仁井田 陞 (にいだ のぼる、1904年〈明治37年〉1月… 仁井田 陞 (にいだ のぼる、1904年〈明治37年〉1月1日 - 1966年〈昭和41年〉6月22日)は、日本の法制史学者。東京大学名誉教授。中田薫門下。中国法制史の開拓者として知られる。正三位勲二等瑞宝章。宮城県仙台市生まれ。 旧制松本高等学校文科甲類を経て、1928年に東京帝国大学法学部を卒業。東方文化学院東京研究所研究員に着任。第二次世界大戦中は華北農村、北京商工ギルドの調査に従事。戦後その研究成果として、法社会学的な観点も取り入れた『中国の社会とギルド』『中国の農村家族』を著した。本業の中国法制史の分野でも、『中国法制史』『中国法制史研究』(朝日賞受賞)などの大著を世に送り、学会をリードした。
前島 昇(1904年 - 不明)は、満洲国、晋北自治政府、蒙… 前島 昇(1904年 - 不明)は、満洲国、晋北自治政府、蒙古聯合自治政府の日本人官僚。 宮城県仙台市出身。家は仙台藩の儒学者の出であるという。第二高校に進学、独文科3年生の時に水泳部設置運動に関わる。東北帝国大学法文科に進学し、在学中は応援団長を務めた。1928年卒業後は長野県庁職員で、社会課社会事業主事補、農林主事であったが、満洲国に渡り、実業部農務司となる。間もなく吉林省磐石県参事官として宣撫工作に功を上げる。この際、匪賊との接触を断つべく、農民を一か所に強制移住させる「集団部落」構想を立案したとされ、500ページにわたる提言書を提出。阿城県副参事を経て、大同学院教授。 1937年10月15日、晋北自治政府が成立すると軍の依頼で最高顧問に就任。
庄司 浅水(しょうじ せんすい、1903年11月10日 - … 庄司 浅水(しょうじ せんすい、1903年11月10日 - 1991年9月7日)は、日本の書誌学研究家、ノンフィクション作家。ミズノプリンティングミュージアム名誉館長。日本出版学会、日本ペンクラブ、グロリアクラブ、各会員である。 元京都外国語大学専任講師。書物研究の傍ら、世界の奇談を紹介した。 宮城県仙台市出身。本名は喜蔵。三田英学校(現在の錦城学園高等学校)卒業。1925年、南葵音楽文庫に勤務。 1929年に「ぐろりあそさえて」から実質的な処女作『書籍装釘の歴史と実際』を刊行。1930年に装釘同好会を結成。1931年に佐々木幸四郎、斎藤昌三らと雑誌「書物展望」を創刊。また、書誌出版を志してブックドム社を設立。
大槻 文平(おおつき ぶんぺい、1903年9月27日 - 1… 大槻 文平(おおつき ぶんぺい、1903年9月27日 - 1992年8月9日)は、日本の実業家。三菱鉱業セメント社長、三菱鉱業会長、旧日経連(現経団連)会長を歴任した。宮城県名誉県民。 宮城県伊具郡丸森町に生まれる。第一高等学校を経て、1928年東京帝国大学法学部卒業。同年、三菱鉱業株式会社に入社。1950年同社取締役、1955年同社常務取締役、1959年同社副社長、1963年同社代表取締役社長。1973年三菱鉱業セメント株式会社代表取締役社長、1976年同社取締役会長、1986年同社取締役相談役。1992年三菱マテリアル株式会社最高顧問・相談役。 社外では、日本セメント協会会長(1975年 - 1990年)、日経連会長(1979年 - 1987年)、金曜会代表世話人(1979年 - )、日本弘道会理事(1984年 - )などを歴任した。
杉谷 武雄(すぎや たけお、1903年 <明治36年> 8月… 杉谷 武雄(すぎや たけお、1903年 <明治36年> 8月7日 - 1992年 <平成4年> 3月9日)は、日本の経営者。三井信託銀行社長を務めた。位階は正四位。 宮城県仙台市出身。1926年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に三井信託銀行に入行。1948年10月に取締役に就任し、1957年11月に常務を経て、1960年5月には社長に就任。1968年11月に会長に就任し、1971年5月に取締役相談役を経て、1972年5月には相談役に就任。 1965年10月に藍綬褒章を受章し、1974年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1992年3月9日に脳梗塞のために死去。88歳没。死没日付をもって正四位に叙された。
澤 蘭子(さわ らんこ、1903年7月25日 - 2003年… 澤 蘭子(さわ らんこ、1903年7月25日 - 2003年1月11日)は、日本の女優である[4][5][6][7][8][9]。新漢字表記沢 蘭子[4][5][6][8]。出生名澤 靜子(さわ しずこ)、松本四良との婚姻時の本名は松本 静子(まつもと しずこ)[7]、死去時の本名は澤 志づ子(さわ しづこ)、旧芸名泉 らん子(いずみ らんこ)、泉 蘭子(いずみ らんこ)[4]、澤 らん子(さわ らんこ)[4][5]。帝国キネマ演芸が製作・配給して大ヒットとなったサイレント映画『籠の鳥』(1924年)のヒロインとして知られる。
日沖 憲郎(ひおき のりお、1903年7月2日 - 1993… 日沖 憲郎(ひおき のりお、1903年7月2日 - 1993年4月8日)は、日本の刑法学者、裁判官、弁護士、法学博士。 三重県出身。小野清一郎らに師事、刑法学者として改正刑法準備草案、ついで改正刑法草案の作成に関わる。戦後政財界の主な汚職事件で弁護団に参加、ロッキード事件では全日空の若狭得治の主任弁護士として活動した。訳書にイェーリング著『権利のための闘争』(岩波文庫)がある。
高橋 進太郎(たかはし しんたろう、1902年12月18日 … 高橋 進太郎(たかはし しんたろう、1902年12月18日 - 1984年6月5日)は、戦後昭和期の日本の政治家。参議院議員(3期)、行政管理庁長官(第20代)、宮城県知事(公選第7代)。 1902年(明治35年)生まれ、現白石市出身。1928年(昭和3年)、東北帝国大学(現・東北大学)法文学部を卒業した。高等文官試験に合格し、1936年(昭和11年)からはパラオ諸島コロールにあった南洋庁において、拓殖部長として南洋諸島の行政に関わった。拓務省企画課長、大東亜省行政課長などを歴任。 南洋諸島では1943年(昭和18年)12月から日本本土への帰還が始まり、海外移住組合連合会がそれを担っていたが、1944年(昭和19年)2月17日、18日のトラック島空襲や3月30日、31日のパラオ大空襲を受けて、同年4月に大東亜省が「財団法人南洋群島共助義会」を設立し、帰還を担当させた。
清瀬 英次郎(きよせ えいじろう、1902年(明治35年)1… 清瀬 英次郎(きよせ えいじろう、1902年(明治35年)12月14日 - 1941年(昭和16年))は、日本の映画監督、脚本家である。 1902年(明治35年)12月14日、宮城県仙台市立町(現在の同県同市青葉区立町)に生まれる。本籍は山形県東置賜郡和田村(現在の同県同郡高畠町和田地区)にあった。仙台市立立町尋常小学校(旧制尋常小学校、現在の仙台市立立町小学校)、宮城県立仙台第二中学校(旧制中学校、現在の宮城県仙台第二高等学校)を卒業、旧制専門学校の青山学院英文科(現在の青山学院大学)に入学する。 同学在学中に当時、松竹蒲田撮影所脚本部に在籍していた伊藤大輔の指導を受けつつ、脚本執筆の手伝いをはじめる。
山田 三郎太(やまだ さぶろうた、1902年11月29日 -… 山田 三郎太(やまだ さぶろうた、1902年11月29日 - 1967年9月12日)は、日本の経営者。 宮城県仙台市出身。1927年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に凸版印刷に入社。1937年に取締役に就任し、1941年に常務、1943年に専務を経て、1948年12月には社長に就任。1950年からは東京書籍社長も務めた。 1967年9月12日、肝臓病のために死去。64歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
岡田 温(おかだ ならう、1902年(明治35年)6月2日(… 岡田 温(おかだ ならう、1902年(明治35年)6月2日(6月1日とする文章もある) - 2001年(平成13年)4月26日)は、昭和期の図書館学者(図書館史)。第3代(最後)の帝国図書館長である。 宮城県仙台市出身。7歳で養子に出され、府立四中、旧制一高(理科甲類)を経て、1923年東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学。この間、植村正久の下でキリスト教の洗礼を受けた。肋膜炎で休学した後、社会学科へ転科し、1928年に東京帝国大学文学部社会学科を卒業。同年、帝国図書館に入り、当時、帝国図書館館長であった松本喜一から信任を受けて、後に司書の長である司書官に任じられた。 太平洋戦争終結直後の1945年11月13日に松本が急死したため、1946年5月13日に岡田が後任の帝国図書館長となる。
野副 鉄男(のぞえ てつお、1902年5月16日 - 199… 野副 鉄男(のぞえ てつお、1902年5月16日 - 1996年4月4日)は、日本の化学者、理学博士。台北帝国大学教授を経て、戦後、東北大学理学部教授、同大学名誉教授。文化勲章受章者、日本学士院会員、仙台市名誉市民(本籍地は東京都新宿区)。 宮城県仙台市に生まれる。旧制仙台一中、旧制二高を経て、1926年(大正15年)に東北帝国大学理学部化学科を卒業。同年7月当時日本領であった台湾に渡り台湾総督府専売局に勤務する。1927年(昭和2年)工業部に籍を置き、台湾総督府中央研究所助手となる。1929年(昭和4年)台湾に台北帝国大学が新設されると理農学部化学科助教授に就任し、有機化合物の構造研究や大学の教育に尽力した。
平井 弥之助(ひらい やのすけ、1902年(明治35年)5月… 平井 弥之助(ひらい やのすけ、1902年(明治35年)5月16日 - 1986年(昭和61年)2月21日)は日本の電力土木技術者、電力事業経営者。昭和時代の電力開発に卓越した見識と強い使命感をもって貢献したと伝承されている。また女川原子力発電所等の建設にあたっては貞観地震、慶長三陸地震による大津波を考慮した適切な技術的助言を与えた。平井彌之助とも書く。 主な経歴は『土木史研究』第18号による。 平井は次に示す伝承のように、技術者としての合理性と電気事業者としての責任感に基づいて地震・津波対策の重要性を説いた。地震・津波の恐ろしさを実感していたと云われ、「貞観大津波(869年)は岩沼の千貫神社まで来た」と語っていたという。
大泉 孝(おおいずみ たかし、1902年(明治35年)4月1… 大泉 孝(おおいずみ たかし、1902年(明治35年)4月12日- 1978年(昭和53年)9月7日)は日本の昭和時代のイエズス会司祭、教育者。上智大学第5代学長。洗礼名はフランシスコ・ザビエル。 宮城県柴田郡大河原町のカトリックの家庭に生まれる。柴田農林学校、宮城農学校を経て1924年(大正13年)に上智大学哲学科に入学し、1929年(昭和4年)渡欧してイエズス会に入会する。オランダのファルケンブルク大学とイギリスのヒースロップ大学(英語版)で神学を修め、1937年(昭和12年)に司祭となる。 1939年(昭和14年)に帰国して上智大学教授、翌年理事となる。1945年(昭和20年)4月に副総長(のちに副学長と改称)、1951年(昭和26年)上智学院理事長、1953年(昭和28年)大学長となる。
桂田 利吉(かつらだ りきち、1901年(明治34年)10月… 桂田 利吉(かつらだ りきち、1901年(明治34年)10月5日 - 1992年(平成4年)2月6日)は、日本の英文学者。法政大学教授、実践女子大学第6代学長。コールリッジ研究の第一人者。 宮城県柴田郡村田町生まれ。1929年東北帝国大学法文学部卒。1930年高等学校英語科教員免許取得。 1930年、宮城県立女子専門学校教授、1941年同校依願退職。同年横浜専門学校教授、1945年同校依願退職。 1945年、法政大学専門部教授、1946年同大文学部講師、1959年同教授、1960年「コウルリッヂ研究」で文学博士。 1969年実践女子大学教授。1972年、勲三等瑞宝章。1974年から78年まで学長。
北村 勝衛(きたむら かつえい、1901年8月20日 - 1… 北村 勝衛(きたむら かつえい、1901年8月20日 - 1987年10月27日)は、日本の歯科医師、歯科教育者。松本歯科大学の初代学長を務めた。日本の歯科医療と教育の発展に尽力した。 宮城県に生まれる。1921年(大正10年)に旧制古川中学校(現・宮城県古川高等学校)を卒業後、日本歯科大学に進学し、歯科医学を修めた。大学卒業後、歯科医療に従事しながら教育者としての道を歩み、日本歯科大学で教授として教鞭を執る。特に歯科補綴学の分野で指導を行った。その後、松本歯科大学の初代学長に就任し、大学の発展に寄与した。松本歯科大学では、歯科補綴学第二講座を開設し、補綴治療(入れ歯や被せ物などの治療)の教育と研究に尽力した。
小野 さつき(おの さつき、明治34年(1901年)6月14… 小野 さつき(おの さつき、明治34年(1901年)6月14日 - 大正11年(1922年)7月7日)は、日本の教育者。水難事故に遭った教え子を救おうとして殉職し、全国的な反響を呼んだ。 宮城県刈田郡福岡村(現・白石市)出身。5人兄弟(兄3人・姉)の末っ子で二女。中岡小学校へ入学。3年生の終わり頃に中岡小学校が福岡小学校との合併に伴い福岡小学校に転校する。白石実科高等女学校(現・宮城県白石高等学校)から1918年(大正7年)宮城県女子師範学校(現・宮城教育大学)へ進学。宮城県女子師範学校在学中は3度も級長に選出された。1922年(大正11年)師範学校を卒業し、同年4月4日に宮城県刈田郡宮尋常高等小学校(現・蔵王町立宮小学校)へ訓導として赴任。
石川 善助(いしかわ ぜんすけ、1901年〈明治34年〉5月… 石川 善助(いしかわ ぜんすけ、1901年〈明治34年〉5月16日 - 1932年〈昭和7年〉6月27日)は、日本の詩人。 宮城県仙台市国分町芭蕉の辻(現・青葉区内)に生まれる。生家は小間物問屋だった。幼少時に柿の木から落下する事故に遭い、片足が不自由となる。1914年(大正3年)に市立仙台商業学校(現・仙台市立仙台商業高等学校)へ入学。商業学校時代から詩作を始める。一方、入学翌年に生家が破産した。 商業学校卒業後、酒販店の勤務を経て、1920年から藤崎呉服店計算課に勤める。1923年に同人誌『感触』を友人とともに発行する。1924年には『日本詩人』に初めて詩が掲載された。この年、前年廃刊にした『感触』のメンバーも含める形で『北日本詩人』を創刊する。
竹谷 源太郎(たけや げんたろう、1901年(明治34年)2… 竹谷 源太郎(たけや げんたろう、1901年(明治34年)2月14日 - 1978年(昭和53年)9月12日)は、日本の政治家、内務官僚、弁護士。衆議院議員。 宮城県伊具郡角田町(現角田市)で呉服商・竹谷源平、いち夫妻の長男として生まれる。1918年、宮城県立角田中学校を卒業し、東京高等商業学校に入学したが、体操教官(陸軍中佐)の態度に反発し退学。同年、第一高等学校に編入し、1924年、東京帝国大学法学部法律学科(仏法)を卒業。卒業後はアメリカ合衆国でデパートメント・ストアの研究を希望していたが、友人が相談もなく手続きをした高等試験行政科試験を受けて1924年11月に合格。同年、内務省に入省し静岡県属となる。
早坂 冬男(はやさか ふゆお、1901年(明治34年)2月8… 早坂 冬男(はやさか ふゆお、1901年(明治34年)2月8日 - 1976年(昭和51年)6月10日)は、日本の内務官僚。最後の官選青森県知事。 宮城県加美郡小野田村出身。早坂伊勢松の二男として生まれる。宮城県仙台第二中学校、第二高等学校文科甲類を卒業。1925年11月、高等試験行政科試験に合格。1926年、東京帝国大学法学部英法科を卒業。内務省に入省し千葉県属となる。 以後、山形県、熊本県、新潟県、富山県、岐阜県などで勤務。さらに、大阪府工場課長を経て、1945年、北海道庁内務部長に就任。 1947年3月、青森県知事に就任。県議会議員選挙、知事選挙などを執行して同年4月に知事を退任。その後、公職追放となった。
尾形 亀之助(おがた かめのすけ、1900年〈明治33年〉1… 尾形 亀之助(おがた かめのすけ、1900年〈明治33年〉12月12日 - 1942年〈昭和17年〉12月2日)は、日本の詩人。宮城県柴田郡大河原町出身。東北学院普通部中退。 近代に活躍した詩人で、「歴程」の創刊同人。大河原町の繁昌院に墓がある。 1920年石原純、原阿佐緒らの歌誌「玄土」に参加して短歌を発表。1921年(21歳)に結婚して上京、妻タケの叔父、木下秀一郎 のすすめで未来派美術協会第2回展(上野 青陽楼)に出品、〈競馬〉〈朝の色感〉は『中央美術』の批評に取り上げられる。1922年、会員となり同第三回展「三科インデペンデント展」〈コンダクター〉など7点。 同年、仙台の個展で発表したとされる〈化粧〉が、現存するただ1点。
只野 直三郎(ただの なおさぶろう、1900年〈明治33年〉… 只野 直三郎(ただの なおさぶろう、1900年〈明治33年〉10月2日 - 1984年〈昭和59年〉9月26日)は、日本の政治家、衆議院議員 (3期)。陸軍司政官。 宮城県大崎市出身。1932年(昭和7年)、東北帝国大学法文学部を卒業。東北中学の教諭や東北薬学専門学校の講師を経て、1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙に非推薦で立候補したが落選した。同年、陸軍司政官となった。他にも東北中学・商業学校校長代理や東北農学校長などの役職を務め、1946年(昭和21年)に日本人民党を結成して党首となった。同党は実質的に只野の個人政党であったが、1947年(昭和22年)第23回衆議院議員総選挙に宮城1区から立候補し初当選した。
加藤 正義(かとう まさき、1900年6月1日 - 1996… 加藤 正義(かとう まさき、1900年6月1日 - 1996年1月1日)は、日本の政治家、教育者。宮城県角田市長(初代・2代・3代)。元宮城県議会議員(1期)。元角田町長。角田市名誉市民。位階は正六位。 1900年(明治33年)に現在の角田市内で生まれ、1918年(大正7年)3月、角田中学校を卒業し、1919年(大正8年)宮城師範学校本科第2部を卒業。角田小学校などの校長を務めた。 戦後1947年(昭和22年)の宮城県議会議員選挙に当選し、県議会議員となった。 1954年(昭和29年)10月の新設合併により拡大した角田町の町長選挙が11月に行われ出馬し、当選。初代町長に町長に就任した。1958年(昭和33年)10月1日、市制施行により角田市が誕生。
白石 稔(しらいし みのる、1900年 <明治33年> 5月… 白石 稔(しらいし みのる、1900年 <明治33年> 5月2日 - 1985年 <昭和60年> 11月12日)は、日本の経営者。三菱製紙社長を務めた。位階は従四位。 宮城県仙台市出身。1923年に東京帝国大学法学部法科を卒業し、同年に三菱製紙に入社。1947年に取締役に就任し、1949年に常務を経て、1957年12月から1963年5月までに社長を務めた。奥野煕社長の体調不良により、再び1965年5月から1970年5月までに社長を務め、1970年5月から1973年5月までに会長を務めた。 1963年に藍綬褒章を受章し、1968年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1985年11月12日心不全のために死去。
佐左木 俊郎(ささき としろう、1900年(明治33年)4月… 佐左木 俊郎(ささき としろう、1900年(明治33年)4月14日 - 1933年(昭和8年)3月13日)は、日本の小説家。農民(百姓)の辛さ、愚かさ、悲しさ、したたかさ、美しさを、じっと見据えつづけた作家である。宮城県大崎市の農家出身。鉄道員、小学校の代用教員などののち新潮社に入り、『文学時代』などを編集。加藤武雄に兄事し、新興芸術派に属して猟奇小説、探偵小説などを書き、農民文芸会に属し活動したが早世した。 川端康成は、「農民文学」「農民小説」の旗手の佐左木の夭折を惜しみ、不当に扱われた作家として、その才能の「尊さ」を評し、「(農民作家で)見るに足る作品活動を示してゐたのは、芸術派では、実に佐左木氏たゞ一人だつた」とし、「嘉村礒多氏の全集が出るのに、佐左木俊郎氏の農民小説は忘れられかかつてゐる。
早坂 順一郎(はやさか じゅんいちろう、1900年(明治33… 早坂 順一郎(はやさか じゅんいちろう、1900年(明治33年)4月4日 - 1981年(昭和56年)1月22日)は、日本の実業家。徳陽相互銀行、東北放送社長などを務めた。 1917年旧制古川中学校(宮城県古川高等学校)を卒業。建築業に従事し、古川町、古川市議会議員、同議会議長を務め、その傍ら太洋無尽の外交員にもなり、1940年3月には古川出張所長に就いた。1942年4月、太洋無尽、東北無尽、宮城無尽が戦時統合で「三徳無尽」として発足すると、古川支店長、副社長を経て、1950年に社長となった。1951年10月、相互銀行法の施行に伴い、三徳無尽は「徳陽相互銀行」に商号を改めている。 宮城県内企業の首都圏との結びつきに早くから着目し、県外への出店を積極的に進めた。
赤坂 武(あかさか たけし、1900年 <明治33年> 1月… 赤坂 武(あかさか たけし、1900年 <明治33年> 1月18日 - 1971年 <昭和46年> 6月6日)は、日本の経営者。日本鋼管社長を務めた。位階は従三位。 宮城県角田市出身。1925年に東北帝国大学法文学部経済学科を卒業。 日本生命保険での勤務を経て、1939年に日本鋼管に転じ、1949年2月に取締役、1959年5月に常務、1961年11月に副社長を経て、1963年11月に社長に就任。経済団体連合会、日本経営者団体連盟各常任理事も務めた。 1965年に藍綬褒章を受章し、1970年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1971年6月6日、胃癌のために死去。71歳没。死没日付をもって従三位に叙され、勲一等瑞宝章を追贈された。
八巻 芳夫(やまき よしお、1899年11月10日 - 19… 八巻 芳夫(やまき よしお、1899年11月10日 - 1990年)は、日本の土木技術者、都市計画家。仙台市の戦災復興都市計画に従事・尽力。 青葉通り、定禅寺通りのケヤキ並木道の設計者。丸森町出身。 東北帝国大学附属工学専門部/旧制仙台高等工業学校土木工学科卒業後、朝鮮総督府に勤務。総督府で地方出先の土木課長などを歴任。朝鮮時代に乱伐された山林をみて緑のない地方道は次々に並木を整備していったという。 1946年に帰国し、仙台市に勤務。仙台市戦災復興局建設部公営課長から後に建設局復興部長、建設局長を歴任。1959年からは仙台市技監。1966年に退職。その後土地区画整理審議会全国連合会などに関わる。
小室 達(こむろ とおる、1899年〈明治32年〉8月10日… 小室 達(こむろ とおる、1899年〈明治32年〉8月10日 - 1953年〈昭和28年〉6月18日)は、日本の彫刻家。 1899年(明治32年)8月10日、宮城県柴田郡槻木村大字入間田(現・柴田町)に、小室源吾(後の槻木町長)の三男として生まれた。 1919年(大正8年)、(旧制)白石中学校(現・宮城県白石高等学校)を卒業すると、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科塑造部に進学した。その後、同校を首席で卒業し、研究科に進んだ。 第4回帝展(帝国美術院展覧会、現日展)に「想」を初出品すると、第5回帝展からは無鑑査となり、27歳ながら日本美術界での地位を確立した。第6回の帝展には「構想」を出品し、特選となった。
熱海 景良(あつみ けいりょう、1899年(明治32年)2月… 熱海 景良(あつみ けいりょう、1899年(明治32年)2月23日 - 1944年(昭和19年)2月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中佐。日本のジオイドを初めて計算した人物として知られる。 1899年(明治32年)、宮城県桃生郡野蒜村(現東松島市)に熱海安吉、ひさよの長男として出生。大阪陸軍地方幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月28日に陸軍士官学校(31期)を卒業し、同年12月25日に工兵少尉に任官、工兵第19大隊付となる。陸軍砲工学校(28期)普通科を卒業後、1922年(大正11年)12月15日に工兵中尉に昇進し、1923年(大正12年)12月28日、陸地測量部班員に補される。
寺坂 源雄(てらさか もとお、1898年10月12日 - 1… 寺坂 源雄(てらさか もとお、1898年10月12日 - 1991年11月5日)は、日本の医学者、日本薬理学会会長。東北大学医学部名誉教授。朝鮮総督府京城医学専門学校教授。 宮城県古川市(現・大崎市古川)に生まれる。宮城県古川高等学校卒業。東北大学医学部卒業。
萱場 四郎(かやば しろう、1898年 - 1974年)は宮… 萱場 四郎(かやば しろう、1898年 - 1974年)は宮城県出身のエンジニアであり兵器開発者。萱場工業を創設した。後に萱場 資郎と改名。 宮城県宮城郡七郷村にて1898年(明治31年)4月1日、萱場富次郎の二男として生まれる。生家は平家の末裔と言われる素封家で、祖父の利兵衛は小学校長及び村長を務めた。四郎は東北学院中等部を1916年(大正5年)3月に卒業し、早稲田大学理工科に進学。1919年(大正8年)11月に萱場発明研究所を東京市芝区日之出町に開設する。同年大学を中退。1921年(大正10年)に海軍艦政本部の嘱託となる。1923年(大正12年)関東大震災で被災したため発明研究所を閉鎖したが、1927年(昭和2年)1月に芝区西応寺町で新たに萱場製作所を創業。
真砂石 三郎(まさごいわ さぶろう、1897年12月14日 … 真砂石 三郎(まさごいわ さぶろう、1897年12月14日 - 1944年3月7日)は、宮城県栗原郡栗駒町(現栗原市)出身で尾車部屋、峰崎部屋、片男波部屋、伊勢ノ海部屋に所属した大相撲力士。本名は石川 三郎治。174cm、85kg。最高位は東前頭5枚目。 1916年5月尾車部屋より初土俵、その後兄弟子の三杦磯と行動をともにした。1920年5月十両昇進。1922年1月入幕し、この場所は優勝旗手を務めた。立合いの駆け引きがうまく、よく言えば「後の先」、悪く言えばペテン立ちの傾向があった。1927年10月に廃業してブラジルに渡り、料理店を経営。またブラジル相撲協会を立ち上げた。 陸奥ノ山→真砂石(1924年5月)
千 嘉代子(せん かよこ、1897年〈明治30年〉10月6日… 千 嘉代子(せん かよこ、1897年〈明治30年〉10月6日 - 1980年〈昭和55年〉9月7日)は、日本の茶人。茶道裏千家家元の14代千宗室の妻。 宮城県仙台市に生まれる。旧姓は伊藤。実家は造り酒屋と仙台平の織元を営む素封家。 1915年(大正4年)東華高等女学校(現在の宮城県仙台二華中学校・高等学校)卒。 実家が東北の有力な裏千家流支援者であったことがきっかけで、1917年(大正6年)、今日庵裏千家十四代家元千宗室(淡々斎宗室)と結婚。家元夫人として、茶道の普及発展とともに、国際茶道文化協会理事長などを務め、茶の湯の国際普及にも尽くした。また、文化活動にも尽力した。 今日庵理事、茶道裏千家淡交会名誉理事長、国際茶道文化協会理事長を歴任。
斎藤 正久(さいとう まさひさ、1897年7月20日 - 1… 斎藤 正久(さいとう まさひさ、1897年7月20日 - 1996年6月5日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 宮城県大崎市出身。商業・斎藤庄吉の息子として生まれる。旧制古川中学校(現:宮城県古川高等学校)を経て、1919年(大正8年)10月、海軍兵学校(47期)卒業。1920年(大正9年)8月、海軍少尉任官。1923年(大正12年)11月、第8期航空術学生卒。 1925年(大正14年)12月、海軍大尉に昇進し空母「鳳翔」乗組となる。この補職は、当時特別に技量優秀でなければ難しいとされた空母への着艦が努力次第で可能であることを証明するためであり、相婿である、山本五十六の推薦であった。斎藤は同時に推薦された三和義勇とともに任務を成功させた。
早川 種三(はやかわ たねぞう、1897年(明治30年)6月… 早川 種三(はやかわ たねぞう、1897年(明治30年)6月6日 - 1991年(平成3年)11月10日)は、日本の実業家。戦後数々の大型倒産において管財人として企業再建に取り組み、「会社再建の神様」と呼ばれている。 宮城県宮城郡七郷村南小泉(現仙台市)に早川智寛・長子夫妻の子として生まれる。父智寛は土建業で財を成したが、すでに第一線を退き、仙台商業会議所会頭や米穀取引所理事長などの名誉職にあった。後に仙台市長にも就任した。 慶應義塾大学在学中は茶屋遊びをはじめとする放蕩生活で遺産を蕩尽した。慶大を5回落第し、卒業するのに10年もかかった。20歳の時に父が財産分けしてくれた30万円(今だと2、3億円になる)を10年間にほぼ使い果たした。
田山 利三郎(たやま りさぶろう、1897年1月26日 - … 田山 利三郎(たやま りさぶろう、1897年1月26日 - 1952年9月24日)は、日本の地質学者。 宮城県柴田郡村田町生まれ。父は村田町長、宮城県会議員、城南軌道社長等を歴任した田山孫八。1916年、宮城県師範学校を卒業。1921年、東京高等師範学校を卒業。札幌中学校の教員となり、教え子に佐々保雄などがいた。その後は師範学校などでの訓導を勤めた。 1924年、東北帝国大学理学科地質学古生物学教室にすすみ、矢部長克のもとで学び、1927年、同教室を卒業した。卒業後東北大学で働き、1937年に南洋庁技師兼東北大学助教授、1944年依願免兼官、1945年東北大学講師、1949年に同大学教授となった。
土屋 喬雄(つちや たかお、1896年〈明治29年〉11月2… 土屋 喬雄(つちや たかお、1896年〈明治29年〉11月21日 - 1988年〈昭和63年〉8月19日)は、日本の経済学者。東京大学名誉教授。東京都生まれ。日本経済史専攻。 仙台一中卒業ののち、1918年に旧制第二高等学校を卒業し、1921年に東京帝国大学卒業。1924年、東京帝国大学経済学部助教授。日本資本主義論争では労農派の論客として活躍。人民戦線事件に連座し、大学を追放される。戦後、大学復帰。1954年に「封建社会崩壊過程の研究」により東京大学から経済学博士の学位を授与される。 1957年に東京大学を定年退官した後は明治大学、千葉敬愛経済大学、駒澤大学、拓殖大学、城西大学で教授として教鞭をとる。
村松 久義(むらまつ ひさよし、1896年7月25日 - 1… 村松 久義(むらまつ ひさよし、1896年7月25日 - 1972年5月12日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(6期)、参議院議員(1期)。 宮城県仙台市出身。1923年東京帝国大学独法科、1925年同大学経済科卒。司法官試補、検事代理、名古屋地方裁判所判事を経て、弁護士となる。1932年の第18回衆議院議員総選挙で宮城2区(当時)から立憲民政党公認で立候補して初当選する。民政党解党後は大政翼賛会国民生活動員本部長に就任、翼賛選挙では大政翼賛会の推薦を受けて当選。当選後は翼政会政調厚生委員となった。 戦後、公職追放となり、1951年に追放解除。翌年の第25回衆議院議員総選挙で自由党公認で立候補して当選し、政界に復帰した。
小倉 謙(おぐら ゆずる、1895年6月26日 - 1981… 小倉 謙(おぐら ゆずる、1895年6月26日 - 1981年3月18日)は、日本の植物学者。専門分野は植物形態学・植物解剖学。 1895年、宮城県仙台市生まれ。父は実業家・歌人の小倉長太郎(茗園)。東京帝国大学植物学科を卒業。卒業後は母校の同大学講師・助教授を経て、1938年に教授昇進。わが国における植物形態学・植物解剖学の確立・発展に尽くした。1946年から55年まで、日本植物学会会長を務めた。1956年、東京大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は横浜市立大学教授として教鞭をとった。
阿部 豊(あべ ゆたか、明治28年(1895年)2月2日 -… 阿部 豊(あべ ゆたか、明治28年(1895年)2月2日 - 昭和52年(1977年)1月3日)は、ハリウッド無声映画期の俳優、また日本の映画監督。
三浦 義男(みうら よしお、1895年(明治28年)1月8日… 三浦 義男(みうら よしお、1895年(明治28年)1月8日 - 1965年(昭和40年)2月8日)は、日本の政治家。参議院議員、宮城県知事を歴任した。 宮城県の大崎地方(旧古川市域)生まれ。宮城県立古川中学校、第二高等学校を経て、1920年(大正9年)に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業、鉄道省に入省した。 1943年(昭和18年)、運輸省(現在の国土交通省)施設局長に就任。1953年(昭和28年)、参議院議員選挙に全国区から無所属で立候補し初当選、参議院議員となった。翌1954年(昭和29年)、日本民主党に入党、国会対策委員長などを務めた。1950年から1951年までは、土木学会の会長職にもあった。
成田 一郎(なりた いちろう、1894年〈明治27年〉12月… 成田 一郎(なりた いちろう、1894年〈明治27年〉12月22日 - 1959年〈昭和34年〉7月4日)は、日本の内務官僚、政治家。兵庫県知事(官選第28代)、石川県知事(官選第36代)、台湾総督府総務長官、参議院議員(1期)。 宮城県仙台市出身。成田喜十郎の長男として生まれる。広島高等師範学校を経て、1920年(大正9年)、京都帝国大学法学部を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格。内務省に入り、埼玉県属となる。埼玉県児玉郡長、警視庁警視、内務省社会局事務官、社会局労働部労務課長、同庶務課長、資源局事務官などを歴任。 1936年(昭和11年)、内務書記官兼内務大臣秘書官となり、大臣官房人事課長、社会局労働部長、厚生省労働局長などを務める。
能勢 克男(のせ かつお、1894年8月2日 - 1979年… 能勢 克男(のせ かつお、1894年8月2日 - 1979年6月17日)は、日本の思想家、社会運動家。同志社大学法学部教授、弁護士、京都家庭消費組合、京都洛北生活共同組合(現・京都生活協同組合)初代理事長。 1894年8月2日、裁判官である父・能勢萬、国分三亥の妹である母・三美の長男として仙台片平町の裁判所官舎に生まれる。仙台第一中学校、第二高等学校を経て、1919年東京帝国大学法学部を卒業。古河合名会社に入社後、遠縁の海老名弾正、宮川経輝の紹介により1922年に同志社大学講師、1924年同教授。賀川豊彦、杉山元治郎、中島重の指導で行われていた「同志社労働者ミッション」の一環である同志社消費組合に参加、1927年柳宗悦らと上賀茂民芸協団設立。
伊藤 忍(いとう しのぶ、1894年(明治27)3月15日 … 伊藤 忍(いとう しのぶ、1894年(明治27)3月15日 - 1995年(平成7年)11月17日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。陸軍運輸部内で上陸作戦の専門家として認められた人物。 宮城県仙台市出身。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第49連隊付となる。1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業し、参謀本部外国戦史課などで勤務した。 1937年(昭和12年)8月、近衛師団参謀に就任。1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に進級し、同年7月、第17師団参謀長に転じ日中戦争に出征。宜昌作戦などに参戦した。1940年(昭和15年)8月、第14師団司令部付となり満州に赴任。
槇 有恒(まき ゆうこう、「ありつね」とも、1894年〈明治… 槇 有恒(まき ゆうこう、「ありつね」とも、1894年〈明治27年〉2月5日 - 1989年〈平成元年〉5月2日)は、宮城県仙台市出身の日本の登山家。日本山岳会設立者・会長(2期)、日本山岳協会会長・名誉会員を歴任し、ヒマラヤの8,000m峰・マナスル第3次登頂隊長として日本隊のマナスル初登頂を成功させた。近代アルピニズムの開拓者・紹介者。位階は従四位。文化功労者、仙台市名誉市民。 父・槇武は新潟県の士族であったが、幕末・維新期に仙台藩が越後国長岡藩と友好的であったことや、福澤諭吉の推薦などによって、有恒が生まれる頃は『奥羽日日新聞』主幹として仙台に赴任していた。 本籍地は東京都文京区。宮城県師範学校付属小学校、仙台第二中学校(現、宮城県仙台第二高等学校)を経て、1911年(明治44年)、慶應義塾大学部予科に入学する。
下飯坂 潤夫(しもいいざか ますお、1894年〈明治27年〉… 下飯坂 潤夫(しもいいざか ますお、1894年〈明治27年〉1月29日 - 1971年〈昭和46年〉12月26日)は、日本の裁判官、最高裁判所判事。宮城県出身。四男はシナリオ作家の下飯坂菊馬。小説家の橘かがりは孫。 旧制宮城県立仙台第一中学校、旧制第二高等学校、東京帝国大学法科大学卒業。第二次世界大戦前は鳥取地裁所長、水戸地裁所長、新潟地裁所長、大審院判事などを務め、その後は札幌高裁長官、名古屋高裁長官、大阪高裁長官を歴任。 1956年11月に最高裁判事となる。岩松三郎裁判官の後任であり、当初は安部恕東京高裁長官が候補に上ったが、安部が辞退したため下飯坂になった。 八海事件の第二次上告審では第一小法廷裁判長として単独犯行説ではなく5人犯行説をとって1962年5月17日に無罪判決を破棄し、広島高裁に差し戻す判決を言い渡した(八海事件は1968年10月に第三次上告審で無罪判決が確定した)。
守屋 和郎(もりや わろう、明治26年(1893年)11月2… 守屋 和郎(もりや わろう、明治26年(1893年)11月29日 - 昭和52年(1977年))は、日本の外交官。元駐アフガニスタン公使。 元衆議院議員、元宮城県塩竈市長守屋栄夫の弟。元防衛事務次官守屋武昌の叔父。 宮城県遠田郡富永村(のち古川市、現大崎市古川)出身。守屋徳郎の三男。旧制古川中学(現宮城県古川高等学校)卒業。旧制二高を経て、大正6年(1917年)東京帝大法科を卒業し逓信省に勤務の後関東庁参事官に転じ次いで外務省事務官となる。 英国在勤大使館二等書記官同一等書記官。中華民国在勤公使館一等書記官福州総領事大使館一等書記官大使館参事官満州国在勤を歴任し昭和13年(1938年)特命全権公使に任じアフガニスタン国駐箚被仰付昭和15年(1940年)退官す。
高橋 文五郎(たかはし ぶんごろう、1893年11月28日 … 高橋 文五郎(たかはし ぶんごろう、1893年11月28日 - 1978年3月19日)は、日本の実業家、政治家、参議院議員(2期、自由民主党)。 宮城県栗原郡若柳町(現・栗原市)出身。1915年早稲田大学商学部卒。卒業後は七十七銀行に入り、支店長となる。その後、家業の醸造業を継ぎ、のち栗原鉄道(株)を創立、社長に就任する。 若柳町長(1935.11.28-1943.8.15)を務めたが、戦時中に地元の大政翼賛会の役員をしていたため、戦後、公職追放となる。 宮城県議を5期務め、議長を2期務める。1965年、高橋進太郎の宮城県知事選出馬による参議院補欠選挙で当選。同年春の叙勲で勲四等瑞宝章受章。1968年の第8回参議院議員通常選挙で再選した。
萱場 軍蔵(かやば ぐんぞう、1893年(明治26年)9月1… 萱場 軍蔵(かやば ぐんぞう、1893年(明治26年)9月11日 - 1979年(昭和54年)11月15日)は、日本の内務官僚。いわゆる内務三役(内務次官、内務省警保局長〈現在の警察庁長官に相当〉、警視総監)を全て経験した。 宮城県名取郡東多賀村(現・名取市)出身。私立東北中学校(現:東北高等学校)、第二高等学校、東京帝国大学法学部卒業。高等文官試験行政科に合格して内務省に入省。 1934年(昭和9年)、栃木県知事に就任。1936年(昭和11年)に二・二六事件が発生して警視庁上層部が更迭されると同年3月に警保局長に任じられた。1937年(昭和12年)、岡山県知事に就任。1939年(昭和14年)、警視総監に就任。