三宅 宗悦(みやけ むねよし、1905年(明治38年)3月2… 三宅 宗悦(みやけ むねよし、1905年(明治38年)3月26日 - 1944年(昭和19年)11月6日)は、日本の人類学・考古学者。医学博士。 1905年(明治38年)3月26日、京都府京都市東山区で三宅宗淳・男依の4男として生まれる。京都府立第二中学校、旧制山口高等学校(のち山口大学文理学部、現同大学人文学部)を卒業後、京都府立医科大学に入学。考古学に興味を持ち、京都帝国大学考古学教室に出入りするようになる。濱田耕作や清野謙次などから考古学・人類学の薫陶を受け、1929年(昭和4年)には同教室による須玖遺跡(福岡県春日市)の発掘調査に参加している。 1930年(昭和5年)に同医科大学を卒業後、京都帝国大学医学部助手に任命される。
鵜崎 多一(うざき たいち、1905年(明治38年)3月4日… 鵜崎 多一(うざき たいち、1905年(明治38年)3月4日 - 1971年(昭和46年)9月11日)は日本の政治家。福岡県知事(公選)を2期8年務めた。 1905年(明治38年)、学校法人鎮西学院院長などを務めた宗教家鵜崎庚五郎の四男として京都府京都市で生まれる。鎮西中学校、第二高等学校理科甲類を経て1928年(昭和3年)に東京大学農学部農経科卒業。卒業後、農林省に入省し、福島県農地部長や福岡地方経済安定局調整部長、福岡県知事室長などを歴任した。 1959年(昭和34年)4月に行われた福岡県知事選に出馬し当選。当時、全国で唯一の社会党公認知事として、日本のエネルギー政策の転換期において産炭地域であった福岡県が直面した問題に取り組んだ。
築山 治三郎(つきやま じさぶろう、1905年2月28日 -… 築山 治三郎(つきやま じさぶろう、1905年2月28日 - 1989年6月27日)は、日本の東洋史学者。 京都府京都市生まれ。京都府立第二中学校(現京都府立鳥羽高等学校)卒、東京高等師範学校地歴科卒、1934年東京文理科大学東洋史学科卒、群馬県立高崎中学校(現群馬県立高崎高等学校)教諭、神戸市立第一中学校(現神戸市立葺合高等学校)教諭、岩手県師範学校教授、北海道第三師範学校教授、青森師範学校教授、弘前大学助教授、1968年「唐代政治制度の研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。西京大学助教授、1953年京都府立大学教授、1969年定年退官、名誉教授、園田学園女子大学教授、京都産業大学教授。
桑田 猛(くわた たけし、1905年2月14日 - 2000… 桑田 猛(くわた たけし、1905年2月14日 - 2000年8月18日)は、日本の経営者、理学博士。協和醗酵工業(現在の協和キリン)社長を務めた。 京都府京都市出身。1931年に京都帝国大学理学部化学科を卒業し、協和化学研究所主任を経て、1949年7月に協和醗酵工業に入社し、常務にも就任。1956年に専務を経て、1962年8月に副社長に就任し、1969年8月には社長に昇格。1972年7月に取締役相談役に就任し、1978年3月に相談役に就任。 2000年8月18日気管支肺炎のために死去。95歳没。
佐谷 靖(さたに やすし、1905年(明治38年)2月2日 … 佐谷 靖(さたに やすし、1905年(明治38年)2月2日 - 1978年(昭和53年)8月29日)は、日本の医師。京都府舞鶴市長(6期)。 京都府舞鶴市出身。旧制京都府立第三中学校(現・京都府立福知山高等学校)を経て、1928年(昭和3年)京都府立医科大学卒。1930年(昭和5年)舞鶴で佐谷医院を開業。小学校の校医や舞鶴医師会評議員、京都府医師会代議員などを歴任する。1942年(昭和17年)舞鶴市会議員に当選。1945年(昭和20年)には軍医として召集された。 戦後すぐ、日本社会党舞鶴支部を結成し、支部長に就任する。京都府議会議員となり、舞鶴市の東西分離問題が起きたとき、府議会議員として分離反対運動をして、撤回させた。
坂根 田鶴子(さかね たづこ、1904年12月7日 - 19… 坂根 田鶴子(さかね たづこ、1904年12月7日 - 1975年9月2日)は、日本の映画監督、映画製作者。溝口健二の下でキャリアを積み、1936年に『初姿』を監督して、日本最初の女性映画監督となった。 1904年(明治37年)12月7日、京都市上京区で縮緬織りの織元だった父・坂根清一と母・志げの間に6人兄弟の長女として生まれる。母の生家佐久間家は丹後の旧家であったが、跡取りがいなかったため、田鶴子は2歳で佐久間家の当主として登録され、佐久間田鶴子となる。しかし、田鶴子は生涯父方の苗字「坂根」を使い続けた。 夫妻の6人の子供たちのうち、長生きしたのは長男の鋭郎と長女の田鶴子の2人だけであった。父が発明で財をなしたため家は裕福で、田鶴子は今出川幼稚園から中立売小学校、京都府立京都第一高等女学校(現在の京都府立鴨沂高等学校)へ進んだ。
浅見 隆三(あさみ りゅうぞう、1904年9月26日 - 1… 浅見 隆三(あさみ りゅうぞう、1904年9月26日 - 1987年7月23日)は、日本の陶芸家。日展参事。中国宋代の青白磁を基調に現代的感覚を加えた作風で知られた。第9回日展出品作「暢」により日本芸術院賞を受賞した。 京都市東山に、三代浅見五良助の次男として生まれる。本名は柳三。1923年に京都市立美術工芸学校図案科を卒業し、翌年関西美術院で洋画を学んだ。陶技は主として祖父の二代五良助に学び、1929年の第10回帝展で「三葉紋花瓶」が初入選した。 戦後は1945年から象嵌の手法を主体とした作品を制作し、1947年の第2回日展「象嵌 干柿の図皿」で特選、1951年の第7回日展「鶏頭ノ図花瓶」で再び特選を受け、翌年無鑑査となった。
武見 太郎(たけみ たろう、1904年8月7日 - 1983… 武見 太郎(たけみ たろう、1904年8月7日 - 1983年12月20日)は、日本の医師である。日本医師会会長、世界医師会会長を歴任した。
桑原 武夫(くわばら たけお、1904年〈明治37年〉5月1… 桑原 武夫(くわばら たけお、1904年〈明治37年〉5月10日 - 1988年〈昭和63年〉4月10日)は、日本のフランス文学・文化研究者、評論家。京都大学名誉教授。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は従三位・勲一等。人文科学における共同研究の先駆的指導者でもあった。芸術・思想・社会・教育など文化全般に通じ、共同研究を推進。その成果は『ルソー研究』(1951年)などの著作に結実した。『第二芸術ー現代俳句について』(1946年)での俳句批判は物議を醸した。 1904年、福井県敦賀郡敦賀町蓬莱(現・敦賀市)で生まれた。父は京都帝国大学教授で東洋史専攻の桑原隲蔵(じつぞう)。敦賀は里帰り出産(両親とも同地の出身)の地であり、このような場合は京都生まれと称するのが通例だが、本人は敦賀に愛着を持っており、出身地として記載を続けた。
城米 彦造(じょうまい ひこぞう、1904年5月4日 - 2… 城米 彦造(じょうまい ひこぞう、1904年5月4日 - 2006年5月8日)は、日本の昭和時代に活動した画家、路上詩人。第二次大戦後の10年間、国鉄の有楽町駅前にて自作の詩集を手売りしていたことで知られる。 1904年、京都にて16代続いた老舗呉服・染物屋の長男に生まれる(京染め悉皆業の長男と表現する資料もある)。実母を亡くした後、継母との仲に悩んだ末、放浪を繰り返し、その後、18歳の時に上京する。小石川区の旧制私立豊山中学校(現日本大学豊山高校)定時制卒業。城米が文筆家の道を歩み始めたのは、神田区役所(現千代田区役所)に勤務していた1931年のこと。小説家の武者小路実篤のもとに税金の督促に赴き、そこで感化されたことによる。
貝塚 茂樹(かいづか しげき、1904年〈明治37年〉5月1… 貝塚 茂樹(かいづか しげき、1904年〈明治37年〉5月1日 - 1987年〈昭和62年〉2月9日)は、日本の東洋学者、中国史学者、中国考古学者。京都大学名誉教授。勲二等瑞宝章叙勲、文化功労者顕彰、文化勲章受章。 1904年(明治37年)、東京で地質学者・小川琢治の次男として生まれた。旧制京都府立京都第一中学校(現・京都府立洛北高等学校)、旧制第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部史学科に進学。1928年3月に卒業。同年4月、同大学院文学研究科に進学。1930年3月に修士課程を修了。1932年5月に博士後期課程を退学。 同1932年5月、東方文化学院京都研究所研究員に採用された。1938年4月、研究所の改組に伴い、以降東方文化研究所研究員。
淀野 隆三(よどの りゅうぞう、1904年〈明治37年〉4月… 淀野 隆三(よどの りゅうぞう、1904年〈明治37年〉4月16日 - 1967年〈昭和42年〉7月7日)は、日本の文芸評論家。フランス文学者。 京都府紀伊郡伏見町(現・京都市伏見区)生まれ。本名・三吉。淀野家は伏見過書町で手広く鉄工所を営んでいた。京都府立京都第二中学校(現・京都府立鳥羽高等学校)を卒業後、1922年に第三高等学校(現・京都大学 総合人間学部)文科甲類に入学。野球部に入り、一高三高戦で三塁手として活躍した。三高劇研究会に所属し、卒業した先輩の梶井基次郎、中谷孝雄、外村茂と知り合う。 1925年、三高卒業後に東京帝国大学文学部仏文科に入学。前年に同校に進んでいた梶井基次郎、中谷孝雄、外村茂の創刊した同人誌『青空』の6月号・通巻4号から同人参加した。
桜田 一郎(さくらだ いちろう、戸籍上は「櫻田」。1904年… 桜田 一郎(さくらだ いちろう、戸籍上は「櫻田」。1904年(明治37年)1月1日 - 1986年(昭和61年)6月23日)は、日本の化学者。京都大学名誉教授。日本学士院会員。紫綬褒章・文化勲章受章。 1939年(昭和14年)に日本初の合成繊維であるポリビニルアルコール系合成繊維(ビニロン)を李升基、川上博(大日本紡績)らと共同開発した。このほか、桜田の粘度式をはじめとして高分子に関する様々な研究を展開し、日本の高分子化学の基礎を築いた。高分子という日本語を定着させたのも彼である。 エスペランティストでもあった。 京都府生まれ。京都一中を卒業。三高時代にエスペラントを学ぶ。三高を卒業。 1924年ルドヴィコ・ザメンホフの演説集をエスペラントから日本語訳して、カニヤ書店から『夜の空の星の如くに』として出版した。
八木 芳信(やぎ よしのぶ、1903年(明治36年)11月1… 八木 芳信(やぎ よしのぶ、1903年(明治36年)11月14日- 1993年(平成5年)6月5日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。最後の官選三重県知事。 京都府出身。京都府立京都第一中学校、第三高等学校を卒業。1926年12月、高等試験行政科試験に合格。1927年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し、千葉県属となる。 以後、長野県経済部長、神奈川県警察部長、神奈川県内務部長などを歴任。戦時中は海軍司政官に転出した。 1947年3月、前任の佐伯敏男が知事選に出馬のため辞任したことに伴い三重県知事に発令された。知事選挙などを執行して同年4月に退任。 その後、経済安定本部高松地方安定局長、帝国産業株式会社(現テザック)社長、同会長を歴任。
大谷 光暢(おおたに こうちょう、1903年10月1日 - … 大谷 光暢(おおたに こうちょう、1903年10月1日 - 1993年4月13日)は、明治時代から昭和時代にかけての浄土真宗の僧。法名は「闡如」(せんにょ)。東本願寺第二十四代法主。(のちに門首)真宗大谷派管長。伯爵。 1903年(明治36年)10月1日 、東本願寺第二十三代 彰如の長男として誕生。 1924年(大正13年)5月3日、大谷大学在学中に久邇宮邦彦王の三女で香淳皇后の妹にあたる智子女王と婚姻。 1925年(大正14年)9月、財政問題の責を負って退任した、父・彰如の後を受けて第二十四代法主に就任。 1947年(昭和22年)、妻・智子裏方とともに合唱団「大谷楽苑」を結成する。仏教音楽を用いた教化を推進するなど活躍する。
鈴木 清(すずき きよし、1903年9月12日 - 1967… 鈴木 清(すずき きよし、1903年9月12日 - 1967年10月6日)は、日本の陶芸家。同じく陶芸家の鈴木卓司は次男。 京都府京都市東山区に生まれる。京都市立第二工業学校卒業。人間国宝であった富本憲吉に師事。1939年、国画会賞を受賞。1941年、第4回新文展に「茄子の図大鉢」を出品して特選を受賞。1942年、国画会会員となる。1947年、新匠美術工芸会立ち上げに参画。1957年、日本工芸会正会員となる。1967年10月6日、狭心症のため京都市内の病院で死去。
志茂山 剛(しもやま つよし、1903年7月16日 - 没年… 志茂山 剛(しもやま つよし、1903年7月16日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。 1903年(明治36年)7月16日、秋田県に生まれる。 のちに京都に移り、勝見庸太郎に入門、1922年(大正11年)には旧制・東山中学校(現在の東山高等学校)を卒業している。1926年(大正15年)、勝見が「勝見庸太郎プロダクション」を設立、マキノ・プロダクションと配給提携を交わし、映画の製作を開始すると、それに参加する。その後、島耕二と離婚した大谷良子と結婚している。 1937年(昭和12年)には、日活京都撮影所に入社、多く脇役を務めた。1942年(昭和17年)1月27日、戦時統合によって大映が設立され、日活京都撮影所は大映京都撮影所となり、志茂山は同社に継続入社する。
武彦王妃 佐紀子女王(たけひこおうひ さきこじょおう、190… 武彦王妃 佐紀子女王(たけひこおうひ さきこじょおう、1903年〈明治36年〉3月30日 - 1923年〈大正12年〉9月1日)は、日本の皇族、賀陽宮邦憲王と同妃好子の第2王女、山階宮武彦王の妃。 1903年(明治36年)3月30日午後5時、賀陽宮邦憲王と同妃好子の第2王女子(第3子)として誕生。京都府立第一高等女学校を卒業。 1921年(大正10年)2月、山階宮武彦王と婚約が内定したと報じられたが、複数回延期された。1922年(大正11年)7月19日午前9時に結婚の儀を執り行い、山階宮武彦王と結婚した。 翌1923年(大正12年)9月1日、佐紀子女王は第1子を懐妊し、母・好子妃とともに神奈川県鎌倉市の由比ヶ浜別邸で静養していたところ、関東大震災で別邸が崩壊し、同日薨去した。
寺本 恵真(てらもと えしん、1903年3月10日 - 19… 寺本 恵真(てらもと えしん、1903年3月10日 - 1970年1月12日)は、日本の真宗大谷派の僧侶。教育者。学校経営者。札幌大谷短期大学初代学長。
西堀 栄三郎(にしぼり えいざぶろう、1903年(明治36年… 西堀 栄三郎(にしぼり えいざぶろう、1903年(明治36年)1月28日 - 1989年(平成元年)4月13日)は、日本の登山家、無機化学者、技術者。従四位。 京都府出身。京都一中、三高を経て、京都帝国大学理学部化学科卒業。京大講師、助教授を歴任した後、東京電気(東芝)に移る。 1936年、京都大学より理学博士。論文の題は「分子線による化學的研究」。 東芝技術本部長時代には海軍の要請を受けて真空管「ソラ」を開発し、技術院賞を受賞した。材料不足の状態でも大量生産できるように、微細な部分に至るまで製造マニュアルを完備し、"新橋の芸者を集めてでも製造可能"とされた。 戦後は独立の技術コンサルタントとして統計的品質管理手法を日本の産業界に持ち込み、デミング賞や電電公社総裁賞を受賞。
竹内 愛一(たけうち よしかず、1903年 - 1972年)… 竹内 愛一(たけうち よしかず、1903年 - 1972年)は、京都府出身のプロ野球選手(投手)、監督。
嵐 寛壽郎(あらし かんじゅうろう、新字体:寛寿郎、本名:高… 嵐 寛壽郎(あらし かんじゅうろう、新字体:寛寿郎、本名:高橋 照一(たかはし てるいち)、1902年〈明治35年〉12月8日 - 1980年〈昭和55年〉10月21日)は、日本の映画俳優、映画プロデューサーである。 戦前・戦後期にわたって活躍した時代劇スターで、300本以上の映画に出演し、「アラカン」の愛称で親しまれた。同時代の時代劇スターの阪東妻三郎、大河内傳次郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた。当たり役は鞍馬天狗と『右門捕物帖』のむっつり右門で、前者は40本、後者は36本シリーズ化されている。また、新東宝の『明治天皇と日露大戦争』では、俳優の中で初めて天皇を演じて話題となった(本作では明治天皇を演じた)。
野村 寅三郎 (のむら とらさぶろう、1902年 <明治35… 野村 寅三郎 (のむら とらさぶろう、1902年 <明治35年> 11月30日 - 1985年 <昭和60年> 1月22日)は、日本の交通経済学者。神戸大学名誉教授。元日本海運経済学会副会長。位階は正四位。 京都市下京区四条通室町東入函谷鉾町生まれ。1921年京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校)卒業。級友に新庄博神戸大学名誉教授がいた。 1924年神戸高等商業学校(現神戸大学)本科第二学年修了。1927年東京商科大学(現一橋大学)卒業。内池廉吉ゼミ出身で、専門は交通論。同年同大学補手。1928年中央気象台附属測候技術官養成所(現気象大学校)講師。1929年神戸商業大学助手。 1930年から文部省留学生として、ドイツやウィーン、イタリア、アメリカ合衆国に留学し、レオポルト・マイヤーに師事するなどした。
倉島 竹二郎(くらしま たけじろう、1902年11月9日 -… 倉島 竹二郎(くらしま たけじろう、1902年11月9日 - 1986年9月27日)は、日本の作家、囲碁将棋観戦記者。 日本文芸家協会会員、棋道懇談会会員、将棋盤側クラブ会長。 京都府京都市生まれ。父親は郵便局長。兄弟は兄が一人。祇園町にあった弥栄尋常小学校でのクラスメートに、後の嵐寛寿郎がいた。京都市立中学校を経て慶應義塾大学に入学。文学部国文科に籍を置き、在学時には『三田文学』に作品を発表。1929年卒業。1935年、東京日日新聞社(のちの毎日新聞社)入社。記者として囲碁将棋の観戦記者となった。 1938年応召。1943年に退社。終戦後、作家生活に入ったが、毎日新聞社の要請で再度、観戦記者となる。
上村 松篁(うえむら しょうこう、1902年〈明治35年〉1… 上村 松篁(うえむら しょうこう、1902年〈明治35年〉11月4日 - 2001年〈平成13年〉3月11日)は日本画家。花鳥画の近代化に貢献し、文化功労者となりさらに文化勲章を受章した。京都市立芸術大学教授。 本名は信太郎。母は近代美人画の大家、上村松園。未婚で松篁を出産した松園はその父について自ら語ることはなかったが、一部の書籍では松園の師の日本画家・鈴木松年が父であるとみなされている。松年が実の父であることは、松篁が著作中で明らかにしており、13歳のころに初めて松年を父と紹介されたとしている。 息子は同じく日本画家の上村淳之。 1902年(明治35年)、上村松園の長男として京都府京都市中京区四条堺町に生まれる。
下村 寅太郎(しもむら とらたろう、1902年(明治35年)… 下村 寅太郎(しもむら とらたろう、1902年(明治35年)8月17日 - 1995年(平成7年)1月22日)は、日本の哲学者・科学史家。 1902年、京都市下京で生まれた。旧制京都一中、旧制三高で学び、京都帝国大学文学部に入学。哲学科で西田幾多郎、田辺元に師事し、ライプニッツ研究や、数学の哲学であったり、科学哲学の分野に関心を持って研究を開始した。1926年に京都帝国大学文学部を卒業。 卒業後から15年を経て、1941年に東京文理科大学助教授に就いた。1945年に教授昇格。 1945年、学位論文『無限論の形成と構造』を京都帝国大学に提出して文学博士号を取得。学制改革によって1949年5月に東京文理科大学が新制大学として東京教育大学に包摂されて以降は、同大学教授。
猪熊 兼繁(いのくま かねしげ、1902年7月1日 - 19… 猪熊 兼繁(いのくま かねしげ、1902年7月1日 - 1979年1月7日)は、日本の歴史学者、国学者。京都大学名誉教授。専門は日本法制史。 京都府京都市生まれ。父は有職故実学者の猪熊浅麻呂。祖父の猪熊夏樹は白鳥神社の10代宮司・宮中進講(皇族のための教師)。兄に猪熊兼幹。妻は吉村伊助の娘。子に猪熊兼勝。甥に猪熊兼年。孫に猪熊兼樹。 旧制第三高等学校文科乙類を経て、1928年に京都帝国大学法学部を卒業。1962年「倭国法研究序説」で京都大学より法学博士の学位を取得。 1947年京都大学法学部教授となり、1966年退官。 家学である有識故実の研究にも従事。京都の葵祭や時代祭、都をどりなどの時代考証を行った。
淡川 康一(あわかわ こういち、1902年6月1日 - 19… 淡川 康一(あわかわ こういち、1902年6月1日 - 1976年12月3日)は、日本の経済学者・地理学者・禅画研究家、立命館大学名誉教授。 京都府生まれ。京都市立第一商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)で学び、1921年、20歳の時、名古屋高等商業学校に一期生として入学して、宮田喜代蔵 (1896-1977) の経済学などを学んだ。1924年、京都帝国大学経済学部独逸経済学科に入学。財部静治 (1881-1946) 教授の統計学に傾き、経済地理学へと向かう。1927年京都帝国大学経済学部卒。立命館大学教授、1967年定年退任、名誉教授、大阪学院大学教授。 禅画の研究、蒐集を行った。
朝田 善之助(あさだ ぜんのすけ、1902年〈明治35年〉5… 朝田 善之助(あさだ ぜんのすけ、1902年〈明治35年〉5月25日戸籍上は7月4日 - 1983年〈昭和58年〉4月29日)は、日本の部落解放運動家、会社経営者。元「解同」(部落解放同盟)中央執行委員長。 京都府愛宕郡田中村字西田中(現在の京都市左京区田中馬場町)で生まれた。朝田が生まれた西田中は被差別部落で、古くは川崎村といった。 父は滋賀県大津市出身の幾之助、母はみゑ、長兄は幾松、次兄は伊助といった。父は和鞋の製造、販売の早瀬円蔵商店勤務を経て肥屋、汲み取りをやって1907年頃から共同浴場の経営をしていた。 1908年、養正小学校へはいった。1914年、小学校を卒業して寺町五条下ルの篠本靴店へでっち奉公へ出た。
柚木 馨(ゆのき かおる、1902年4月9日 - 1965年… 柚木 馨(ゆのき かおる、1902年4月9日 - 1965年11月19日)は、日本の法学者。専門は民法。学位は、法学博士(立命館大学・論文博士・1950年)(学位論文「ローマ法における売主瑕疵担保責任研究」)。第4代神戸大学学長。叙正三位、旭日重光章追贈。京都府加佐郡舞鶴町(現・舞鶴市)生まれ(本籍は鹿児島県)。弟子に、高木多喜男らがいる。 1919年(大正8年)、京都府立京都第一中学校(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)を卒業して第三高等学校に進み、1922年(大正11年)に文科甲類を卒業後、京都帝国大学に進学。1925年(大正14年)京都帝国大学法学部法律科を卒業するとともに同大学助手に就任した。
南江治郎(なんえ じろう、1902年4月3日 - 1982年… 南江治郎(なんえ じろう、1902年4月3日 - 1982年5月26日、別名筆名、南江 二郎)は京都府亀岡市出身の、大正・昭和期の日本の詩人、人形劇研究家。1934年(昭和9年)NHKに入局、企画部長、編成局長、専務理事を歴任し、1953年(昭和28年)顧問となる。 元財団法人都民劇場理事。元CBC嘱託。元南海電鉄顧問。文部省芸術祭実行委員、文部省「芸術選奨」選衡委員、日本詩人クラブ常任理事、日本文芸家協会員。ITI国際演劇協会日本センター理事。 早稲田大学で坪内逍遙、小山内薫らに学び、中退。1921年(大正10年)に処女詩集「異端者の恋」を出版、1922年(大正13年)に詩誌「新詩潮」を主宰。
片岡 久兵衛(久兵衞、かたおか きゅうべえ、1902年 <明… 片岡 久兵衛(久兵衞、かたおか きゅうべえ、1902年 <明治35年> 1月30日 - 1988年 <昭和63年> 10月11日)は、日本の経営者、銀行家。京都銀行頭取を務めた。京都府福知山市出身。位階は従五位。 1923年に東京商科大学を卒業。1946年に京都銀行の前身である丹和銀行頭取に就任。1972年に相談役を経て、1980年には顧問に就任。 1988年10月11日急性呼吸不全のために死去。86歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
田畑 忍(たばた しのぶ、1902年1月22日 - 1994… 田畑 忍(たばた しのぶ、1902年1月22日 - 1994年3月14日)は、日本の法学者。専門は憲法。同志社大学名誉教授。
今西 錦司(いまにし きんじ、1902年(明治35年)1月6… 今西 錦司(いまにし きんじ、1902年(明治35年)1月6日 - 1992年(平成4年)6月15日)は、日本の生態学者、文化人類学者、登山家。京都大学名誉教授、岐阜大学名誉教授。位階は従三位。日本の霊長類研究の創始者として知られる。理学博士(京都帝国大学・1939年)。京都府出身。 今西の活動は登山家、探検隊としてのものと、生態学者としてのものがあり、彼の中では両者が不可分に結びついている。探検家としては国内で多くの初登頂をなし、京都大学白頭山遠征隊の隊長などを務めた。生態学者としては初期のものとしては日本アルプスにおける森林帯の垂直分布、渓流の水生昆虫の生態の研究が有名である。後者は住み分け理論の直接の基礎となった。
平井 寛一郎(ひらい かんいちろう、1901年 <明治34年… 平井 寛一郎(ひらい かんいちろう、1901年 <明治34年> 12月15日 - 1978年 <昭和53年> 1月23日)は、日本の経営者。京都府京都市出身。位階は従三位。勲一等瑞宝章。 1930年に京都帝国大学工学部電気学科を卒業し、同年に大同電力に入社。日本発送電を経て、1952年11月に関西電力取締役に就任し、1958年5月に常務を経て、1959年11月に副社長を経て、1962年12月に東北電力社長に就任。1969年11月に会長に就任。 1960年に藍綬褒章を受章し、1973年4月に勲二等旭日重光章を受章。 1978年1月23日脳梗塞のために死去。76歳没。死没日付をもって従三位に叙され、勲一等瑞宝章を追贈された。
神戸 捨二(かんべ すてじ、1901年12月6日 - 197… 神戸 捨二(かんべ すてじ、1901年12月6日 - 1975年6月1日)は、日本の経営者。京都府京都市出身。 1925年に東京帝国大学法学部独法学科を卒業し、同年に安田銀行に入行。安田保善社、帝国ピストンリングでの勤務を経て、1945年に沖電気工業常務に就任し、1947年に専務を経て、1949年に社長に就任。1966年から1972年までに会長を務めた。 1962年に藍綬褒章を受章し、1972年5月に勲二等瑞宝章を受章。 1975年6月1日心不全のために死去。73歳没。
天野 敬太郎(あまの けいたろう、1901年11月26日 -… 天野 敬太郎(あまの けいたろう、1901年11月26日 - 1992年8月6日)は、日本の書誌学者。 京都府京都市出身。京都帝國大学図書館司書、関西大学図書館図書課長などを歴任。1967年から1972年3月まで東洋大学社会学部教授を務めた。 代表的な編著書に『日本書誌の書誌』。1987年に第1回物集索引賞特別賞を受賞。 大正時代に京都帝國大学図書館に職員として採用されて以来、天野は書誌情報の収集に心血を注ぎ、「書誌の書誌」などの参考図書の作成に生涯を費やした。作成する書誌の原稿ができあがると、それが最もわかりやすい簡明な形式で印刷されるよう、掲載が予定されている刊行物の性格に即して、原稿には割付を加えておくのが常であり、赤インキで細かく清潔に活字の組み方を指示していた。
山口 誓子(やまぐち せいし、1901年(明治34年)11月… 山口 誓子(やまぐち せいし、1901年(明治34年)11月3日 - 1994年(平成6年)3月26日)は、日本の俳人。京都府京都市出身。本名は山口新比古(やまぐち ちかひこ)。 高浜虚子に師事。昭和初期に水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝とともに「ホトトギスの四S」とされたが、のちに同誌を離反した秋桜子に従い「ホトトギス」を離脱。従来の俳句にはなかった都会的な素材、知的・即物的な句風、映画理論に基づく連作俳句の試みなどにより、秋桜子とともに新興俳句運動の指導的存在となる。戦後は「天狼」を主宰し現代俳句を牽引した。大正11年、初めて虚子に会い、俳号を「誓子(ちかひこ)」から「誓子(せいし)」と改めた。
鄭 島栄(チョン・ドヨン、朝鮮語: 정도영/鄭島榮、1901… 鄭 島栄(チョン・ドヨン、朝鮮語: 정도영/鄭島榮、1901年9月16日または1902年 - 1979年8月12日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家、教育者。制憲韓国国会議員。 本貫は迎日鄭氏(朝鮮語版)。初名は鄭寿容、字は華一、号は白坡。仏教徒。 慶尚北道永川郡出身。京城中東中学校を経て大邱啓聖学校中退、京都第一府立中学校卒。三・一運動参加後、新幹会の設立に参加し、永川青年会会長、全国青年総連盟メンバーを経て、日中戦争中に治安維持法違反で投獄されたが、3年間の起訴猶予により釈放された。その後は仏教に入信し、禅房で7年間修行した。光復後は米軍政庁永川郡守顧問、韓国民主党慶北道党常務委員、独促国民会永川郡支部長・中央常務委員・慶北道党部常務委員、国民会支会長を務めた。
木村 常信(きむら つねのぶ、1901年9月4日 - 199… 木村 常信(きむら つねのぶ、1901年9月4日 - 1991年4月24日)は、日本の民法学者。京都大学名誉教授。長女は推理小説家の山村美紗、長男は政治学者で北海道大学名誉教授の木村汎、孫は女優の山村紅葉。
小林 實(こばやし みのる、1901年 <明治34年> 5月… 小林 實(こばやし みのる、1901年 <明治34年> 5月25日 - 1982年 <昭和57年> 11月28日)は、日本の経営者。位階は従四位。 京都府出身。1922年に京都府立城丹農事講習所を卒業し、郡是製絲(現在のグンゼ)に入社。1955年1月に取締役に就任し、1961年1月に常務を経て、1969年1月に専務に就任し、1970年1月に社長に昇格した。1975年1月に会長を経て、1977年2月から相談役を務めた。 1971年11月に藍綬褒章を受章し、1980年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1982年11月28日消化管出血のために死去。81歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
松下 正寿(松下 正壽、まつした まさとし、1901年〈明治… 松下 正寿(松下 正壽、まつした まさとし、1901年〈明治34年〉4月14日 - 1986年〈昭和61年〉12月24日)は、日本の元政治家、国際政治学者、著述家。第5代・6代・7代立教大学総長、元参議院議員(1期)、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)初代議長、Ph.D(コロンビア大学)、正四位、勲二等旭日重光章受章。 極東軍事裁判では東条英機の弁護人を務めたほか、岸信介首相の特使として英国政府にクリスマス島の原水爆実験の中止要請を行った。強固な反共主義者としても知られ、民社党系の核禁会議の結成に尽力。1970年代以降、文鮮明を師と仰ぎ、世界平和教授アカデミー会長、世界日報論説委員、宗教新聞社社主を務めるなど統一教会の最高幹部として関連団体で要職を歴任した。
尾形 昭二(おがた しょうじ、1901年2月28日 - 19… 尾形 昭二(おがた しょうじ、1901年2月28日 - 1967年3月14日)は、日本の外交官、外交評論家。 熊本県生まれ。京都府立京都第一中学校卒。1924年東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、外務省に入り、パリ、モスクワ、新京大使館、ペトロパヴロフスク領事館などで勤務。その後、本省調査局ソビエト課長、調査局長などを歴任。退官後、外交評論家となり、日ソ協会常任理事を務めた。
深見 泰三(ふかみ たいぞう、1901年1月22日 - 没年… 深見 泰三(ふかみ たいぞう、1901年1月22日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名は植岡 隆逸(うえおか たかいつ)。 1901年(明治34年)1月22日、宮崎県に生まれる。実家は旅館業を経営していた。京都府立美術工芸学校(現在の京都市立銅駝美術工芸高等学校)中退。 1926年(大正15年)5月、坪内士行(1887年 - 1986年)等の宝塚国民座の創立に参加し俳優となる。1929年(昭和4年)、松竹大阪の専属俳優となり、同年8月には大阪浪花座で旗揚げした関西歌舞伎の阪東壽三郎(1886年 - 1954年)を中心とする第一劇場に参加した。同劇場には小堀誠、吉田豊作、進藤英太郎、八雲恵美子などがいた。
梅原 北明(うめはら ほくめい、1901年〈明治34年〉1月… 梅原 北明(うめはら ほくめい、1901年〈明治34年〉1月15日 - 1946年〈昭和21年〉4月5日)は、日本の作家・編集者。本名は梅原 貞康。昭和初期のエログロナンセンス文化を代表する出版人である。宗教研究家の梅原正紀は息子。別名・烏山朝太郎、談奇館主人、大塚倭堂、吾妻大陸ほか多数。 1901年、富山県富山市の士族の次男として生まれる。父・貞義は生命保険の代理店を営んでおり、生活はゆとりがあったとされる。京都の平安中学を卒業し、早稲田大学予科に進学。同校在学中に片山潜のグループと接し、社会主義思想に触れた。1920年に中退して関西で部落解放運動に従事。1924年から新聞社や雑誌社に勤める傍ら小説を執筆。
上野 直蔵(うえの なおぞう、1900年12月7日 - 19… 上野 直蔵(うえの なおぞう、1900年12月7日 - 1984年10月2日)は、日本の英文学者・英語学者。同志社大学名誉教授。専門は中世英文学・米文学。 京都府京都市生まれ。1927年、同志社大学文学部英文学科卒。1934年から1936年まで、シカゴ大学に留学。1936年、同志社大学文学部講師、のち1938年に助教授、1941年に教授。1949年から1950年まで文学部長。1952年、チョーサーに関する論文で同志社大学より文学博士の学位を取得。1954年から1956年まで再び文学部長。1960年から1965年まで学長。1968年から1970年までアメリカ学会会長。1970年、定年退職、名誉教授となる。
杉田 勇次郎(すぎた ゆうじろう、1900年11月6日 - … 杉田 勇次郎(すぎた ゆうじろう、1900年11月6日 - 1984年8月31日)は、京都市出身の日本画家。号は遊子。おもに水彩画や油彩画を手がけ、洋画の技法を取り入れた作品が多い。 京都市下京区に生まれた杉田は、長じて京都市立絵画専門学校(京都市立美術大学の前身)に学び、在学中の1920年に「海近く」で国画創作協会展に初入選した。1922年に卒業した後も、入江波光に師事しながら。その後も国画創作協会展などに出品し、1926年には国画創作協会会員に推されたが、同会日本画部は1928年に解散してしまう。そこで、新樹社に参加するが、1931年には脱退する。 1934年に満州へ渡って美術教師となり、旅順高等公学校や大連の芙蓉高等学校で教鞭を執った。
斎藤 保義(さいとう やすよし、1900年〈明治33年〉10… 斎藤 保義(さいとう やすよし、1900年〈明治33年〉10月22日 - 1992年〈平成4年〉11月30日)は、日本の銀行家。元東京銀行監査役。 次女は国際基督教大学名誉教授の斎藤美津子、長男は元毎日新聞社会長の斎藤明。 京都市出身。斎藤駒三郎の二男。 1922年(大正11年)に旧制第三高等学校文科丙類を卒業、1925年(大正14年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年正金銀行に入り頭取席東京、上海、巴里、横浜、西貢各支店に勤務したが、同行閉鎖に依り東京銀行に引継がれ1947年(昭和22年)浅草支店長。1953年(昭和28年)5月監査役に選ばれる。墓所は多磨霊園。 趣味は散歩、水泳。宗教はキリスト教。
荒牧 鉄雄(あらまき てつお、1900年9月25日 - 19… 荒牧 鉄雄(あらまき てつお、1900年9月25日 - 1992年3月8日)は、日本の英文学者・英語教育者。青山学院女子短期大学名誉教授。 福岡県八幡市出身。1918年福岡県立東筑中学校卒業、親を失い母校で教える。1923年東京外国語学校卒業、西南学院高等学部教授兼中学部教諭。1925年武蔵高等学校教授。1943年東海大学の創立に参加し教授。1951年青山学院女子短期大学教授。1971年定年退任、名誉教授。武蔵高等学校在職中から多くの受験参考書を執筆した。 長男の荒牧重雄(1930年- )は火山学者(東大、北大、日大教授)。
井口 海仙(いぐち かいせん、1900年6月24日 - 19… 井口 海仙(いぐち かいせん、1900年6月24日 - 1982年6月8日)は、日本の茶道家。京都市に、13代千宗室の3男として生まれた。名は三郎、号は宗含。裏千家宗家の父に茶道を学ぶ。茶道教授をしながら、機関誌「茶道月報」を主宰。戦後は淡交社社長として茶道書の出版、執筆に活躍した。