多田 光雄(ただ みつお、1918年11月19日 - 198… 多田 光雄(ただ みつお、1918年11月19日 - 1987年3月26日)は日本の政治家。 元衆議院議員(日本共産党公認、通算2期)。日本共産党北海道副委員長、道平和委員会副会長、道原水協副委員長、日朝協会道副会長などを歴任した。 北海道空知郡上砂川町生まれ。1942年、東京帝国大学文学部英文科を卒業。その後、旧陸軍の樺太山砲隊に入隊した。戦後はシベリアに抑留される。1947年12月に帰国した。ソ連から帰国後の1948年、日本共産党へ入党。美唄、留萌の各地区委員長、道委員会常任委員などを歴任した。1972年の衆院選で北海道1区から出馬し初当選を果たした。1976年の衆院選では次点に終わる。1979年の衆院選で返り咲きを果たす。
西堀 正弘(にしぼり まさひろ、1918年11月14日 - … 西堀 正弘(にしぼり まさひろ、1918年11月14日 - 2006年7月1日)は、日本の外交官。外務省国際連合局長や、EC大使、国連大使を務めた。1991年勲一等瑞宝章受章、2006年叙正三位。 北海道函館市出身。旧制横浜高等商業学校(横浜国立大学経済学部の前身)を経て、旧制東京商科大学(一橋大学の前身)入学。大学では井藤半彌ゼミナールに所属。 大学在学中の1940年に外交官及領事官試験に合格。しかし成績が悪いのでは出世ができないと考え、翌年の再受験を考えていたところ、門脇季光人事課長(のちに駐ソ連大使)から、外務省では試験の成績は関係ないので、一刻も早く入省すべきだとの助言を受け、1941年外務省入省。
村上 茂利(むらかみ しげとし、1918年11月9日 - 1… 村上 茂利(むらかみ しげとし、1918年11月9日 - 1989年11月20日)は、日本の政治家。自由民主党所属衆議院議員(3期)。福田派。
中道昌喜(なかみち まさよし、1918年10月27日 - 2… 中道昌喜(なかみち まさよし、1918年10月27日 - 2007年1月15日)は、日本の実業家。中道機械株式会社および中道リース株式会社の創業者。 北海道函館市出身。後に北海道夕張市に移住し、幼少期を夕張で過ごした。夕張市立夕張第二小学校卒業。北海中学校を卒業する。 1945年機械販売と製作の中道兄弟商店を札幌に設立する。1950年1月19日株式会社に改組し、社名を中道兄弟機械株式会社と改称する。さらに、1963年1月社名を中道機械株式会社と改称。同社代表取締役社長。1963年札幌証券取引所に上場。1972年1月中道リース株式会社を設立し、リース部門に進出。同社代表取締役社長に就任。1985年中道リース代表取締役会長に就任。
石田 孝(いしだ たかし、1918年〈大正7年〉10月15日… 石田 孝(いしだ たかし、1918年〈大正7年〉10月15日 ‐ 1987年〈昭和62年〉)は、日本の政治家。北海道浜頓別町長(1980年 ‐ 1987年)。 北海道枝幸郡頓別村出身。北海道庁立旭川商業学校卒業。戦時中は徴兵により戦地に赴く。復員後、1947年に頓別村村議会議員に初当選。以後、浜頓別町制に移行後も当選を続け、連続8期32年務める。この間、1962年(昭和37年)から1979年(昭和54年)まで浜頓別町議会議長や1962年(昭和37年)から1980年(昭和55年)まで浜頓別町商工会長、1970年(昭和45年)から1980年(昭和55年)まで北海道商工会連合会副会長を務めた。同年、町長が参院選立候補のため辞職したのに伴い実施された町長選に立候補し、前町長の後継者とされた前助役を破って、初当選を果たした。
北 二郎(きた じろう、1918年9月13日 - 1950年… 北 二郎(きた じろう、1918年9月13日 - 1950年1月29日)は、日本の政治家、農業経営者。父は衆議院議員を4期、参議院議員を1期務めた北勝太郎。弟に北海道開発庁長官・開発庁長官を務めた北修二、奈井江町長の北良治がいる。 北海道空知郡奈井江村生まれ。1937年旧制北海道庁立岩見沢中学校(現・北海道岩見沢東高等学校)卒業。酪農義塾(現・酪農学園大学)、町村農場で農業・畜産を修得し、その後農業を営む。奈井江村酪農振興会会長。 父・勝太郎が第二次世界大戦後公職追放されると、その身代わりとして1947年の第23回衆議院議員総選挙において北海道4区から立候補し初当選。政界に入り、日本農民党・農民新党・農民協同党に所属した。
佐山 俊二(さやま しゅんじ、1918年9月13日 - 19… 佐山 俊二(さやま しゅんじ、1918年9月13日 - 1984年1月30日)は、日本のコメディアンであり俳優である。本名は中江 勇(なかえ いさむ)。 1918年(大正7年)9月13日、北海道登別市に中江勇として生まれる。兄は劇作家の中江良夫である。室蘭市の旧制・室蘭尋常高等小学校(現在の室蘭市立本室蘭小学校)を卒業する。 その後上京して、20歳になる1938年(昭和13年)に初舞台、1943年(昭和18年)、25歳になる頃「佐山俊二一座」を旗揚げ、1944年(昭和19年)に「劇団新生座」を旗揚げした。 第二次世界大戦の終結後、八波むと志とあらいやだコンビを結成した。浅草・フランス座で人気を博す。
松尾 英男(まつお ひでお、1918年8月30日 - 199… 松尾 英男(まつお ひでお、1918年8月30日 - 1998年4月3日)は、日本の実業家。 元東急不動産社長、東急ハンズ社長、東京急行電鉄専務。 北海道札幌市出身。小学校卒業後、母親の再婚で東京に移る。1942年慶應義塾大学経済学部を卒業し、戦後の1946年に東京急行電鉄に入社。1953年に東急不動産に出向し、田園都市部長・常務・専務などを経て、1978年社長に就任し、のち会長となる。同社を総合ディベロッパーに育てあげ、「中興の祖」と呼ばれた。さらに1976年に東急ハンズの設立に関わり、初代社長を務める。また、この間東京急行電鉄取締役・専務なども歴任し、東急グループの重鎮として活躍した。
佐々木 喜美子(ささき きみこ、1918年(大正7年)8月9… 佐々木 喜美子(ささき きみこ、1918年(大正7年)8月9日 - 2009年(平成21年)11月8日、旧姓:前田喜美子)は、日本の植物生理学、植物分子生物学者、教育者。北海道大学教授を務めた。 北海道庁立旭川高等女学校(現・北海道旭川西高等学校)を卒業後、北海道帝国大学農学部水産学科の白浜潔教授の副手となる[要出典]。1943年(昭和18年)に北海道帝国大学農学部水産学科(化学専攻)に入学した山西貞(てい)(お茶の水女子大学名誉教授)の研究への情熱に触発され研究生活への夢がふくらみ、1944年(昭和19年)10月に北海道帝国大学理学部植物学科に入学した。同学科植物第1講座(植物生理学)の坂村徹教授の指導で卒業研究「ハンゼヌラ・アノマーラの硝酸代謝とモリブデンの役割」に取り組む。
石田 達郎(いしだ たつろう、1918年(大正7年)7月18… 石田 達郎(いしだ たつろう、1918年(大正7年)7月18日 - 1990年(平成2年)7月19日)は、日本の実業家。ニッポン放送・フジテレビジョン社長を務めた。北海道札幌市出身。 札幌一中(現:北海道札幌南高等学校)、慶應義塾大学経済学部を卒業。 鐘淵紡績、映画プロデューサーを経て、1954年(昭和29年)ニッポン放送に入社。74年社長、85年相談役。この間、フジテレビ社長、産経新聞代表取締役を兼任したほか、パシフィック音楽出版(PMP、現:フジパシフィックミュージック)、ポニー、キャニオンレコード(現:ポニーキャニオン)、ディノス(現:DINOS CORPORATION)といった、フジサンケイグループで非放送・新聞事業の中核となる企業を設立した。
塚田 庄平(つかだ しょうへい、1918年6月25日 - 1… 塚田 庄平(つかだ しょうへい、1918年6月25日 - 1991年3月20日)は日本の政治家。日本社会党(以下、社会党)における炭鉱労組出身政治家として北海道議会議員(4期)や道議会副議長、衆議院議員(4期)を歴任した。 1918年(大正7年)6月25日、北海道浦河郡浦河町に生まれる。1942年(昭和17年)に東京帝国大学法学部を卒業後、北海道炭礦汽船(北炭)に入社した。その後水戸航空通信学校に入校。戦後は北炭職員組合連合会(北炭職連)委員長、全日本石炭労働組合(全石炭)副委員長を務めた。北炭職連委員長在任中の1950年(昭和25年)6月に行われた第2回参議院議員通常選挙に民主戦線候補として立候補したが、15名中9位で落選した。
佐藤 勇(さとう いさむ、1918年3月13日 - 1999… 佐藤 勇(さとう いさむ、1918年3月13日 - 1999年4月14日)は、日本競馬会、国営競馬および日本中央競馬会に所属した騎手、調教師。騎手時代には八大競走で3勝、中央競馬史上初めての通算500勝を記録した。調教師転身後も1975年に全国リーディングトレーナー(年間最多勝利調教師)を獲得、天皇賞(春)優勝馬ヒカルポーラ、東京優駿(日本ダービー)優勝馬オペックホースなどを管理し、通算1074勝を挙げた。騎手500勝・調教師1000勝は中央競馬史上唯一の記録である。 1933年、北海道上川郡士別町(現・士別市)に、小作農の長男として生まれる。少年期は教師を志していたが、家計の逼迫から学業を断念。
佐藤 正之(さとう まさゆき、1918年2月28日 - 19… 佐藤 正之(さとう まさゆき、1918年2月28日 - 1996年12月16日)は、日本の演劇・映画プロデューサー。妻は女優の菅井きん。北海道小樽市生まれ。 明治学院大学卒業。1942年、満州映画協会脚本部に入社後、現地で応召。シベリア抑留後の1948年に帰国。 1948年俳優座に入団、主に舞台や映画の企画、製作に携わる。映画部長となり、仲代達矢を育てる。1968年俳優座映画放送設立とともに社長に就任。俳優座映画放送は1985年、俳優座から独立し「仕事」に社名を変更した。 1991年、日本映画テレビプロデューサー協会会長となる。 代表作に、佐分利信監督「広場の孤独」、森川時久監督「若者たち」、小林正樹監督「いのちぼうにふろう」、野村芳太郎監督「砂の器」、村野鐵太郎監督「月山」、五社英雄監督「鬼龍院花子の生涯」、「陽暉楼(企画)」、熊井啓監督「深い河」など。
早川 泰正(はやかわ やすまさ、1918年1月21日 - 2… 早川 泰正(はやかわ やすまさ、1918年1月21日 - 2010年12月26日)は、日本の経済学者。北海道大学名誉教授。第5代千葉商科大学学長。 北海道札幌市生まれ。1935年札幌第一中学校(現北海道札幌南高等学校)卒業。1941年東京商科大学(現一橋大学)卒業。杉本栄一ゼミ出身。同年末永隆甫とともに企画院嘱託となる。同年東京商科大学経済研究所員。1947年北海道大学法文学部助教授。1957年北海道大学経済学部教授。1960年理論・計量経済学会理事。1961年北海道同大学経済学博士。1965年北海道大学経済学部長。1968年北海道地方労働委員会公益委員、北海道開発委員会委員。1969年北海道地方最低賃金審議会委員。
樫木 実(かしき みのる、1918年(大正7年)1月14日 … 樫木 実(かしき みのる、1918年(大正7年)1月14日 - 2014年(平成26年)1月6日)は、昭和から平成時代の政治家。北海道士別市長。位階は従四位。旭日小綬章受章。 北海道上川郡士別町(現士別市)出身。多寄尋常高等小学校高等科卒業。農業に従事する傍ら澱粉工場を経営した。1951年(昭和26年)多寄村議会議員に当選し、1954年(昭和29年)合併により士別市議会議員となる。1966年(昭和41年)市議に返り咲き、以後6期当選。1974年(昭和49年)同副議長、1986年(昭和61年)議長を歴任した。1990年(平成2年)士別市長に当選し、2期務めた。1999年春の叙勲で旭日小綬章を受章。
山田 基博(やまだ もとひろ、1918年 - 2012年)は… 山田 基博(やまだ もとひろ、1918年 - 2012年)は日本の技術者。 累計1万台以上の山田風車が製造され、北海道はもとより、国内外の各地に設置されたが、各地の電化が進むにつれて、1960年代にはその役割を終えた。この数はウィンドファームが設置されている現在の日本国内での設置台数よりも多い。数々の特許を取得した。風トピアで実験の結果、弱風から発電を開始して、強風では独特の構造で風を避け、発電効率が高く、耐久性にも優れ、輸入機より高性能であることが実証された。当時製造された風力発電機は現在の基準でも遜色ない水準で費用対効果に優れていた。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
矢野 幸夫(やの ゆきお、1917年12月22日 - 200… 矢野 幸夫(やの ゆきお、1917年12月22日 - 2004年5月17日)は日本の競馬の騎手、調教師、および整体師。 北海道静内郡静内町(現・日高郡新ひだか町)出身。実家は軍馬を生産する牧場だった。 1930年、中山競馬場・東原玉造厩舎所属の見習騎手となり、1933年に騎手免許を取得。日本競馬会時代の1941年には優秀騎手として表彰され、国営競馬時代の1951年には最高技能賞を受賞している。 1952年に調教師免許を取得し、その後中山競馬場で厩舎を開業。1978年、美浦トレーニングセンター開設に伴い移転。1994年2月をもって定年引退するまでの間に通算1060勝を挙げた。同年2月27日に中山競馬場で引退式が行われ、代表してファンに挨拶を行った。
日川 キヨ(ひかわ キヨ、1917年〈大正6年〉11月5日 … 日川 キヨ(ひかわ キヨ、1917年〈大正6年〉11月5日 - 2012年〈平成24年〉1月19日)は、日本のアイヌ文化伝承者。北海道釧路出身。北海道の阿寒湖畔で開催されている「まりも祭り」への出席や、アイヌの歌や舞踊の伝承により、アイヌ文化の伝承に貢献した。 北海道釧路春採で誕生した。アイヌ伝承者の日川善次郎と結婚後、夫と共に、1950年(昭和25年)から阿寒湖畔で開催されている「まりも祭り」に毎年出席し、若い世代に歌や踊りを指導した。まりも祭りでは、先頭に立って指導し、伝統食の作り方も伝えた。阿寒のアイヌ文化伝承者である佐々木宮子(第24回アイヌ文化奨励賞受賞者)も、キヨに教えを受けた1人である。
有坂 隆祐(ありさか りゅうすけ 「たかひろ」とも、1917… 有坂 隆祐(ありさか りゅうすけ 「たかひろ」とも、1917年9月15日 - 1986年11月27日)は、東京府出身の男性フィギュアスケート選手、指導者。戦前から戦後にかけて全日本選手権を5度優勝した。明治大学卒。 幼時に北海道札幌市に移る。小学校4年の時にスケートを始め、札幌商業学校入学後に、アイスホッケーからフィギュアに転向。その後北海中学に移り、有望選手として注目される。1935年明治大学に入学し、1935-1936年シーズンの全日本フィギュアスケートジュニア選手権で優勝するが、翌年右足首を骨折する。その後再起し、1939-1940年シーズンに全日本選手権で初優勝。以後、戦時中止を挟みながらも、全日本選手権で4連覇し、1950-1951年シーズンの全日本選手権では5度目の優勝を果たした。
岩下 光男(いわした みつお、1917年(大正6年)8月19… 岩下 光男(いわした みつお、1917年(大正6年)8月19日 - 2002年(平成14年)4月13日)は、日本の工学者(海洋工学)。魚群探知機の改良型の開発者。元北海道東海大学学長補佐。北海道山越郡長万部町出身。 1936年(昭和11年)東京電機学校電気科卒業。同年、東北帝国大学電気通信研究所助手。1946年(昭和21年)電波科学専門学校助教授。1950年(昭和25年)4月東海大学工学部助教授。1959年(昭和34年)同工学部教授。1962年同海洋学部教授。1974年(昭和49年)同海洋学部長。1976年(昭和51年)同海洋研究所長。後に同海洋科学博物館長。1985年(昭和60年)北海道東海大学工学部教授。
佐藤 平七(さとう へいしち、1917年7月15日 - )は… 佐藤 平七(さとう へいしち、1917年7月15日 - )は、北海道函館市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
斜里錦 菊三(しゃりにしき きくぞう、1917年7月12日 … 斜里錦 菊三(しゃりにしき きくぞう、1917年7月12日 - 1950年1月22日)は、北海道斜里郡斜里町出身で二所ノ関部屋に所属した大相撲力士。本名は京堂 菊三(きょうどう きくぞう)。最高位は西前頭18枚目(1943年1月場所)。現役時代の体格は173cm、102kg。得意手は右四つ、押し。 18歳の時に上京し、二所ノ関部屋へ入門。1936年1月場所で初土俵を踏んだ。 入門時から最初の師匠である横綱・玉錦に期待され(四股名は、出身地の斜里郡斜里町と師匠の四股名に由来)、1936年5月場所で序ノ口に付いてから勝ち越しを続け、1939年1月場所で新十両に昇進した。ところがその場所直前に応召され、約3年の期間を経て1942年1月場所より角界に復帰した。
浅井 淑子(あざい よしこ、1917年7月4日 - 1980… 浅井 淑子(あざい よしこ、1917年7月4日 - 1980年1月4日)は、教育者、服飾研究家、学校法人浅井学園元学園長、専門学校北海道ドレスメーカー学院初代院長、北翔大学の前身にあたる北海道女子短期大学創立者。 北海道札幌市生まれ。叔父を頼って上京し、1934年、東京国華高等女学校卒業。その後、東京女子医学専門学校に合格するも、両親に反対されて女医の道を断念。生家の家事を手伝いながら学費を貯め、1937年再上京して、1939年杉野ドレスメーカー女学院師範科卒業。同年9月、洋裁教育を通じて女子の教養を高め、専門的技術修得によって女子に経済的独立の能力を習得させることを目的として、各種学校「北海ドレスメーカ一女学園」を創設した。
田中 正巳(たなか まさみ、1917年6月12日 - 200… 田中 正巳(たなか まさみ、1917年6月12日 - 2005年8月5日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員、参議院議員。北海道出身。正三位勲一等旭日大綬章。 函館中学、官立新潟高等学校を経て東京帝国大学法学部卒業。1955年、第27回衆議院議員総選挙に初当選(旧北海道3区)。1974年、三木武夫内閣の厚生大臣として初入閣。衆議院予算委員長に就任したが、1979年の第35回衆議院議員総選挙で落選し、1980年に参議院全国区に転出。1992年まで2期務めた。 1987年、勲一等旭日大綬章受章。 2005年8月5日、肝臓癌のため東京都北区の病院で死去。享年88。
亘理 厚(わたり あつし、1917年5月13日 - 1983… 亘理 厚(わたり あつし、1917年5月13日 - 1983年1月24日)は、日本の機械工学者。東京大学名誉教授。自動車の振動・騒音研究の祖である。陸軍では技術大尉となる。 宮城県出身。1935年、函館中学校(現北海道函館中部高等学校)、1938年、第二高等学校理科を卒業。 陸軍航空技術研究所の所属時には、中西不二夫の指導を受け、星形エンジンのピストンの運動について研究した。その後、クランク軸のねじり振動防止のための摩擦ダンパの研究を行った。 戦後は航空機関連の研究が禁止されてしまったため、紡績用スピンドルの高速回転化を目指し、スピンドルの触れ回り運動の研究を行った。これにより工学博士の学位を得た。
斎藤 忍随(さいとう にんずい、1917年5月6日 - 19… 斎藤 忍随(さいとう にんずい、1917年5月6日 - 1986年1月21日)は、日本の哲学者、西洋古典学者(古代ギリシア哲学)。東京大学文学部名誉教授。 北海道宗谷支庁枝幸郡中頓別町に生まれる、生家は曹洞宗開禅寺。旧制旭川中学、旧制二高を経て、1944年、東京帝国大学文学部哲学科卒業。 1948年、新設の北海道大学法文学部に助教授で赴任(1950年、法学部と文学部に分離)、1952年、東京大学文学部助教授を併任、1954年、東大助教授に専任、1969年、教授。1972年から1974年まで文学部長。1978年、定年退官し名誉教授、成城大学教授。同年、紫綬褒章受章。1984年、成城大学退職。 ギリシア哲学研究の第一人者で、哲学会理事長、西洋古典学会常任委員、日本ギリシャ協会理事を務めた。
藤野 文三郎(ふじの ふみさぶろう、1917年4月29日 -… 藤野 文三郎(ふじの ふみさぶろう、1917年4月29日 - 没年不明)は、北海道出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
千秋 実(、1917年〈大正6年〉4月28日 - 1999年… 千秋 実(、1917年〈大正6年〉4月28日 - 1999年〈平成11年〉11月1日)は、日本の俳優。本名は佐々木勝治()。旧姓は森竹。 妻の女優佐々木踏絵とともに薔薇座を結成して舞台で活動後、映画俳優に転向し、黒澤明監督作品の常連俳優として活躍。テレビドラマでもホームドラマを中心に人気を得た。主な作品に『七人の侍』『隠し砦の三悪人』『花いちもんめ。』など。著書に妻との共著『わが青春の薔薇座』などがある。俳優の佐々木孝丸は岳父にあたる。俳優の佐々木勝彦は息子(次男)。女優の宮本信子の父親とは従兄弟同士であり、従兄弟の娘という関係性を説明するのが面倒との理由で宮本信子を姪と紹介していた。 1917年(大正6年)4月28日(土曜日)、北海道中川郡恩根内村(現在の美深町)に、呉服・洋品雑貨店を営む森竹家の3男として生まれる。
河邨 文一郎(かわむら ぶんいちろう、1917年〈大正6年〉… 河邨 文一郎(かわむら ぶんいちろう、1917年〈大正6年〉4月15日 - 2004年〈平成16年〉3月30日)は、日本の整形外科医、詩人。元札幌医科大学教授。 北海道小樽市出身。小樽中学、北海道帝国大学医学部を卒業。その後、東京帝国大学医学部を経て、札幌医科大学整形外科教授となる。医師から作家に転向した渡辺淳一は、教え子のひとりである。 1950年12月、東北大学より「項中隔石灰症の研究」で医学博士を取得した。 1952年には北海道整肢学院(現北海道立子ども総合医療・療育センター)の初代院長となり、北海道の「肢体不自由児の父」と呼ばれる。北海道内でのポリオ流行後、同疾患による下肢短縮に対する河邨式脚延長術式を開発した。
新井田 セイノ(あらいだ セイノ、1917年〈大正6年〉4月… 新井田 セイノ(あらいだ セイノ、1917年〈大正6年〉4月4日 - 2011年〈平成23年〉11月)は、日本のアイヌ文化伝承者。北海道鵡川町(後のむかわ町)において、カムイユカㇻの伝承、アイヌ語教室の講師によるアイヌ語の伝承と地域の指導、後継者育成など、アイヌ文化の振興に大きく貢献した。 北海道静内(後の新ひだか町)に生まれた。1919年(大正8年)、母と共に鵡川に移住した。母の目が不自由だったため、幼少時より農作業を手伝った。生活は苦しく、周囲からのいじめにも遭ったが、農作業中に母から聞かされたアイヌの詩で勇気づけられた。 1974年(昭和49年)に、北海道ウタリ協会(北海道アイヌ協会)鵡川支部が発足すると、同会に参加した。
八匠 衆一(はっしょう しゅういち、1917年3月30日 -… 八匠 衆一(はっしょう しゅういち、1917年3月30日 - 2004年6月21日)は、昭和・平成期の小説家。 北海道旭川市生まれ。本名は松尾一光。北海道庁立旭川商業学校(現・北海道旭川商業高等学校)、日本大学芸術学園卒。講師の伊藤整や東大生だった梅崎春生と知り合う。戦時中は召集により第7師団に入隊。戦後に再上京するが、過度の飲酒とヒロポン中毒のために深夜の路上で刑事事件を起こし、札幌刑務所で服役。そこで女性看守坂東知子と知り合う。仮出所後、上川町の義兄宅に寄宿。1954年、札幌で伝道師となっていた知子と結婚する。 名古屋の同人誌『作家』に「未決囚」を発表、1955年に直木賞候補となる。1958年、再上京し「地宴」で作家賞、1982年、『生命盡きる日』で平林たい子文学賞受賞。
赤川 童太(あかがわ どうた、1917年 - 1988年)は… 赤川 童太(あかがわ どうた、1917年 - 1988年)は、日本の漫画家。函館市出身。 帝国美術学校図案科を卒業したのち、サラリーマン、兵役を経て漫画家となる。1947年(昭和22年)11月に結成された漫画家の集団である独立漫画派に参加し、1953年(昭和28年)ごろには白鷗社の『笑の泉』で作品を執筆した。「KAPPA」というサインを使用し、一枚絵や短編漫画を手掛けた。 特にサイレント漫画の名手とされ、吉行淳之介は赤川のマンガを高く評価していた。1962年(昭和37年)10月に目黒にてイワタ・タケオ、坂口たけしと共に創作集団「ちゃり」を結成。1988年(昭和63年)、死去。 もりたなるおは赤川について、天才漫画家であったが、その作品は高い知性を持つ者でなければ理解できないものであったがためにその愛好者はごく限られたものだったとしている。
菊地 又男(きくち またお、1916年〈大正5年〉11月22… 菊地 又男(きくち またお、1916年〈大正5年〉11月22日 - 2001年〈平成13年〉7月1日)は、日本の画家。北海道札幌市出身。北海道美術界の重鎮、抽象絵画の牽引者とされ、反骨精神に富んだ姿勢から「反骨の画家」とも呼ばれた。 画家である兄の菊地精二に、絵を教わった。旧制北海中学校(後の北海高等学校)在学中の1933年(昭和8年)、16歳で道展に初入選した。当初は独立展に出展していたが、その後、自由美術展に移った。北海中学を卒業後は北海道庁に勤務したが、戦中の1938年(昭和13年)に兵役につき、中国に渡った。2年後の1940年(昭和15年)に帰国、北海中学の美術教師となり、教職の傍らで美術展への出展を続けた。
中村 礼吉(なかむら れいきち、1916年10月16日 - … 中村 礼吉(なかむら れいきち、1916年10月16日 - 没年不明)は日本の元スピードスケート選手である。北海道苫小牧市出身。 早稲田大学専門部1年在学時の1936年ガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックで500m11位となった。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
中山 周三(なかやま しゅうぞう、1916年(大正5年)8月… 中山 周三(なかやま しゅうぞう、1916年(大正5年)8月13日 - 1999年(平成11年)9月22日)は、日本の歌人、国文学者。北海道出身。 札幌一中を経て、國學院大學高等師範に入学後、北原白秋『桐の花』や、釈迢空の歌との出会いで作歌を始める。卒業後、1936年(昭和11年)に「歌と観照」に入会し、岡山巌に師事する。札幌商業学校に就職し結婚。12月に応召を受けて満州に渡るが、1941年(昭和16年)に帰国して、札幌商業学校に復職。その後、母校札幌一中や、札幌東高校で教職に就く。1946年(昭和21年)「原始林」創刊に参加し、後に山下秀之助に師事して共同で作歌を始めた。 1953年(昭和28年)からは田辺杜詩花没後の後継として同誌編集発行の代表となる。
苫米地 俊博(とまべち としひろ、1916年6月30日 - … 苫米地 俊博(とまべち としひろ、1916年6月30日 - 2010年10月20日)は、日本の実業家。三菱商事副社長、米国三菱商事社長、三菱自動車工業副会長、国際大学理事長、ニューヨーク日本商工会議所会頭などを歴任した。 北海道小樽市出身。1941年東京商科大学(現一橋大学)卒業、三菱商事入社。大学在学中、日米学生会議に参加し、宮澤喜一(のちに内閣総理大臣)、奈良靖彦(のちに駐カナダ大使)、山室勇臣(のちに三菱銀行副頭取)らと交遊を持った。財閥解体後、奈良らとともに、野間省一講談社社長の協力を得て貿易会社・飛鳥(「奈良」から「飛鳥」を連想して命名)を設立し、宮澤の弟宮澤泰(のちに駐西ドイツ大使)なども参画したが、1年で倒産した。
木戸 新太郎(きど しんたろう、本名:木村 新吉、1916年… 木戸 新太郎(きど しんたろう、本名:木村 新吉、1916年5月17日 - 1975年8月19日)は、日本のタップダンサー、喜劇人、映画俳優である。映画に関しては、ほとんどが愛称のキドシン名義で出演している。 1916年(大正5年)5月17日、北海道庁函館区豊川町(現在の函館市豊川町)に、海産商「木村商店」を営む木村喜助・ゑつ夫妻の長男として生まれ、裕福でハイカラな家庭に育つ。名門宝尋常高等小学校を卒業、北海道庁立函館商業学校へ入学したが、1932年(昭和7年)、父が急逝、学校を中退して家業を手伝う。そのころ、映画を観てフレッド・アステアに憧れ、タップダンスに興味を持つ。 1937年(昭和12年)22歳のときに上京、中川三郎に師事。
千田 モト(ちだ モト、1916年3月27日 - 1997年… 千田 モト(ちだ モト、1916年3月27日 - 1997年6月28日)は、日本の舞踏家。北海道出身。札幌舞踊会設立者。数々の公演を手がけた他、バレエの振興発展や、後進の育成に尽力した功績でも知られる。長女は千田康子(元東京バレエ団)、二女の千田雅子は、現札幌舞踊会代表。 札幌市立高等女学校(現北海道札幌東高等学校)卒業。クラシックバレエの専門教育は受けておらず、独学で学んだ。戦前は、北海道の委属で町村歌の振り付けなどを手がけ、戦後間もない1948年3月、札幌舞踊会を設立。以後、北海道を拠点に、数々の公演を手掛けた他、1953年には日本バレエ協会北海道支部設立に携わり、1956年まで副支部長を務めている。1965年、北海道で初めて「白鳥の湖」全幕を公演。
富原 薫(とみはら かおる、1916年3月20日 - 201… 富原 薫(とみはら かおる、1916年3月20日 - 2015年5月15日)は、日本の経営者。北海道放送社長、会長を務めた。北海道旭川市出身。 1939年に早稲田大学専門部法科を中退し、同年に満蒙学校を卒業。1941年に小樽新聞社に入社後、全道の新聞社統合により1942年11月に北海道新聞社に移籍し、政経記者として活躍。1945年には内閣記者会詰めとして憲法審議を担当。1951年12月に北海道放送に転じ、1956年の日ソ和平交渉の際には民間放送代表特派員の一人として鳩山一郎首相の随行団に参加した。1967年に取締役、1970年に常務、1978年に専務、1979年に副社長を経て、1984年に社長に就任。
太田 絢子(おおた あやこ、1916年3月17日 - 200… 太田 絢子(おおた あやこ、1916年3月17日 - 2009年10月31日)は、昭和・平成期の歌人。歌誌『潮音』主宰を務めた。歌人・漢文学者の太田青丘は夫。『潮音』現主宰の木村雅子は娘。旧姓・近藤。 北海道利尻町生まれ。実践女子専門学校(現実践女子大学)国文科卒。在学中は高崎正秀の指導を受ける。同校助手を経て、北海道岩見沢農業高等学校、北海道小樽潮陵高等学校などの教員を歴任。小樽市を第二の故郷として愛した。 1950年(昭和25年)、歌誌『新墾』及び『潮音』に入社。後に『新墾』選者も務める。1957年(昭和32年)、師の小田観螢の媒酌により、太田青丘の後妻に入り、北海道を離れ鎌倉市に住む。1996年(平成9年)に夫の太田青丘の没後、『潮音』主宰を継承。
小田 豊四郎(おだ とよしろう、1916年3月13日 - 2… 小田 豊四郎(おだ とよしろう、1916年3月13日 - 2006年8月3日)は、日本の実業家。六花亭創業者。北海道函館市出身。 旧制野付牛中学校(現・北海道北見北斗高等学校)卒業。父の事業の失敗で進学を断念し、1933年に母方の叔父・岡部式二が経営する札幌千秋庵に入社。 1937年にもう一人の叔父・岡部勇吉が創業した帯広千秋庵(現在の六花亭の前身)の経営を引き継ぐ。当初は同業他社が多かったことから苦戦を強いられる。だが、1939年に価格等統制令が敷かれ、他の店が砂糖不足で思うように商品を作れなくなった際、知人の会社社長の薦めもあり、前もって砂糖を大量に購入していたため、小田の店は従来どおりに製品を作ることができ、次第に客足が増えるようになった。
大高 ひさを(おおたか ひさを、1916年(大正5年)3月1… 大高 ひさを(おおたか ひさを、1916年(大正5年)3月11日 - 1990年(平成2年)9月2日)は、昭和期の作詞家。 北海道小樽市生まれ。テイチク専属作詞家として多数の作品を残し、「玄海ブルース」、「海のジプシー」、「肩で風切るマドロスさん」、「玄海エレジー」(田端義夫)、「君忘れじのブルース」(淡谷のり子)、「アリラン」、「トラジ」、「江の島悲歌」、「連絡船の唄」、「木浦の涙」(菅原都々子)、「炭坑節」(美ち奴)、「泪の連絡船」(真木不二夫)、「東京ロマンス・タイム」(楠トシエ)、「流転笠」(今村隆)、「浮草小唄」(鈴木三重子)、「しのび泣く青春」、「青い夜霧の港町」(大木実)、「カスバの女」(エト邦枝)、「ひとりぽっちの青春」、「世界を賭ける恋」、「男の友情背番号・3」、「街から街へつむじ風」、「王将・夫婦駒」、「夜霧の慕情」「泪が燃える」(石原裕次郎)、「銀座の恋の物語」(石原裕次郎、牧村旬子)、「文左たから船」(三波春夫)などがある。
小林 正樹(こばやし まさき、1916年2月14日 - 19… 小林 正樹(こばやし まさき、1916年2月14日 - 1996年10月4日)は、日本の映画監督。 北海道小樽区(現・小樽市)に会社員の息子として生まれる。女優の田中絹代は又従弟に当たる。旧制小樽中学校(現在の北海道小樽潮陵高等学校)を経て早稲田大学文学部哲学科に進学。早大では東洋美術を専攻し、会津八一に師事する。在学中に田中絹代に誘われて映画『桑の實は紅い』(清水宏監督)のロケ現場に1ヶ月参加する。1941年(昭和16年)早稲田大学卒業。卒業論文は「室生寺建立年代の研究」。 同年に松竹大船撮影所助監督部に入社する。同期には野村芳太郎がいた。入社試験に際しては、親しい間柄であった田中絹代に紹介を頼んだが、「映画界は実力がなければ通用しない」と諭され、田中の縁者であることを隠し通したという。
板垣 武四(いたがき たけし、1916年〈大正5年〉2月13… 板垣 武四(いたがき たけし、1916年〈大正5年〉2月13日 - 1993年〈平成5年〉8月12日)は、1971年初当選の第7代札幌市長。北海道上川郡和寒村(現:和寒町)出身。 1916年2月13日、呉服屋を営む家庭の13人兄弟の11番目として、北海道上川郡和寒村(現:和寒町)に生まれた。小学校4年時に兄や母親と死別し、継母と仲良くなれず別の兄の住む札幌に移る。山鼻小、札幌一中(現:札幌南高)を経て、北海道帝国大学予科へ進学するも、法学への道を諦めきれず予科を退学し上京。 旧制第一高等学校を経て、札幌一中時代の友人の下宿に居候しつつ三浪を経て、東京帝国大学法学部卒業。 1941年に三菱電機神戸製作所入社、神戸大空襲に被災し緑豊かな六甲山地の光景から望郷の思いが募り、札幌への帰郷を決意、1946年、札幌市役所に入職。
中野 友雄(なかの ともお、1916年2月10日 - 201… 中野 友雄(なかの ともお、1916年2月10日 - 2010年4月22日)は、日本の技術者、実業家。北海道電力代表取締役社長、北海道経済連合会会長などを務めた。勲一等瑞宝章、ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章受章。 石川県羽咋郡志賀浦村(現志賀町)生まれ。北海道士別市出身。旧制旭川中学(現北海道旭川東高等学校)を経て、1941年北海道帝国大学工学部電気工学科卒業、日立製作所入社、日立工場回転機部配属。1942年大日本帝国陸軍八戸飛行場の第六航空教育隊入隊。ビルマの戦いに参加しシンガポールで日本の降伏を迎えた。レンパン島での捕虜生活を経て、1946年復員し北海道配電入社。1951年北海道電力入社。
浜森 辰雄(はまもり たつお、1916年2月9日 - 200… 浜森 辰雄(はまもり たつお、1916年2月9日 - 2009年9月4日)は、日本の政治家。北海道稚内市出身。第4代 - 第11代北海道稚内市長(1959年 - 1991年)。 1939年札幌商業学校、1941年早稲田大学政治経済学部(旧制)卒業。 北海道議会議員(日本社会党会派)を経て、1959年稚内市長に初当選。以後連続8期務め、稚内の天皇とまで称された。1983年に7月にソビエト連邦を初訪し、両国のパイプ役として活躍。同年12月には、ソ連対外友好・文化交流団体連合会より友好促進記章を贈られた。また同年9月の大韓航空機撃墜事件では、遺族対策や報道陣対応でこの年は多忙を極めた。1991年に9選を目指すも落選。
小柴 幹治(こしば かんじ、1916年1月12日 - 没年不… 小柴 幹治(こしば かんじ、1916年1月12日 - 没年不明)は、北海道函館市出身の日本の俳優。 本名は蓮見章。別名・旧芸名に三条雅也、三條雅也、美浦平八郎、小柴完二を持つ。 1979年(昭和54年)に発行された『日本映画俳優全集 男優篇』では、存命人物として大阪府守口市の連絡先が示されているが、既に引退しており、以後の消息は不明である。
岩合 徳光(いわごう とくみつ、1915年12月18日 - … 岩合 徳光(いわごう とくみつ、1915年12月18日 - 2007年2月12日)は、日本の写真家。写真家の岩合光昭は息子。 北海道釧路市生まれ。日本大学経済学部中退。戦中、戦後は満州(中国東北部)の大連日日新聞の写真部員として働く。帰国後、毎日新聞社などを経て、1961年フリーに。主に動物写真を専門に撮影し、その分野の草分け的存在である。2007年2月、低酸素脳症のため、東京都新宿区で死去。91歳没。
安井 吉典(やすい よしのり、1915年(大正4年)10月3… 安井 吉典(やすい よしのり、1915年(大正4年)10月30日 - 2012年(平成24年)11月6日)は、日本の政治家(日本社会党)。位階は正三位。勲等は勲一等。 衆議院副議長(第57代)、衆議院議員(11期)を歴任。 1915年(大正4年)、北海道東神楽村(現東神楽町)にて生まれる。1940年(昭和15年)に東北帝国大学法学部を卒業し、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)に入社、秋田県の尾去沢鉱業所に勤務した。1944年(昭和19年)に吉田貞次郎衆議院議員(元上富良野村長)の娘の弥生と結婚。1945年(昭和20年)、父で東神楽村長代理助役だった安井吉太郎の死去を受け、翌1946年(昭和21年)に家業の農業を継ぐため退社。
太田 寛一(おおた かんいち、1915年(大正4年)10月1… 太田 寛一(おおた かんいち、1915年(大正4年)10月10日 - 1984年(昭和59年)11月13日)は、よつ葉乳業創業者。 元・士幌町農業協同組合(JA士幌町)組合長、元・ホクレン農業協同組合連合会会長、元・全国農業協同組合連合会(JA全農)会長。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。