川崎 寅雄(かわさき とらお、1914年 - 1976年)は… 川崎 寅雄(かわさき とらお、1914年 - 1976年)は、日本のアラビストの草分けとされる人物。第二次世界大戦中は外務省職員、海軍司政官の職務に就き、戦後は石油関連の通訳などを経て、創価大学でアラビア語を教えた。アラビア語・日本語の言語辞典(英語版)としては初となる『アラブ語辞典』を完成させ、1963年自費出版により出版した。 川崎寅雄は1914年に茨城県久慈郡久慈町(現 日立市)の漁師の網元の家に生まれた。名古屋高等商業学校(学制改革後は名古屋大学に統合)に進学し、すべての学費を免除される優秀な成績で卒業した。外務省留学生試験に合格し、21歳でエジプトの国立カイロ大学に留学した。カイロ大学卒業後はエジプト、レバノン、バグダードなどアラビア語圏の公使館に勤務した。
岩上 二郎(いわかみ にろう、1913年(大正2年)11月2… 岩上 二郎(いわかみ にろう、1913年(大正2年)11月29日 - 1989年(平成元年)8月16日)は、日本の政治家。茨城県知事(第4・5・6・7代)、参議院議員(3期、自民党)。茨城高等学校中学校校長。清真学園高等学校・中学校初代理事長。 茨城県那珂郡瓜連町(現那珂市)生まれ。茨城中学校、水戸高等学校から1940年に京都帝国大学法学部を卒業、ブリヂストンに入社したものの、直後に応召し太平洋戦争を戦う。 1946年に復員し、青年文化運動に参加、1947年に瓜連町長となる。1951年に一旦町長の座を退きペパーダイン大学に留学、地方自治や社会福祉を研究し帰国後の1955年に町長に復帰する。 1959年初めての民選・茨城県知事選挙に、自らが地元組合長をしていた農協組織を中心に設立された茨城県興農政治連盟に擁立され、日本社会党と県職員組合の支援を得て立候補。
平塚 八兵衛(ひらつか はちべえ、1913年(大正2年)9月… 平塚 八兵衛(ひらつか はちべえ、1913年(大正2年)9月22日 - 1979年(昭和54年)10月30日)は、警視庁に在籍した刑事警察官。茨城県新治郡土浦町(現:土浦市)出身。警察功労章、警察功績章受章。退職時の階級は警視。20世紀を代表する多くの事件に携わり、「昭和の名刑事」の異名を持つ。 旧制常総学院中学校卒業。卒業後は土浦で農業に従事していたが、ある事件で誤認逮捕され、土浦警察署での取調中に殴る蹴るの暴行を加えられた。平塚はこの暴行の経験に発憤し、警察官になろうと決意して上京、警視庁に入庁する。 1939年(昭和14年)、平塚は鳥居坂警察署(現・麻布警察署)に配置される。当初は外勤(交番勤務)であったが、のちに刑事係刑事を経て、検挙率が同庁でトップになり、間もなく「花の捜査一課」へ異動する。
門井 八郎(かどい はちろう、1913年(大正2年)5月17… 門井 八郎(かどい はちろう、1913年(大正2年)5月17日 - 1993年(平成5年)4月12日)は、昭和期の作詞家。 茨城県下妻市渋井出身。門井英一、とく の五男として生まれた。1933年(昭和8年)下妻中学校(現茨城県立下妻第一高等学校・附属中学校)を卒業。 逓信省東京逓信局などに勤務して経理事務を担当する傍ら詩作に励む。作詞家佐藤惣之助の門に入り厳格な指導を受けたあと、長谷川伸門下となって小説を学ぶ。 1953年(昭和28年)、長年勤めていた郵政省の職員を辞め、業界紙を手がける仕事を行う。後に作詞家となりテイチク専属となり、三波春夫の「チャンチキおけさ」、「船方さんよ」、アイ・ジョージの「赤いグラス」などのヒット曲を手がけた。
井川 省(いがわ せい、1913年(大正2年)4月14日 -… 井川 省(いがわ せい、1913年(大正2年)4月14日 - 1946年(昭和21年)6月20日<死亡認定日>)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少佐。日本の敗戦後にベトナム独立のためにインドシナ戦争に参加して戦没。ベトナム語の愛称はレチゴ。 茨城県出身。小学校校長・井川省三の二男として生まれる。水戸中学校を経て、1931年(昭和6年)4月に陸軍士官学校予科に入学。1935年(昭和10年)6月、陸軍士官学校本科(47期)を230番/330名で卒業する。同年9月、騎兵少尉に任官し、騎兵第8聯隊附となる。1937年(昭和12年)8月、騎兵中尉に昇進。1938年(昭和13年)7月、騎兵第4旅団戦車隊付となり、1939年(昭和14年)8月、騎兵大尉に進級。
登坂 重次郎(とさか じゅうじろう、1913年4月3日 – … 登坂 重次郎(とさか じゅうじろう、1913年4月3日 – 1997年3月22日)は、日本の政治家。元衆議院議員(自由民主党所属)。現在の茨城県常総市出身。 会社員・登坂長吉の三男として生まれる。生後間もなく父母と死別し、父方の伯父・豊島重太郎に育てられる。1932年茨城県立水海道中学校(現在の茨城県立水海道第一高等学校)を卒業後、母校・水海道中学校の事務職員等を経て、1940年土浦税務署に入職する。1944年大蔵省本省に出向し、東京財務局(現在の関東財務局)長・池田勇人の秘書となる。以後池田に師事し、1948年池田の総選挙出馬を期に大蔵省を退官し、個人秘書となる。 1963年の第30回衆議院議員総選挙に、旧茨城3区から無所属で立候補し当選(当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・佐藤孝行・藤尾正行・中川一郎・三原朝雄・鯨岡兵輔・西岡武夫・奥野誠亮など)。
斉藤 丑松(さいとう うしまつ、旧姓鹿倉(しかくら)、191… 斉藤 丑松(さいとう うしまつ、旧姓鹿倉(しかくら)、1912年12月24日 - 1994年6月4日)は日本の作曲家、ホルン奏者。茨城県猿島郡新郷村(現古河市)出身。 1912年、茨城県猿島郡に鹿倉浅之丞の四男として生まれる。1929年、海軍軍楽兵として横須賀海兵団に入団。アルトホルンを専攻する。1931年には地中海方面に派遣された練習艦隊に乗り組む。成績優秀につき1932年には東京音楽学校に練習生として派遣される。1935年に処女作である「空軍の威力」を発表して以来、帝国海軍軍楽隊のエースとして活躍。その独特の旋律は「鹿倉節」と軍楽隊関係者でよばれていた。もっとも、作品の著作権を軍楽隊員個人が持つことがふさわしくないとされたため、作品は発表当時はすべて「○○(陸軍、海軍、帝国のいずれかが入る)軍楽隊作曲・編曲」と記されるようになった。
菱沼 五郎(ひしぬま ごろう、1912年8月20日 - 19… 菱沼 五郎(ひしぬま ごろう、1912年8月20日 - 1990年10月3日)は、日本の政治運動家、殺人者、テロリスト、超国家主義者、政治家。別名は小幡五朗。
小泉 一郎(こいずみ いちろう、1912年4月23日 - 1… 小泉 一郎(こいずみ いちろう、1912年4月23日 - 1991年10月20日)は、日本の英文学者。 茨城県水戸市生まれ。1937年東京帝国大学文学部英文科卒、1941年同大学院(旧制)満期修了。副手、水戸高等学校教授、茨城大学文理学部助教授、東京女子大学教授、学習院大学文学部教授を歴任。1983年定年退任、名誉教授。 1984年、勲三等瑞宝章を受章。 1991年10月20日、肺炎のため死去。
池田 峯雄(いけだ みねお、1911年8月30日 - 199… 池田 峯雄(いけだ みねお、1911年8月30日 - 1998年12月3日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院議員(日本共産党公認、1期)を務めた。日本農民組合 (統一派)中央常任委員及び同常総同盟委員長などを歴任。 茨城県筑波郡作岡村安食(現在のつくば市安食)の小地主の家に生まれる。茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)3年の時に、父の経営する会社が倒産し、新治郡土浦町(現在の土浦市)へ移住。同地の茨城県立土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)を卒業後、結城郡宗道村(現在の下妻市)で代用教員に就く。この間、土浦中学校同級生の小林孝祐を介して文化サークルに参加、加藤四海ら全日本農民組合連合会(全農)関係者と親交を深めた。
大和田 信(おおわだ しん、1910年(明治43年)12月2… 大和田 信(おおわだ しん、1910年(明治43年)12月26日 - 1991年(平成3年)3月16日)は日本の航空技術者。 1910年(明治43年)12月、茨城県東茨城郡生まれ。旧制水戸中学校、水戸高校卒業。1935年(昭和10年)、東京帝国大学工学部航空学科卒業。同級に、糸川英夫、小谷敏夫(海軍彗星爆撃機設計員・技術大尉(サイパン島で戦死))、品川信次郎(立川一式双発高等練習機設計)等がいる。 1935年(昭和10年)、川崎造船所飛行機部入社、初めにキ‐32(九八式軽爆撃機)設計スタッフとなり、次に土井武夫課長のキ‐48(九九式双発軽爆撃機)の主翼設計担当となる。その成果が土井に認められ、その後土井設計部長の下でキ‐61、キ‐61 II、キ‐61 II改、キ‐100の設計課長及び翼担当課長を務める(川崎航空機は1人で全開発機の各部専任担当課長と個別の機体の設計課長を兼務する方式をとっていた)。
栗原 百寿(くりはら はくじゅ、1910年12月26日 - … 栗原 百寿(くりはら はくじゅ、1910年12月26日 - 1955年5月24日)は、日本の農業経済学者。茨城県東茨城郡石塚町(現在の城里町)出身。 医者の長男として生まれ、家業を継ぐために水戸中学校から水戸高等学校へ進む。1931年に同校理科乙類を卒業するが、医学部へは進まず、東北帝国大学法文学部に進学する。大学時代は歴史哲学を学び、宇野弘蔵、新明正道らの講義を聴講していた。卒業論文は「ジョン・スチュアート・ミルの思想史的研究」。1937年に大学を卒業、直後に人民戦線事件で検挙される。 1939年、帝国農会へ就職するが、1942年12月に再び治安維持法違反容疑で逮捕される。戦後は農林省統計調査局調査室嘱託などを経て、1953年に拓殖大学政経学部教授となる。
塚原 俊郎(つかはら としお、1910年10月2日 - 19… 塚原 俊郎(つかはら としお、1910年10月2日 - 1975年12月7日)は、日本の政治家。総理府総務長官・労働大臣。正三位勲一等。通商産業大臣を務めた塚原俊平は長男。 現在の茨城県常陸太田市に、下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)や太田中学校(現在の茨城県立太田第一高等学校)などの校長を歴任し、茨城教育界で名校長として知られた教育者・塚原末吉の二男として生まれる。水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)、水戸高等学校を経て、1935年東京帝国大学文学部社会学科を卒業後、同盟通信社に入社し10年間の記者生活を送る。 戦後は官界に転じ、情報局情報官、内務省地方局世論調査課長を務めた後、1947年増田甲子七運輸大臣秘書官となる。
福西 基(ふくにし もとい、1910年〈明治43年〉3月25… 福西 基(ふくにし もとい、1910年〈明治43年〉3月25日 - 2020年〈令和2年〉8月22日)は、日本の教育者、スーパーセンテナリアン。茨城県下妻市に在住していた長寿の男性。日本国内最高齢男性であった白井庄次郎が2020年8月11日に死去して以来、11日間日本国内最高齢男性となっていた。 1910年3月25日、茨城県結城郡宗道村(現在の下妻市宗道)で生まれる。 旧制中学校時代にアメリカ人宣教師・ビンフォルド夫妻と出会い、1927年に下妻基督友会員(キリスト教のフレンド派)となる。 茨城県立下妻中学校を経て茨城県師範学校卒業後、真壁郡村田尋常高等小学校に赴任。その後、下妻市立豊加美小学校長、総上中学校長、上妻小学校長、騰波ノ江中学校長、岡田小学校長、飯沼小学校長を歴任。
遠山 喜一郎(とおやま きいちろう、1909年(明治42年)… 遠山 喜一郎(とおやま きいちろう、1909年(明治42年)11月22日 - 1999年(平成11年)9月15日)は、元体操選手。ラジオ体操を考案した人物のひとり。位階は正四位。 茨城県多賀郡日立村(現・日立市)出身。東京高等師範学校を卒業し、熊本師範学校教諭となる。教諭時代に1936年ベルリンオリンピックに出場。 1954年(昭和29年)世界選手権の日本代表団監督、1956年メルボルンオリンピック体操国際審判員などを歴任したのち千葉大学教授となり、1975年(昭和50年)に退官する。退官後は東京女子体育大学教授に転じ1982年(昭和57年)まで務めた。ほか、日本体操協会副会長なども務めた。1999年死去。
山西 きよ(やまにし きよ、1909年〈明治42年〉9月15… 山西 きよ(やまにし きよ、1909年〈明治42年〉9月15日 – 1996年〈平成8年〉1月7日)は日本の政治家。茨城県小川町(現・小美玉市)長(1期)。航空自衛隊百里基地建設反対運動(百里基地訴訟)の先頭に立った。 東京市日本橋区(現・東京都中央区日本橋)に生まれ、茨城県鹿島郡中野村(現・鹿嶋市)に移る。小川町の肥料商山西家に嫁ぎ、町のPTA連合会や婦人会の役員を務める。 1956年(昭和31年)に防衛庁(現・防衛省)は小川町百里に航空自衛隊の基地を設置することを計画した。これに対し、小川町の基地設置反対派は基地反対期成同盟や愛町同志会を結成し、山西は愛町同志会婦人部長になり、反対闘争に加わった。
真木 小太郎(まき こたろう、1909年6月4日 - 198… 真木 小太郎(まき こたろう、1909年6月4日 - 1984年7月28日)は、日本の舞台美術家、衣裳デザイナーである。日本舞台テレビ美術家協会会長を歴任した。 1909年(明治42年)6月4日、茨城県に生まれる。1927年に水戸中学卒業。 東京に移り、旧制・東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学する。 1935年(昭和10年)、東京宝塚劇場(現在の東宝)に入社、1936年(昭和11年)に同社が合併した日本劇場では、衣裳も装置も手がけている。1944年に妻との間に息子・マイク真木をもうける。 第二次世界大戦後、東宝を退社してフリーランスとなった。1958年(昭和33年)、大映東京撮影所が製作した増村保造監督の『巨人と玩具』や、1959年(昭和34年)、東宝が製作・配給した山本嘉次郎監督の『孫悟空』等の衣裳をデザイン・構成を手がけた。
筑波嶺 清平(つくばね せいへい、1909年4月1日 - 1… 筑波嶺 清平(つくばね せいへい、1909年4月1日 - 1948年11月20日)は、現在の茨城県稲敷郡河内町出身で錦島部屋に所属した大相撲力士。本名は加藤 清平(かとう せいへい)。身長170cm、体重105kg。最高位は西前頭2枚目(1933年5月場所)。得意技は突っ張り、右四つ、寄り、吊り。 千葉県立佐原中学校(現在の千葉県立佐原高等学校)を出て、錦島部屋に入門。1927年5月場所に初土俵を踏む。1932年5月場所に新十両、十両を2場所で通過後、1933年1月場所に新入幕。この場所、春秋園事件からの復帰力士たちと伍して7勝4敗の好成績を挙げ、翌場所は西前頭2枚目まで番付を上げたが3勝8敗に終わった。
鈴木 明良(すずき あきら、1909年(明治42年)2月8日… 鈴木 明良(すずき あきら、1909年(明治42年)2月8日 - 1985年(昭和60年)9月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(3期)。落選後は詐欺を生業とし、「M資金事件」の立役者と言われた。 茨城県結城郡江川村(現在の結城市)出身。1928年、茨城県立下妻中学校を卒業。岩佐鉄工所営業部長、朝日海運取締役社長、明商株式会社社長などを務めた。 1946年4月、第22回衆議院議員総選挙で旧茨城県選挙区から出馬して当選し、その後第24回総選挙まで連続3回の当選を果たした。この間、日本進歩党情報部長、民主党総務、民主自由党総務、衆議院内閣委員長などを歴任した。 1952年の第25回総選挙で落選し、同時に選挙違反で逮捕された。
木村 傳兵衛(きむら でんべえ、1908年(明治41年)11… 木村 傳兵衛(きむら でんべえ、1908年(明治41年)11月11日 - 1972年(昭和47年)6月13日)は、日本の政治家。茨城県水戸市長(2期)。 茨城県水戸市生まれ。水戸の老舗醤油メーカー「井伝」に生まれる。1927年、旧制水戸中学校(現・茨城県立水戸第一高等学校)卒。井伝醬油社長となり、1967年。水戸市長に当選した。市長就任後に市役所の移転、市内の各学校に体育館やプールの設置、市民会館や市民プールの着工、市民憲章の制定などがある。1972年、狭心症のため、急逝した。
東郷 正延(とうごう まさのぶ、1908年7月13日 - 2… 東郷 正延(とうごう まさのぶ、1908年7月13日 - 2002年2月13日)は、日本のロシア語学者。 茨城県生まれ。土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)卒業。1931年東京外国語学校ロシヤ語科卒業。ソ連通商代表部、陸軍幼年学校ロシア語教官となり1945年の敗戦を迎える。1947年東京外事専門学校助教授、1949年東京外国語大学助教授、1957年教授、1971年定年退官、名誉教授。東京ロシア語学院院長。日本ロシア文学会会長。
黒羽 茂(くろばね しげる、1908年6月3日 - 2000… 黒羽 茂(くろばね しげる、1908年6月3日 - 2000年2月27日)は、日本の歴史学者。 茨城県水戸市出身。東京帝国大学文学部卒、1962年「日英同盟史論」で文学博士。東北大学助教授、教授、1972年定年退官、名誉教授、東北福祉大学教授を務めた。近代における日本の対外関係を専門とした。
飯村 泉(いいむら いずみ、1908年〈明治41年〉5月26… 飯村 泉(いいむら いずみ、1908年〈明治41年〉5月26日 - 没年不明)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 茨城県東茨城郡小松村(のち常北町、現・城里町)出身。1927年、旧制水戸中学校を卒業。卒業後は官立神戸高等商船学校(のち神戸商船大学、神戸大学海事科学部を経て、現神戸大学海洋政策科学部)を経て、京都帝国大学卒。日刊油業報知新聞社員、東京都油脂配給協同組合職員、岩城興業(有)営業部長、東京都油脂配給統制組合秘書課長となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙で茨城県から無所属で立候補するが落選。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において茨城1区から民主党公認で立候補して当選した。
飯島 亮(いいじま りょう、1908年〈明治41年〉4月20… 飯島 亮(いいじま りょう、1908年〈明治41年〉4月20日 - 1990年〈平成2年〉)は、日本の造園家、作庭家、庭園作家、造園研究者、造園指導者、造園教育者。元千葉大学園芸学部教授。農学博士。茨城県龍ケ崎市出身。
五来 重(五來 重、ごらい しげる、1908年〈明治41年〉… 五来 重(五來 重、ごらい しげる、1908年〈明治41年〉3月7日 - 1993年〈平成5年〉12月11日)は、日本の民俗学者。大谷大学名誉教授。専門は日本仏教史、仏教民俗学。 茨城県久慈郡久慈町(現:日立市)に生まれる。旧制茨城県立太田中学校(現:茨城県立太田第一高等学校・附属中学校)、旧制水戸高等学校文科甲類を経て、1932年に東京帝国大学文学部印度哲学科を卒業。高野山大学助手に就任するも、歴史学を修めるため京都帝国大学文学部史学科に再入学し、1939年に京都帝国大学文学部史学科国史学専攻を卒業。卒業論文は「中世に於ける神仏習合思想の変遷と元寇の影響」。 以後、京都師範学校教諭、高野山大学助教授、同教授を経て、1955年、大谷大学文学部教授に就任。
米山 弘(よねやま ひろし、1908年(明治41年) - 1… 米山 弘(よねやま ひろし、1908年(明治41年) - 1987年(昭和62年)1月24日)は、茨城県出身の競泳選手。旧制茨城県立水戸中学校、第一早稲田高等学院、早稲田大学商学部卒業。1928年アムステルダムオリンピック男子800m自由形リレー銀メダリスト。 1928年のアムステルダムオリンピック競泳男子800m自由形リレーで佐田徳平、新井信男、高石勝男とともに銀メダルを獲得。
服部 正一郎(はっとり しょういちろう、1907年11月17… 服部 正一郎(はっとり しょういちろう、1907年11月17日 - 1995年3月20日)は、日本画家、日本芸術院会員。茨城県出身。 茨城県稲敷郡龍ケ崎町(現龍ケ崎市)出身。旧制龍ヶ崎中学(現茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)在籍中は弓道部で活躍したという。1929年(昭和4年)の第16回二科展で「庭」が初入選。 1967年(昭和42年)の第52回二科展に出品した「水郷」によって翌年に日本芸術院賞を受賞。 1987年(昭和42年)に日本芸術院会員となる。1992年、勲三等瑞宝章受章。 1995年(平成7年)3月20日に茨城県取手市の取手協同病院で死去。
粉川忠(こがわ ただし、1907年6月19日-1989年7月… 粉川忠(こがわ ただし、1907年6月19日-1989年7月17日)は、日本の実業家。文献収集家。ゲーテ研究家。ドイツの文豪・ゲーテの書籍や関連文献を生涯にわたって集めて、東京ゲーテ記念館を開館させた人物として知られている。 現在の茨城県水戸市開江で生まれた。父親は地元の村長で、忠は4人兄弟の長男として生まれた。1923年に茨城師範学校へ入学。この師範学校時代にゲーテの『ファウスト』を先輩に薦められたのがきっかけでゲーテを知る。1927年に師範学校を首席で卒業。しかし、その後は教職に就くことはなかった。その後、しばらく水戸と東京を往復する日々が続く。1928年に友人にゲーテについて聞かれてそれを調べていくうちに、ますますゲーテのとりこになり、いつかはゲーテの図書館を作ろうという決心をする。
森 元治郎(もり もとじろう、1907年2月24日 - 19… 森 元治郎(もり もとじろう、1907年2月24日 - 1999年5月14日)は、日本の政治家。参議院議員(3期、日本社会党)。 茨城県水戸市出身。1930年青山学院英文科卒。卒業後は新聞連合社(のち同盟通信社)に入り、欧州特派員、政治部次長などを務める。戦後、同盟通信社は共同通信社となり、論説委員となる。1947年片山内閣が成立すると内閣総理大臣秘書官となる。1956年の第4回参議院議員通常選挙において茨城地方区から日本社会党公認で立候補して初当選。連続3期務める。国会内では参議院懲罰、決算各委員長を歴任し、党内では茨城県委員長、党外交部長などを務めた。1974年の第10回参議院議員通常選挙に出馬せず引退。
藤田 卯一郎(ふじた ういちろう、1906年9月20日 - … 藤田 卯一郎(ふじた ういちろう、1906年9月20日 - 1968年7月8日)は、日本のヤクザ、右翼活動家。松葉会の設立者で初代会長。茨城県水戸市出身。旧制水戸中学校卒業。 若年期には不退の軍治、晩年は殿さま軍治、よかろう軍治と呼ばれた。 旧制水戸中学校を卒業すると、上京し、退役海軍中将・高橋邦之介の書生となった。高橋邦之介は大和民労会の後援者だった。 昭和7年(1932年)春、関根組組長・関根賢の子分となった。 昭和20年(1945年)の終戦直後、藤田は兄弟分・益戸克己の口利きで、佐藤栄助(後の松葉会二代目、四代目)を舎弟とした。さらに、佐藤栄助は関根賢から盃を貰って関根組の若衆となった。 昭和22年(1947年)7月8日、関根組は恐喝容疑で手入れを受けた。
西宮 弘(にしみや ひろし、1906年5月14日 - 200… 西宮 弘(にしみや ひろし、1906年5月14日 - 2003年11月22日)は、日本の官僚、政治家。陸軍司政官。 茨城県水戸市出身。東京帝国大学法学部卒。内務省、戦後に自治省係長、岩手県出納長、宮城県副知事、日本社会党所属の衆議院議員。 岩手県出納長を経て、1956年10月に新たに宮城県知事に就任した大沼康の副知事に任命される。1959年3月、大沼の急逝を受けて知事選に立候補したが、落選。翌1960年の第29回衆議院議員総選挙に日本社会党公認で宮城1区から出馬し初当選。1963年に再度、宮城県知事選に立候補するが落選。同年の第30回衆議院議員総選挙に再出馬し当選した。 全金本山労働組合争議では、支援共闘会議議長を担う。
沼野井 春雄(ぬまのい はるお、1906年3月31日 - 1… 沼野井 春雄(ぬまのい はるお、1906年3月31日 - 1998年5月14日)は、日本の生物学者。東京大学名誉教授。理学博士。 茨城県水戸市生まれ。東京帝国大学理学部動物学科卒業後、大学院に通いながら旧制浦和高等学校で教鞭をとり、旧制浦和高等学校教授を経て、1949年(昭和24年)に東京大学理学部教授となる。定年退官後は、早稲田大学教育学部理学科生物学専修の教授に就任。。高校課程の生物教育にも大きく貢献し、旺文社より出版された『生物の研究』は特に有名で、ラジオ生物学講座の講師にもなり、多くの後進の生物学者を育てた。 また、早大教授時代は合気道部の部長も務めた。なお、中学は旧制豊山中学(現日本大学豊山高等学校)に学んだが、旧制新潟中学校から転入してきた作家の坂口安吾とは豊山中学時代の同級生である。
菊池 揚二(きくち ようじ、1906年2月1日 - 1978… 菊池 揚二(きくち ようじ、1906年2月1日 - 1978年12月22日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 中央大学在学中に戦前の東京学生柔道界の花形として活躍し、東京学生連合と警視庁との対抗試合や満州との対抗試合で名を馳せた。このほか昭和天覧試合や全日本選士権大会でも活躍し、戦後は指導者として警視庁や母校・中央大学の師範を歴任して多くの後進を指導。実父は菊池謙二郎、義父は講道館10段永岡秀一で、存命中は“最も毛並みの良い柔道家”との評を得ていた。 旧制第二高校校長等を務め硬骨な教育家として知られる菊池謙二郎の二男として、茨城県の水戸市に生まれた。当時、父が中国の上海市にて東亜同文書院の教授(実際は教授の上の現地責任者の教頭)を務めており、市内を流れる大河・揚子江の“揚”の字と、二男の“二”の字を取って“揚二”と名付けられたという。
三代 義勝(みよ よしかつ、1905年(明治38年)11月2… 三代 義勝(みよ よしかつ、1905年(明治38年)11月25日 - 1967年(昭和42年)11月3日)は、福島県磐城市(現・いわき市)長。位階は正六位。勲五等双光旭日章。 現在の茨城県日立市の漁師の子に生まれる。23歳で魚の行商を始め、小名浜に来てその後、水産加工場を建てる。精力的な努力の末、規模を拡大し、イワシ漁の船を持ち、漁業に乗り出し、マグロ、サバ用などの漁船を多く持ち、全国屈指の漁家となる。小名浜漁業組合長など多くの漁業関連団体の役員を務めた。ほか、1938年2月に東日本漁業取締役となり、同年3月に小名浜町議に当選した。 1956年の磐城市長選挙に立候補し、対立候補を251票差で破った。
鈴木 草牛(すずき そうぎゅう、1905年〈明治38年〉7月… 鈴木 草牛(すずき そうぎゅう、1905年〈明治38年〉7月15日 - 1988年〈昭和63年〉1月8日)は、20世紀に活動した日本画家。1948年から20年間は教師としても活動。 茨城県稲敷郡牛久村(現在の牛久市)に生まれる。1926年、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)日本画科に入学した。1929年、第4回茨城美術展で初入選を果たす。みやこ新聞社、茨城新聞社で記者として働く。1948年から母校である茨城県立龍ヶ崎中学校(現在の竜ヶ崎第一高等学校)に美術教師として20年間奉職した。1962年、65年は茨城県美術展運営委員を務める。1968年には新興美術院理事を務める。1972年から数度に渡り外遊した。
上野 壮夫(上野 壯夫、うえの たけお / そうふ、1905… 上野 壮夫(上野 壯夫、うえの たけお / そうふ、1905年6月2日 - 1979年6月5日)は、日本の詩人、小説家、コピーライター。妻の小坂たき子も小説家。戦後はコピーライターとしてヒットを飛ばし、広告業界で活躍した。 茨城県筑波郡作岡村(筑波町を経て現つくば市)で、上野清二郎(地主、警察官)、とく の三男として生まれた。早稲田高等学院露文学科を中退し、アナキズム系の「黒嵐時代」の一員となり、1929年「文芸戦線」に携わり、1927年に労農芸術家連盟の書記長及び前衛芸術家同盟の結成や、日本プロレタリア作家同盟に加入した。 後に人物評論社に就職し、『人物評論』編集部に勤務し、尾崎一雄の「暢気眼鏡」を掲載した。
大久保 康雄(おおくぼ やすお、1905年5月1日 - 19… 大久保 康雄(おおくぼ やすお、1905年5月1日 - 1987年1月12日)は、日本の英米文学翻訳家。日本における専門翻訳家の草分けで多くの翻訳者を育成した。茨城県生まれ。本名・保雄。日本ペンクラブ、日本文芸家協会、日本翻訳家協会、各会員。 結城郡八千代町芦ケ谷舟戸の出身で、安静小学校から旧制水戸中学校(現在の茨城県立水戸第一高等学校)を経て慶應義塾大学英文科中退。大宅壮一のジャーナリスト集団に属して翻訳を修業、1931年、最初の訳本を刊行。1938年『風と共に去りぬ』の完訳を、友人・竹内道之助の経営する三笠書房から刊行。また1941年頃には翻訳活動と並行して、竹内・宮西豊逸・小出節子らと「霜月会」を結成、同人雑誌に小説を執筆していた。
海後 勝雄(かいご かつお、1905年3月11日 - 197… 海後 勝雄(かいご かつお、1905年3月11日 - 1972年11月1日)は、日本の教育学者、埼玉大学名誉教授。茨城県出身。
川又 克二(かわまた かつじ、1905年(明治38年)3月1… 川又 克二(かわまた かつじ、1905年(明治38年)3月1日 - 1986年(昭和61年)3月29日)は日本の実業家。日産自動車中興の祖として知られ、同社の社長や会長、日本自動車工業会初代会長、経団連副会長、日経連副会長などを歴任した。 茨城県東茨城郡上大野村大字吉沼(現在の水戸市吉沼町)に生まれる。川又家は、昔はこの集落の庄屋のような家柄だった。明治になって子供がいなかったので、旧水戸藩士の田辺家から養女を迎えた。これが母錦(きん)である。母が17歳のとき、同じ土地の丹下という家から父の操(みさお)が養子にきた。父は水戸の専売局の太子出張所に勤める一役人にすぎず、いわば半農半勤の家計だったので、母は慣れない農事に精を出しながら、しだいに田畑を手放していかざるをえなかった。
田中勇(たなか いさむ、1905年(明治38年)1月20日 … 田中勇(たなか いさむ、1905年(明治38年)1月20日 - 2000年(平成12年)2月12日)は、日本の実業家。東京急行電鉄副社長、伊豆急行社長、東亜国内航空社長。五島慶太・昇父子に仕え「東急グループの大番頭」の異名で呼ばれた。
赤城 宗徳(赤城 宗德、あかぎ むねのり、1904年〈明治3… 赤城 宗徳(赤城 宗德、あかぎ むねのり、1904年〈明治37年〉12月2日 - 1993年〈平成5年〉11月11日)は、日本の政治家、教育者、剣道範士。位階は正三位、勲等は勲一等。 農林大臣(第25・32-34・42代)、防衛庁長官(第11代)、内閣官房長官(第19代)、衆議院議員(15期)、茨城県会議員、茨城県上野村長、自由民主党政務調査会長(第13代)、同総務会長(第8代)、同副幹事長、同茨城県支部連合会会長などを歴任。 弟はNHK専務理事を務めた赤城正武、孫は農林水産大臣や衆議院議員を務めた赤城徳彦。 茨城県真壁郡上野村(後の明野町、現在は筑西市)の代々名主を務めた家に生まれる。若くして父康助を失い、母むめ(浜名信平長女)と祖父喜八郎に育てられる。
細田 徳寿(ほそだ とくじ、1904年8月5日 - 1991… 細田 徳寿(ほそだ とくじ、1904年8月5日 - 1991年3月25日)は、内務省官僚、大分県知事(1945年 - 1947年、1947年 - 1955年)。官選も含めると第37・39・40代、公選のみでは初代・第2代にあたる。 茨城県水戸市出身。旧制水戸中学校(現在の水戸第一高校)、旧制水戸高等学校を経て、東京帝国大学法科政治学科を卒業。1928年に内務省入省。厚生省医務課長、警視庁保安衛生部長、陸軍司政官、内務省河川課長、内閣総理大臣秘書官等を経て、1945年10月27日に大分県知事に発令された。 1947年3月14日には、地方自治法施行にともなう県知事選挙への出馬のため県知事を辞職。この後、選挙までの約1ヶ月は和久田鉄雄が第38代県知事に短期間発令されている。
小堀 進(こぼり すすむ、1904年(明治37年)1月22日… 小堀 進(こぼり すすむ、1904年(明治37年)1月22日 - 1975年(昭和50年)3月16日)は、茨城県行方郡大生原村(現潮来市大賀)出身の水彩画家である。水彩連盟結成メンバーのひとり。 公募展初出品作品から没年まで一貫して水彩画のみを描き、長年水彩画の地位向上と発展をもたらし、また郷里水郷の風景、山、そして空や海、広大な空間を独自の画法により描き出した。 1904年(明治37年)1月22日、茨城県行方郡大生原村(現潮来市大賀)に生まれる。 1922年(大正11年)3月、千葉県立佐原中学校(現千葉県立佐原高等学校)を卒業。中学時代より郷里の水郷風景を水彩で描いていた。 翌1923年(大正12年)、上京し葵橋洋画研究所に入所、晩年の黒田清輝に洋画の基礎を学んだ。
木村崋邦(きむら かほう、1903年10月31日-1982年… 木村崋邦(きむら かほう、1903年10月31日-1982年12月25日)は、日本の画家。本名は木村敞(きむら たかし)。 茨城県竹原下郷(現・小美玉市)出身。1920年に上京し、関田華亭に師事して崋山系花鳥画を学ぶ。1921年、日本南画会に初出品。1922年、松林桂月の天香画塾の塾生となり、主として山水花鳥などを描く。1923年、第1回茨城美術展に初出品。1948年、日本水墨会創立展に出品。1965年、日本南画院評議員に就任(1967年同理事、1971年同常任委員)。この頃、高松宮から推賞され、志操を一新した[要出典]。1969年、水墨画研究のため、黒曜会を主宰。1970年、第15回日本南画院に「浅春」200号を出品し、その後、東京銀座において、画業50年記念個展を催した[要出典]。
男女ノ川 登三(みなのがわ とうぞう、1903年9月17日 … 男女ノ川 登三(みなのがわ とうぞう、1903年9月17日 - 1971年1月20日)は、茨城県筑波郡菅間村(現在のつくば市磯部)出身で佐渡ヶ嶽部屋(入門時は高砂部屋)に所属した大相撲力士。第34代横綱。本名は坂田 供次郎(さかた ともじろう(きょうじろう))。 1903年9月17日に茨城県筑波郡菅間村(現在のつくば市磯部)で農家を営む一家に三男として生まれる。元々は屋根の修理屋で働いていたが、ある時修理中の屋根を踏み抜いてしまい、その力の強さに驚いた周囲の勧めで地元の相撲大会に出場するといきなり優勝してしまった。そのまま筑波郡大会・茨城県大会でも優勝し、自信を持って力士を志すようになった。そんなある日、偶然茨城県へ巡業に来ていた阿久津川高一郎を訪ねて入門を志願するものの、最初は厳しい稽古の話に終始したため諦めて戻るが、力士を目指す気持ちが全く揺るがなかったために4度訪問して、ようやく入門を許可された。
江戸 英雄(えど ひでお、1903年7月17日 - 1997… 江戸 英雄(えど ひでお、1903年7月17日 - 1997年11月13日)は、日本の実業家。三井不動産社長を務めた。終生、三井グループに影響力を持ち続け、グループ内で地位の低かった三井不動産を「三井御三家」の一角に押し上げた。また東京ディズニーランドのオープンに尽力したほか、妻と娘が関わった桐朋学園の発展にも一役買った。 茨城県筑波郡作岡村大字作谷(現:つくば市)の農家に生まれる。兄1人、姉3人の末っ子だったが、2人の姉は子供の頃早世した。 村の小学校を卒業後、茨城県立下妻中学校(現在の茨城県立下妻第一高等学校)に入学した。自宅から中学まで10キロあったが毎日自転車で通い、隣村の一級下の赤城宗徳(衆議院議員)は同じ自転車通学の仲間だった。
武藤 清(むとう きよし、1903年1月29日 - 1989… 武藤 清(むとう きよし、1903年1月29日 - 1989年3月12日)は、日本の建築家・建築構造学者・構造家。千葉工業大学工学部建築学科の創設者。元鹿島建設副社長。兄は医学者の武藤完雄。日本建築学会会長、国際地震工学会初代会長、日本コンクリート会議初代会長などを歴任し、また自身で武藤構造力学研究所を開く。 茨城県北相馬郡井野村大字青柳(現在の取手市青柳)出身。龍ヶ崎中学校(現在の茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)から第二高等学校を経て東京帝国大学工学部建築学科に進学。1925年(大正14年)卒業後、母校に残り佐野利器の元で建築構造の研究に打ち込む。 関東大震災の直後から構造振動解析の研究に着手し、耐震構造学の研究を進めた。
橋本 正武(はしもと まさたけ、1903年〈明治36年〉1月… 橋本 正武(はしもと まさたけ、1903年〈明治36年〉1月13日 - 1983年〈昭和58年〉7月11日)は、日本の武道家(剣道、居合道)、林野技術官僚。 茨城県多賀郡十王町(現日立市)で生まれる。曾祖父、祖父は1864年(元治元年)、天狗党の乱に参加。父熊之介は私塾輔仁学舎で水戸学を学び、水戸東武館で剣道を修めた。その弟の統陽は東京美術学校で彫刻を学びながら有信館で剣道、居合を修行していた。 1920年(大正9年)、県立水戸農学校を優秀な成績で卒業し、進学するために叔父の統陽を頼って上京。統陽の口利きで有信館の二階の部屋を与えられ、予備校に通いながら中山博道に剣道、居合を学ぶ。 1921年(大正10年)、東京帝国大学農学部林学実科に入学。
金塚 孝(かなつか たかし、1902年(明治35年)8月5日… 金塚 孝(かなつか たかし、1902年(明治35年)8月5日 - 1973年(昭和48年)10月20日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 茨城県新治郡真鍋町(土浦市大字真鍋を経て、現在は土浦市真鍋)で生まれる。1919年(大正8年)、茨城県立土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)を卒業した。 日神酒造社長、ニッシン興業社長、湖南通運専務取締役、アサヒ産業社長、土浦商工会議所会頭などを務めた。 1947年(昭和22年)、茨城県議会議員に当選。民主党に所属して同党茨城県支部総務に就任。1948年(昭和23年)に県議を辞職し、1949年(昭和24年)1月に実施された第24回衆議院議員総選挙で茨城県第3区に民主党公認で出馬して当選し、その後改進党に所属して衆議院議員に1期在任した。
霞ヶ浦 忠男(かすみがうら ただお、1902年4月23日 -… 霞ヶ浦 忠男(かすみがうら ただお、1902年4月23日 - 1945年)は、茨城県行方郡牛堀町(現・潮来市)出身で、出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は今泉 忠。最高位は十両5枚目。 出羽ノ海部屋に入門し、1919年1月「諏訪錦」の四股名で序ノ口に就く。1929年1月、十両に昇進する。この場所と翌場所も2場所続けて負け越したため幕下に落ちた。1930年1月、再び十両に昇進して四股名を「霞ヶ浦」と改めた。5月に幕下に落ち、1931年1月に十両に復帰する。1932年1月、春秋園事件が起こり、霞ヶ浦は天竜三郎に従い、相撲協会を脱退した。その後、新興力士団、関西角力協会に所属し、同協会が1937年に解散した後も相撲協会に復帰しなかった。