松本 幸市(まつもと こういち、1908年3月10日 - 1… 松本 幸市(まつもと こういち、1908年3月10日 - 1978年1月7日)は、日本の経営者。 鳥取県境港市出身。1927年に山口高等商業学校を卒業し、同年に小野田セメントに入社。1960年に取締役に就任し、1963年に常務、1967年に専務、1969年に副社長を経て、1973年10月には社長に就任。 1976年6月16日心筋梗塞のために在任中に死去。68歳没。
土井 正三郎(どい しょうざぶろう、1907年〈明治40年〉… 土井 正三郎(どい しょうざぶろう、1907年〈明治40年〉12月23日 - 1992年〈平成4年〉12月18日)は、日本の経営者。三井信託銀行社長を務めた。 鳥取県米子市出身。土井親男の三男。生家は米子東倉吉町、鉄砲火薬の土井親男商店。 1929年に青山学院高等部商科を卒業し、同年に三井信託銀行に入行。1958年5月に取締役に就任し、1967年5月に副社長を経て、1968年11月には社長に就任。1971年5月に会長に就任し、1976年6月には相談役に就任。 1973年9月に藍綬褒章を受章し、1979年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1992年12月18日に急性心筋梗塞のために死去。84歳没。 長年テニスで身体をきたえた。
米原 穣(よねはら みのる、1907年〈明治40年〉9月21… 米原 穣(よねはら みのる、1907年〈明治40年〉9月21日 - 1994年〈平成6年〉)は、日本の実業家。日本海テレビ、日ノ丸自動車各社長。鳥取商工会議所会頭。 鳥取県八頭郡智頭村(現・智頭町)出身。米原章三の長男。1925年、鳥取県立鳥取第一中学校を卒業する。1928年、第六高等学校を卒業する。1931年、東京帝国大学文学部独逸文学科を卒業する。文部省嘱託拝命。 1936年、高知高校教授。1943年に文部省教学官、1946年に文部省学校教育局専門教育課長に就任する。1949年、鳥取大学教授に任ぜられ、学芸学部長を拝命する。1954年、退官する。以降日ノ丸自動車、鳥取大丸の社長(のち共に会長)、その他各社役員を兼ねる。
田村 純一(たむら じゅんいち、1907年〈明治40年〉9月… 田村 純一(たむら じゅんいち、1907年〈明治40年〉9月4日 - 2000年〈平成12年〉)は、日本の政治家、実業家。久米桜酒造会長。鳥取県公安委員会委員長。 鳥取県米子市糀町出身。父・田村源太郎、母・あさの長男。家業は肥料商、酒造業。米子中学校を経て1929年、神戸高商を卒業、同年に田村源太郎商店に入り、酒造肥料商に従事する。1939年に米子市会議員に当選、1943年に再選する。米子市翼賛壮年団長をつとめる。 企業整備により家業を転廃業、米子境商業統制組合、米子市総合配給所の各専務理事に就任する。1947年、公職追放を受け、同年に久米桜酒造を創立し社長に就任。1952年、米子市教育委員に当選する。
赤沢 正道(赤澤 正道、あかざわ まさみち、1907年(明治… 赤沢 正道(赤澤 正道、あかざわ まさみち、1907年(明治40年)7月26日 - 1982年(昭和57年)1月20日)は、日本の実業家、政治家。赤沢組会長。自治大臣兼国家公安委員長。 山陰労災病院の誘致、国道9号の拡幅、美保基地周辺の民生安定事業など、郷土に残した足跡は多い。衆議院議員で、経済産業大臣などを務める赤沢亮正は孫。 鳥取県米子市西倉吉町に生まれた。父・康平は、徳島県出身の土木建築業。旧徳島藩士である。明治30年代から始まった山陰本線の建設に参加するため米子に進出、業界のリーダーとして業績を積み上げた。 また康平は、邸内に造った弓道場で毎朝弓を引いたといわれ、赤沢家は市民から一目置かれる家庭だった。
坂口 宏(さかぐち ひろし、明治40年(1907年)7月11… 坂口 宏(さかぐち ひろし、明治40年(1907年)7月11日 - 没年不明)は、日本の実業家。 実業家2代坂口平兵衛の従弟にあたる。 鳥取県米子市出身。坂口武市の長男。 昭和7年(1932年)京都帝国大学法学部卒業。東京芝浦電気入社。昭和20年(1945年)退職、ヤマサ電気工業所創立所長就任。 趣味はスポーツ、住所は米子市西町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
南家 恭一(なんけ きょういち、1907年〈明治40年〉5月… 南家 恭一(なんけ きょういち、1907年〈明治40年〉5月1日 - 没年不明)は、日本の実業家。南家商事社長。 鳥取県西伯郡外江村(現・境港市外江町)出身。父は南家清一。鳥取県信用組合理事長、境港市監査委員会委員、境港商工会議所副会頭、鳥取県中小企業団体中央会理事などをつとめる。住所は境港市外江町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
三橋 誠(みつはし まこと、1907年 <明治40年> 1月… 三橋 誠(みつはし まこと、1907年 <明治40年> 1月16日 - 1990年 <平成2年> 10月20日)は、日本の経営者、バスケットボール選手。全国農業協同組合連合会会長を務めた。位階は従四位。 鳥取県鳥取市出身。1933年に京都帝国大学農業経済科を卒業。山陰日日新聞社取締役などを経て、1955年に鳥取県議員となり、後に副議長も務めた。1957年6月に全国購買農業協同組合連合会会長に就任し、1972年3月には全国農業協同組合連合会会長に就任。 バスケットボール選手としても活躍し、1934年には極東大会に出場し、1936年のベルリン・オリンピックでは、日本代表チームのヘッドコーチを務め、1967年11月には日本バスケットボール協会理事長に就任。
松本 豊(まつもと ゆたか、明治39年(1906年)5月8日… 松本 豊(まつもと ゆたか、明治39年(1906年)5月8日 - 平成12年(2000年)12月25日)は日本の柔道家、実業家、政治家。境港商工会議所名誉会頭。元境町会議員、境港市会議員。 鳥取県境港市出身。万一の長男。 米中卒。松本材木店経営。姫路野砲第十連隊入隊、昭和19年(1944年)再応召、陸軍中尉。 昭和21年(1946年)松本木材(株)を設立、取締役社長に就任、同年境港商工会議所会頭(のち公職追放で辞任)。昭和30年(1955年)~昭和61年(1986年)境港商工会議所会頭。 昭和34年(1959年)(株)米子木材市場取締役社長、境港外材輸入(協)理事長、昭和38年(1963年)大山産業(株)取締役社長、昭和57年(1982年)松本木材(株)を境港木材工業(株)に改組、取締役顧問。
2代坂口 平兵衛(さかぐち へいべえ、明治39年(1906年… 2代坂口 平兵衛(さかぐち へいべえ、明治39年(1906年)2月15日 - 昭和61年(1986年)2月17日)は日本の実業家、政治家。坂口合名会社・代表社員会長。米子商工会議所名誉会頭。衆議院議員。幼名清太郎。 平兵衛によれば、「その頃の私は一種のやんちゃもんでして、柔道家の山根、佐伯、永見というような荒らくれ者とばかりつきあっていました。急に私が帰らなくてはならなくなった。先代の合名社長豊蔵が五十九歳で昭和五年に死亡し、私は豊蔵の養子になっていた。二十五歳だったが相続することになった。相続は(プラスの)財産を受けるのが当たり前ですが、私は十に余る会社の社長を引き受けた。それは借金を引き受けるということで、苦労を相続したのです。
佐近 正晴(さこん まさはる、1906年〈明治39年〉 - … 佐近 正晴(さこん まさはる、1906年〈明治39年〉 - 1960年〈昭和35年〉)は、日本の実業家。弓浜漁業の元社長。 鳥取県西伯郡余子村大字福定(現在の境港市福定町)に佐近豊松の子として生まれる。 父・豊松と共に地引網の振興をはかり、“豊十網”は弓浜地方屈指の網元となった。更に大型木造船による沿岸漁業に着手、多くの朝鮮人を雇って鯔漁や鯖漁に専念し、境港漁業の発展につとめた。 戦後は就労の場のない地域の青少年を集めて「佐近船団」を組織したり、漁業協同組合結成に尽力したりと境港漁業史に大きな足跡を残した。
増谷 慶一郎(ますたに けいいちろう、明治38年(1905年… 増谷 慶一郎(ますたに けいいちろう、明治38年(1905年)2月23日 - 昭和45年(1970年)12月13日)は日本の実業家、政治家。境港商工会議所第2代会頭。元増谷薬局代表取締役。元境町会議員。三代目当主。本名は正巳。 鳥取県境港市出身。実家は薬種商。 米子中学校(現米子東高校)、金沢医科大学付属薬学専門部(現在の金沢大学薬学部)卒業。 大正14年(1925年)から大阪で自家製剤を修行して帰郷し、家業の薬種商・増谷薬店“杏花堂”を手伝う。昭和22年(1947年)境町の町会議員を務める一方、境港商工会議所初代会頭松本豊の後を受けて2代目会頭に就任する。 昭和25年(1950年)境町だけでなく米子駅前にも出店し、実弟・芳郎とともに有限会社増谷薬局を設立するなど、会社を大きく発展させた。
面谷 誠(おもだに せい、明治37年(1904年)10月31… 面谷 誠(おもだに せい、明治37年(1904年)10月31日 - 昭和46年(1971年))は日本の実業家。銘酒暁山醸造元、面谷合名会社代表社員。元境港商工会議所会頭、顧問。 鳥取県境港市出身。米子中学校(現米子東高校)卒業後、東京大蔵省醸造試験所に入所。翌年、試験所の課程を修了すると、帰郷して家業に従事する。 昭和19年(1944年)面谷合名会社の代表社員に就任。鳥取県酒造組合理事、鳥取県醤油工業協同組合理事を歴任。酒造業界の発展に尽力。 昭和23年(1948年)境港商工会議所会頭に就任。 境町学務委員をはじめ、境高等学校水産教育振興会会長も務め、教育会でも活躍した。 酒面谷酒類醤油醸造場として、明治4年(1871年)創業、昭和17年(1942年)根平、面谷支店、生中各店の権利を譲り受ける。
門脇 源太郎(かどわき げんたろう、明治37年(1904年)… 門脇 源太郎(かどわき げんたろう、明治37年(1904年)8月23日 - 没年不明)は日本の実業家。山陰日日新聞社常務取締役。 鳥取県米子市安倍出身。慶應義塾外国語学校(マライ語)卒業。 昭和4年(1929年)万朝報社記者。昭和7年(1932年)帝都日日新聞関西支社通信部長、昭和10年(1935年)金融経済社創立、社長兼主筆、昭和17年(1942年)まで台湾、朝鮮、満州国へ6回に亘り出張、産業経済事情を視察する。 昭和18年(1943年)陸軍通訳官南方第二方面軍付、昭和23年(1948年)山陰日日新聞社大阪支社長、昭和28年(1953年)取締役に就任、昭和29年(1954年)兼任業務局長、昭和30年(1955年)東京支社長(兼任)を経て昭和31年(1956年)常務取締役兼大阪支社長に就任。
松下 整吉(まつした せいきち、1904年〈明治37年〉3月… 松下 整吉(まつした せいきち、1904年〈明治37年〉3月31日 - 1986年〈昭和61年〉)は、日本の実業家、政治家。松下酒店社長。境港商工会議所副会頭。 鳥取県西伯郡境町松ヶ枝町(現境港市松ヶ枝町)出身。質屋・松下専次郎の息子。1947年から2期境町会議員を務める。境港魚市場社長、北陽産業社長、境港魚凾社長などを歴任する。 境港魚市場の大株主である。妻・さいは面谷代表、酒類醸造業の面谷友太郎の二女。住所は境港市松ヶ枝町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
浜崎 芳雄(はまさき よしお、1903年〈明治36年〉4月3… 浜崎 芳雄(はまさき よしお、1903年〈明治36年〉4月3日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。浜崎芳雄商店会長。鳥取生コン会長。鳥取振興開発社長。日本海テレビジョン放送監査役。鳥取市議会議長(31代)。 鳥取県鳥取市(旧青谷町)出身。1921年(大正10年)、銅鉄商・黒川明四郎商店に入社し、大阪市立実業学校商業簿記専修科を卒業する。1924年(大正13年)に神戸営業所支配人。 1931年(昭和6年)に退社し、銅鋼鉄商・浜崎芳雄商店を設立する。1964年(昭和39年)、株式に改組、社長となる。1960年(昭和35年)12月、鳥取市議会議長に就任する。 高額所得者である。宗教は浄土宗。趣味はスポーツ、旅行、ゴルフ。
井東 安久(いとう やすひさ、明治35年(1902年)11月… 井東 安久(いとう やすひさ、明治35年(1902年)11月7日 - 昭和58年(1983年)12月1日)は日本の実業家。井東建設元代表取締役。境港商工会議所の常議員、監事、参与などを歴任。井東家の八代目。 明治35年(1902年)11月7日、鳥取県西伯郡中浜村大字佐斐神(現在の境港市佐斐神町)に父・井東藤重、母・ゑせのの長男として生まれた。出身地の佐斐神は明治20年代から桑栽培・養蚕業が主産業になった。若いころは馬車曳きの仕事をした。 昭和22年(1947年)洋瓦の製造販売を創業、昭和30年(1955年)法人に改組した。 昭和30年(1955年)4月境港商工会議所議員に就任し、その後常議員、監事を歴任、昭和52年(1977年)4月から参与を務め、地域経済の振興、発展に尽力した。
門脇 章太郎(かどわき しょうたろう、1901年〈明治34年… 門脇 章太郎(かどわき しょうたろう、1901年〈明治34年〉3月30日 - 1971年〈昭和46年〉)は、日本の実業家、政治家、宗教家。 学習院大学名誉教授門脇卓爾の父。 鳥取県西伯郡所子村(現:大山町)の豪農の家(門脇家住宅として現存)に生まれる。父・門脇才蔵、母・チヨノの長男。米子中学校を経て、大正13年(1924年)京大修了。 所子村産業組合長、所子村農会長、所子村長を経て米子銀行取締役、鳥取県産業組合連合会理事米子支所長、米子銀行常務取締役を歴任した。1941年(昭和16年)合併により山陰合同銀行取締役に就任した。その後、1946年(昭和21年)に常務取締役となった。1959年(昭和34年)11月6日の株主総会で常務取締役を退任した。
澤 春蔵(さわ はるぞう、1901年(明治34年)3月5日 … 澤 春蔵(さわ はるぞう、1901年(明治34年)3月5日 - 1972年(昭和47年)7月24日)は、日本の実業家。日本交通の創業者。 1901年(明治34年)3月、鳥取県岩美郡大岩村大谷(現在の岩美町大谷)に生まれる。1914年(大正3年)3月[要出典]、大岩小学校(現・岩美西小学校)を卒業する。春蔵は就学前に足を痛めていたため、自動車で自分の未来を開拓しようと考えた。その頃、日本国内にも自動車の数は少なく、鳥取県内では更に珍しいものだった。春蔵の得た運転免許は鳥取県内第3号であった。 1919年(大正8年)18歳の春蔵は1台のトラックで運送業を始めた。春蔵の事業は先進的だったが、閉鎖的な風土や不便な道路事情などにより、運送業としての見通しが立たなかった。
森 治樹(もり はるき、明治33年(1900年)5月3日 -… 森 治樹(もり はるき、明治33年(1900年)5月3日 - 平成6年(1994年)11月4日)は日本の実業家。元資生堂社長。幼名治。
安部 三代治(あべ みよじ、1899年〈明治32年〉10月1… 安部 三代治(あべ みよじ、1899年〈明治32年〉10月1日 - 1973年〈昭和48年〉)は、日本の俳人、実業家。号は東水。 鳥取県西伯郡車尾村(現・米子市車尾)出身。安部亀次郎の三男。1914年、高等小学校を卒業し、坂口平兵衛本店に勤務する。1920年、坂口合名会社に入社し、理事・支配人となる。 島根水産、三光冷蔵、米子交通各社長、坂口木材、山陰石油、日ノ丸総本社、日ノ丸自動車、大同木材工業、山陰スバル各取締役、米子電車軌道、米子林産各監査役、鳥取県経営者協会副会長、鳥取県地方労働委員会委員、米子市危険物保安協会会長などをつとめた。 趣味は読書、旅行、俳句。宗教は曹洞宗。住所は米子市久米町。
大谷 虎三(おおたに とらぞう、明治32年〈1899年〉1月… 大谷 虎三(おおたに とらぞう、明治32年〈1899年〉1月27日 - 没年不詳)は、日本の実業家、政治家。元赤沢組社長。元協同建設社長。元米子市議会議員。 大正14年(1925年)、鉄道省指定請負赤沢康平本店に入る。昭和2年(1927年)、同店代人。昭和7年(1932年)、赤沢組常務となり、昭和8年(1933年)、大鉄工業取締役米子支店長。昭和19年(1944年)、同社相談役。 昭和20年(1945年)、赤沢組社長に就任。昭和21年(1946年)、伯耆貨物自動車監査役。昭和22年(1947年)、同社取締役を各兼任。なお山陰日日新聞社取締役米子商工会議所常議員を兼務。この間、昭和22年(1947年)、昭和26年(1951年)米子市議各当選。
内田 保秀(うちだ やすひで、明治31年(1898年)1月1… 内田 保秀(うちだ やすひで、明治31年(1898年)1月14日 - 昭和32年(1957年)6月23日)は日本の実業家、政治家。元米吾代表取締役。内田家の12代目。元米子市議会副議長。 大正15年(1926年)社長職に就いた保秀にとって、先代・秀蔵とともに建設を始めた「米子米吾ビル」の竣工が初仕事となった。 昭和22年(1947年)、米子市議会議員に立候補し初当選を果たした。昭和24年(1949年)には、「米吾」を有限会社とした。昭和28年~30年(1953~1955年)には市議会副議長をつとめた。 内田家は代々米問屋を家業としていた。明治7年(1874年)廃業、旅館経営へ転業。明治35年(1902年)国鉄山陰線敷設以来、米子駅構内営業を始める。
遠藤 常久(えんどう つねひさ、1897年(明治30年)12… 遠藤 常久(えんどう つねひさ、1897年(明治30年)12月15日 - 1989年(平成元年)12月)は、日本の実業家。作家・遠藤周作の父。フジテレビジョン代表取締役社長を務めた遠藤龍之介の祖父。 鳥取市出身。愛媛県温泉郡北吉井村出身の弁護士・和泉漱三の三男として生まれ、東伯郡浅津村下浅津(現・湯梨浜町下浅津)の医師・遠藤河津三の養子となる。遠藤家は鳥取藩の典医を務めた家系で、河津三には後嗣がいなかったため、常久を迎えた。 東京帝国大学法学部(独法科)に進学。在学中の1920年に郁と知り合い、翌1921年に結婚。同年に長男の正介、その2年後に次男の周作が誕生した。 卒業後は第三銀行に就職。第三銀行は1923年に安田銀行に統合されている。
織田 収(おだ おさむ、明治30年(1897年)8月15日 … 織田 収(おだ おさむ、明治30年(1897年)8月15日 - 昭和63年(1988年)3月1日)は日本の実業家、政治家、ジャーナリスト。元鳥取県会議員。 山陰のジャーナリストの大御所として、政治・経済・文化・スポーツなど幅広い分野で活動した。 鳥取県米子市東町生まれ。父・永太郎は明治37年(1904年)に『角磐日報』を創刊した米子地方におけるジャーナリズムの先駆者だった。 米子中学(現在の米子東高校)を経て大正9年(1920年)7月東亜同文書院卒業(第17期生)。大正12年(1923年)4月大阪毎日新聞社入社、新聞記者となる。 昭和7年(1932年)12月山陰日日新聞社主幹として帰郷。昭和12年(1937年)4月鳥取県会議員補欠選挙に初当選、以来戦後の昭和21年(1946年)公職追放になるまで県政に参画、昭和15年(1940年)12月大政翼賛会鳥取県支部が結成されると庶務部長に就任、昭和20年(1945年)まで翼賛運動に専念。
荒木 市次郎(あらき いちじろう、1895年〈明治28年〉6… 荒木 市次郎(あらき いちじろう、1895年〈明治28年〉6月11日 - 没年不明)は、日本の会社役員、鳥取県多額納税者、資産家、鳥取県の大地主。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)出身。荒木徳三郎の長男。1912年、家督を相続する。農業、金融業を営む。境貿易取締役・同専務取締役をつとめる。 境貿易の大株主である。境日本海写真倶楽部会員である。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は鳥取県西伯郡境町栄町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
池内 新蔵(いけうち しんぞう、1895年〈明治28年〉6月… 池内 新蔵(いけうち しんぞう、1895年〈明治28年〉6月6日 - 没年不明)は、日本の実業家、鳥取県多額納税者、地主。池内綿糸店社長。鳥取商工会議所顧問。 鳥取県鳥取市出身。池内新蔵の長男。1913年、旧制鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業する。家業の綿糸商を継承する。池内綿糸店、とりせんビル、丸興綿業各社長、鳥取大丸、鳥取瓦斯、日ノ丸証券、日ノ丸金属、日本海テレビ各取締役をつとめる。 鳥取市の豪商である。趣味は刀剣、読書。宗教は真宗。住所は鳥取市元大工町。 池内家は、藩政時代に主として酒造業により繁栄し、「高砂屋十家」と称された高砂屋一族のうちの一家である。「高砂屋十家」はいずれも高砂の郷士・池内氏を祖とし、本町四丁目にあった沢氏(初代高砂屋惣兵衛)と川端二丁目にあった小川氏(初代高砂屋六兵衛)を高砂屋両本家としていた。
青砥 喜三郎(あおと きさぶろう、明治27年(1894年)5… 青砥 喜三郎(あおと きさぶろう、明治27年(1894年)5月5日 - 昭和61年(1986年)8月13日)は、日本の実業家。元米子商工会議所顧問名誉副会頭。元米子信用金庫会長。 元山陰放送社長青砥昇、元米子信用金庫会長青砥順の父。 吉太郎の長男。鳥取県立農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)卒業。 昭和11年(1936年)米子信用組合主事、専務理事を経て第四代組合長に就任。昭和26年(1951年)から28年間にわたって改組後の米子信用金庫理事長を務め、山陰第一位、中国地方第三位の信用金庫の実績を築いた。 この間、鳥取県信用金庫協会会長、中国地区信用協会会長、全国信用金庫協会理事、米子商工会議所副会頭、米子ロータリークラブ会長、美保大空友の会会長、陸上自衛隊米子駐屯部隊協力会長などを務め、業界や地方経済社会の発展に尽くした。
京極 杜藻(きょうごく とそう、明治27年(1894年)4月… 京極 杜藻(きょうごく とそう、明治27年(1894年)4月1日 - 昭和60年(1985年)11月7日)は、日本の俳人、実業家。元京極運輸商事会長。旧姓桶谷。本名友助。 鳥取県米子市尾高町出身。家業は食料品商。桶谷庄蔵の次男。 大正2年(1913年)3月米子中学(現在の米子東高校)卒業。東京高等商業学校(現在の一橋大学)に進んだ。大正3年(1914年)同級の京極山琅子などと学校内に俳句会“南琴吟社”を創立、喝鞭と号し、“ホトトギス”に投句して、初めて雑詠に二句入選する。大正4年(1915年)2月はじめて“ホトトギス”句会に出席し高浜虚子に会う。 大正6年(1917年)3月東京高商卒業。久原鉱業に入社したが、京極山琅子が急死したため、翌年久原を退社、山琅子の京極家を継ぐ。
安住 實治(あずみ さねじ、1893年〈明治26年〉12月2… 安住 實治(あずみ さねじ、1893年〈明治26年〉12月25日 - 没年不明)は、日本の政治家、会社役員。 鳥取県八頭郡那岐村大字奥本(現・智頭町)出身。安住房吉の庶子。家業の農業に従事する。1914年に舞鶴砲兵大隊に入隊し1916年に上等兵に進級、帰休退営する。在郷軍人那岐村分会理事、或いは分会長に就任する。 1929年、砲兵伍長に任官し、また同年に那岐村長に就任、1932年、辞任する。那岐村農会長、自治会長をつとめる。1933年、那岐村会議員に選任される。 那岐運送取締役である。 那岐村の有力者として知られる。不言実行の人である。1922年に刊行された『八頭鳥取地価表 弐百円以上』によると、地価所有高は「666円32銭」である。
沢田 退蔵(さわだ たいぞう、澤田退蔵とも記す。1893年6… 沢田 退蔵(さわだ たいぞう、澤田退蔵とも記す。1893年6月7日 - 1970年2月13日)は、日本の実業家。鳥取県岩井郡浦富村(現・岩美郡岩美町)出身。 オックスフォード大学卒。三菱財閥本社にはいる。その後、三菱より富士紡績に派遣され、大正14年32歳にして取締役就任、昭和19年代表取締役専務(社長に継ぐ次席幹部)に就任。鈴木商店再建のため日本商事(後の双日)設立に尽力、各務記念財団理事、後楽社社長にもなる。 終戦後、財閥解体により公職追放。混乱期の中、大山ハム、東京特殊紡績、ジャパパム・エンジニアリング・カンパニーを創業し社長を務める。日伯中央協会理事として日本・ブラジルの友好につとめる傍ら、(財)日本科学振興財団の役員(評議員)として設立に尽力する。
由谷 正太郎(ゆたに しょうたろう、1893年〈明治26年〉… 由谷 正太郎(ゆたに しょうたろう、1893年〈明治26年〉2月3日 - 1965年〈昭和40年〉)は、日本の実業家。丸由百貨店専務取締役。由谷家4代目。 鳥取県鳥取市川端の呉服商・由谷節の長男。鳥取市立遷喬小学校を経て旧制鳥取県立鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)卒業。呉服太物洋反物卸商を営む。1935年、家督を相続する。 1937年、米原章三と提携し、鳥取駅前にターミナルデパートとして丸由百貨店を設立し、由谷は専務に就任する。 趣味は野球、釣り。宗教は日蓮宗。住所は鳥取市川端4丁目。
増谷 麟(ますたに りん、1892年8月 - 1967年5月… 増谷 麟(ますたに りん、1892年8月 - 1967年5月)は日本の現像技師、実業家である。PCL(現在のソニーPCL)創立社長、日本ポリドール社長等を歴任、「ソニー育ての親」として知られる。 福留繁海軍中将は自著『海軍生活四十年』の中で、増谷の厚い友情にふれている。 ソニー創業者井深大は増谷の葬儀のとき読んだ弔辞の中で次のように述べている。「今のソニーも、増谷さんには創立前から相談にのっていただき、山のものとも海のものとも分からない時に、多額の出資もお願いしました。爾来、名前は、相談役や監査役でしたが、いつも親身になって心配し、喜んでくださいました。…」。
牧田 甚一(まきた じんいち、1892年 <明治25年> 2… 牧田 甚一(まきた じんいち、1892年 <明治25年> 2月27日 - 1986年 <昭和61年> 11月12日)は、日本の経営者。熊谷組社長、会長を務めた。鳥取県倉吉市出身。位階は従四位。 1912年に岩倉鉄道学校建築科を卒業し、1915年に飛島組に入社。1938年に熊谷組の設立に携わり、専務に就任し、1959年3月に副社長に就任し、1967年12月には社長に昇格。1978年12月に会長に就任。 1955年7月に藍綬褒章を受章し、1974年に勲三等旭日中綬章を受章。 1986年11月12日急性心不全のために死去。94歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
長田 清治郎 (ながた せいじろう、1891年〈明治24年〉… 長田 清治郎 (ながた せいじろう、1891年〈明治24年〉7月27日 - 1961年〈昭和36年〉1月10日)は、日本の実業家。三菱化工機社長。 鳥取県鳥取市出身。呉服太物商・長田幾蔵の長男。1915年、神戸高等商業学校を卒業。三菱合資に入社、三菱重工業に配属され長崎支店をふり出しに、本店営業第五部長、機械部長、三原車輛製作所長等を歴任して1946年12月に取締役に選任される。 1950年中日本重工業の取締役に転じて活躍中、偶々三菱化工機が潰れかかったので同社の再建に起用され、1952年1月同社に顧問で入り、翌2月社長に就任する。 1961年1月10日、突然脳出血を起こして東京都世田谷区上馬1丁目の自宅で逝去する。
高田 博愛(たかた ひろちか、1890年〈明治23年〉6月2… 高田 博愛(たかた ひろちか、1890年〈明治23年〉6月25日 - 没年不明)は、日本の実業家、鳥取県多額納税者、地主。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡県村大字福万(のち伯仙町、現・米子市)出身。高田繁太郎の二男。1918年、家督を相続、12代の主となる。農業、金融業、不動産業を営む。マルタ商会代表取締役、雲陽実業銀行、山陰土地各取締役などをつとめる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。高額所得者である。 村内に28町歩の土地を66人に小作させた。村外には約64町歩の土地があった。年の小作米も3000俵といわれ、広大な邸内に米蔵が棟を並べた。別に山林原野が村内に70町歩、村外にも同じ位あった。
中尾 脩(なかお おさむ、1889年〈明治22年〉10月14… 中尾 脩(なかお おさむ、1889年〈明治22年〉10月14日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家、地主、鳥取県多額納税者。族籍は鳥取県平民。 鳥取県八東郡若桜村(のち八頭郡若桜村、現・若桜町)出身。中尾徳雄の二男。長兄の夭折により、鳥取中学校を中途退学する。山林業、農業、貸付業を営む。 1916年(大正5年)、若桜町会議員となる。協立銀行若桜支店長、若桜運送社長、八頭木材取締役、八頭銀行取締役をつとめる。 若桜の山林素封家である。名聞利欲に恬淡であり、県会その他実業団体等に乗り出す機会は幾度もあったが、常に固辞してうけず、時流に超然たる態度をとり、自から長者の風格を持していた。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。
稲田 直道(稻田 直道、いなだ なおみち、1889年(明治2… 稲田 直道(稻田 直道、いなだ なおみち、1889年(明治22年)7月7日 - 1979年(昭和54年)4月29日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(4期)。 鳥取県邑美郡古市村(岩美郡美保村古市を経て現鳥取市古市)で、稲田益造、ちせ夫妻の長男として生まれる。1908年(明治41年)鳥取県第一中学校(現鳥取県立鳥取西高等学校)を卒業。在学中、日露戦争後の満韓の視察を行った。1908年、第六高等学校に入学したが中退し、1909年(明治42年)早稲田大学に転じた。在学中、雄弁会幹事を務め、南極探検事業、理想選挙、憲政擁護運動の遊説を全国各地で行った。1915年(大正4年)同大政治経済科を卒業。
野坂 康久(のざか やすひさ、明治22年(1889年)6月1… 野坂 康久(のざか やすひさ、明治22年(1889年)6月18日 - 没)は、日本の実業家、政治家。旧姓稲田。洋食のレストラン“十字屋”経営主。元米子市会議員(議長)。 外交官、米子市長だった野坂康夫の祖父。弁護士・公証人雑賀愛造の実兄。戦後米子市長を務めた野坂寛治は姻戚関係にある。 鳥取県米子市出身。酒造業稲田家に生まれた。養父は野坂吉五郎。 米子中学校(現米子東高校)から大阪高等工業学校醸造科に進み、同校を明治45年(1912年)3月卒業。初めの10年程は家業に従事したが、海陸運送業、楽器販売、飲食業と、転々仕事を新たにして終戦時に及んだ。 その間昭和8年(1933年)米子商工会議所議員、昭和10年(1935年)米子市会議員に当選。
田中 信義(たなか のぶよし、明治22年(1889年)3月8… 田中 信義(たなか のぶよし、明治22年(1889年)3月8日 - 昭和35年(1960年)4月11日)は、日本の政治家、実業家。参議院議員(1期)。旧姓下田。信儀と表記される場合がある。 衆議院議員下田勘次、鳥取大学長下田光造の弟。 鳥取県八頭郡佐貫村和奈見(現・鳥取市河原町和奈見)に生まれた。下田弥平の三男。 旧制鳥取第一中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)を経て1907年、東京帝国大学農科大学に入学。卒業後帰郷し、八頭郡国英村三谷の田中嘉十郎の養子となる。農業を営む。 早くから郡会議員、郡農会長、県会議員を歴任し、1941年には県会議長に就任するなど地方政界において民政系に属して活躍した。
松下 道蔵(まつした みちぞう、1888年〈明治21年〉10… 松下 道蔵(まつした みちぞう、1888年〈明治21年〉10月8日 - 1961年〈昭和36年〉10月25日)は、日本の実業家、政治家。鳥取県西伯郡境町長(第16代)。境町会議員。 鳥取県西伯郡境町栄町(現境港市)出身。中学校では学術優秀で、常に各級の首席を占める。石油、金物商を営む。また境港合同運送社長、岡田回漕店、境港合同運送各取締役、境實業新報監査役をつとめる。 1941年6月から同年8月まで境町長をつとめる。戦後、公職追放を受ける。 「境町の風習」、「八幡通りの変遷」を絵付きで書き残す。蔵書も多く、読書家であった。 父松下哲成(鉄、石油商)は、第8代境町長。妻は岡田汽船社長岡田庄作の二女、岡田商店社長岡田洲二の姉である。
由谷 義治(ゆたに よしはる、明治21年(1888年)3月1… 由谷 義治(ゆたに よしはる、明治21年(1888年)3月1日 - 昭和33年(1958年)10月8日)は、日本の政治家、実業家。鳥取県多額納税者。鳥取市会議員、鳥取県会議員、衆議院議員。鳥取電機製造社長。 鳥取市川端四丁目、鹿野街道の呉服商で地主の由谷喜八郎の長男に生まれる。油谷家は県内屈指の資産家。 旧制鳥取県第一中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校卒業。在校中に同級生の橋浦時雄らと社会主義グループを結成。早稲田大学中退。父・喜八郎が創業した運送業に従事。1912年家督を相続する。二十代はもっぱら運送屋の若主人として、厚司と前垂れ姿でよく働いた。 1919年(大正8年)5月に市会議員、9月に県会議員となり、1924年に第15回衆議院議員総選挙で衆議院議員に当選して以来、太平洋戦争終結まで政治家として活躍した。
橋谷 義孝(はしたに よしたか、1888年〈明治21年〉2月… 橋谷 義孝(はしたに よしたか、1888年〈明治21年〉2月13日 - 1975年〈昭和50年〉3月5日)は、日本の農学博士、技師、実業家。酵母の専門家である。 鳥取県日野郡宮原村(のち日野郡溝口村宮原・日野郡溝口町宮原、現・西伯郡伯耆町宮原)生まれ。橋谷義治の二男。溝口尋常高等小学校、鳥取県立第二中学校(後の米子中学、現・米子東高校)を経て1915年、東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)を卒業する。大日本麦酒に入社する。 1923年、農学博士の学位を受く。1930年、薬用酵母剤「エビオス」を創製する。1931年、麦酒醸造に関し、学術研究及び視察のため欧米に出張する。名古屋工場長を経て1935年、吹田工場長。
後藤 市右衛門(ごとう いちえもん、前名・仙三、1888年〈… 後藤 市右衛門(ごとう いちえもん、前名・仙三、1888年〈明治21年〉2月8日 - 1956年〈昭和31年〉)は日本の商人(質商)、地主・家主、実業家、鳥取県多額納税者。 鳥取県米子市内町出身。実業家・後藤快五郎の長男。前名・仙三を改め、1927年、家督を相続する。質商を営む。山陰土地監査役、昭和保全、雲陽実業銀行各取締役などをつとめる。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。趣味は書画、骨董、俳句、和歌。宗教は真宗。住所は米子市内町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
永井 貞録(明治20年(1887年)9月25日 - 昭和17… 永井 貞録(明治20年(1887年)9月25日 - 昭和17年(1942年)7月24日)は、日本の政治家、実業家。元鳥取県議会議員。元中浜村会議員。 弓浜組合製糸組合長、西伯郡米子市連合養蚕組合組合長、伯西社組合長、鳥取県養蚕組合長などを勤め、全国屈指の養蚕王国といわれた県下の大御所的存在として、大日本蚕糸会副総裁でもあった。元鳥取県境港市長安田貞栄・元今井書店社長永井準の父、鳥取県議会議員安田優子の祖父。 旧麦垣集落(現在の鳥取県境港市麦垣町)の大農家に生まれる。綿に代わって蚕が主要作物になっていく頃であった。 昭和2年(1927年)鳥取県議会議員となり4期連続当選、昭和9年(1934年)副議長となる。
庄司 廉(しょうじ れん、1887年(明治27年)4月17日… 庄司 廉(しょうじ れん、1887年(明治27年)4月17日 - 1960年(昭和35年)8月10日)は、日本の豪農、実業家、政治家。世人をして“庄司の殿様”といわしめた。女優の司葉子は姪にあたる。 鳥取県西伯郡渡村(現在の境港市渡町)に生まれる。父・昇造の死により8歳で豪農「本庄司家」を継ぎ、杉山永真(のちの郡会議長)を養育係として成長した。 山陰日日新聞社、米子銀行、米子博愛病院等の取締役、渡村村長(第5代)、同村会議員・学務委員。鳥取県多額納税者。大地主にも名を連ね、奥出雲の山林大地主・23代田部長右衛門(元島根県知事)はいとこにあたる。 木下二介や門脇春翠に絵の修行をさせたり、私財を投じて山陰地方初の繭市場を開設する等、非凡にして識見高く、先見の明があって、事に臨んでは果断と実行の人だった。
岡空 林太郎(おかそら りんたろう、明治20年(1887年)… 岡空 林太郎(おかそら りんたろう、明治20年(1887年)2月 - 没年不明)は日本の実業家。岡空家三代目。岡空商店代表者。酒造業並金物商。鳥取県多額納税者。 千代むすび酒造社長岡空晴夫の祖父。 現在の鳥取県境港市出身。先代・林太郎の二男。酒造業並金物商を営み鳥取県多額納税者に列す。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
桜内 辰郎(さくらうち たつろう、旧字体: 櫻內 辰郞、18… 桜内 辰郎(さくらうち たつろう、旧字体: 櫻內 辰郞、1886年〈明治19年〉3月13日 - 1954年〈昭和29年〉11月14日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 1928年、東京府1区から立憲民政党に属し衆院議員に選出され、次期選挙にも当選した。1947年には東京都から参院議員に当選、国民民主党最高委員を歴任。 鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)で生まれた。島根県士族・櫻内和一郎の二男。早稲田大学政治経済科で学んだ(1930年に推薦校友となる)。 亀崎銀行に入り、常務取締役に挙げられた。興國銀行取締役を経て、日本人造絹絲会社を創立し常務取締役に就任した。櫻組工業、日本コナミルク各会社取締役となった。
船越 作一郎(ふなこし さくいちろう、1885年〈明治18年… 船越 作一郎(ふなこし さくいちろう、1885年〈明治18年〉9月20日 - 1967年〈昭和42年〉5月14日)は、日本の実業家、政治家、鳥取県多額納税者、地主。船越合名会社社主。日本クローム工業社長。鳥取県会議員(政友会系中立→中立)。 鳥取県米子市出身。船越熊治郎の長男。1909年、家督を相続する。1907年、早稲田大学専門部政経科を卒業。鉱山業に従事。また貸金業を営む。 1915年、鳥取県議に当選し、少壯團を組織。1925年9月に鳥取県立米子工業学校建築費金1千円を寄附したため1928年8月14日に褒状が下賜される。1927年、米子市議に当選。 『陰陽八郡郡勢一斑』によると、船越の人柄は「資性活達、荘重明敏で、義気に富む」という。
三好 英之(みよし ひでゆき、旧名栄次郎、明治18年(188… 三好 英之(みよし ひでゆき、旧名栄次郎、明治18年(1885年)8月29日 - 昭和31年(1956年)2月14日)は、日本の実業家、政治家。元衆議院議員、参議院議員。元国務大臣北海道開発庁長官。鳥取県米子市名誉市民。三好家第10代当主。鳥取県平民。 大正13年(1924年)衆議院議員に初当選し、戦前に6回の当選を重ねた。地元振興の貢献としては、山陰鉄道開通記念の博覧会に尽力したのをはじめ、山陰実業銀行を設立、戦後はラジオ山陰(現山陰放送)の開局に携わるなど調整能力、行動力は抜群であった。家系は清和源氏、小笠原氏の支流・三好氏。 米子道笑町の商家に生まれる。三好常次郎の次男。 県立第二中学校(現米子東高校)、東京の京華中学を経て明治39年(1906年)に早稲田大学政治経済科を卒業。