半田 百合子(はんだ ゆりこ、現姓:中島、1940年3月31… 半田 百合子(はんだ ゆりこ、現姓:中島、1940年3月31日 - )は、日本の元女子バレーボール選手。1964年東京オリンピックバレーボール女子金メダリスト。東洋の魔女 (Oriental Witches) の主力メンバー。 1940年(昭和15年)3月31日、栃木県宇都宮市大寛町に生まれる。 父の転勤により栃木県栃木市に転居し、栃木市立栃木南中学校でバレーボールを始めた。 栃木県立栃木女子高等学校時代は全く無名の選手だった。 高校卒業後、1958年に日紡(現・ユニチカ)に入社し、日紡東京で頭角を現し、日紡貝塚チームの大松博文に認められ、1959年11月に日紡貝塚チームに移籍する。 大松からの激しいしごき練習内容に「殺されそう」「もう辞めよう」と退部を申し入れながらも、大松からの慰留もあり最後までへこたれなかった。
酒巻久(さかまき ひさし、1940年3月6日 - )は、日本… 酒巻久(さかまき ひさし、1940年3月6日 - )は、日本の経営者。キヤノン電子代表取締役社長。
岸 清(きし きよし、1940年 - )は東京都出身の医学者… 岸 清(きし きよし、1940年 - )は東京都出身の医学者。栃木県立栃木高等学校、東京医科歯科大学医学部卒業。1970年 東京医科歯科大学 医学博士 論文の題は 「Histochemical demonstration of purine nucleoside phosphorylase activity(プリンヌクレオシドホスホリラーゼ活性の組織化学的証明法)」。 1974年から同大助教授(第1解剖学)。1987年に東邦大学医学部教授(第1解剖学)に転じ、2005年から同大名誉教授。
保沢 紀(ほざわ おさむ、1940年 - )は、日本の衣装デ… 保沢 紀(ほざわ おさむ、1940年 - )は、日本の衣装デザイナー。テレビ番組衣装担当。東京衣裳の社員だった。 「フジテレビ衣裳部の鬼・保沢紀」としてバラエティ番組に出演したことで知られる。通称「衣装の保沢さん」。 栃木県生まれ。1959年に栃木県立栃木高等学校卒業。同校の第60回卒業の同期生には、ヤマトホールディングス会長の有富慶二、京都大学名誉教授の入倉孝次郎、キッコーマン社長の牛久崇司、東邦大学名誉教授の岸清がいた。 東京衣裳入社後、フジテレビ詰めとなり、同局の多くの番組で出演者の衣裳を担当した。 1985年7月2日放送の『ものまね王座決定戦』に「フジテレビ衣裳部所属」の肩書きで審査員として出演し、以降はレギュラー審査員として出演を続けた。
白石 勝(しらいし まさる、1939年12月12日 - 20… 白石 勝(しらいし まさる、1939年12月12日 - 2015年5月2日)は、日本の経営者。文藝春秋社長を務めた。 栃木県鹿沼市出身。1962年に早稲田大学第一文学部を卒業し、同年に文藝春秋に入社。「週刊文春」・「文藝春秋」各編集長、社長室長を経て、1992年に取締役に就任し、1998年6月に常務を経て、1999年6月に社長に就任。2004年5月から会長を務めた。 2004年から1年間日本雑誌協会理事長を務めた。 2015年5月2日に白血病のために死去。75歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
池沢 義行(いけざわ よしゆき、1939年(昭和14年)5月… 池沢 義行(いけざわ よしゆき、1939年(昭和14年)5月14日 - )は、栃木県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。 大田原高校では、1956年(昭和31年)秋季関東大会県予選準々決勝に進むが、宇都宮工に大敗。卒業後は神奈川大学に進学。神奈川五大学野球リーグでは、2年下のエース森川卓郎らを擁し、1960年(昭和35年)春季、1961年(昭和36年)春秋季リーグと3回の優勝を経験。全日本大学野球選手権大会にも2回出場するが、いずれも中京大に2回戦で敗れた。4年春季リーグでは最優秀選手に選出され、首位打者を獲得。 1962年に読売ジャイアンツへ入団し、契約金は1,600万円であった。1年目から一軍に上がり、シーズン後半には坂崎一彦らと右翼手の定位置を争う。
東京 ぼん太(とうきょう ぼんた、1939年4月7日 - 1… 東京 ぼん太(とうきょう ぼんた、1939年4月7日 - 1986年10月14日)は、日本の芸人、歌手、漫談家。栃木県出身。トレードマークは唐草模様の風呂敷。本名は中山孝一。 作新学院で野球をやっていたが、肘のケガで中退する。コメディアンを志して上京した。芸名の由来は「東京の上野駅に着いた時にボーンと鐘が鳴った」ことが芸名のヒントになったといわれる。キャバレーなどを転々とした後に、1960年頃から寄席に出演。1963年からは唐草模様の風呂敷包みを背負ってテレビに登場して「夢もチボーもないね」「イロイロあらあな」など、栃木訛りを誇張したギャグで人気を博した。 レコードも発売しており「マアいろいろあらァな」は、20万枚のヒットとなった。
木村 充(きむら みつる 1939年(昭和14年)4月3日 … 木村 充(きむら みつる 1939年(昭和14年)4月3日 - 1998年(平成10年)5月1日)は、日本の栃木県芳賀郡益子町の「益子焼」の陶芸家である。 益子焼の陶芸家である木村一郎の長女である滋子と結婚し、木村家に婿養子として入り、義父である木村一郎に師事し、木村一郎の逝去後に「木村窯」を2代目として引き継いだ。 1939年(昭和14年昭和14年)4月3日、栃木県塩谷郡藤原町(現・日光市)に生まれる。 栃木県立今市高等学校を卒業後、鬼怒川温泉の元湯共同組合の専務を務めていたが、その一方でちゃんちゃんこを着て鬼怒川温泉街をふらついており「鬼怒川温泉の風来坊」と渾名されていた。 そんな時に、益子焼の陶芸家である木村一郎の長女・滋子との縁談が持ち込まれた。
岡部 正英(おかべ まさひで、1938年〈昭和13年〉9月2… 岡部 正英(おかべ まさひで、1938年〈昭和13年〉9月22日 - 2025年〈令和7年〉10月9日)は、日本の政治家。元栃木県佐野市長(4期)、元栃木県議会議員、元佐野市議会議員。 栃木県佐野市生まれ。学生時代陸上競技中長距離走者として活躍、1500メートル競走高校日本記録を樹立。佐野市立城東中学校、栃木県立佐野高等学校卒業。佐野市議会議員、栃木県議会議員を歴任。 2005年(平成17年)2月28日、旧佐野市と安蘇郡田沼町・葛生町が新設合併し、新市制の佐野市が誕生。合併に伴い同年4月17日に行われた市長選挙に立候補し、旧佐野市長の飯塚昭吉、元市議の金子裕を破り初当選した。 全国生涯学習市町村協議会会長、栃木県市長会副会長、社団法人栃木県水道協会会長、栃木陸上競技協会副会長などを務めた。
黒田 杏子(くろだ ももこ、1938年8月10日 - 202… 黒田 杏子(くろだ ももこ、1938年8月10日 - 2023年3月13日)は、日本の俳人。 東京市本郷生まれ。父は開業医。1944年栃木県に疎開、高校卒業まで栃木県内で過ごす。栃木県立宇都宮女子高等学校から東京女子大学に進学。大学入学と同時に俳句研究会「白塔会」に入り、山口青邨の指導を受け、青邨主宰の「夏草」に入会。東京女子大学文学部心理学科を卒業後、博報堂に入社。テレビ、ラジオ局プランナー、雑誌『広告』編集長などを務め、瀬戸内寂聴、梅原猛、山口昌男など多数の著名文化人と親交を持つ。この間、10年ほど作句を中断。1970年、青邨に再入門。青邨没後、1990年俳誌「藍生」(あおい)を創刊、主宰。
楡木 満生(にれぎ みつき、1938年7月23日 - 201… 楡木 満生(にれぎ みつき、1938年7月23日 - 2012年10月11日)は、日本の臨床心理学者。臨床心理士・上級産業カウンセラー・日本カウンセリング学会認定カウンセラー/スーパーバイザー。医学博士(自治医科大学)。栃木県生まれ。立正大学心理学部教授を経て、同大学名誉教授。専攻は発達臨床心理学。
野口 昌吾(のぐち しょうご、1938年2月17日 - )は… 野口 昌吾(のぐち しょうご、1938年2月17日 - )は、日本の実業家。元通商産業省大臣官房審議官。 1956年に栃木県立栃木高等学校、1960年に東京大学経済学部を卒業。1962年4月、通商産業省に入省した。入省同期に、堤富男、坂本春生、深沢亘(特許庁長官、日本鋼管副社長)、平戸正尚(札幌通産局長、島津製作所専務)、三上義忠(中小企業庁次長、知的財産研究所専務理事)、山下正秀(原子力発電技術機構常務理事)などがいる。 資源エネルギー庁総務課海洋開発室などを経て、同省の産業政策局消費経済課長、機械情報産業局電気機器課長、衆議院商工委員会政府委員、同省大臣官房審議官を歴任。1989年6月に退官した。
大武浩幸(おおたけ ひろゆき 1938年1月23日-2020… 大武浩幸(おおたけ ひろゆき 1938年1月23日-2020年6月19日)は、日本の実業家。栃木県那珂川町出身。 1956年3月、株式会社ワタル商会(現ワタル株式会社及びワタル不動産株式会社)入社 1968年3月、同社取締役就任。 1973年11月、株式会社ユニカフェ取締役就任。1977年11月同社常務取締役就任、1989年11月同社専務取締役を就任を経て、1991年11月同社代表取締役に就任。 2001年9月、同社は東京証券取引所市場第一部に上場。現在に至る。 日本家庭用レギュラーコーヒー工業会幹事(現任)、全日本コーヒー公正取引協議会常任理事(現任)、社団法人全日本コーヒー協会技術環境委員会委員長、独立行政法人中小企業基盤整備機構 新事業開拓促進出資事業に係る出資先選定委員会(現 出資先候補評価委員会)委員などを務める。
石塚 克彦(いしづか かつひこ、1937年8月4日 - 20… 石塚 克彦(いしづか かつひこ、1937年8月4日 - 2015年10月27日)は、日本の舞台演出家。本名同じ。画号は「烏山(うざん)」。武蔵野美術学校洋画科卒。日本劇作家協会会員。 古美術研究で奈良に遊学後、平城京発掘に参加。シナリオライター山形雄策に師事。劇団新制作座、統一劇場を経て、1983年、劇団ふるさときゃらばんを創立。脚本・演出・美術プランナーとして、第1作ミュージカル『親父と嫁さん』を上演、文化庁芸術祭賞を受賞。1987年、第3回日本舞台芸術家組合賞を受賞。 1991年、日米合作ミュージカルのメインライターとして「LABOR OF LOVE」を上演、日米両国ツアー、バルセロナオリンピック芸術祭に招聴される。
倉茂 達徳(くらしげ さとのり、1937年(昭和12年)7月… 倉茂 達徳(くらしげ さとのり、1937年(昭和12年)7月5日 - 2013年(平成25年)3月21日)は、日本の医学者。群馬大学名誉教授、東京福祉大学元学長、医学博士。専門は微生物学、免疫学。 1937年(昭和12年)、栃木県に生まれる。1962年(昭和37年)、 群馬大学医学部を卒業し、1967年(昭和42年)、 群馬大学大学院医学研究科を修了。「細胞性免疫及び細胞抗体」により医学博士(群馬大学)を取得。群馬大学医学部講師、群馬大学医療技術短期大学部教授、群馬大学医学部教授を経て、2003年(平成15年)、東京福祉大学社会福祉学部教授・副学長に就任。2008年(平成20年)から2009年(平成21年)まで東京福祉大学学長となる。
福田 弘平(ふくだ こうへい、1937年4月23日 - 20… 福田 弘平(ふくだ こうへい、1937年4月23日 - 2013年1月19日)は、日本の政治家。和紙職人。烏山町長を1期務めた。 1937年(昭和12年)、栃木県那須郡烏山町(現那須烏山市)の和紙職人の家に生まれる。大学を中退して全国の和紙産地で3年間修業した後、家業を継ぐ。1965年(昭和40年)、福長押絵を創設。1982年(昭和57年)、合名会社福田製紙所の代表社員に就任。和紙業者の廃業が続出する中、色付き和紙を用いた押絵を開発するなど和紙の再興に力を注いだ。 2002年(平成14年)4月14日、烏山町長選挙で当選。2005年(平成17年)10月1日、烏山町が那須郡南那須町と新設合併して那須烏山市が発足したことに伴い町長を失職した。
片岡 健治(かたおか けんじ、1937年3月18日 - )は… 片岡 健治(かたおか けんじ、1937年3月18日 - )は、栃木県出身の元プロ野球選手。 大田原高校を経て、社会人野球のいすゞ自動車で活躍し、1959年に社会人・大学生混成の第3回アジア野球選手権大会全日本代表に選出された。同社を経て1960年に中日ドラゴンズへ入団。 1年目から新人王を期待されたが、キャンプで風邪をひき、さらに無理がたたり肩を痛める。その後、4月17日の国鉄スワローズ戦で1試合投げたが、7月に投げられない申し訳なさから任意引退を申し出た。その後再び中日と再契約したものの、翌1961年に引退。
五月女 幸雄 Saotomé Yukio(さおとめ ゆきお、… 五月女 幸雄 Saotomé Yukio(さおとめ ゆきお、1937年2月18日 - )は、前衛美術出身、フランス在住の画家。 栃木県宇都宮市に生まれる。教師であった両親の下で、幼少時より絵を描き始める。栃木県立石橋高等学校に進み、社会科教諭・大島清次に出会う。後に栃木県立美術館および世田谷美術館の館長となる大島は、当時の社会状況や現代思想について、ことあるごとに生徒たちに語って聞かせていた。社会の実相を見つめる目、美術への志向がこうして養われていく。 蕨画塾(埼玉県蕨市)に入り、彫刻を長谷秀雄に、絵画を寺内萬次郎、金子徳衛に学ぶ。同じ頃彫刻家・石井鶴三に出会ってその芸術観に感動し、東京芸術大学彫刻科の石井教室を目指して数度の受験に臨むが入学は叶わず、最後に合格通知を受け取った埼玉大学教育学部の美術科に入学することとなった。
栄太呂(えいたろ、1937年1月28日 - 2012年1月2… 栄太呂(えいたろ、1937年1月28日 - 2012年1月2日)は、大相撲の元呼出。本名:上田忠。栃木県宇都宮市出身、時津風部屋所属。師匠は従兄弟でもある栄吉。 1948年5月初土俵。呂太鼓の名人として知られる。また、角界有数の酒好きとしても有名。 1969年の九州場所中、酔っ払って横断歩道を横断中に車にはねられ、80メートルも飛ばされた結果、内臓破裂で2年間入院。再起が危ぶまれたが、根性で復活した。
高橋 三郎(たかはし さぶろう、1937年 - )は日本の社… 高橋 三郎(たかはし さぶろう、1937年 - )は日本の社会学者。栃木県出身。 栃木県立栃木高等学校を経て、京都大学卒業。同大大学院文学研究科博士課程修了(社会学)。京都大学名誉教授。広島国際学院大学現代社会学部教授。
椎名 清(しいな きよし、1937年 - )は、日本の柔道家… 椎名 清(しいな きよし、1937年 - )は、日本の柔道家。栃木県栃木市出身。主にアメリカ合衆国での指導者としての活動が知られる。 1937年栃木県に生まれ、日本大学を卒業後渡米。1968年の時点で、5段の段位を有していたとされる。 米塚義定と共に指導者として活動し、セント・ジョンズ大学で25年間指導した。アメリカ合衆国オリンピック代表のジョセフ・ワナグと、テイモック・ジョンストン=オノ(英語版)、トリニダード・トバゴに柔道を普及させたマーク・リトリアンらを指導している。 2023年にアメリカ柔道連盟(英語版)殿堂に選出された。アメリカ柔道連盟の高段者リストでは9段に位置している。 この項目は、柔道に関連した書きかけの項目です。
柴原 光三(しばはら みつぞう、1936年11月11日 - … 柴原 光三(しばはら みつぞう、1936年11月11日 - )は、栃木県出身の元プロ野球選手(投手)。左投右打。 1955年に宇都宮学園高校からトンボユニオンズに入団。チームの戦力不足の中、勝ち星こそなかったが19試合に登板した。翌1956年は期待されたがわずか9試合の登板に留まり、チーム解散により1957年には大映ユニオンズに移籍したが1試合も登板なくこの年でユニフォームを脱いだ。 球種はストレート、ドロップ、カーブ。 1957年に1度だけ代打出場がある。
阿久津 義雄(あくつ よしお、1936年7月11日 - )は… 阿久津 義雄(あくつ よしお、1936年7月11日 - )は、栃木県出身の元プロ野球選手(投手)。 宇都宮工業高校から1955年に中日ドラゴンズに入団。在籍4年間で2試合のみの登板に終わり、1958年に引退。
佐久間 賢司(さくま けんじ、1936年(昭和11年)7月8… 佐久間 賢司(さくま けんじ、1936年(昭和11年)7月8日 - 1984年(昭和59年)7月17日)とは、栃木県芳賀郡益子町の益子焼の陶芸家である。 濱田庄司の同志として「民芸品としての益子焼」の発展普及に貢献した陶芸家・佐久間藤太郎の4男であり、藤太郎亡き後の「佐久間窯」を継ぎ3代目となり、窯元の名称を「佐久間藤太郎窯」と改称した人物である。 1936年(昭和11年)7月8日、益子焼の陶芸家である佐久間藤太郎の4男として益子町に生まれる。 藤太郎の窯元である「佐久間窯」の生まれのため、生まれた時から陶土に囲まれていた。賢司の生まれた頃の佐久間窯は、藤太郎を中心として16人もの陶工とその家族が陶器作りに働いていた。
川田 幸夫(かわだ ゆきお、1936年6月27日 - 201… 川田 幸夫(かわだ ゆきお、1936年6月27日 - 2011年5月28日)は、栃木県出身のプロ野球選手。 足利工業高から1955年にトンボユニオンズへ入団。 1956年に退団し、1959年から社会人野球の全足利クラブへ入団。現役引退後も同チームで監督を1968年から1973年まで務めた。 その後も栃木県野球連盟理事長、足利野球協会会長を長年務めた。 2011年5月28日、病気のため74歳で死去。
柳田 邦男(やなぎだ くにお、1936年〈昭和11年〉6月9… 柳田 邦男(やなぎだ くにお、1936年〈昭和11年〉6月9日 - )は、日本のノンフィクション作家、評論家。 航空事故、医療事故、災害、戦争などのドキュメントや評論を数多く執筆している。妻は絵本作家の伊勢英子。娘にカメラマンの石井麻木がいる。 栃木県上都賀郡鹿沼町(現在の鹿沼市)生まれ。栃木県立鹿沼高等学校を経て、1960年東京大学経済学部を卒業する。同年NHKに入局し、広島放送局へ配属される。1963年東京へ戻り、社会部に配属になる。1966年に遊軍記者として全日空羽田沖墜落事故、カナダ太平洋航空機墜落事故、BOAC機空中分解事故を取材する。1971年にこれらの事故を追ったルポルタージュ『マッハの恐怖』を発表し、第3回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。
橋本 康(はしもと やすし、1936年5月29日 - )は、… 橋本 康(はしもと やすし、1936年5月29日 - )は、日本の農業工学者。学位は、農学博士(東京大学)。愛媛大学名誉教授。日本学術会議会員、デューク大学客員教授、国際自動制御連盟(英語版)(IFAC)理事、日本農業工学会長、日本生物環境調節学会長、日本植物工場学会長、農業情報学会長などを歴任。専門は植物生体計測学、植物環境調節学、太陽光植物工場のシステム制御工学。 栃木県立宇都宮高等学校を経て東京大学に入学し、同農学部農業工学科に進んで農業機械学を学んだ。1962年に同大学を卒業、東京大学大学院数物系研究科修士課程、さらに同大学院農学系研究科博士課程に進学した。そして、生物環境調節学講座を専攻し、杉二郎教授に師事した。
下重 暁子(しもじゅう あきこ、1936年〈昭和11年〉5月… 下重 暁子(しもじゅう あきこ、1936年〈昭和11年〉5月29日 - )は、日本の作家・評論家・エッセイスト。元NHKアナウンサー、JKA初代会長。 栃木県宇都宮市出身。「下重」は江戸時代、各地の御典医に多かった姓で、暁子の下重家は石見国浜田藩の御典医を代々勤めた。映画「戦場のメリークリスマス」の登場人物のモデルになった森勝衛は、父の従兄にあたる。 9歳の時に太平洋戦争の疎開先の奈良県で終戦を迎える。 教師の影響で、進学校の大阪府立大手前高等学校に進学。国語など文科系科目は得意なため、苦労したことはなく早稲田大学教育学部国語国文学科に進学した。芥川賞作家の黒田夏子は早大教育学部の同級生で同人誌仲間。
栗原 彬(くりはら あきら、1936年4月18日 - )は、… 栗原 彬(くりはら あきら、1936年4月18日 - )は、日本の社会学者。立教大学名誉教授。立命館大学研究顧問。専門は政治社会学。 栃木県宇都宮市生まれ。東京大学教養学部卒業。三井物産勤務を経て、東京大学大学院社会学研究科で学ぶ。立教大学法学部助手、武蔵大学人文学部講師、立教大学法学部助教授・教授、2002年定年、名誉教授、明治大学文学部教授、2007年立命館大学特別招聘教授。水俣フォーラム代表および日本ボランティア学会代表。
小島 勝平(こじま かつへい、1936年〈昭和11年〉1月2… 小島 勝平(こじま かつへい、1936年〈昭和11年〉1月28日 - 2007年〈平成19年〉4月24日)は、日本の実業家。小島電気商会(後の株式会社小島電機、現在の株式会社コジマ)創業者で、代表取締役社長、代表取締役会長を歴任した。 1955年4月に栃木県宇都宮市で小島電気商会を創業、家電の安売り販売を開始。1963年より法人化して株式会社小島電機を設立。 小島電機は栃木県内で1972年から多店舗化へ展開、店舗網を拡充して大量販売。1984年から栃木県外に進出し多店舗展開、1985年までに中堅家電販売店へ成長。小島勝平は全国一の家電量販店激戦区北関東YKK で、群馬県のヤマダ電機(山田昇)、茨城県のケーズデンキ(加藤修一)、栃木のヌマニウ、第一家電と家電量販店の激しい価格競争、出店競争。
橋本 幸治(はしもと こうじ、1936年1月21日 - 20… 橋本 幸治(はしもと こうじ、1936年1月21日 - 2005年1月9日)は日本の映画プロデューサー、元映画監督、東宝映画常務取締役。栃木県足利市出身。
白根 一男(しらね かずお、本名: 小池 正一、1936年〈… 白根 一男(しらね かずお、本名: 小池 正一、1936年〈昭和11年〉1月12日または1937年〈昭和12年〉1月11日 - 2025年〈令和7年〉10月10日)は、日本の演歌歌手である。 栃木県栃木市皆川町生まれ。高校在学中の1952年(昭和27年)にテイチクレコード第1回新人コンテストに出場し、優勝。 翌1953年(昭和28年)にテイチクから「夜霧の酒場」でデビュー。1955年(昭和30年)には、市川雷蔵主演の大映映画 『次男坊鴉』の主題歌「次男坊鴉」が大ヒットし一躍スターダムに。 1957年(昭和32年)には第8回NHK紅白歌合戦に出場、ヒット曲「面影いずこ」を歌唱。1959年(昭和34年)には創設間も無い東芝レコードへ看板歌手の一人として引き抜かれる形で移籍。
福島 鑄郎(福島 鋳郎、ふくしま じゅうろう、1936年1月… 福島 鑄郎(福島 鋳郎、ふくしま じゅうろう、1936年1月1日- 2006年6月)は、日本の戦後雑誌・出版史の研究者、雑誌収集家。プランゲ文庫の存在を、いち早く日本に広く紹介したことでも知られる。日本出版学会会員、メディア史研究会会員、大衆文学研究会会員、占領史研究会会員。 本稿では可能な限り初出に従って、「鑄」「鋳」の別を個別の著作に付記した。 栃木県生まれ。本名・重信。1954年栃木県立馬頭高等学校卒業後、昼間に古書店巡りの時間を確保するため、日販や藤沢市民病院などで警備員を務めながら、雑誌の収集や研究に励んだ。1972年11月3日、竹前栄治・天川晃とともに日本占領史研究会(1992年解散)を設立。
竹野 暢勇(たけの のぶお、1935年11月25日- 200… 竹野 暢勇(たけの のぶお、1935年11月25日- 2009年10月1日)は、競輪選手。現在の真岡市(旧二宮町)出身。現役時は日本競輪選手会栃木支部所属。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第10期卒業。選手登録番号6574。 栃木県立真岡高等学校在籍時代はサッカーを行っていたが、親が自転車店を経営していた縁で、卒業後競輪選手を志し、競輪学校第10期生となった。 鋭いダッシュ力を駆使した走法を武器として、長年に亘りトップクラスで活躍。全国都道府県選抜競輪を4回優勝した。 また、オールスター競輪では、1956年に川崎競輪場で開催された第1回から、1984年に西宮競輪場で開催された第27回まで、ファン投票で選ばれ全て出場した。
郡司 洋(ぐんじ ひろし 1935年11月10日〜2007年… 郡司 洋(ぐんじ ひろし 1935年11月10日〜2007年10月14日 享年71)は日本のプロゴルファー。栃木県那須湯本出身。栃木県立黒磯高校卒業。身長164cm、血液型A型。 学生時代、名門那須ゴルフクラブにてアルバイトキャディをしていた頃、台湾の陳清水プロの引き玉(バックスピン)を目の当たりにして驚愕し、ゴルフのプロになる事を決意する。当時、千葉カントリークラブの建設に携わっていた清水建設の清水陽之助に声を掛けられ上京。24歳でプロテストに合格し、千葉カントリークラブ創設以来50年に渡り所属ヘッドプロとして活躍。 現役のトーナメントプロでありながら多数のプロゴルファーを育てた事でも有名。弟子の中では、横島由一(13勝)、1999年賞金女王となった村口史子(7勝)、全米オープン出場の増田伸洋(2勝)、他十数名。
稲村 利幸(いなむら としゆき、1935年10月29日 - … 稲村 利幸(いなむら としゆき、1935年10月29日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員(8期)。 栃木県足利市出身。1954年、栃木県立足利高等学校卒業。 高校時代から政治家を志し、旧栃木2区選出の自由民主党衆議院議員小平久雄の事務所などに出入りする。1958年、学習院大学政経学部政治学科卒業。 政界に人脈を広げるために雄弁会に入会しようと考え、早稲田大学政治経済学部経済学科に学士入学。1961年、早稲田大学政治経済学部卒業。早大在学中、三木武夫の秘書として活動。大学卒業後、小平の秘書となる。 1963年、第30回衆議院議員総選挙に旧栃木2区から自由民主党公認で立候補し落選。
後藤 尚久(ごとう なおひさ、1935年6月8日 - 202… 後藤 尚久(ごとう なおひさ、1935年6月8日 - 2023年12月14日)は日本の電子工学者。栃木県宇都宮市生まれ。 1959年 東京工業大学電気工学科卒業。 1964年 同大学院博士課程修了、工学博士(学位論文「電波ビームの電気的走査に関する研究」)。同年、東京工業大学助手。 1980年 東京工業大学教授。 1994年電子情報通信学会副会長。 1996年 定年退職。拓殖大学工学部教授。 2000年 紫綬褒章受章。 2006年 拓殖大学定年退職。 現在は、東工大名誉教授、拓殖大学名誉教授。 2011年 総務大臣表彰電波功績賞(電波産業会)、井上春成賞(科学技術振興事業団)受賞。 2011年 瑞宝中綬章受章。
岡田 忠弘(おかだ ただひろ、1935年4月26日- 没年不… 岡田 忠弘(おかだ ただひろ、1935年4月26日- 没年不明)は、栃木県出身の元プロ野球選手(投手)。 栃木県立栃木高等学校を卒業後、明治大学を経て、1958年に東映フライヤーズへ入団。この年には、東京六大学リーグ時代のライバルであった杉浦忠(立教大学卒)らも、自身と同時にプロ入りしている。準硬式上がりの投手でもあった。 しかし、1年目から華々しい活躍を見せた杉浦達とは対照的に、中継ぎを中心とした地味な役回りに終始した。 フライヤーズが南海ホークスと熾烈な優勝争いを展開した1961年には、スライダー・カーブ・シュートを武器にプロ初勝利を含む3勝を挙げている。 1963年には広島カープへ移籍し、自己最多タイの24試合に登板するも勝ち星には恵まれず、同年暮れに引退した。
ソンコ・マージュ(Sonko Mayu、1935年〈昭和10… ソンコ・マージュ(Sonko Mayu、1935年〈昭和10年〉2月20日 - )は、日本の音楽家、ギタリスト、フォルクローレ奏者。栃木県栃木市出身。本名は荒川 義男(あらかわ よしお)。 1966年、スペイン政府奨学生として留学し、アンドレス・セゴビアやホセ・トマス(英語版)に師事したのち、南米で民俗音楽を研究。1967年、アルゼンチンのフォルクローレ奏者であるアタウアルパ・ユパンキの弟子となり、愛用のギターを贈られ、ソンコ・マージュ(ケチュア語で『心の川』の意)と名づけられる。ギターは1953年製の初代ヌーニェスである。 1974年にLP「復活」を発表した時点では、ユパンキの作品のみをレパートリーとし、その奏法をコピーして活動していた。
高野 正三(たかの しょうぞう、1935年(昭和10年)2月… 高野 正三(たかの しょうぞう、1935年(昭和10年)2月8日 - )は、日本の実業家。調味料「ろく助塩」の開発者であり、東洋食品株式会社( 東京都港区赤坂8丁目13−19)の創業者として知られている。 現在の栃木県那須烏山市に生まれた。祖父・伊予作と父・正一が同地で写真館を営んでおり、幼少期から写真の撮影や修整技術を観察を通じて学んだ。 1952年(昭和27年)、17歳のときに父の師匠が営む北海道・幾春別の「小林写真館」で写真家としての修行を開始した。1954年(昭和29年)、技術向上のため東京・神田神保町の「丹羽写真館」に入社した。1956年(昭和31年)、広告写真を学ぶため「阿部スタジオ」の阿部正二に師事した。
柏 まゆみ(かしわ まゆみ、1935年1月9日 - 1985… 柏 まゆみ(かしわ まゆみ、1935年1月9日 - 1985年6月)は、日本の元女優、元女性声優である。本名・旧芸名は持田 和代(もちだ かずよ)。 1935年(昭和10年)1月9日、栃木県足利市に生まれる。 栃木県立足利女子高等学校(2022年統廃合)卒業後、女優を志し、1953年(昭和28年)に東宝ニューフェイス第5期生として東宝に入社。本名の「持田 和代」を名乗り、1954年(昭和29年)10月13日に公開された小田基義監督映画『幽霊男』などに出演していたが、ほとんどが脇役・端役で役柄に恵まれず、1955年(昭和30年)に退社した。 退社後は映画界を離れ、こだまの会、テレビ8プロダクション、グループりんどうなどに所属、テレビ・ラジオの女優として活動する。
鈴木 昌道(すずき まさみち(しょうどう)、1935年 - … 鈴木 昌道(すずき まさみち(しょうどう)、1935年 - 2016年)は、日本の造園家、書家、ランドスケープアーキテクト、墨象家。栃木県生まれ。 1960年、千葉大学園芸学部を卒業後、東京工業大学工学部建築学科清家清研究室を経て1961年に東京オリンピック大会組織委員会に入会。1964年、芦原義信の建築設計事務所に入所し、芦原作品の外部空間設計をサポート。その後独立。1974年鈴木昌道研究所設立。以降、栃木県まちづくりアドバイザーも歴任。 1970年、日本工業大学建築学科 非常勤講師(~1985年)1982年、千葉大学造園学科 非常勤講師(~1989年)1993年、東京芸術大学美術学部非常勤講師。
大場 啓仁(おおば ひろよし、1935年 - 1973年9月… 大場 啓仁(おおば ひろよし、1935年 - 1973年9月4日)は、日本の英米文学者。元立教大学一般教育部助教授。1973年に不倫関係にあった教え子を殺害後、一家心中した。 静岡県の森町で煙草販売所長の子として生まれたが、幼い頃に結核患者の両親から隔離されて親戚に預けられた後、袋井町の左官職人の養子となり、さらに東京市の堀切に移り住んだ。 戦時中に栃木県宇都宮市に疎開し、そのまま中学と栃木県立宇都宮高等学校を卒業した後、立教大学文学部英米文学科に入学する。そして1958年に学部を卒業後、さらに同大学大学院文学研究科英米文学科に進学し、細入藤太郎教授に師事している。修士課程を修了後、さらに博士課程後期課程に進み、単位取得退学した。
勝城 蒼鳳(かつしろ そうほう、1934年2月23日 - 2… 勝城 蒼鳳(かつしろ そうほう、1934年2月23日 - 2023年1月28日)は、日本の竹工芸家。重要無形文化財保持者(人間国宝)。本名は、勝城 一二(いちじ)。 栃木県那須郡高林村(黒磯町、黒磯市を経て、現在の那須塩原市)に生まれる。 1949年に15歳で菊地義伊に弟子入りして竹工芸を学び始め、八木澤啓造(蒼玕)や斎藤文石にも指導を受けた。1968年に日本伝統工芸展に初めて入選を果たし、以後「蒼鳳」の号を使用する。この号は八木澤から与えられたものだった。斎藤に師を変えたのは、八木澤が指導のためにフィリピンに渡航したことが理由だった。 1972年に日本工芸会正会員となる。 日本伝統工芸展では、第30回で東京都知事賞、第44回でNHK会長賞を受賞した。
丸山 暁鶴(まるやま ぎょうかく、1934年2月13日 - … 丸山 暁鶴(まるやま ぎょうかく、1934年2月13日 - 2014年8月6日)は、昭和・平成期の日本の書家・篆刻家。
佐江 衆一(さえ しゅういち、1934年〈昭和9年〉1月19… 佐江 衆一(さえ しゅういち、1934年〈昭和9年〉1月19日 - 2020年〈令和2年〉10月29日)は、日本の小説家、コピーライター。本名は柿沼 利招()。老老介護を描いた『黄落』(1995年)がベストセラーとなったほか、時代小説も手がけた。 東京府東京市浅草区栄久町(現:東京都台東区蔵前4丁目)の「柿沼質店」の次男として出生。2日前に4歳の兄が急性肺炎で急死していた。母の乳が出ず乳母の乳を飲み、兄の生まれ代わりとして大事に育てられ病弱。質店には浅草六区の芸人・歌手・踊り子・劇場の客引き・アドバルーン揚げや両国の相撲取りや下町の苦学生等の庶民の客が来て、それらの話を盗み聞きしてマセた子として育つ。
岩淵 功(いわぶち いさお、1933年11月17日 - 20… 岩淵 功(いわぶち いさお、1933年11月17日 - 2003年4月16日)は、栃木県出身のサッカー選手。ポジションはFW。娘婿は元プロ野球選手の吉村禎章。 栃木県立宇都宮高等学校3年次の1950年には小沢通宏と共に全国高等学校蹴球選手権大会(全国高等学校サッカー選手権大会の前身)で優勝。卒業後には慶應義塾大学文学部に進学し体育会ソッカー部に入部。慶應BRB(現役、OBの混成チーム)の一員として1954年、1956年の全日本サッカー選手権大会 (天皇杯全日本サッカー選手権大会の前身)優勝に貢献した。 大学卒業後は東京トヨタ自動車に入社したが、勤務先でサッカー部活動を行ったかは不明。 また1955年に松永碩、加納孝らと共に東京クラブに加入。
神田 昌男(かんだ まさお、1933年11月8日 - )は、… 神田 昌男(かんだ まさお、1933年11月8日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元プロ野球選手。 宇都宮工業高校では吉成武雄とバッテリーを組んで1950年夏と1951年春に甲子園出場。 1952年に大洋ホエールズへ吉成と共に入団。1958年に引退。 引退後は日立製作所で監督を務めた。
鈴木 秀幸(すずき ひでゆき、1933年〈昭和8年〉8月1日… 鈴木 秀幸(すずき ひでゆき、1933年〈昭和8年〉8月1日 - )は、栃木県出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手。1956年と1957年の登録名は鈴木 正。 矢板高校から神奈川大学へ進学、エースとして活躍する。横浜四大学野球リーグでは在学中5回優勝。1955年の全日本大学野球選手権大会では準決勝に進むが明大に敗退。リーグ最優秀選手3回。 1956年に毎日オリオンズへ入団、外野手に転向する。同年は開幕から中堅手、五番打者として起用され、71試合に先発出場。しかし打撃面で結果を残せず、翌1957年からは衆樹資宏の入団もあって定位置を失う。その後は一時低迷するが、1960年は準レギュラーとして起用され同年のリーグ優勝に貢献。
糸井哲夫(いとい てつお、1933年(昭和8年)6月15日 … 糸井哲夫(いとい てつお、1933年(昭和8年)6月15日 - )とは、栃木県芳賀郡益子町と栃木市の「益子焼」の陶芸家であり版画家である。 初期には彫刻を制作し、時には詩作も嗜んだ。 郷土である栃木市の自然や町並みを題材に版画を制作し、また「益子百態」や「益子百窯」、そして「益子真景図」などの、「民藝の町・益子」の風景や益子焼に従事する人々を題材とした版画作品で知られる。 そして2024年(令和6年)現在、「益子陶器市」の公式ポスターや公式サイトの意匠として糸井の版画作品が用いられている。 1933年(昭和8年)6月15日、栃木県栃木市日ノ出町に生まれる。 栃木県立栃木高等学校を卒業後、1950年(昭和25年)に、栃木市出身の版画家であり彫刻家であった、戦前は「日本プロレタリア美術家同盟」で活動し、後に益子焼の陶芸家となる村田元と交流があった、当時益子に在住していた鈴木賢二に師事し、益子町に移住、というよりは布団だけを持ち込んで益子の鈴木の家に居候をし、鈴木の下で彫刻や版画、そして陶芸を学び、創作活動を始める。