米田 冨士雄(よねだ ふじお、1898年8月11日 – 19… 米田 冨士雄(よねだ ふじお、1898年8月11日 – 1977年3月30日)は、日本の逓信官僚。 1898年、東京府東京市神田仲猿楽町で、弁護士・衆議院議員である米田実の長男として出生。 明治中学校(現・明治大学付属明治高等学校・中学校)、第五高等学校乙文科を経て、東京帝国大学法学部独法科卒業。高等文官試験に合格し、1924年に旧逓信省入省。1929年、陸軍大臣、教育総監などを務めた秋山好古の四女治子と結婚。国際連盟交通委員顧問としてのパリ駐在、国際航空委員会の帝国代表随員、ロンドン国際経済会議の全権随員などを務める。運輸省海運総局運航部長、海務官などを経て、日本船主協会理事長、日本海運振興会会長、海事産業研究所理事長などの要職を歴任。
青木 喬(あおき たかし、1898年(明治31年)8月9日 … 青木 喬(あおき たかし、1898年(明治31年)8月9日 - 1991年(平成3年)4月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 東京府出身。医師・青木三奎の息子として生まれる。 1911年(明治44年)に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業[要出典]。東京高師附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)、東京陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1920年(大正9年)5月、陸軍士官学校(32期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第29連隊付となる。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を優等で卒業した。陸大在学中の1926年(大正15年)1月、航空兵科に転じ航空兵中尉となる。
髙橋 俊人(たかはし としんど、1898年8月4日 - 19… 髙橋 俊人(たかはし としんど、1898年8月4日 - 1976年1月13日)は日本の歌人、郷土史家。 神奈川県藤沢生まれ。東洋大学専門部倫理学東洋文学科卒業。埼玉県(浦和中学校)、三重県(桑名中学校、津高等女学校、富田中学校)、東京都(山脇学園)、神奈川県(藤沢中学校・高等学校)などの中学校・高等学校の教諭を歴任。 大正末年、若山牧水の短歌結社「創作」に参加。一方、1928年、埼玉県立浦和中学校の学生とともに「菁藻」を創刊(1942年「創作」に合併)、加藤克巳、常見千香夫らを育てた。 1952年には藤沢市を拠点に、平井啓朔、河口一紀らと「まゆみ」を創刊。そのかたわら、藤沢市の依嘱により郷土史研究に従事。
沖野 亦男(おきの またお、1898年(明治31年)7月27… 沖野 亦男(おきの またお、1898年(明治31年)7月27日 - 1978年(昭和53年)3月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 中国勤務が長く、“海軍の長江男”との異名があった中華民国専門家である。第二次世界大戦で片足を失って捕虜となる。戦後は、傷痍軍人会の創設、障害者スポーツの振興に尽力した。傷痍軍人会専務理事、世界歴戦者連盟(WVF - World Veterans Federation)理事。 府立四中を経て、海軍兵学校卒業。沖野は海兵47期で光延東洋、山本善雄、城英一郎らが同期生である。1920年(大正9年)少尉任官。大尉時代に海軍大学校選科学生として中国語を学び、第一遣外艦隊参謀兼副官として、司令官・米内光政を補佐している。
江川 英文(えがわ ひでぶみ、1898年7月19日 - 19… 江川 英文(えがわ ひでぶみ、1898年7月19日 - 1966年8月21日)は、日本の法学者。専門は国際私法。学位は、法学博士(東京大学・論文博士・1962年)。東京大学名誉教授。正三位勲二等旭日重光章。弟子に池原季雄など。 1898年、東京府東京市生まれ。早稲田中学校、第一高等学校文科丙類を経て、1922年、東京帝国大学法学部法律学科に入学。 卒業後の1925年、東京帝国大学卒業、東京帝国大学助手に採用される。1927年、東京帝国大学助教授に昇任。1936年、教授に昇任。1959年3月、東京大学を定年退職。同年6月、東京大学名誉教授の称号を受けた。その後も1959年4月より立教大学法学部教授となり教鞭をとり続けた。
吉田 洋一(よしだ よういち、1898年7月11日 - 19… 吉田 洋一(よしだ よういち、1898年7月11日 - 1989年8月30日)は、日本の数学者。
渋沢 信雄(しぶさわ のぶお、正字体:澁澤 信雄、1898年… 渋沢 信雄(しぶさわ のぶお、正字体:澁澤 信雄、1898年〈明治31年〉6月21日 - 1967年〈昭和42年〉2月12日)は、日本の実業家。渋沢栄一の次男で後に廃嫡となる篤二の次男として生まれる。渋沢家の傍系に属しつつ、秩父鉄道、東京製綱、秩父セメント、玉村式索道など祖父・栄一関係の企業に関わり、出版・輸入事業「福本書院」でも活動した。兄に渋沢敬三、弟に智雄。 1898年6月21日、子爵・渋沢栄一の次男篤二と妻・敦子の次男として東京府東京市深川区〈現在の東京都江東区〉にて生まれる。 敦子の父(母方の祖父)は羽林家の公卿出身の元老院議官を務めた伯爵橋本実梁である。 1913年、父・篤二が廃嫡となる。
松本 徳明(まつもと とくめい、1898年〈明治38年〉5月… 松本 徳明(まつもと とくめい、1898年〈明治38年〉5月13日 - 1981年〈昭和56年〉2月27日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本の仏教学者、思想家。文学博士。浄土宗の僧籍。 戦前はボン大学教授や報知新聞論説委員などを務め、戦後は日本科学振興財団理事長、芝中学校・高等学校理事長・校長、淑徳短期大学(現淑徳大学短期大学部)教授、大正大学理事長などを歴任した。 1898年、広島市に生まれる。浄土宗内地研究生となった後、1921年〈大正10年〉から1927年〈昭和2年〉にかけて仏教学者で東京帝国大学文学部教授の高楠順次郎の助手となり、「大正新脩大蔵経」刊行事業に従事。1927年〈昭和2年〉からセイロン島で南方仏教を研究した後、ドイツのボン大学に入学。
内海 一郎(うつみ いちろう、1898年(明治31年)5月7… 内海 一郎(うつみ いちろう、1898年(明治31年)5月7日 - 1972年(昭和47年))は、昭和初期に活躍した日本の歌手、舞台演出家。東京府(現:東京都)出身。 浅草オペラ時代には宇津美 清(うつみ きよし)の名で知られていた。妻は同じく歌手の松島詩子。 東京府吾嬬町(後に東京市向島区東)で履物商を営む内海喜太郎の長男として生まれる。1916年(大正5年)に東京音楽学校卒業後、浅草オペラで活躍した。1917年(大正6年)、河合澄子、天野喜久代、千賀美寿一らとともに佐々紅華の東京歌劇座に参加している。 レコードは宇津美清の時代からニッポノホンでお伽歌劇などを吹き込んでいるが、昭和期にはオリエントおよびニットーレコードでジャズソングを数多く録音した。
土方 与志(ひじかた よし、1898年(明治31年)4月16… 土方 与志(ひじかた よし、1898年(明治31年)4月16日 - 1959年(昭和34年)6月4日)は、日本の演出家。伯爵を継いだが剥奪された。築地小劇場を拠点に新劇運動を興した。東京生まれ。本名は久敬(ひさよし)。 東京市赤坂区表町(現・東京都港区赤坂)に生まれた。祖父久元は土佐藩出身で、維新後は宮内大臣・宮中顧問官・枢密顧問官・國學院大學学長などを務めて伯爵を授けられた。父久明は陸軍大尉だったが、何らかの事情で精神に異常をきたして療養中、与志が生まれて間もない1898年7月15日に拳銃で自殺している。母は加藤泰秋の三女・愛子。 土方は中学時代に友田恭助と子供芝居一座である南湖座を作り、演劇活動を始めている。
大町 文衛(おおまち ふみえ、1898年〈明治31年〉3月2… 大町 文衛(おおまち ふみえ、1898年〈明治31年〉3月27日 - 1973年〈昭和48年〉1月10日)は、昆虫学者、随筆家。三重大学名誉教授。文豪・大町桂月の次男。コオロギ類の研究で知られ、「コオロギ博士」と呼ばれた。 1898年(明治31年)3月27日、東京府で、大町桂月の次男として生まれる。兄は化学者の大町芳文[要出典]。1914年(大正3年)3月、東京府立第四中学校卒業。1917年(大正6年)3月、第一高等学校卒業。1921年(大正10年)7月、東京帝国大学農学部農学科卒業。在学中、石川千代松に師事して細胞遺伝学を学び、染色体の研究材料としてコオロギを取り上げたことをきっかけに、昆虫の種と進化の問題に取り組み、多くの成果を挙げた。
東家 楽浦(あずまや らくうら、1898年(明治31年)2月… 東家 楽浦(あずまや らくうら、1898年(明治31年)2月22日 - 1978年(昭和53年)4月4日)は、東京都生まれの浪曲師。本名は野口 金蔵。10年以上途絶えていた浪曲の寄席定席を木馬亭で復活させた貢献者。 東京市日本橋区生まれ。1919年(大正8年)、二代目東家楽遊門下の東家小楽遊に入門。1923年(大正12年)に真打。 情感たっぷりの節回しと、タンカのうまさで(劇場を満杯にするような大看板ではないが)「寄席打ちの名人」の名をほしいままにする。正岡容によれば「東家一門においては東家楽鴈以来の」芸達者で「諧謔」味や「憂愁」味の節回しを自在にこなし、長谷川伸が『芸がうま過ぎるのが処世では却って不利みたいな』と評したという。
中原 綾子(なかはら あやこ、1898年2月17日 - 19… 中原 綾子(なかはら あやこ、1898年2月17日 - 1969年8月24日)は、大正時代から昭和時代にかけての女流歌人。 旧柳河藩士であった曽我祐保の次女として、父の任地・長崎に生まれる。父の転任に従って大阪・神戸・朝鮮へと移るが、主として東京に在住する。1915年(大正4年)に東洋高等女学校を卒業後、作歌を始めていたが1918年(大正7年)から与謝野晶子に師事し、新詩社同人としてその歌を『明星』に発表するようになる。同じく『明星』に参加していた高村光太郎と親交があり、統合失調症を病んだ妻・智恵子の自宅療養と介護に忙殺され疲弊した光太郎は、度々中原へ手紙を送っている 。 1929年(昭和4年)6月、吉井勇・秦豊吉らとともに文芸誌『相聞』(後に『スバル』と改称)を公刊、詩や戯曲を発表する。
岩田 欣三(いわた きんぞう、1898年2月5日 - 198… 岩田 欣三(いわた きんぞう、1898年2月5日 - 1986年6月5日)は、翻訳家、医師。本名・良吉。東京生まれ。1925年東京帝国大学英文科卒。45年日本医科大学卒。法政大学教授。 W・H・ハドソン、ロバート・ルイス・スティーヴンソン、ジャック・ロンドン、アーサー・ランサムなど、少年向けの英国小説を訳した。岩田良吉、欣三双方の名を用いた。
伊東 深水(いとう しんすい、1898年(明治31年)2月4… 伊東 深水(いとう しんすい、1898年(明治31年)2月4日 - 1972年(昭和47年)5月8日)は、大正昭和期の浮世絵師・日本画家・版画家。本名伊東一。娘に女優の朝丘雪路がいる。 歌川派浮世絵の正統を継いでおり、日本画独特の柔らかな表現による美人画が有名。人気の「美人画」以外の画題を描きたくとも、それ以外の注文が来ず、画家として困惑する時期もあった。本妻の好子をモデルに大作を数多く発表し評価を高めた。戦後は美人画とも並行し、個人的に独自の題材で日本画を制作することが多かった。人気のあまり、戦後には多くの作品が複製版画として頒布されるようになった。 1898年、東京府東京市深川区深川西森下町(現東京都江東区森下一丁目)に伊東半三郎とまさ子の長男として生まれる。
小山 林平(こやま りんぺい、1898年(明治31年)1月2… 小山 林平(こやま りんぺい、1898年(明治31年)1月22日 - 1976年(昭和51年))は、日本の政治家。東京都東村山市長(1期)。 東京府北多摩郡東村山村(のち東村山町、現・東村山市)で生まれる。東村山村立化成尋常高等小学校(現在の東村山市立化成小学校)卒。卒業後は農業に従事する。1942年(昭和17年)に東村山町会議員に当選。1955年(昭和30年)に東村山町長に当選する。 東村山町は交通の発達などによって人口が急増した。小山は町長時代から東村山の都市化を見越して、人口増加に対応した街づくりを推進した。町長3期目の1963年(昭和38年)東村山町は人口が5万人を突破、市成立の要件が整い、翌1964年(昭和39年)に東村山市が発足、小山は初代市長となった。
高垣 眸(たかがき ひとみ、1898年〈明治31年〉1月20… 高垣 眸(たかがき ひとみ、1898年〈明治31年〉1月20日 - 1983年〈昭和58年〉4月2日)は、日本の児童文学作家、大衆小説作家、小説家。男性。本名・末男。別筆名に田川緑、青海、小野迪夫がある。 幼少期から軍艦に憧れ、海に情憬を持ち育った。このため海を舞台にした作品が多い。 広島県尾道市土堂生まれ。先祖は備後一宮城主で、生家は酢と醤油の醸造業を営んでいた。1902年(明治35年)、4歳のときに父親が赤痢で死去。翌年、尾道幼稚園に第一回生として入園する。またこの年、祖母より箏曲を習う。1904年(明治37年)、土堂小学校に入学、級長を務めた。1906年(明治39年)の夏に屋根から落ちて頭を打撲し京都府立病院に半年ほど入院。
椎名 悦三郎(しいな えつさぶろう、1898年〈明治31年〉… 椎名 悦三郎(しいな えつさぶろう、1898年〈明治31年〉1月16日 - 1979年〈昭和54年〉9月30日)は、日本の官僚、政治家。岸信介の腹心 として満洲国の運営に関わり、また商工次官として統制経済を推進、軍需次官も務めた。戦後は政界入りし、内閣官房長官(岸内閣)、通商産業大臣(19代・28代)、外務大臣(94-95代)、自由民主党において政調会長、総務会長、副総裁を歴任した。田中角栄の後継の総裁として三木武夫を指名した「椎名裁定」を下した人物として知られている。椎名素夫は次男、血縁のない叔父に後藤新平がいる。 1898年(明治31年)に岩手県胆沢郡水沢町(水沢市を経て、現在の奥州市)に生まれる。
陸 直次郎(くが なおじろう、1898年1月12日 - 19… 陸 直次郎(くが なおじろう、1898年1月12日 - 1944年8月11日)は日本の作家。本名は野沢嘉哉(のざわ よしや)。東京府東京市本郷区(現・東京都文京区)本郷出身。 早稲田大学文科中退。中央新聞、時事新報、萬朝報、読売新聞に勤務。妻の清子は直次郎と死別した後、弁当屋の経営を経て小唄の師匠に転向、堀小代清の芸名で活動した。 息子は4人おり、三男はクラブ馬主「東京ホースレーシング」創業者の野沢直哉、四男は声優・俳優・演出家の野沢那智、孫にお笑いタレントの野沢直子(直哉の娘)、クリエイティブディレクターの野澤直龍(直哉の息子)、声優・俳優の野沢聡(那智の息子)、曾孫に格闘家の真珠・野沢オークレアー(直子の娘)。
安 駿相(アン・ジュンサン、朝鮮語: 안준상、1898年1月… 安 駿相(アン・ジュンサン、朝鮮語: 안준상、1898年1月9日 - 1994年12月27日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、実業家、政治家、独立運動家。制憲韓国国会議員。 初代文教部長官の安浩相は従弟。 慶尚南道宜寧郡富林面立山里の耽津安氏(朝鮮語版)の世居地である立山村出身。東萊高等普通学校、正則英語学校(現・正則学園高等学校)卒。早稲田大学政経科2年修了。三・一運動のときは宜寧郡内の万歳運動を主導し、その後も族叔の安熙済の独立闘争活動を手伝った。また、立山学院長、古今社経営者、宜寧協同組合創立・経営者、馬山ゴム工業社経営者、薬草栽培園経営者を歴任した。光復後は慶尚南道ハングル文化普及会長、釜山東亜大学(現・東亜大学校)理事、独立促成国民会釜山支部副会長、朝鮮民族青年団慶尚南道団部理事、釜山一五倶楽部幹事、宜寧郡選出の国会議員、制憲同志会会長などを務めた。
山縣 昌夫(やまがた まさお、1898年(明治35年)1月4… 山縣 昌夫(やまがた まさお、1898年(明治35年)1月4日 - 1981年(昭和56年)3月3日)は、日本の船舶工学者。東京大学名誉教授。
五味 國男(ごみ くにお、1898年1月2日 - 没年不詳)… 五味 國男(ごみ くにお、1898年1月2日 - 没年不詳)は、日本の俳優、映画監督、元子役である。新漢字表記五味 国男。クレジットは五味 國雄(新漢字表記五味 国雄)と表記されることもあった。本名小崎 久雄(こさき ひさお)、父を初代とし、二代目 五味 國太郎(にだいめ ごみ くにたろう、新漢字表記五味 国太郎)を名乗ることもあった。 1898年(明治31年)1月2日、東京府東京市日本橋区(現在の東京都中央区日本橋)に生まれる。父は俳優の五味國太郎(1875年 - 1922年)、妹はのちに女優の五味國枝(1905年 - 没年不詳)になった。生年月日については、初期の文献である『日本映画年鑑 大正十三・四年』には「明治三十年一月二日」(1897年1月2日)、『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』では「明治三十年一月元旦」(1897年1月1日)とされている。
秦 秀雄(はた ひでお、1898年 - 1980年)は日本の… 秦 秀雄(はた ひでお、1898年 - 1980年)は日本の美術評論家・数寄者。骨董収集鑑定家・文筆家・随筆家でも著名である。号は「珍堂」。 明治31年(1898年)福井県三国の浄土真宗・本流院に生まれる。中学卒業後、得度して律師、釈円明と改名。上京して大正11年(1922年)東洋大学倫理科を卒業。福岡県中学修猷館、芝中学などで国語教師を務めるかたわら美術雑誌「茶わん」を発行。昭和5年(1930年)北大路魯山人の知遇を得て高級料亭・星岡茶寮の支配人となる。昭和12年(1937年)独立して東京目黒に驪山荘を経営。昭和18年(1943年)伊東温泉に疎開、昭和19年(1944年)驪山荘を閉じる。「陶和会」「落穂会」主宰。
金 鍾善(キム・ジョンソン、朝鮮語: 김종선、1898年また… 金 鍾善(キム・ジョンソン、朝鮮語: 김종선、1898年または1900年10月12日 - 1950年)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の教育者、実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 漢字表記は金鍾先とも。日本名は金田 国本(かねだ くにもと)。 現在のソウル特別市鐘路区または全羅南道求礼郡出身。求礼公立普通学校、東京正則英語学校中等科、日本大学政経科卒。1926年に新設の朝鮮殖産信託会社副社長となり、1930年代には現金80万ウォン以上を持つ資産家かつ全羅道の大地主であり、咸鏡南道の安辺郡に鉱山も所有していた。教育にも積極的に関与し、1927年から京城の往十里に旺新青年会で経営する旺新学院を支援し、1929年に私立旺新学院の院長を務め、大金を寄付して校舎を新築した。
上原 正吉(うえはら しょうきち、1897年(明治30年)1… 上原 正吉(うえはら しょうきち、1897年(明治30年)12月26日 - 1983年(昭和58年)3月12日)は、日本の実業家、政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。参議院議員(5期、自由民主党)。科学技術庁長官(第16代)。 若き頃、大正製薬創業者の石井絹治郎に見出され、以後、懐刀として活動、後に第3代目社長に就任した。また高額納税者番付の常連としても知られ、1964年-1966年、1976年、1977年、1979年の計6回トップを占めた。甥は参議院議長、埼玉県知事を務めた土屋義彦。 埼玉県北葛飾郡田宮村(現在の杉戸町)に、中学校教師の六男として生まれる。幼くして両親と死別し、高等小学校卒業後兄を頼って上京。
中川 善之助(なかがわ ぜんのすけ、1897年〈明治30年〉… 中川 善之助(なかがわ ぜんのすけ、1897年〈明治30年〉11月18日 - 1975年〈昭和50年〉3月20日 )は、日本の法学者。東北大学名誉教授、金沢大学名誉教授。正三位勲一等。日本の家族法の権威である。 1897年、東京府(現・東京都)神田で生まれた。金沢第一中学校、第四高等学校を経て、東京帝国大学に進学。穂積重遠門下で法学を学び、1921年に東京帝国大学法学部を卒業。 1922年9月、東北帝国大学法文学部助教授に就任し、民法学第一講座を担当した。1927年、東北帝国大学法文学部教授に昇格。1940年、第2代仙台法経専門学校校長に任命された。以後、死去するまで同校校長を務めた。 1961年、東北大学を定年退官し、名誉教授となった。
内村 祐之(うちむら ゆうし、1897年(明治30年)11月… 内村 祐之(うちむら ゆうし、1897年(明治30年)11月12日 - 1980年(昭和55年)9月17日)は、日本の医学者、精神科医。専攻は臨床精神医学、神経病理学。東京大学名誉教授、日本学士院会員。プロ野球コミッショナー。 キリスト教思想家として著名な内村鑑三を父、内村の4度目の妻内村静子を母として、東京府に誕生する。 獨逸学協会学校中等部から第一高等学校(医科)を経て、東京帝国大学に進む。一高野球部と草創期の東大野球部でも活躍し、特に一高時代の1918年、同校の野球投手として三高(京都)、学習院のほか、早稲田と慶應義塾を久しぶりに撃破するなど、15年ぶりに事実上の全国制覇を果たした。学生野球界で、当時隆盛を極めた左腕投手としてその名を馳せた。
落合 寛茂(おちあい かんも、1897年(明治30年)11月… 落合 寛茂(おちあい かんも、1897年(明治30年)11月5日 - 1972年(昭和47年)4月15日)は、明治末から昭和期の僧、政治家。衆議院議員(1期)、天台宗大僧正。 長野県小県郡傍陽村(真田町を経て現上田市真田町傍陽)出身。12歳で得度受戒。天台宗中学(現駒込中学校・高等学校)を経て、1919年(大正8年)天台宗大学(現大正大学)専門部を卒業した。その後、東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科で学んだ。 実相院(上田市)住職に就任。天台宗宗務庁教学部で勤務し、信濃毎日新聞社客員として漫画、漫文などを掲載した。1935年(昭和10年)茨城県結城郡大花羽村大輪(水海道市を経て現常総市大輪町)の安楽寺特命住職に転任。
加瀬 俊一(かせ しゅんいち、1897年10月23日 - 1… 加瀬 俊一(かせ しゅんいち、1897年10月23日 - 1956年9月9日)は、日本の外交官。太平洋戦争終戦当時の駐スイス公使で、戦後西ドイツ大使を務める。 外務大臣秘書官や国連大使を務めた加瀬俊一(としかず)とは同姓同名の別人である。外務省内では彼と区別するため「大加瀬」と俗称されていた。 東京生まれ。早稲田中学校、第一高等学校から東京帝国大学に進む。東京帝大在学中の1920年に高等文官試験外交科試験に合格したために、大学を中退して外務省に入省する。外務省同期に阪本瑞男、鹿島守之助など。 1935年に欧亜局第一課長、1938年に在アメリカ合衆国日本国大使館の一等書記官となる。太平洋戦争開戦後の1942年にイタリア公使となった。
坂本 一角(さかもと いっかく、1897年(明治30年)10… 坂本 一角(さかもと いっかく、1897年(明治30年)10月10日 - 1947年(昭和22年)4月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、大学教授。 東京府西多摩郡檜原村出身。日本歯科医学専門学校(現在の日本歯科大学)を卒業。また、明治大学法律科にも学び、在籍中は柔道部に所属した。東京府立第二商業学校教諭、日本大学講師・学生監、東京高等拓殖学校校長、拓殖大学教授を歴任した。東京市会議員に選出され、同参事会員に選ばれた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第21回まで4回当選した。 1946年(昭和21年)、大政翼賛会の推薦議員のため公職追放の該当者となった。翌年4月8日死去。
島津 季子(しまづ すえこ、1897年〈明治30年〉10月6… 島津 季子(しまづ すえこ、1897年〈明治30年〉10月6日 - 1982年〈昭和57年〉5月15日)は、日本の元華族。島津忠弘男爵夫人。宮内大臣・岩倉具定公爵令嬢。母は澤為量子爵令嬢・久子。 女子学院卒業後、島津忠義の六男・忠弘と結婚した。忠弘との間に一男二女をもうけた。長男の斉視は家を継ぎ、長女の弘子は農学者松平近義(伯爵亀井茲常の三男)の妻、次女の淑子は東宮女官長になった。 1982年5月15日没、墓所は東京都港区の瑞聖寺。
渡 正監(わたり まさみ、1897年(明治30年)9月5日 … 渡 正監(わたり まさみ、1897年(明治30年)9月5日 - 1953年(昭和28年)2月7日)は、日本の内務官僚。上海共同租界警視総監。
河村 黎吉(かわむら れいきち、1897年9月1日 (一説に… 河村 黎吉(かわむら れいきち、1897年9月1日 (一説に6月16日) - 1952年12月22日)は、日本の俳優。本名は河村石五郎(かわむら いしごろう)。 松竹で活躍した脇役俳優の一人であり、300本近い作品に出演した。島津保次郎監督作品に常連出演し、江戸っ子役や三枚目役で知られた。戦後に社長シリーズの前身である『三等重役』に社長役で出演したことでも有名。 1897年(明治30年)9月1日、東京府東京市深川区(現在の東京都江東区)に生まれる。神田の錦城商業学校予科を卒業後、13歳で中洲の真砂座で初舞台を踏む。新派劇の無名劇団に参加して地方巡業で各地を転々とし、自ら小劇団を組織したこともあった。
尹 潽善(ユン・ボソン、日本語読み:いん ふぜん、1897年… 尹 潽善(ユン・ボソン、日本語読み:いん ふぜん、1897年8月26日 - 1990年7月18日)は、大韓民国第4代大統領。本貫は、海平尹氏(朝鮮語版)。号は海葦(해위、ヘウィ)。尹致昭(朝鮮語版)(尹致暎の異母兄)の長男。 忠清道牙山郡(現在の忠清南道牙山市)生まれ。独立後初代のソウル市長として政界入りし、商工相・大韓赤十字社総裁を経て民主党最高委員に。四月革命 (韓国)で李承晩が失脚・亡命すると、民主党旧派の代表格として8月12日に大統領に選出された。しかし、新派の代表格で政治的実権を握っていた張勉首相との確執が絶えず、自ら民主党を離党して新民党を結成。5・16軍事クーデターの遠因を作った。
川端 茅舎(かわばた ぼうしゃ、1897年〈明治30年〉8月… 川端 茅舎(かわばた ぼうしゃ、1897年〈明治30年〉8月17日 - 1941年〈昭和16年〉7月17日)は、東京都出身の日本の俳人。本名は信一(のぶかず)。別号に遊牧の民・俵屋春光。日本画家の川端龍子は異母兄。 当初は画家を志し岸田劉生に師事したが、病のために断念し俳句に転向、高浜虚子に師事して「ホトトギス」に拠る。画家の眼を生かし写生に徹しつつも格調の高い句を物し、松本たかし、中村草田男などと共に「四S」以降の「ホトトギス」の代表的俳人として活躍した。 東京市日本橋蛎殻町で生まれ、腹違いの兄である龍子とともに育てられる。父信吉は紀州藩の下級武士、母は信吉の弟が経営する病院の看護婦。父は弟の病院で手伝いとして働いていたが、その後煙草の小売商を始める。
藤原 あき(ふじわら あき、1897年8月10日 - 196… 藤原 あき(ふじわら あき、1897年8月10日 - 1967年8月8日)は、日本のタレント、政治家。位階は正五位。 自由民主党参議院議員(1期)。資生堂美容学校校長。藤原義江の元妻。中上川彦次郎の庶子。参議院議員時代は本名の中上川(なかみがわ)アキで活動した。旧姓は宮下(前の夫の姓)。筆名、柳園子。 東京府出身。福澤諭吉の実姉:婉の長男であり、山陽鉄道の創設者で三井財閥の近代化に尽力した中上川彦次郎の三女(庶子、母は彦次郎の妾・つね)。本名はアキ。女子学習院に学ぶ。同級生には後に参議院議員になる加藤シヅエがいた。 1913年、17歳のときに一度の見合いもなく、19歳年上の東京京橋の開業医:宮下左右輔(みやした・そうすけ)と強制的に結婚させられて宮下姓となり、二女をもうける。
中村 高一(なかむら たかいち、1897年〈明治30年〉7月… 中村 高一(なかむら たかいち、1897年〈明治30年〉7月31日 - 1981年〈昭和56年〉7月27日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(社会党、当選8回)。日本社会党顧問。衆議院副議長(第41代)を務めた。弁護士として社会運動や人権活動に取り組んだ。 東京府西多摩郡西秋留村(現在の東京都あきる野市)出身。中村作兵衛の六男。東京府立第二中学校出身。1922年、弁護士試験に合格。1923年、早稲田大学法学部英法科卒業。弁護士開業。1930年、労農党中央執行委員。1936年、社会大衆党中央執行委員。早くから自由法曹団に参加し、自由法曹団事件で検挙された。 東京市会議員を経て、1937年の第20回衆議院議員総選挙に東京7区から出馬し当選。
長谷川 路可(はせがわ ろか、1897年7月9日 - 196… 長谷川 路可(はせがわ ろか、1897年7月9日 - 1967年7月3日)は、大正・昭和にかけて国内外で活躍した日本画家・フレスコ画家。カトリック美術家として、おもにキリスト教黎明期の日本のキリシタンを題材にした日本画による宗教画制作に取り組むとともに、日本のフレスコ・モザイクのパイオニアとして旧国立競技場などの公共施設に多くの壁画作品を制作する。また、文化服装学院をはじめ、いくつかの教育機関で服飾史を講じた。本名は龍三。 <暁星学校〜東京美術学校時代> <パリ・ヨーロッパ遊学時代> <チヴィタヴェッキア時代> <壁画集団「F・M」の時代> 長谷川路可は美術家として極めて多角的な活動に携わった。
風間 直得(かざま なおえ、1897年(明治30年)7月7日… 風間 直得(かざま なおえ、1897年(明治30年)7月7日 - 没年不明)は、日本の俳人。本名は山本 直得。別号に南鳳江。河東碧梧桐門下でルビ俳句の提唱者として知られる。東京都出身。 1897年に東京都日本橋区浜町(現在の中央区日本橋)で生まれる。若くして俳句の道を志し、新傾向俳句を提唱していた河東碧梧桐の元へ投句、1917年(大正6年)に碧梧桐の正式な門人となる。以降は一貫して新傾向俳句と、そこから発展した自由律俳句を詠む。碧梧桐主宰の海紅を経て、海紅の東京同人を中心に1924年(大正13年)東京俳三昧を立ち上げ、直得が代表となる。この前年の1923年(大正12年)、師の碧梧桐も海紅を中塚一碧楼に譲り、新たに『碧』を主宰、1925年(大正14年)に東京俳三昧と碧が合流する形で『三昧』を創刊した。
島津 保次郎(しまづ やすじろう、1897年〈明治30年〉6… 島津 保次郎(しまづ やすじろう、1897年〈明治30年〉6月3日 - 1945年〈昭和20年〉9月18日)は、大正・昭和期の映画監督。松竹蒲田撮影所で蒲田調と呼ばれる小市民映画を多数製作し、松竹の代表的監督となった。 東京市日本橋区(現・東京都中央区日本橋)三越日本橋本店の真正面に老舗の海苔商「甲州屋」を営む父・音次郎の次男として生まれる。 正則英語学校(現・正則学園高等学校)に入学するが、幼いころから極度の映画好きであった島津は学校をさぼって近くにあった映画館・錦輝館へ行って映画を見ていた。当時から映画監督への道を志しており、逓信省の宣伝映画のシナリオ公募に入選した経験もある。卒業後、実家の手伝いで、福島で下駄用桐材の切り出しに携わる。
徳川 宗敬(とくがわ むねよし、旧字体:德川 宗敬、1897… 徳川 宗敬(とくがわ むねよし、旧字体:德川 宗敬、1897年(明治30年)5月31日 - 1989年(平成元年)5月1日)は、日本の林学者、陸軍軍人、政治家、教育者、神職。階級は陸軍少尉。位階は従三位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。最終学歴は東京帝国大学農学部林学科卒業。学位は農学博士(東京帝国大学)。
黒田 茂子(くろだ しげこ、1897年〈明治30年〉5月29… 黒田 茂子(くろだ しげこ、1897年〈明治30年〉5月29日 - 1991年〈平成3年〉6月26日)は、日本の元皇族。黒田長礼侯爵夫人。閑院宮載仁親王の第2女子。母は、三条実美公爵令嬢・智恵子。旧名は、茂子女王(しげこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。 1897年(明治30年)5月29日、閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第2女子(第3子)として誕生。1914年(大正3年)1月21日、黒田長礼(黑田長禮、黒田長成侯爵の嫡男)に降嫁した。1978年(昭和53年)4月16日に夫・長礼が没した後、茂子は「黒田家什宝は美術工芸品であっても、郷土福岡との関連において役立てるべき歴史的文化財である」ため、それらを故郷に帰すという亡夫の遺志を継ぎ、同年9月19日に国宝・漢委奴国王印をはじめ黒田家に伝来した文化財や歴史資料を『黒田資料』として一括して福岡市へ寄贈した。
福田 雅之助(ふくだ まさのすけ, 1897年5月4日 - … 福田 雅之助(ふくだ まさのすけ, 1897年5月4日 - 1974年12月21日)は、東京府豊多摩郡戸塚村(現在の東京都新宿区西早稲田)出身の男子テニス選手である。全日本テニス選手権の第1回大会男子シングルス優勝者。 早稲田大学では1902年9月に運動場が改築され、その一部が福田家の所有する土地であったことから、雅之助はごく幼い頃から運動場でのスポーツ観戦を楽しんでいた。彼は戸塚睦合小学校(現在の戸塚第一小学校)時代は野球部員であったが、早稲田中学に入学した1910年に13歳でテニスを始めた。福田が16歳の時、1913年(大正2年)に慶應義塾大学庭球部が「硬式テニス(ローンテニス)への転向」を表明したが、早稲田大学庭球部は当初は硬式テニスに乗り気ではなく、三神八四郎(1887年 - 1919年)の説得に応じなかった。
川合 勇太郎(かわい ゆうたろう、1897年〈明治30年〉4… 川合 勇太郎(かわい ゆうたろう、1897年〈明治30年〉4月28日 - 1980年〈昭和55年〉10月30日)は、日本の民俗学者、民話・口承文芸研究家、口演童話家、地方史家、温泉史研究家、ジャーナリスト。青森県東津軽郡青森町(現・青森市)生まれ。20代で蘆谷蘆村に師事し、童話文学を学ぶ。1927年、子どもたちに民話・童話を語り聞かせる八戸童話会を仲間たちとともに結成。のちに同会の理事長も務めた。また十和田市(当時の三本木町、藤坂村)の郷土史も執筆した。青森県に伝わる民話や伝説を研究し、1939年には「民間伝承の会」(後の日本民俗学会)に入会。ジャーナリストとしては、三本木の日刊紙『南部日報』(1927年創刊)の編集長、『東奥日報』三本木支局長などを務めた。
山口 俊雄(やまぐち としお、1897年4月10日 - 19… 山口 俊雄(やまぐち としお、1897年4月10日 - 1945年1月27日)は、日本の俳優である。新派劇俳優であるが、牧野省三のマキノ・プロダクションとの提携で映画に主演、1928年(昭和2年)の片岡千恵蔵、嵐寛寿郎らのマキノからの独立時に歩調を揃えて、自らのスタープロダクションを立ち上げた。 1897年(明治30年)4月10日、熊本県に生まれる。東京に出て、旧制・錦城中学校(現在の錦城学園高等学校)を経て、18歳のときの1915年(大正4年)ころ、東京「有楽座」の文士劇で初舞台を踏む。のちに井上正夫の一座に入門、大阪の福井茂兵衛、都築文男らの新派劇団、高田実の門下を経て、1918年(大正7年)の暮れに松竹傘下の「新声劇」に参加し、活躍した。
里見 岸雄(さとみ きしお、1897年3月17日 - 197… 里見 岸雄(さとみ きしお、1897年3月17日 - 1974年4月18日)は、日本の思想家、人文学者、国体学者、法学者。国柱会を創設した田中智学の三男として東京で生まれ、のちに里見家へ養子に入る。日本国体学の創始者として知られ、戦前の言論に大きな影響を与えた。 1920年旧制早稲田大学哲学科卒業。1922年から1924年にかけて英独仏などに遊学し、帰朝後に里見日本文化学研究所を創立。1936年、日本国体学会を創立。後に立命館大学法学部教授に就任、法学博士号を同大より授与され、国体学科を創設。主任教授となる。 近年、戦前期の国家主義に関する研究が進む中、大谷栄一による近代日蓮主義運動史研究、大塚桂・昆野伸幸による政治思想史研究、林尚之による憲法学史研究などにおいて、その独自性が評価されつつある。
朱 基瑢(チュ・ギヨン、朝鮮語: 주기용、1897年3月12… 朱 基瑢(チュ・ギヨン、朝鮮語: 주기용、1897年3月12日 - 1966年5月8日)は、日本統治時代の朝鮮および韓国の独立運動家、教育者、政治家。制憲国会議員。氏名の漢字表記は朱基容、朱基溶、朱基鎔などもある。 本貫は新安朱氏。牧師の朱基徹は従弟、独立運動家・教育者の李昇薫は岳父。 慶尚南道昌原郡(現・昌原市鎮海区)出身。1916年に平安北道定州郡の五山中学校を卒業した後に故郷に戻り、熊東面にあった啓光学校で教鞭を取った。学校に在職中に三・一運動が起こると、熊川・熊東の万歳デモを主導したため馬山の刑務所に投獄された。出獄後は創立者で岳父の李昇薫の助けを借りて日本内地に渡り、正則英語学校を経て東京高等師範学校数学科を卒業した。
明知 延佳(あけち のぶよし、1897年〈明治30年〉3月1… 明知 延佳(あけち のぶよし、1897年〈明治30年〉3月10日 - 1979年〈昭和54年〉11月16日)は、昭和時代前期の内務官僚、台湾総督府官僚。旧名は俊雄。 東京市蒲田区萩中(現・大田区萩中)に生まれる。荏原中学校、国勢院統計講習所を経て、1922年(大正11年)4月、中央大学法律科正科を卒業する。社会局、復興局、社会局保健部管理課を経て、1931年(昭和6年)7月、地方理事官に進み、福島県、三重県と転々とする。ついで1935年(昭和10年)4月、沖縄県宮古支庁長に就任した。 のち渡台し、1939年(昭和14年)4月、台湾総督府地方理事官に任ぜられ、台中州竹山郡守となり、ついで台東庁総務課長を経て、1942年(昭和17年)4月、宜蘭市長に就任した。
加藤 シヅエ(かとう シヅエ、旧姓:広田静枝、1897年〈明… 加藤 シヅエ(かとう シヅエ、旧姓:広田静枝、1897年〈明治30年〉3月2日 - 2001年〈平成13年〉12月22日)は、日本の政治家。元華族。婦人解放運動家・産児制限活動家。称号は東京都名誉都民。位階は従三位。 1897年(明治30年)3月2日、東京府東京市本郷区西片町(現・東京都文京区西片)に生まれる。父の廣田理太郎は、英語に堪能で、イギリスやアメリカと手広く貿易を行う実業家であり、廣田家は非常に裕福な家庭であった。母の敏子(鶴見良憲長女)もカナダのミッションスクールで進歩的な教育を受けていた。そんな東京都心の裕福なブルジョア家庭に生まれたシヅエは、日本文化・西欧文化の両方に接して育つ。
吉田 謙吉(よしだ けんきち、1897年2月10日 - 19… 吉田 謙吉(よしだ けんきち、1897年2月10日 - 1982年5月1日)は、日本の舞台美術家・舞台装置家、映画の美術監督、衣裳デザイナー、タイポグラフィ作家である。 1897年(明治30年)2月10日、東京府東京市日本橋区(現在の東京都中央区日本橋)に生まれる。京橋小学校では同級生に歌舞伎役者の坂東三津之丞、先輩に松竹社長の城戸四郎、後輩に築地小劇場系の劇作家久保栄らがいた。1909年(明治42年)、府立一中に入学するが3年生進級の際、父の倒産により中退。1911年(明治44年)、府立工芸学校金属科鋳金科に入学。1915年(大正4年)に卒業後、海軍造兵廠鋳金工場に勤務する傍ら、葵橋洋画研究所に学び、また、土岐善麿に師事し生活歌を学ぶ。