桜内 辰郎(さくらうち たつろう、旧字体: 櫻內 辰郞、18… 桜内 辰郎(さくらうち たつろう、旧字体: 櫻內 辰郞、1886年〈明治19年〉3月13日 - 1954年〈昭和29年〉11月14日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 1928年、東京府1区から立憲民政党に属し衆院議員に選出され、次期選挙にも当選した。1947年には東京都から参院議員に当選、国民民主党最高委員を歴任。 鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)で生まれた。島根県士族・櫻内和一郎の二男。早稲田大学政治経済科で学んだ(1930年に推薦校友となる)。 亀崎銀行に入り、常務取締役に挙げられた。興國銀行取締役を経て、日本人造絹絲会社を創立し常務取締役に就任した。櫻組工業、日本コナミルク各会社取締役となった。
斎藤 干城(さいとう かんじょう、明治18年(1885年)1… 斎藤 干城(さいとう かんじょう、明治18年(1885年)12月13日 - 昭和23年(1948年)5月18日)は、日本の医師、陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍軍医中将。鳥取県米子市長。正四位勲一等瑞宝章。 鳥取県米子市尾高町に生まれた。開業医斎藤勇夫の長男。 米子中学(現在の米子東高校)を経て大正元年(1912年)九州帝国大学医学部卒業後、熊本歩兵第13連隊軍医に任官。昭和3年(1928年)、浜田陸軍病院長に就任。昭和5年(1930年)3月、一等軍医正(大佐相当官)に昇進し豊橋陸軍病院長となる。昭和6年(1931年)8月、名古屋陸軍病院長に異動。昭和7年(1932年)12月、第12師団軍医部長となり、第3師団軍医部長に転じた。
船越 作一郎(ふなこし さくいちろう、1885年〈明治18年… 船越 作一郎(ふなこし さくいちろう、1885年〈明治18年〉9月20日 - 1967年〈昭和42年〉5月14日)は、日本の実業家、政治家、鳥取県多額納税者、地主。船越合名会社社主。日本クローム工業社長。鳥取県会議員(政友会系中立→中立)。 鳥取県米子市出身。船越熊治郎の長男。1909年、家督を相続する。1907年、早稲田大学専門部政経科を卒業。鉱山業に従事。また貸金業を営む。 1915年、鳥取県議に当選し、少壯團を組織。1925年9月に鳥取県立米子工業学校建築費金1千円を寄附したため1928年8月14日に褒状が下賜される。1927年、米子市議に当選。 『陰陽八郡郡勢一斑』によると、船越の人柄は「資性活達、荘重明敏で、義気に富む」という。
三好 英之(みよし ひでゆき、旧名栄次郎、明治18年(188… 三好 英之(みよし ひでゆき、旧名栄次郎、明治18年(1885年)8月29日 - 昭和31年(1956年)2月14日)は、日本の実業家、政治家。元衆議院議員、参議院議員。元国務大臣北海道開発庁長官。鳥取県米子市名誉市民。三好家第10代当主。鳥取県平民。 大正13年(1924年)衆議院議員に初当選し、戦前に6回の当選を重ねた。地元振興の貢献としては、山陰鉄道開通記念の博覧会に尽力したのをはじめ、山陰実業銀行を設立、戦後はラジオ山陰(現山陰放送)の開局に携わるなど調整能力、行動力は抜群であった。家系は清和源氏、小笠原氏の支流・三好氏。 米子道笑町の商家に生まれる。三好常次郎の次男。 県立第二中学校(現米子東高校)、東京の京華中学を経て明治39年(1906年)に早稲田大学政治経済科を卒業。
中尾 甚九郎(なかお じんくろう、1884年〈明治17年〉7… 中尾 甚九郎(なかお じんくろう、1884年〈明治17年〉7月22日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。合資会社中尾製材所代表社員。鳥取県八頭郡池田村会議員。若桜運送取締役。鳥取県木材連合会長。 鳥取県八東郡中原村(のち八頭郡池田村中原、現・若桜町)出身。中尾徳蔵の長男。若桜高等小学校を卒業後、家業の農業及び材木商に従事し、池田村収入役、池田信用組合専務理事等を歴任し後に製材所、運送会社、自動車会社等を設立経営する。 宗派は曹洞宗、龍徳寺。住所は鳥取県八頭郡若桜町大字若桜。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
木島 可恵(きしま よしえ、1883年〈明治16年〉12月2… 木島 可恵(きしま よしえ、1883年〈明治16年〉12月2日 - 1973年〈昭和48年〉1月22日)は、日本の会社役員、地主、鳥取県多額納税者、銀行家、政治家。木島合名会社代表社員。鳥取県会議員。鳥取大丸相談役。 鳥取県八頭郡若桜村大字若桜(現・若桜町)出身。木島七次郎の二男。1901年に鳥取中学校を卒業し、第一高等学校に入学したが、父親の死のため中途退学する。 農業、山林業を営む。家業に従事するとともに若桜町会議員となる。さらに森林開発が県産業発達上急務であることに着眼し、常に意をここに注ぎ、地方森林会、県山林会等に関与する。 1910年11月、若桜銀行頭取に就任する。1921年、八頭木材取締役になる。
米原 章三(よねはら しょうぞう、明治16年(1883年)1… 米原 章三(よねはら しょうぞう、明治16年(1883年)11月16日 - 昭和42年(1967年)10月19日)は日本の実業家、政治家。鳥取県多額納税者。鳥取県会議員、貴族院議員。鳥取市名誉市民。旧姓藤縄。 鳥取県八頭郡河原町(現・鳥取市)に生まれた。実父の範七は1885年に県会議員となったが1890年に病没、その後家運は衰退した。国英村の八上高等小学校を終えると鳥取県立簡易農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)に入った。17歳の春に同校を卒業すると、若桜小学校で代用教員として短期間勤務した。 1900年9月、大日本農会附属私立東京農学校(現・東京農業大学)に入学、1903年に卒業。続いて早稲田大学専門部政治経済科に入学。
景山 圭一(かげやま けいいち、明治16年(1883年)10… 景山 圭一(かげやま けいいち、明治16年(1883年)10月18日 - 昭和32年(1957年)4月25日)は、日本の政治家。境町長(第15代)、境町会議員。鳥取県議会議員(議長、副議長)。 景山塾で名高い景山家の出身であり、景山粛の孫、景山龍造の甥にあたる。 鳥取県西伯郡境町(いまの境港市)出身。父は景山桂。 普通選挙法公布を前にして町村会選挙に初めて等級制がなくなった大正10年(1921年)の選挙で町会に進出、時代の波に乗った新勢力、革新派として境町政界に台頭した。 昭和2年(1927年)から20年間県会議員を務めた。町長職にあった昭和13年(1938年)から昭和14年(1939年)にかけては、第38代県会議長の要職にもあって町政、県政を股にかけ、まさしく飛ぶ鳥を落とす勢いであったという。
楠城 嘉一(くすき かいち、1883年〈明治16年〉10月3… 楠城 嘉一(くすき かいち、1883年〈明治16年〉10月3日 - 1942年〈昭和17年〉)は、大正から昭和時代前期の政治家、銀行家。鳥取県鳥取市長。旧姓は西垣。 西垣新次郎の三男として鳥取県八頭郡隼村(現・八頭町)に生まれ、楠城勘太郎の養嗣子となる。1917年(大正6年)10月、鳥取市会議員に当選し、以来1927年(昭和2年)12月まで在職する。ほか、協立銀行取締役、鳥取市参事会員、鳥取市会議長などを歴任し、1927年(昭和2年)12月20日、鳥取市長に就任した。 市長在職中は、下水道の新設、鳥取市立病院の設置、市立高等女学校・青年学校の新設、鳥取放送局の設置などに尽力した。
谷口 源十郎(たにぐち げんじゅうろう、1883年〈明治16… 谷口 源十郎(たにぐち げんじゅうろう、1883年〈明治16年〉5月7日 - 1979年〈昭和54年〉11月21日)は、日本の実業家、政治家、鳥取県多額納税者。衆議院議員(当選2回)。鳥取銀行取締・相談役。 鳥取県岩美郡大路村(のち岩美郡米里村東大路、現・鳥取市東大路)の豪農の家に生まれた。谷口竫晃の長男。1902年、鳥取県立鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)卒業。農業を営む。 鳥取税務署管内所得調査委員、広島税務署監督局管内所得審査委員、鳥取県議、米里村議、岩美郡農会長、鳥取県農会議員となる。因伯産業社長、大正鳥取銀行取締役、鳥取新報社監査役、鳥取県米穀会副会長、鳥取銀行頭取、鳥取大丸取締役となる。
豊田 収(とよだ おさむ、1882年(明治15年)11月25… 豊田 収(とよだ おさむ、1882年(明治15年)11月25日 - 1969年(昭和44年)7月24日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員を6期務めた。青山学院大学講師、中央大学講師も務めた。 父は教育者の豊田太蔵。国土交通官僚の竹歳誠(国土交通事務次官や内閣官房副長官など歴任)は豊田の妹の孫にあたる。 鳥取県八橋郡由良村(現東伯郡北栄町)出身。 1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学独法科卒業。オックスフォード大学に留学。 帰国後鉄道書記官、鉄道監察官を歴任する。 1928年(昭和3年)に立憲政友会公認で第16回衆議院議員総選挙に立候補して初当選、以降総選挙に連続6回当選。岡田内閣大蔵参与官、鉄道会議議員、土木会議議員、鈴木内閣大東亜政務次官となる。
小川 貞一(おがわ ていいち、1882年(明治15年)1月1… 小川 貞一(おがわ ていいち、1882年(明治15年)1月19日 - 1943年(昭和18年)10月27日)は、大正から昭和時代初期の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。旧姓・山崎。 鳥取県八橋郡赤崎宿(赤崎村、東伯郡赤崎村、赤碕町を経て現琴浦町赤碕)で山崎元一の長男として生まれ、東伯郡倉吉町(現倉吉市河原町)の小川貞四郎の養子となる。1915年(大正4年)倉吉町会議員に就任したのを皮切りに、東伯郡会議員、鳥取県会議員などを歴任。女子教育の振興に貢献し、鳥取県立倉吉高等女学校(現鳥取県立倉吉西高等学校)、鳥取県女子師範学校、鳥取高等農業学校の設立に尽力した。 また、小川合名会社を設立して酒・醤油醸造業、製糸業を経営した。
松本 倭重(まつもと わじゅう、1881年〈明治14年〉10… 松本 倭重(まつもと わじゅう、1881年〈明治14年〉10月9日 - 1943年〈昭和18年〉11月13日)は、日本の会社役員、地主、政治家。鳥取県会議員(政友会)。鳥取県西伯郡県村長。米子共立検番監査役。合資会社米子均一タクシー自動車商会有限責任社員。 鳥取県西伯郡県村(現・米子市)出身。鳥取県立農学校卒業。郡会議員、県村会議員、学務委員、鳥取県会議員、参事会員等を歴任。1923年、県村長に就任。 大日本國粹会鳥取県米子支部長である。住所は鳥取県西伯郡県村大字日下。
中尾 敬吉(なかお けいきち、1881年〈明治14年〉8月2… 中尾 敬吉(なかお けいきち、1881年〈明治14年〉8月26日 - 没年不明)は、日本の実業家、醸造家、政治家。若桜町会議員。 鳥取県八頭郡若桜村(現・若桜町)出身。中尾徳次郎の二男。1902年、中尾修家より分家する。病気のため鳥取中学校を3学年で中途退学する。若桜赤松組合村会議員に挙げられる。 1912年、若桜神社氏子総代、同年に醤油醸造業を経営する。1917年、江島神社崇敬総代。第1回国勢調査員となる。三倉谷土工森林組合監事、中尾製糸場持主、淵見製材合資会社有限責任社員である。 1922年に刊行された『八頭鳥取地価表 弐百円以上』によると、中尾敬吉の地価所有高は「852円25銭」である。趣味は書画、書道、骨董。
遠藤 光徳(えんどう みつのり、1881年〈明治14年〉2月… 遠藤 光徳(えんどう みつのり、1881年〈明治14年〉2月4日 - 1973年〈昭和48年〉4月24日)は、日本の実業家、政治家。鳥取県米子市名誉市民。 鳥取県西伯郡外江村(現在の境港市外江町)出身。遠藤久壽の長男。1895年、弓ケ浜高等小学校を卒業。 少年時代に米子の坂口平兵衛本店に入店、店員となる。3年はただ働きだった。忠実に奉公しているうちに坂口平兵衛に認められ、同家の大番頭に挙げられる。1924年、坂口合名会社の支配人となる。 1921年、米子町会議員に当選後、米子市議会議員・鳥取県議会議員などの公職をつとめ、米子市議会議長に15年8ケ月にわたり在職する。 鋳物諸工具製造業を営む。幾多の事業に関係し、米子製鋼所、大谷オフセット印刷各社長、米子電車軌道、皆生温泉土地各取締役、山陰農具監査役などをつとめる。
岡田 庄作(おかだ しょうさく、明治13年(1880年)10… 岡田 庄作(おかだ しょうさく、明治13年(1880年)10月 – 没年不明)は、日本の実業家、政治家。元境商工会会頭、岡田汽船・岡田物産・境港合同運送各(株)社長。元ネオセメント・合同汽船各(株)取締。元境町会議員、西伯郡会議員。鳥取県平民。鳥取県多額納税者。海運業。幼名泰助。 岡田商店の元代表取締役会長岡田洲二の父。 岡田庄作の二男。前名泰助を改め襲名する。 境港海運界の重鎮として境港発展に尽くした功績は特筆すべきものがあった。 市内光祐寺西の墓地に眠る。その墓碑に元町長足立正による墓誌銘が刻まれている。
矢田貝 猶治(やたがい ゆうじ、1880年〈明治13年〉 -… 矢田貝 猶治(やたがい ゆうじ、1880年〈明治13年〉 - 1921年〈大正10年〉)は、日本の会社役員、政治家、醸造家、素封家、鳥取県の大地主。矢田貝家3代目。中国貯蓄銀行取締役。米子信託監査役。鳥取県西伯郡会議員。大幡村会議員。大幡信用購買組合監事。 鳥取県会見郡大幡村大字上細見(のち西伯郡岸本町大字上細見、現・西伯郡伯耆町大字上細見)出身。酒、醤油醸造業を営む。連合国傷病兵罹災者慰問会寄付者である。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
本城 藤造(ほんじょう とうぞう、明治13年(1880年) … 本城 藤造(ほんじょう とうぞう、明治13年(1880年) - 昭和7年(1932年))は、日本の政治家。第34代鳥取県会議長。元鳥取県気高郡大和村長。農業。 鳥取県気高郡大和村横枕(現・鳥取市横枕)に生まれる。大和村長を務めた本城竹次郎の長男。 1895年、鳥取県立農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)卒業。 1901年から農業技術員として鳥取・大分・群馬・新潟県下に勤務。 1919年に大和村長、1923年から鳥取県会議員となり、1932年に第34代鳥取県会議長に就任したが、2ヵ月足らずで任期中に死去。 民政党鳥取県支部幹事長、鳥取県一心会評議員も務めた。
後藤 脩(ごとう しゅう、1879年(明治12年)8月11日… 後藤 脩(ごとう しゅう、1879年(明治12年)8月11日 - 1957年(昭和32年)1月15日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(当選1回、三重県第二区選出)。三重県松阪市長。日本出版社長。 鳥取県会見郡彦名村(現在の米子市)出身。後藤綾の弟。学歴等は不明。 1903年(明治36年)より三重県津市で出版業を始める。1906年(明治39年)、組織を改めて「合資会社三重出版社」とする。1924年(大正13年)に組織を「三重出版社株式会社」に改め、社長に就任した。そのかたわら南勢新聞社常務取締役、松阪信用組合理事などに就任した。さらに松阪町会議員、同市会議員、三重県会議員、同参事会員に選出された。
安住 忠治(あずみ ちゅうじ、1878年〈明治11年〉8月2… 安住 忠治(あずみ ちゅうじ、1878年〈明治11年〉8月24日) - 没年不明)は、日本の政治家。 鳥取県八頭郡那岐村大字奥本(現・智頭町)出身。安住房五郎の長男。小学校を卒業する。農業を営む。 収入役に選ばれる。1917年、村会議員に当選する。1918年、助役となる。1919年、郡会議員に選出、同時に参事会員となる。 有限責任那岐信用購買販売組合理事である。 那岐村に於ける有力家である。1922年に刊行された『八頭鳥取地価表 弐百円以上』によると、地価所有高は「1460円64銭」である。趣味は政治、植林。住所は鳥取県八頭郡那岐村大字奥本。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
西尾 常彦(にしお つねひこ、1877年(明治10年)1月1… 西尾 常彦(にしお つねひこ、1877年(明治10年)1月14日 - 1947年(昭和22年))は、大正から昭和時代前期の政治家、警察官。鳥取県米子市長。 西尾利平の長男。鳥取県会見郡彦名村(西伯郡彦名村を経て現米子市)出身。1906年(明治39年)1月、鳥取県警部に任じ、島根県警視を経て、松江警察署長となる。1919年(大正8年)5月、島根県能義郡長に転じ、美濃郡長、簸川郡長などを歴任したのち1922年(大正11年)米子町長に就任した。1926年(大正15年)4月、再選を経て1927年(昭和2年)4月、米子市設立と共に市長代理となり、同年6月21日、米子市長に就任した。
石谷 源十郎(いしたに げんじゅうろう、1876年〈明治9年… 石谷 源十郎(いしたに げんじゅうろう、1876年〈明治9年〉11月30日 - 1951年〈昭和26年〉)は、日本の実業家、政治家、鳥取県多額納税者、地主。鳥取県会議員。鳥取県八頭郡智頭町会議員。八頭銀行頭取。因幡木材会社社長。因伯時報社取締役。 鳥取県八頭郡智頭町大字智頭出身。石谷源蔵の長男。1896年、鳥取中学校を卒業する。1905年、家督を相続する。父祖の家業である農業、林業の経営に従事する。 1911年、鳥取県会議員に当選し1期間をつとめ政友会鳥取県支部の幹部として活躍し、1919年、政友会鳥取県支部幹事長に挙げられる。 政友会に属し、地方名望家としてその名を知られる。政友会系統の政治家として智頭町を二分してアンチ米原民政派の勢力の中心だった。
下田 勘次(しもだ かんじ、1875年(明治8年)11月4日… 下田 勘次(しもだ かんじ、1875年(明治8年)11月4日 - 1939年(昭和14年)7月3日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。大正鳥取銀行監査役。鳥取新報社長。鳥取県平民。 元鳥取大学長下田光造、元参議院議員田中信義の兄。 鳥取県八頭郡佐貫村和奈見(現鳥取市河原町)出身。下田弥平の長男。 鳥取一中(現鳥取西高)に学び、また漢籍を林良造に学んだ。 1904年(明治37年)村会議員、1907年(明治40年)に八頭郡会議員、1911年(明治44年)鳥取県会議員となり、引き続き1920年(大正9年)まで3期当選した。この間佐貫村長も務めた。 1920年(大正9年)5月、原内閣のときの第14回衆議院議員総選挙では、憲政会に推されて鳥取県第2区から立候補して当選し、1期在任した。
荒木 久九郎(あらき ひさくろう、1875年〈明治8年〉10… 荒木 久九郎(あらき ひさくろう、1875年〈明治8年〉10月8日 - 没年不明)は、日本の商人(呉服太物商)、政治家、実業家、荒木合名会社社員。合資会社荒木呉服店代表。境貿易監査役。境電気取締役。鳥取県西伯郡境町会議員。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)出身。荒木重造の実兄である。境製糸社員だったが1902年にその出資額全部を社員の荒木徳三郎へ譲渡し退社する。国産古着、白木綿、呉服、反物、綛糸卸商を営む。 荒木呉服店は土地に於ける第一流の商店であったが、家族に不幸が続き、営業に全力を注ぐことができなかったので、1914年10月にやむなく整理を発表した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
中谷 龜治(なかたに かめはる、明治8年(1875年)10月… 中谷 龜治(なかたに かめはる、明治8年(1875年)10月 - 没年不明)は日本の農民、政治家。元鳥取県八頭郡佐治村会議員、八頭郡会議員。農業。 医師中谷隼男の父。孫恭子は精神医学者下田光造の養女。 鳥取県八頭郡佐治村高山・中谷貞次郎の二男。 因幡高等小学校に学び明治33年(1900年)中佐治村会議員に挙げられ三佐治合併以来今日迄引続き村会議員及学務委員に就任。 明治43年(1910年)八頭郡会議員となり八頭郡宅地地価修正委員等となり一期間就職し退職した。
木島 岩太郎(きしま いわたろう、1875年〈明治8年〉9月… 木島 岩太郎(きしま いわたろう、1875年〈明治8年〉9月5日 - 1957年〈昭和32年〉)は、日本の会社役員、地主、銀行家、政治家。 鳥取県八頭郡若桜村大字若桜(現・若桜町)出身。木島嘉七郎の長男。因幡高等小学校に学ぶ。貨物運送業、倉庫業、木材製造販売業を営む。1902年、若桜赤松組合村会議員となり、以来継続して若桜町会議員となる。 1911年4月に若桜町助役、1912年5月に辞任する。八頭郡所得税調査委員を4年つとめる。八頭郡会議員に6年在職し、副議長を1年つとめる。 合資会社若桜銀行業務担当社員、木島合名会社社員、因幡木材合資会社有限責任社員となる。1918年4月、同志と共に若桜運送を創立し、その監査役となる。
石破 市造(いしば いちぞう、1874年〈明治7年〉12月2… 石破 市造(いしば いちぞう、1874年〈明治7年〉12月2日 - 1941年〈昭和16年〉1月19日)は、日本の農民、政治家。鳥取県八頭郡大御門村長、同村会議員、同信用組合理事を歴任。 参議院議員や第39代鳥取県知事を務めた石破二朗の父で、第102・103代内閣総理大臣、第28代自由民主党総裁の石破茂の祖父。 鳥取県八東郡大御門村大字殿(後の郡家町、現・八頭町)で石破常七の長男として農家の家に生まれた。高等小学校卒業後は家業たる農業に従事したが、明治27年(1894年)隼村役場書記を拝命。明治28年(1895年)大御門村役場に転じ明治33年(1900年)辞任。明治35年(1902年)村書記復職。
万井 源太郎(よろい げんたろう、1874年〈明治7年〉9月… 万井 源太郎(よろい げんたろう、1874年〈明治7年〉9月19日 - 1947年〈昭和22年〉6月22日)は、日本の商人(茶商)、実業家、政治家。昭和バラス社長。鳥取商工会議所会頭。日ノ丸自動車監査役。鳥取市会議長(22代)。 鳥取県八頭郡八東村(現・八頭町)出身。茶商、茶器販売業を営む。1917年(大正6年)、鳥取市会議員に当選する。1931年(昭和6年)5月31日、鳥取市会議長に就任する。 1947年6月22日、鳥取市川端4丁目の自宅にて急性腹膜炎のため死去。 宗教は浄土宗。趣味は碁、読書。住所は鳥取市川端4丁目。
石破 滝蔵(石破 瀧藏、いしば たきぞう、1874年〈明治7… 石破 滝蔵(石破 瀧藏、いしば たきぞう、1874年〈明治7年〉6月16日 - 没年不明)は、日本の政治家。鳥取県八頭郡大御門村長。大御門村会議員。大御門信用組合監事。鳥取県園芸会評議員。八東園芸組合長。旧姓・山本。 鳥取県岩美郡倉田村円通寺(現・鳥取市)・山本粂七の二男。小学校卒業後、家業の農業に従事する。1909年、石破家入夫となる。 1913年、大御門村会議員となり1917年、満期退任後農業に従事する。傍ら果樹園を経営する。 1927年12月、大御門村長に就任し1929年4月、辞任する。 1912年に刊行された『五百円以上所有者地価表姓名録 因幡の巻』によると、石破の地価所有高は「513円96銭」である。
永見 勘太郎(ながみ かんたろう、1874年(明治7年)4月… 永見 勘太郎(ながみ かんたろう、1874年(明治7年)4月13日 - 1947年(昭和22年)3月6日)は、日本の政治家。中浜村長(第6代)、中浜村会議員、郡会議員。 第3代中浜村長永見林三郎の長男。 小篠津村(のち鳥取県境港市小篠津町)に永見林三郎の長男として生まれる。永見家は勘太郎の祖父清四郎が初代で、四国から藍玉を仕入れる仕事を始めるとともに、自家も紺屋を営んで一代で財を成したといわれる。 父林三郎が村長を退くと入れ替わりに村会に出、郡会議員も3期務めた。 村長在任中は不景気の最中で大篠津繭市場も倒産し、出資者の一人だった勘太郎もかなりの畑を失った。 昭和5年(1930年)にはついに農家更生村の指定を受けて、公益質屋や負債整理組合を発足させた。
奥田 亀造(おくだ かめぞう、明治5年3月8日(1872年4… 奥田 亀造(おくだ かめぞう、明治5年3月8日(1872年4月15日) - 昭和19年(1944年)3月24日)は、日本の実業家・漁業家(オツタートロール漁業の先覚者、機船底曳網漁業の創始、角輪組設立)、政治家(衆議院議員、貴族院議員)。 第2回水産博覧会で朝鮮半島沿岸漁場とオッタートロールの知識を得、まず、オッタートロールに関し、1901年に鳥取県知事に山陰沖の漁業権許可を申請したが、反対運動が起きたため香川輝知事は拒否を決せずこれを握り潰した。他方、朝鮮半島沿岸漁場に関しては、1902年から1903年にかけて、韓国東北海岸漁業探検を実施、相当の漁獲をあげられることを確認した。1904年には寺田祐之知事の賛意を得てオツタートロール汽船海光丸を建造。
落合 恒雄(おちあい つねお、1872年〈明治5年〉 - 1… 落合 恒雄(おちあい つねお、1872年〈明治5年〉 - 1940年〈昭和15年〉)は、日本の武道家、政治家。 鳥取県出身。米子市西町、落合甚大夫の養子。少時より剣道を修業する。米子中学校(現・米子東高校)修学。1905年、大日本武徳会教員養成所に入所、内藤高治範士の門下生となる。卒業後米子中学校(現・米子東高校)武道教員を拝命する。 1912年に師範学校、中学校教員剣道講習会において課程を修了する。1917年12月より1921年10月まで西区長として自治に尽力する。1921年9月より1927年3月まで米子町会議員として町政に参与する。1927年7月、西区長に再任。 1921年に剣道精錬証を取得、武徳会地方幹事、青年演武大会審判員となる。
加島 恵太郎(かしま けいたろう、明治4年4月13日(187… 加島 恵太郎(かしま けいたろう、明治4年4月13日(1871年5月31日) - 昭和25年(1950年)7月6日)は日本の実業家、政治家、漢詩人。鳥取県西伯郡境町長(第5代、7代)、境町会議員、鳥取県会議員。号は洗心。 境町に生まれた。加島房太郎の実弟。 鳥取中学から東京物理学校に学んだが、病気のため帰郷した。家業の加島呉服店を手伝い、28歳で独立して隠岐汽船、境ドッグ、境電気等の会社経営に関係した。 2度にわたって町長をつとめたが名誉職だったので、生活の基盤は家業にあり、急用が起きると走って役場に出かけた。 明治38年(1905年)9月、日露戦争戦勝祝賀会を挙行、町中が沸く中を杉山校長と共に旗行列、提灯行列の先頭に立った。
田江 泰造(たごう たいぞう、1871年1月17日(明治3年… 田江 泰造(たごう たいぞう、1871年1月17日(明治3年11月27日)- 1939年(昭和14年)6月5日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、日本画家。衆議院議員、鳥取県会議長、鳥取県東伯郡下北条村長。号・素堂、素道、素翁。 伯耆国久米郡弓原村(鳥取県久米郡下北条村、東伯郡下北条村弓原、北条町を経て現北栄町弓原)で、大庄屋田江弥三郎の長男として生まれる。父が設けた自邸内の家塾・択善学舎で学んだ。 農業を営み、牧畜、蚕業の改良に尽力した。また製糸工場を経営した。下北条村会議員に就任。1896年(明治29年)東伯郡会議員となる。同年、鳥取県会議員に選出され7期30年間在任。1927年(昭和2年)県会議長に就任した。
坂口 惣五郎(さかぐち そうごろう、1870年12月25日〈… 坂口 惣五郎(さかぐち そうごろう、1870年12月25日〈明治3年11月4日〉 - 1939年〈昭和14年〉3月17日)は、日本の政治家、実業家、地主。米子市会議員。カギさ醤油醸造元坂口商店取締役社長。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡米子町大字尾高町(現・米子市尾高町)出身で、生家は木綿問屋。木綿商・坂口平吉郎の四男。1902年、兄・平兵衛方より分家をする。 会社の重役であり、坂口商店代表取締役、大谷オフセット社長、米子家畜市場、日本製絲、山陰水産、米子電車軌道、米子製鋼所各取締役、米子電車軌道、博愛病院各監査役、有限責任米子信用組合第二代組合長などをつとめる。 1907年から1911年まで米子町収入役をつとめる。
長谷川 万蔵(はせがわ まんぞう、明治3年(1870年)8月… 長谷川 万蔵(はせがわ まんぞう、明治3年(1870年)8月 - 没年不明)は日本の政治家。元鳥取県議会議員。元富益村長。 現在の鳥取県米子市富益町に生まれた。善十郎の二男。家は代々農を業とす。教えを郷校に受け和漢の書を修めた。前代より副業として質商を営んだが万蔵の代に至り倍々業務に勉め隆昌に向かう。 明治32年(1899年)富益村長に当選。明治32年(1899年)9月郡会議員に当選。米子外十四ヶ町村組合角盤高等小学校議員米川水利組合議員等責務に就き多年村治に郡政に尽瘁する。 衆民の輿望により県会議員に当選。 県下有数の名士として庶民の推重を受くる。 『陰陽八郡郡勢一斑』には「性温厚にして寡言、堂々たる風丰全く長者の風備はる」とある。
稲田 藤治郎(いなだ とうじろう、明治2年3月21日(186… 稲田 藤治郎(いなだ とうじろう、明治2年3月21日(1869年5月2日) - 昭和17年(1942年)2月22日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員。稲田家の七代目。鳥取県平民。 弁護士・公証人雑賀愛造、洋食のレストラン“十字屋”経営主で元米子市会議員野坂康久などは稲田一族の出身である。 鳥取県米子市久米町出身。稲田喜重郎の二男。家業は酒・醤油醸造業(現・稲田本店)。 明治21年(1888年)東京高等商業学校(一橋大学の前身)卒業。 明治25年(1892年) 久米町にてビール工場を建設。本場ドイツで学んだ技師を雇い入れ、瓶は手拭で手造り、長いコルク栓でガス漏れを防ぐ等の工夫を凝らし“イナタビール”として売り出す。
奥田 柳蔵(柳藏、おくだ りゅうぞう、1868年12月15日… 奥田 柳蔵(柳藏、おくだ りゅうぞう、1868年12月15日(明治元年11月2日)- 1942年(昭和17年)2月10日)は、明治から昭和前期の大地主、農業経営者、林業家、実業家、政治家。衆議院議員、14代奥田家当主。 因幡国高草郡猪子村(鳥取県高草郡大和村、気高郡大和村字猪子を経て現鳥取市猪子)で、大地主、大庄屋・奥田長十郎の長男として生まれ、1884年(明治17年)1月、家督を相続した。漢籍を修めた 国民協会に加わり、その解散後、同志と政治結社・因幡同志会を結成した。1895年(明治28年)大和村会議員となる。気高郡会議員も務め、1899年(明治32年)鳥取県会議員に選出され1期在任した。1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙で鳥取県郡部から出馬して初当選。
本角 文蔵(もとずみ ぶんぞう、慶応4年7月14日(1868… 本角 文蔵(もとずみ ぶんぞう、慶応4年7月14日(1868年8月31日) - 昭和10年(1935年)1月25日)は、日本の政治家。中浜村長(第4代)。初代中浜村長本角寅造の義弟。 小篠津村(のち鳥取県境港市小篠津町)の本角家は代々"与平"、"所十郎"を襲名する豪農で、大庄屋をつとめた由緒ある家柄だった。 29歳で村長に就任し、大正3年(1914年)から耕地整理事業に着手したほか、米川水利灌漑事業、信用組合創設等を行って養蚕で栄える本村農業の振興につとめた。 さらに農業補習学校の分教場制度を廃止して、教育の質的向上を図り、尋常高等小学校の増築もなした。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
門永 昇平(かどなが しょうへい、明治元年(1868年)6月… 門永 昇平(かどなが しょうへい、明治元年(1868年)6月1日 - 没年不明)は日本の実業家、政治家。鳥取県西伯郡境町中屈指の豪商。元境町会議員。 鳥取県西伯郡上道村(現境港市上道町)出身。厳父浅重の二男。 弱冠にして実家の業務を扶け大に商業の経験を積み明治23年(1890年)8月境町に分家し、始め酒類販売及び砂糖商を開き一意専心業務に力めたことにより、日増しに繁栄に向かい資産増殖する。 従来の家業を廃し質屋肥料商を開く。明治33年(1900年)実に壮観なる家宅を新築する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
山本 熊吉(やまもと くまきち、慶応3年10月1日(1867… 山本 熊吉(やまもと くまきち、慶応3年10月1日(1867年10月27日) - 大正10年(1921年)2月2日)は、日本の漢詩人、政治家。鳥取県西伯郡境町長(3代)。鳥取県会議員(議長)、郡会議員、町会議員。号碧湾。 境町長(17代)山本亮の父。 川店(かわみせ)と号する資産家の出身。 明治32年(1899年)7月境町長となる。 病気のため明治33年(1900年)4月町長を辞任したが、同年花町に伝染病院を建設した。更にこの年宿願の鉄道敷設工事着工に伴い、県営の荷揚場拡張工事に着手した。 明治36年(1903年)この荷揚場工事の完成と朝鮮貿易を目的として設立された境貿易株式会社への補助金確保のため。
野坂 吉五郎( 慶応2年9月21日(1866年10月29日)… 野坂 吉五郎( 慶応2年9月21日(1866年10月29日) - 没年不明)は日本の実業家、政治家。元中国興業銀行常務取締役。元中国貯蓄銀行取締役。元米子町会議員、郡会議員。自治功労者。地主。 元衆議院議員野坂茂三郎の弟。元米子市長野坂寛治の叔父。洋食のレストラン“十字屋”経営主で米子市会議員を務めた野坂康久の養父。米子市長野坂康夫は曾孫にあたる。 伯耆国米子法勝寺町(現鳥取県米子市法勝寺町)の商家に生まれた。屋号は油屋。野坂與八郎の五男。 明治14年(1881年)家督を相続す。 大正2年(1913年)9月、町会議員(一級)に当選。 大正4年(1915年)9月30日 - 大正8年(1919年)9月29日、郡会議員。
木下 義之(きのした よしゆき、1866年9月24日〈慶応2… 木下 義之(きのした よしゆき、1866年9月24日〈慶応2年8月16日〉 - 1923年〈大正12年〉6月9日)は、日本の政治家、衆議院議員(鳥取市選出、当選1回)、地主。旧姓は足羽。族籍は鳥取県士族。 伯耆国日野郡二部村(のち鳥取県日野郡溝口町二部、現・伯耆町)出身。士族・足羽純亭の六男。1889年、木下家に養子入りする。鳥取市会議員、同議長、鳥取県会議員、同参事会員、鳥取県農工銀行取締役となる。 鳥取電燈創立の際に監査役となり、のちに取締役となる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において鳥取市選挙区から立憲政友会公認で立候補して当選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
石谷 伝四郎(石谷 傳四郎、いしたに でんしろう、1866年… 石谷 伝四郎(石谷 傳四郎、いしたに でんしろう、1866年6月12日(慶応2年4月29日)- 1923年(大正12年)12月19日)は、明治から大正期の実業家、政治家。鳥取県平民。鳥取県多額納税者。 因幡国智頭郡、のちの鳥取県智頭郡智頭村(八頭郡智頭村を経て現智頭町)に生まれる。石谷伝九郎の長男。石谷家は智頭四軒衆と呼ばれた素封家のひとつで、山林経営によって江戸時代の大庄屋から智頭の筆頭地主となった豪家。 慶應義塾を卒業し、家業を継いだ。町会議員、県会議員となって活躍した。 1898年(明治31年)には衆議院議員に初当選し、その後も2回再選された。1903年(明治36年)春、日本美術院長の岡倉天心が智頭町にある豊乗寺の国宝調査に訪れた際、国米泰石の技量の高さを岡倉天心に示したところ、国米泰石は岡倉天心に招かれて日本美術院に入ることとなった。
山口 嘉蔵(嘉藏、やまぐち かぞう、1865年4月9日(慶応… 山口 嘉蔵(嘉藏、やまぐち かぞう、1865年4月9日(慶応元年3月14日)- 1943年(昭和18年)8月4日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・蔵合。 伯耆国久米郡倉吉宿堺町五軒屋(鳥取県久米郡倉吉町、東伯郡倉吉町を経て現倉吉市堺町)で、蔵合家に生まれる。家が貧しく、丁稚として働いていたが、1885年(明治18年)に出奔して大阪に向かった。何も当てがなかったが、偶然に実業家・山口玄洞と出会ってその手代として働いた。その働きが認められ番頭になり、1892年(明治25年)7月、先代・山口玄洞の養子となりその長女ますと結婚して山口に改姓した。 1895年(明治28年)洋織物商を営み成功し、日本毛織監査役、東洋製鋼所取締役社長、大日本窯業取締役、日本機械製造取締役、山陰紡織取締役、倉吉紡績取締役、長門起業炭礦取締役などを務めた。
足立 正(あだち せい、元治2年1月10日(1865年2月5… 足立 正(あだち せい、元治2年1月10日(1865年2月5日) - 昭和22年(1947年)10月29日)は、日本の教育者、郷土史家、政治家。きよしこの夜の訳詞者由木康の実父。実業家足立荘の実兄。 坪井正五郎、喜田貞吉、沼田頼輔など一流の学者と親交を持ち、西伯耆を中心とする考古学、歴史学の研究と資料収集にその生涯を捧げた。元境町長。 島根県松江師範学校卒業後は上道小学校で教員となり、1888年(明治21年)からは上道の弓浜高等小学校に12年間務めた。 1900年(明治33年)からは西伯郡淀江町今津の養良高等小学校の校長に就任した。20年以上の在職中には1903年(明治36年)設立の養良農業補習学校での業績を評価され、表彰もされている。
中本 範治(なかもと はんじ、1865年〈慶応元年〉 - 没… 中本 範治(なかもと はんじ、1865年〈慶応元年〉 - 没年不明)は、日本の会社役員、地主、名望家、篤農家、政治家。鳥取県西伯郡県村長。古豊千村、八幡村組合村長。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡県村(現・米子市)出身。宇平の嫡男。村夫子に従い漢籍、句読、習字、算数の術を学ぶ。 1890年、自由党に入党する。政友会の組織が成立すると、その会員となる。町村制実施と共に村役場書記となり、1894年に郡書記に栄転する。 1898年、県村長に推される。郡立病院監事、米子農業倉庫監事、尾高井手水利組合管理者等を兼ねる。大山自動車取締役、県報徳社理事、保証責任製糸信用販売購買利用組合理事をつとめる。郡会議員、郡参事会員、その他の公職に就く。
臼田 久内(うすだ きゅうない、1864年2月26日〈文久4… 臼田 久内(うすだ きゅうない、1864年2月26日〈文久4年1月19日〉 - 1945年〈昭和20年〉7月4日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。族籍は鳥取県士族。 因幡国法美郡立川町(現鳥取県鳥取市立川町)で、鳥取藩士・臼田久雄、つね夫妻の二男として生まれる。立川小学校を卒業後、京都市丸太町烏丸の林益習館で学んだ。 小学校教員を経て、第八十二国立銀行に勤務。1895年(明治28年)神戸の戸崎商店に入り大牟田支店詰となる。1905年(明治38年)に独立して臼田商会を設立。鉄道鉱山用材料の輸入商を営み、炭鉱に鉄類などを納入して事業を発展させた。 その後、三池無尽取締役、大牟田瓦斯取締役社長、帝国セメント監査役、大牟田製氷取締役社長、博多株式取引所理事などを務めた。
増谷 喬(ますたに たかし、文久3年(1863年)6月5日)… 増谷 喬(ますたに たかし、文久3年(1863年)6月5日) - 昭和19年(1944年)4月13日)は日本の政治家。上道村長(5代)、上道村会議員。 二女よしは元鳥取弁護士会会長君野順三の弟で醤油醸造業君野秀三(元若桜町町長)の妻。ソニー育ての親として知られる増谷麟(元東宝常務、PCL創立社長、日本ポリドール社長)は三男。 上道村(現鳥取県境港市上道町)出身。家業は薬問屋、醤油醸造。若いころから村会議員を務め一派を形成していた。大正15年(1925年)5月から昭和4年(1929年)9月まで上道村長を務めた。 短歌や墨絵を趣味とし、囲碁も強くて碁打ち友達がよく来ていた。
坂口 常次郎(さかぐち つねじろう、1863年5月31日〈文… 坂口 常次郎(さかぐち つねじろう、1863年5月31日〈文久3年4月14日〉 - 没年不明)は、日本の政治家、実業家。坂口商店代表社員。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡米子町大字尾高町(現・米子市尾高町)出身。木綿商・坂口平吉郎の三男。坂口喜平の養子となる。 尾高区区長、西伯郡会議員、米子町収入役、米子町会議員、米子製糸取締役、米子製鋼所監査役、西伯酒造組合長、西伯醤油製造同業組合長などをつとめる。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。