八反田 角一郎(はったんだ かくいちろう、1901年11月6… 八反田 角一郎(はったんだ かくいちろう、1901年11月6日 - 1979年12月28日)は日本の新聞・放送経営者。讀賣テレビ放送代表取締役、日本テレビ・読売新聞社取締役、読売新聞大阪本社取締役最高顧問を歴任。大阪府吹田市に在住していた。 北海道虻田郡倶知安町出身。父・角太郎(1866年(慶應2年)生まれ)は石川県能美郡長野村(現・能美市)の大農家に生まれ、手取川水害の影響により、1896年(明治29年)に倶知安町へ加賀団体の総代として入植した。倶知安では農業と雑貨商で成功を収め、村会議員を8期務めた。角一郎は後に、加賀団体入墾開拓者崇徳碑建立の発起人代表となった。 北海中学校を卒業し、1933年に読売新聞に入社。
環 歌子(たまき うたこ、1901年10月28日 - 198… 環 歌子(たまき うたこ、1901年10月28日 - 1983年9月5日)は、日本の映画女優である。日本映画最初期のサイレント映画時代にデビューし、若手時代は剣戟映画スター・阪東妻三郎と多く共演した。一時玉木 悦子(たまき えつこ)を名乗った。本名:青木 ツネ(あおき つね、旧姓)。 身長5尺2寸(約157.6センチ)、体重12貫(約45キロ)。当時の成人女性としては長身であった。 1901年(明治34年)10月28日、北海道庁函館区(現在の北海道函館市)に生まれる。1918年(大正7年)、北海道庁立函館高等女学校(現在の北海道函館西高等学校)を卒業して上京、「浅草オペラ」のアサヒ歌劇団に入団、浅草公園六区の「駒形劇場」で初舞台を踏んだ。
小川 マリ(おがわ まり、1901年10月13日 - 200… 小川 マリ(おがわ まり、1901年10月13日 - 2006年5月8日)は、日本の洋画家。日本の女性洋画家の草分け。本名は三雲 マリ。夫は三雲祥之助。 北海道札幌市出身。父は北海道で最初の百貨店である五番館を設立した小川二郎。兄は北海道開発局2代目局長を務めた小川譲二。庁立札幌高等女学校(現北海道札幌北高等学校)、東京女子大学卒業。大学職員として勤務しながら、武蔵野の風景に魅せられ、独学で洋画を始める。1932年に独立美術協会展に初入選し、1938年頃から画業に専念。 太平洋戦争中は札幌に疎開し、1945年に三雲祥之助と結婚。夫婦で全道美術協会(全道展)創立に参画。札幌洋画研究所の講師も夫婦で務めた。
小熊 秀雄(おぐま ひでお、1901年9月9日 - 1940… 小熊 秀雄(おぐま ひでお、1901年9月9日 - 1940年11月20日)は、日本の詩人、小説家、漫画原作者、画家である。筆名に、小熊 愁吉(おぐま しゅうきち)、黒珊瑚(くろさんご)、旭 太郎(あさひ たろう)などがある。 1901年(明治34年)9月9日、北海道小樽市稲穂町に生まれる。幼少期を稚内市・秋田・樺太で過ごし、泊居高等小学校を卒業。養鶏場の番人など様々な雑務作業に従事した後、1922年より旭川新聞社で新聞記者となる。この頃から詩作を始め、1923年、旭川新聞に最初の詩作『奪われた魂』などが掲載される。この頃よりペンネームを小熊愁吉(おぐま しゅうきち)や黒珊瑚(くろ さんご)の筆名を使用し、作品や取材記事を書いた。
酒井 喜四(さかい きし、1901年4月25日 - 1974… 酒井 喜四(さかい きし、1901年4月25日 - 1974年7月1日)は、日本の官僚・実業家。 帝国石油総裁・社長を務めた。 北海道札幌市出身。1924年に東京帝国大学法学部を卒業し、農商務省に入省。商工事務官、商工省鉱山局燃料課長、燃料局第一部油政課長兼資源課長兼商工書記官、燃料局石油部長、札幌鉱山局長などを歴任。商工事務官時代に旧石油業法の起案に携わり、1934年の同法の成立に尽力した。1941年10月鉄鋼局長、1943年鉄鋼統制販売株式会社社長。戦後も商工省燃料局長を務めたが、1947年に退官。同年の第23回衆議院議員総選挙において北海道1区から立候補したが落選した。1948年に帝国石油総裁となり、1950年の民営化後も引き続き1952年まで社長を務めた。
高橋 掬太郎(たかはし きくたろう、1901年(明治34年)… 高橋 掬太郎(たかはし きくたろう、1901年(明治34年)4月25日 - 1970年(昭和45年)4月9日)は、昭和期の作詞家。函館日日新聞の記者時代に作詞した『酒は涙か溜息か』が戦前の大ヒットとなった。位階は従五位。 1901年(明治34年)4月25日、北海道根室郡根室町(現・根室市)で漁師の息子として生まれ、「菊太郎」と名付けられた。根室商業学校を中退後、根室新聞社に入社。この頃から「高橋春波」のペンネームで文筆活動を始める。 1922年(大正11年)、函館日日新聞に入社し、社会部長兼学芸部長として活躍するかたわら文芸同人誌に参加。詩や小説、脚本などを手がけた。 1931年(昭和6年)、『酒は涙か溜息か』で作詞家デビュー。
福林 正之(ふくばやし まさゆき、1901年3月21日 - … 福林 正之(ふくばやし まさゆき、1901年3月21日 - 1977年6月13日)は、日本の出版実業家、作家。 北海道小樽市生まれ。松本高等学校文科甲類を経て東京帝国大学社会学科卒。 報知新聞記者などを経て、1943年3月に『日本読書新聞』の発行元であった日本出版文化協会から改組された出版統制組織「日本出版会」の総務部次長兼編集室長となる。同紙は敗戦を待つまでもなく物資の不足と編集部員の応召などにより、1945年5月に休刊した。同年3月には出版用紙の確保のために一括して用紙を荷受する機関として「日本出版助成株式会社」が設立され、同社専務に就任。1946年、同社を日本出版協同株式会社に改組した後に社長に就任した。
光岡 龍三郎(みつおか りゅうざぶろう、1901年3月15日… 光岡 龍三郎(みつおか りゅうざぶろう、1901年3月15日 - 1961年8月4日)は、日本の俳優である。新字体光岡 竜三郎、本名は中澤 喜一(なかざわ きいち)である。 1901年(明治34年)3月15日、北海道亀田郡大野村(現在の北斗市大野地区)に「中澤喜一」として生まれる。11歳上の兄に俳優の葛木香一がいる。 当初舞台劇の俳優であったが、1924年(大正13年)、東亜マキノ等持院撮影所に入社し、映画俳優に転向する。翌1925年(大正14年)、阪東妻三郎主演、二川文太郎監督の『江戸怪賊伝 影法師』前篇・後篇等に出演する。二川監督の『墓石が鼾をする頃』に出演した後、牧野省三らは東亜キネマと分離するが、光岡は東亜キネマに残る。
加藤 義秀(かとう よしひで、1901年〈明治34年〉1月2… 加藤 義秀(かとう よしひで、1901年〈明治34年〉1月2日 - 2002年〈平成14年〉10月)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 北海道雨竜郡一已村(現・深川市一已町)出身。1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校第33期卒業。1930年(昭和5年)陸軍大学校第42期卒業。 フィンランド駐在武官、スウェーデン駐在武官、関東軍参謀、陸軍省兵務局防衛課高級課員を経て、1941年(昭和16年)7月、防衛総司令部参謀に補され、翌8月、陸軍大佐に進む。ついで、1945年(昭和20年)6月1日、第53軍参謀長となり、同月30日、陸軍少将に進んだ。済州島の守備に当たる中終戦を迎えた。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
井原 栄松(榮松、いはら さかえまつ、1901年(明治34年… 井原 栄松(榮松、いはら さかえまつ、1901年(明治34年) - 1990年(平成2年) 12月4日)は、日本の政治家・地方公務員。北海道小樽市出身。札幌商業学校卒業。北海道の町村長を歴任した。位階は正六位。
違星 北斗(いぼし ほくと、男性、1901年(明治34年) … 違星 北斗(いぼし ほくと、男性、1901年(明治34年) - 1929年(昭和4年)1月26日)はアイヌの歌人・社会運動家。 アイヌ民族の地位向上のための運動に一生を捧げ、その思想を新聞や雑誌に短歌の形で発表して、同時代のアイヌの青年たちに影響を与えた。また道内のアイヌコタンを廻って、まずアイヌ自身が自覚し、団結することが必要であると説いた。 バチェラー八重子、森竹竹市と並ぶ、「アイヌ三大歌人」の一人。「アイヌの啄木」と称されることもある。著作に『違星北斗遺稿 コタン』(昭和5年・希望社出版部、現在は草風館より復刊)、『違星北斗歌集 アイヌと云ふ新しくよい概念を』(角川ソフィア文庫)がある。 違星北斗は1901年(明治34年)、北海道後志支庁余市町大川町1丁目に、父甚作と母ハルの間の三男として生まれる。
荒井 源次郎(あらい げんじろう、1900年12月20日 -… 荒井 源次郎(あらい げんじろう、1900年12月20日 - 1991年8月31日)は、昭和期の日本の社会運動家。アイヌとして近文アイヌ地返還運動に尽力した。 北海道士別市上士別にて、父ケトンチナイと母レタルオソラの長男として生まれる。1907年に上川第三尋常小学校に入学し、1913年に上川第五尋常小学校(アイヌ児童のみの学校)を卒業。1915年に上川第三尋常高等小学校を卒業し、その4月に旭川商工補習学校に入学し、1917年に卒業する。その年の12月には旭川区裁判所に採用される。源次郎の育った地元ではそれまで民間のサラリーマンや公務員は一人もおらず、アイヌ民族では初めてのことだった。1919年に第七師団司令部事務職に転じ、1924年に第七師団に入隊。
小野 留嘉(おの とめよし、1900年11月10日 - 19… 小野 留嘉(おの とめよし、1900年11月10日 - 1987年5月31日)は、国営競馬ならびに日本中央競馬会 (JRA) の騎手で、京都競馬場→栗東トレーニングセンターに所属していた調教師。 北海道・小樽市出身、1928年に相羽仙一厩舎の騎手見習となり、1930年に騎手となるが、1938年にいったん騎手を廃業している。 戦後、繋駕速歩競走の復活に備え、1954年に助手として鈴木甚吉厩舎に復帰し、翌1955年3月1日に速歩競走の騎手免許を再取得した。当時54歳であった。 その後は、大久保亀治厩舎の所属となり、中央競馬で速歩競走が廃止される1968年まで騎手を務め、1969年より調教師へ転向した。
境 一雄(さかい かずお、1900年(明治33年)11月8日… 境 一雄(さかい かずお、1900年(明治33年)11月8日 - 1983年(昭和58年)9月17日)は、大正・昭和期の労働運動家、実業家、政治家。衆議院議員。 北海道小樽区(現小樽市)で生まれる。1920年(大正9年)小樽中学校(現北海道小樽潮陵高等学校)を卒業。その後、早稲田大学政経科で学んだが中退した。割箸製造販売業を営む。その後、岸鉄工所庶務課長、小樽物産取締役、北海道配電小樽支店経営協議会委員などを務めた。 1926年(大正15年)日本労働組合評議会北海道地方評議会議長に就任。同年5月1日、北海道初のメーデー実行委員長を務めた。 1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で北海道第1区から日本社会党公認で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
町村 金五(まちむら きんご、1900年(明治33年)8月1… 町村 金五(まちむら きんご、1900年(明治33年)8月16日 - 1992年(平成4年)12月14日)は、日本の内務官僚、政治家。
野口祥昌(のぐち よしまさ、1900年(明治33年)7月30… 野口祥昌(のぐち よしまさ、1900年(明治33年)7月30日 - 1970年(昭和45年))は、日本の農業経済学者。 茨城県出身。1918年(大正7年)茨城県立土浦中学校(後の茨城県立土浦第一高等学校)卒業。1927年(昭和2年)北海道帝國大学農学部農業経済学科卒業。同年、北海中学校(後の北海高等学校)教諭。1943年(昭和18年)札幌商業学校(後の北海学園札幌高等学校)教頭。1949年(昭和24年)北海学院兼任教授。1950年(昭和25年)北海短期大学開学に伴い北海短期大学経済科助教授。1959年(昭和34年)札幌商業高等学校(後の北海学園札幌高等学校)校長に就任。学校法人北海学園理事。1968年(昭和43年)上原轍三郎理事長の死去にともない暫定的に学校法人北海学園理事長事務取扱を兼任。
野呂 栄太郎(のろ えいたろう、旧字体: 野呂 榮太郞、19… 野呂 栄太郎(のろ えいたろう、旧字体: 野呂 榮太郞、1900年〈明治33年〉4月30日 - 1934年〈昭和9年〉2月19日)は、日本の在野のマルクス経済学者で、戦前の非合法政党時代の日本共産党の理論的指導者の一人であるとともに、幹部(委員長)として党を指導するなど、実践活動にも関わった。 北海道長沼町に生まれ育ち、旧制北海中学(現北海高等学校)から慶應義塾大学部理財科(現在の経済学部)に進む。少年時代は野球のスコアラーを勤めたが、小学2年で関節炎のため片足を切断した。彼が北海中学、慶應義塾大学部に入学したのは、片足切断という障害のために公立中学・官立高校には入学を認められなかったからである。
松本 春子(まつもと はるこ、1900年〈明治33年〉4月2… 松本 春子(まつもと はるこ、1900年〈明治33年〉4月2日 - 1989年〈平成元年〉6月27日)は、日本の書家。日本のかな文字の第一人者、北海道を代表する仮名作家の1人とされる。毎日書道展名誉会員、創玄書道会名誉会員、藤女子大学教授。旧姓は小川 春子(おがわ はるこ)。 北海道帯広で誕生した。「女性に学問は不要」との考えが根強い時代にあって、進歩的な考えを持つ父のもと、幼少時より読み書きやそろばんを学んだ。特に父は書道に力を入れ、自身が道議会議員を務めたほどの名士だったこともあり、書道用具はすべて本場の中国製の物が揃えられた。これにより春子は小学生の頃、すでに大人顔負けの美しい文字を身につけていた。
八代 斌助(やしろ ひんすけ、1900年〈明治33年〉3月3… 八代 斌助(やしろ ひんすけ、1900年〈明治33年〉3月3日 - 1970年〈昭和45年〉10月10日)は、日本のキリスト教伝道者である。 北海道出身。立教大学中退。イギリス留学を経験している。神戸聖ミカエル教会司祭、神戸教区主教。1968年、日本聖公会首座主教。世界教会一致運動に参加。聖公会神学院理事長。オックスフォード大学神学博士、トロント・トリニティーカレッジ神学博士、アメリカのコロンビア大学教理学博士、ゼネラル神学校神学博士。神戸国際大学及び神戸国際大学附属高等学校を運営する学校法人八代学院を創設し理事長・院長を務めたほか、立教学院理事長・院長や松蔭女子学院理事長・院長、桃山学院理事長・院長、聖路加看護大学理事長(聖路加国際病院理事長)、国際基督教大学理事、聖ミカエル保育園理事長、オリンピア幼稚園園長、聖ラファエル幼稚園理事長、鈴蘭台聖ミカエル幼稚園理事長・園長、境港聖心幼稚園園長、神戸市教育委員、ボーイスカウト日本連盟相談役なども務めた。
鈴木 八郎(すずき はちろう、1900年3月3日 - 198… 鈴木 八郎(すずき はちろう、1900年3月3日 - 1985年9月14日)は、日本の写真家。写真雑誌編集者、カメラ文化史研究者。 北海道余市町に生まれた。早稲田工手学校(現早稲田大学芸術学校)建築科を中退する。東京芝にあった丸木利陽門下の前島英男の写真館に入門して、前島の義弟の金丸重嶺と同門になった。また『写真の趣味』『写真月報』を編集していた高桑勝男の紹介で、小野隆太郎に住込みで弟子入りし、ゴム印画法を習得した。その後大正から昭和にかけて、アルスより技法書を多数執筆した。戦前の『カメラクラブ』や戦後復刊の『写真サロン』編集長を務めた。ペンタックスギャラリー館長。古典カメラやカメラの歴史に関する記事を多く執筆した。
能代八郎(のしろ はちろう、1900年(明治33年)3月‐1… 能代八郎(のしろ はちろう、1900年(明治33年)3月‐1944年(昭和19年)3月14日)は昭和期の作曲家。本名佐藤久助。 1937年、佐藤富房の筆名で作曲した「声なき凱旋」でポリドールより作曲家デビュー。 翌年テイチクレコードに移籍し、筆名を能代八郎とし、流行歌の作曲を行うようになる。 1939年、塩まさるが歌う『九段の母』が大ヒット。 1944年3月14日死去。享年44。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
湊 楊一郎(みなと よういちろう、1900年(明治33年)1… 湊 楊一郎(みなと よういちろう、1900年(明治33年)1月1日 - 2002年(平成14年)1月2日)は、俳人。新興俳句運動の理論的支柱として知られる。本名は久々湊 与一郎(くくみなと よいちろう)。 北海道小樽市生まれ。中央大学法学部卒業。大学在学中は山岳部に所属していた。 1929年(昭和4年)、司法試験に合格。弁護士のかたわら、1931年(昭和6年)、松原地蔵尊らと俳誌「句と評論」を創刊。戦後は、「俳句評論」「羊歯」などを経て、「再会」を創刊。 1946年(昭和21年)、栗林一石路、石橋辰之助、東京三(秋元不死男)、富澤赤黄男らとともに、民主主義日本文化の確立発展をめざし、新俳句人連盟を設立。
岸 道三(きし みちぞう、1899年12月1日 - 1962… 岸 道三(きし みちぞう、1899年12月1日 - 1962年3月14日)は、日本の実業家・財界人。経済同友会代表幹事(第10代)・日本道路公団初代総裁。 大阪府大阪市に生まれ、北海道小樽市で育つ。小樽中学校から三浪を経て、第一高等学校に入学。5年間在籍し、その間全寮委員長として、関東大震災後の同校移転問題などに関係する。その後東京帝国大学工学部鉱山学科に入学。在学中はボート部で活躍し、1929年(昭和4年)の卒業後も後輩の指導に当たった。 東京帝大学生課嘱託などを経て、1931年(昭和6年)に名古屋合板支配人として財界に入る。以後明治製革常務、満鉄調査部嘱託、興中公司広東事務所長などを歴任する一方、昭和研究会に所属し、各界に広く人脈を持つようになる。
小原 重孝(おばら しげたか、1899年10月24日 - 1… 小原 重孝(おばら しげたか、1899年10月24日 - 1971年7月13日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。小原 重厚と表記する文献も有る。 東京府出身(北海道札幌市出身とする資料も有り)。司法官・小原文太郎の長男として生まれる。札幌一中卒を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し、歩兵第25連隊付となる。陸士予科生徒隊付などを経て、1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業し、歩兵第25連隊中隊長となる。 1930年(昭和5年)12月、参謀本部付勤務(ロシア班)となる。同年、ロシア班長の橋本欣五郎が結成した桜会に参加。
村井 満寿(むらい ます、1899年〈明治32年〉10月13… 村井 満寿(むらい ます、1899年〈明治32年〉10月13日 - 1988年〈昭和63年〉9月7日)は、日本のアルト歌手。北海道札幌市の札幌市時計台を題材とした楽曲「時計台の鐘」の歌い手として知られる。同曲の作曲者である高階哲夫は1人目の夫。2人目の夫はバリトン歌手にして日本初の腹話術師でもある澄川久(本名:村井武雄)であり、後夫との子にクラリネット奏者の村井祐児がいる。納豆の研究で知られる農学者の半澤洵は母方の叔父にあたる。 北海道札幌区(後の札幌市)で誕生した。旧姓は相沢。幼少時に、教会の宣教師の賛美歌に感銘を受けて、音楽の道を志した。また自宅の窓からは時計台が針まではっきりと見え、時計台に馴染んで少女期を送った。
滝野 啓次郎(たきの けいじろう、1899年(明治32年)5… 滝野 啓次郎(たきの けいじろう、1899年(明治32年)5月10日 - 1973年(昭和48年)1月13日)は、日本の政治家・実業家。北海道旭川市出身。北海道北見市長(1963年 - 1967年、1期)。 北海道庁立上川中学校(現・北海道旭川東高等学校)卒業。1916年(大正5年)野付牛町(現・北見市)に移住、家業である菓子問屋を継いで1940年(昭和15年)北海道菓子卸売協同組合常務、1948年(昭和23年)同組合理事長。1950年(昭和25年)北宝食品代表取締役社長。1953年(昭和28年)北見信用金庫理事長。1955年(昭和30年)北見商工会議所会頭に就任。伊谷半次郎の後継候補として、1963年(昭和38年)北見市長選挙に出馬し対立候補の宇佐美福生を僅差で破って初当選するも1967年(昭和42年)に前回と同じ対立候補の宇佐美福生に敗れ落選した。
高田 正(たかだ ただし、1899年3月26日 - 1947… 高田 正(たかだ ただし、1899年3月26日 - 1947年1月6日)は、日本の裁判官。ゾルゲ事件で裁判長を務めた。 北海道札幌市出身。北海道庁立札幌第一中学校、第一高等学校を経て、1925年に東京帝国大学法学部を卒業。同年司法官試補となり、以後東京地方裁判所判事・検事、対満事務事務官、企画院書記官、司法省刑事局第4課長・第3課長などを歴任。 1942年東京刑事地方裁判所部長判事として、ゾルゲ事件の主犯とされた尾崎秀実とリヒャルト・ゾルゲらの裁判(同裁判所第9部)の裁判長となる。尾崎とは一高・東京帝大を通じて同期生・友人の間柄であったが、高田が尾崎に対して下した判決は死刑であった。高田は判決の後、次のように付け加えたという。
横田 正俊(よこた まさとし、1899年〈明治32年〉1月1… 横田 正俊(よこた まさとし、1899年〈明治32年〉1月11日 - 1984年〈昭和59年〉7月1日)は、日本の裁判官。第4代最高裁判所長官を務めた。位階勲等は従二位勲一等旭日大綬章。なお、前任の最高裁判所長官横田喜三郎と同姓だが、縁戚関係はない。 1925年(大正14年)4月から裁判官生活に入り、東京地裁判事、東京控訴院判事等を務め、1943年(昭和18年)3月に甲府地裁所長に就任。戦後、司法省臨時企画部長に就任。1946年に大審院判事。1947年(昭和22年)7月に公正取引委員会委員その後1952年(昭和27年)2月に同委員長に任命され1958年(昭和33年)3月に退任するまで、通算10年8か月にわたり公正取引委員会に在職した。
西 義章(にし よしあき、1898年(明治31年)12月11… 西 義章(にし よしあき、1898年(明治31年)12月11日 - 1943年(昭和18年)7月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。旧姓・数藤。 北海道出身。陸軍中尉・小学校教員、数藤熊七の二男として生まれ、西家の養子となる。旭川中学校(現北海道旭川東高等学校)卒業を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業。同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第24連隊付となる。1930年(昭和5年)11月、陸軍大学校(42期)を卒業し騎兵第24連隊中隊長に就任。 1932年(昭和7年)3月、陸士教官に就任し、1934年(昭和9年)8月、騎兵少佐に進級。1935年(昭和10年)2月、アメリカ駐在を命ぜられ、1936年(昭和11年)8月、アメリカ大使館付武官補佐官に就任。
吉田 一穂(よしだ いっすい、1898年8月15日 - 19… 吉田 一穂(よしだ いっすい、1898年8月15日 - 1973年3月2日)は、大正・昭和期の詩人、評論家、童話作家。本名、由雄。
稲村 隆一(稻村隆一、いなむら りゅういち、1898年3月7… 稲村 隆一(稻村隆一、いなむら りゅういち、1898年3月7日 - 1990年11月20日)は、日本の農民運動家、政治家、衆議院議員(4期)。政治家の稲村順三は弟、稲村稔夫は甥。 北海道虻田郡喜茂別町出身。 1918年北海中学校(旧制)、1923年早稲田大学政治経済学部卒業。 早稲田大学在学中から建設者同盟に参加、その後農民運動に入った。その間日本共産党に入党し、1926年に労働農民党に入党。 1928年の三・一五事件で検挙された後、社会大衆党に移った。 1937年に新潟県日本農民連盟を結成し、皇国農民連盟と連携を図った。 1940年に東方会、石原莞爾の東亜連盟運動にも参加。戦後、日本社会党に入ったが、公職追放を受けた。
佐藤 貢(さとう みつぎ、1898年〈明治31年〉2月14日… 佐藤 貢(さとう みつぎ、1898年〈明治31年〉2月14日 - 1999年〈平成11年〉9月26日)は、大正時代から昭和時代の北海道の経営者・教育者。位階は正四位。 北海道興農公社の設立に関わり、後身の雪印乳業の初代社長を務めた。また、長らく学校法人酪農学園の理事長を務めた。 札幌市生まれ。北海道庁立札幌第一中学校・ 北海道帝國大學農学部卒業。アメリカのオハイオ州立大学農科大学で細菌学と乳業を学び、1922年(大正11年)に帰国。家業である農業を継ぐ。 1925年(大正14年)、父・善七が設立者の一人であった有限会社北海道製酪販売組合の技師となり、雪印の名で「北海道バター」を製造販売。1940年(昭和15年)から有限会社北海道興農公社の専務を務め、1946年(昭和21年)には経済安定本部勤務。
栗林 友二(くりばやし ともじ、1898年1月3日 - 19… 栗林 友二(くりばやし ともじ、1898年1月3日 - 1977年8月8日)は、日本の実業家・篤志家・馬主。 実業家・政治家の栗林五朔の息子として北海道に生まれる。札幌中学を経て東京帝国大学農学部獣医学科を卒業後、イギリス・ケンブリッジ大学に留学。帰国後は父が興した栗林商船に入社し、後に会長を務めた。本業の傍らで競走馬の馬主としても著名であり「ミスター・ケイバ」と呼ばれ、全日本馬主協会連合会(現・日本馬主協会連合会)会長などを歴任した(後述)。1977年8月8日、肺炎により79歳で死去。 兄は栗林商船や栗林商会社長、政治家などを務めた栗林徳一。弟には南方林業の社長を務めた栗林定四朗がいる。長男・定友は栗林商船、三男・英雄は栗林運輸の社長を務めた。
久志 卓真(くし たくしん、1898年 - 1973年11月… 久志 卓真(くし たくしん、1898年 - 1973年11月1日)は、日本の音楽家・音楽評論家、書画骨董の研究者、鑑識家。 1898年(明治31年)、北海道旭川市の智山派寺院に生まれ、智山勧学院に入学、平田元吉や西田幾太郎の講義から影響を受けた。6歳から仏典・漢籍を父に仕込まれた為、12歳にして伝法灌頂を授かる。中学1年生からはヴァイオリンを習い、川島栄三郎より本格的に稽古を受けてヴァイオリニスト・作曲家としての知名度を上げ、京都基督教青年会音楽学校のヴァイオリン科主任教師となる。 1923年(大正12年)夏に過労から喀血して演奏・作曲の一線から身を引き、門下育成・執筆活動へと転向する。京都帝国大学内京都文学会発行の『芸文』へ「ベートーヴェンとスザンヌ」「未来派及び表現派の絵画の陥れる本質的誤謬を指摘して絵画の本質に及ぶ」の発表を契機に、『音楽新潮』へ音楽の批評・解説を執筆する。
室谷 邦夷(むろや くにい、1897年 <明治30年> 12… 室谷 邦夷(むろや くにい、1897年 <明治30年> 12月15日 - 1972年 <昭和47年> 4月30日)は、日本の経営者。北海道放送社長を務めた。位階は正五位。 北海道江差町出身、1905年より新潟県巻町(現・新潟市西蒲区)に住む伯母に養育された。このため新潟県出身と表記する資料も存在する。新潟県立巻中学校(現・新潟県立巻高等学校)を経て、1917年に東京薬学校を中退。 1917年3月に網走の回漕店に入社するも、同年9月に親戚が務める樺太の新聞社・樺太日日新聞社に転職し編集局社会部に配属される。 1918年に札幌で泊まっていた宿で記者募集の広告を見たことをきっかけに、北海タイムス社(現・北海道新聞社)に入社。
真田 穣一郎(さなだ じょういちろう、1897年(明治30年… 真田 穣一郎(さなだ じょういちろう、1897年(明治30年)11月21日 - 1957年(昭和32年)8月3日)は、日本の陸軍軍人。 第2総軍参謀副長・陸軍省軍務局長・参謀本部第一部長を歴任し、階級は陸軍少将功四級に至る。 屯田兵、沼貝町長真田嘉七の長男として生まれ、北海道庁立札幌第一中学校(後の北海道札幌南高等学校)・仙台陸軍地方幼年学校・陸軍中央幼年学校を経て1919年(大正8年)5月陸軍士官学校(31期)を卒業。 同年12月、陸軍歩兵少尉に任官され、歩兵第9連隊附を命ぜられる。 1922年(大正11年)12月中尉に進級し、1924年(大正13年)12月26日陸軍大学校(39期)に入校。1927年(昭和2年)12月6日卒業する。
川島 千代吉(かわしま ちよきち、1897年(明治30年)1… 川島 千代吉(かわしま ちよきち、1897年(明治30年)10月30日 - 1964年(昭和39年)11月14日)は、大正から昭和時代の政治家。公選初代北海道花咲郡歯舞村長。 北海道花咲郡珸瑤瑁村(現・根室市)に生まれる。高等尋常小学校を卒業後、昆布採取業、カニ漁業に従事する。1947年(昭和22年)歯舞村長選挙に民主党から出馬し、日本社会党の佐野信に圧倒的な大差をつけ当選した。その後、3期連続当選した。 3期目は、根室市への合併反対を貫いたものの村議会の反発にあい、1957年(昭和32年)10月の選挙で合併賛成派の竹村幸太郎に敗れ落選した。その後、1961年(昭和36年)根室市議会議員選挙に当選し、厚生常任委員長、総務常任委員などを務めた。
橋本 彦七(はしもと ひこしち、1897年(明治30年)8月… 橋本 彦七(はしもと ひこしち、1897年(明治30年)8月11日 - 1972年(昭和47年)9月12日)は、日本の政治家、技術者。熊本県水俣市長(4期)。日本窒素肥料株式会社(現・チッソ)水俣工場勤務時代、水銀触媒を用いたアセトアルデヒドと酢酸の合成法を発明。1938年(昭和6年)から1946年(昭和21年)まで水俣工場長を務めた。 現在の北海道札幌市に南部家の四男として生まれる。旧制札幌第一中学校卒業後、1916年(大正5年)、東京市日本橋在住の橋本家の養子となる。1919年(大正8年)、東京高等工業学校電気化学科(現・東京工業大学)卒業。同年、日本窒素肥料(現・チッソ)に入社。 1931年(昭和6年)、橋本らは、カーバイトからアセチレンを作り,これを水銀触媒を使ってアセトアルデヒドに変える一連の合成方法を発明し、特許原簿に登録した。
石森 延男(いしもり のぶお、1897年6月16日 - 19… 石森 延男(いしもり のぶお、1897年6月16日 - 1987年8月14日)は、日本の児童文学者、国語教育学者、教科書編集者。第二次世界大戦前1939年の『咲きだす少年群』で第3回新潮社文芸賞、大戦後は1957年刊行のベストセラー『コタンの口笛』(全2部)で第1回未明文学賞および第5回産経児童出版文化賞を、1962年の『バンのみやげ話』で第1回野間児童文芸賞を受賞。『石森延男児童文学全集』全15巻がある。 1897年(明治30年)、歌人で「われらが愛する北海道」の作詞者でもある石森和男の長男として北海道札幌市に生まれる。中央区南6条西9丁目に生誕地の碑がある。 東京高等師範学校第二部国語国文科に入学、在学中より詩作や口演童話にたずさわる[要出典]。
一ノ濵 善之助(いちのはま ぜんのすけ、1897年4月20日… 一ノ濵 善之助(いちのはま ぜんのすけ、1897年4月20日 - 1962年9月9日)は、北海道亀田郡七飯町出身で井筒部屋に所属した力士。本名は大塚 善作(旧姓佐々木、高橋)。175cm、83kg。最高位は西前頭4枚目。引退後は7代九重を一時期襲名し、後進の指導につとめた。 1916年1月初土俵、1922年5月十両昇進。1924年5月入幕した。オートバイの運転が得意だった。1928年10月を以て引退、九重を襲名する。1930年10月株の持ち主である同じ部屋の大関豊国が引退したために、廃業した。 ※預りが白岩に1つ、引分が綾鬼に1つ、若常陸に2つある。 大江嶽→一ノ濵(1920年5月)
瀬尾 俊三(せお しゅんぞう、1897年4月11日 - 19… 瀬尾 俊三(せお しゅんぞう、1897年4月11日 - 1980年9月17日)は、日本の経営者。雪印乳業社長を務めた。 北海道札幌市出身。札幌第一中学校(現・北海道札幌南高等学校)を経て、1922年に早稲田大学商学部を卒業。東海林太郎とは大学時代に同じ下宿にいた親友。 名古屋銀行での勤務を経て、1926年に北海道酪農販売組合連合会主事に就任し、1938年に専務、1950年6月に雪印乳業専務、1957年5月に副社長を経て、1963年5月に社長に就任。1971年5月に会長を経て、1973年5月には相談役に就任した。 1963年に藍綬褒章を受章し、1967年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1980年9月17日、急性肺炎のために死去。
井上 清(いのうえ きよし、1897年〈明治30年〉4月 -… 井上 清(いのうえ きよし、1897年〈明治30年〉4月 - 1996年〈平成8年〉9月30日)は、日本の時計職人。北海道札幌市のシンボルともいえる札幌時計台の修理を1933年(昭和8年)に始め、以来、3日に一度は必ず時計台の保守を行う作業を、半世紀にわたって無償で手掛け、「時計台のお医者さん」と呼ばれた。長男は同じく時計台の保守を手掛けた時計職人の井上和雄。 1897年(明治30年)4月に、北海道札幌郡広島村(後の恵庭市)で誕生した。小学校を卒業後、自らの意思で、進学ではなく就職の道を選んだ。 実家は祖父の代に山口県から北海道に入植した家で、父は旧国鉄の職員であったが、その仕事を嫌ったこと、機械いじりが好きだったことで、16歳で時計店に務めた。
太刀光 電右エ門(たちひかり でんえもん、1897年3月29… 太刀光 電右エ門(たちひかり でんえもん、1897年3月29日 - 1952年5月15日)は、北海道三笠市出身で高砂部屋(入門時は友綱部屋)に所属した大相撲力士。本名は八田 政次(はった まさつぐ(まさじ))。最高位は東大関。 1897年3月29日に北海道空知郡(現:北海道三笠市)で鉱夫の二男として生まれる。1912年の夏に太刀山峯右エ門一行が札幌へ巡業に来た際に兄に付き添われて直接弟子入りを志願したが、小兵だったことで見込みが無いと判断され、諭された上に断られた。それでも政次少年は熱心に入門を志願したため、太刀山自ら「厳しい修行に耐えられるか」と問い、その様子を傍で見ていた代議士も口添えしてくれたため、友綱部屋への入門を許可された。
吉谷 一次(よしたに いちじ、1897年〈明治30年〉3月1… 吉谷 一次(よしたに いちじ、1897年〈明治30年〉3月14日 - 1990年〈平成2年〉3月23日)は、日本の政治家。北海道函館市長(3期)。位階は正六位。 長野県生まれ。吉谷重平の長男。1918年(大正7年)、北海道帝国大学土木専門部卒。卒業後は北海道炭礦汽船に入り、土木技師として活動する。1920年(大正9年)に函館区水道拡張事業所(現・函館市企業局上下水道部)に移り、市水道課長、同水道部長、助役を経て、1955年(昭和30年)の函館市長選挙に立候補し、現職の宗藤大陸を破って初当選した。同年5月2日に市長に就任した。在職中は市勢拡大の時期であり、道南の中核都市としての都市計画が一層進んだ。
有末 次(ありすえ やどる、1897年(明治30年)2月7日… 有末 次(ありすえ やどる、1897年(明治30年)2月7日 - 1943年(昭和18年)8月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 北海道出身。有末孫太郎(村長・京極農場支配人・屯田工兵大尉)の息子として生まれる。上川中学を経て、陸軍士官学校(31期)、陸軍大学校(41期)を卒業。 参謀本部作戦班長・教育課長などを経て、1940年に関東軍作戦課長となり、ノモンハン事件後の関東軍の建て直しに当たった。日米開戦には反対の立場をとり、1941年、大本営陸軍参謀部第20班長として戦争回避を唱えたが阻止できなかった。 太平洋戦争開戦後は第17軍高級参謀などを経て、1942年、第8方面軍作戦課長としてラバウルに赴任し、翌1943年には陸軍少将・同方面軍参謀副長となり今村均大将を補佐する。
薄田 美朝(すすきだ よしとも、1897年1月16日 - 1… 薄田 美朝(すすきだ よしとも、1897年1月16日 - 1963年4月16日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。官選県知事、警視総監、衆議院議員。 秋田県出身。薄田正美の長男として生まれる。函館中学、旧制第二高等学校を経て、1920年7月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1919年10月、高等試験行政科試験に合格。1920年7月、内務省に入り大阪府属兼警部として警察部特別高等警察課に配属された。 1921年11月、香川県警視となり警察部に勤務。1923年2月、朝鮮総督府に転じ総督官房庶務部に勤務し、警務局に異動。 1926年12月、地方事務官として栃木県農商課長に就任。以後、内務事務官・警務官、岡山県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、広島県書記官・警察部長、京都府書記官・警察部長、警視庁警務部長などを歴任。
黒川 利雄(くろかわ としお、1897年〈明治30年〉1月1… 黒川 利雄(くろかわ としお、1897年〈明治30年〉1月15日 - 1988年〈昭和63年〉2月21日)は、日本の内科学者、医学博士。東北大学医学部教授・学部長、同大学第10代総長。専門は内科学、消化器病学、臨床放射線学、特に消化管のレントゲン診断学。財団法人宮城県対がん協会を設立、日本初のがん集団検診(胃がん)を行った。正三位。勲一等瑞宝章。勲一等旭日大綬章。文化勲章受賞、文化功労者。日本学士院長。仙台市名誉市民。東京都名誉都民。北海道三笠市出身。東京で死去、享年91。子息に黒川雄二。 1897年1月15日、北海道空知郡三笠山村大字幾春別(現:三笠市幾春別町2丁目)で、福井県人黒川利三吉と熊本県人母ツネの5男3女の長男として誕生。
新田 純興(にった すみおき、1897年1月14日 - 19… 新田 純興(にった すみおき、1897年1月14日 - 1984年8月1日)は、北海道出身のサッカー選手、サッカー指導者。東京帝国大学工学部冶金学科卒業。
若木 勝蔵(勝藏、わかき かつぞう、1897年〈明治30年〉… 若木 勝蔵(勝藏、わかき かつぞう、1897年〈明治30年〉1月10日 - 1969年〈昭和44年〉11月9日)は、大正・昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 北海道岩内郡、のちの岩内町で生まれる。1916年(大正5年)札幌師範学校本科一部を卒業した。 虻田第一小学校、札幌北九条小学校、札幌師範学校訓導、小樽市潮見台小学校長、札幌市中央創成小学校長、同市西創成小学校長を歴任。この間、教材の改良などを行い、児童の自発的な活動を重視した教育を実践した。 1945年(昭和20年)12月、札幌市教職員組合委員長に就任。1946年(昭和21年)北海道教員組合(現北海道教職員組合)初代委員長となる。
工藤 良一( くどう りょういち、1896年10月2日 - … 工藤 良一( くどう りょういち、1896年10月2日 - 1959年1月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。