県比婆郡庄原村(現庄原市)生まれ。息子は三井銀行(現・三井住友銀行)社長を務めた板倉譲治。 庄原英学校を経て1895年、慶應義塾普通部に入学。その後大学部理財科に進んだが政治科に転じ、卒業後の1903年、普通部の英語教師となる。1905年恩師の福沢諭吉が創立した「時事新報」に入り社説を担当。自由主義の論陣を張り、福沢亡きあとの「時事新報」の論壇を支えた。1907年米英仏に留学し、コロンビア大学でウィリアム・アーチボルド・ダニング(英語版)に、イギリスでラサ・オッペンハイムに師事した。
胡 漢民(こ かんみん、1879年12月9日〈光緒5年10月… 胡 漢民(こ かんみん、1879年12月9日〈光緒5年10月26日〉 - 1936年〈民国25年〉5月12日)は、清末民初の政治家。中国同盟会以来の革命派人士で、中国国民党の長老。蔣介石と権力闘争を繰り広げたことでも知られる。旧名は衍鴻、字は展堂。 地方官吏の家庭に生まれる。21歳で挙人となった。1902年(光緒28年)に、呉敬恒(呉稚暉)・鈕永建らと日本に留学し、弘文学院師範科で学ぶ。しかし、呉が日本政府と清国公使により日本から追い返される事件が発生し、胡は怒って退学、帰国した。帰国後は、ジャーナリスト・教師として活動する。1904年(光緒30年)に再び日本へ留学、1906年(光緒32年・明治39年)6月に法政大学法政速成科第二班を卒業した。
金谷 眞一(かなや しんいち、1879年12月8日 - 19… 金谷 眞一(かなや しんいち、1879年12月8日 - 1967年2月16日)は、日本の実業家、日光金谷ホテル元代表取締役社長、帝国ホテル元取締役、富士屋ホテル元取締役、日光電気軌道元監査役。 1879(明治12年)12月、栃木県・日光金谷ホテルの金谷善一郎の長男として生まれる。日光金谷ホテルは1873年(明治6年)に外国人向けの民宿として、ジェームズ・ヘボンの薦めで「金谷カッテージ・イン」として創業したクラシックホテルで、現存する日本最古のリゾートホテルとして知られている。 明治期に立教学校(立教大学の前身の一つ)の初代校長を務め、建築家としても活躍したジェームズ・ガーディナーは、民宿の経営者である金谷善一郎に、日光を訪れる外国人向けに本格的なホテルが必要となることを助言し、長男・眞一に自身が教える築地の立教学校で英会話を含む英学を学ぶことを薦めた。
大谷 一男(おおたに かずお、1879年(明治12年)12月… 大谷 一男(おおたに かずお、1879年(明治12年)12月7日 - 1949年(昭和24年)8月9日[要出典])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県長岡郡五台山村(現在の高知市)に生まれた。1898年(明治31年)高知県尋常中学校卒を経て、1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官。1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業。 1922年(大正11年)11月、歩兵大佐に昇進し、陸士本科訓育部長に就任。近衛歩兵第2連隊長、第8師団参謀長を歴任。1927年(昭和2年)7月、陸軍少将に進級し歩兵第38旅団長となる。1930年(昭和5年)3月、近衛師団司令部付となり、1931年(昭和6年)10月、旅順要塞司令官に着任。
矢田 七太郎(やだ しちたろう、1879年〈明治12年〉12… 矢田 七太郎(やだ しちたろう、1879年〈明治12年〉12月4日 - 1957年〈昭和32年〉3月1日)は、日本の外交官。駐スイス公使。東亜同文書院大学学長。 静岡県出身。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。広州領事官補、漢口領事官補、天津領事官補、清国外交官補、イタリア大使館二等書記官、ロンドン総領事、サンフランシスコ総領事、上海総領事を歴任。1929年(昭和4年)、駐スイス公使に任命された。 退官後は満州国参議府参議を経て、1940年(昭和15年)より東亜同文書院院長・東亜同文書院大学学長を務めた。
永井 荷風(ながい かふう、1879年〈明治12年〉12月3… 永井 荷風(ながい かふう、1879年〈明治12年〉12月3日 - 1959年〈昭和34年〉4月30日)は、日本の小説家。本名は永井 壯吉()。号に金阜山人()、断腸亭()ほか。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 東京市小石川区(現在の文京区)出身。父・久一郎は大実業家だったが、荷風は落語や歌舞伎の世界に入り浸った。父は荷風を実業家にするために渡米させるが、荷風はアメリカ駐在を経てフランスにも滞在、同時代のフランス文学を身につけ帰国した。明治末期に師・森鷗外の推薦で慶応義塾教授となるが、江戸文化を無秩序に破壊しただけの幕末維新以後の東京の現状を嘆き、以後は、戯作者のように生きた。 永井久一郎と恒(つね)の長男として、東京市小石川区金富町四十五番地(現:文京区春日二丁目)にて出生。
小田村 有芳(おだむら つねか、1879年12月3日 - 1… 小田村 有芳(おだむら つねか、1879年12月3日 - 1965年4月5日)は、日本の実業家。元磯村産業会長。男爵楫取素彦の養孫。 山口県阿武郡に磯村應の五男として生まれ、男爵で元群馬県令の子・小田村希家の養子となる。1906年東京帝国大学機械工学科卒業。 1907年、群馬県旧烏淵村(現高崎市倉渕町)に山林を取得、製炭事業を行う。1910年、特許弁理士資格取得。磯村工業所(磯村産業)専務、会長などを務めた。磯村工業所は東京市芝口と小石川区水道町に店を置き、鉱山、土木、機械、電気、山林の調査設計工事と、特許手続きを業務とし、小田村のほか、実の兄弟の工学得業士・磯村秀策、工学士の磯村利水が所属し、磯村音介も社長を務めた。
只見 徹(ただみ てつ、1879年(明治12年)12月3日 … 只見 徹(ただみ てつ、1879年(明治12年)12月3日 - 1952年(昭和27年)7月28日は、日本の商学者。高岡高等商業学校創立委員として同校創立にあたり、初代校長を経て、第7代長崎高等商業学校校長。 埼玉県栗橋町(現久喜市)出身。1901年高等商業学校(現一橋大学)卒業。英米独留学、滋賀や愛媛の県立商業学校教諭、大阪市立高等商業学校教授、山口高等商業学校教授、福島高等商業学校教授を歴任し、1924年に高岡高等商業学校創立委員となり文部省の仮創立事務所で創立作業を進め、同年同校初代校長に就任。1930年から長崎高等商業学校校長。1936年初代長崎ロータリークラブ会長。1941年退官、長崎高等商業学校名誉教授。
木内 栄司(きうち えいじ、1879年〈明治12年〉12月2… 木内 栄司(きうち えいじ、1879年〈明治12年〉12月2日 - 1935年〈昭和10年〉1月1日)は、明治後期から昭和初期にかけて活動した日本の実業家、銀行家。八十二銀行の初代常務取締役を務めた。 1879年(明治12年)12月2日、長野県南佐久郡大沢村(現・佐久市大沢)の醸造業・木内儀三郎の長男として生まれる。木内家は武田信玄にゆかりのある旧家であり、代々大沢村(当時は田口藩領)の庄屋を務めた家柄であった。祖父・清兵衛が安政2年(1855年)に酒造業を創業し、栄司は二代目儀三郎の長男として家督を継いだ。 実業界では、1906年(明治39年)8月に南佐久郡臼田町(現・佐久市)に合資会社千曲銀行を設立し、頭取に就任。
佐藤 復三(さとう ふくぞう、1879年(明治12年)12月… 佐藤 復三(さとう ふくぞう、1879年(明治12年)12月1日 - 没年不詳)は、日本の内務・警察官僚。官選高知県知事、姫路市長。 広島県出身。佐藤又三郎の二男として生まれる。 第三高等学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。司法省に入省し司法官試補となるが、1909年11月27日に依願免職。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し福島県属兼警部となる。 以後、福島県警視、島根県理事官、同視学官、千葉県事務官、栃木県警察部長、富山県警察部長、宮城県警察部長、関東庁警務官、新潟県書記官・内務部長、青森県書記官・内務部長、熊本県書記官・内務部長などを歴任。
野田 松次郎(のだ まつじろう、1879年〈明治12年〉12… 野田 松次郎(のだ まつじろう、1879年〈明治12年〉12月1日 - 没年不明)は、日本の枢密院官僚。枢密院理事官。旧姓名:長澤松治郎。 明治29年11月12日、枢密院雇を命ぜられ会計課に勤務する。明治33年9月、和佛法律学校(後の法政大学)に入学し、明治34年12月13日、枢密院属・庶務課勤務となり、明治36年7月、和佛法律学校を卒業した。明治37年11月14日、高等捕獲審検所書記。明治39年7月6日、文官高等懲戒委員会書記・会計検査官懲戒裁判所書記。明治40年1月22日、秘書課勤務。大正3年9月8日、高等捕獲審検所物品会計官吏。大正10年5月19日、普通試験書記・文官普通懲戒委員会書記。大正11年2月3日、故山縣有朋葬儀書記。
荻原 碌山(おぎわら ろくざん / おぎはら ろくざん、18… 荻原 碌山(おぎわら ろくざん / おぎはら ろくざん、1879年(明治12年)12月1日 - 1910年(明治43年)4月22日)は、明治期の彫刻家。本名は守衛(もりえ)、「碌山」は号である。長野県東穂高村(現:安曇野市)出身。 守衛は幼い頃から病弱で、大好きな読書をしたり、絵を描いて過ごしていた。17歳の時、通りがかりの女性に声をかけられる。田舎では珍しい白いパラソルをさし、大きな黒い瞳をした美女の名は相馬黒光。尊敬する郷里の先輩相馬愛蔵の新妻で、守衛の3歳年上であった。東京の女学校で学んだ黒光は、文学や芸術を愛する才気あふれる女性。碌山はそんな黒光から、あらゆる芸術についての知識を授けられ、未知なる世界の扉を開いていく。
西野 藤助(にしの とうすけ、1878年(明治11年)12月… 西野 藤助(にしの とうすけ、1878年(明治11年)12月27日 - 1934年(昭和9年)9月18日)は、日本の実業家。福井県を人絹織物王国にした立役者。福井県今立郡岡本村(現・越前市定友町)にて、西野市兵衛(源助)の四男として誕生。 福井撚糸染工を経て福井精錬加工(現在のセーレン株式会社(英: SEIREN CO.,LTD.))、福井紡績(現在のダイワボウホールディングス株式会社)などを設立し、代表を務める。 1932年(昭和7年)に福井人絹取引所を開設し初代理事長となる。1934年(昭和9年)9月18日死去。享年57歳。福井県多額納税者、没後に正六位の位記を追賜。
山地 土佐太郎(やまじ とさたろう、1878年(明治11年)… 山地 土佐太郎(やまじ とさたろう、1878年(明治11年)12月26日 - 1958年(昭和33年)2月2日)は、大正・昭和期の実業家、政治家。貴族院勅選議員。極洋捕鯨(現・極洋)の創業者である。 東京府京橋区新富町(現・東京都中央区)で、警視庁勤務・山地享吉の長男として生まれる。山地家は土佐国安芸郡津呂村(現・高知県室戸市室戸岬町)の出身で、先祖代々「津呂組」という鯨組の株主だった。父が西南戦争従軍後、一家は1880年(明治13年)に高知県へ帰郷した。土佐太郎は1888年(明治21年)、安芸郡羽根尋常小学校を卒業。同県土佐郡第一高等小学校に進学したが、父の死去に伴い1891年(明治24年)に高等小学校を中退し、家業に従事した。
鄭 鉞(てい えつ、チェン ユエ、1878年12月24日 -… 鄭 鉞(てい えつ、チェン ユエ、1878年12月24日 - 1943年4月8日)は中華民国の司法官、政治活動家。江蘇高等法院第二分院首席検察官、鄭蘋如の父。鄭英伯、鄭越原とも言う。 1878年、浙江省蘭渓県に生まれる。1906年に日本に留学し、岩倉鉄道学校に入学する。同時期に政治結社の中国同盟会に入会する。岩倉鉄道学校を中退し、法政大学法政速成科に入学し、法政速成科を卒業後、専門部法律科に進学し、1912年に卒業する。留学中に、木村はな(鄭華君)と出会い、結婚する。 1916年に上海に帰国し、律師(弁護士)資格を取得する。1919年、陝西靖国軍に参加し、一等秘書に任命される。陝西靖国軍解散後は、上海に戻り、律師をしながら、復旦大学で法学を教える。
前田 光世(まえだ みつよ、男性、1878年12月18日 -… 前田 光世(まえだ みつよ、男性、1878年12月18日 - 1941年11月28日)は、講道館黎明期の柔道家(7段)である。グレイシー柔術の祖。本名・旧名前田 栄世(まえだ ひでよ)。ブラジル帰化後の本名はオタービオ・ミツヨ・マエダ。1908年にスペインで得た通り名コンデ・コマ(Conde Koma)の名でも知られていた。 青森県中津軽郡船沢村(のちの弘前市)出身。1895年(明治27年)、青森県第一中学校(青森県尋常中学校)(のちの青森県立弘前高校)に入学、運動委員の一員として同校の柔術部創設に関わったことで、旧弘前藩の柔術師範である斎藤茂兵衛(本覚克己流)への師事も指摘される。1995年の講道館機関誌『柔道』で青森県柔道連盟総務理事の岡本一雄は、前田は本覚克己流の免許を在学中に得た、と述べている。
野間 清治(のま せいじ、1878年〈明治11年〉12月17… 野間 清治(のま せいじ、1878年〈明治11年〉12月17日 - 1938年〈昭和13年〉10月16日)は、明治から昭和時代前期の日本の実業家、剣道家。講談社創業者、元報知新聞社社長。「雑誌王」と呼ばれ、昭和時代前期の出版界を牽引した。 父の野間好雄は北辰一刀流の剣豪森要蔵の高弟で、母の文は森要蔵の長女である。清治も剣道に励んだが、1912年(明治45年)、東京帝国大学での稽古中にアキレス腱を断裂し、修行を断念。その後は剣道家のパトロンとして活動する。屋敷内に野間道場を開設し、持田盛二や中山博道など有名な剣道家を歓待するとともに、講談社の全社員に剣道を奨励するなど全人教育として剣道の普及に努め、「剣道社長」と呼ばれた。
伊坂 秀五郎(いさか ひでごろう、明治11年(1878年)1… 伊坂 秀五郎(いさか ひでごろう、明治11年(1878年)12月17日 - 昭和15年(1940年)12月17日)は、衆議院議員(4期)、鉄道実業家。昭和会所属。 三重県河曲郡、のちの河芸郡若松村(現鈴鹿市)出身。慶應義塾で学ぶ。 若松村長、三重県会議員、三重県参事官、三重県議会副議長を経て、三重県会議員議長(26代)を歴任。鉄道会議員となり、伊勢鉄道会社社長、その後の伊勢電鉄株式会社取締役。1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙に立憲政友会からの推薦を受けて当選(以降3回当選)。のちに昭和会の結成に参加し、所属する。 他には、「開国曙光碑」の発起人となる。 五私鉄疑獄事件で贈賄罪で公判に付される。
安部 秋彦(あべ あきひこ、1878年〈明治11年〉12月1… 安部 秋彦(あべ あきひこ、1878年〈明治11年〉12月14日 - 1950年〈昭和25年〉)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 大分県宇佐郡若林村(津房村、安心院町を経て、現宇佐市)出身。安倍寛吾の四男。1902年(明治35年)陸軍士官学校第14期卒業。 1928年(昭和3年)3月に陸軍砲兵大佐・野砲兵第8連隊長、1930年(昭和5年)8月に近衛師団兵器部長を経て、1932年(昭和7年)8月8日に陸軍少将に進級と同時に待命、同月30日に予備役に編入した。 退役後は軍需会社顧問を歴任した。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
高橋 其三(たかはし きぞう、1878年(明治11年)12月… 高橋 其三(たかはし きぞう、1878年(明治11年)12月13日 - 1934年(昭和9年)11月23日)は、日本の宮内官僚。判事、検事。宮中顧問官。 長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)出身。旧高遠藩士・山崎就正の次男に生まれ、のち高橋佐次郎の養子となる。1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。司法官試補となり、東京区裁判所検事代理、東京地方裁判所検事、東京区裁判所検事、東京地方裁判所判事、横浜区裁判所判事、横浜地方裁判所判事、東京地方裁判所判事、東京控訴院判事を歴任。1913年(大正2年)、帝室会計審査官に転じ、帝室会計審査局主事、宮内事務官、内匠寮経理課長、宮内書記官、帝室林野局次長を歴任した。
谷 欽太郎(たに きんたろう、1878年(明治11年)12月… 谷 欽太郎(たに きんたろう、1878年(明治11年)12月9日 - 1951年(昭和26年)9月16日)は、日本の台湾総督府官僚、政治家、実業家。衆議院議員。 富山県下新川郡仏田村(現富山県魚津市)で、谷平吉の長男として生まれ、1897年4月、谷順平の長女・寿意と結婚し婿養子となる。第四高等学校を経て、1904年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1905年8月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1906年2月、台湾総督府に入り、同属、同専売局書記、同事務官、同脳務課長などを歴任した。1913年に退官。 1915年3月、第12回衆議院議員総選挙に富山県郡部から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
与謝野 晶子(よさの あきこ、正字:與謝野 晶子、1878年… 与謝野 晶子(よさの あきこ、正字:與謝野 晶子、1878年〈明治11年〉12月7日 - 1942年〈昭和17年〉5月29日)は、日本の歌人、作家、思想家。本名は与謝野 志やう(よさの しょう)。旧姓は鳳(ほうまたはおおとり)。ペンネームの「晶子」の「晶」は、本名から取ったもの。夫は、同じく歌人の与謝野鉄幹。 雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となった。 鳳志やうは、堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の大阪府堺市堺区甲斐町東一丁・甲斐町西一丁)で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として生まれた。家業は没落しかけており、3人目の女の子であったため両親から疎まれて育つ。
米田 實(米田 実、まいだ〈まいた〉 みのる、1878年12… 米田 實(米田 実、まいだ〈まいた〉 みのる、1878年12月7日 - 1948年1月9日)は、大正から昭和前期の日本の新聞記者、ジャーナリスト、外交評論家、国際法学者、外交史学者。東京朝日新聞社(現・朝日新聞社)論説委員長、同社編集顧問、同社初代外報部長。明治大学、立教大学で教授を務め、東京商科大学(現・一橋大学)、法政大学等でも講じた。専門は外交史。法学博士。別名(筆名)米田切水。20世紀前半の日本を代表する国際問題評論家である。 1878年(明治11年)12月7日、福岡県久留米に生まれる。 1893年(明治26年)、中学明善校を中退して上京する。立教学校(現・立教大学)、国民英学会で学ぶ。
大河内 正敏(おおこうち まさとし、1878年(明治11年)… 大河内 正敏(おおこうち まさとし、1878年(明治11年)12月6日 - 1952年(昭和27年)8月29日)は、日本の物理学者、実業家。 東京府出身。子爵。理化学研究所(理研)の3代目所長、貴族院議員。身長は180cmと長身だった。妻は大河内信古の娘で、婿養子となった。息子は大河内信威、大河内信定、大河内信敬。孫の一人に女優の河内桃子がいる。無名時代の田中角栄を引き立てたことでも知られる。 旧上総大多喜藩主で、子爵大河内正質の長男として東京浜松町に生まれた。のち旧三河吉田藩の子爵大河内家(江戸時代前期に活躍し、「知恵伊豆」と呼ばれた老中松平伊豆守信綱の子孫の家系で、大多喜藩主家の遠縁)の養子となり、最後の藩主・大河内信古の娘を妻に迎える。
安藤 幸(あんどう こう、1878年(明治11年)12月6日… 安藤 幸(あんどう こう、1878年(明治11年)12月6日 - 1963年(昭和38年)4月8日)は、日本における洋楽界揺籃期のヴァイオリニスト。幸田露伴、幸田延の妹。 東京府下谷区(現・東京都台東区)生まれ。1881年から西川喜舞に日本舞踊を、1883年から初代山勢松韻に箏曲を、1888年の10歳の頃からルドルフ・ディットリヒにヴァイオリンを習い、1896年東京音楽学校(現東京芸術大学)本科器楽部を卒業。同校研究科に進学。ディットリヒ、姉の幸田延(1895年にウィーン留学から帰国)、アウグスト・ユンケル(1899年に来日)らに学んだ。音楽学校時代に仲の良かった同級生として作詞家の東くめ(代表作に「お正月」「鳩ぽっぽ」など)がいる。
前田 慎吾(まえだ しんご、1878年〈明治11年〉12月5… 前田 慎吾(まえだ しんご、1878年〈明治11年〉12月5日 - 1966年〈昭和41年〉6月23日)は、日本の内務官僚。福岡県大牟田市長。 鹿児島県給黎郡喜入郷麓(揖宿郡喜入村、喜入町を経て、現鹿児島市)に生まれる。1907年(明治40年)、京都帝国大学法科大学英法科を卒業し、高等文官試験に合格した。陸軍第13師団法官部理事、警視庁警視・四谷警察署長、東京府荏原郡長、同理事官、青島守備軍民政部事務官、愛知県産業部長、岐阜県内務部長、岩手県内務部長を歴任した。 1933年(昭和8年)に官を辞し、翌年に大牟田市長に選ばれた。退任後の1940年(昭和15年)からは鹿児島市助役を務めた。晩年は郷里の指宿温泉の発展に尽力した。
矢部 長克(やべ ひさかつ、1878年12月3日 - 196… 矢部 長克(やべ ひさかつ、1878年12月3日 - 1969年6月23日)は、日本の地球科学者。東京生まれ。東北大学名誉教授。東京大学卒業。
高橋 亨(たかはし とおる、1878年12月3日 - 196… 高橋 亨(たかはし とおる、1878年12月3日 - 1967年9月4日)は、日本の朝鮮学者。 1878年、新潟県中魚沼郡川治村の大字高山一番地に、父・高橋茂一郎、母・きいの長男として生まれた。1898年、第四高等学校を卒業すると東京帝国大学文科に入学し、漢文科で学んだ。1902年、同大学を卒業。卒業論文は『漢易を難して根本博士の易説に及ぶ』であった。 卒業後の同1902年、九州日報の主筆となり、博多に移った。しかし、1903年に大韓帝国政府の招聘を受けて、幣原坦の後任として官立中学校の教師となった。1909年、『韓語文典』を、1910年、『朝鮮の物語集附俚諺』を刊行。この頃より、朝鮮の風俗調査に着手し、寺内正毅に朝鮮文献の収集を進言し、採用された。
月村清次郎(つきむら せいじろう、1878年12月3日 - … 月村清次郎(つきむら せいじろう、1878年12月3日 - 1942年1月28日)は日本の弁護士、裁判官。 静岡県君沢郡(現在の三島市)で商家の長男として生まれる。上京して旧制第一高等学校に入学するも、祖父の意向により中退を余儀なくされる。1896年、学費を貯めて東京専門学校(現在の早稲田大学)へ入学する。ここで、同学の講師であり、実質的な創立者の一人であった高田早苗に薫陶を受ける。また、在学中、新美卯一郎と親交を深める。1901年、一度の浪人の末に判事検事登用試験に合格する。裁判官として任官し、宮城県の仙台地方裁判所へ赴任する。1904年、司法省参事官の娘と結婚。しかし、仕事の都合もあり、衣食を共にすることは少なかったという。
作田 荘一(さくた しょういち、古い文書では“莊一”、読みを… 作田 荘一(さくた しょういち、古い文書では“莊一”、読みを「そういち」とするのは誤り 1878年12月1日 - 1973年2月9日)は、日本の経済学者。満洲建国大学初代副総長、同名誉教授。経済学博士。作田啓一(京都大学名誉教授)の父。戦前日本における統制経済の権威である。 山口県に藤本家の5男として生まれる。藤本家の家計の都合により高等小学校から上級学校への進学が困難であったため作田家の養子となり作田姓となる。山口高等学校(旧制山高)を経る。1905年、東京帝国大学法科大学経済学科卒業。1908年から1911年まで、中国の武昌湖北法政学堂(現在の武漢大学法学院)で経済学を教える。高等文官試験に合格し逓信事務官となる。