楠 宏(くすのき こう、1921年11月18日 - 2021… 楠 宏(くすのき こう、1921年11月18日 - 2021年2月10日 )は、日本の地球物理学者・地理学者・地球科学者である。専門は、雪氷学、両極地方の地誌。北海道釧路市出身。楠木正成の子孫にあたるという。父親は旧制一高東寮寮歌「嗚呼玉杯」「緑もぞ濃き」の作曲者楠正一(一高を中退後、石狩支庁農林技手。1945年没)。
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楠 宏(くすのき こう、1921年11月18日 - 2021… 楠 宏(くすのき こう、1921年11月18日 - 2021年2月10日 )は、日本の地球物理学者・地理学者・地球科学者である。専門は、雪氷学、両極地方の地誌。北海道釧路市出身。楠木正成の子孫にあたるという。父親は旧制一高東寮寮歌「嗚呼玉杯」「緑もぞ濃き」の作曲者楠正一(一高を中退後、石狩支庁農林技手。1945年没)。
石丸 久(いしまる ひさし、1921年10月31日 - 19… 石丸 久(いしまる ひさし、1921年10月31日 - 1999年12月26日)は、日本の近代文学者。早稲田大学講師、早稲田大学高等学院教諭、代々木ゼミナール講師。 北海道河東郡帯広町(現帯広市)に父・庄七と母・なほこの長男として生まれる。ヨーロッパでの生活経験があり英語・ドイツ語・フランス語に堪能。旧制千葉県立佐倉中学校、旧制静岡高等学校、旧制第二早稲田高等学院を経て、早稲田大学・および同大学院を卒業。大手大学受験予備校代々木ゼミナールの講師も務めた。後に早稲田大学教授。(石丸を「教授」としているのは小田原市の資料のみであり、他の資料では「講師」と記されている。要検証。) 2012年、夫人の希望によって、架蔵していた北原白秋の初版本60冊ほど(評価額150万円以上)が小田原市に寄贈された。
オーテス・ケーリ(Otis Cary、1921年10月20日… オーテス・ケーリ(Otis Cary、1921年10月20日 - 2006年4月14日)は、アメリカ合衆国の情報将校、教育者である。同志社大学名誉教授。オーティス・ケーリ、オティス・ケーリなどの表記もある。 1921年、北海道小樽市富岡町に生まれる。父フランク・ケーリ(1888年 – 1973年)は、宣教師、同志社理事。祖父は宣教師で同志社神学校教授、理事のオーテス・ケーリ(1851年 - 1932年)。 14歳でアメリカに帰国、アマースト大学に学び、日米開戦に入った1941年にアメリカ海軍日本語学校に入学。ドナルド・キーンは同級生だった。 1943年2月、海軍少尉となり真珠湾の陸海軍情報局に配属され、アリューシャン列島の作戦及びサイパン島の占領に参加。
久保 登喜夫(くぼ ときお、1921年10月2日 - 194… 久保 登喜夫(くぼ ときお、1921年10月2日 - 1945年4月28日)は、北海道小樽市出身の元スキージャンプ、ノルディック複合選手。大日本帝国海軍軍人。神風特別攻撃隊隊員として戦死した悲劇のジャンプ選手として有名である。 1921年10月2日に北海道小樽市で生まれた。実家近く(小樽市奥沢・眞栄地区)にゲレンデが多かった影響もあり、少年時代よりスキーの才能を開花させた。1935年に旧制小樽中学(現・北海道小樽潮陵高等学校)入学後は、校内にジャンプ台・山小屋風ヒュッテ・夜間照明など恵まれた環境を活かし、メキメキ実力を上げていった。そして4年生だった1939年の第17回全日本スキー選手権大会ノルディックスキー・スペシャルジャンプ少年の部で65.5m,60mのジャンプを見せ、総合点222.5の成績で優勝を果たした。
香木 正雄(こうき まさお、1921年8月26日 - 200… 香木 正雄(こうき まさお、1921年8月26日 - 2002年4月28日)は日本の実業家。日本製粉代表取締役社長や、同社取締役会長を務めた。 北海道小樽市出身。小樽高等商業学校(現小樽商科大学)卒業後、日本製粉入社。日本製粉専務取締役を経て、1985年から日本製粉代表取締役社長を務め、男女満60歳への定年延長や、国立市での食品部冷凍食品管埋センター開設などにあたった。1987年にはワタミフードサービス創業者渡邉美樹と面会するなどし、ワタミフードサービスへの出資を行った。 1992年、勲三等旭日中綬章を受章。2002年4月28日、心不全のため死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
幾瀬 勝彬(いくせ かつあき、1921年8月15日 - 19… 幾瀬 勝彬(いくせ かつあき、1921年8月15日 - 1995年4月21日)は、日本の小説家、推理作家。旧姓は長島。 北海道出身。札幌第二中学(現北海道札幌西高等学校)を経て、早稲田大学文学部国文科に入学。大東亜戦争の戦況拡大により繰り上げ卒業して、海軍飛行科予備学生となる。ラバウルで終戦を迎えて1946年に復員後はNHK、ニッポン放送に勤務。 1970年、長編「ベネトナーシュの矢」が第16回江戸川乱歩賞の最終候補となる(受賞作は大谷羊太郎の『殺意の演奏』)。これを改題した『死を呼ぶクイズ』を翌1971年に刊行。以後も、A・E・W・メースン、エラリー・クイーンなどの影響を受けた本格志向の作品を発表。
泊谷 裕夫(とまりや やすお、1921年(大正10年)8月1… 泊谷 裕夫(とまりや やすお、1921年(大正10年)8月10日 - 1991年(平成3年)10月5日)は、昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員。 北海道幌別郡、現在の登別市出身。1944年(昭和19年)日本国有鉄道札幌鉄道教習所運輸高等科を修了。 北海道大学医学部附属登別分院勤務、室蘭駅助役、副鉄道官補、運輸事務官、国鉄労働組合北海道地評議長、全北海道労働組合協議会議長、北海道交通運輸労働組合協議会議長、北海道産業教育審議会委員、北海道環境衛生適正化審議会委員、札幌陸運局自動車運送協議会委員、北海道開発審議会委員などを務めた。 1963年(昭和38年)11月の第30回衆議院議員総選挙で北海道第1区から日本社会党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
柴田つる子(しばた つるこ、1921年7月27日 - 199… 柴田つる子(しばた つるこ、1921年7月27日 - 1997年11月28日)は、日本の歌手。北海道函館市出身。本名、西谷ツル子。 函館実習高等女学校を卒業後、歌手の小林千代子に師事。その後、ムーランルージュ新宿座や日劇ダンシングチームで歌っていた。戦時中になると、活躍の場を奪われ退団。1946年(昭和21年)、戦後初めて行われた「コロムビア新人歌手募集」に合格。同期での合格者に岡本敦郎、津村謙がいた。同年5月、「港に灯りのともる頃」(藤浦洸作詞、平川英夫作曲)でデビュー、ヒットする。同時期に活躍していた、奈良光枝、池真理子と共に、コロムビア新人歌手の三羽烏と評された。 1954年(昭和29年)、結婚し引退。
寺尾 五郎(てらお ごろう、1921年〈大正10年〉7月4日… 寺尾 五郎(てらお ごろう、1921年〈大正10年〉7月4日 - 1999年〈平成11年〉8月21日)は、日本の社会運動家。 北海道室蘭市出身。1938年、早稲田大学文学部哲学科に入学後、共産主義運動に参加。1940年に治安維持法違反で検挙。 1943年に召集されるが、1945年に満洲のチチハル航空部隊で反戦活動を行ったかどで憲兵隊に拘束され、東京憲兵隊総本部へ送還。8月15日の敗戦の2日後、警視庁特高課に身柄移管され、治安維持法最後の被告となる。10月10日に豊多摩刑務所から出所し、以後日本共産党本部の専従活動家となる。 1950年にコミンフォルムの『日本の情勢について』をめぐる対立に巻き込まれて「国際派」として除名されるが、「国際派」と「所感派」の統一(日本共産党第6回全国協議会を参照)により5年後に復帰。
吉田 正己(よしだ まさみ、1921年6月26日 - 197… 吉田 正己(よしだ まさみ、1921年6月26日 - 1977年12月2日)は、ドイツ文学者。 北海道岩内郡共和町出身。浦和高等学校(旧制)卒、1948年東京帝国大学独文科卒。東京大学教養学部助教授、教授。1972年定年退官。 1977年12月2日、S字結腸癌のため死去。 フロイトなどを訳した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
宇佐美福生(うさみ ふくお、1921年(大正10年)6月10… 宇佐美福生(うさみ ふくお、1921年(大正10年)6月10日-1984年(昭和59年)6月2日)は、日本の政治家・俳人・市民運動家。北海道紋別郡生田原町出身。旧制北海道野付牛中学校(現、北海道北見北斗高等学校)を経て、早稲田大学政経学部卒業。北海道北見市長(1967年-1975年、2期)。 早稲田大学卒業後、市の職員として北見市立東陵中学校などの中学校教諭に就く。教師時代から、市民運動・住民運動に力を入れ、1956年(昭和31年)に北海道教職員組合北見市支部執行委員長に就き、その後、全北海道労働組合協議会副議長を歴任。1967年(昭和42年)北見市長選挙に出馬し現職の滝野啓次郎を破って革新系首長として初当選する。
相田 暢一(あいだ ちょういち、1921年5月19日 - 2… 相田 暢一(あいだ ちょういち、1921年5月19日 - 2012年4月17日)は、日本の元大学野球選手、アマチュア野球指導者、アマチュア野球審判員。1940年代から2010年代にかけてアマチュア野球の振興に尽力し、その功績が評価され野球殿堂入り(特別表彰)を果たした。 北海道小樽市出身。旧制小樽中学校(現在の北海道小樽潮陵高等学校)で投手としてマウンドに立ち、旧制中学校卒業後に早稲田大学に入学する。法学部で学ぶ傍ら、部活に打ち込んだが、肩を負傷したことをきっかけにマネジャーに転身する。 早稲田大学在学中の1943年、学徒出陣前に早大戸塚球場で行われた出陣学徒壮行早慶戦(いわゆる最後の早慶戦)の実現に奔走、当時の早稲田大学総長だった田中穂積など早大関係者を説得して回った。
吉田 善哉(よしだ ぜんや、1921年5月3日 - 1993… 吉田 善哉(よしだ ぜんや、1921年5月3日 - 1993年8月13日)は、競走馬の生産者。北海道札幌市出身。社台グループの創業者。 1921年、北海道月寒の畜産家・吉田善助(善助の父・善太郎の項を参照)の三男として生まれる。善助は酪農家として日本に初めてホルスタイン種の乳牛を導入した人物でもあり、1928年から白老町社台地区に2000haの土地を購入して社台牧場を開設し、サラブレッド生産に着手していた。善哉は1940年、空知農業学校畜産科を卒業後、社台牧場千葉富里分場の場長を任された。しかし同年より始まった太平洋戦争の戦況悪化と共に、従業員が次々と徴兵され、善哉はひとりで牧場を切り盛りすることを余儀なくされた。
能戸 清司(のと きよし、1921年3月13日 - 2014… 能戸 清司(のと きよし、1921年3月13日 - 2014年9月14日)は、日本の新聞記者、小説家。 北海道函館市生まれ。東京大学法学部政治学科卒業後、朝日新聞社入社。学芸部長、論説委員を歴任し、「天声人語」の執筆も担当した。記者のかたわら木戸織男のペンネームで小説も書き、1960年「夜は明けない」で第1回サンデー毎日小説賞第二席、第44回直木賞候補。1961年には「朝のたそがれ」で第13回文學界新人賞候補(能戸清司名義)。朝日新聞退社後、名古屋保健衛生大学(現・藤田医科大学)教授となる。
河原 敏明(かわはら としあき、1921年 - )は、日本の… 河原 敏明(かわはら としあき、1921年 - )は、日本の皇室ジャーナリスト。元拓殖大学客員教授。 北海道旭川市生まれ。1935年(昭和10年)、東京府東京市(現在の東京都)に移住。明治大学専門部経営学科と東京教育大学文学部史学聴講課程に学ぶ。『婦人倶楽部』(講談社)増刊のグラフ誌『皇族画報』や『華族画報』に親しんだことが皇室に興味を抱くきっかけとなる。 1955年(昭和30年)、伊馬春部とともに執筆した原案をもとに脚本家の金貝省三がストーリーを執筆、長谷川公之が脚本化した『皇太子の花嫁』を、新東宝が小森白を監督に製作、同年4月5日に公開した。1952年(昭和27年)ごろから皇室ジャーナリストを自称するようになり、「皇室秘話」とされるエピソードの類を数多く発表する。
江口 良友(えぐち よしとも、1921年(大正10年) - … 江口 良友(えぐち よしとも、1921年(大正10年) - 2010年)は、日本の工学者・農学者・元軍人。農学博士(北海道大学)。専門は、微生物工学。北海道におけるバイオ研究の大家。特定非営利活動法人北海道バイオ産業振興協会顧問。北海道大学名誉教授。静修短期大学元学長。北海道小樽市出身 1944年北海道帝国大学農学部卒。1944年赤紙で召集を受ける。1945年海軍技術中尉。終戦後は、北海道商工経済会主事、北海道農産化学工業研究主幹、武田薬品工業化成品研究所部長を経て、1972年(昭和47年)北海道大学農学部教授に就任(微生物工学を担当)。1985年北海道大学停年退官。同名誉教授。静修短期大学6代学長に就任。
藤岡 喜久男(ふじおか きくお、1921年(大正10年) -… 藤岡 喜久男(ふじおか きくお、1921年(大正10年) - 2012年(平成24年)9月10日)は、日本の歴史学者・教育者。北海学園大学名誉教授。 北海道深川市出身。庁立旭川中学校(現・北海道旭川東高等学校)を経て、1942年横浜高等商業学校(現・横浜国立大学経済学部)卒業。庁立深川中学校(現・北海道深川西高等学校)教諭。1949年北海道札幌西高等学校教諭。1952年北海道大学文学部東洋史学科卒業。1954年同大学院文学研究科修了。同文学部助手。同非常勤講師を経て、1958年北海道札幌星園高等学校教諭。1972年北海学園大学法学部の専任講師として就任。1974年同法学部教授。1996年北海学園大学退職。
慶伊 富長(けいい とみなが、1920年12月10日 - 2… 慶伊 富長(けいい とみなが、1920年12月10日 - 2007年9月20日)は、日本の化学者。東京工業大学(のちの東京科学大学)名誉教授。第4代沼津工業高等専門学校校長等を経て、東京工業大学先端科学技術大学院準備調査室長として北陸先端科学技術大学院大学設立にあたり、初代学長を務めた。元触媒学会会長。 北海道滝川市生まれ。1945年九州帝国大学理学部化学科卒業。1956年北海道大学理学博士。北海道大学助教授、東京工業大学(のちの東京科学大学)教授、東京理科大学教授を経て、1982年沼津工業高等専門学校校長。1985年豊橋技術科学大学参与。1988年東京工業大学先端科学技術大学院準備調査室長。1990年初代北陸先端科学技術大学院大学学長。
坂 坦道(さか たんどう、1920年(大正9年)11月6日 … 坂 坦道(さか たんどう、1920年(大正9年)11月6日 - 1998年(平成10年))は、日本の彫刻家。本名は青嵐(せいらん)。 北海道女子短期大学名誉教授。 1920年(大正9年)11月6日、石川県珠洲郡内浦町恋路で生まれた。父は油彩画家の坂寛二、祖父は日本画家の坂靄舟という画家一家で、坦道も当初は画家を目指した。しかし、色覚異常であったため彫刻の道に進んだ。1930年(昭和5年)小学校3年の時に父の死亡により、母とともに北海道札幌市に移住した。1938年(昭和13年)北海中学校(現在の北海高等学校)卒業。1939年(昭和14年)東京美術学校彫刻科に入学、在学中の1943年(昭和18年)新文展(のちの日展)に初入選した。
南部 明子(なんぶ あきこ、1920年 <大正9年> 11月… 南部 明子(なんぶ あきこ、1920年 <大正9年> 11月3日 - 1994年 <平成6年> 6月4日)は、北海道出身の家政教育者。光塩学園元理事長、光塩学園女子短期大学元学長。料理研究家。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 北海道の歴史と伝統、文化を基盤に、創造力豊かな人間形成と、より専門性をきわめる学問研究を目指す女子教育を使命とする光塩学園の発展に尽力した。 北海道のローカルフードとして、21世紀に入ってから全国でも有名となった「甘納豆入りお赤飯」は、南部明子が昭和20年代後半に考案し、TV等で紹介した料理。
沢田 誠一(澤田 誠一、さわだ せいいち、1920年9月18… 沢田 誠一(澤田 誠一、さわだ せいいち、1920年9月18日 - 2007年6月5日)は、日本の小説家。北海道を代表する文芸同人誌『札幌文学』『北方文芸』の編集人・発行人としても活躍。元・財団法人北海道文学館理事長。 1920年(大正9年)、北海道札幌郡豊平町大字平岸村(現・札幌市豊平区平岸)で、リンゴ農家を営み、同町の町会議員も務めた澤田清五郎の五男として生まれる。札幌商業学校(現・北海学園札幌高等学校)第16期卒。札商卒業の頃から作歌を開始し、1941年(昭和16年)に陸軍高射砲学校入学。高射砲学校卒業後は小樽、北千島などに赴任、敗戦時は埼玉県栗橋町の高射砲陣地の中隊長。1947年(昭和22年)に西尾廣子と結婚。
富田 朝彦(とみた ともひこ、1920年〈大正9年〉7月3日… 富田 朝彦(とみた ともひこ、1920年〈大正9年〉7月3日 - 2003年〈平成15年〉11月13日)は、日本の警察官僚。第3代宮内庁長官。位階は正三位。北海道出身。 函館中学、旧制二高を経て、昭和18年(1943年)東京帝国大学法学部を卒業後、海軍を志願し、同年9月30日海軍三校のひとつ海軍経理学校に入学。 1944年2月、同校を卒業し海軍主計科士官(主計科短期現役第10期)となる。最終階級は海軍主計大尉。 戦後、内務省に入省。大臣官房属。その後は警察庁に入り警視庁交通部長、警察庁長官官房長、警察庁警備局長を歴任する。警備局長時代の警察庁長官は後藤田正晴であさま山荘事件などを担当した。その後、警視庁副総監、内閣調査室長を経て、1974年(昭和49年)11月26日 宮内庁次長、1978年(昭和53年)宮内庁長官に就任した。
木野 工(きの たくみ、1920年(大正9年)6月15日 -… 木野 工(きの たくみ、1920年(大正9年)6月15日 - 2008年(平成20年)8月3日)は、日本の小説家。 北海道旭川市生まれ。旭川中学校(現・北海道旭川東高等学校)、北海道帝国大学工学部卒業。1943年に海軍予備学生として横須賀海兵団に入団。占守島派遣や内地転属を経て終戦を迎える。北海日日新聞創刊に参加し、新聞合併を経て北海タイムスの記者として勤務。文化部長や論説委員を務めた。その傍ら1949年より旭川の文芸同人誌「冬濤」に参加。1952年より同誌編集責任者を務めた。旭川市の郷土史研究書である『旭川今昔ばなし』も著した。
小栗 浩(おぐり ひろし、1920年5月22日 ‐ 2020… 小栗 浩(おぐり ひろし、1920年5月22日 ‐ 2020年10月10日)は、日本のドイツ文学者。文学博士(北海道大学・論文博士・1968年)。東北大学名誉教授。 北海道函館市生まれ。弟はフランス史学者の小栗了之。小樽中学校(4年修了)、弘前高等学校を経て、1941年東京帝国大学文学部独文科卒業。1946年、松本高等学校講師、教授。1948年、北海道大学法文学部助教授。1959年から1960年にかけてヨーロッパに留学し、1964年、北海道大学文学部教授。1968年、「「西東詩集」研究 その愛を中心として」により、文学博士(北海道大学)の学位を取得。1973年、東北大学教授、1984年定年退官、名誉教授、日本大学文理学部教授となり、1990年に定年退任。
吉葉山 潤之輔(よしばやま じゅんのすけ、1920年4月3日… 吉葉山 潤之輔(よしばやま じゅんのすけ、1920年4月3日 - 1977年11月26日)は、北海道厚田郡厚田村(現:石狩市)出身で高島部屋に所属した大相撲力士。第43代横綱。本名は池田 潤之輔(いけだ じゅんのすけ)。 1920年4月3日に、北海道厚田郡厚田村(現:石狩市)で裕福だった網元の家に三男として生まれる。幼少期から身体が大きく、網元を営んでいたことから家族全員が怪力だったが、潤之輔少年は特に体格も大きく、力も強かった。やがて不漁が3年続いた末に家業が倒産してしまったことで、高等小学校卒業後は北海道製糖へ就職したが、学歴が無いことで技術を習得しようと一念発起し、単身で上京した。夜行列車で上野駅へ到着すると二人の若い力士が迎えに来ており、なぜか高島部屋へ連れて行かれた。
安倍 治夫(あべ はるお、1920年4月2日 - 1999年… 安倍 治夫(あべ はるお、1920年4月2日 - 1999年8月16日)は、日本の弁護士、検察官。 1920年4月2日生まれ。北海道根室市出身。1943年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業。短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、同年9月、海軍経理学校に入学し、1944年3月に卒業して海軍主計中尉に任官。1945年3月、海軍主計大尉に昇進して終戦を迎えた。 1949年に東京大学法学部政治学科を卒業。 1951年に札幌地検検事となり、その後東京地方検察庁・法務省刑事局・福岡高等検察庁で検事職に従事した。この間に法務総合研究所教授・国連アジア極東犯罪防止研修所教授も務めた。ハーバード大学に留学して刑事学を専攻し、1953年に卒業。
久保 赳(くぼ たけし、1920年 <大正9年> 4月1日 … 久保 赳(くぼ たけし、1920年 <大正9年> 4月1日 - 2011年 <平成23年> 4月1日)は、日本の建設技官。初代建設省下水道部長や、日本下水道事業団理事長、日本下水道協会理事長を務め、日本の下水道行政の基礎を築いた。1994年には日本人として初めてストックホルム水賞を受賞した。勲二等瑞宝章受章。位階は正五位。 北海道夕張市生まれ。北海道庁立札幌第一中学校(現北海道札幌南高等学校)を経て、1944年北海道帝国大学工学部土木工学科卒業。満洲国政府高等官試補、神戸市復興本部を経て、建設省が発足した1948年に同省に入省し、水道課に配属された。建設省下水道課長を経て、初代建設省下水道部長や、日本下水道事業団理事長、日本下水道協会理事長を務め、流域下水道計画を推進し、長與專齋、關一、ウィリアム・K・バートン、中島鋭治らと並んで、日本の下水道事業を軌道に乗せた技術者と評された。
達ノ里 寿弥(だてのさと としや、1920年3月19日 - … 達ノ里 寿弥(だてのさと としや、1920年3月19日 - 没年不明)は、北海道夕張市出身の元大相撲力士。振分部屋→玉ノ井部屋→振分部屋所属。本名は工藤 寿弥(くどう としや)。最高位は西十両5枚目。得意技は投げ、捻り。 振分部屋に入門し、1936年1月場所に初土俵を踏む。1941年1月場所に十両に昇進。再十両の1943年5月場所に応召される。1946年11月場所に復帰するが、その後は十両の地位にあるも勝ち越すことなく1947年11月場所に27歳で廃業した。非常に柔軟な体格で足腰も良く、軽量だが投げや捻りを駆使した激しい取り口が持ち味のの相撲巧者であった。
森下 節(もりした せつ、1920年(大正9年)3月5日 -… 森下 節(もりした せつ、1920年(大正9年)3月5日 - 1984年(昭和59年)8月11日)は、日本の作家。北海道夕張市紅葉山生まれ。本名・裕(ゆたか)。新聞・雑誌記者をへて作家生活に入る。1962年(昭和37年)から文芸同人誌『藝文』主宰。全国同人雑誌協会副会長。中河与一に師事し、戦時中、中河が左翼作家のリストを情報局に流したというデマを平野謙が流したと指摘した(『ひとりぼっちの戦い』)。
引間 博愛(ひきま ひろよし、1920年3月1日 - 201… 引間 博愛(ひきま ひろよし、1920年3月1日 - 2011年12月3日)は、日本の労働運動家。元全国貨物自動車労働組合委員長、統一労組懇常任代表委員、全労連顧問。 北海道夕張市生まれ。高等小学校卒。大夕張鉱業購買会・東京貨物運送統制組合勤務を経て、戦後の1946年に神田運送で労組を結成。同年東京貨物運送労働組合(東貨労)本部役員。1954年、全国貨物自動車労働組合(全自労)委員長。1977年、全日本運輸一般労働組合(全自労の後身)委員長。 1980年、統一労組懇常任代表委員。同団体の中心人物として、1989年の全労連結成に大きな役割を果たした。以後、全労連顧問、全日本年金者組合委員長(初代)、全国革新懇・東京革新懇各代表世話人などを歴任した他、原水爆禁止運動にも尽力した。
川内 康範(かわうち こうはん、1920年〈大正9年〉2月2… 川内 康範(かわうち こうはん、1920年〈大正9年〉2月26日 - 2008年〈平成20年〉4月6日)は、日本の作詞家、脚本家、政治評論家、作家。本名は川内 潔(かわうち きよし)。北海道函館市出身。 1920年(大正9年)、函館市青柳町の日蓮宗住職の家に生まれた。実家は寺を持たず貧しい生活で、大森尋常小学校(現・大森浜小学校)を卒業後、様々な職業を転々とする。大都映画で大道具だった兄を頼って上京、新聞配達をしながら独学で文学修業を重ね日活のビリヤード場に就職、人脈を広げて日活の撮影所に入社する。 1941年(昭和16年)に東宝の演劇部へ入社。やがて撮影所の脚本部へ転属となり、特撮や人形劇映画を担当した。
木村 盛武(きむら もりたけ、1920年2月25日 - 20… 木村 盛武(きむら もりたけ、1920年2月25日 - 2019年9月6日)は、日本のノンフィクション作家。日本獣害史上最大の被害を出した三毛別羆事件の調査を行ったことで知られる。 北海道札幌市出身。父親は青森県出身で、東北地方や北海道で林務官を務めていた。幼少の頃から、父親や母方の伯父に日本史上最大の被害を出した獣害事件である三毛別羆事件のあらましを聞かされ、強烈な印象を記憶に留めていた。 1938年8月、北海道庁立小樽水産学校(現:北海道小樽水産高等学校)製造科在籍時、実習を行った幌筵島で1名が犠牲となった熊害事件で危うく助かった体験を持ち、以後熊に対する関心から逃れられなくなった。 1939年水産学校卒業後はタラバガニ検査の仕事に就いていたが、1941年に北海道庁林務講習第1種を修了し、父と同じ北海道庁林務官となった。
志村 和雄(しむら かずお、1920年2月22日 - 201… 志村 和雄(しむら かずお、1920年2月22日 - 2014年1月5日)は、日本の政治家・実業家。北海道小樽市出身。1943年北海道帝国大学農学部水産学科卒。地方公務員を経て、1975年から1987年まで北海道小樽市長を務めた。 1943年に日本化成工業に入社。まもなく徴兵され、終戦によって復員。北海道小樽水産高等学校教諭を経て、1951年小樽市役所に入る。1967年より同市役所助役を8年務める。助役として、新日本海フェリー就航や小樽駅前再開発事業に尽力した。 その後、小樽市役所を退職し、1975年小樽市長選に立候補し初当選。以後連続3期。市街地再開発派の市長であったが、在任中の1983年には小樽市歴史的建造物及び景観地区保全条例を制定。
吉野 トヨ子(よしの トヨこ、1920年(大正9年)2月12… 吉野 トヨ子(よしの トヨこ、1920年(大正9年)2月12日 - 2015年(平成27年)1月24日)は、日本の陸上競技選手。ヘルシンキオリンピック・メルボルンオリンピック陸上女子円盤投代表。元円盤投日本記録保持者、五種競技日本記録保持者。 北海道網走市出身。香蘭高等女学校(現在の香蘭女学校中等科・高等科)、中京高等女学校家事体操専攻科(現:至学館大学)卒業。 戦前はスプリンターとして活躍。1938年、マルチな身体能力を生かし五種競技で237点の日本新記録を樹立した。 戦後は投てきに転向し、円盤投と砲丸投に活躍。1950年、関東選手権で円盤投に出場し、42m58の日本新記録を樹立した。1951年アジア競技大会に出場し、円盤投・砲丸投・やり投で金メダルを獲得した。
小林 傭佶(こばやし ようきち、1920年(大正9年)1月3… 小林 傭佶(こばやし ようきち、1920年(大正9年)1月31日 - 1993年(平成5年)4月19日)は、日本の実業家・学校経営者。北海道古宇郡神恵内村生まれ。1942年(昭和17年)東京商科大学卒。「小林傭吉」「小林用吉」とも表記される。 三菱重工業勤務を経て、1946年(昭和21年)札幌文科専門学院教授。1949年(昭和24年)明和学園理事( - 1954年(昭和29年))。1950年(昭和25年)札幌短期大学商業科客員教授( - 1967年) 1957年(昭和32年)札幌日交タクシー社長。1959年(昭和34年)小樽日興交通社長。1960年(昭和35年)釧路日興交通社長。1961年(昭和36年)日交興業開発(後の小林企業)社長。
原 茂(はら しげる、1920年1月8日 - 2007年12… 原 茂(はら しげる、1920年1月8日 - 2007年12月23日)は、昭和から平成時代の労働運動家。日本炭鉱労働組合(炭労)委員長。 北海道夕張市生まれ。1935年夕張市鹿の谷高等小学校卒業。北海道の中小炭鉱に入り、兵役を経て、1944年北海道炭礦汽船平和鉱業所に入社。1946年平和炭鉱労組書記長、1947年同労組委員長。1950年北海道炭鉱汽船労働組合連合会(北炭労連)副委員長。1951年日本炭鉱労働組合(炭労)副委員長。1952年の破防法をめぐる炭労の左右対立では左派を代表する立場にたち、同年の炭労スト、1953年の三井炭鉱労連の「英雄なき113日の闘い」などを指導。1956年炭労委員長となり、1959年から1960年の三井三池闘争を指導したが、最終的に中労委の藤林斡旋案(会社は指名解雇を撤回し、該当者は自発的に退職する)を受諾して、炭労は敗北した。
中村 コウ(なかむら こう、1920年 - )は、陸上競技選… 中村 コウ(なかむら こう、1920年 - )は、陸上競技選手。1936年ベルリンオリンピック陸上女子円盤投代表。元円盤投日本選手権覇者。日本投擲界でオリンピックに初めて入賞を果たした名選手として知られる。 北海道釧路市出身。釧路市第三高等小学校、北海高等女学校の学生時代に1936年ベルリンオリンピック日本代表に選ばれる。 1935年、日本選手権で、35m90をマークして優勝、日本一になった。 1936年5月23日・24日のベルリンオリンピック参加の為の最終予選会で37m80を投げて優勝。2位の峰島秀と共にオリンピック出場。8月4日の女子円盤投で4位。 力投シーンは、記録映画『民族の祭典』に登場する。
桃野作次郎(ももの さくじろう、1919年11月20日 - … 桃野作次郎(ももの さくじろう、1919年11月20日 - 2014年9月26日)は、日本の農学者、農業経済学者、元技官官僚。学位は、農学博士(北海道大学)。専門は、テンサイ農業の経営および経済活動についての研究。北海道大学名誉教授。元北海学園北見大学学長・北海学園北見短期大学学長。渡邊侃門下。弟子は大谷俊昭。北海道生まれ。
みな子(みなこ、1919年〈大正8年〉11月20日 - 20… みな子(みなこ、1919年〈大正8年〉11月20日 - 2010年〈平成22年〉5月31日)は、日本の芸妓。本名、長尾 みつ(ながお みつ)。昭和初期から平成期まで、約80年にわたって芸妓としての活動を続けた。戦後も舞台やイベントでも活躍して、90歳で死去するまで生涯現役を貫き、吉原の文化と芸を世の中に伝え続けたことで、「最後の吉原芸者」と呼ばれた。吉原の伝統芸の継承にも熱心で、晩年は後進の育成や座敷芸の映像保存にも力を注いだ。没後は晩年の5年間の活動を記録したドキュメンタリー映画『最後の吉原芸者 四代目みな子姐さん』が公開され、日本国内外で好評を得た。 北海道當別村(後の当別町)で、6人弟妹(1男5女)の長女として誕生した。
不忍 鏡子(しのばず きょうこ、1919年10月29日 - … 不忍 鏡子(しのばず きょうこ、1919年10月29日 - 2008年5月23日[要出典])は、日本の女優である。戦後、不忍 郷子(しのばず きょうこ)とクレジットされた時期もあり、末期には本名の進藤 幸(しんどう こう)を名乗った。本名の読みを「さち」とするのは誤り。 1919年(大正8年)10月29日、北海道夕張郡夕張町(現在の夕張市)に生まれる。父の進藤誠三郎が鉄道省の技師であり、小学校時代だけでも、道内の釧路市、樺太庁豊原支庁豊栄郡落合町(現在のロシア連邦サハリン州ドリンスク)、東京府豊多摩郡大久保町(現在の東京都新宿区)と転校を繰り返した。1932年(昭和7年)3月、同町の大久保尋常高等小学校(現在の新宿区立大久保小学校)を卒業し、同年4月、当時角筈(現在の新宿区西新宿1丁目6番)にあった精華高等女学校(現在の東海大学付属市原望洋高等学校)に進学する。
武田弘道(たけだ・ひろみち、1919年9月 - 1984年6… 武田弘道(たけだ・ひろみち、1919年9月 - 1984年6月)は日本の哲学者、論理学者。北海道旭川市生まれ。 戦後の哲学界に分析哲学と記号論理学を紹介した第一世代の一人。カール・ポパーの主著で浩瀚なる『自由社会の哲学とその論敵』を翻訳出版して(1963年、1973年)令名を高める。海外の哲学者との交友も多く、学会では海外研究者の講演のときには、通訳をした。 三宅剛一の言葉「多く考え、少なく書け」を地でいった人であった。 武田ひろ子編『会議は踊る・ただひとたびの――武田弘道追悼集』ミネルヴァ書房、1985年
3代 地崎 宇三郎(ちざき うさぶろう、1919年7月21日… 3代 地崎 宇三郎(ちざき うさぶろう、1919年7月21日 - 1987年11月11日)は、日本の政治家、実業家。旧名は九一。北海道札幌市出身。旧制小樽中学卒業、立命館大学経済学部中退。 3代目地崎宇三郎は、かつて北海道を代表するゼネコンであった地崎工業の前身、株式会社地崎組の3代目社主(オーナー社長)。1943年に父の2代目宇三郎から地崎組社長を継承し、1973年に地崎工業と改称、1981年に長男の地崎昭宇に社長の座を譲った。 父の公職追放直後の1947年の第23回衆議院議員総選挙に立候補するも選挙戦途中で辞退。1963年、第30回衆議院議員総選挙に旧北海道1区より立候補し、初当選。当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・藤尾正行・佐藤孝行・中川一郎・三原朝雄・西岡武夫・鯨岡兵輔・奥野誠亮など。
小鳥 サワ(ことり サワ、1919年〈大正8年〉6月8日 -… 小鳥 サワ(ことり サワ、1919年〈大正8年〉6月8日 - 2007年〈平成19年〉5月10日)は、日本のアイヌ文化伝承者。阿寒アイヌ民族文化保存会の礎を築いた人物の1人であり、同会や阿寒アイヌ語教室で、長年にわたって指導者として活躍した。テレビの料理番組を通じてのアイヌ文化の紹介や、後進の育成にも貢献した。 北海道の阿寒湖畔で誕生した。家は貧しく、子供の頃から母を助け、家で作った菓子を売り歩くなどして働いた。阿寒湖畔小学校に入学後、アイヌであることを理由にいじめに遭うが、いじめられてもやり返す、勝気な性格であった。19歳で結婚、1943年(昭和18年)に夫の出稼ぎで樺太に渡った。翌1944年(昭和19年)には常呂町(現・北見市)に移り、戦後しばらくは弟子屈町で暮らしていた。
田中 秀穂(たなか ひでほ、1919年5月17日 - )は、… 田中 秀穂(たなか ひでほ、1919年5月17日 - )は、日本の外交官。外務省中近東アフリカ局長、在フィリピン特命全権大使等を務めた。1993年4月勲二等旭日重光章受章。 北海道札幌市出身。北海道庁立札幌第二中学校(現北海道札幌西高等学校)を経て、1943年旧制東京商科大学(一橋大学の前身)を卒業し、外務省入省。 1974年にパレスチナゲリラ及び日本赤軍の和光晴生と山田義昭の混成部隊が、シンガポール沖にあったシェル石油傘下のシンガポール・イースタン・ペトローリアム社ブクム島製油所を爆破し、警官隊と銃撃戦を展開、さらにその6日後、パレスチナ解放人民戦線が在クウェート日本大使館を占拠、石川良孝(大使)らを人質にして、和光らを送還し南イエメンへ脱出させることを日本政府に要求した事件(シンガポール・クウェート事件)に、中近東アフリカ局長として対応にあたり、人質解放後、日本政府が派遣した特別機に、犯人グループが南イエメンのアデンに脱出するまで人質の身代わりとして同乗した。
大木 英子(おおき ひでこ、1919年5月10日 - 200… 大木 英子(おおき ひでこ、1919年5月10日 - 2008年8月3日)は、日本の作曲家である。北海道小樽市出身。日本現代音楽協会会員。夫は大木正夫。旧姓:谷藤。 小樽高等女学校を経て、帝国高等音楽院ピアノ科を卒業。マリオ・パッチにピアノを、夫の大木正夫に作曲を師事する。 1956年に『ピアノ協奏曲第1番』が日本放送協会の芸術祭管弦楽部門に入選する。1957年には、上田仁指揮による東京交響楽団の日本人作曲家の作品初演シリーズで『雪のふるさと』が演奏された。1958年にピアノ作品発表会を開いている。この時期には、1958年の『ピアノと電子音響による協奏的四章』(ラジオ東京で放送された)や「ピアノソナタ」などの作品がある。
中西 関松(なかにし せきまつ、1919年3月14日 - 1… 中西 関松(なかにし せきまつ、1919年3月14日 - 1990年1月9日)は、ばんえい競馬の元騎手・調教師。 北海道新十津川村の農家・中西岩吉の第6子として生まれる。中西家では第一子の長男が早世しその後女子の誕生が連続していたことから事実上の長男となる。子供時代から馬に親しみ近隣のばん馬大会に出場しており、13歳から荷馬車の馬追いや家畜商を行い、太平洋戦争中は中国大陸に出征、腹部に銃弾を受けるも腸を傷つけなかったことにより事なきを得て、また腸チフスにも罹患するも一命を取り留める。 1944年に復員し故郷で稲作や林業に従事したのち、終戦後は滝川町に移り林業や運搬作業に従事する傍ら草ばん馬大会に積極的に参加する。
大宮 守人(おおみや もりと、1919年2月13日 - 20… 大宮 守人(おおみや もりと、1919年2月13日 - 2000年4月29日)は、日本の料理人。ラーメン店『味の三平』初代店主。 札幌の味噌ラーメンの発明者。 北海道旭川市出身。戦前 - 戦中は南満州鉄道に機関士として勤務し、戦後の1948年(昭和23年)より札幌でつぶ貝とうどんを出す屋台を始めた。隣には後に有名なラーメン店『龍鳳』を出す松田勘七が、ラーメンの屋台を出して繁盛していた。松田の薦めもあり、大宮も松田の店での修業を経て、1950年(昭和25年)には札幌市中央区南7条西3丁目のすすきのに『味の三平』を開店。同じ敷地に同じ頃、松田も『龍鳳』を始める。 その後大宮は、雑誌『リーダーズ・ダイジェスト』に掲載された、スイスの食品メーカー・マギー社の社長の文章を目にして衝撃を受ける。
高橋 英夫(たかはし ひでお、1919年1月3日 - 201… 高橋 英夫(たかはし ひでお、1919年1月3日 - 2013年8月9日)は、日本の元騎手(中山競馬倶楽部、日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会)、元調教師(日本中央競馬会)。義父の鈴木信太郎は元調教師(日本競馬会、国営競馬、日本中央競馬会)次男の高橋祥泰は元調教師(日本中央競馬会〈JRA〉)。北海道上川郡屈足村(現・新得町)出身。 実家は農家で農耕馬の繁殖も手掛けていたため、幼少期から馬に親しんで育った。 1935年に上京して中山競馬場の函館孫作に入門。翌1937年春に騎手免許を取得し、同年秋に騎手デビュー。太平洋戦争中は徴兵されて室蘭に配属され、終戦後競馬界に復帰。当時函館が調教師を引退していたため、はじめは東京競馬場の藤本冨良厩舎に所属したが、結婚したのを機に中山競馬場の鈴木信太郎厩舎に移籍した。
伏見 五郎(ふしみ ごろう、1919年 - 1945年5月)… 伏見 五郎(ふしみ ごろう、1919年 - 1945年5月)は、北海道函館市出身のプロ野球選手。ポジションは捕手。 父は函館太洋倶楽部で活躍した伏見勇蔵。函館中卒業後、1937年にイーグルスに入団する。1939年、バッキー・ハリスの退団に伴い正捕手になるが、この年限りで退団、函館太洋倶楽部に入団する。試合中に送球を受けて死亡した久慈次郎に代わって、函館太洋倶楽部でも正捕手になった。翌1940年には、全道樺太実業団野球大会(前年に久慈が試合中に送球を受けて死亡したため、この年の大会が最後の大会〈第18回〉になった。)で、この年の都市対抗野球大会に北海道代表として出場した全旭川と延長27回の大熱戦を繰り広げた際には、捕手として出場し、3-2での勝利に貢献した。
大久保 正(おおくぼ ただし、1919年 - 1980年9月… 大久保 正(おおくぼ ただし、1919年 - 1980年9月)は、日本の国文学者、万葉学者。上代文学が専門。 1943年、東京帝国大学国文科卒。東京外国語大学助教授、北海道大学教授、国文学研究資料館教授。在職中に逝去。