赤松 則良(あかまつ のりよし、天保12年11月1日〈184… 赤松 則良(あかまつ のりよし、天保12年11月1日〈1841年12月13日〉 - 大正9年〈1920年〉9月23日)は、日本の武士(幕臣)、華族、海軍軍人、政治家。貴族院議員。栄典は海軍中将。位階勲等爵位は従二位勲一等男爵。通称は大三郎。「日本造船の父」と呼ばれる。 中世の播磨の名族赤松氏の末裔と称する播州網干(現姫路市網干区)新在家の龍野藩御用商人であった廻漕業赤松良則を実父とする幕府十五番組御徒士(御家人)・吉沢雄之進の次男として江戸深川に生まれる。弘化4年(1847年)、祖父赤松良則の後を継ぎ父の実家である赤松姓となる。先祖の出自から父の経歴まで「赤松則良半生談」に本人が詳しく述べている。
渡辺 猶人(わたなべ なおと、1840年12月29日(天保1… 渡辺 猶人(わたなべ なおと、1840年12月29日(天保11年12月6日) - 1908年(明治41年)6月3日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 信濃国伊那郡飯田城下に飯田藩士の長男として生まれる。江戸に出て安井息軒に入門し、谷干城らと交誼を結ぶ。帰藩後は父が督学を務めていた藩の文学所の補佐を務めた。明治維新後は大宮神社祠宮を経て、長野県官吏となり、第19大学区第4小区戸長や学区取締などを務め、1882年(明治15年)に下伊那郡長、翌1883年(明治16年)に更級郡・埴科郡長に任命された。1889年(明治22年)に飯田町会議員、1891年(明治24年)に下伊那郡会議員になった。同年7月22日に飯田町長となった。
中村 重遠(なかむら しげとお、1840年12月25日〈天保… 中村 重遠(なかむら しげとお、1840年12月25日〈天保11年12月2日〉 - 1884年〈明治17年〉2月22日)は、明治時代の日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。旧名進一郎。 1840年(天保11年)、宿毛村(現在の高知県宿毛市)に小野弥源次の子として生まれた。のち中村儀平の養子となる。山内氏固の家臣で1862年(文久2年)、宿毛文館の句読役になった。戊辰戦争では、1868年(明治元年)、東征軍に従ったが途中帰国し、宿毛出兵を説き機勢隊を編成しその責任者となる。北陸に進み功をあげる。 1871年(明治4年)[西暦年要検証]、兵部省七等出仕。のち陸軍少佐任官。1873年(明治6年)6月、陸軍省第4局第1課長に就任し、同年12月、熊本鎮台参謀長心得に転じ佐賀の乱に出征。
香川 敬三(かがわ けいぞう、1839年12月20日〈天保1… 香川 敬三(かがわ けいぞう、1839年12月20日〈天保10年11月15日〉- 1915年〈大正4年〉3月18日)は、江戸末期の水戸藩出身の勤皇志士で、明治から大正期の日本の宮内官僚。位階勲等爵位は従一位勲一等伯爵。東山道軍総督府大軍監・皇后宮大夫・皇太后宮大夫・枢密顧問官などを歴任し、美子皇后(昭憲皇太后)に長きに渡って仕えた。 諱は広安。旧姓は蓮田。幼名は、了介または徳松。旧名、鯉沼 伊織(こいぬま いおり)。変名は、小林彦次郎。明治になり香川広安、のちに敬三に改名。士族だったが、後に華族の子爵、ついで伯爵に列する。生年は1841年(天保12年)という説もある。 下伊勢畑(現在の常陸大宮市)の水戸藩郷士蓮田重右衛門孝定・袖の3男に生まれる。
関 義臣(せき よしおみ、1839年12月15日(天保10年… 関 義臣(せき よしおみ、1839年12月15日(天保10年11月10日) - 1918年(大正7年)3月30日)は、日本の武士・越前福井藩士、政治家。別名を山本龍二郎、関龍二。号は湘雲。正三位勲二等男爵。 1839年、福井藩の家老である本多家の越前府中(現在の越前市、旧武生市)領にて、本多家家臣・山本五郎の三男に生まれる。当初名乗っていた名前は山本龍次郎であった。嫡男ではないため、福井本藩の家臣であった山本家の分家で育つ。 藩校明道館に学び、幹事の橋本左内に認められて、文久2年(1862年)に昌平坂学問所に学んだ。1866年(慶応2年)、長崎の坂本龍馬を訪ねて亀山社中に加盟し、のちに海援隊に属した。
守道 半四郎(もりみち はんしろう、1839年12月14日〈… 守道 半四郎(もりみち はんしろう、1839年12月14日〈天保10年12月3日〉 - 没年不明)は、日本の商人(皮革商)、資産家、名望家、政治家、奈良県多額納税者。守道皮革製造所主。族籍は奈良県平民。 奈良県北葛城郡陵西村市場(現・大和高田市市場)出身。守道半兵衛の二男。1876年に家督を相続する。農業、皮革製造業を営む。守道皮革製造所を経営し専ら靴、鞄、帯皮、バツキングの類を製造販売する。 内外の事務に鞅掌し、みずから大阪市南区西浜に出て、店員を督励して原料皮の買入れに従事し、あるいは直接ロシア人や各方面の得意客と応接する。 1889年5月、1892年5月に陵西村会議員に当選する。 住所は奈良県北葛城郡陵西村(現・大和高田市)、大阪市南区西浜中通3丁目(現・浪速西)。
小川 トク(おがわ とく、1839年(天保10年) 12月1… 小川 トク(おがわ とく、1839年(天保10年) 12月1日- 1913年(大正2年)12月24日)は、明治期の殖産家、染織家。久留米縞織の創始者。 1839年(天保10年)12月1日に武蔵国足立郡宮ヶ谷塔村(現在の埼玉県大宮市宮ヶ谷塔)で生まれた。父の名は善五郎、母の名はチエ。父母共にトクが三、四歳のころに死亡し、祖父母の手により育てられた。結婚後、1860年(万延元年)に一人息子栄三郎が生まれた。のち江戸に定住していた久留米藩の乳母となり、江戸を出発し久留米に滞在。その後久留米において木綿織りをはじめ、久留米縞織の創業者となった。 トクは久留米で、特産品の久留米絣の生産様式が遅れていること、絣の他に織物生産が無いことに気づいた。
窪田 畔夫(くぼた くろお、1838年12月5日(天保9年1… 窪田 畔夫(くぼた くろお、1838年12月5日(天保9年10月19日) - 1921年(大正10年)4月30日)は、長野県の政治家。本名は窪田重国、号は松門であった。 信濃国筑摩郡和田町村(天領、現在の松本市和田)に生まれ、青年期から寺子屋を開いて教育に従事した 1872年に開智学校の前身となった筑摩県学の開設を進め、また、市川量造らとともに、松本を拠点とした『信飛新聞』の創刊に参加した。以降、同紙や、1876年に改題した『松本新聞』の紙面で、自由民権運動の論陣を張った。 1879年には、北安曇郡の初代郡長となり、在任中の1883年には渡辺敏らとともに白馬岳に初登頂した。 1888年に長野県会議員、1892年には帝国議会衆議院議員となった。
3代 伊澤 平藏(いさわ / いざわ へいぞう、1838年(… 3代 伊澤 平藏(いさわ / いざわ へいぞう、1838年(天保9年)12月 - 1911年(明治44年)3月19日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・板橋。幼名・哲右衛門。衆議院議員、貴族院議員伊澤平左衛門の父。 陸奥国宮城郡笠神村(現・宮城県多賀城市)に生まれる。仙台に出て、醸造業伊澤平藏(2代目)の元で働き、平藏の娘を娶り婿養子となる。1889年(明治22年)仙台市が施行されると市会議員となる。同参事会員、宮城県会議員、仙台市長代理などを歴任する。この間、仙台商業会議所の議員を発足時(1891年)から務め、同副会頭(1899年)、同会頭(1904年)に就任した。 1906年(明治39年)に宮城県多額納税者として貴族院議員補欠選挙で互選され、同年9月29日から1908年(明治41年)7月2日まで務めた。
渡邊 重石丸(わたなべ いかりまろ、天保8年11月15日(1… 渡邊 重石丸(わたなべ いかりまろ、天保8年11月15日(1837年12月12日) - 大正4年(1915年)10月19日)は、幕末の中津藩士、国学者、神道学者。明治初年には新政府の神道政策を担当し、大日本帝国陸軍将軍の乃木希典が師事したことで知られている。蘭学者の福澤諭吉と国学者の増田宋太郎は共に縁戚に当たる。号は鶯栖園隠士、捫虱庵主人、通称は鉄太郎。 1837年(天保8年)、豊前国中津藩の神官の家に生まれた。藩校の進脩館に入り、藩儒の野本白巌や手島物斎に漢学を学んだ。安政4年(1857年)には中津藩において子弟に国学を教授し、元治元年(1864年)にこの私塾を「道生館」 と命名した。慶応3年(1867年)には平田篤胤の思想を取り入れて、後嗣の平田銕胤に入門して没後の門人となった。
樺山 資紀(かばやま すけのり、1837年12月9日〈天保8… 樺山 資紀(かばやま すけのり、1837年12月9日〈天保8年11月12日〉- 1922年〈大正11年〉2月8日)は、日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将、陸軍少将。栄典は従一位大勲位功二級伯爵。薩摩藩士・橋口与三次の三男。 警視総監(第3代)、海軍大臣(第2代)、海軍軍令部長(第6代)、台湾総督(初代)、枢密顧問官、内務大臣(第15代)、文部大臣(第14代)を歴任した。 天保8年(1837年)薩摩国鹿児島城下加治屋町二本松馬場(高見馬場方限)に薩摩藩士・橋口与三次の三男に生まれ、覚之進(かくのしん)と名づけられ育てられる。文久3年(1863年)同藩士・樺山四郎左衛門の養子となり、樺山姓を名乗る。
高橋 白山(たかはし はくざん、天保7年12月(1837年)… 高橋 白山(たかはし はくざん、天保7年12月(1837年) - 明治37年(1904年)3月10日)は幕末の漢学者。明治時代の教育者。諱は利貞。字は子和。通称は敬十郎。信州教育の開拓者と呼ばれる。 信濃国伊那郡高遠城下に高遠藩儒の高橋利常(確斎)の長男として生まれる。藩校進徳館で中村元起に学び、16歳で助教、文久3年(1863年)には師範代となり藩主の侍講も兼帯した。好学にして博識、在任の13年間で進徳館の蔵書3万冊をほとんど読みつくしたという。文政年間に江戸に出て藤森天山に入門、鷲津毅堂、大沼枕山らと交流した。 明治維新の際には白山の思想は危険視され、長尾無墨と共に藩を追放される。その後、幕府領の手良村野口(現伊那市)で開塾し、医者も兼ねた。
谷 順平(たに じゅんぺい、1836年12月21日(天保7年… 谷 順平(たに じゅんぺい、1836年12月21日(天保7年11月14日)- 1921年(大正10年)8月3日)は、明治から大正期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、富山県会議長、富山県下新川郡道下村長。幼名・義之助。 越中国新川郡仏田村(石川県新川郡仏田村、富山県下新川郡道下村を経て現魚津市)で、豪農・谷平兵衛の長男として生まれた。加賀藩士・沢田六左衛門、馬場春鴎に師事し漢学を修めた。1856年(安政3年)家督を相続し新川郡縄張役、仏田の肝煎役に就任。1872年(明治5年2月)金沢県新川郡第8区租税調役、1873年(明治6年)9月、第3大区副区長となる。その後、戸長、下新川郡書記を務めた。
対馬 嘉三郎(つしま かさぶろう、1836年12月14日(天… 対馬 嘉三郎(つしま かさぶろう、1836年12月14日(天保7年11月7日)- 1914年(大正3年)12月24日)は、幕末の弘前藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員(1期)、初代札幌区長。 陸奥国津軽郡弘前城下代官町(現弘前市)で弘前藩士・対馬利助の息子として生まれる。箱館戦争に従軍。弘前藩公用人を経て、明治4年7月(1871年)青森県に出仕。明治5年4月(1872年)開拓使に転じ十一等出仕となり、同年11月(12月)開拓中主典に昇進。会計整理、教育、衛生普及、商工業振興などを担当し、1878年7月に退官した。 その後、実業界に転じ、開拓使経営の醸造場の払下げを受けて酒造業を経営。また、元開拓使官吏・堀基らと共に札幌の商社の嚆矢である「大有社」を創設し、米穀雑貨輸入販売、海産物輸入業を営んだ。
伴 資健(ばん すけゆき、1835年12月31日(天保6年1… 伴 資健(ばん すけゆき、1835年12月31日(天保6年11月12日) - 1913年(大正2年)1月28日)は、安芸国(現広島県)出身の政治家。広島市長を3期務めた。幼名保之丞、のちに後十郎兵衛、資知と改名。
大築 尚志(おおつき たかゆき、1835年12月24日(天保… 大築 尚志(おおつき たかゆき、1835年12月24日(天保6年11月5日) - 1900年(明治33年)6月12日)は、日本の陸軍軍人、陸軍中将。幼名、保太郎(やすたろう)。
10代 加賀美 嘉兵衛(かがみ かへえ、1835年12月11… 10代 加賀美 嘉兵衛(かがみ かへえ、1835年12月11日(天保6年10月22日) - 1891年(明治24年)10月14日)は、幕末から明治期の豪農、政治家。旧名・次左衛門光則。 甲斐国八代郡南八代村(山梨県東八代郡南八代村、八代村、八代町を経て現笛吹市)で生まれた。生家の加賀美家は八代郡小石和筋きっての大富豪。幕末には甲州田安家領の支配勘定格・郡中取締役を務めた。 明治維新後、1872年(明治5年)八代郡第7区長、同第8区長に就任し、藤村紫朗県政に協力した。その後、第22区長、第23区長となる。1878年(明治11年)東八代郡長に就任し東山梨郡長を兼務した。 その後、県内の民権派に対抗して立憲保守党の設立に尽力した。
角田 忠行(つのだ ただゆき、天保5年11月6日(1834年… 角田 忠行(つのだ ただゆき、天保5年11月6日(1834年12月6日) - 大正7年(1918年)12月15日)は、日本の国学者・神官。通称は由三郎。 信濃国佐久郡長土呂村(現長野県佐久市)の近津神社の神主角田忠守と母小林氏の二男として生まれる。父は岩村田藩主の侍講、藩校達道館教授を務め、終身禄を受け藩士身分となった。弟(父忠守の四男)に同じく神官となった角田信道がいる。 安政2年(1855年)脱藩して江戸に出奔し、藤田東湖に入門。その後は国学者平田銕胤の門人となって塾の運営に関わった。文久3年(1863年)上洛して等持院にある足利三代木像梟首事件に首謀者の一人として関与し、幕吏に追われて伊那谷の松尾多勢子邸に潜伏。
菅原 白龍(すがわら はくりゅう、天保4年11月13日(18… 菅原 白龍(すがわら はくりゅう、天保4年11月13日(1833年12月23日) - 明治31年(1898年)5月24日)は明治時代に活躍した日本画家。 天保4年(1833年)11月13日に出羽国置賜郡白龍時庭村(現・山形県長井市時庭)において菅原道栄(号・源龍斎)の長男として生まれた。本名は源暁。明治15年(1882年)から道雄の名を、明治17年(1884年)から白龍の号を本名とした。大岳、泰嶽、梵林、日本橋隠士、爽気龍人、五石十水楼、和楽斎など20を超える号をもつ。家は代々続いた真言宗の修験で、地元の諏訪神社に仕えていた。また、村に学校を開き子供たちに漢籍、手習いなどを教えていたので、白龍も父から書、習字などを学んだ。
大原 孝四郎(おおはら こうしろう、1833年12月12日(… 大原 孝四郎(おおはら こうしろう、1833年12月12日(天保4年11月2日) - 1910年(明治43年)7月6日)は、日本の実業家。大原孫三郎の父。 岡山藩士藤田傳吉の三男として生まれる。1858年(安政5年)に備中国窪屋郡倉敷村の庄屋・豪商大原壮平の養嗣子となり、幼名幸三郎を孝四郎と改名。儒学者森田節斎の簡塾、犬飼松窓の三餘塾に学んだ。呉服、繰綿、米、金融を手広く営むとともに大地主であり、学問、絵、書を好む文化人でもあった。 1888年(明治21年)に倉敷紡績所(クラボウ)の初代社長に就任すると、養父壮平が森田節斎から学んだ謙受説を社訓とした。これは「満は損を招き、謙は益を受く」という思想で、常にへり下った気持ちで、より高いものを求めて努力すべし、という内容であった。
山崎 豊(やまざき ゆたか、1831年12月21日(天保2年… 山崎 豊(やまざき ゆたか、1831年12月21日(天保2年11月18日) - 1912年(明治45年)2月25日)は、幕末から明治時代の実業家。 天保2年(1831年)11月18日、武蔵国川越(現在の埼玉県川越市)に生まれる。幼名は文次郎。生家は志義町(現在の仲町)で菓子商を営む山崎家で、初代の山崎嘉七が信州中野(現在の長野県中野市)から川越に出て、天明3年(1783年)に和菓子店・亀屋を創業した。以来、武蔵国川越藩の御用達となった。 山崎家は代々「嘉七」を襲名し、文次郎はその4代目であった。15歳で江戸西久保の壺屋に修業し、亀屋を江戸風の洗練された和菓子商店に変革した。文久2年(1862年)7月に父である先代嘉七が死去すると、文次郎は家督を相続し4代目嘉七を襲名した。
巌谷 龍一(いわや りゅういち、天保元年12月〈1831年〉… 巌谷 龍一(いわや りゅういち、天保元年12月〈1831年〉 - 1900年〈明治33年〉5月24日)は、日本の裁判官・陸軍軍人。肥前国武雄出身の佐賀県士族。号を玄龍という。巌谷竜一。 天保元年12月(1831年)、肥前国武雄に生まれる。幼少より武雄の医師・清水宗庵に師事して医学を志すが、のちに脱藩して京都へ上り、苦学のかたわら夜陰に按摩や阿呆陀羅経を語って学資を得たという。京都の町で高杉晋作と行き逢って意気投合し、のち長州に赴いて井上馨らと交わり、大村益次郎に蘭語を学んで洋式兵学を研鑽したと伝わる。 幕末に帰郷し、領主鍋島茂昌により身教館の監督と洋式兵術の指南を命ぜられる。戊辰戦争では茂昌に従い、武雄軍団参謀として秋田方面に出征し武雄藩の軍功に寄与した。
伊丹 重賢(いたみ しげかた、文政13年11月17日(183… 伊丹 重賢(いたみ しげかた、文政13年11月17日(1830年12月31日) - 明治33年(1900年)7月15日)は、日本の男爵。志士、貴族院議員、大審院判事、錦鶏間祗候、従五位。通称、蔵人、右近大進。子に伊丹春雄、伊丹二郎。 京都(山城国)粟田(現京都市東山区)生まれ。伊丹家は代々粟田青蓮院宮に仕えた。幼き頃から神童と呼ばれ、徳川幕府が衰退するにいたって尊皇攘夷派の志士となり東奔西走する。安政5年(1858年)に橋本左内、梅田雲浜らと共に幕府に捕らわれ彦根城に幽閉される。その後、放免となり明治維新を迎える。 維新後、大阪府判事に命ぜられて同地に赴任。その後、長崎・東京府へ赴任し、大審院に入り元老院議官に転ず。
新田 邦光(にった くにてる、文政12年12月5日〈1829… 新田 邦光(にった くにてる、文政12年12月5日〈1829年12月30日〉 - 1902年〈明治35年〉11月25日)は、幕末の志士、明治期の神道家で、神道修成派の教祖。 文政12年12月5日、阿波国美馬郡拝原村(現在の徳島県美馬市)の郷士竹澤平太と母・曾米(田村氏の女)の三男として生まれる。初名は寛三郎。幼少の頃より南朝の英雄・新田義貞の弟脇屋義助の末裔であるという、家に伝わる旧記を読み、勤王を自覚し文武の道に励んだため、7歳にして論語を暗記した。 弘化4年(1847年)、山陰、山陽諸国を巡遊。神道家として、嘉永元年(1848年)20歳の時、布教伝道の志を立てる。これを修成派では立教元年としている。
和泉要助(いずみ ようすけ、文政12年11月25日(1829… 和泉要助(いずみ ようすけ、文政12年11月25日(1829年12月20日) - 明治33年(1900年)9月30日)は明治時代の発明家。人力車の発明者の1人とされる。姓は「長谷川」とも表した。 筑前国鞍手郡中泉村(現・福岡県直方市)生まれ。筑前福岡藩の藩士出水要の養子となり、のち和泉要助と名を改めた。1870年(明治3年)に鈴木徳次郎、高山幸助と人力車の製作を行い、同年3月22日に東京府より製造と営業の許可を得た。翌年、和泉らは人力車総行事に任命されたが、1873(明治6年)の税制整備によって雑税が廃止され、人力車総行事の職は廃止された。第1回内国勧業博覧会で龍紋賞を受章した。 1871年(明治4年)「専売略規則」の制定時や1885年(明治18年)の「専売特許条例」の公布時に専売特許を出願したものの、すでに一般に普及していたことを理由に、人力車は発明品として特許を得ることはできなかった。
黒川 真頼(くろかわ まより、文政12年11月12日〈182… 黒川 真頼(くろかわ まより、文政12年11月12日〈1829年12月7日〉 - 明治39年〈1906年〉8月29日)は、江戸時代・明治時代の国学者、宮内省御歌所寄人、東京帝国大学教授。 日本の古来からの歴史、制度、有職故実、風俗、律令、格式、法制史、日本文学、音韻学、美術、工芸など幅広く研究し、考証学的な知を近代に継承して、再編成した明治の碩学である。大学校、元老院、東京帝国大学で研究した著書・論文は数多く、日本文化の集成者と言われた。 本姓は金子、幼名は嘉吉、名は寛長、号は荻斎。上野国桐生新町(現在の群馬県桐生市)にて代々機業を営む父・金子吉右衛門治則と母・るゐの子として生まれる。生まれつき右目が不自由だったが、幼少時から家の土蔵の中で本を読みあさった。
篠原 泰之進(しのはら たいのしん、文政11年11月16日〈… 篠原 泰之進(しのはら たいのしん、文政11年11月16日〈1828年12月22日〉 - 1911年〈明治44年〉6月13日)は、江戸時代後期の志士。新選組隊士(諸士調役兼監察方及び柔術師範)、御陵衛士。幼名は泰輔、変名を篠塚友平、秦河内(はた かわち)。維新後は、秦林親(はた しげちか)と改名。 筑後国生葉郡高見村(現在の福岡県うきは市浮羽町高見)の豪農および石工業者である篠原元助の長男として生まれる。幼時より武芸を好み、久留米藩の森兵右衛門や種田宝蔵院流槍術師範に槍術と剣術を学ぶ。弘化2年(1845年)、良移心倒流柔術師範の下坂五郎兵衛に柔術を学ぶ。 嘉永5年(1852年)、藩士・小倉一之進に仕えた後、家老・有馬右近の中間となる。
島田 蕃根(しまだ ばんこん/みつね、1827年12月25日… 島田 蕃根(しまだ ばんこん/みつね、1827年12月25日(文政10年11月8日)- 1907年(明治40年)9月2日)は、幕末から明治時代に活躍した僧、仏教学者である。法名は円真。別名に如縄道人等。 役藍泉(島田浄観)の孫として周防の徳山に生まれる。幼年期より徳山藩に仕え、儒教や神道等宗教に関する事を多く学んだ。後に天台宗本山派修験道教学院の住職となる。 後に藩主の命によって上洛し興譲館で教鞭を執り、勤皇説を唱えた。維新後の1872年(明治5年)に廃藩置県に携わるため還俗し同時期に活躍した福田行誡、獅岳快猛らと共に『大蔵経』の編纂に携わった。その後、教部省や内務省内の社寺局等に勤めるなど現代における仏教の興隆に貢献した。
奥 並継(おく なみつぐ、文政7年(1824年)12月 - … 奥 並継(おく なみつぐ、文政7年(1824年)12月 - 明治27年(1894年)2月26日)は、幕末・明治期の志士、国学者、書家、明治期日本の大蔵官僚である。字は子紹、菱池(菱池は宇佐神宮境内の池名)と号す。 豊前国宇佐村(現大分県宇佐市)の藤波氏に生まれ、宇佐神宮祠官漆島姓の奥氏の養嗣子になる。12歳で広瀬淡窓の門に入り、後に帆足万里に学んだ。 嘉永5年(1852年)、宇佐神宮官人代に任じられ、従五位下対馬守に叙せられた。安政2年(1855年)、江戸に出て平田篤胤の門に入り国学を修めた。 文久3年(1863年)、飄然して京都に出遊して憂国の志士と交わり、国事疾走の生活が始まる。丁度三条実美卿らの七卿落ちとなり、勤王攘夷党の蹉跌をみるや、憤慨し直ちに宇佐に帰り、豊前国、豊後国の志士らと語らい勤王倒幕の先鞭をつけんとしてならず、弟の時枝重明と共に日田の獄舎に投じられ、3年を経て即位の大赦により出獄した。
南摩 綱紀(なんま つなのり、文政6年11月25日(1823… 南摩 綱紀(なんま つなのり、文政6年11月25日(1823年12月26日) - 明治42年(1909年)4月13日)は、日本の武士(会津藩士)、教育者。通称は八之丞、号は羽峯。 南摩家は元下野国南摩城主であった。会津藩においては家禄300石の上級藩士であったが、綱紀は次男で当主ではない。藩校日新館に学び、秋月悌次郎とともに秀才として知られた。昌平坂学問所に留学し、その後洋学も修めている。西国諸国を歴訪し、その見聞を『負笈管見』と題して著す。帰藩後は日新館教授を務め次いで蝦夷地代官として現地に赴任。現地でも藩士子弟の教育にあたり、その中に会津藩出身者として最初の海軍将官となる角田秀松がいた。蝦夷地代官としての手当ては5両3人扶持であった。
矢野 玄道(やの はるみち、1823年12月18日(文政6年… 矢野 玄道(やの はるみち、1823年12月18日(文政6年11月17日) - 1887年5月19日)は、伊予国喜多郡阿蔵村有松(現、愛媛県大洲市)の国学者・神道学者。伊予大洲藩士の子。幼名は茂太郎。道号は天放散人、子清、神臣、谷倶久、後楽閑人、扶桑眞人倚松、谷蟆、梅屋。本姓は平(佐奈田余一義忠次男中山次郎盛実末)。平田篤胤門下。
阪谷 朗廬(さかたに ろうろ、1822年12月29日(文政5… 阪谷 朗廬(さかたに ろうろ、1822年12月29日(文政5年11月17日) - 1881年(明治14年)1月15日)は、日本の漢学者、儒学者。江戸時代末期は教育者として、明治維新後は官吏としても活動した。東京学士会院議員。
鯉江 方寿(こいえ ほうじゅ、通称:伊三郎とも、1821年1… 鯉江 方寿(こいえ ほうじゅ、通称:伊三郎とも、1821年12月30日(文政4年12月7日) - 1901年(明治34年)5月12日)は、尾張国知多郡常滑村(現:愛知県常滑市)出身の陶芸家。鯉江小三郎家三代目である。 父の鯉江方救と共に常滑焼の鉄砲窯(大窯)にかわる、真焼間窯を導入した。1835年に真焼間窯を親子で完成させたとされ(後述)、1874年には真焼土管(常滑陶管)の国産化に成功し、常滑焼の基礎を築いたとして名高い。 中国人を招聘、また、常滑焼を代表する朱泥の急須作りを導入し、その他には美術研究所や埋め立て事業(鯉江新開)を行った。 1821年(文政4年)12月7日、尾張国知多郡常滑村に陶芸家の鯉江方救の元に長男として生まれる。
浅野 忠(あさの ただし、文政2年10月18日〈1819年1… 浅野 忠(あさの ただし、文政2年10月18日〈1819年12月5日〉 - 1892年〈明治25年〉12月14日)は、江戸時代末期(幕末)の広島藩の筆頭家老、のちに神職。三原領主(3万石)三原浅野家第11代当主。第9代当主浅野忠順の子。諱は初め忠助、のちに忠厚。通称は遠江、主殿、大和、飛騨、仲之丞。号は榎蔭。 天保14年(1843年)9月、43歳にして老齢を理由に先代浅野忠敬が隠居し、忠敬の子浅野忠英は幼年だったため、家督を継いだ。嘉永6年(1853年)のペリー来航を期に、家老の上田主水、浅野豊後と連署した建白書を藩主浅野斉粛に提出し、辻将曹らとともに藩政改革を行おうとするが失敗した。そして安政2年(1855年)、藩主浅野長訓に執政更迭と改革派の登用を訴えたが、側近に阻まれ容れられず、翌安政3年(1856年)3月に病を理由として隠居を申し渡された。
葛城 彦一(かつらぎ ひこいち、1818年12月2日(文政元… 葛城 彦一(かつらぎ ひこいち、1818年12月2日(文政元年11月5日) - 1880年(明治13年)1月23日)は、幕末の武士で薩摩藩士、志士。本姓は竹内。名は経成または重任。通称は伴右衛門。変名として内藤助右衛門を名乗る。死後に正五位を贈られた。 大隅国加治木町(現在の鹿児島県姶良市)の郷士の子として生まれる。早くから国学を志し、天保9年(1838年)、20歳の時に江戸へ出て平田篤胤に入門した。門下では多くの学者や志士と交流をした。鹿児島に戻ると、島津家の家督相続の内紛のお由羅騒動が勃発していた。 葛城は島津斉彬を推して、その弟の島津久光に対抗したため、身の危険を感じ、同志の相良藤次とともに脱藩し、斉彬の大叔父の福岡藩藩主黒田斉溥を頼り筑前国に逃れた。
中山 愛子(なかやま あいこ、文化14年11月23日(181… 中山 愛子(なかやま あいこ、文化14年11月23日(1817年12月30日) - 明治39年(1906年)1月27日)は、江戸時代末期から明治時代の女性。明治天皇の外祖母。 肥前国平戸藩主松浦清の11女として平戸に生まれる。母は側室の森氏。初名は千代姫、後に愛姫と改める。姉・季子の夫である園基茂の養女として中山忠能に嫁し、3男2女(忠愛・忠光・公董・栄子・慶子)を産んだ。 娘・慶子が孝明天皇に仕え、やがて愛子の孫にあたる皇子・祐宮睦仁親王(のちの明治天皇)を産むと4歳時までその養育を任された。のちに、曾孫・明宮嘉仁親王(のちの大正天皇)の養育にもあたっており、天皇2代の養育に関わったことになる。
小幡 高政(おばた たかまさ、1817年12月26日(文化1… 小幡 高政(おばた たかまさ、1817年12月26日(文化14年11月19日) - 1906年(明治39年)7月27日)は、幕末の長州藩士。明治時代の官吏。実業家。銀行家。宇都宮県参事、小倉県参事、同権令。諱は高政、通称は又介、蔵人、図書、彦七、雅号は缾山、并山。本姓は祖式。 長州藩士。祖式正良の子として周防国吉敷郡恒富村(山口県吉敷郡黒川村、平川村を経て、現山口市)に生まれ、1844年(弘化元年1月)小幡定一の養子となる。1850年(嘉永3年8月)家督を相続し、非常手当表番頭、1851年(嘉永4年)大組物頭弓頭役、1856年(安政3年)手廻物頭鉋砲頭役、1858年(安政5年)萩町奉行役、江戸留守居役などを歴任した。
左 行秀(さの ゆきひで、1813年12月17日(文化10年… 左 行秀(さの ゆきひで、1813年12月17日(文化10年11月25日) - 1887年(明治20年)3月5日)は、日本の江戸時代末期の刀鍛冶。新々刀の名匠。土佐正宗の異名を持つ幕末の土佐藩を代表する名工。作刀期は1840年(天保11年)~1870年(明治3年)。士族。 文化10年11月25日(1813年12月17日)、伊藤五佐衛門の次男として、筑前国上座郡朝倉星丸村(現・福岡県朝倉市)に生まれる。次男であったため、伊藤姓ではなく母方の伯父の姓である豊永氏を名乗った。諱は「信国」のち「行秀」、字は初め「久兵衛」と称し土佐藩召抱ののち「久左衛門」と改める。号は「東虎」。遠祖は南北朝時代の筑前左文字派の刀工で、自ら「左文字三十九代末孫」と称した。
加藤 千浪(かとう ちなみ、1810年12月15日(文化7年… 加藤 千浪(かとう ちなみ、1810年12月15日(文化7年11月19日) - 1877年(明治10年)11月18日)は、幕末から明治時代の国学者・歌人。通称は弥三郎または弥助。号は萩園。 陸奥国白河(現在の福島県白河市)にて加藤美方と母緑川氏の子として生まれる。幼少より勉学を好み、後に江戸に出て、岸本由豆流に国学を学ぶ。歌道や書に長けていたという。 明治維新後、歌人としての名声が高く、多くの門人を抱えた。この中には伊東祐命や中島歌子などがいる。1877年(明治10年)11月18日逝去。享年68歳。墓所は深川の臨川寺。妻は三宅氏で、子供はなく養子を関氏よりとった。 顕彰碑が向島区の牛嶋神社に建立された。
剣持 章行(けんもち あきゆき、旧字体: 劍持章行、1790… 剣持 章行(けんもち あきゆき、旧字体: 劍持章行、1790年12月8日(寛政2年11月3日)- 1871年7月27日(明治4年6月10日))は日本の数学者、和算家。諱は章行。字は成紀。号は豫山または任数堂。通称は要七。後半生は関東各地を遊歴し、香取、海上、印旛、匝瑳、常陸、武州等を中心に、約1000人の門弟を持った。 上野国吾妻郡沢渡(現在の群馬県中之条町)に生まれ、本業は農業。幼いころから数学を好んだ。小野榮重に師事し、1824年(文政7年)には「小野栄重門人 上毛吾妻郡澤渡邑 剣持要七郎章行」として清水寺(高崎市石原町)観音堂に算額を奉納している。1827年(文政10年)栄重から免許皆伝を与えられた。
月城 かなと(つきしろ かなと、12月31日 - )は、宝塚… 月城 かなと(つきしろ かなと、12月31日 - )は、宝塚歌劇団月組に所属する男役スター。
DEL(デル、12月31日 - )は日本のシンガーソングライ… DEL(デル、12月31日 - )は日本のシンガーソングライターである。早稲田大学卒業。2007年ビクターエンタテインメントよりメジャーデビュー。
麻木未穂(あさぎ みほ、12月29日 - )は日本の小説家。… 麻木未穂(あさぎ みほ、12月29日 - )は日本の小説家。京都府京都市出身。『黄金の魔女が棲む森』が第1回上半期トクマ・ノベルズEdge新人賞にて最優秀新人作品に選ばれ、デビュー。主にトクマ・ノベルズEdgeで活動し、詳細な調査に基づく歴史ファンタジーを得意とする。 徳間書店 トクマ・ノベルズEdge 幻冬舎コミックス 幻狼ファンタジアノベルス 三笠書房 f-Clan文庫 コスミック出版 コスミック文庫 KADOKAWA ジュエル文庫 KADOKAWA 富士見L文庫 朝日新聞出版 朝日エアロ文庫 プランタン出版 ティアラ文庫 コスミック出版 マリーローズ文庫 インフォレスト ジュリエット文庫 リブレ出版 乙蜜ミルキィ文庫 三交社 ガブリエラ文庫 メディアファクトリー フルール文庫ルージュライン アスキー・メディアワークス ジュエルブックス アスキー・メディアワークス ジュエル文庫 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
酒井 愛菜(さかい えな、 12月29日 - )は、信越放送… 酒井 愛菜(さかい えな、 12月29日 - )は、信越放送 (SBC) のアナウンサー。美人。 長野県松本市出身。2025年春に信越放送に入社し、中途入社の山崎航(元福井放送)とともに同局のアナウンサーになる。
華宮 あいり(はなみや あいり、12月28日 - )は、日本… 華宮 あいり(はなみや あいり、12月28日 - )は、日本の宝塚歌劇団卒業生(男役)。 沖縄県那覇市出身、沖縄県立那覇商業高等学校卒。血液型O型。愛称あいり。身長168cm。 t.a.p.-takarazuka angel project-のメンバー。 恋よりもっと 作詞:及川眠子、作曲:上野圭市、編曲:上野圭市 Groovy Dance 作詞:田島浩二、作曲/編曲:廣樹輝一My Evolution 作詞/作曲:田島浩二、編曲:廣樹輝一t.a.p. -Special Talk-
中桐 康介(なかぎり こうすけ、12月28日 - )は、西日… 中桐 康介(なかぎり こうすけ、12月28日 - )は、西日本放送の男性アナウンサー。
中島 千晶(なかしま ちあき、12月28日 - )は、岡山県… 中島 千晶(なかしま ちあき、12月28日 - )は、岡山県倉敷市出身のグループ トーキング・アイに所属するフリーアナウンサー。川崎医療福祉大学卒業。 歌手、モデル、女優の中島ちあきの本名(ただし、こちらは「なかじま」と読む)と一緒であるが、同姓同名の別人であり、まったく関係がない。 度々間違われるが中島の読みは「なかじま」ではなく、濁らずに「なかしま」である。この読み方を珍しがる人が多いが、彼女の出身地である岡山県を始め、中国地方・九州地方では多い姓である。同じく岡山県出身のテレビせとうちのアナウンサーの中島有香、鹿児島県出身の歌手の中島美嘉、福岡県出身のカンニングの中島忠幸、福岡県出身の野球選手の中島俊哉も同じく「なかしま」と読む。
竹内 葵(たけうち あおい、12月28日 - )は、日本の小… 竹内 葵(たけうち あおい、12月28日 - )は、日本の小説家・アニメ原作者・漫画原作者・音楽家。東京都出身。大東文化大学外国語学部卒業。コズミックレイ所属。 コズミックレイ代表取締役、ヴギィ’ズ・プロジェクト代表取締役。ミュージシャンとして活動する際は久藤 司(くどう つかさ)を名乗っている。本名は折田 哲郎(おりた てつろう)。 業界紙記者・音楽雑誌編集者・フリーライター、音楽プロモーター・アニメプロデューサー・音楽プロデューサー等を経て、現職。 久藤司・折田哲郎名義のものも含む。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
飛鳥 あると(あすか あると、12月28日 - )は、日本の… 飛鳥 あると(あすか あると、12月28日 - )は、日本の漫画家。岩手県一関市出身・在住(2023年時点)。やぎ座のO型。 1985年、なかよしの漫画賞に投稿しシルバー賞を受賞。1987年、第4回なかよし新人まんが賞佳作の『SOME DAY』でデビューする。 『ゴーガイ!岩手チャグチャグ新聞社』(講談社)は、岩手ならではのトピックを描き、岩手県内でも話題となった。 この項目は、漫画家・漫画原作者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:漫画/PJ漫画家)。
桜木 みなと(さくらぎ みなと、12月27日 - )は、宝塚… 桜木 みなと(さくらぎ みなと、12月27日 - )は、宝塚歌劇団宙組に所属する男役。宙組トップスター。 神奈川県横浜市、神奈川総合高等学校出身。身長170cm。愛称は「ずん」。 2007年、宝塚音楽学校入学。 2009年、音楽学校卒業後、宝塚歌劇団に95期生として入団。入団時の成績は12番。宙組公演「薔薇に降る雨/Amour それは…」で初舞台。その後、宙組に配属。 2014年、凰稀かなめ退団公演となる「白夜の誓い」で、新人公演初主演。 2015年、朝夏まなと・実咲凜音トップコンビ大劇場お披露目となる「王家に捧ぐ歌」で、2度目の新人公演主演。続く「相続人の肖像」でバウホール公演初主演。 2017年の「パーシャルタイムトラベル」で2度目のバウホール公演主演。