杉山 新樹(すぎやま しんじゅ、1898年4月23日 - 1… 杉山 新樹(すぎやま しんじゅ、1898年4月23日 - 1974年2月16日)は、日本の画家、愛知学芸大学(現・愛知教育大学)教授。教育者として西三河美術界に功績を残した。 愛知県額田郡矢作町(現・岡崎市矢作町字西河原)に生まれる。愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)在学中、留年した尾崎士郎と同級になった。1916年(大正5年)、同校卒業。 1923年(大正12年)、東京美術学校卒業。岡崎に戻り、1925年(大正14年)に近藤孝太郎、山本鍬太郎らとともに「我々の会」を作り、洋画の展覧会を開き新人の育成に努める。1944年(昭和19年)まで春台会に所属した。同年、旺元会に出品。また、岡崎市立高等女学校(現・愛知県立岡崎北高等学校)や愛知県岡崎師範学校で教鞭をとった。
もっと読む
塚本 善隆(つかもと ぜんりゅう、1898年2月8日 - 1… 塚本 善隆(つかもと ぜんりゅう、1898年2月8日 - 1980年1月30日)は、浄土宗僧侶・仏教史学者。中国仏教研究の世界的権威。京都大学名誉教授。元日本学士院会員。 1898年、愛知県海部郡七宝村(現・あま市)で生まれた。15歳の時に仏門に入った。佛教専門学校(現・佛教大学)で学び、1918年に卒業。その後は東京に出て宗教大学(現・大正大学)研究科に進み、1920年に卒業。博士課程は京都帝国大学文学部哲学科インド哲学専科で修め、仏教学を望月信亨、矢吹慶輝、椎尾弁匡に師事。1923年に修了し、その後は京都帝国大学文学部史学科東洋史専科で学んだ。東洋史学は桑原隲蔵、羽田亨に師事し、仏教学を望月信亨、矢吹慶輝、椎尾弁匡の下で学び、仏教学・史学を併修した独自の学風であった。
もっと読む
横田 喜三郎(よこた きさぶろう、1896年(明治29年)8… 横田 喜三郎(よこた きさぶろう、1896年(明治29年)8月6日 - 1993年(平成5年)2月17日)は、日本の法学者、裁判官。専門は国際法。学位は、法学博士(東京帝国大学・1949年)(学位論文「国際裁判の本質」)。東京大学名誉教授。第3代最高裁判所長官。栄典は従二位・勲一等・文化勲章・文化功労者・紺綬褒章・江南市名誉市民など。 かつてはマルクス主義の読書会(ベルリン社会科学研究会)に参加するなど親社会主義的な法学者として知られ、軍部に睨まれたこともあった。1931年(昭和6年)の満洲事変に際し、自衛権範囲の逸脱だと軍部を批判した。1930年から1931年にかけて、『国家学会雑誌』上でケルゼンの純粋法学をめぐり、擁護する立場から美濃部達吉と論争を行う。
もっと読む
小野 渉(おの わたる、1896年 - 1989年)は、愛知… 小野 渉(おの わたる、1896年 - 1989年)は、愛知県出身の郷土史家。 愛知県額田郡坂崎村(現在の額田郡幸田町久保田)出身。愛知県立第二中学校(現在の愛知県立岡崎高等学校)卒業後、1915年(大正4年)から1946年(昭和21年)まで地元で小学校の教師を務め、教務の傍らで郷土史の研究にいそしむ。退職後には幸田町文化財保護委員などを務め、また古文書クラブなどでも活動し、青年期から75年にもわたって社会教育活動や文化財保護活動に取り組む。1989年(平成元年)死去。孫の小野伸之は2017年(平成29年)から幸田町の教育長を務める。
もっと読む
加藤 宗厚(かとう しゅうこう、1895年7月18日 - 1… 加藤 宗厚(かとう しゅうこう、1895年7月18日 - 1981年9月22日)は、日本の図書館司書、図書館学者。国立図書館館長、駒澤大学教授を歴任。日本十進分類法の著名な研究者。 終戦後の「図書館法」草案と『学校図書館の手引』作成にも尽力。「図書館奉仕」を理念の根底に据えることで日本の公共図書館サービスの向上に貢献。 愛知県稲沢市生まれ。1908年に得度。曹洞宗第四中学林(多々良高校の前進)、1922年に曹洞宗大学(現駒澤大学)卒業。1925年文部省図書館講習所修了。同年、帝国図書館勤務。1930年、帝国図書館司書。1940年、富山県立図書館長。1944年、東京都立深川図書館長。1947年、文部省嘱託。
もっと読む
谷川 徹三(たにかわ てつぞう、1895年〈明治28年〉5月… 谷川 徹三(たにかわ てつぞう、1895年〈明治28年〉5月26日 - 1989年〈平成元年〉9月27日)は、日本の哲学者、翻訳家、評論家。法政大学総長などを務めた。日本芸術院会員。常滑市名誉市民。 ジンメル、ゲーテの翻訳や、文芸、美術、宗教、思想などの幅広い評論活動を行った。 1895年5月26日、煙草の元売りの店を営む谷川米太郎の三男として愛知県知多郡常滑町(現:常滑市保示町)に生まれた。旧制愛知県立第五中学校(現:愛知県立瑞陵高等学校)卒業。1913年、旧制第一高等学校に入学。在学中は真宗大谷派僧侶の近角常観が主宰していた求道学舎に寄宿する。西田幾多郎に影響され、1918年に京都帝国大学文学部哲学科へ入学し、西田に師事する。
もっと読む
友松 円諦(ともまつ えんたい、1895年〈明治28年〉4月… 友松 円諦(ともまつ えんたい、1895年〈明治28年〉4月1日 - 1973年〈昭和48年〉11月16日)は、日本の宗教家、仏教学者である。幼名は春太郎。全日本仏教会創立者。 愛知県名古屋市生まれ。 浄土宗の僧侶となったが、既存の仏教の在り方に疑念を抱いた。浄土宗の僧侶のまま宗教大学へ入り、卒業してさらに慶應義塾大学予科を経て、慶應義塾大学文学部史学科でサンスクリット(梵語)を学び、大正13年に卒業。 独・仏に留学し、帰国後に慶應義塾大学予科講師・教授、慶應義塾大学仏教青年会顧問、日本放送協会ラジオ講師、大正大学講師等を歴任。西洋哲学に裏打ちされた仏典研究をはじめる。また、高島米峰の新仏教運動に影響されて仏教復興運動(真理運動)を開始し、ラジオや機関誌で思想を広めた。
もっと読む
石田 茂作(いしだ もさく、1894年11月10日 - 19… 石田 茂作(いしだ もさく、1894年11月10日 - 1977年8月10日)は、日本の仏教考古学者。文学博士(東京帝国大学・論文博士・1941年)(学位論文「飛鳥時代寺院址の研究」)。元奈良国立博物館長。文化功労者。従三位勲二等旭日重光章。岡崎市名誉市民。 愛知県碧海郡矢作町(現・岡崎市矢作町)生まれ。本郷村外十ヶ町村組合立江西高等小学校(現・岡崎市立矢作中学校)から愛知県立第二中学校(愛知県立岡崎高等学校)へ進む。1918年、東京高等師範学校(現・筑波大学)本科国語漢文部卒業。愛知第二師範学校(現・愛知教育大学)勤務、1923年東京高等師範学校専攻科修身教育部卒業などを経て、1925年1月から鑑査官補として東京帝室博物館に勤務、鑑査官・学芸部長へと昇進した。
もっと読む
加藤 仁平(かとう にへい、1894年11月7日 - 199… 加藤 仁平(かとう にへい、1894年11月7日 - 1993年4月12日)は、日本の教育史学者。 愛知県宝飯郡豊川町(現豊川市)出身。東京高等師範学校卒。1944年「伊藤仁斎の学問と教育 古義堂即ち堀川塾の教育史的研究」で、文学博士(慶應義塾大学)の学位を取得。東京高等師範学校教授、東京文理科大学教授を兼ねるが、1947年公職追放。のち関東学院大学教授となる。1978年退職。 東京高師で嘉納治五郎に学ぶ。江戸時代の教育思想が専門だが、二宮尊徳の報徳思想を広めることに努め、これが戦時中の戦争イデオロギーとなったため戦後公職追放を受けた。
もっと読む
那須 政隆(なす せいりゅう、1894年(明治27年)8月1… 那須 政隆(なす せいりゅう、1894年(明治27年)8月15日 - 1987年(昭和62年)5月31日)は、日本の仏教学者。専門は密教。大正大学学長、同大名誉教授、智積院化主(真言宗智山派管長)及び真言宗長者。愛知県龍照院住職。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。 この項目は、宗教家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 宗教/ウィキプロジェクト 宗教)。
もっと読む
堀田 一雄(ほった かずお、1894年4月10日 - 197… 堀田 一雄(ほった かずお、1894年4月10日 - 1976年2月2日)は日本の生化学者、医学博士、大学教授。名古屋大学名誉教授、一宮女子短期大学名誉学長。 愛知県名古屋市出身。愛知県立医学専門学校(現・名古屋大学)、東北大学医科大学卒業。生化学を専攻し、愛知医科大学・名古屋医科大学・名古屋大学教授、和歌山県立医科大学教授を歴任した。1976年2月2日、脳血栓のため愛知県名古屋市中京病院で死去。81歳。告別式は愛知県医師会講堂で行われた。 名古屋日独協会の活動に尽力。1964年から1976年に亡くなるまで協会長として活動した。晩年にはドイツ連邦共和国功労勲章(大功労十字章)を受賞している。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
もっと読む
原 随園(はら ずいえん、旧字体: 原 隨園、1894年〈明… 原 随園(はら ずいえん、旧字体: 原 隨園、1894年〈明治27年〉3月19日 - 1984年〈昭和59年〉3月25日)は、日本の西洋史学者。 愛知県名古屋市出身。第八高等学校卒、東京帝国大学卒。姫路高等学校 (旧制)教授、1924年東北帝国大学助教授、1933年京都帝国大学文学部西洋史教授。同年「テセウス伝説考」で京大文学博士。京都大学図書館長、文学部長。1957年定年退官、名誉教授、立命館大学教授。1964年退職。専門は古代ギリシア史。
もっと読む
太田 功平(おおた こうへい、1893年9月2日 - 193… 太田 功平(おおた こうへい、1893年9月2日 - 1930年12月4日)は、日本の農学者、教育者。菜種の新品種「六ツ美種」の開発者として知られる。 愛知県碧海郡糟海村大字土井(現・岡崎市土井町)に生まれる。中井村立中井尋常高等小学校を卒業。しばらく村役場書記や小学校準教員をしていたが、愛知県第二師範学校(愛知教育大学の母体の一つ)へ進学する。同校卒業後10数年は、棚尾・依佐美・富士松・桜井等の尋常小学校の訓導として教鞭をとった。謄写印刷のパンフレット式の教科書を作り、農業関係の科目を熱心に教えたという。 1927年(昭和2年)、六ツ美村立農業補修学校の長谷川一男校長の招きにより、同校の教頭に就任。
もっと読む
鷹部屋 福平(たかべや ふくへい、1893年(明治26年)3… 鷹部屋 福平(たかべや ふくへい、1893年(明治26年)3月9日 - 1975年(昭和50年)4月24日)は、日本の工学者、アイヌ文化研究者。著書には橋梁や構造力学など力学関係のものが多い。北海道帝国大学、九州大学、防衛大学校などで教授を務めた。 愛知県額田郡岡崎町大字康生(現・岡崎市)に生まれる。父は岡崎藩士で画家の鷹部屋荘一郎。1899年(明治32年)4月4日、岡崎町立連尺尋常小学校(現・岡崎市立連尺小学校)に入学。1903年(明治36年)、額田郡岡崎高等小学校(現・岡崎市立梅園小学校)に入学。愛知県立第二中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)に入学すると、毎日のように暗くなるまでテニスの練習を行ったという。
もっと読む
石川 謙(いしかわ けん、1891年4月29日 - 1969… 石川 謙(いしかわ けん、1891年4月29日 - 1969年7月12日)は、日本の教育史学者、お茶の水女子大学名誉教授。岡崎女子短期大学初代学長。教育学者の石川松太郎は息子である。日本近世教育史、特に石門心学を研究した。 愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市花園町屋敷)に中川仙太郎の次男として生まれる。1895年、4歳のときに父が死去し、碧海郡依佐美村(現・刈谷市小垣江町)で農業を営む石川松吉の養嗣子となる。1903年、小垣江高等小学校を卒業。1912年、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験教育科に合格し、1916年(大正15年)には東京高等師範学校の研究科に入学。1920年に渡米し、翌年スタンフォード大学に入学し、カバリー教授の指導を受ける。
もっと読む
佐藤 泰舜(さとう たいしゅん、1890年12月1日 - 1… 佐藤 泰舜(さとう たいしゅん、1890年12月1日 - 1975年2月28日)は、日本の仏教学者。駒澤大学教授、東洋大学教授、京城帝国大学教授など歴任。永平寺74世貫首、曹洞宗管長。道号は博裔。 愛知県新城市生まれ。1903年得度。1915年曹洞宗大学林(現駒澤大学)卒業。1919年曹洞宗大学図書館主事。1920年東京帝国大学文学部選科に入学。1923年東京帝大文学部印度哲学科を卒業。同校大学院に入学。研究題目「支那仏教思想の発達」。奈良東大寺に留学。1931年欧州留学。帰国後、駒澤大学教授、東洋大学教授に就任。1934年京城帝国大学助教授を経て教授。終戦により曹洞宗京城別院・曹渓寺の引継ぎなど、戦後処理をして引き揚げた。
もっと読む
栗田 元次(くりた もとつぐ、1890年〈明治23年〉11月… 栗田 元次(くりた もとつぐ、1890年〈明治23年〉11月3日 - 1955年〈昭和30年〉12月1日)は、日本の国史学者。名古屋大学名誉教授。旧制第八高等学校校長。専門は日本近世史。 愛知県愛知郡田代村(現・名古屋市千種区)出身。旧制明倫中(現・愛知県立明和高等学校)、旧制八高を経て、1914年に東京帝国大学文学部国史学科卒。 東京帝大史料編纂官補となり、「大日本史料」の編纂に従事。八高教授、広島高等師範学校教授、1929年に広島文理科大学教授、1946年に第八高等学校校長、1949年に名古屋大学教授。1953年に中日文化賞を受賞。 1955年、在官のまま病死。法名は顕学院釈元晃。桃巌寺に葬られた。
もっと読む
小酒井 不木(こさかい ふぼく、1890年10月8日 - 1… 小酒井 不木(こさかい ふぼく、1890年10月8日 - 1929年4月1日)は、日本の医学者・随筆家・翻訳家・推理作家・犯罪研究家。別名は鳥井零水。 医学者としては生理学・血清学の研究で業績を上げた。また、1921年(大正10年)から8年間に渡って探偵小説などの文筆活動を行った。江戸川乱歩のデビュー作である『二銭銅貨』は、不木が推薦したことで世に出た作品である。医師で順天堂大学名誉教授の小酒井望は長男。 1890年(明治23年)10月8日、愛知県海東郡新蟹江村(現・海部郡蟹江町大字蟹江新田)の地主の家の長男として生まれた。本名は小酒井光次(こさかいみつじ)。父親は小酒井半兵衛であり、村長や郡会議員も務めた人物である。
もっと読む
杉浦 兼松(すぎうら かねまつ、1890年(明治23年)6月… 杉浦 兼松(すぎうら かねまつ、1890年(明治23年)6月5日 - 1979年(昭和54年)10月21日)は、日本の生化学者である。 アメリカ合衆国のスローン・ケタリングがんセンターで癌の化学療法の分野で働いた。 愛知県津島市禰宜町の染物屋に生まれ、父から剣道を学んだ。父を癌で失い、徒弟奉公にでるが、1903年(明治36年)アメリカの鉄道王、エドワード・ヘンリー・ハリマンが、すでに渡米していた兼松の兄を通訳にともなって来日し、武道の得意な少年を渡米させることになり、最年少のメンバーとして渡米した。アメリカで高校に通い、ハリマンも癌で没すると、未亡人が寄付した資金で設立された研究所でアルバイトしながらコロンビア大学で生化学を学んだ。
もっと読む
早川 孝太郎(はやかわ こうたろう、1889年(明治22年)… 早川 孝太郎(はやかわ こうたろう、1889年(明治22年)12月20日 - 1956年(昭和31年)12月23日)は、日本の民俗学者・画家。 愛知県南設楽郡長篠村(現・新城市)出身。画家を志して松岡映丘に師事、映丘の兄柳田國男を知り、民俗学者となる。愛知県奥三河の花祭と呼ばれる神楽を調査し、1930年『花祭』を刊行。農山村民俗の実地調査を行った。
もっと読む
篠田 淳三(しのだ じゅんぞう、1889年2月21日 - 1… 篠田 淳三(しのだ じゅんぞう、1889年2月21日 - 1975年6月9日)は、日本の経営者、薬学博士。第一製薬社長を務めた。 愛知県海部郡蟹江町出身。第八高等学校を経て、1914年に東京帝国大学医学部薬学科を卒業し、1922年にはイギリスのマンチェスター大学に留学。 東京薬学専門学校、徳島高等工業学校で教授を務め、1934年に第一製薬に入社し、1935年に取締役に就任し、1938年に常務を経て、1947年には社長に就任。1963年に会長を経て、1966年には相談役に就任した。 1960年5月に藍綬褒章を受章し、1964年に勲三等瑞宝章を受章。 1975年6月9日、心不全のために死去。86歳没。
もっと読む
石田 利作(いしだ りさく、1886年(明治19年)6月6日… 石田 利作(いしだ りさく、1886年(明治19年)6月6日 - 1967年(昭和42年)3月6日)は、日本の教育者、郷土史家、行政官。『岡崎市戦災復興誌』(1954年)の責任編纂者として岡崎の郷土史に多大な功績を残した。 愛知県碧海郡矢作村(現・岡崎市)に生まれる。1907年(明治40年)3月、愛知第二師範学校(現・愛知教育大学)卒業。同年4月、碧海郡刈谷町の刈谷第一尋常小学校(現・刈谷市立亀城小学校)に赴任。いくつかの小学校勤務を経たのち、大正期に南設楽郡と知多郡の視学を歴任。 1923年(大正12年)、岡崎市投尋常小学校(現・岡崎市立根石小学校)長に就任。1924年(大正13年)、岡崎市梅園尋常高等小学校(現・岡崎市立梅園小学校)長に就任。
もっと読む
金森 徳次郎(かなもり とくじろう、1886年〈明治19年〉… 金森 徳次郎(かなもり とくじろう、1886年〈明治19年〉3月17日 - 1959年〈昭和34年〉6月16日)は、日本の大蔵・法制官僚、政治家、憲法学者。岡田内閣の法制局長官、第1次吉田内閣の憲法担当国務大臣。初代国立国会図書館長も務めた。 愛知県名古屋市生まれ。愛知一中、旧制一高を経て、1912年(明治45年)東京帝国大学法科大学を卒業。文官高等試験行政科試験に合格し大蔵省に入省、税務監督局属兼大蔵属。 1914年(大正3年)法制局に移り、法制局参事官、第一部長を歴任。この間、大学で法学、憲法学を講じ、『帝国憲法要説』等を著わした。1934年(昭和9年)岡田啓介内閣の法制局長官に就任するが、在任中に法制局長官就任以前の著作『帝国憲法要説』が天皇機関説的であるという理由で右翼勢力から攻撃を受け、1936年(昭和11年)辞任に追い込まれた。
もっと読む
宮川 米次(みやかわ よねじ、1885年(明治18年)2月4… 宮川 米次(みやかわ よねじ、1885年(明治18年)2月4日 - 1959年(昭和34年)12月26日)は、日本の医学者、病理学者、細菌学者。東京帝国大学伝染病研究所所長を務め、伝染病・感染症の拡大防止、撲滅などに寄与した。号は「豊山」。 愛知県渥美郡豊岡村(現:豊橋市)で、今泉七作の四男として生まれる。愛知県第四中学校卒業後、福江町(現:田原市)の資産家・宮川家の養子となる。 その後、第六高等学校を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学医科大学卒業。1917年(大正6年)2月、医学博士の学位を取得。 1934年(昭和9年)から1940年(昭和15年)には、東京帝国大学伝染病研究所所長を務める。
もっと読む
富田 満(とみた みつる、1883年11月5日 - 1961… 富田 満(とみた みつる、1883年11月5日 - 1961年1月15日)は、日本の神学者、牧師(日本基督教団芝教会)。教会合同、エキュメニカル運動の指導者。日本基督教会(現日本キリスト教会)大会議長、日本基督教団統理者として天皇に賜謁。神の国運動委員長、東京神学大学、明治学院大学理事長、金城女子専門学校理事長、日本基督教連盟議長、日本キリスト教協議会の幹部、など要職を歴任。 愛知県東春日井郡印場村(春日井市)の農家に三男として生まれる。5歳の頃から教会学校に通った。16歳の時南長老ミッションのR・E・マカルピン宣教師より洗礼を受ける。 1904年、明治学院神学部に入学。日露戦争に従軍。1907年、神戸神学校に転校し、1909年卒業。
もっと読む
豊田 珍比古(とよだ うずひこ、1882年9月5日 - 19… 豊田 珍比古(とよだ うずひこ、1882年9月5日 - 1965年1月20日)は、愛知県八名郡吉川村(現・新城市吉川)出身の郷土史家。 1882年(明治15年)9月5日に愛知県八名郡吉川村(現・新城市吉川)に生まれた。父親は豊田伊之吉。出生名は豊田伊三美(いさみ)であり、のちに珍彦(うずひこ)と、晩年には珍比古(うずひこ)と改称した。1909年(明治42年)に豊橋市に転居し、船町で薬種商を営んだ。本業と並行して東三河地方の郷土史研究も行い、1921年(大正10年)には豊橋郷土史友会を結成して主宰の立場となった。『豊橋市史』の編纂委員も務め、1954年(昭和29年)には豊橋市から『豊橋市制50年史』の編纂委員長を委嘱された。
もっと読む
藤浪 剛一(ふじなみ ごういち、1880年6月7日 - 19… 藤浪 剛一(ふじなみ ごういち、1880年6月7日 - 1942年11月29日)は、日本の医学者、放射線科医。 1880年、愛知県名古屋市生まれ。獨逸学協会学校(現∶獨協中学校・高等学校)卒、岡山医学専門学校卒業後、同校の病理学教室に入る。1908年よりウィーン大学に留学し、レントゲン学を学ぶ。1912年に帰国して順天堂医院レントゲン科長となり、1920年からは慶應義塾大学の教授を務めた。 レントゲン学の第一人者で温泉学・医学史の分野においても数多くの業績を残している。 慶應義塾大学医学部放射線科学教室初代教授である。 剛一は、偉人や著名人の墓を訪ね歩く掃苔活動を趣味とし、同好団体の東京名墓顕彰会を設立したほどであった。
もっと読む
神戸 正雄(かんべ まさお、旧字体:神戶 正雄、1877年(… 神戸 正雄(かんべ まさお、旧字体:神戶 正雄、1877年(明治10年)4月19日 - 1959年(昭和34年)10月16日)は、日本の法学者・経済学者・政治家(京都市長で、公選第一号の市長)。文化功労者。愛知県一宮市出身。 日本における消費税提唱の先駆者として知られる。 1877年(明治10年)、愛知県一宮に生まれる。旧制愛知一中(現:愛知県立旭丘高等学校)、三高、一高を経て、1900年東京帝国大学法科大学政治科卒業、同大学大学院(財政学専攻)卒業。 1902年京都帝国大学法科大学助教授に就任。1904年(明治37年)ドイツ・イギリスに留学する。海外渡航が極めて困難な時代にあって、視察旅行とは違い実際に現地に居住し学究できたことは、神戸の人格形成に大きな影響を与えたと言われている。
もっと読む
岡本 要八郎(おかもと ようはちろう、1876年1月13日 … 岡本 要八郎(おかもと ようはちろう、1876年1月13日 - 1960年3月28日)は、愛知県中島郡(現・一宮市)出身の地質学者。初めて台湾の鉱物を採集した事で知られる。北投善光寺に彼の頌徳碑が現存する。 著書に『台湾鉱物調查報告』(1911年)、『台湾産北投石調查報告文』(1916年)、『福岡県鉱物誌』(1944年)などがある。 子供のときに受けた理科の授業に影響を受け鉱物に興味を持つようになる。 1899年4月に台湾へ渡航し、台湾総督府国語学校の教諭として現地台湾人の教育に当たる。翌年、角板山への鉱物採集旅行後、台湾の鉱物に関する研究を開始する。明治38年(1905年)北投温泉の公衆浴場瀧乃湯にて入浴をした帰りに北投石を発見する。
もっと読む
新見 吉治(しんみ きちじ、1874年10月9日 - 197… 新見 吉治(しんみ きちじ、1874年10月9日 - 1974年11月4日)は、日本の歴史学・教育学者。 愛知県名古屋市生まれ。実家は旧尾張藩の藩主の鉄砲を管理する御手筒同心の家柄だった。旧制第一高等学校から東京帝国大学(現 東京大学)文科大学史学科卒業。1903年に広島高等師範学校に赴任し、日本最初の「歴史教授法」を開講した。1908年にライプツィヒ大学に留学しカール・ランプレヒトに師事、1912年帰国。1916年“Die Geschichte der Buke- Herrschaft in Japan”(邦訳『日本における武家政治史』)により文学博士を取得。 1929年広島文理科大学教授、史学科初代主任教授、国史学・西洋史学を専攻。
もっと読む
稲田 龍吉(いなだ りょうきち、1874年(明治7年)3月1… 稲田 龍吉(いなだ りょうきち、1874年(明治7年)3月18日 - 1950年(昭和25年)2月27日)は、愛知県名古屋市出身の細菌学者。九州帝国大学医学部第一内科初代教授、恩賜財団母子愛育会愛育研究所(現・日本総合愛育研究所)初代所長を歴任。東京大学名誉教授、医学者。 洋学校を経て上京し、共立学校などの予備校に在籍した後、第一高等中学校を経て1895年(明治28年)帝国大学医科大学(現 東京大学医学部)に入学、1900年(明治33年)に首席で卒業し、青山胤通教授の内科教室に入局。 1902年(明治35年)から文部省海外留学生としてドイツに公費留学。1905年(明治38年)京都帝国大学福岡医科大学内科学第一講座初代教授に着任(現九州大学医学部第一内科(病態修復内科))。
もっと読む
3代目 牧野 文斎(さんだいめ まきの ぶんさい、1868年… 3代目 牧野 文斎(さんだいめ まきの ぶんさい、1868年7月14日(慶応4年5月25日) - 1933年(昭和8年)6月25日)は、三河南設楽郡東郷村八束穂(現・愛知県新城市八束穂)出身の医師・実業家・郷土史家。「牧野文斎」は襲名制であり、本稿では3代目について記述する。 牧野家は三河吉田藩の藩医だったが、祖父の牧野竜庵(初代牧野文斎)は幕末にその職を辞した。宝飯郡一宮村江島(現・豊川市一宮町)から南設楽郡東郷村八束穂(現・新城市八束穂、やつかほ)に移り住み、信玄病院を開設して初代院長となった。当初は主屋の一部を診療所として使用していたが、やがて2階建の建物を当地に移築して病院とした。父の牧野謙作(2代目牧野文斎)もこの地で医業に励み、信玄病院の2代目院長となった。
もっと読む
志賀 重昂(しが しげたか、文久3年11月15日(1863年… 志賀 重昂(しが しげたか、文久3年11月15日(1863年12月25日) - 昭和2年(1927年)4月6日)は、日本の地理学者、評論家、教育者、衆議院議員。誕生日は9月15日(1863年10月27日)ともいう。矧川(しんせん)・矧川漁長を号した。
もっと読む
三輪 徳寛(みわ よしひろ、1859年9月9日(安政6年8月… 三輪 徳寛(みわ よしひろ、1859年9月9日(安政6年8月13日) - 1933年(昭和8年)2月19日)は、日本の医師・医学者。医学博士。千葉医科大学(現千葉大学医学部)初代学長。第15回日本外科学会会長。尾張国(現愛知県)出身。 三輪徳寛の故郷尾張国海西郡早尾村(現・愛知県愛西市早尾町)は木曽川河口の立田輪中にあり、徳寛が生まれた安政年間は戸数70戸弱の集落だった。三輪家は早尾村で代々医術を生業とし、祖父三輪景之進は産科を、父三輪徳太郎(字大成)は眼科医を営んでいた。父徳太郎は京都にて眼科医として当時名高かった中目道純に学び、帰郷後の1851年嘉永4年に早尾で開業し評判を得、三輪家は裕福な家であった。
もっと読む
下山 順一郎(しもやま じゅんいちろう 嘉永6年2月18日(… 下山 順一郎(しもやま じゅんいちろう 嘉永6年2月18日(1853年3月27日) - 明治45年(1912年)2月12日)は、明治時代の日本の薬学者。薬学博士第1号であり、日本薬剤師会第2代会長、私立薬学校(現東京薬科大学)初代校長。 嘉永6年2月18日(1853年3月27日)、尾張国犬山藩士、藩校「敬道館」助教下山健治・よしの長男として生まれる。諱忠興。「敬道館」で漢学と本草学を修める。明治3年(1870年)10月犬山藩の貢進生に選ばれ神田一ッ橋の大学南校に入学。獨二之部(獨逸語科)に学び、明治6年(1873年)9月第一大学区医学校(現:東京大学)製薬学科に進学。明治11年(1879年)3月第1回生として首席で卒業し、翌年製薬士の学位を受け、その後、陸軍薬剤官と大学助教授を兼任する。
もっと読む
石川 鴻斎(いしかわ こうさい、1833年 - 1918年9… 石川 鴻斎(いしかわ こうさい、1833年 - 1918年9月13日)は、日本の詩文家、漢学者、画家。 本名は英。字は君華。通称は英助。芝山外史、雲泥居士などの号をもつ。 1833年5月20日(天保4年4月1日)、三河国吉田(豊橋)花園町の紙商大野屋石川平五郎の長男として生まれる。数学を彦坂菊作、漢学を西岡翠園、太田晴軒、曽我耐軒らに学んだ。 神奈川県傭史になったが、1877年(明治10年)東京に転居。同じ三河出身の和泉屋市兵衛が経営する書店に勤め、編集に携わる。また、1887年(明治20年)芝増上寺の浄土宗学校の開校に際し、漢学の教師に就任。 同年、清国の全権公使、副使、随員らが宿所として増上寺に滞在した際に、筆談をもって会談に加わり、後に贈答した詩中文より十数編を選んで1878年、東京文昇堂より詩文集『芝山一笑』を刊行。
もっと読む
村上 忠順(むらかみ ただまさ、1812年5月11日〈文化9… 村上 忠順(むらかみ ただまさ、1812年5月11日〈文化9年4月1日〉 - 1884年〈明治17年〉11月22日)は、三河国碧海郡堤村(現・愛知県豊田市高岡町新馬場)出身の国学者・刈谷藩御典医。忠順の蔵書は「村上文庫」として刈谷市中央図書館が所蔵している。幼名は賢次、字は承郷、号は蓬盧。 忠順は医業を「生活の方便」と割り切っており、国学の奥義を極めることに心血を注いだ。三河地方の国学者としては吉田藩の羽田野敬雄と並び称され、「東の羽田野、西の村上」として知られた。 祖父は村上忠直、父は村上忠幹(ただもと)、母は美志子。文化9年(1812年)4月1日、三河国碧海郡堤村(現・愛知県豊田市高岡町)の新馬場(しまんば)に生まれた(次男)。
もっと読む
山田 千疇(やまだ ちうね、1812年 - 1876年)は、… 山田 千疇(やまだ ちうね、1812年 - 1876年)は、尾張国中島郡中野村(のちの稲沢市)出身の国学者。 尾張国中島郡中野村において、松平数馬に仕えた数右衛門の子金次郎として出生。歌は木村千斎に師事する。また、国学は植松茂岳に学ぶ。尾張藩に仕え、明倫堂の国学助教見習および神祇改役見習を歴任する。廃藩置県により、失職したのち教導職へと転じ、私塾を開いた。旧蔵書および自筆稿本を中心に260点が名古屋市蓬左文庫に寄託されている。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
もっと読む
鈴木 春山(すずき しゅんさん、享和元年(1801年) - … 鈴木 春山(すずき しゅんさん、享和元年(1801年) - 弘化3年閏5月10日(1846年6月3日))は、江戸時代後期の兵学者。三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩医。日本で初めて西洋兵学書の翻訳を行った人物として知られる。 初名は春三、俊次郎、春次郎。通称は春山、諱は強、字を自彊。号は童浦。 田原藩藩医鈴木玄益(愚伯)と側女園の間に生まれる。幼年期を園の里方、渥美郡浦村(ほぼ現在の田原市浦町)の外祖父・八木覚左衛門宅で過ごし、後に塩谷宕陰から「疎快高率にして小節に拘はらず」と称された春山の自由で形式ばらない性格は、半農半漁で「野性に富」む浦村での環境が影響しているという。容貌は醜く、そのことで近隣の子らにからかわれたが、そうしたことも意に介さなかったという。
もっと読む
羽田野 敬雄(はだの/はたの たかお、1798年3月30日〈… 羽田野 敬雄(はだの/はたの たかお、1798年3月30日〈寛政10年2月14日〉 - 1882年〈明治15年〉6月1日)は、三河国宝飯郡西方村(現・愛知県豊川市御津町西方)出身の国学者・神職。旧姓は山本。通称として常陸(ひたち)や栄木(さかき)などがある。 平田篤胤門下の皇学者であり、なおかつ神職だった。明治政府の神仏分離令によって生じた廃仏毀釈運動の推進者であり、神職の地位向上に貢献した。近代的図書館活動の先駆者でもあり、自らの蔵書を元に設立した「羽田八幡宮文庫」を一般市民に広く公開した。 寛政10年(1798年)2月14日、三河国宝飯郡西方村(現・愛知県豊川市御津町西方)の上層農家の四男として生まれた。
もっと読む
疇地 宏(あぜち ひろし)は、大阪大学大学院理学研究科教授。… 疇地 宏(あぜち ひろし)は、大阪大学大学院理学研究科教授。工学博士。 専門はレーザー核融合で、#直接照射方式のレーザー核融合実験、それに関連する流体力学的不安定性物理現象の基礎実験 を主な研究テーマとしている。
もっと読む
飯尾 隆義(いいお たかよし)は、日本の生物物理学者。名古屋… 飯尾 隆義(いいお たかよし)は、日本の生物物理学者。名古屋大学大学院理学研究科物理学専攻教授。
もっと読む
上野 裕明(うえの ひろあき)は、日本の実業家、技術者、理学… 上野 裕明(うえの ひろあき)は、日本の実業家、技術者、理学博士。 田辺三菱製薬代表取締役社長を経て、日本製薬工業協会会長、日本製薬団体連合会副会長。
もっと読む
津田 応助 は、愛知県の郷土史家、教育者、皇漢学者。應助とも… 津田 応助 は、愛知県の郷土史家、教育者、皇漢学者。應助とも表記される。号は象山(しょうざん)。愛知県東春日井郡小牧町大字小牧字山東(現在の小牧市小牧5丁目)に生まれる。愛知県を代表する在野の郷土史家であり、また私塾象山義塾の設立者としても知られる。
もっと読む
徳田 恵一(とくだ けいいち)は、日本の情報工学者。名古屋工… 徳田 恵一(とくだ けいいち)は、日本の情報工学者。名古屋工業大学教授、名古屋工業大学国際音声技術研究所代表。音声合成開発などを行い、音声情報学研究功績で紫綬褒章受章。文部科学大臣表彰科学技術賞等受賞。 愛知県立明和高等学校卒業後、1984年名古屋工業大学工学部電子工学科卒業。1989年東京工業大学大学院総合理工学研究科物理情報工学専攻博士後期課程修了、工学博士、東京工業大学工学部電気電子工学科助手。1996年名古屋工業大学知能情報システム学科助教授。2001年カーネギーメロン大学言語技術研究所客員研究員。2004年名古屋工業大学大学院情報工学専攻教授。エジンバラ大学名誉教授、Google(London)客員研究員も務め、名古屋工業大発ベンチャー株式会社テクノスピーチ創業者で、同社代表取締役CEO兼CTOでもある。
もっと読む
津金澤 督雄(つがねざわ おさお)は、愛知県出身の医学者。鹿… 津金澤 督雄(つがねざわ おさお)は、愛知県出身の医学者。鹿児島大学名誉教授。 父が数学教師の家庭に生まれる。父の影響か愛知県立津島高等学校時代は理数系に強く、常時学年のトップであった。 愛知県立津島高等学校を1952年(昭和27年)卒業。 千葉大学助手、石川県金沢市の金沢医科大学で6年余を過ごした後、鹿児島大学へ1980年9月初頭に鹿児島大学の教官として移り、以来18年間鹿児島大学で教鞭をとる。 1966年 千葉大学 医学博士 論文の題は 「摂取食物の形態学的研究 : 摂取魚類の種属鑑別 」。 鹿児島大学医学部教授を1999年3月31日(平成11年)定年で退職、同年名誉教授。手先が器用で法医学の分野に進み、人体解剖の「国手」と言われた。
もっと読む
児矢野 マリ(こやの まり)は、日本の法学者。専門は国際法。… 児矢野 マリ(こやの まり)は、日本の法学者。専門は国際法。北海道大学大学院法学研究科教授。安達峰一郎記念賞受賞。 愛知県生まれ。1981年愛知県立岡崎高等学校卒業。1985年愛知大学法経学部法律学科卒業。1988年東京大学法学部第2類卒業。1989年東京大学法学部第3類卒業、 東京大学法学部助手。1991年ケンブリッジ大学大学院修士課程修了、LL.M.。 1991年東京大学大学院法学政治学研究科助手。1994年学位授与機構審査研究部助教授。1995年ロンドン大学インスティチュート・オブ・エデュケーション客員研究員。1997年静岡県立大学国際関係学部専任講師。 2002年静岡県立大学国際関係学部助教授。
もっと読む
牛田 多加志(うしだ たかし)は、日本の生体工学者。東京大学… 牛田 多加志(うしだ たかし)は、日本の生体工学者。東京大学大学院工学系研究科教授。元日本機械学会バイオエンジニアリング部門長。 愛知県刈谷市出身。愛知県立刈谷高等学校、1979年東京大学工学部精密機械工学科卒業。1980年文部省国費留学生としてナンシー大学医学部血液センターへ留学。1985年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了、工学博士、通商産業省工業技術院機械技術研究所入所。1992年筑波大学大学院医学研究科助教授。2000年東京大学大学院工学系研究科機械工学専攻助教授。2003年東京大学大学院医学系研究科疾患生命工学センター教授。2009年日本機械学会バイオエンジニアリング部門長。2015年東京大学大学院工学系研究科機械工学専攻教授。
もっと読む
村瀬 洋(むらせ ひろし)は、日本の工学者。情報科学者。工学… 村瀬 洋(むらせ ひろし)は、日本の工学者。情報科学者。工学博士(名古屋大学)。名古屋大学大学院情報科学研究科メディア科学専攻教授を経て、同特任教授。紫綬褒章受章。愛知県出身。 愛知県立刈谷高等学校を経て、1978年名古屋大学工学部電気電子工学科卒業、1980年名古屋大学大学院工学研究科電気電子工学専攻修士課程修了後、NTT入社。NTTコミュニケーション科学基礎研究所部長等を経て、2003年名古屋大学教授。 パラメトリック固有空間法という3次元の物体を効率よく認識する方法を開発し、画像、映像などの検索を短時間で行う方法を実現したことで知られる。
もっと読む
佐野 裕志(さの ひろゆき)は、日本の法学者。専門は、民事訴… 佐野 裕志(さの ひろゆき)は、日本の法学者。専門は、民事訴訟法・法情報学等。鹿児島大学教授を経て、専修大学大学院法務研究科長・教授。元法務省司法試験考査委員。 愛知県立時習館高等学校を経て、1976年一橋大学法学部卒業。1978年一橋大学大学院法学研究科修士課程修了、法学修士。1981年一橋大学大学院法学研究科博士課程単位取得。指導教官は竹下守夫。 1981年鹿児島大学法文学部講師。1982年同助教授。文部省在外研究員としてフライブルク大学に留学後、1987年鹿児島大学法文学部教授及び鹿児島地方裁判所民事調停委員に就任。再び文部省在外研究員としてフライブルク大学に留学後、2003年から鹿児島家庭裁判所家事調停委員兼務。
もっと読む