太田 正孝(おおた まさたか、1886年〈明治19年〉11月… 太田 正孝(おおた まさたか、1886年〈明治19年〉11月13日 - 1982年〈昭和57年〉7月10日)は、日本の大蔵官僚、政治家。衆議院議員(7期)、参議院議員(1期)。 静岡県出身。静岡商業学校、七高を経て、1912年に東京帝国大学法科大学経済学科(現・東京大学経済学部)を卒業し、大蔵省に入省(東京税務監督局兼主税局)。後に主計官となる。 1919年退官。政界入りするまでに報知新聞社副社長、中央大学教授等を務める。1924年には経済学博士号を取得。 1930年の第17回衆議院議員総選挙に立憲政友会公認で立候補し初当選。その後大蔵参与官、大蔵政務次官などを歴任。1939年の政友会分裂に際し金光庸夫、犬養健らとともに中立派に属す。
斎藤 文蔵(さいとう ぶんぞう、1886年(明治19年)7月… 斎藤 文蔵(さいとう ぶんぞう、1886年(明治19年)7月23日 - 1930年(昭和5年)11月6日)は、日本の歴史学者・教育者。 静岡県沼津市出身。第一高等学校を経て、1910年(明治43年)、東京帝国大学文科大学を卒業。維新史料編纂事務局に勤務の後、島津公爵家史料編輯所に勤務した。1922年(大正11年)、山形高等学校教授に就任し、1927年(昭和2年)に東京女子高等師範学校教授・附属高等女学校主事となり、第六臨時教員養成所講師も兼ねた。
小栗 一雄(おぐり かずお、1886年7月8日 - 1973… 小栗 一雄(おぐり かずお、1886年7月8日 - 1973年1月20日)は、日本の内務官僚。県知事、警視総監。 静岡県出身。小栗平七郎の四男として生まれる。静岡中学、第一高等学校を経て、1911年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、農商務省に入り東京大林区署に配属される。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格。その後、山林事務官補となる。 1914年4月、同郷出身の一木喜徳郎文部大臣の秘書官に就任し文部省参事官を兼務。1915年8月、一木大臣の内務大臣へ異動に伴い内務大臣秘書官に就任。1916年10月、京都府視学官となり、東京府視学官、奈良県警察部長、長崎県警察部長、警視庁衛生部長、警視庁保安部長、大阪府書記官・警察部長、兵庫県書記官・内務部長、大阪府書記官・内務部長などを歴任。
熊谷 敬一(くまがい けいいち、1886年7月8日 - 19… 熊谷 敬一(くまがい けいいち、1886年7月8日 - 1962年1月17日)は、日本の陸軍軍人。第15師団長、留守第4師団長を歴任する。階級は陸軍中将。勲一等。 静岡県出身。静岡県立静岡中学校を経、1907年(明治40年)5月31日、陸軍士官学校を卒業。同年12月26日、陸軍歩兵少尉に任官 。1917年(大正6年)、陸軍大学校(29期)卒業。1922年(大正11年)12月12日、大尉の時、アメリカ大使館付武官補佐官に就任し、1924年(大正13年)10月14日までこの職に在る。以後歩兵将校として累進し、1931年(昭和6年)8月1日、陸軍大佐・陸軍歩兵学校教官を命ぜられる。翌年8月8日鳥取連隊区司令官に移る。
平野 運平(ひらの うんぺい、1886年3月23日 - 19… 平野 運平(ひらの うんぺい、1886年3月23日 - 1919年2月6日)は、旧名を「榛葉」という、ブラジル移民の先駆者として働き「ブラジル移民の父」と称された明治・大正期の海外開拓家である。 平野運平は1886年3月23日に現在の掛川市にあたる静岡県小笠郡栗本村で生まれた、榛葉健蔵の三男である。 同氏は、掛川中を卒業したのち、義兄の平野家に入籍したのち、同氏は東京外国語学校大西語科を卒業した。 1908年4月28日には神戸港より笠戸丸に乗船して出発した第1回ブラジル移民の笠戸丸移民に通訳五人衆の一人として同行し、シベリア経由での50日余の航海ののち、1908年6月18日にサンパウロ州のサントス港に入港した。
石田 礼助(いしだ れいすけ、1886年(明治19年)2月2… 石田 礼助(いしだ れいすけ、1886年(明治19年)2月20日 - 1978年(昭和53年)7月27日)は、日本の実業家。三井物産代表取締役社長・日本国有鉄道元総裁。本名・石田 禮助(読みは同じ)。
松崎 寿(まつざき ひさし、明治19年(1886年)2月18… 松崎 寿(まつざき ひさし、明治19年(1886年)2月18日 - 昭和10年(1935年)9月11日)は、日本の経済学者。大阪商科大学(現・大阪公立大学)教授在任中、死去した。 静岡県駿東郡楊原村村上香貫生まれ。静岡県立韮山中学校(現・静岡県立韮山高等学校)を経て、1904年東京高等商業学校(現・一橋大学)予科入学。1910年同校専攻科卒業。關一に師事。 同年大阪高等商業学校(現・大阪公立大学)講師。1917年同校教授。1920年叙正七位。1922年叙従六位。1928年叙従五位。1929年大阪商科大学(現・大阪公立大学)教授兼同大学高等商業部教授兼務。1930年同大学評議員併任。 1932年叙正五位、商学博士。
河合 小市(かわい こいち、1886年1月5日 - 1955… 河合 小市(かわい こいち、1886年1月5日 - 1955年10月5日)は、日本の技術者、実業家。河合楽器製作所創設者・初代社長。ピアノ製造技師。 浜松市菅原町の車大工の河合谷吉(屋号は「するがや」)の子供に生まれた。幼少の頃から手先が器用で研究心があったという。 河合楽器製作所製グランドピアノの多くに刻まれているK.KAWAIというロゴタイプは小市の名に由来する。 河合楽器製作所2代目社長の河合滋は次女の婿。KAISERブランドのピアノ(製造元は日本楽器製造株式会社)で知られる河合楽器株式会社を経営していた河合晋は長女の婿。 この項目は、楽器に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 音楽/プロジェクト:楽器)。
木下 杢太郎(きのした もくたろう、1885年(明治18年)… 木下 杢太郎(きのした もくたろう、1885年(明治18年)8月1日 - 1945年(昭和20年)10月15日。本名:太田正雄)は、静岡県出身の詩人、劇作家、翻訳家、美術史・切支丹史研究家。 東京帝国大学医科大学で学ぶ傍ら「パンの会」を興し、これと前後して『明星』『中央公論』『スバル』『白樺』で、詩のほか短歌・戯曲・小説などを発表。作風は南蛮情緒的、切支丹趣味、耽美享楽的などと評された。のち、自費によるヨーロッパ留学を経て愛知医科大学、東北帝国大学、東京帝国大学の医学部教授を歴任し、傍らで文明批評や随筆紀行を著述した。筆名はほかに、堀花村(ほりかそん)、地下一尺生、葱南(そうなん)、北村清六などがある。
池田 平作(いけだ へいさく、1885年(明治18年)4月1… 池田 平作(いけだ へいさく、1885年(明治18年)4月12日 - 1935年(昭和10年)9月21日)は、大正・昭和期の日本海軍の軍人。連合艦隊主計長、海軍経理学校教官、横須賀鎮守府軍需部長などを歴任した。最終階級は海軍主計少将。 静岡県出身。静岡県立静岡中学校に学ぶ。静岡中学時代は野球部に所属した。東京帝国大学法科大学卒業。 1911年7月、中主計任官、経理学校乙種学生。1912年3月、浪速乗員、7月、横須賀水雷団付、10月、第2駆逐隊付、12月、横須賀水雷団付。1913年4月、第1駆逐隊付、8月、主計長心得。12月、大主計、嵯峨主計長。1915年2月、佐世保経理部第1兼第2課員。1917年2月、第2特務艦隊司令部付。
近藤 浩一路(こんどう こういちろ、本名:浩(こう)、明治1… 近藤 浩一路(こんどう こういちろ、本名:浩(こう)、明治17年(1884年)3月20日 - 昭和37年(1962年)4月27日)は、日本の水墨画家・漫画家。明治初期の実業家。教育者である近藤喜則は祖父にあたる。建築家の白井晟一は義弟にあたる。 山梨県南巨摩郡睦合村(現南部町)に生まれる。近藤家は江戸時代に南部宿の本陣を務めた家柄で、父は浩一路の幼少時に病没しているが、祖父の喜則は初代県会議長を務めたほか地元で私塾を営んでおり、裕福な家庭に育つ。父の療養のため幼少時には静岡県庵原郡岩渕村で過ごし、富士川小学校を経て1902年(明治35年)に韮山中学(静岡県立韮山高校)を卒業すると上京する。 祖父からは医者になることを期待され英語学校や予備校へも通うが、文芸誌への投稿や俳句など文芸活動に熱中し、1904年(明治37年)には画家を志して洋画家の和田英作の白馬会研究所に所属し、同年9月には東京美術学校西洋画科へ入学する。
大橋 亦兵衛(おおはし またべえ、1884年(明治17年)2… 大橋 亦兵衛(おおはし またべえ、1884年(明治17年)2月11日 - 1946年(昭和21年)10月16日)は、大正から昭和時代戦前の政治家。治水家。衆議院議員。静岡県会議長。静岡県磐田郡井通村長。俳号は天竜。 大橋頼摸の長男として、静岡県豊田郡小立野村(豊田郡井通村、磐田郡井通村、豊田村、豊田町を経て現磐田市)に生まれる。1912年(大正元年)家督を相続する。書籍業を営む。浜松中学校を卒業する。 井通村会議員、同村長を経て、1919年(大正8年)静岡県会議員に当選。1926年(大正15年)同議長に推された。1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙では静岡県第3区から立憲政友会所属で出馬し当選。
金子 彦太郎(かねこ ひこたろう、1883年〈明治16年〉1… 金子 彦太郎(かねこ ひこたろう、1883年〈明治16年〉12月15日 - 1963年〈昭和38年〉12月4日)は、昭和時代の政治家。衆議院議員。静岡県富士郡今泉村長、吉原市長。静岡県会議長。大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍砲兵少尉。富士市名誉市民。 金子利七の長男として静岡県富士郡今泉村(吉原町、吉原市を経て現富士市)に生まれる。小学校卒業後、静岡中学校に学び、野球部(現在の静岡高校野球部)に所属した。1905年(明治38年)札幌農学校林学科を卒業。翌年の1906年(明治39年)9月、陸軍に入り、陸軍砲兵少尉に進み、1910年(明治43年)除隊帰郷した。 1921年(大正10年)今泉村会議員に当選。
村上 精一(むらかみ せいいち、1883年〈明治16年〉11… 村上 精一(むらかみ せいいち、1883年〈明治16年〉11月2日 - 1959年〈昭和34年〉9月10日)は、日本の英語学者、青山学院大学教授、青山学院専門部文学部長、青山学院高等部長。 1883年11月2日、静岡県引佐郡細江町に生まれる。静岡県立浜松中学校を経て、1903年4月、青山学院高等科に入学する。1906年3月に卒業し、同年5月から秋田県立本荘中学校の教諭となる。1910年9月に依願免職、同年10月からアメリカ合衆国インディアナ州のデポー大学に入学する。1913年6月に卒業し、B.A.の学位を受ける。同年9月、イリノイ州のシカゴ大学に入学し、1916年3月にM.A.の学位を受け、同年9月に卒業、B.D.の学位を受ける。
今井 健彦(いまい たけひこ、1883年(明治16年)7月2… 今井 健彦(いまい たけひこ、1883年(明治16年)7月22日 - 1966年(昭和41年)1月20日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、文部政務次官、商工政務次官、農林参与官。ジャーナリスト。歌人の今井邦子は妻。坂本龍馬暗殺の犯人とされる今井信郎の三男。 静岡県榛原郡初倉村(現在の島田市)に村長今井信郎の三男として生まれる。『中央新聞』『中外商業新報』記者を経て、福井日報社社長となった。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第21回衆議院議員総選挙まで7回連続当選を果たした。その間、犬養内閣で農林参与官を、平沼内閣で商工政務次官を、小磯内閣で文部政務次官を務めた。
佐々木 邦(ささき くに、1883年(明治16年)5月4日 … 佐々木 邦(ささき くに、1883年(明治16年)5月4日 - 1964年(昭和39年)9月22日) は日本の作家、英文学者。弟・順三は立教大学総長。
大塚 甚之助(おおつか じんのすけ、1883年(明治16年)… 大塚 甚之助(おおつか じんのすけ、1883年(明治16年)3月13日 - 1951年(昭和26年)3月19日)は、大正から昭和時代の政治家。実業家。醸造家。衆議院議員。静岡県会議長。 静岡県志太郡藤枝宿(藤枝町を経て現藤枝市)出身。生家は酒造業を営み、父の先代大塚甚之助は志太電気会社や藤相鉄道などを創設した実業家。 藤枝町長、同町会議員、静岡県会議員、同副議長、議長、静岡県鉄工組合連合会理事、同酒造組合連合会長、全国酒造組合中央会理事、藤相鉄道監査役、静岡県酒類販売社長を歴任した。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙では静岡全県区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。議員在任中は日本自由党総務、衆議院請願委員長を務めた。
八木 元八(やぎ もとはち、1883年(明治16年)2月10… 八木 元八(やぎ もとはち、1883年(明治16年)2月10日 – 1946年(昭和21年)10月29日)は、衆議院議員、外交官。 静岡県榛原郡相良町(現在の牧之原市)出身。1902年(明治35年)、外務省留学生試験に合格し、サンクトペテルブルク・アモイに留学した。1906年(明治36年)、外務書記生となり、アモイ、奉天、香港、漢口、ニューヨークに勤務した。1918年(大正7年)より長沙副領事、北京副領事、天津副領事、青島領事、ニューオーリンズ領事を歴任した。1928年(昭和2年)よりハルビン総領事を務めた。 退官後は鴨緑江採木公司理事長、鴨緑江製材株式会社代表、安東市商工公会会長などを務めた。
片岡 敏郎(かたおか としろう、1882年10月3日 - 1… 片岡 敏郎(かたおか としろう、1882年10月3日 - 1945年1月31日)は、戦前の広告業界で活躍したコピーライター(当時の呼び名で「アドライター」)の第一人者。「天才」と謳われた。静岡県焼津市出身。 旧制開成中学校卒業[要出典]後、海軍兵学校を目指すも叶わず、静岡中学校を卒業。泉鏡花に師事して文筆家を目指すが挫折。1906年、シャム公使館に勤務。1909年から1912年まで渡航。広告業界に足を踏み入れるきっかけは本人曰く「たまたま見た森永(製菓)の広告がまるでダメで、これなら俺の方がよいものができる」と思ったからだという。帰国後の1913年、日本電報通信社(現・電通)に入社するも、翌年には、その森永製菓に広告部長として招かれ、ヒット広告を次々と打ち出す。
川村 驥山(かわむら きざん、1882年〈明治17年〉5月2… 川村 驥山(かわむら きざん、1882年〈明治17年〉5月20日 - 1969年〈昭和44年〉4月6日)は、日本の書家。日本芸術院会員。本名は川村慎一郎、別号に酔仏居士、酔驥、長嘯庵主人などがある。静岡県袋井市生まれ。 父は漢学者の川村東江。父より漢学を学び、書道を太田竹城に学んだ。 昭和の剣聖と言われた中山博道に書道を教えた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
山口 忠五郎(やまぐち ちゅうごろう、1882年(明治15年… 山口 忠五郎(やまぐち ちゅうごろう、1882年(明治15年)1月3日 - 1955年(昭和30年)10月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。幼名・治作。 静岡県志太郡西益津村(藤枝町を経て現藤枝市大手)出身。先代忠五郎の息子として生まれ、忠五郎を襲名した。西益津高等小学校、永井東陵の私塾育英学校で学んだ。 農業に従事し、西益津村長、同村会議員、志太郡会議員、静岡県会議員、同副議長、同議長、全国町村会会長を歴任し、1928年の第16回衆議院議員総選挙で静岡1区(当時)から立憲政友会公認で立候補して初当選。1930年の第17回衆議院議員総選挙では落選。1932年の第18回衆議院議員総選挙から4回連続当選した。
岩崎 彦雄(いわさき ひこお、1881年(明治14年)12月… 岩崎 彦雄(いわさき ひこお、1881年(明治14年)12月1日 - 1956年(昭和31年)6月29日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 素封家・岩崎彦左衛門の長男として、のちの静岡県安倍郡麻機村(現静岡市葵区)に生まれる。26歳にして麻機村農会長に選ばれ、安倍郡農会幹事を経て、30歳の時、麻機村長に就任する。さらに翌年、安倍郡農会長を経て、静岡県会議員に当選。ついで33歳の時、静岡県柑橘組合連合会長に推された。ほか、日本農具、静岡賤機焼陶業、日本山羊各社長を歴任した。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
太田 圓三 (おおた えんぞう、太田円三、1881年(明治1… 太田 圓三 (おおた えんぞう、太田円三、1881年(明治14年)3月10日 - 1926年(大正15年)3月21日)は明治・大正期の土木技術者・鉄道技師。詩人・木下杢太郎の実兄。動物学者である太田嘉四夫の叔父。 静岡県田方郡伊東町(現在の伊東市)出身。東京府立一中、一高を経て、1904年に東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。大学では広井勇に師事。逓信省鉄道作業局(後の鉄道院→鉄道省)に入省。1910年から2年間、欧米に留学。1923年の関東大震災後、帝都復興院土木局長に抜擢される。 帝都復興院では、隅田川六大橋(下流から相生橋、永代橋、清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋)をはじめとする「震災復興橋梁」の建設を、橋梁課長の田中豊と共に主導した。
置塩 章(おしお あきら、 1881年(明治14年)2月6日… 置塩 章(おしお あきら、 1881年(明治14年)2月6日 - 1968年(昭和43年)10月20日)は、大正から昭和初期に関西で活躍した建築家である。公共建築物を多く手がけ、ネオ・ゴシック様式を好んだ。 1881年(明治14年)に、置塩藤四郎の長男として静岡県志太郡島田町(現・島田市)に生まれる。静岡県静岡尋常中学校から、第三高等学校 (旧制)へ進んだ。中学時代は野球部(現在の静岡高校野球部)に所属し、ピッチャーを務めた。 1910年(明治43年)に東京帝国大学工科大学造家学科(建築学科)を卒業、陸軍技師として陸軍省に入る。第四師団(大阪市)経理部に配属となり、第四師団管轄下の営繕全てにたずさわる。
山本 勝次(やまもと かつじ、1880年(明治13年)10月… 山本 勝次(やまもと かつじ、1880年(明治13年)10月12日 - 1928年(昭和3年)1月10日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(1期)。 山本庄次郎の二男として静岡県浜名郡白須賀宿伝馬街(白須賀町、湖西町を経て現湖西市)に生まれる。小学校を卒業後、敷知郡新所村(浜名郡新所村、湖西町を経て現湖西市)の湖西高等小学校から浜松中学校を経て、1900年(明治33年)東京専門学校政治経済学科を卒業する。浜名郡会議員、白須賀町会議員、同町長、静岡県会議員、浜名郡農会長、県農会、県蚕業組合、県畜産組合の役員などを歴任した。1924年(大正13年)5月の第15回衆議院議員総選挙では静岡県第9区から憲政会所属で出馬し当選したが、任期満了を待たずして死去した。
中村 與資平(なかむら よしへい、1880年2月8日 - 1… 中村 與資平(なかむら よしへい、1880年2月8日 - 1963年12月21日)は、明治から昭和にかけて活躍した建築家。朝鮮・旧満州及び静岡県などにおいて多くの銀行や公共建築の設計を手がけたことで知られる。 中村与資平は、1880年に静岡県長上郡天王新田村(現在の浜松市中央区天王町)に中村貞一郎の長男として生まれた(中村は慶長年間からの庄屋(官号:与左衛門)で,与資平は第14代にあたる)。1889年に下堀学校(現・浜松市立与進小学校)を卒業し、1893年には浜松高等小学校(現・浜松市立元城小学校)を卒業した。1899年に静岡県浜松尋常中学校(現静岡県立浜松北高等学校)を卒業し、その後、1902年に第三高等学校を卒業した。
矢田 七太郎(やだ しちたろう、1879年〈明治12年〉12… 矢田 七太郎(やだ しちたろう、1879年〈明治12年〉12月4日 - 1957年〈昭和32年〉3月1日)は、日本の外交官。駐スイス公使。東亜同文書院大学学長。 静岡県出身。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、外交官及領事官試験に合格した。広州領事官補、漢口領事官補、天津領事官補、清国外交官補、イタリア大使館二等書記官、ロンドン総領事、サンフランシスコ総領事、上海総領事を歴任。1929年(昭和4年)、駐スイス公使に任命された。 退官後は満州国参議府参議を経て、1940年(昭和15年)より東亜同文書院院長・東亜同文書院大学学長を務めた。
今井 信夫(いまい のぶお、1879年〈明治12年〉10月2… 今井 信夫(いまい のぶお、1879年〈明治12年〉10月26日 - 1957年〈昭和32年〉12月3日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 福岡県出身。静岡県静岡尋常中学校に学んだ。中学では野球部に所属した。。 1899年(明治32年)12月1日、陸軍士官学校入校。1900年(明治33年)、陸軍士官学校第12期卒業。1901年(明治34年)6月25日、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第11連隊付となった。 1924年(大正13年)12月に陸軍歩兵大佐・浜松連隊区司令官、1925年(大正14年)5月に静岡連隊区司令官、1928年(昭和3年)3月に歩兵第36連隊長を経て、1930年(昭和5年)8月1日に陸軍少将に昇進と同時に待命、同月29日に予備役に編入した。
津倉 亀作(つくら かめさく、1879年(明治12年)9月1… 津倉 亀作(つくら かめさく、1879年(明治12年)9月1日 - 1947年(昭和22年)2月27日)は、昭和時代の政治家。実業家。立憲民政党所属の衆議院議員。 静岡県磐田郡掛塚町長。大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中尉。 静岡県長上郡、のちの磐田郡掛塚町(竜洋町を経て現磐田市)出身。津倉勘六の弟として生まれ先代の津倉録平の養子となり1891年(明治24年)家督を相続する。日露戦争に従軍し、陸軍主計中尉に進む。 掛塚町会議員、磐田郡会議員、浜松市会議員、静岡県会議員、掛塚町長、所得税調査委員などを歴任。また材木商を営み、浜松商工会議所副会頭、浜松倉庫、浜松合同運送各取締役社長、遠州銀行、帝国製帽、浜松貯蓄銀行各監査役を務めた。
青山 士(あおやま あきら、1878年9月23日 - 196… 青山 士(あおやま あきら、1878年9月23日 - 1963年3月21日)は、日本の土木技師、内務官僚。位階は従三位。勲等は勲三等。公益社団法人土木学会名誉会員。 ニューヨークセントラル・アンド・ハドソンリバー鉄道、パナマ運河工事委員会での勤務を経て内務技師となり、新潟土木出張所所長、内務技監、社団法人土木学会会長などを歴任した。 静岡県生まれの土木技術者である。内村鑑三の門下となり、東京帝国大学工科大学では広井勇の指導を受ける。パナマ運河建設に携わった唯一の日本人として知られる。帰国後は内務省に入省し、東京土木出張所においては荒川放水路の建設を指揮した。また、新潟土木出張所では所長として信濃川大河津分水路の改修工事を指揮した。
小倉 嘉明(おぐら よしあき、1878年(明治11年9月2日… 小倉 嘉明(おぐら よしあき、1878年(明治11年9月2日)[出典無効] - 1949年(昭和24年)11月23日)は、日露戦争から戦間期にかけて活躍した大日本帝国海軍軍人。海兵27期、海大甲種7期。 水雷畑を歩み、海軍大学校教官、海軍水雷学校教頭など教育に携わり、軍令部参謀、海軍艦政本部部長、横須賀海軍工廠長などを歴任した。最終階級は海軍中将。1905年(明治38年)の日本海海戦では第二艦隊浅間分隊長。 神奈川県出身。静岡県尋常中学校を経て、1896年(明治29年)、海軍兵学校(27期)入校[出典無効]、1899年(明治32年)12月16日卒業[出典無効]。同日、海軍少尉候補生、比叡乗組。1900年(明治33年)、千代田乗組[出典無効]。
岩崎 勲(いわさき いさお、1878年(明治11年)2月25… 岩崎 勲(いわさき いさお、1878年(明治11年)2月25日 – 1927年(昭和2年)1月18日)は、日本の弁護士、弁理士、政治家。衆議院議員(静岡県第五区選出、当選4回)。族籍は静岡県士族。 静岡県駿東郡八幡村(清水村八幡を経て現清水町)の人である。三嶋大社の禰宜岩崎元功の長男。家は代々八幡神社の社掌だったが、父の代に至って三嶋神社の禰宜を兼ねた。 静岡県尋常中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学に入る。在学中には各大学の同志とともに青年革進協会を組織してその幹部となり、雑誌『革進』の編集主任を務めた。 1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業、同年文官高等試験に合格したが、官界には入らず弁護士・特許弁理士となった。
秋月 致(あきづき いたす、1878年1月26日 ー 196… 秋月 致(あきづき いたす、1878年1月26日 ー 1963年5月)は、日本基督教会の牧師。1918年から25年間、日本統治時代の朝鮮京城で牧師を務めた。植村正久門下。 1878年(明治11年)、徳川慶喜の御典医、柏原孝章の三男として静岡市に生まれる。致(いたす)は徳川慶喜が命名。静岡師範学校附属小学校、静岡県尋常中学校卒業。尋常中学では、兄の柏原知格が結成した城内倶楽部(静岡中学野球部の前身)に所属した。第四高等学校在学中にクリスチャンとなり、1908年(明治41年)東京帝国大学法科卒業後、直ちに牧師となった。 「父が福沢諭吉と同門の親友で維新前後のハイカラであったため、科学的精神を尊重し、無宗教、伝説打破、個人の自由を標榜し、運動を奨励、健康で体格の良いことを誇りとしたが、このような家庭に成長した私がどのようなものに成ったかと言えば、放縦我侭、傲慢軽率、胸中燃える野心を抱蔵する一個の始末に負えぬ人物と成った。
近藤 平三郎(こんどう へいざぶろう、1877年12月11日… 近藤 平三郎(こんどう へいざぶろう、1877年12月11日 - 1963年11月17日)は、日本の薬剤師、薬学者(薬化学)。勲等は文化勲章。学位は薬学博士。日本学士院会員。 陸軍薬剤官、塩野義商店顧問、乙卯研究所所長、東京帝国大学教授、日本薬学会会頭、日本薬剤師会会長などを歴任した。 現在の静岡県賀茂郡松崎町にて生まれた。本郷のドイツ語学校から東京帝国大学医科薬学科に進み、長井長義に師事。帝大卒業後は大学に籍を置きながらも陸軍薬剤官として入隊し、日露戦争に薬剤師として従軍。陸軍医学校教官を経て、ベルリン工科大学に留学して有機化学を専攻した。 1911年に帰国すると塩野義商店の塩野長次郎の懇請を受け、塩野義商店顧問に就任。
柴田 善三郎(しばた ぜんざぶろう、1877年11月 - 1… 柴田 善三郎(しばた ぜんざぶろう、1877年11月 - 1943年8月25日)は、日本の官僚。静岡県出身。
河井 彌八(かわい やはち、1877年(明治10年)10月2… 河井 彌八(かわい やはち、1877年(明治10年)10月24日 - 1960年(昭和35年)7月21日)は、日本の官僚・政治家。侍従次長や参議院議長(第4代)を歴任する。静岡県出身。 静岡県佐野郡上張村にて生まれた。1897年(明治30年)静岡県尋常中学校卒業。1904年(明治37年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 内務省に入省して佐賀県内政部長代理などを歴任する。1918年(大正7年)に内閣法制局に移り、翌年に貴族院書記官長、1926年に内大臣府秘書官長となった。1927年(昭和2年)から侍従次長兼皇后宮大夫、1930年(昭和5年)から7年間にわたって皇后宮大夫兼侍従次長として昭和天皇・香淳皇后の側近として仕えた。
篠田 次助 (1877年9月17日 - 没年不詳) は、日本… 篠田 次助 (1877年9月17日 - 没年不詳) は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 この項目は、軍事上の人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:軍事、プロジェクト:軍事史/Portal:軍事)。
宮本 雄一郎(みやもと ゆういちろう、1877年(明治10年… 宮本 雄一郎(みやもと ゆういちろう、1877年(明治10年)9月12日 - 1945年(昭和20年)5月7日)は、大正から昭和時代戦前の政治家。衆議院議員。静岡県会議長。静岡県小笠郡朝比奈村長。前名は熊太郎。 静岡県城東郡、のちの朝比奈村(小笠郡朝比奈村、浜岡町を経て現御前崎市)に生まれる。1898年(明治31年)宮本庄平の婿養子となり熊太郎から雄一郎に改名した。 1907年(明治40年)朝比奈村会議員に選ばれ、以後同村助役、村長と1942年(昭和17年)まで33年間に渡り村政を担当し、河川改修、砂防、郡道、県道の新設などに尽くした。 1901年(明治34年)小笠郡農会農事巡回教師、小笠郡農会長、1924年(大正13年)静岡茶業組合理事を歴任し茶業を振興した。
松本 義一郎(まつもと よしいちろう、1877年〈明治10年… 松本 義一郎(まつもと よしいちろう、1877年〈明治10年〉8月1日 - 没年不詳)は、明治初期から昭和初期にかけて活動した実業家。松本家第8代当主。掛川葛布商会会長。掛川銀行取締役。 松本家は江戸時代中期から掛川城下で「松屋」の屋号で葛布の販売を行っていた商家であった。松本家は19世紀には掛川藩から御用達に任じられ、帯刀と苗字の使用が許されていた。 松本義一郎は第7代松本家当主松本文治の婿養子として城東郡の名家であった黒田家(黒田源五郎3男)から1879年(明治12年)2月に入籍していた。しかし、文治が39歳の若さで亡くなると、1881年(明治14年)11月松本家当主となった。1882年(明治15年)、義一郎は城内農学社に製糸工場(資本金1万円)の設立の話が持ち上がると、6名の上位出資者に名を連ねて、豊田郡深見村の分社にも出資した。
小川 三紀(おがわ みのり、1876年(明治9年)3月30日… 小川 三紀(おがわ みのり、1876年(明治9年)3月30日 - 1908年(明治41年)10月31日)は、日本の鳥類学者。日本人で最初に鳥類に専念した動物学者の一人。飯島魁東京帝国大学教授を助けて[要出典]剥製標本や鳥卵標本を集め、日本鳥類学の礎を築く。南西諸島におけるルリカケスの再発見やオオトラツグミの発見などの業績がある。 1876年(明治9年)、静岡藩医小川清齋の四男として誕生。1892年(明治25年)、静岡市立高等小学校卒業。中学校2年生頃より昆虫類の採集を始め、旧制中学4年で処女論文を発表。1896年(明治29年)、静岡県尋常中学校卒業。1901年(明治34年)年、第一高等学校卒業。
青山 禄郎(あおやま ろくろう、1875年(明治8年)7月6… 青山 禄郎(あおやま ろくろう、1875年(明治8年)7月6日 - 1940年(昭和15年)1月6日)は、日本の技術者、実業家。日本信号創業者。電信・無線・信号・電気事業の分野で幾つもの国家的重責を担った。日産自動車のダットサン(DAT)のAは青山に由来する。 1875年(明治8年)7月6日に岡崎で父・鈴山巌と母・智恵の間に生まれる。愛知県額田郡高等小学校卒業。静岡中学校を中退し、1891年(明治24年)9月に上京して東京郵便電信学校に転校した。1892年(明治25年)に青山家に養嗣子として入籍した。1893年(明治26年)に東京郵便電信学校を首席で卒業し、逓信技手に任ぜられ逓信省電務局に勤務した。
加藤 雪腸(かとう せっちょう、1875年(明治8年)1月2… 加藤 雪腸(かとう せっちょう、1875年(明治8年)1月2日 - 1932年(昭和7年)11月24日)は、静岡県出身の日本の俳人。別号に清白之舎、千里坊など。本名は孫平。 1875年(明治8年)静岡県榛原郡川崎町(現在の牧之原市)に生まれる。静岡師範学校(現在の静岡大学)在学中に俳句を始め、正岡子規に入門。高浜虚子、河東碧梧桐とともに、早くから子規門となった若手俳人として注目される。また静岡師範学校の仲間を中心に俳誌『芙蓉』を主宰、同誌を発行する「芙蓉会」は松島十湖、藤田紫亭、渥美渓月、久保田九品太らが集い、静岡における日本派の拠点となった。 静岡師範卒業後、教員となった後も俳句を続けたが、子規亡き後は次第に自由律俳句に傾倒。
松城 兵作(まつしろ ひょうさく、1874年(明治7年)4月… 松城 兵作(まつしろ ひょうさく、1874年(明治7年)4月26日 - 1942年(昭和17年)2月8日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 静岡県田方郡戸田村(現沼津市)出身。先代松城兵作の長男として生まれ、1892年(明治25年)1月、家督を相続する。 農業を営む傍ら、静岡県会議員、地方森林会議員、静岡県山林会常議員、同水産会、同漁業連合会各顧問を歴任した。財界では、松崎水力電気取締役、沼津回漕店取締役社長を務めた。1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から立憲政友会所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
奈倉 次郎(なぐら じろう、1872年5月〈明治5年4月〉-… 奈倉 次郎(なぐら じろう、1872年5月〈明治5年4月〉- 1947年11月20日)は、日本の英文学者、英語教育者、翻訳家。山口高等商業学校(現・山口大学)教授、立教学校(現・立教大学)英語教授。多くの編著があり、英語教科書や青年英文学叢書など広く読まれた。 1872年5月(明治5年4月)、静岡県伊豆生まれ。兄は静岡県人・奈倉新一郎。 伊豆学校で学んだ後、東京へ出て、東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)で修学する。英国人アーサー・ロイド(立教学院総理)、米国人ジエーキンボル両氏に就いて英語及び英文学を修める。 1890年(明治23年)、郷里に戻って伊豆学校の英語教師となる。その後、再び東京へ出て、1891年(明治24年)、私立錦城学校英語専攻科を卒業。
寺崎 乙治郎(てらさき おとじろう、1872年4月8日〈旧暦… 寺崎 乙治郎(てらさき おとじろう、1872年4月8日〈旧暦明治5年3月1日〉 - 1937年〈昭和12年〉1月22日)は、日本のジャーナリスト、政治家。雅号は斗南(となん)。 合資会社静岡新報社での勤務を経て、株式合資会社静岡新報社主筆、静岡市会議員、静岡県会議員、静岡県会議長(第24代)などを歴任した。 静岡県出身のジャーナリストである。静岡新報社で主筆を務めるなど、地域の論壇で重きをなしていた。その傍らで、静岡市会議員や静岡県会議員など政治家としても活動した。 1872年(旧暦明治5年3月1日)、浜松県城東郡、のちの静岡県小笠郡佐束村に該当する地域で生まれた。 1901年(明治34年)2月1日に静岡新報社に入社した。
仁田 大八郎(にった だいはちろう 、1871年11月19日… 仁田 大八郎(にった だいはちろう 、1871年11月19日(明治4年10月7日) - 1945年(昭和20年)3月1日)は、明治から昭和時代前期の静岡県田方郡で活躍した実業家、政治家。
吉岡 彌生(よしおか やよい、新字体 : 吉岡 弥生、187… 吉岡 彌生(よしおか やよい、新字体 : 吉岡 弥生、1871年4月29日〈明治4年3月10日〉 - 1959年〈昭和34年〉5月22日)は、日本の教育者、医師。位階は正五位。勲等は勲二等。東京女医学校(現・東京女子医科大学)創立者。東京女医学校校長、東京女子医科大学学頭、至誠会会長などを歴任した。旧姓は鷲山(わしやま)。 東京女子医科大学の前身である東京女医学校、東京女子医学専門学校を創設し、女性医師の養成や医学の教育・研究の振興に尽力した。津田梅子(津田塾大学創立者)、安井てつ(東京女子大学創立者)、鳩山春子(共立女子学園創立者)、跡見花蹊(跡見学園創立者)、下田歌子(実践女子学園創立者)、横井玉子(女子美術大学創立者)などと並ぶ、日本の女子教育の基盤づくりに活躍した女性教育者である。
加藤 定吉(かとう さだきち、1871年2月1日(明治3年1… 加藤 定吉(かとう さだきち、1871年2月1日(明治3年12月12日) - 1934年(昭和9年)4月14日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員(3期)。 のちの静岡県城東郡土方村(小笠郡土方村、城東村、大東町を経て現掛川市)に生まれる。土方嶺小学校、韮山の伊豆学校を経て、1891年(明治24年)慶應義塾大学部を卒業する。ドイツ人の経営するイリス商会、横浜貿易商会、兜町金万商会と転じた。日清戦争後の1895年(明治28年)に台湾に渡り、さらに義和団の乱が勃発すると中国に渡り、天津や北京で請負雑貨商を営み巨万の富を築いた。 1915年(大正4年)3月の第12回衆議院議員総選挙では静岡県郡部から出馬し当選。
尾崎 元次郎(おざき もとじろう、1870年10月5日(明治… 尾崎 元次郎(おざき もとじろう、1870年10月5日(明治3年9月11日)- 1945年(昭和20年)1月9日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、貴族院議員。 現在の静岡県静岡市出身。尾崎伊兵衛の長男。1890年(明治23年)静岡県立尋常中学校を卒業。 日清戦争・日露戦争に従軍し、陸軍歩兵大尉に昇る。退役後、茶業・林業の経営を行い、静岡銀行監査役、静岡地方森林会議員、静岡市奨兵会長、静岡県勧善会理事、静岡市消防組頭などを務める。 1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙に静岡県静岡市区から出馬し当選。1917年(大正6年)4月の第13回総選挙まで当選し連続3期を務める。政党は中正会、正交倶楽部に所属した。
鈴木 禎次(すずき ていじ、明治3年7月6日(1870年8月… 鈴木 禎次(すずき ていじ、明治3年7月6日(1870年8月2日) - 昭和16年(1941年)8月12日)は、日本の建築家。静岡県静岡市出身。夏目漱石の相婿(妻同士が姉妹)で、漱石の小説の中にも登場する。[要出典] 1870年(明治3年)駿河国静岡に旧旗本で大蔵官僚の鈴木利亨の長男として生まれる。1896年(明治29年)に帝国大学工科大学造家学科を卒業。翌年、三井銀行に入り建築係に勤務する。1898年(明治31年)夏目漱石の妻である夏目鏡子(旧姓:中根)の妹(時子)と結婚し、1903年(明治36年)、文部省の命を受けイギリスとフランスに留学。1906年(明治39年)名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)の建築科教授・同科長となり赴任。