岡本 大翔(おかもと ひろと、2002年9月12日 - )は… 岡本 大翔(おかもと ひろと、2002年9月12日 - )は、鳥取県西伯郡伯耆町出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。プロでは育成選手であった。 小学校1年の時に軟式野球を始め、伯耆町立岸本中学校では米子ボーイズに所属していた。チームメイトに山本大斗がいた。 鳥取県立米子東高校2年の時には春、夏の甲子園大会にも出場。 2020年10月26日に行われたプロ野球ドラフト会議において、読売ジャイアンツから育成ドラフト1巡目で指名され、12月1日に支度金300万円、年俸360万円(推定)で仮契約を結んだ。背番号は自身と同性の岡本和真の25にちなんで025。 2021年は主に三軍で経験を積み、二軍公式戦(イースタン・リーグ)は2試合に出場して5打数0安打という成績だった。
山本 大斗(やまもと だいと、2002年8月9日 - )は、… 山本 大斗(やまもと だいと、2002年8月9日 - )は、鳥取県米子市出身のプロ野球選手(外野手)。右投右打。千葉ロッテマリーンズ所属。 米子市立車尾小学校1年生時に野球を始め、車尾スポーツ少年団野球部に所属。6年生時に主将として第34回高円宮賜杯全日本学童軟式野球大会に出場しベスト16進出。その後に行われた第21回西日本学童軟式野球大会では鳥取県勢初となる準優勝を達成した。米子市立東山中学校時代は硬式野球のクラブチームである米子ボーイズに所属。同学年のチームメイトに岡本大翔がいた。 開星高等学校に進学し、1年秋から外野のレギュラーに定着。2年夏の島根県大会は1学年上の田部隼人と共に決勝まで勝ち進んだが、石見智翠館高校に延長の末逆転サヨナラ負けを喫し、甲子園出場を逃した。
森 翔平(もり しょうへい、1998年1月1日 - )は、鳥… 森 翔平(もり しょうへい、1998年1月1日 - )は、鳥取県鳥取市出身のプロ野球選手(投手)。左投左打。広島東洋カープ所属。 鳥取市立青谷小学校1年生の時に軟式野球を始め、鳥取市立青谷中学校では硬式野球のクラブチームである鳥取クラウンボーイズでプレーした。 鳥取県立鳥取商業高等学校に進学し、1年時から一塁手のレギュラーに定着。投手も兼任した。3年春の鳥取県大会で優勝し、中国大会に出場。創志学園との1回戦で髙田萌生と投げ合ったが敗れた。同年夏の鳥取大会は準々決勝で鳥取西に敗れ敗退。3年間で甲子園出場はなかった。 関西大学に進学し、以降は投手に専念した。3年春からベンチ入りし、4年秋は先発の一角としてチームの第50回明治神宮野球大会準優勝に貢献。
巽 大介(たつみ だいすけ、1997年4月26日 - )は、… 巽 大介(たつみ だいすけ、1997年4月26日 - )は、鳥取県鳥取市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 小学校2年で野球を始め、中学ではボーイズリーグの岩美ボーイズに所属。その後東京に転校し、中学2年の冬からリトルシニアの練馬リトルシニアに所属。 岩倉高等学校では1年次から控え投手としてベンチ入り。3年夏は東東京大会3回戦で敗退し、甲子園出場歴はなし。 2015年10月22日に行われたプロ野球ドラフト会議において読売ジャイアンツから6位で指名を受け、11月16日に巨人と契約金2000万円、年俸540万円で契約した。背番号は93。 2016年は二軍で4試合に登板し0勝0敗、防御率3.38だった。
九里 亜蓮(くり あれん、1991年9月1日 - )は、広島… 九里 亜蓮(くり あれん、1991年9月1日 - )は、広島東洋カープに所属する鳥取県米子市生まれのプロ野球選手(投手)。
足立 亘(あだち わたる、1968年1月8日 - )は、鳥取… 足立 亘(あだち わたる、1968年1月8日 - )は、鳥取県米子市出身の元プロ野球選手(投手)。右投左打。 境高では2年生時から控え投手として起用され、1984年の夏の甲子園県予選準決勝では米子商業高に完投勝ち。決勝はエース安部伸一(三菱重工三原)が米子工業高を抑え夏の甲子園への出場を決める。1回戦で法政一高と対戦。安部が延長10回2死まで無安打と好投、しかし末野芳樹にサヨナラ本塁打を喫し敗退。この試合は右翼手として出場した。2年秋からエースとなり秋季県大会を制覇。秋季中国大会に進むが、準々決勝(初戦)で関西高に0-1で敗退、翌1985年春の選抜出場を逃した。期待された3年夏は故障に苦しみ、県予選で鳥取商業高に4-7で敗れ、甲子園出場はならなかった。
杉本 真吾(すぎもと しんご、1965年〈昭和40年〉5月5… 杉本 真吾(すぎもと しんご、1965年〈昭和40年〉5月5日 - )は、日本のアマチュア野球選手・指導者・解説者。鳥取県米子市出身。鳥取県立米子東高等学校、慶應義塾大学卒業。 現在、皆生タクシー社長、皆生温泉芙蓉別館会長などの職の傍ら、NHK鳥取放送局で高校野球解説を務めており、県大会をはじめ、甲子園での全国大会などでも解説を行う。 米子市立福原中学校時代、鳥取県中学校総合体育大会で優勝。米子東高校3年次の1983年、夏の甲子園に3番捕手として出場(初戦敗退)。一浪を経て慶應義塾大学に進学し野球部に入部。上級生となり指導者に転じ、1990年には新人戦の監督を務めた。1991年、山陰合同銀行に入行。
田子 譲治(たご じょうじ、1963年6月28日 - )は、… 田子 譲治(たご じょうじ、1963年6月28日 - )は、鳥取県気高郡青谷町(現:鳥取市)出身の元プロ野球選手(投手)。
谷川 哲也(たにがわ てつや、1961年9月24日 - )は… 谷川 哲也(たにがわ てつや、1961年9月24日 - )は、鳥取県出身のアスレティックトレーナー、プロ野球コーチ。プロ野球選手の経験はない。 倉吉北高校2年の時、1978年夏の第60回全国高等学校野球選手権大会に出場。早稲田実業を3-2で破り2回戦に進出した。 新チームでは矢田万寿男がエース、谷川が主将および1番打者を務め、1979年春の第51回選抜高等学校野球大会に出場、静岡高を1-0、高松商を7-4と連破して準々決勝に進出したが箕島高に敗れた。高松商戦の1回表に初回先頭打者本塁打を放って注目された。 1979年夏の県大会では、準決勝で境高に7-8で敗れ、春夏連続の甲子園出場はならなかった。
矢田 万寿男(やた ますお、1961年7月27日 - )は、… 矢田 万寿男(やた ますお、1961年7月27日 - )は、鳥取県倉吉市出身の元プロ野球選手(投手)。 倉吉北高では、2年生の時に一塁手として1978年に夏の甲子園に出場。1回戦で川又米利のいた4期連続出場の早稲田実業高を降した。1期上の松本好行投手が早実得点の好機を含め川又を内野フライに二度抑え3-2で勝利した。2回戦に進むが、高知商業高の森浩二に抑えられ敗退。翌1979年の3年生時はエースとして春の選抜に出場。静岡高、高松商業高を連破して準々決勝に進む。しかし石井毅 - 嶋田宗彦のバッテリーを擁し、この大会に優勝する箕島高に敗れた。同年夏の甲子園県予選は準決勝で境高に敗退。高校同期に谷川哲也がいる。
川口 和久(かわぐち かずひさ、1959年7月8日 - )は… 川口 和久(かわぐち かずひさ、1959年7月8日 - )は、鳥取県鳥取市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者、タレント。愛称は「カワ」、「グッチ」 実家は鳥取の吉岡温泉で旅館と食堂を経営していた家庭で、男ばかりの三兄弟の末子として生まれる。兄たちの影響もあって早くから野球を始め、湖南小学校4年生で少年野球チームに入った。当初は一塁手であったが6年生で投手になり、湖南中学校では市大会で優勝する原動力となった。味方が失策をしても怒らずに慰めるなど、冷静な投手であったという。 速球派投手として注目され県内の各高校野球部から誘いを受けたが、1975年に鳥取城北高校へ進学。1年次の同年秋には鳥取県大会で3位に入って明治神宮野球大会に出場し、1回戦で関東代表の作新学院に1-3で敗れた。
角 盈男(すみ みつお、本名・旧登録名:角 三男〈読み同じ〉… 角 盈男(すみ みつお、本名・旧登録名:角 三男〈読み同じ〉、1956年〈昭和31年〉6月26日 - )は、鳥取県米子市出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)・コーチ、解説者・評論家、タレント。パシフィックボイス所属。 1978年から1987年の登録名は角 三男。1988年から1989年の登録名は角 光雄(いずれも読み同じ)。 長男は元プロ野球選手の角一晃。次男は元プロ野球選手で、独立リーグ・ルートインBCリーグに所属する埼玉武蔵ヒートベアーズ球団社長の角晃多。 米子市立美保中学校卒業後の1972年に米子工業高校へ進学。 1973年には4番・右翼手として夏の鳥取大会決勝に進むが、鳥取西高校に10回裏サヨナラ負けを喫した。
田中 由郎(たなか よしお、1955年(昭和30年)9月3日… 田中 由郎(たなか よしお、1955年(昭和30年)9月3日 - )は、鳥取県八頭郡若桜町出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 八頭高校では1973年(昭和48年)、夏の甲子園鳥取県予選準々決勝に進出するが、鳥取工に敗退。卒業後は三菱重工三原に入社、1974年(昭和49年)の都市対抗で準々決勝に進出している。 1975年(昭和50年)、ドラフト1位でロッテオリオンズに入団。オリオンズは、元々別の選手を1位指名する予定だったが、最終スカウト会議においてスカウト部長だった濃人渉の主張により、田中の1位指名が決まった。濃人はこの時、田中が活躍しなかった場合は「腹を切る(辞職する)」と述べるほどの執念を見せたと伝わる。
小林 繁(こばやし しげる、1952年11月14日 - 20… 小林 繁(こばやし しげる、1952年11月14日 - 2010年1月17日)は、鳥取県東伯郡赤碕町(現・琴浦町)出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家、スポーツキャスター・タレント・俳優。 8歳の時に父親から野球用のグラブを渡され、キャッチボールを日課とするようになった。小学校時代にソフトボールをプレーし、中学時代は野球部に所属。当時は胃腸が弱かったこともあり、身長170cmに対して体重が50kgほどしかなかった。 中学卒業後の1968年に由良育英高校へ入学し、野球部に入部。当時監督を務めていた牧野紀史は当時の小林について、「特にボールが速かったわけではない。コントロールは悪くなかったが、抜群に良いというほどでもなかった」、「投げるボール自体は大したことはない」、「『どうしても欲しい』と思うようなピッチャーではありませんでした」と語る一方、「印象的だったのは、マウンドで常に小林は冷静だった」、「タテに割れるカーブを織り交ぜて、相手バッターのタイミングを上手く外す。
福士 敬章(ふくし ひろあき、本名:張 明夫(チャン・ミョン… 福士 敬章(ふくし ひろあき、本名:張 明夫(チャン・ミョンブ)、ハングル:장명부、1950年12月27日 - 2005年4月13日)は、鳥取県八頭郡智頭町出身のプロ野球選手(投手)。在日韓国人。登録名は1978年まで松原 明夫、1979年は福士 明夫。
高垣 義広(たかがき よしひろ、1948年11月6日 - )… 高垣 義広(たかがき よしひろ、1948年11月6日 - )は、鳥取県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
松原 良明(まつばら よしあき、1948年1月4日 - 19… 松原 良明(まつばら よしあき、1948年1月4日 - 1988年9月12日)は、鳥取県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手、外野手。 米子工業高校では1965年夏の東中国大会県予選準決勝に進むが、境高に敗退し甲子園には届かなかった。 3年生時には、65打数23安打、二塁打8、三塁打3、本塁打6、打率.354を記録。中国地区では一、二を争う外野手として知られ、東中国大会で2試合連続本塁打を打ったこともある長距離打者であった。 1965年ドラフト会議で近鉄バファローズに5位指名を受け入団。外野手としては出場機会に恵まれず、1969年に三塁手に転向。衰えの見えていた阿南準郎の後継を期待され、同年は46試合に先発出場を果たす。
西村 秀一(にしむら ひでかず、1947年7月29日 - )… 西村 秀一(にしむら ひでかず、1947年7月29日 - )は、鳥取県出身の元プロ野球選手(内野手)。 鳥取工業高から、大阪鉄道管理局に進む。 サンケイアトムズのテストを受け、1967年にドラフト外で入団したが、1軍の試合には出場することなく1968年に引退した。
寺本 勇(てらもと いさむ、1945年6月15日 - 198… 寺本 勇(てらもと いさむ、1945年6月15日 - 1983年2月8日)は、日本の元プロ野球選手(外野手)。 島根県八束郡美保関町日向出身。鳥取県立境高等学校を経て、1963年に広島カープに入団。しかし、在籍3年で5試合の出場(打席記録なし)に終わり、1966年に現役引退。
岩本 紘一(いわもと こういち、1944年11月29日 - … 岩本 紘一(いわもと こういち、1944年11月29日 - )は、日本の元アマチュア野球選手(主に内野手)、監督。 鳥取県米子市出身。米子東高校では岡本利之監督の指揮の下、2年生の時、1961年の春の選抜に一塁手として出場。エース矢滝伸高(関大-米子東監督)が準々決勝で敦賀高を相手に延長16回23奪三振の1試合最多記録を達成、準決勝に進むが高松商に敗退した。1962年夏も東中国大会準決勝に進出するが、槌田誠のいた倉敷工に惜敗、甲子園出場を逸する。高校の2期先輩に1960年春の選抜準優勝メンバーの宮本洋二郎、清水賢がいる。 1963年に亜細亜大学に進学、野球部に入部すると同時に中心選手として活躍し、三塁手として出場した。
金本 秀夫(かねもと ひでお、1942年5月1日 - )は、… 金本 秀夫(かねもと ひでお、1942年5月1日 - )は、鳥取県出身の元プロ野球選手。 米子工業高等学校を卒業し、1961年オフに阪急ブレーブスに入団。1964年に一軍初登板、同年のジュニアオールスターにも出場した。1965年5月23日には東映を相手に初先発、しかし佐野嘉幸に本塁打を喫するなど早々に打込まれ2回に降板。長身からの速球を活かし、1966年に自己最多の20試合に登板する。7月12日には東京を相手に先発、5回を2失点と好投するが味方の援護がなく勝ち星はつかなかった。1968年5月19日に二軍でノーヒットノーランを記録。同年オフに無償トレードで阪神タイガースに移籍。1969年オフに引退。
清水 賢(しみず まさる、1942年 - 2009年10月1… 清水 賢(しみず まさる、1942年 - 2009年10月1日)は、鳥取県出身のプロ野球選手。 鳥取県米子市出身。米子東高校では岡本利之の指導を受け、3年春の選抜に出場。山陰勢初の甲子園決勝進出を果たしたが、バッテリーを組んだ宮本洋二郎が高松商業高校の山口富士雄に左翼ラッキーゾーンにサヨナラ本塁打を浴び、準優勝に終わる。夏の甲子園でも1勝したが、2回戦で徳島商業高校に完敗した。秋の熊本国体でも準優勝。 その後東映フライヤーズに入団したが、2年間出場なしに終わった。 2009年10月1日死去。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
大塚 祐司(おおつか ゆうじ、1940年9月12日 - 20… 大塚 祐司(おおつか ゆうじ、1940年9月12日 - 2025年6月6日)は、鳥取県米子市出身のプロ野球選手。 米子工業高校から1959年に阪急ブレーブスへ入団。 2025年6月6日午後3時27分、心不全のため死去。3日後の9日にはオリックス・バファローズが米子市内の施設で死去したと発表した。84歳没。
太田 枝雄(おおた はつお、1939年7月10日 - )は、… 太田 枝雄(おおた はつお、1939年7月10日 - )は、鳥取県出身の元プロ野球選手(投手、内野手、外野手)。 境高校では1957年夏の甲子園県予選準決勝に進むが、米子東高に敗退。1958年に阪急ブレーブスへ投手として入団。1959年に内野手に転向。1961年に一軍に上がり、一塁手として8試合に先発出場。翌1962年は開幕直後から一軍に定着、自己最多の26試合に先発する。4月22日には大毎オリオンズを相手に四番打者としても起用され、4打数1安打を記録。また同年はウエスタン・リーグで1シーズン2本の満塁本塁打を放った。1963年にはウエスタン・リーグの本塁打王を獲得するが、一軍では打撃の低迷が続き、外野手として2試合の先発にとどまる。
米田 哲也(よねだ てつや、1938年3月3日 - )は、鳥… 米田 哲也(よねだ てつや、1938年3月3日 - )は、鳥取県西伯郡大篠津村(現・米子市)出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。血液型はAB型。 プロ野球歴代2位(達成当時は歴代1位)の949試合に登板し、歴代2位の通算350勝を記録した。通算先発626登板、通算1940失点、通算1659自責点、通算120与敬遠、通算4561被安打の日本記録保持者。 その驚異的スタミナから「ガソリンタンク」「人間機関車」「タフマン」などと呼ばれる。 祖父・長次郎は海産物仲買業を営み、『伯耆国実業人名録』(明治37年 (1904年))に載せられていた大篠津の代表的な商人であった。父・雅明は薪炭雑貨商。
種部 儀康(たねべ のりやす、1938年1月21日 - )は… 種部 儀康(たねべ のりやす、1938年1月21日 - )は、鳥取県倉吉市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。妻は宮田征典(読売ジャイアンツ同期入団)の姉・鈴子。孫はシンガーソングライター兼グラビアアイドルの宮田みほ。 上灘小から倉吉東中を経て入学した倉吉農業高ではエースとして活躍したが、同年次に米子東高の義原武敏や境高の米田哲也といった好投手がおり、甲子園には出場できなかった。高校卒業後は1957年に米子鉄道管理局へ入社し、改札の切符切りなどの業務に従事。鉄道関係の略号などに詳しくなったほか、レールの上を走る汽車や貨車の車種を当てる特技も身に付けた。1961年にはクラレ岡山の補強選手として都市対抗に出場し、北海道拓殖銀行との1回戦に登板したが、敗戦投手となっている。
赤井 勝利(あかい かつとし、1937年11月1日 - )は… 赤井 勝利(あかい かつとし、1937年11月1日 - )は、鳥取県出身の元プロ野球選手(外野手)。 米子南高校から1957年に広島カープへ入団。 1軍出場は2年目の1試合だけに留まり、1959年に引退した。
拝藤 宣雄(はいどう のりお、1935年5月2日- )は、鳥… 拝藤 宣雄(はいどう のりお、1935年5月2日- )は、鳥取県境港市出身の元プロ野球選手。右投右打で、ポジションは投手。 3歳上の実兄・聖雄(まさお)も元プロ野球選手で、こちらは近鉄パールスにて5年間、弟と同じく投手として活躍した。 境高校ではエースとして活躍。2年生時の1952年には、創部6年目の同高校野球部を夏の甲子園初出場へ導く奮投を見せた。しかし、全国大会では2回戦(初戦)で日大三高の若杉輝明と投げ合いの末、完封負け。翌1953年夏は東中国大会1回戦で浜田高に敗れ、甲子園には届かなかった。 高校卒業後は、立教大学へ進学。東京六大学野球リーグでは、同期のエース・杉浦忠とともに活躍した。1957年には春秋4勝を挙げ、チーム初となる春秋季リーグ連覇に貢献している。
拝藤 聖雄(はいどう まさお、1932年6月22日 - 20… 拝藤 聖雄(はいどう まさお、1932年6月22日 - 2011年7月21日)は、鳥取県境港市出身で、近鉄パールスに在籍した元プロ野球選手(投手)である。 実弟の拝藤宣雄(‐のりお)も、元プロ野球選手(広島カープに在籍した)。 境高では、1949年秋季中国大会準決勝に進むが米子東高に敗退。翌1950年夏の甲子園予選東中国大会でも準決勝に進出するが、またも米子東高に敗退し甲子園出場を逸する。米子鉄道管理局を経て、1952年に近鉄パールスへ入団。 1956年3月24日の東映フライヤーズ戦でプロ初勝利を記録した。同年は主に中継ぎとして18試合に登板。しかし公式戦ではその1勝のみで、同年オフに24歳にして現役を引退。
山根 俊英(やまね としひで、1928年3月1日 - 200… 山根 俊英(やまね としひで、1928年3月1日 - 2009年3月5日)は、鳥取県米子市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。
土井垣 武(どいがき たけし、1921年7月1日 - 199… 土井垣 武(どいがき たけし、1921年7月1日 - 1999年1月25日)は、鳥取県米子市出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者・評論家。 後に若松(わかまつ)と改姓。なお、姓の読みはどいがきではなく正しくはどいかいとと読むと言うが、なかなか正しく読んでもらえず、そのまま「どいがき」で通したと言う。 両リーグ分立前後を代表する捕手で、1947年から1952年まで6年連続でベストナインを獲得。熱血的な性格からニューヨーク・ヤンキースの往年の名捕手にあやかって和製ヨギ・ベラと呼ばれた。末弟にパシフィック・リーグ審判を長らく務めた土井垣幸男がいる。 幼い頃から大阪鉄道局米子野球部のマスコット的存在として可愛がられていた。
中河 美芳(なかがわ みよし、 1920年2月22日 - 1… 中河 美芳(なかがわ みよし、 1920年2月22日 - 1944年7月12日)は、鳥取県鳥取市出身のプロ野球選手(一塁手、投手)である。
木下 政文(きのした まさふみ、1919年11月29日 - … 木下 政文(きのした まさふみ、1919年11月29日 - )は、鳥取県出身の元プロ野球選手。ポジションは三塁手、捕手。
成田 啓二(なりた けいじ、1919年1月27日 - 198… 成田 啓二(なりた けいじ、1919年1月27日 - 1985年3月29日)は、鳥取県米子市出身のプロ野球選手(投手)。1950年の登録名は「敬二」。 米子中学校4年次の1935年、1級先輩の清水秀雄-井上親一郎のバッテリーの活躍で、一塁手として春夏連続で甲子園に出場した(ちなみに井上とは、その後、大学、ノンプロ、プロと共に過ごすことになる)。1936年は山陰大会決勝で鳥取一中に敗れる。 卒業後慶應義塾大学野球部で活躍したのち、大阪鉄道局米子に入る。シベリア抑留を経験したが、その後米鉄に戻り、1949年までプレーする。 1950年、国鉄スワローズ結成に伴い入団。球団結成初戦の開幕投手を務めたが、惜しくも敗戦投手となった。
井上 親一郎(いのうえ しんいちろう、1918年9月8日 -… 井上 親一郎(いのうえ しんいちろう、1918年9月8日 - 没年不明)は、鳥取県米子市出身のプロ野球選手(捕手)・高校野球監督、高校野球解説者。 米子中では捕手として清水秀雄とバッテリーを組み、5年次の1935年には甲子園に春夏連続出場したが、いずれも初戦敗退に終わる。中学卒業後は慶應義塾大学に進学し、中学の後輩である成田啓二の球を受け、東京六大学リーグで何度か首位打者争いを展開した。リーグ通算61試合出場、190打数45安打、打率.237、1本塁打を記録。大学卒業後は帝国鉱業開発、大阪鉄道管理局でプレー。終戦後は1947年のみ母校・米子中で監督を務め、地元の米子鉄道管理局へ入社。1950年に国鉄スワローズ結成に伴って入団し、初代主将として開幕から正捕手を務めた。
岡本 利之(おかもと としゆき、1916年11月27日 - … 岡本 利之(おかもと としゆき、1916年11月27日 - 1969年12月30日)は、鳥取県米子市出身のプロ野球選手、高校野球・社会人野球監督。右投右打で、ポジションは捕手、内野手、投手。 父は米子中学校野球部長を務めた岡本速水。 米子中では4年次の1932年に、夏の甲子園に二塁手として出場した(初戦で石川師範に敗れる)。翌1933年は主将・主戦として活躍したが、山陰大会1回戦で敗れ、甲子園出場を逃した。 卒業後は関西大学に進学し、野球部で好打、堅守の内野手として名を馳せた。1939年には職業野球・ライオン軍に入団。弱小チームでユーティリティープレイヤーとして捕手をはじめ、さまざまなポジションをこなした。
藤井 勇(ふじい いさむ、1916年10月20日 - 198… 藤井 勇(ふじい いさむ、1916年10月20日 - 1986年2月7日)は、鳥取県鳥取市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督。
由谷 敬吉(ゆたに けいきち、1915年 - 1943年11… 由谷 敬吉(ゆたに けいきち、1915年 - 1943年11月26日)は、日本のアマチュア野球選手。東武雄や梶原英夫と並んで、東京大学野球部史上の「名投手三羽烏」と呼ばれる人物の一人。1943年11月26日満州興山で戦死。野球殿堂博物館の「戦没野球人モニュメント」に刻まれている。
加藤 伸一 は、鳥取県倉吉市出身の元プロ野球選手(投手)・コ… 加藤 伸一 は、鳥取県倉吉市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。