佐藤 久雄(さとう ひさお、1900年(明治33年)1月9日… 佐藤 久雄(さとう ひさお、1900年(明治33年)1月9日 - 1982年(昭和57年)2月14日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・杉野。 富山県東礪波郡出町(砺波町を経て現砺波市)で、杉野久松の二男として生まれる。1918年(大正7年)砺波中学校(現富山県立砺波高等学校)を卒業。1924年(大正13年)早稲田大学商学部を卒業し佐藤組(現佐藤工業)に入社した。1925年(大正14年)佐藤與左衛門の養子となる。佐藤工業営業部長を経て、1940年(昭和15年)代表取締役、1945年(昭和20年)取締役社長を歴任。 また、柳瀬村会議員、大阪財務局(現近畿財務局)管内所得審査委員、富山県東礪波郡地方事務所参与などを務めた。
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筏井 嘉一(いかだい かいち、1899年(明治32年)12月… 筏井 嘉一(いかだい かいち、1899年(明治32年)12月28日 - 1971年(昭和46年)4月21日)は、富山県高岡市桐木町出身の歌人。父は俳人の筏井竹の門で、長男として生まれた。 高岡中学校を卒業。詩人、童謡作家、歌人である北原白秋の『桐の花』に感銘を受け、1914年(大正3年)に巡礼詩社および短歌雑誌『日光』に入会、白秋に師事する。1921年(大正10年)に上京し、音楽専科の小学校教師として働く。 白秋門下としては珍しく昭和初期のモダニズム短歌運動に同調し、1928年(昭和3年)、歌人の坪野哲久、前川佐美雄らと共に新興歌人連盟を結成。また、村野次郎主宰の歌誌『香蘭』の選者を担当した。1935年(昭和9年)、白秋が創刊した『多磨』に参加を乞われたが辞退。
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山崎 覚太郎(やまざき かくたろう、1899年6月29日 -… 山崎 覚太郎(やまざき かくたろう、1899年6月29日 - 1984年3月1日)は、漆芸家。富山県出身。 1924年(大正13年)東京美術学校漆工科卒。1925年(大正15年)パリ万国博覧会で金賞。1928年(昭和3年)より東京美術学校助教授、のち東京芸術大学教授を務める。 1939年(昭和14年)文展審査員、1946年(昭和21年)日展審査員、1950年(昭和25年)日展運営会参事、1954年(昭和29年)日本芸術院賞受賞。帝展特選受賞。 1957年(昭和32年)日本芸術院会員、1958年(昭和33年)日展常務理事。同年、第一回日本美術展覧会が東京都美術館で開催され、昭和天皇、香淳皇后が行幸啓。
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川原 忠平(かわはら ちゅうへい、1899年〈明治32年〉 … 川原 忠平(かわはら ちゅうへい、1899年〈明治32年〉 - 1976年〈昭和51年〉1月3日)は、日本の教育者。学校法人高岡第一学園及び高岡第一高等学校の創設者、同初代理事長兼初代校長。 富山県西礪波郡福光町(現・南砺市)才川七にて、教育者であった父・川原忠孝の次男として生まれる。父の影響で教育者を目指し、福光高等小学校卒業後に富山師範学校(後の富山大学旧教育学部、現人間発達学部)を受験するも、人見知り・小心な性格の上、田舎育ちで富山の街中に慣れず、緊張して試験に失敗する。農業を手伝いながら、翌春に再挑戦するも再び不合格となる。富山師範学校にしか進学を許さないとの父の方針から、代用教員をしながら勉学に励み、三度目の受験にして、競争率5倍という狭き門を突破し、富山師範学校に入学する。
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浅尾 荘一郎(あさお そういちろう、1898年12月29日 … 浅尾 荘一郎(あさお そういちろう、1898年12月29日 - 1978年5月31日)は、日本の電子工学者。富山県出身。 銀セシウム光電管の光電感度を飛躍的に高めた。また日本真空協会会長の初代会長を務めた。 妻は大日本帝国陸軍軍人・矢木亮太郎の長女。長女の夫は西洋史学者で大東文化大学名誉教授の穂積重行。次女の徳川陽子は物理学者で東京工芸大学名誉教授。同夫は言語学者で大阪大学名誉教授の徳川宗賢。孫は日本史学者で東京大学教授の松方冬子。 旧制富山中学、旧制四高を経て、1923年に東京帝国大学理学部物理学科を卒業後、東京電気に入社。 ドイツのエルスターおよびガイテルにより1888年に発明された光電管は光電感度が低く実用で使えるものではなかった。
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工藤 一三(くどう かずぞう、1898年7月27日 - 19… 工藤 一三(くどう かずぞう、1898年7月27日 - 1970年7月2日)は、日本の柔道家(講道館9段・大日本武徳会範士)。 戦前の明治神宮競技大会等で活躍して古賀残星の選抜した“柔道十傑”の1人に数えられ、旧制浦和高校助教授を経てドイツに留学し柔道の普及に尽力。後には警視庁にて逮捕術制定の任に当たって講道館審議委員や全日本柔道連盟の理事を務めるなど、柔道界の大家として知られた。 青森県弘前市富田に生まれ富山県で育った。県立高岡中学校(現・県立高岡高校)在学中に磯貝一の実兄である誠三(のち6段)の手解きを受け、1916年に同校を卒業後は上京して東京高等師範学校体育科に進学し、生来の研究熱心も手伝い永岡秀一の指導のもとで以前にも増しその腕を上達させた。
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若太刀 芳之助(わかたち よしのすけ、1898年7月19日 … 若太刀 芳之助(わかたち よしのすけ、1898年7月19日 - 1974年1月28日)は、富山県富山市出身で友綱部屋、東関部屋、高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は松井 芳之助。171cm、90kg。最高位は西前頭6枚目。 1914年5月初土俵。入門時は太刀山峯右エ門の弟子であった。1919年1月十両昇進。1924年5月入幕し、1925年1月場所初日には横綱常ノ花を破る殊勲の星を挙げた。1926年5月に廃業。廃業後は映画出演の傍ら素人相撲の指導者も務めた。
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大坪 喜久太郎(おおつぼ きくたろう、1898年(明治31年… 大坪 喜久太郎(おおつぼ きくたろう、1898年(明治31年)3月1日 - 1967年(昭和42年)11月23日)は、日本の工学者、官僚。工学博士。室蘭工業大学元学長。北海道大学・室蘭工業大学名誉教授。専門は、水理工学・河川工学。富山県黒部市出身。河川水理学の権威で北海道開発における技術的指導者であった。 1922年(大正11年)九州帝國大學工学部土木工学科を卒業し、東洋アルミナムや、日本電力に勤務。1925年(大正14年)5月に北海道帝國大學工学部講師。1925年7月に同助教授。1942年(昭和17年)に論題「段落個所に於ける流体運動」で北海道帝国大学より工学博士号受く。1942年北海道帝國大學工学部教授(水理工学・河川工学講座を担当)。
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三鍋 義三(みなべ よしぞう、1898年(明治31年)1月2… 三鍋 義三(みなべ よしぞう、1898年(明治31年)1月25日 - 1961年(昭和36年)8月14日)は、大正から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。柔道7段。 富山県上新川郡新庄町(現富山市)で生まれる。富山中学校(現富山県立富山高等学校)を経て、1919年(大正8年)武道専門学校を卒業し、1921年(大正10年)同校研究科を修業した。 富山県立神通中学校(現富山県立富山中部高等学校)教諭に就任して1945年(昭和20年)まで在任し、柔道、野球の指導に努めた。その後、町立滑川薬業学校(現富山県立滑川高等学校)長、和合中学校長、呉羽中学校長を歴任。労働運動に加わり、呉羽中学校長在任中の1949年(昭和24年)に富山県教職員組合執行委員長に就任し、県全官公庁労働組合協議会議長も務めた。
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稲塚 権次郎(いなづか ごんじろう、旧字:稻塚 權次郎、18… 稲塚 権次郎(いなづか ごんじろう、旧字:稻塚 權次郎、1897年(明治30年) - 1988年(昭和63年)12月7日)は、日本の農学者。 緑の革命以降、世界に流通することになった小麦品種「ゲインズ」の親品種である「小麦農林10号」(ノーリン・テン)の育成者として知られる。 2015年に稲塚権次郎の生涯を描く映画『NORIN TEN〜稲塚権次郎物語〜』(稲塚秀孝監督)が公開された。
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黒田 泰治(くろだ やすじ、1897年(明治30年) - 1… 黒田 泰治(くろだ やすじ、1897年(明治30年) - 1976年(昭和51年)12月10日)は、日本の武術家。号は鉄心斎。身長165cm。黒田家に代々伝わってきた武術である民弥流居合術、駒川改心流剣術、四心多久間流柔術、椿木小天狗流棒術、誠玉小栗流殺活術を引き継ぐ振武館の道場主。父は黒田正郡。振武館の技は泰治の子の黒田繁樹、そして孫の黒田鉄山へと継承された。古武術の高度な理合を昭和の時代に体現することのできた達人であったと評される。 ※以上は孫の黒田鉄山が祖父から伝え聞いた話として著書等で語ったものである。
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高辻 武邦(たかつじ たけくに、1896年(明治29年)10… 高辻 武邦(たかつじ たけくに、1896年(明治29年)10月1日 - 1963年(昭和38年)3月21日)は、日本の内務官僚、政治家。第2代富山県知事(1948年11月23日 - 1956年9月30日、2期)。孫に第6代北海道知事を経て参議院議員となった高橋はるみ、元日本海ガス・日本海ガス絆ホールディングス社長で、富山県知事の新田八朗がいる。 富山県出身。高岡市・高辻喜作の二男。旧制富山県立高岡中学校、旧制第二高等学校卒業。1922年、文官高等試験に合格。1923年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省。山口県属。引揚援護院次長を経て、官選最後の大阪府知事(第35代・1947年3月11日 - 1947年4月12日)。
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高良 とみ(こうら とみ、1896年7月1日 - 1993年… 高良 とみ(こうら とみ、1896年7月1日 - 1993年1月17日)は、日本の婦人運動家、平和運動家、政治家。参議院議員(2期)。筆名は高良 富子。国会議員として戦後初めてソ連を訪れ、シベリア抑留者復員の突破口を開いた。 富山県高岡市生まれ。旧姓は和田。父は土佐藩士の子で、アメリカ帰りの土木技師、内務省官僚。母は養蚕家田島弥平の孫娘で、婦人運動家。県立第一神戸高等女学校(現兵庫県立神戸高等学校)、日本女子大学英文科卒業。コロンビア大学、ジョンズ・ホプキンズ大学で心理学を専攻、日本女性として初めて博士号を取得した(定義によるが、高良はその一人)。学位論文の題は "An experimental study of hunger in its relation to activity"。
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宇田 新太郎(うだ しんたろう、1896年(明治29年)6月… 宇田 新太郎(うだ しんたろう、1896年(明治29年)6月1日 - 1976年(昭和51年)8月18日)は、日本の工学者。東北大学教授。 専門は電気工学、通信工学で、八木・宇田アンテナの発明者として知られ、同郷の盛永俊太郎、川原田政太郎と共に「魚津の三太郎博士」と呼ばれた。 富山県下新川郡舟見町(現・入善町)出身。旧制魚津中学、広島高等師範学校を経て、一旦長野県の旧制大町中学で教職に就くが、その後に東北帝国大学工学部電気工学科に入学。1924年に卒業後そのまま大学に奉職し、当時東北帝国大学で隆盛をみた超短波をはじめとする電磁波による電気通信の研究に従事し、八木秀次とともに八木・宇田アンテナを共同発明した。
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谷口 輝子(たにぐち てるこ、1896年3月7日 - 198… 谷口 輝子(たにぐち てるこ、1896年3月7日 - 1988年4月24日)は日本の宗教家。生長の家創始者谷口雅春の妻で、生長の家白鳩会初代総裁。富山県高岡市出身。富山県立高岡高等女学校卒業。旧姓江守。
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吉野山 要次郎(よしのやま ようじろう、1896年1月3日 … 吉野山 要次郎(よしのやま ようじろう、1896年1月3日 - 1956年2月6日)は、富山県下新川郡(現・黒部市)出身で春日山部屋、立浪部屋に所属した元大相撲力士。本名は大上戸 要次郎。最高位は西前頭筆頭(1932年2月場所、3月場所)。現役時代の体格は175cm、92kg。得意手は左四つ、押し、のど輪、うっちゃり。元前頭清惠波の岳父であり養父でもある。 細身ながら筋骨隆々とした体格で、力も腰も強かった。地味ながら堅実な取り口で、左四つ得意だが腕職を活かしたのど輪押しも強く、また土俵際でのうっちゃりもあった。特にうっちゃりに関しては左四つからの独特の型であり、これが双葉山に伝授されたという。横綱常ノ花との相性が良く、初顔合わせで押し倒して破ったのをはじめ3勝(いずれも金星)を挙げている。
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剣岳 吉五郎(つるぎだけ きちごろう、1896年1月1日 -… 剣岳 吉五郎(つるぎだけ きちごろう、1896年1月1日 - 1950年4月19日)は、富山県富山市出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は五十里 吉次郎。身長174cm、体重94kg。 富山県富山市出身。立浪部屋に入門し、1916年1月場所に初土俵を踏む。新十両が1925年5月場所、新入幕が1927年5月場所と、昇進のスピードは緩やかだったが、1928年には、大関大ノ里萬助や常陸岩英太郎からも勝ち星を挙げたり、新進気鋭の武蔵山武にも初顔から連勝したりと、時折存在感を示した。その風格について「古武士」と評されたこともある。 右四つからの寄り、蹴返しなどを持ち味とした取り口であった。 1932年1月場所の番付では、東前頭16枚目に位置していたが、その場所前に起きた春秋園事件で、協会を脱退、天竜三郎たちと行動を共にし、以後相撲協会には復帰しなかった。
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盛永 俊太郎(もりなが としたろう、1895年9月13日 -… 盛永 俊太郎(もりなが としたろう、1895年9月13日 - 1980年1月25日)は、日本の農学者。九州大学名誉教授。イネの研究で知られる。 同郷の川原田政太郎、宇田新太郎とともに「魚津の三太郎博士」と呼ばれた。 富山県上野方村(現・魚津市)出身。魚津尋常高等小学校、魚津中学校を経て東京帝国大学農学部卒。1926年九州帝国大学教授、1946年農林省農事試験場長、1950年東大農学博士、1954年農業技術研究所長、1950年から農業発達史調査会(東畑精一会長)で編集長。1955年アブラナ属およびイネ属の細胞遺伝学的研究で日本学士院賞受賞。 細胞遺伝学を用いて病害虫に強いイネの品種を作るための基礎研究を行い、 イネの発祥地を探る手掛かりや多数の新種を発見した。
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水橋 藤作(みずはし とうさく、1895年(明治28年)7月… 水橋 藤作(みずはし とうさく、1895年(明治28年)7月30日 - 1958年(昭和33年)8月11日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(1期)。 富山県上新川郡滑川町(中新川郡滑川町を経て現滑川市)出身。1921年(大正10年)郵便集配人として勤務。その後、逓信事務官に任官。 戦後、労働運動に加わり、全逓信従業員組合(のちの日本郵政公社労働組合)に加盟し、全逓中央執行委員、全日本産業別労働組合会議(産別会議)中央執行委員などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から日本社会党公認で出馬して当選し、労働者農民党に転じ参議院議員に1期在任した。その間、芦田内閣労働政務次官などを務めた。
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中村 勝平(なかむら かつへい、1894年〈明治27年〉12… 中村 勝平(なかむら かつへい、1894年〈明治27年〉12月5日 - 1971年〈昭和46年〉6月29日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。戦後は終戦連絡事務に尽力し、通称「中村機関」を率いた。 1894年(明治27年)12月5日、富山県東砺波郡五鹿屋村五郎丸(現砺波市五郎丸)で農業を営む父、中村宗平、母、ふしいの三男として生れる。1901年(明治34年)4月五郎丸尋常小学校に入学、出町高等小学校を経て1909年(明治42年)開校したばかりの礪波中学校(現富山県立砺波高等学校)に入学した。1914年(大正3年)9月10日、海軍兵学校45期に入校。1917年(大正6年)11月24日、海軍兵学校を首席で卒業。
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渡辺 順三(わたなべ じゅんぞう、1894年9月10日 - … 渡辺 順三(わたなべ じゅんぞう、1894年9月10日 - 1972年2月26日)は、大正・昭和期の歌人。 富山県富山市に生まれる。士族の家柄で、祖父は富山藩砲術指南である。しかし家は維新後に没落。父は小学校の校長を勤めたが、精神病を患い順三が12歳のときに亡くなった。姉夫婦の援助で富山中学校に進学するが、他人の世話になることを好まない母の方針により三ヶ月で中退し、母とともに上京して、神田の家具店に住み込みで働き始めた。母は東京控訴院検事長河村善益の家の住み込み女中となった。 1910年、流行性脳脊髄膜炎にかかり、その後遺症で左耳の聴覚を失う。1913年頃から「時事新報」の窪田空穂選歌欄へ投稿を始め、「国民文学」創刊にも参加し、空穂に師事する。
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朝倉 豊次(あさくら ぶんじ、1894年(明治27年)7月6… 朝倉 豊次(あさくら ぶんじ、1894年(明治27年)7月6日 - 1966年(昭和41年)1月27日)は日本海軍の軍人、最終階級は海軍少将。 富山県下新川郡前沢村(現:黒部市前沢)出身。「朝倉豊次著作集」によると、魚津中学に5年間通い、海軍兵学校、陸軍士官学校(28期)ほか二校を受験し、全て合格する。陸士については官報にて確認できた。1916年(大正5年)11月、海軍兵学校(44期)を48番/95名で卒業し、翌年12月に少尉任官。海軍砲術学校高等科で学んだ。駆逐艦「羽風」、潜水母艦「迅鯨」の各砲術長、海兵教官兼監事などを経て、1930年(昭和5年)11月、海軍大学校(甲種28期)を卒業した。同年12月、第2水雷戦隊参謀となり、第2艦隊参謀、軍令部参謀(第1班第2課兼第1課)、軍令部部員(第1部第2課兼第2部第3課)を歴任。
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吉田 鉄郎(よしだ てつろう、1894年5月18日 - 19… 吉田 鉄郎(よしだ てつろう、1894年5月18日 - 1956年9月8日)は、日本の建築家。庭園研究家としても知られる。逓信建築の先駆者のひとりであり、多くのモダニズム建築を設計した。著書の『日本の住宅』(1935年)は、日本の伝統建築について西洋の言葉で書かれた出版物の中で最も影響力のあった一冊と言われる。 1894年(明治27年)、富山県東礪波郡福野町(現・南砺市)に郵便局長を務める五島寛平の三男として生まれた。旧制高岡中学校(現・富山県立高岡高等学校)を卒業後、美術学校への進学を志望したが兄の反対に遭って断念した。旧制第四高等学校(現・金沢大学)を経て、1919年(大正8年)に東京帝国大学建築学科を卒業した。
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射水川 健太郎(いみずがわ けんたろう、1894年5月10日… 射水川 健太郎(いみずがわ けんたろう、1894年5月10日 - 1956年2月3日)は、富山県高岡市出身で稲川部屋、高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は松崎 健次(まつざき けんじ、旧姓:麻井)。最高位は小結。元幕内鯱ノ里の養父。現役時代の体格は身長173cm、体重90kg。得意手は上突っ張り、右四つ。 1911年6月初土俵。小兵だが、動きの速さと回転の速い上突っ張りに加え、足取りの奇襲や引き技を見せた。1920年1月新入幕。しばらく下位に低迷したが、1924年5月場所6日目には当時最強の呼び声高い横綱栃木山を突っ張りから足取りを繰り出したのち突き出しで破り金星を獲得、喜びの余りに我を忘れて二字口へ躍り出た。
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湊 栄吉(榮吉、みなと えいきち、1894年(明治27年)4… 湊 栄吉(榮吉、みなと えいきち、1894年(明治27年)4月14日 - 1978年(昭和53年)12月2日)は、日本の政治家。1959年から1971年まで富山市長を3期務めた。位階は正五位。 富山県上新川郡東岩瀬町(現富山市東岩瀬町)出身。富山県立富山中学校(現富山県立富山高等学校)卒業。1929年(昭和4年)富山市議会議員に初当選、以後富山市議会議員(3期)、富山県議会議員(3期、自由党(現自由民主党)公認、1952年から1954年まで富山県議会議長)、自由党県連幹事長を歴任。 1959年(昭和34年)富山市長に当選就任。以後1971年まで3期にわたり市長を務めた。 全国市長会理事、加越能鉄道(現加越能バス)取締役、立山黒部貫光取締役を歴任。
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卯尾田 毅太郎(うおた きたろう、1894年(明治27年)4… 卯尾田 毅太郎(うおた きたろう、1894年(明治27年)4月8日 - 1945年(昭和20年)6月16日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、新湊町長。 富山県射水郡新湊町四十物町(現射水市八幡町)で、卯尾田兵次郎、やい夫妻の長男として大井清平宅で生まれる。文珠寺尋常高等小学校高等科を経て、1914年(大正3年)3月、富山県立高岡中学校を卒業。同年4月、早稲田大学商科に入学し、1918年(大正7年)7月に卒業した。 大学卒業後、神戸市の下里貿易商会に入社。1923年(大正12年)2月、新湊立憲青年党を結成し総理に就任。1927年(昭和2年)9月、富山県会議員に当選。以後、名誉職参事会員、新湊町長(6期)、新湊町職業紹介所長、都市計画富山地方委員会委員、新湊警防団長などを務めた。
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富本 一枝(とみもと かずえ、1893年4月20日 - 19… 富本 一枝(とみもと かずえ、1893年4月20日 - 1966年9月22日)は、日本の明治時代〜昭和時代の画家、随筆家、婦人運動家。富山県富山市出身。旧姓は尾竹一枝。筆名、尾竹紅吉(おたけ べによし)。 日本画家尾竹越堂の長女として生まれる。夕陽丘高等女学校卒業、1910年に女子美術学校日本画選科に入学するが中退。平塚らいてうに心酔し、『青鞜』創刊翌年の明治45年(1912年)に青鞜社に入社、紅吉を名乗り、随筆や詩の執筆、また1周年記念号の表紙を担当する等、積極的に活動する。しかし、らいてうとの同性愛関係や、バーでの飲酒(「五色の酒事件」)、吉原遊廓の見学(「吉原登楼事件」)などがスキャンダルを呼び、「新しい女」の一人として批判され、10月には青鞜社を退社する。
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高木 常七(たかぎ つねしち、1893年〈明治26年〉3月1… 高木 常七(たかぎ つねしち、1893年〈明治26年〉3月15日 - 1975年〈昭和50年〉8月15日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。富山県出身。 富山中学校を経て、1916年(大正7年)に早稲田大学法科を卒業。1917年(大正8年)7月にいったん検事となるが、1923年(大正12年)6月に弁護士に転身した。 1946年(昭和21年)2月に法曹一元制度のため、岩田宙造司法大臣に口説かれ、静岡地裁所長となる。その後、横浜地裁所長、東京家裁初代所長、札幌高裁長官、広島高裁長官、名古屋高裁長官を歴任。 1958年(昭和33年)6月に最高裁判所裁判官となる。八海事件の第二次上告審では有罪説を取る破棄差戻しの多数意見に反対し、無罪説の上告棄却の少数意見を述べた。
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郷倉 千靱(ごうくら せんじん、1892年3月3日 - 19… 郷倉 千靱(ごうくら せんじん、1892年3月3日 - 1975年10月25日)は、日本画家、日本芸術院会員。 富山県小杉町出身。本名・與作。1915年東京美術学校日本画科卒業、1916年渡米、1922年院展日本美術院賞受賞、1924年日本美術院同人、院展に出品を続け、1934年帝国美術学校日本画科教授、1936年多摩美術学校日本画科教授、1949年日展審査員、1956年多摩美術大学教授、1958年日本美術院評議員、1960年日本芸術院賞受賞、1971年勲四等旭日小綬章受章、1972年日本芸術院会員。没後勲三等瑞宝章追贈。 壁画を描いた。長女の郷倉和子も日本芸術院会員。
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中川 文蔵(なかがわ ぶんぞう、1892年(明治25年) /… 中川 文蔵(なかがわ ぶんぞう、1892年(明治25年) / 1893年(明治26年) - 1978年(昭和53年))は、日本の農民、商人(雑貨商兼家畜商)、政治家。北海道広尾町議会議員を務めた。通称、“拙者(せっしゃ)文蔵”。 政治家中川一郎・中川義雄の父、中川昭一の祖父。 富山県西砺波郡福光町(現:南砺市福光)出身。14歳の時に北海道に渡り、道東の僻地を選んで開拓に従事した。 19歳で父を失った。以来、文蔵はひとりで一家眷族を養うことになった。ある時は田畑の作物が全滅し、また牛馬が人手に渡ったことも何度かあった。 長男の一郎が小学校2年生の時、文蔵は開拓地を離れて町中に住み、雑貨商兼家畜商に転じた。
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室崎 琴月(むろざき きんげつ、1891年(明治24年)2月… 室崎 琴月(むろざき きんげつ、1891年(明治24年)2月20日 - 1977年(昭和52年)3月21日)は、日本の作曲家。本名は清太郎(せいたろう)。童謡「夕日」の作曲者。
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井本 政信(いもと まさのぶ、1891年 - 1957年)は… 井本 政信(いもと まさのぶ、1891年 - 1957年)は、日本の造園家。政治家。明治神宮造営局に奉職、ついで造園の内務技師として横浜市の震災復興三公園、兵庫県立明石公園の建設に関わったほか、郷里で町長となって地方自治にも参画する。 富山県上新川郡水落村の阿波加家に生まれ富山中学・旧制第四高等学校(金沢市)卒業後、富山県婦負郡四方町の井本三信家を継ぎ同家のあやと結婚。1919年東京帝国大学農科大学で造園・土木を専攻・卒業。師である原熙の推挙により、明治神宮造営局に奉職し内外苑、殊に御苑(通称、神宮御苑)の造園を担当した。大名下屋敷の庭園から代々木御苑となり、昭憲皇太后がしばしば行啓し、明治天皇が御茶屋「隔雲亭」・あずまや・お釣台を設け、菖蒲田を昭憲皇太后のため植えさせられたという名園で、最奥に清正井と呼ぶ泉が湧いており、武蔵野の昔を偲ばせ訪う人が多い。
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河辺 虎四郎(かわべ とらしろう、1890年(明治23年)9… 河辺 虎四郎(かわべ とらしろう、1890年(明治23年)9月25日 - 1960年(昭和35年)6月25日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は中将。富山県出身。 1890年(明治23年)9月、富山県礪波郡東野尻村大字苗加(東礪波郡東野尻村、砺波町を経て現砺波市)に河辺純三の四男として生まれる。河辺正三大将(陸士19期歩兵科)は兄、瀧田俊吾軍医大佐は弟である。1905年(明治38年)に正三、虎四郎兄弟は陸軍士官学校、名古屋陸軍幼年学校に合格している。兄弟は草鞋ばきでそれぞれの受験地金沢までの往復を共にした(草地貞吾著『将軍32人の「風貌」「姿勢」』p.42,43)。 その後、1912年(明治45年)5月に陸士第24期砲兵科を卒業。
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倉橋 尚(くらはし ひさし、1890年(明治23年)9月11… 倉橋 尚(くらはし ひさし、1890年(明治23年)9月11日 - 1976年(昭和51年)9月2日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1890年(明治23年)に富山市で生まれた。陸軍士官学校第24期卒業。区隊長は大島浩で、仁保進とは同じ区隊。原隊の歩兵第7連隊での勤務を経て、陸軍士官学校にて33期生の区隊長を担当。教え子に鈴木善康(のち陸軍大佐)がいる。その後は各地の配属将校を転々とし、1939年(昭和14年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に第22師団兵器部長に着任。1940年(昭和15年)3月に歩兵第60連隊長(第13軍・第15師団・第15歩兵団)に就任し、南京の警備に任じた。
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川原田 政太郎(かわはらだ まさたろう、1890年8月7日 … 川原田 政太郎(かわはらだ まさたろう、1890年8月7日 - 1983年9月6日)は、日本の工学者、早稲田大学名誉教授。日本におけるテレビジョン研究において、高柳健次郎と並ぶ第一人者。 同郷の宇田新太郎、盛永俊太郎と共に「魚津の三太郎博士」と呼ばれた。 富山県下新川郡下野方村(現・魚津市)に生まれ、素質を認められ地元の医師の支援のもとで働きながら苦学し、魚津町立魚津尋常高等小学校(後の魚津市立大町小学校、現在は魚津市立よつば小学校に統合)→魚津中学校(現富山県立魚津高等学校)を経て早稲田大学大学部予科に入学。1915年早大理工科電気工学科卒業。早稲田大学助教授としてイギリスに留学した際、ロンドン大学のテレビジョン実験に感銘を受ける。
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堀田 くに(ほった くに、1890年4月26日 - 1985… 堀田 くに(ほった くに、1890年4月26日 - 1985年8月10日)は、日本の女性運動家。富山県高岡市出身。石川県立金沢第一高等女学校卒業。 廻船問屋堀田善右衛門の娘として生まれる。堀田家は、南北朝時代に後醍醐天皇第8皇子宗良親王を奉じて越中に落ち延びた朝臣の子孫で、親王を守り立てるために廻船問屋業を始めたという。 この廻船問屋は、くにの代で廃業となる。大正14年(1925年)、船荷を運ぶ女性労働者の子どもたちが浜辺に放置されるままであるのを見かねて、くには富山県初の託児所である伏木託児所(現在の伏木保育園)を開設した。1942年に厚生大臣表彰、1954年に藍綬褒章、1964年に勲五等宝冠章を受けた。
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琴ヶ浦 善治郎(ことがうら ぜんじろう、1890年2月11日… 琴ヶ浦 善治郎(ことがうら ぜんじろう、1890年2月11日 - 1945年3月10日)は、富山県下新川郡(現在の魚津市)出身の元大相撲力士。本名は越野 善次郎(こしの ぜんじろう)。 1890年2月11日に富山県下新川郡(現:富山県魚津市)で生まれる。1909年1月に上京して二十山部屋に入門し、初土俵を踏む。四股名は小戸ヶ浦を名乗り、小錦八十吉 (横綱)から徹底的に指導を受けたことで腕力や足腰が鍛えられた。1915年6月場所で新十両昇進を機に「琴ヶ浦」へ改名し、1917年1月場所で新入幕を果たした。 ペテン立ちが巧く、右差しで相手の左を攻めながら一気に寄る取り口で、上品な人柄もあって人気があったが、1927年10月場所で現役を引退し、年寄・常盤山を襲名した。
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田中 良雄(たなか よしお、1890年1月24日 - 196… 田中 良雄(たなか よしお、1890年1月24日 - 1964年10月7日)は、日本の実業家。住友本社常務理事。住友家評議員会委員。 1890年(明治23年)、富山県射水郡浅井村(現射水市)に生まれる。高岡中学校、第四高等学校卒業。1915年(大正4年)、東京帝国大学法学部を卒業し、同年6月住友総本店(住友財閥)に入社。人事部人事課長、人事部長を経て、1937年(昭和12年)住友電線(現住友電気工業)専務、1941年(昭和16年)住友本社常務理事に就任。1947年(昭和22年)に退職した後、住友工業高等学校理事長や住友病院理事長、大阪市教育委員長などを務めた。
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佐々木 大樹(ささき たいじゅ、1889年12月25日 - … 佐々木 大樹(ささき たいじゅ、1889年12月25日 - 1978年11月8日)は、日本の彫刻家。 1889年、富山県下新川郡愛本村大字音沢村(現在の黒部市宇奈月町音沢)生まれ。本名、長次郎。黒難温泉を経営する裕福な家庭に生まれ、男女7人兄妹の下から2番目の子であった。 富山県立工芸学校(現在の高岡工芸高等学校)を経て、1914年、東京美術学校彫刻科本科彫部卒業。1920年、第2回帝国美術院展覧会に出品した「誕生の頃」が特選に選ばれ、1929年には「紫津久」で帝国美術院賞を受賞した。1935年、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)の教授となる。1937年、ヘレン・ケラーに塙保己一の像を贈る。1951年、多摩美術大学教授。
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土倉 宗明(つちくら そうめい、1889年(明治22年)9月… 土倉 宗明(つちくら そうめい、1889年(明治22年)9月2日 - 1972年(昭和47年)6月16日)は、日本の政治家で立憲政友会→民主自由党→自由党所属の衆議院議員。 富山県東礪波郡中田町(現在の高岡市)出身。早稲田大学政治経済科に学んだ後、著述業に従事した。1913年(大正2年)第一次護憲運動に際して普選運動に取り組み、翌1914年(大正3年)普選運動期成同盟会が再興されると直ちに入会。その後立憲政友会院外団に入り大野伴睦とともに政友会院外団員として活動、第二次護憲運動にも政友会院外団員の一員として大野とともに参加。牛込区会議員、東京市会議員、同参事会員を歴任した。 1930年(昭和5年)、政友会公認で第17回衆議院議員総選挙に出馬し初当選。
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館 哲二 (たち てつじ、1889年8月18日 - 1968… 館 哲二 (たち てつじ、1889年8月18日 - 1968年9月27日)は、日本の内務官僚・政治家。参議院議員(3期)、府県知事。旧姓・木津。 富山県高岡市出身。木津太郎平の二男として生まれ、後に館萩江の入夫となり改姓。富山県立高岡中学校、第一高等学校を経て、1914年(大正3年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、内務省に入り岐阜県属として内務部学務兵事課に配属された。1917年(大正6年)10月、文官高等試験に合格した。 1918年(大正7年)4月、岐阜県警部となる。以後、同県警視・警務課長兼工場課長、同県内務部産業課長、神奈川県外事課長、茨城県知事官房文書課長兼内務部社会課長、内閣書記官、内閣官房記録課長、同総務課長などを歴任。
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佐々木 嘉平(ささき かへい、1889年(明治22年)7月7… 佐々木 嘉平(ささき かへい、1889年(明治22年)7月7日 - 1983年(昭和58年)5月2日)は社寺大工。富山県東礪波郡福野町(現在の南砺市福野)で代々宮大工であった佐々木家に生まれた。 父であった三代目佐々木嘉平に師事し、独学で技術・知識を身に付け、全国各地で数々の国宝や重要文化財の修復・保存に携わった。昭和46年黄綬褒章を受章。この四代目佐々木嘉平は、棟梁としては佐々木棟慶とも名乗った。戒名は平等院釈棟慶居士。 日本建築文様宝典 2003年 文芸社刊 清水稔次 佐々木健 編
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尾山 三郎(おやま さぶろう、1888年(明治21年)12月… 尾山 三郎(おやま さぶろう、1888年(明治21年)12月25日 - 1951年(昭和26年)10月3日)は、日本の実業家、政治家。参議院議員(1期)、富山市長。旧姓は大野。 富山県婦負郡富山手伝町(現富山市)で大野清兵衛の三男として生まれ、1899年、富山市千石町の尾山定次郎の養子となる。1905年3月、富山市立富山商業学校(現富山県立富山商業高等学校)を卒業した。 富山市蛯町の (株) 青物市場に入社。同支配人、同社長、帝国館社長、富山鉄道監査役、富山県食糧営団理事、富山県水産業会副会長、富山消防組組頭、富山警防団長、大日本警防協会理事などを務めた。 政界では、富山市会議員(6期)、富山県会議員(4期)に選出され、市会副議長、同議長も務めた。
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亀谷 凌雲(かめがい りょううん、1888年4月9日 - 1… 亀谷 凌雲(かめがい りょううん、1888年4月9日 - 1973年3月16日)は、元浄土真宗の僧侶(住職)で、後にキリスト教(プロテスタント)に改宗して牧師になった人物。日本基督教団富山新庄教会を設立した。 1888年(明治21年)富山県新庄町(現、富山市荒川)の浄土真宗大谷派正願寺の住職の息子として生まれた。親鸞の直系である蓮如から、18代の末裔である。 十七代目住職である父が2歳の時、山崩れのため大水が出て、家族は助かったが、寺は流され無一文になった。父は無理をして新庄町に寺を再建したが、借金を負い、檀家も少なくなって生活は貧しかった。 僧侶となる教育を受けて、富山中学校卒業後、第四高等学校 (旧制)で、倫理の時間に西田幾多郎よりキリスト教の説明を聞いたが、その時はよくわからず仏教の信仰を熱心に求めていた。
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寒玉子 爲治郎(かんたまご ためじろう、1888年2月27日… 寒玉子 爲治郎(かんたまご ためじろう、1888年2月27日 - 1948年4月5日)は、富山県礪波郡(現小矢部市)出身で友綱部屋に所属した大相撲力士。本名は土谷 爲治郎(つちや ためじろう)。最高位は西前頭9枚目(1916年5月場所)。現役時代の体格は166cm、90kg。得意手は突っ張り、押し。 四股名の由来は師匠の友綱が「体は小さいが、寒の玉子のようにじっと辛抱すれば必ず出世する」という願いを込めて名付けたものだという。その願い通り、初土俵からちょうど9年後に当たる1912年1月場所に見事入幕を果たした。幕内での活躍は少なく、幕内で勝ち越した場所はなく、十両との往復が続いたが、愛嬌のある人気力士だった。
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岡崎 文夫(おかざき ふみお、1888年(明治21年)2月2… 岡崎 文夫(おかざき ふみお、1888年(明治21年)2月23日 - 1950年(昭和25年)3月24日)は、富山県生まれの東洋史学者。字は煥卿、号は桜洲。東北大学文学部教授。 江戸時代から続く鵜坂村(現・富山市西本郷)の豪農で、代々富山藩の十村役を務めた名家・岡崎家の十六代として1888年に生まれた。1905年、旧制富山中学校(現:富山県立富山高等学校)を卒業し、第四高等学校に進んだ。京都帝国大学文科大学史学科に入学し、内藤湖南に師事。1912年に卒業した。同大学大学院に進学し、在学中の1919年から1921年まで上野育英会の資金補助を受けて中国に留学した。 帰国後、東北帝国大学における東洋史学専攻講座の開設にあたった。
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翁 久允(おきな きゅういん、1888年2月8日-1973年… 翁 久允(おきな きゅういん、1888年2月8日-1973年2月14日)は、日本の作家、ジャーナリスト。幼名信(ノブ)、筆名六渓、号太稚、稚翁、稚仙。 富山県上新川郡六郎谷(ろくろだん)村壱番地(現在の中新川郡立山町六郎谷)に漢方医の父・翁源指(げんし)(文久元年3月6日生)、母・フシイ(慶應2年1月3日生)の次男として誕生。富山中学校(現在の富山県立富山高等学校)に入学して校友会月刊誌や雄弁会で文才を発揮する。3年生のときに寄宿舎の舎監に反抗して糞を床に撒く事件を起こして新聞沙汰となり、知事や県議会も巻き込む騒ぎとなったため、首謀者ではなかったものの放校処分に遭う(しかし同窓会名簿には第19回卒業生として記載されている)。
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敷嶌 猪之助(しきしま いのすけ、1887年11月9日 - … 敷嶌 猪之助(しきしま いのすけ、1887年11月9日 - 1957年1月29日)は、現在の富山県富山市出身で友綱部屋に所属した力士。本名は持田 猪之助。9代熊ヶ谷を襲名し、熊ヶ谷部屋を経営した。身長170cm、体重96kg。最高位は東前頭4枚目。 1907年5月新序、1912年1月十両昇進。1916年5月入幕し7勝3敗の成績。右四つからの寄りや櫓投げを得意とし、1917年5月最高位の前頭4枚目、新大関栃木山戦で土俵際でうっちゃりを見せ、40分の協議ののち預かりとなる相撲を取り3勝6敗1預。その後は後援会の幹事の頼みで会員の寡婦と握手をさせられた事が刑事問題となり、不振となった。1921年1月幕下に陥落して引退し熊ヶ谷を襲名、長く理事、監事を歴任した。
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山田 毅一(やまだ きいち、1887年(明治20年)1月21… 山田 毅一(やまだ きいち、1887年(明治20年)1月21日 – 1953年(昭和28年)4月15日)は、衆議院議員(立憲民政党)、ジャーナリスト。 富山県東礪波郡福野町(現在の南砺市)出身。早稲田大学・東京外国語学校に学んだ後、『東京日日新聞』・『やまと新聞』・『國民新聞』の記者を務めた。その間、樺太・沿海州・南洋諸島・欧米諸国などを歴訪した。その後、復興通信社を創業し、社長に就任した。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その後、南進社、南方産業調査会を主宰し、南方政策を研究した。
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三辺 長治(みなべ ちょうじ、1886年(明治19年)12月… 三辺 長治(みなべ ちょうじ、1886年(明治19年)12月23日 - 1958年(昭和33年)4月27日)は、日本の内務官僚。官選府県知事、東京市助役。 富山県上新川郡飯野村(のち広田村飯野、現在・富山市)出身。三辺長三郎の三男として生まれる。富山中学、第四高等学校を経て、1911年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、内務省に入り埼玉県属となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格し、内務属となり警保局に配属。その後、大正3年(1914年)に愛媛県視学官、大正5年(1916年)に大阪府視学官、大正8年(1919年)に内務省地方局事務官となり、地方局市町村課長・都市課長・行政課長などを歴任。
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