伊東 一夫(いとう かずお、1914年11月3日 - 200… 伊東 一夫(いとう かずお、1914年11月3日 - 2004年9月17日)は、日本近代文学研究者。主として島崎藤村や島木赤彦を研究し、島崎藤村学会会長、同名誉会長、島木赤彦研究会長を務めた。 長野県諏訪郡下諏訪町生まれ。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1940年、東洋大学文学部国文学科卒業、東洋大学文学部研究科に入学する。1941年、同文学部研究科を退学し、東洋大学文学部副手、冨山房の事務手伝い、日本文化協会研究員、旧制松本高等女学校(現・長野県松本蟻ヶ崎高等学校)教諭を兼職する。 1945年、長野県立諏訪中学校に転任。1956年、東洋大学文学部専任講師、1959年助教授、1969年教授。
佐藤 光夫(さとう みつお、1914年(大正3年)10月1日… 佐藤 光夫(さとう みつお、1914年(大正3年)10月1日 - 1997年(平成9年)7月17日)は、日本の運輸官僚、海上保安官。海上保安庁長官や運輸事務次官等を務めた後に、京成電鉄第6代社長として京成グループを率い、経営危機に陥っていたグループの再建を成功させた。敬虔なクリスチャンとしても知られた。1987年勲二等旭日重光章受章。 長野県諏訪郡上諏訪町(現:諏訪市)出身。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て旧制東京商科大学(一橋大学の前身)卒業後、実業に関係のありそうな省庁を希望し、鉄道省入省(大鉄局書記)。同期入省の木村睦男(元参議院議長)は、佐藤を「若いころからまじめを絵にかいたような男だった」と評する。
髙橋 節郎(たかはし せつろう、新字体:高橋 節郎、旧字体:… 髙橋 節郎(たかはし せつろう、新字体:高橋 節郎、旧字体:高橋 節郞、1914年(大正3年)9月14日 - 2007年(平成19年)4月19日)は、日本の漆芸家である。長野県南安曇郡北穂高村(現安曇野市)出身。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、1938年東京美術学校工芸科漆工部卒業。日本芸術院会員、文化勲章受章者、文化功労者、日展顧問。
八木 健三(やぎ けんぞう、1914年9月5日 - 2008… 八木 健三(やぎ けんぞう、1914年9月5日 - 2008年7月18日)は、日本の岩石学者。自然保護運動家。北海道大学、東北大学名誉教授。父は長野県地学会初代会長の八木貞助。 長野県長野市生まれ。旧制伊那中学、旧制八高を経て、1938年東北帝国大学理学部岩石鉱物学科卒業。同年母校助手、1951年同大学教授を経て、1962年-1978年北海道大学理学部地質学鉱物学科教授、1978年-1988年北星学園大学教授。 1949年に理学博士(東北大学)「樺太、北海道に於ける特殊なる岩漿分化現象の研究」。日本学術会議会員として発展途上国との学術交流に尽力した。
稲玉 貞雄(いなだま さだお、1914年(大正3年)6月23… 稲玉 貞雄(いなだま さだお、1914年(大正3年)6月23日 - 1989年(平成元年)4月17日)は、昭和時代の政治家。長野県更埴市長。位階は正六位。勲四等瑞宝章。 長野県埴科郡森村(現・千曲市)生まれ。1932年(昭和7年)長野県屋代中学校卒業。 南満洲鉄道教習所から満鉄に入り、旅順駅助役となる。引き揚げ後の1947年(昭和22年)森村役場に入り。1959年(昭和34年)更埴市土木課長、1963年(昭和38年)総務課長、1967年(昭和42年)収入役、1974年(昭和49年)助役を経て、1978年(昭和53年)更埴市長に当選。1989年(平成元年)病気により引退した。この間、時代の変化に対応した行政改革を行った。
竹村 猛(たけむら たけし、1914年5月22日- 1987… 竹村 猛(たけむら たけし、1914年5月22日- 1987年6月24日)は、日本のフランス文学者、翻訳家。 長野県長野市出身。1943年東京帝国大学文学部仏文科卒。東北大学助教授、中央大学教授、1985年定年退任、名誉教授。19世紀フランス文学を専攻、多くの作品を翻訳した。 妻は杉田久女の次女・光子で(1941年結婚)、石一郎は義兄に当たる。
清水 正男(しみず まさお、1914年(大正3年)5月1日 … 清水 正男(しみず まさお、1914年(大正3年)5月1日 - 2014年(平成26年)8月29日)は、日本の教育学者、信州大学名誉教授、松商学園短期大学第6代学長。専門は、教育学、特に学校図書館の研究や、教育工学的な視聴覚教育の研究などであった。 長野県諏訪郡原村出身。長野県諏訪中学校、長野師範学校から、東京高等師範学校に進み、1944年に東京文理科大学教育学科を卒業した。同年、下諏訪小学校訓導、東京高等師範学校教諭、1946年に北海道第一師範学校助教授を務めた後、東京学芸大学講師を経て、1951年に信州大学教育学部助教授となり、1968年に教授に昇任した。1970年に文部省在外研究員としてコロンビア大学、オハイオ州立大学に留学。
中村 八朗(なかむら はちろう、1914年4月16日 - 1… 中村 八朗(なかむら はちろう、1914年4月16日 - 1999年2月3日)は、昭和期の小説家。 長野県長野市出身。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)、第二早稲田高等学院(現早稲田大学高等学院)を経て早稲田大学文学部仏文科卒業。吉江喬松にフランス文学を学んだ。高等学院時代に八木義徳、辻亮一、多田裕計らとともに同人誌『黙示』を創刊。『黙示』に載せた小説「或る尼僧の話」を丹羽文雄に評価され、以後師事する。1937年、丹羽の推挙により『早稲田文学』に処女作「古い絆」を発表、文壇デビューを果たす。初期の作品は僧侶を題材としたものが多かった。 大学卒業後、1938年から早稲田大学出版部に勤務するが、翌年応召され、松本市の歩兵第50連隊を経て、盛岡市の陸軍予備士官学校に入る。
高田 久寿(たかだ ひさとし、1914年(大正3年)3月 -… 高田 久寿(たかだ ひさとし、1914年(大正3年)3月 - 1984年(昭和59年)5月20日)は、日本の英文学者、イギリス文学者。大正大学名誉教授。 長野県生まれ。1931年(昭和6年)、旧制松本第二中学(現長野県松本県ヶ丘高等学校)卒業。1937年(昭和12年)、大阪外国語学校(現大阪大学外国語学部)卒業。東京都立高校教諭を経て、大正大学名誉教授。 終戦直後の「上海残留日僑子弟補習室」で英語教師などを務めたほか、東京都立石神井高等学校校歌の作詞を行っている。 平和祈念展示資料館には先の大戦で経験された方の「苦労体験手記」が収められている。その中に中国での体験手記として、景山澈氏の『上海日僑中学生の終戦日記』がある。
中山 善郎(なかやま よしろう、1914年(大正3年)2月1… 中山 善郎(なかやま よしろう、1914年(大正3年)2月12日 - 1996年(平成8年)1月25日)は、日本の実業家。東京市荒川区生まれ、長野県古間村育ち。
向山 一人(むかいやま かずと、1914年2月10日 - 1… 向山 一人(むかいやま かずと、1914年2月10日 - 1995年12月21日)は日本の実業家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 長野県上伊那郡中箕輪村(後の中箕輪町、現在の箕輪町)生まれ。旧制長野県伊那中学校(現長野県伊那北高等学校)を経て、早稲田大学附属高等工学校卒業。古河電工無線研究所研究課長を退職して、1940年東京市荏原区(現品川区)に「興亜工業社」(現KOA) を設立した。1955年伊那毎日新聞設立。1963年には建設省の専門委員、1964年興亜ソリッド社長、1967年には日本経済団体連合会常任理事を歴任した。1977年コーア会長に就任。 1962年紺綬褒章受章。1962年5月長野県箕輪町教育施設費のため100万円寄付により1963年2月2日紺綬褒章受章(飾版)、寄付の功績顕著として木杯一組台付を賜った。
宮入 潔(みやいり きよし、1914年1月26日 - 200… 宮入 潔(みやいり きよし、1914年1月26日 - 2004年12月22日)は、日本の経営者。長野県長野市出身。 旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て、1934年に山梨高等工業学校機械工学科を卒業し、同年に久保田製作所に入社し、豊田自動織機製作所、トヨタ自動車工業での勤務を経て、1959年4月に豊田通商に移り、同年5月には常務に就任した。 1961年11月に専務に就任し、1968年5月に社長に昇格した。1977年7月から相談役を務めた。 1978年11月に藍綬褒章を受章し、1983年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。 2004年12月22日急性心不全のために死去。90歳没。
林 翔(はやし しょう、1914年1月24日 - 2009年… 林 翔(はやし しょう、1914年1月24日 - 2009年11月9日)は、日本の俳人。本名は林 昭(はやし しょう)。 長野県長野市生まれ。生後10ヶ月で母と死別し、5歳まで祖母に養われる。國學院大學を卒業。大学在学中に能村登四郎と知り合い、登四郎とともに短歌雑誌「装填」の同人となるが、同誌の廃刊後ともに俳句に転じた。1939年から1982年まで旧制私立市川中学(現・市川高等学校)に勤務。1940年、水原秋櫻子の「馬酔木」に初入選。この頃から「翔」を俳号に用いた。1950年「馬酔木」同人となる。1962年、現代俳句協会を脱会し、俳人協会に加入する。1970年、登四郎が「沖」を創刊すると編集主幹に就く。
小山 清茂(こやま きよしげ、1914年〈大正3年〉1月15… 小山 清茂(こやま きよしげ、1914年〈大正3年〉1月15日 - 2009年〈平成21年〉6月6日)は、日本の作曲家。神楽や祭囃子をモチーフに、日本情緒に満ちた温和な作風に特徴がある。 長野県更級郡信里村(現在の長野市)の出身。生家は山深い里の農家で幼少期には西洋音楽に触れることがなかったという。その代わりに彼の周りには、村の祭礼音楽やさまざまな童歌、村人達がうたう即興の唄や民謡があふれていた。小学校の高学年のころ、近くの町で行われた陸軍戸山学校軍楽隊の演奏に触れ、極めて強い印象を受ける。後に彼はそのことについて、文章の中で「まるで夢のような体験だった」というような事を述べている。やがて旧制長野中学校(現在の長野県長野高等学校)に入学、ハーモニカ合奏や短歌に熱中するようになった。
川上 保雄(かわかみやすお、1914年1月4日 - 2015… 川上 保雄(かわかみやすお、1914年1月4日 - 2015年7月28日)は、日本の医学者。昭和大学(現・昭和医科大学)学長を務めた。 長野県南佐久郡川上村生まれ。旧制野沢中学(長野県野沢北高等学校)、旧制松本高等学校理科を経て、昭和14年(1939年)東京帝国大学医学部医学科卒業。同年海軍中尉、同16年(1941年)大尉、同19年(1944年)少佐。同21年(1946年)復員除隊。 同22年(1947年)東京大学医学部助手、同30年(1955年)講師、同34年(1959年)昭和医科大学教授、同47年(1972年)医学部長、同53年(1978年)理事長、同58年(1983年)学長を歴任した。同61年(1986年)退任、名誉教授。
戸枝 弘(とえだ ひろし、1914年 - 1992年1月25… 戸枝 弘(とえだ ひろし、1914年 - 1992年1月25日)は、昭和時代日本の詩人、歌人、作詞家。長野県出身。別名義に戸枝 ひろしや並木 ひろし、野中 ゆきみがある。 1914年(大正3年)、長野県上伊那郡南向村(現在の中川村)に生まれる。旧制伊那中学校在学中は万葉集やアララギ叢書を愛読していた。横浜専門学校を卒業、帰郷した後は会社嘱託の傍ら著述業に入り1951年(昭和26年)の歌会始で入選を果たす。 1960年(昭和35年)より、中川村から伊那市へ転居した。 1963年(昭和38年)1月、同年の歌会始で岡山県から応募のあった入選作が前年に「野中ゆきみ」名義で雑誌に掲載された短歌の盗作であると主張し、宮内庁が入選者に事情を聴いたところ応募者は盗作の嫌疑を否定したものの賞を辞退することとなった(昭和38年歌会始盗作事件)。
代田 銀太郎(しろた ぎんたろう、1914年 - 2006年… 代田 銀太郎(しろた ぎんたろう、1914年 - 2006年6月7日)は、日本の陸軍軍人・作詞家。最終階級は中尉。 戦後の死刑囚時代に「ああモンテンルパの夜は更けて」の作詞を手がけたことで知られる。 長野県下伊那郡松尾村(現在の飯田市)出身。第二次世界大戦の勃発に伴い陸軍に召集され、憲兵としてフィリピン・セブ島を転戦。終戦時は少尉であったが、ポツダム宣言により中尉に昇進。 その後、戦犯死刑囚としてフィリピンのモンテンルパにある刑務所に収容された。1951年、自身と同じ死刑判決をうけた日本兵が処刑されたのを契機に、同僚たちを勇気付けるため「ああモンテンルパの夜は更けて」を作詞。代田と同じく死刑囚となっていた伊藤正康大尉が曲をつけた。
山口 蒼輪(やまぐち そうりん、1913年12月16日 - … 山口 蒼輪(やまぐち そうりん、1913年12月16日 - 1950年6月25日)は日本画家、本名は山口 肇。 長野県南安曇郡烏川村(現・安曇野市)の旧家に生まれる。幼少時から病弱であったが、日本画を赤羽雪邦、書を小穴喜一、修身・国語・漢文を浅井洌に学ぶ。1928年に上京し、日本美術学校で日本画を学ぶが一年余で中途退学する、その後は中村岳陵の弟子となり、蒼野社画塾に入塾、「蒼輪」の号を授かる。第17回院展に「草」で初入選し、以後は「菊」「果実」などで入選を重ね、1935年に院友に推挙された。1945年に帰郷し、農業に従事しながら、同志と「銀嶺会」を結成し、全信州美術展、長野県展などに出品したが、心臓麻痺により37歳で急逝した。
数江 教一(かずえ きょういち、1913年11月18日 - … 数江 教一(かずえ きょういち、1913年11月18日 - 2003年5月28日)は、日本の倫理学者、茶道研究家。茶号は瓢鮎子(ひょうねんし)。 長野県茅野市出身。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)、旧制松本高等学校を経て東京帝国大学文学部倫理学科卒。和辻哲郎に師事。1962年「日本の末法思想」で東京大学より文学博士の学位を取得。1952年中央大学文学部非常勤講師、1953年専任講師、1955年助教授、1960年教授、1984年定年、名誉教授となる。東大在学中に茶の湯同好会を作り茶道を研究する。 日本倫理学会、日本思想史学会、日本哲学会に所属した。
黒坂 周平(くろさか しゅうへい、1913年11月3日 - … 黒坂 周平(くろさか しゅうへい、1913年11月3日 - 2003年2月7日)は日本の地方史研究家、郷土史家、教師。 長野県小県郡西塩田村(現上田市)に生まれる。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て長野師範学校を卒業し、学校教師になる。1950年、『上田小県誌』史料編纂委員となる。1972年、上田市立第三中学校を退職し、郷土史研究に専念する。 1973年、東信史学会を創立し会長に就任、雑誌『千曲』を刊行。1979年、塩田平文化財研究所を設立し所長に就任。1990年喜寿を記念し論文選集(献呈論文集含む)『信濃の歴史と文化の研究』を刊行した。また平凡社の『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』の監修を務めた。
宮澤 俊彌(みやざわ としや、1913年10月20日 - 2… 宮澤 俊彌(みやざわ としや、1913年10月20日 - 2012年12月12日)は、日本の地球科学者。専門は鉱床学。長野県松本市生まれ。
大池 弥三郎(おおいけ やさぶろう、1913年10月7日 -… 大池 弥三郎(おおいけ やさぶろう、1913年10月7日 - 1997年12月22日)は日本の医学者。専門は内科学。弘前大学元学長、日本脳卒中学会元会長。長野県出身。 著書に『脳卒中の臨床と研究』がある。
與曽井 章平(よそい しょうへい、1913年(大正2年)9月… 與曽井 章平(よそい しょうへい、1913年(大正2年)9月20日 - 1993年(平成5年)11月26日)は、日本の社会学者。愛知教育大学名誉教授。 長野県生まれ。1931年(昭和6年)旧制松本第二中学(現長野県松本県ヶ丘高等学校)卒業。松本高等学校を経て、1936年(昭和11年)東京帝国大学文学部を卒業。 愛知学芸大学(現愛知教育大学)教育学部教授。1976年(昭和51年)定年退官。愛知教育大学名誉教授。退官後は、信州大学医療技術短期大学部教授を務めた。
上田 泰(うえだ やすし、1913年9月20日 - 2008… 上田 泰(うえだ やすし、1913年9月20日 - 2008年4月8日)は、日本の内科学者。 長野県松本市生まれ。1939年東京慈恵会医科大学卒業、1949年医学博士。東京慈恵医大助教授、1958年教授となる。腎盂腎炎に関する研究や腎臓における細菌感染症の化学療法の研究などで知られる。厚生省中央薬事審議会委員などを務めた。佐藤栄作の主治医も務めた。
峯村 文人(みねむら ふみと、1913年〈大正2年〉9月14… 峯村 文人(みねむら ふみと、1913年〈大正2年〉9月14日 - 2004年〈平成16年〉3月6日)は、日本の国文学者。 長野県小県郡富士山村(現上田市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)を経て、1935年東京高等師範学校卒業、1935年から旧制新潟県立六日町中学教諭を務めた後、1940年東京文理科大学国文科卒業。東京府立第八高等女学校教諭から1942年小樽経済専門学校(学制改革により小樽商科大学)教授、1954年東京教育大学教授、1962年「新古今時代の研究」で東京教育大学文学博士。1977年定年退官、名誉教授、国際基督教大学教授。1984年同客員教授。1986年秋、勲三等旭日中綬章受勲。
宝月 欣二(ほうげつ きんじ、寳月 欣二、1913年 <大正… 宝月 欣二(ほうげつ きんじ、寳月 欣二、1913年 <大正2年> 7月10日 - 1999年 <平成11年> 12月19日)は、日本の植物学者。理学博士。東京都立大学名誉教授。専門は植物生態学。栄典は勲三等旭日中綬章。位階は正四位。 長野県長野市出身。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、松本高等学校理科を経て、1938年東京帝国大学理学部植物学科卒業。同大学大学院修了(理学博士)。1944年東京大学副手を経て、1952年東京都立大学助教授、1954年同大学教授。退官後、同大学名誉教授。玉川大学教授。 日本植物学会会長、日本生態学会会長、旧環境庁自然環境保全審議会委員などを歴任し、勲三等旭日中綬章受勲。
若槻 哲雄(わかつき てつお、1913年5月4日 - 199… 若槻 哲雄(わかつき てつお、1913年5月4日 - 1993年4月2日)は、日本の物理学者。専門は原子核物理学。第10代大阪大学総長。元大阪府教育委員長。長野県長野市出身。位階勲等は従三位勲一等瑞宝章。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
宮本 幹也(みやもと みきや、1913年3月20日 - 19… 宮本 幹也(みやもと みきや、1913年3月20日 - 1993年11月2日)は、日本の作家。本名は正勝(まさかつ)。 長野県上水内郡吉田村(現長野市)生まれ。旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て、明治大学文学部卒業。1932年「青春街」がサンデー毎日新人賞を受賞し、作家デビュー。週刊朝日に「霧の中の獣心」「渋柿」を掲載、1935年日活撮影所脚本部員となり、1937年社会浪漫派同人となる。1940年国民文化建設同盟を結成し、1941年『公論』編集長となる。1943年に軍に応召し、1945年復員、1949年から文筆業に復帰。戦後、ユーモア小説、通俗小説を多く書いたが、50代で筆を折ったようである。
河原 武雄(かわはら たけお、1913年2月27日 - 20… 河原 武雄(かわはら たけお、1913年2月27日 - 2012年1月20日)はNHKの元アナウンサー。 長野県出身。長野商業学校、旧制松本高等学校文科乙類を1933年に卒業。兄の広三が思想事件で連座したことより進学を断念し、1939年NHK入局。 スポーツアナウンサーとして活躍。ラジオを中心に、栃若時代の大相撲実況や箱根駅伝などの名調子で親しまれる。1952年ヘルシンキオリンピックなどオリンピック中継でも実況を務めた。 退職後は相撲雑誌『別冊グラフNHK大相撲特集』(『別冊NHKウィークリー・ステラ大相撲特集』)の編集長も務めた。 2012年1月20日、呼吸不全のため町田市の病院で死去。98歳没。
市川 春代(いちかわ はるよ、1913年2月9日 - 200… 市川 春代(いちかわ はるよ、1913年2月9日 - 2004年11月18日)は、日本の映画女優、歌手。出生時本名は同じ、結婚後の本名は加々良 春代(かがら はるよ)。戦前のサイレント映画時代から始まり、トーキー期に実力を発揮し、戦後も長く現役の女優だった。 1913年(大正2年)2月9日、長野県長野市の善光寺門前の西後町に、弁護士の父・喜一、母・きんの二男二女の次女として生まれる。県庁や裁判所の至近の地だった。 1919年(大正8年)、長野県師範学校附属小学校(現在の信州大学教育学部附属長野小学校)に入学。1924年(大正13年)8月3日に父が死去、同校を高等科2年で中退して、叔父が懇意にしていた日活の取締役根岸耕一の紹介状を持ち、13歳になった1926年(大正14年)6月16日に日活大将軍撮影所に入社した。
小尾 郊一(おび こういち、1913年2月2日 - 2004… 小尾 郊一(おび こういち、1913年2月2日 - 2004年2月4日)は、日本の中国文学者。広島大学名誉教授。 1913年、長野県諏訪郡豊平村(現・茅野市)生まれ。1930年、長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を卒業。長野師範学校専攻科に進み、1932年に卒業。1938年、大東文化学院(現・大東文化大学)本科を卒業。1941年、広島文理科大学(現・広島大学)文理学部文学科漢文学専攻を卒業した。 卒業後は、同1941年より東方文化学院京都研究所(現・京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター)助手となった。太平洋戦争をはさみ、1946年に広島文理科大学講師に着任。
白澤 正二(しらさわ しょうじ、1913年2月2日 - 19… 白澤 正二(しらさわ しょうじ、1913年2月2日 - 1995年1月23日)は、日本の実業家。茨城放送(現在のLuckyFM茨城放送)社長・会長、朝日新聞編集委員などを務めた。 長野県南安曇郡明盛村(三郷村を経て、現在の安曇野市)生まれ。1930年(昭和5年)旧制松本第二中学校(現在の長野県松本県ヶ丘高等学校)を卒業した。1936年(昭和11年)旧制松本高校を経て、京都帝国大学法学部を卒業した。 1937年、朝日新聞社に入社した。東京本社整理部次長、同学芸部次長、西部本社運動部長、東京本社編集委員を経て、1965年に茨城放送代表取締役社長に就任し、その後は会長を務めた。 また、1972年に日本記者クラブ会員、1978年(昭和53年)7月から1979年(昭和54年)6月まで、水戸ロータリークラブ会長(第29期)を務めた。
真保 正子(しんぼ まさこ、1913年1月22日 - 199… 真保 正子(しんぼ まさこ、1913年1月22日 - 1995年12月19日)は、日本の陸上競技選手・陸上競技指導者。元大谷女子大学教授。日本陸上競技連盟終身1種審判員。長野県上田市出身。上田高等女学校(現在の長野県上田染谷丘高等学校)、日本女子体育専門学校(現在の日本女子体育大学)卒業。
松澤 太郎(まつざわ たろう、1912年(大正元年)12月2… 松澤 太郎(まつざわ たろう、1912年(大正元年)12月26日 - 2007年(平成19年)3月11日)は、昭和期の機械技術者、政治家。 長野県下伊那郡上飯田村(現飯田市)で、松澤茂雄、寿美の長男として生まれた。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)、旧制松本高等学校理科甲類を経て、1938年(昭和13年)3月、京都帝国大学工学部機械工学科を卒業。 石川島芝浦タービンから1950年(昭和25年)芝浦ミシンに転職し、1955年(昭和30年)退社。飯田市商工観光課工業指導事務嘱託を経て、1956年(昭和31年)飯田市教育長、1964年(昭和39年)飯田市総務部長となり、1968年(昭和43年)に退職。
久保田 正文(くぼた まさふみ、1912年9月28日 - 2… 久保田 正文(くぼた まさふみ、1912年9月28日 - 2001年6月6日)は、文芸評論家、小説家、文学博士。 長野県下伊那郡山本村(現飯田市)生まれ。旧制飯田中学(現長野県飯田高等学校)、松本高等学校文科甲類、東京帝国大学文学部美学科卒。福井県の旧制北陸中学(現北陸中学校・高等学校)に教師として赴任したが、『信州文学』に掲載した小説「残夢」が治安維持法違反に問われた。 日本大学藝術学部教授を経て、大正大学文学部教授。戦前から文学活動を始め、1946年、上京、短歌雑誌『八雲』を編集、1947年、新日本文学会に入会、『近代文学』に発表した「しづかな甍」でデビュー、以後、民主主義文学者として小説や評論を発表。
藤牧 直(ふじまき なおし、1912年9月23日 - 198… 藤牧 直(ふじまき なおし、1912年9月23日 - 1980年3月22日)は、日本の総務官僚。元拓務省南洋庁ヤップ支庁長、郵政省監察局長。 長野県生まれ。1929年(昭和4年)旧制松本第二中学(現:長野県松本県ヶ丘高等学校)卒業。1934年(昭和9年)、旧制富山高等学校を経て、京都帝国大学経済学部卒業。 戦前は、拓務省南洋庁ヤップ支庁長を務めたほか、戦後は1949年(昭和24年)人事院給与局実施課長、1954年(昭和29年)郵政省(現:総務省)人事部厚生課長、1962年(昭和37年)監察局長を務め、翌年に退官、郵政弘済会長となり、1967年(昭和42年)福島テレビ専務取締役、1972年(昭和47年)民間放送テレビ回線運営センター常任監事などを務めた。
須甲 鉄也(すこう てつや、1912年8月30日 - 199… 須甲 鉄也(すこう てつや、1912年8月30日 - 1998年4月19日)は、日本の動物学者。専門は甲殻類の発生学や、河川の生態学(特に環境破壊による動物相の年代的遷移)。 長野県長野市出身。東京文理科大学卒業。1938年理学博士。1941年埼玉師範学校教授、1964年埼玉大学文理学部教授、教養部教授、学生部長、教育学部長から1978年名誉教授、1980年から1987年まで学長。 国立大学協会教養課程特別委員会長、天然記念物北海道犬保護会長、埼玉県環境アセスメント会長、さいたま緑のトラスト協会理事、埼玉県立自然博物館協会長など多数の役職を歴任した。勲二等旭日重光章。 著書には「動物発生学実験法」、「大学教養生物学」などがある。
飯沼 正明(いいぬま まさあき、1912年8月2日 - 19… 飯沼 正明(いいぬま まさあき、1912年8月2日 - 1941年12月11日)は日本のパイロット。1937年純国産機、神風号によって東京-ロンドン間の飛行に成功した。 長野県南安曇郡南穂高村細萱(現・安曇野市)に、飯沼文五郎の五男として生まれた。飯沼家は庄屋も務めた豪農だった。3歳で母と死別し、以後祖母に育てられる。 1924年(大正13年)、長谷川清澄(豊科町出身で日本初の一等操縦士)がサルムソン 2Aに搭乗して各務原飛行場から松本市に飛行している途中に南穂高村上空で旋回飛行をおこなった光景を小学校の教室から目撃し、飛行機への憧れを抱く。 1931年(昭和6年)3月、旧制長野県松本中学(現・長野県松本深志高等学校)を卒業し、第11期逓信省陸軍委託航空機操縦生として所沢陸軍飛行学校に入学した。
清水 正一(しみず しょういち、1912年8月1日 - 19… 清水 正一(しみず しょういち、1912年8月1日 - 1989年7月25日)は、日本の柔道家。 長野県東筑摩郡島立村(現松本市)生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)を経て、日本体育会体操学校卒業。昭和9年(1934年)母校の体操学校に奉職し、同18年(1943年)教授に就任。同13年(1938年)から慶應義塾大学柔道部師範を兼務。同20年(1945年)から同25年(1950年)まで帰農していたが、同26年(1951年)東京大学講師、慶應義塾大学柔道部師範に復職。同43年(1968年)日本体育大学武道科特任教授、同48年(1973年)学長に就任し、また、柔道整復師養成施設設立を理事会に提案し、日体柔整専門学校初代校長に就任した。
阿木 翁助(あぎ おうすけ、1912年7月14日 - 200… 阿木 翁助(あぎ おうすけ、1912年7月14日 - 2002年9月11日)は、日本の劇作家、脚本家。本名:安達鉄翁。息子は東宝プロデューサー。孫は笠井信輔(元フジテレビアナウンサー)。 脚本作品としては、1957年のNHKのラジオドラマ「花くれないに」、1964年のNET系のテレビドラマ「徳川家康」などが知られる。 長野県諏訪郡下諏訪町出身。旧制長野県立諏訪中学(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。1930年、小説家を志し上京。 1932年東京プロレタリア演劇研究所を卒業、築地小劇場演劇研究所の研究生となり、1934年にはムーラン・ルージュ新宿座文芸部、新派文芸部に入って劇作家としての道を歩み始め、「女中あい史」の脚本で名を挙げる。
中村 三郎(なかむら さぶろう、1912年7月3日 - 没年… 中村 三郎(なかむら さぶろう、1912年7月3日 - 没年不明[戦死])は、長野県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、内野手。 諏訪蚕糸学校(現・長野県岡谷工業高等学校)在学中に、甲子園に2回出場(春1回〔1930年〕、夏1回〔1930年〕)。1930年春の大会では、優秀選手賞を受賞。そして、最後の出場となった1930年夏の大会では準優勝投手に輝いた。長野県きってのNo.1投手との誉れ高く、その後明治大学やノンプロの諏訪紡績でも活躍した。 1937年に大東京へ入団。プロ野球入団後は内野手に転向し、「三振か長打か」の荒削りなバッティングで人気を博した。同年春季シーズンで喫した46三振は、リーグ最多三振記録(1939年に佐藤武夫〈東京セネタース〉が56三振をマークするまではプロ野球記録でもあった)。
戸谷 敏之(とや としゆき、1912年(明治45年)7月 -… 戸谷 敏之(とや としゆき、1912年(明治45年)7月 - 1945年(昭和20年)9月)は、日本の経済学者、歴史学者。日本常民文化研究所員。専門は農業経済史。
塩崎 源一郎(しおざき げんいちろう、1912年(明治45年… 塩崎 源一郎(しおざき げんいちろう、1912年(明治45年)6月21日 - 2000年(平成12年)5月25日)は、日本の紙芝居師である。 長野県須坂市に生まれ、17歳で上京し、ブリキ問屋に奉公するが後に紙芝居師としての活動を始める。1939年(昭和14年)に大阪市西成区に転居して紙芝居を始める。1947年(昭和22年)に紙芝居を制作・配給する三邑(さんゆう)会を設立する。後に全国に配給する絵元へと発展する。絵元とは、紙芝居を企画し、画家(原画)や作家(文章)に依頼して紙芝居として完成させ全国の紙芝居師に貸し出す仕事です。 1950年代には日本全国で紙芝居を披露し、多くの人々にその観賞に楽しむことに尽力する。
池田 生二(いけだ せいじ、1912年〈明治45年〉6月17… 池田 生二(いけだ せいじ、1912年〈明治45年〉6月17日 - 1998年〈平成10年〉)は、日本の俳優。本名:池田清二。別名:池田生三。長男は脚本家の池田太郎。長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)出身。 4人兄弟の末っ子として生まれる。 旧制諏訪中学校卒業。日本大学経済学部卒業後、日本プロレタリア演劇同盟の演劇研究所の第1期研究生となり、東京左翼劇場を経て新築地劇団で活動。 1940年には思想統制により新築地劇団、新協劇団関係者らの一斉検挙が行われ、池田も検挙された。 戦時中は、丸山定夫らの苦楽座(後の移動演劇『桜隊』)に参加。広島への劇団疎開に参加したが、妻の実家の戦災見舞いのために静岡県沼津市に向い、広島原爆投下当日には広島にいなかった。
オノサト・トシノブ(本名:小野里 利信、1912年〈明治45… オノサト・トシノブ(本名:小野里 利信、1912年〈明治45年〉6月8日 - 1986年〈昭和61年〉11月30日)は、日本の抽象画家、芸術家。 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)生まれ。10歳から群馬県桐生市で育つ。 津田青楓の津田洋画塾出身。戦後はヴェネツィア・ビエンナーレやその他欧米の美術展に積極的に出品・参画した。グッケンハイム美術館や、日本各地の美術館に作品が収蔵されている。モザイク状の幾何学的抽象様式が知られ、版画、シルクスクリーン作品も多い。 1912年(明治45年) - 長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)に、長野県立飯田中学校の教師、小野里万蔵の長男として生まれる。 1919年(大正8年) - 父万蔵が北甘楽郡立実科高等女学校に転勤になり、一家は群馬県富岡町へ移住。
白鳥 映雪(しらとり えいせつ、1912年〈明治45年〉5月… 白鳥 映雪(しらとり えいせつ、1912年〈明治45年〉5月23日 - 2007年〈平成19年〉6月15日)は、日本の画家。本名は白鳥 九寿男(くすお、九壽男)。長野県北佐久郡大里村(現・小諸市)出身。日本画家の伊東深水に師事し、美人画を中心に制作。晩年、脳梗塞を患いながらも制作を続け、「不屈の画家」と呼ばれた。 1912年5月23日、長野県北佐久郡大里村(現・小諸市)滝原で農業を営む一家の長男として生まれる。生後、間もなくして母を失う。このとき母は23歳の若さであり、生前の写真は1枚も残っていない。1919年(大正8年)、小学校入学。1920年(大正9年)、父をも失う。当時の大里村立大里尋常小学校、現在の小諸市立水明小学校で伊東深水の美人画を目にし、母親の面影を見出したことで画家を志す。
古島 敏雄(ふるしま としお、1912年4月14日 - 19… 古島 敏雄(ふるしま としお、1912年4月14日 - 1995年8月29日)は、日本の歴史学者。専門は日本経済史・農業史。東京大学名誉教授。 1912年、長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)で生まれた。飯田中学校を経て、1932年3月第八高等学校理科甲類を卒業し、東京帝国大学農学部農業経済学科に入学。1936年3月に同大学を卒業。 1939年10月、東京帝国大学農学部講師に就任。 1948年10月、東京大学農学部助教授となった。1949年、学位論文『元禄時代に於ける農学の発達とその地盤』を東京大学に提出して農学博士号を取得。 1959年、東京大学農学部教授に昇格。翌1960年から日本経済史講座の担当者が戦死したため空席になっていた一橋大学経済学部教授を併任し、永原慶二とともに中村政則、西田美昭ら多くの後継者を育てた。
小坂 善太郎(こさか ぜんたろう、1912年〈明治45年〉1… 小坂 善太郎(こさか ぜんたろう、1912年〈明治45年〉1月23日 - 2000年〈平成12年〉11月26日)は、日本の政治家。位階は正三位。自由民主党の衆議院議員(16期)。外務大臣(第83・84・99代)、経済企画庁長官(第23代)、国家公安委員会委員長(初代)、労働大臣(第8代)を歴任した。 長野県長野市出身。学習院を経て、1935年(昭和10年)に東京商科大学(現在の一橋大学)を卒業する(上田貞次郎ゼミナール)。三菱銀行勤務や信越化学工業直江津工場長、同社取締役を経て、1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に長野1区(当時)から立候補し、初当選する。以後、当選16回(当選同期に二階堂進・江﨑真澄・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・水田三喜男・村上勇・川崎秀二・井出一太郎・早川崇・中野四郎など)。
山本 正男(やまもと まさお、1912年1月12日 - 20… 山本 正男(やまもと まさお、1912年1月12日 - 2007年10月10日)は、日本の美術史学者。専攻は美学、芸術史。第4代東京芸術大学学長、初代沖縄県立芸術大学学長。長野県長野市出身。 日本学術会議第13・14期会員、文部省学術審議会委員、日本美学会委員などを歴任した。
北野 ミヤ(きたの ミヤ、1912年1月12日 - 2004… 北野 ミヤ(きたの ミヤ、1912年1月12日 - 2004年4月23日)は、メジロ商事株式会社、有限会社メジロ牧場の元会長。長野県上田市生まれ。 「メジロティターンの子で天皇賞を勝て」という夫・北野豊吉の遺言を受け、メジロ牧場を引き継ぐ。1991年には遺言どおりメジロティターンの仔・メジロマックイーンで天皇賞(春)を勝った。そのほか1986年の牝馬三冠馬・メジロラモーヌ、メジロライアン、メジロパーマー、メジロドーベル、メジロブライトなどGIホースを次々と生産。メジロ牧場の最盛期を築き、ファンや関係者からは「メジロのおばあちゃん」と呼ばれ親しまれたが、一方でメジロマックイーンが勝った1990年の菊花賞について「もう一頭のメジロに勝って欲しかった(同じく1990年の菊花賞で1番人気だったが3着に敗れたメジロライアンを指す)」と発言するなど、歯に衣着せぬ言動をすることもあった。