浅沼 隆男(あさぬま たかお、1901年8月28日 - 19… 浅沼 隆男(あさぬま たかお、1901年8月28日 - 1992年2月14日)は、日本の経営者。明治乳業社長を務めた。岡山県出身。 旧制岡山一中(現:岡山県立岡山朝日高校)を経て、1924年に神戸高等商業学校経済学部(現:神戸大学)を卒業。明治製菓での勤務を経て、1964年11月に明治乳業副社長に就任し、1966年11月には社長に昇格。1972年5月から相談役を務めた。 1992年2月14日老衰のために死去。90歳没。
森澤 清(もりさわ きよし、1901年(明治34年)8月11… 森澤 清(もりさわ きよし、1901年(明治34年)8月11日 - 1992年(平成4年)8月3日)は、日本の放送人、実業家である。朝日新聞社に勤めたのち、東京放送テレビ(通称:TBSテレビ)常務取締役や子会社のラジオ東京サービス社長を務める。中央放送広告社長も務めた。岡山県高梁市出身。姓は常用漢字体で「森沢」とも表記される。 1901年(明治34年)岡山県上房郡豊野村(現:高梁市)の父・森澤清六と母・ひさの七男として出生する(出生地は東京、誕生後すぐに地元へ帰省)。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)卒業を経て、1920年(大正9年)に旧制第六高等学校文科甲類へ進学する。 その後、1922年(大正12年)3月、同校を卒業し、京都帝国大学法学部へ進学する。
赤沢 亀四郎(あかざわ かめしろう、1901年〈明治34年〉… 赤沢 亀四郎(あかざわ かめしろう、1901年〈明治34年〉7月9日 - 1962年〈昭和37年〉10月24日)は、岡山県岡山市出身の実業家。元赤沢農機具製作所代表取締役社長。元岡山県観光連盟会長。 1901年(明治34年)7月、岡山市に生まれる。関西中学(現・関西高校)へ進学するも中退する。 大正末期から昭和初期にかけて農機具製造工場を経営する。1943年(昭和18年)、三菱重工業水島航空機製作所の協力工場として治見工具製作所を設立する。1945年、設備を統合し、赤沢農機具製作所として発足し、社長を務めた。 その後、昭和倉庫、岡山糧肥、日本興油工業、岡山会館、光南台観光開発、岡山空港ビル社長、ニッコー産業会長を務め、当時、岡山県経済界の重鎮と呼ばれた。
入江 直祐(いりえ なおすけ、1901年3月13日 - 19… 入江 直祐(いりえ なおすけ、1901年3月13日 - 1991年)は、日本の英文学者、翻訳家。 岡山県出身。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高校)旧制第六高等学校を経て、六稜学舎では詩人でもある山宮允に学び、1938年東京帝国大学卒業、市河三喜に学ぶ。アルフレッド・テニスン、ウォルター・スコットなどの翻訳で知られる。1962年まで法政大学教授、その後神奈川大学教授。1989年まで創価大学教授を務めた。
物部 薫郎(もののべ / ものべ くんろう、1901年(明治… 物部 薫郎(もののべ / ものべ くんろう、1901年(明治34年)2月1日 - 1977年(昭和52年)2月3日)は、日本の内務・厚生官僚。長野県知事。旧姓は平松。 岡山県川上郡湯野村(現在の高梁市備中町東油野)出身。平松瀧之助の三男として生まれ、同郡平川村、物部真一の養子となる。岡山県第一岡山中学校、第六高等学校を卒業。1924年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1925年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。内務省に入省し東京府属となる。 以後、石川県学務課長、長野県学務部長、厚生書記官・失業対策部事業課長、同衛生局保健課長、内務省監査官、内務書記官・防空局企画課長兼整備課長、愛知県部長・経済部長などを経て、同県内務部長となる。
早嶋 喜一(はやしま きいち、1900年(明治33年)12月… 早嶋 喜一(はやしま きいち、1900年(明治33年)12月28日 - 1966年(昭和41年)2月4日)は、日本の実業家。産業経済新聞社長で旭屋書店の創業者。産経学園理事長。 岡山県津山市の出身。津山中学から早稲田大学に進学するも中退。職を転々とした後、1924年(大正13年)に前田久吉の経営する南大阪新聞社に入社する。前田が『南大阪新聞』・『日本工業新聞』を根城に事業を拡張すると早嶋もそれらの事業に関与し、戦時中の新聞統制に伴う合併を経て、2紙は『大阪新聞』と『産業経済新聞』となるが、早嶋は大阪新聞では専務、産業経済新聞では社長にまで登り詰める。 戦後の1947年(昭和22年)、早嶋は公職追放に伴い大阪新聞・産業経済新聞の役職を退くが、前年に大阪市北区で創業していた雑貨・化粧品販売店「旭屋商店」を書籍専業の「旭屋書店」とし、書店経営に専念する。
中山 幸市(なかやま こういち、1900年12月5日 - 1… 中山 幸市(なかやま こういち、1900年12月5日 - 1968年10月27日)は、日本の実業家・教育者。太平住宅株式会社創業社長で、太平音響株式会社(のちのミノルフォン、現在の徳間ジャパンコミュニケーションズ)ほか10数社の「太平グループ」代表として知られる。岡山県岡山市出身。 1900年(明治33年)12月5日、岡山県吉備郡庭瀬町(現:岡山市)に生まれる。 1921年(大正10年)、大阪の関西大学専門部商科に入学、1924年(大正13年)、同校を卒業する。卒業後、兵庫県神戸市の神戸高等商船学校(現在の神戸大学海事科学部)の実務指導教師となり、夜間の商業練習学校の教諭に転じた。 1930年(昭和5年)、神戸市に関西電話建物を創業、日本電話建物(後の日本電建、現・大東建設)と改称、1933年(昭和8年)、同社を東京に進出させた。
梶谷 忠二(かじたに ちゅうじ 1900年10月9日 - 2… 梶谷 忠二(かじたに ちゅうじ 1900年10月9日 - 2006年8月30日)は、岡山県岡山市生まれの実業家。岡山木村屋創業者、岡山商工会議所最高顧問。梶谷博則は息子。 その他、岡山県経営者協会会長(1960年~1968年、1981年~1988年)。岡山商工会議所会頭(1960年~1968年)。さらに、岡山県商工会議所連合会会長、岡山県観光連盟会長、日本赤十字社岡山県副支部長などを歴任。 木村屋総本店からの暖簾分けの際に、「一生、パン以外の事業はしない」と当時の会長に約束して、自身が死ぬまで約束を守り通した。 福祉に関心があり、社会福祉法人旭川荘の理事を40年務めた。また、1990年に1億円を投じて梶谷福祉基金を設立している。
亀山 孝一(かめやま こういち、1900年8月30日 - 1… 亀山 孝一(かめやま こういち、1900年8月30日 - 1979年3月25日)は、日本の内務及び厚生官僚、政治家。福島県知事(官選第40代)、衆議院議員(6期)。 岡山県出身。内務官僚亀山理平太、佐登夫妻の長男として生まれる。台北一中、岡山一中、第一高等学校を経て、1924年4月に東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年5月、内務省に入り内務属として衛生局に配属された。 1925年10月、地方警視・岐阜県警察部付となり、山口県警察部特高課長、防疫官兼内務事務官・衛生局付、内務書記官・衛生局医務課長、計画局防空課長、愛知県書記官・警察部長、兵庫県書記官・総務部長、企画院第三部長などを歴任。
藤原 道子(ふじわら みちこ、1900年5月26日 - 19… 藤原 道子(ふじわら みちこ、1900年5月26日 - 1983年4月26日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)、参議院議員(4期)。衆議院議員時代は、山崎 道子(やまざき みちこ)で活動した。 1900年5月26日、岡山県児島郡(旧宇野町、現玉野市)出身。幼少期に生家が没落したため小学校を5年で中退して印刷女工などをしながら後に上京、1915年看護婦試験に合格。賀川豊彦の影響を受けてクリスチャンとなる。派出看護婦、巡回産婆も経験し1925年日本労農党の山崎釼二と結婚、夫婦で貧困と戦いながら農民運動に勤しんだ。1946年の総選挙で静岡県(大選挙区の全県1区)から日本社会党より「山崎道子」として立候補して初当選。
西東 三鬼(さいとう さんき、1900年(明治33年)5月1… 西東 三鬼(さいとう さんき、1900年(明治33年)5月15日 - 1962年(昭和37年)4月1日)は、岡山県出身の日本の俳人。本名・斎藤敬直(さいとう けいちょく)。歯科医として勤める傍ら30代で俳句をはじめ、伝統俳句から離れたモダンな感性を持つ俳句で新興俳句運動の中心人物の一人として活躍。戦後は「天狼」「雷光」などに参加し「断崖」を主宰。 岡山県苫田郡津山町大字南新座(現在の津山市南新座)、父・敬止、母・登勢の四男として生まれる。家は代々漢学者の家系。1906年、父死去、以後長兄の扶養を受ける。高等小学校時代は条虫にかかり虚弱であった。1918年には当時大流行したスペイン風邪で母が死去し、東京の長兄のもとへ移住。
岡田 包義(おかだ かねよし、1900年 <明治33年> 4… 岡田 包義(おかだ かねよし、1900年 <明治33年> 4月19日 - 2000年 <平成12年> 7月6日)は、日本の内務官僚。徳島県知事、北海道庁長官。位階は正四位。 岡山県岡山市出身。岡田吟平の五男として生まれる。第六高等学校を経て、1924年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、内務省に入り東京府属となる。以後、社会局勤務、茨城県事務官、静岡県経済部長、和歌山県総務部長、長崎県総務部長、福岡県書記官・総務部長、同内政部長などを歴任。 1945年6月、徳島県知事に就任。1947年2月、官選最後の北海道庁長官に就任し、同年4月に退任。1950年6月、北海道開発庁が発足すると、初代次長(事務次官)に就任し、1953年1月に退官した。
小山 富士夫(こやま ふじお、1900年3月24日 - 19… 小山 富士夫(こやま ふじお、1900年3月24日 - 1975年10月7日)は、日本の陶磁器研究者・陶芸家で、中国陶磁器研究の大家。
篠山 千之(ささやま せんし / しのやま かずゆき、190… 篠山 千之(ささやま せんし / しのやま かずゆき、1900年〈明治33年〉2月28日 - 1976年〈昭和51年〉7月18日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 岡山県出身。篠山常太郎の六男として生まれる。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、第六高等学校を卒業。1923年、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。1924年、内務省に入省し警視庁警部となる。 以後、内務属・地方局勤務、地方警視・新潟県警察部勤務、同県建築監督官、鳥取県書記官・経済部長、福岡県書記官・学務部長、新潟県書記官・警察部長、兵庫県書記官・警察部長、東京府内務部長などを歴任。
遠藤 仁郎(えんどう にろう、1900年2月28日 - 19… 遠藤 仁郎(えんどう にろう、1900年2月28日 - 1997年6月2日)は、日本の内科医である。青汁健康法の提唱者として知られる。 1900年(明治33年)2月28日、岡山県英田郡福本村で誕生する。津山中学校を経て、1921年(大正10年)に第三高等学校を卒業する。1925年(大正14年)に京都帝国大学医学部を卒業し、1930年(昭和5年)に『血中ビリルビン、ヒヨレステリン及胆汁酸の相互的関係に就ての臨床的並に実験的研究』で医学博士を取得する。1931年(昭和6年)に京都帝国大学講師、1932年(昭和7年)に大阪女子高等医学専門学校助教授を勤める。1934年(昭和9年)に同学校内科教授となる。
久安 博忠(ひさやす ひろただ、1900年〈明治33年〉2月… 久安 博忠(ひさやす ひろただ、1900年〈明治33年〉2月25日 - 1981年〈昭和56年〉9月4日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選秋田県知事。岡山県岡山市出身。 岡山県吉備郡大井村(現:岡山市)出身。久安平治郎の二男として生まれる。その後、旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、第六高等学校を卒業。1923年12月、高等試験行政科試験に合格。1924年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し社会局属となる。 以後、地方警視として島根県警察部・神奈川県警察部・長崎県警察部・兵庫県警察部各勤務、警視庁警視として総監官房・特別高等部各勤務、宮城県書記官・学務部長、栃木県書記官・警察部長、長崎県書記官・警察部長、神奈川県書記官・警察部長、宮城県内政部長などを歴任。
内田 三郎(うちだ さぶろう、1899年10月21日 - 1… 内田 三郎(うちだ さぶろう、1899年10月21日 - 1983年1月28日)は、日本の実業家。キヤノン社長を務めた。 岡山県倉敷市出身。1925年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、同年に山一證券に入社。 1933年に吉田五郎とともに精器光学研究所を設立し、1936年にハンザキヤノンの発売を開始した。1954年には社長に就任した。 1983年1月28日、肺水腫のために死去。83歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
大山 澄太(おおやま すみた、1899年(明治32年)10月… 大山 澄太(おおやま すみた、1899年(明治32年)10月21日 - 1994年(平成6年)9月26日)は、日本の宗教家、俳人。 岡山県井原市出身。大阪貿易語学校(現・開明中学校・高等学校)卒業後、逓信省に入省し、逓信講習所教官、逓信事務官、内閣情報局嘱託、満州国郵政局講師などを務める。戦後愛媛県で著述、社会教育をおこなう。「大耕」主宰。1963年、愛媛県教育文化賞を受賞。種田山頭火の顕彰にも努めた。
赤木 鉄夫(あかぎ てつお、1899年〈明治32年〉9月14… 赤木 鉄夫(あかぎ てつお、1899年〈明治32年〉9月14日 - 没年不明)は、昭和時代前期の逓信官僚。陸軍司政長官。 伊勢次郎の三男として岡山県に生まれる。旧制岡山中学、旧制六高を経て、1924年(大正13年)に東京帝国大学法学部独法科を卒業する。逓信省に奉職し、同省経理局主計課勤務、釧路郵便局長、中央電話局府加入課長、札幌逓信局規画課長、広島逓信局監督課長、地方海員審判所審判官、東京地方逓信局海事部長、東京都市逓信局監督課長、中央航空研究所総務部長、貯金局総務課長、逓信書記官・逓信官吏練習所長を経て、1942年(昭和17年)8月、陸軍司政長官に就任した。1944年(昭和19年)8月、名古屋逓信局長に就任した。
料治 熊太(りょうじ くまた、1899年7月10日 - 19… 料治 熊太(りょうじ くまた、1899年7月10日 - 1982年2月1日)は、日本の美術評論家・数寄者、骨董収集鑑定家、随筆家。TBSテレビでニュースキャスターを務めた料治直矢は子息である。 1899年岡山県都窪郡山田村(現在の岡山市南区)生れ。号は朝鳴。関西中学校卒業後、1919年(大正8年)上京、国学院大学で折口信夫の講義を受講、翌年雑誌記者として研究社に入社し、関東大震災後は博文館の雑誌「太陽」の編集に携わる。1928年(昭和3年)、博文館退社後著述活動に入り、また、この頃会津八一の門下となり古美術の研究に専念する。八一に心酔した熊太は、1929年(昭和4年)自らの住居を八一の家の近くの西落合に移した。
浦上 衛門(うらがみ もりと、1899年(明治32年)6月1… 浦上 衛門(うらがみ もりと、1899年(明治32年)6月16日 - 詳細不明)は、日本の土木技師であり、実業家である。大阪市技師となり土木局長となった後、大阪地下街社長となる。土木学会名誉会員。岡山県岡山市出身。 1899年(明治32年)岡山県御津郡一宮村(現:岡山市)に生れる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)卒業を経て、1918年(大正7年)に旧制第六高等学校医科(3部)へ進学する。その後、1922年(大正11年)3月同校を卒業し、京都帝国大学工学部へ進学する。1925年(大正14年)3月、工学部土木工学科を卒業する。 京大を卒業後、すぐに大阪市役所に入り、土木技師として働く。第二次世界大戦後、1946年(昭和21年)計画部長となり、翌年、土木部長となる。
久保田 宵二(くぼた しょうじ、1899年〈明治32年〉6月… 久保田 宵二(くぼた しょうじ、1899年〈明治32年〉6月2日 - 1947年〈昭和22年〉12月26日)は昭和期の作詞家。別名・ペンネームとして、水久保弘・砂原鹿郎が確認されている。 岡山県川上郡富家村大字布瀬出身。 幼名(本名)は嘉雄。寺の長男として生まれた。岡山県師範学校卒業。幾つかの教員養成課程で研鑽し、若くして主席訓導(教頭職相当)まで進んだ。小学校教諭をしながら地元の青年たちの詩作の指導に当たり、「岡山青年」の詩部門の選者を務めた。 大正の終わり頃、中央詩壇の野口雨情などの勧めもあり、上京。その後、1931年(昭和6年)にコロムビアレコード入社する。始めは童謡を作詞し、新民謡運動にも力を注いでいたが、流行歌作家に転身。
三和 義勇(みわ よしたけ、1899年(明治32年)4月26… 三和 義勇(みわ よしたけ、1899年(明治32年)4月26日 - 1944年(昭和19年)8月2日)は、日本の海軍軍人。海兵48期。最終階級は海軍少将。テニアン島で戦死。 1899年(明治32年)4月26日、岡山県に中学校長も勤めた教育者の息子として生まれる(本籍は岐阜県)。旧制北野中学を経て、1920年(大正9年)7月16日、海軍兵学校48期を171名中31番の席次で卒業、少尉候補生。 1921年(大正10年)6月、少尉任官。1923年(大正12年)6月、霞ヶ浦海軍航空隊に第9期航空術学生として入隊し、1924年(大正13年)5月に卒業。戦闘機搭乗員任命。1925年(大正14年)、霞ヶ浦海軍航空隊分隊長。
武野 藤介(たけの とうすけ、1899年4月3日 - 196… 武野 藤介(たけの とうすけ、1899年4月3日 - 1966年7月25日)は、日本の小説家。本名は武野真寿太。 岡山市生まれ。岡山中学校在学中、回覧雑誌などを作り文学に没頭。二度落第し、中学卒業に7年かかる。1919年上京、編入試験を受けて早稲田大学予科入学、ロシア文学科に進んだが、1923年中退。新聞記者、雑誌記者となり、文壇ゴシップやコントが評判となる。 戦時下は時局的な小説を書いたが、戦後1950年頃から『あまとりあ』などカストリ雑誌の常連となり、以後艶笑小説を専らとする。小説に「嘘」「ぬれつばめ」、ゴシップをもとにした「文壇余白」「武野藤介風流文学自選集」などがある。
藤原 啓(ふじわら けい、1899年2月28日 - 1983… 藤原 啓(ふじわら けい、1899年2月28日 - 1983年11月12日)は、日本の陶芸家。本名は敬二。同じく陶芸家の藤原雄は長男、藤原敬介は次男。岡山県名誉県民。1970年に人間国宝に認定。 岡山県備前市穂浪(当時の和気郡伊里村穂浪)出身。農業藤原伊三郎、世為の三男として生まれる。 少年期から俳句や小説の才能を発揮しており、1915年に博文館が手がける『文章世界』に応募した短編が1等を獲得する。これを機に1919年に上京し博文館編集部に勤務、『文章世界』の編集を担当する。同郷の正宗白鳥、徳富蘆花の影響を強く受け詩の執筆も始める。そのかたわら早稲田大学英文科の聴講生となり、ロシア・ドイツ文学やシェイクスピアを学ぶが1年あまりで中退。
米谷 隆三(まいたに りゅうぞう、1899年2月11日 - … 米谷 隆三(まいたに りゅうぞう、1899年2月11日 - 1958年5月3日)は、日本の法学者。専門は、商法・保険学。学位は、法学博士。1955年「約款法の理論」で日本学士院賞受賞。岡山県出身。 岡山県都窪郡茶屋町(現倉敷市茶屋町)生まれ。旧制第一岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1925年東京商科大学(現一橋大学)卒業(青山衆司ゼミナール)。 1923年文官高等試験行政科合格、1925年商工省入省、商務局保険課勤務。1929年明治大学兼任講師(火災保険論)を経て、1930年東京商科大学(現一橋大学)助教授兼予科教授就任。ベルリン、ローマ、パリへの留学を経て、1934年第10回国際アクチュアリー会議日本代表。
戸田 止戈夫(とだ しかお、1899年(明治32年)2月5日… 戸田 止戈夫(とだ しかお、1899年(明治32年)2月5日 - 不明)は日本の実業家である。戸田工業の創業者であり、元社長である。岡山県井原市出身。 1899年(明治32年)岡山県後月郡西江原村(現:井原市)の戸田生一の四男として出生。1911年(明治44年)旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、1916年(大正5年)17歳で同校を卒業。戸田接三の死去により、中備機業合資会社を引き継ぐ。同年、東洋除虫材を設立した。 東洋除虫材はその後、蚊取り線香の製造を始め、1920年(大正9年)に西江原にあった工場は、営業所とあわせて広島県安佐郡横川町(現:広島市西区)へ移転した。1926年(大正15年)広島県安佐郡深川にあった弁柄製造工場を買収し、1933年(昭和7年)に広島市横川町に弁柄の製造販売を事業目的とする戸田工業株式会社を資本金50万円で設立。
和栗 明(わくり あきら、1899年1月31日 - 1986… 和栗 明(わくり あきら、1899年1月31日 - 1986年11月28日)は、日本の機械工学者。九州大学名誉教授。第2代久留米工業短期大学学長。初代久留米工業高等専門学校校長。日本学士院賞受賞。和栗雄太郎九州大学名誉教授は長男。 岡山県出身。1923年九州帝国大学工学部機械学科卒業。1936年九州帝国大学工学博士。九州帝国大学工学部講師、九州帝国帝国大学工学部助教授を経て、1938年九州帝国大学校工学部教授。1953年「歯車に関する研究」により成瀬政男東北大学教授、中田孝東京工業大学教授とともに日本学士院賞を受賞。1964年久留米工業高等専門学校校長、日本機械学会名誉員。1969年勲二等瑞宝章受章。
田辺 泰(たなべ やすし、1899年1月14日 - 1982… 田辺 泰(たなべ やすし、1899年1月14日 - 1982年4月1日)は、日本の建築史・美術史学者。工学博士(1939年)。早稲田大学の建築史担当教授を伊東忠太、佐藤功ーより引き継ぐ。昭和初期に関東地域の社寺建築の調査を行ない、関東系の建築史を大成する。後年は古建築の復元・創作、文化財保護に活躍した。 岡山県倉敷市生まれ。広島県出身。 1924年早稲田大学理工学部建築学科卒、同助手、1925年助教授、1939年「関東地方に於ける古建築の研究」で工学博士の学位を取得。1941年教授。1969年定年、名誉教授。1930 (昭和5) 年、中国および沖縄の建築調査(1931まで、1934-35)。1964(昭和39)年、日本建築大工技能士会会長。
松坂 佐一(まつさか さいち、1898年11月13日 - 2… 松坂 佐一(まつさか さいち、1898年11月13日 - 2000年3月11日)は、日本の民法学者。現在の倉敷市生まれ。名古屋大学名誉教授。従三位勲二等旭日重光章。
長崎 明(ながさき あきら、1898年 (明治31年)9月2… 長崎 明(ながさき あきら、1898年 (明治31年)9月26日 - 没年月日不明 )は日本の哲学者。元八幡大学教授。岡山県出身。 備前岡山の池田家家老 日置健太郎を母方の祖父とする名門の家に生まれる。父親、長崎常は札幌農学校で内村鑑三と共にクラーク博士に学んだ農務省官僚であった。なお、常は九州法学校創設時に宇賀田順三と親交があった人物。母キヨは日本画壇の女流画家。 明は岡山一中から慶応義塾、松本高等学校を経て東京帝国大学文学部哲学科に入学、美学を専攻し伊藤吉之助に師事する。卒業後西南学院専門学校、九州専門学校で教鞭を執る。1947年、宇賀田順三の要請により 戸畑専門学校開校時に教授に就任。1948年から1956年まで八幡大学教授(1954年に法経学部長就任)。
内田 吐夢(うちだ とむ、1898年4月26日 - 1970… 内田 吐夢(うちだ とむ、1898年4月26日 - 1970年8月7日)は、日本の映画監督。本名:内田 常次郎。 内田作品は近年では海外でも2005年のロッテルダム映画祭で特集上映されるなど、再評価が始まっている。 妻芳子は新聞記者碧川企救男の三女、映画カメラマン碧川道夫の妹。映画監督の内田一作は長男、元東映生田スタジオ所長の内田有作は次男。浮世絵研究家の内田千鶴子は次男有作の妻である。翻訳家の松田銑は甥。
蒲原 重雄(かんばら しげお、1898年3月12日 - 19… 蒲原 重雄(かんばら しげお、1898年3月12日 - 1932年10月16日)は日本の建築家。司法省技師。日本における表現主義建築の傑作とされる小菅刑務所(現東京拘置所)と、建畠大夢が建設した北軽井沢大学村に現存する洋小屋組が特徴の南紀倶楽部(元紀州出身の美術家グループのアトリエである南紀美術倶楽部)が代表作。 明治31年(1898年)、岡山市で旧佐賀藩の漢学者の次男[要検証 – ノート]として生まれる。岡山県立第一中学校、第六高等学校(岡山)を経て、東京帝国大学に進学。大正11年(1922年)3月、東京帝国大学工学部建築学科を卒業。卒業制作は「住宅」。同期には岸田日出刀、土浦亀城、田辺平学、長谷川輝雄などがいる。
藤井 立志(ふじい たつし、1898年〈明治31年〉2月15… 藤井 立志(ふじい たつし、1898年〈明治31年〉2月15日 - 1983年〈昭和58年〉)は、日本の実業家。日本電力を経て富山軽銀社長となる。その後、自身の会社が武蔵野化学研究所へ買収され同社の取締役となり、協和発酵(現:協和キリン)の設立時従業員となり、後に同社の専務取締役となった。岡山県矢掛町出身。 1898年(明治31年)岡山県小田郡小田村(現:矢掛町)の河上寅三郎の次男として生れる。幼くして、岡山県上房郡川面村の藤井浅之助の養子となる。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学する。1916年(大正5年)同校を卒業し、旧制第六高等学校理科甲類へ進学する。 1919年(大正8年)六校を卒業し、九州帝国大学工学部へ進学する。
中原 武之輔(なかはら たけのすけ、1898年(明治31年)… 中原 武之輔(なかはら たけのすけ、1898年(明治31年)1月30日 - 没年不明 )は、日本の実業家。元東京軽合金製作所取締役。兄は茨城大学教授を務めた中原重樹。岡山県倉敷市出身。 1898年(明治31年)、岡山県浅口郡玉島町(現:倉敷市玉島)の士族の家系である中原克一郎の三男として生れる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学。1917年(大正6年)に同校を卒業し、山形県にある米沢高等工業学校(現:山形大学工学部)へ進学する。1920年(大正9年)同校機械科を卒業し、当時大企業であった東京瓦斯電気工業(現:いすゞ自動車・日野自動車・DMG森精機)へ就職する。 入社後、中原は東京大森工場へ配属される。
出口 日出麿(でぐち ひでまる、旧名:高見元男、1897年1… 出口 日出麿(でぐち ひでまる、旧名:高見元男、1897年12月28日 - 1991年12月25日)は、大本教の第三代教主補。岡山県倉敷市出身。第二次大本事件にて当時の政府管轄の元特高警察により不当逮捕後、投獄。獄中にて殴打、抜歯、焼鉄、抜爪、ほか、筆舌に尽くし難い凄惨な拷問を受けるが、奇跡的に一命を取り留める。 1897年(明治30年)岡山県倉敷市阿智町に高見元男として生まれる。旧制岡山中学、旧制六高を経て、1924年に京都帝国大学文学部を中退。 1928年、大本の第三代教主となる出口直日と結婚。大本総統補、昭和青年会総裁補、人類愛善新聞社社長など大本の要職につき出口王仁三郎の後継と目される。
岡本 天明(おかもと てんめい、1897年(明治30年)12… 岡本 天明(おかもと てんめい、1897年(明治30年)12月4日 - 1963年(昭和38年)4月7日)は神道家、宗教家、神典研究家。岡山県浅口郡玉島町出身。本名は信之。天明は「雅号」である。 信之は幼少の頃から、他人には見えないものが見えたり(霊視能力)、聞こえたり(霊聴能力)、霊能力を持っている子供だったという(岡本三典『日月神示はなぜ岡本天明に降りたか』)(参)。また、絵が得意で17歳の頃に神戸三宮で絵の個展を開き、新聞に「天才少年画家現る」と称賛されたという。その後、上京し明治大学に学ぶ。紆余曲折を経て大本に出会ったのは1920年(大正9年)、天明が22歳の時だった。 1944年(昭和19年)6月10日、千葉県印旛郡公津村台方(現・成田市台方)の麻賀多神社の末社である天日津久神社を参拝する。
宇野 弘蔵(うの こうぞう、1897年11月12日 - 19… 宇野 弘蔵(うの こうぞう、1897年11月12日 - 1977年2月22日)は、日本のマルクス経済学者。 日本のマルクス経済学者の中でも特に影響力の大きな一人であり、その学派は宇野学派と称された。宇野学派は新左翼や社会主義協会に影響をあたえた。 岡山県倉敷市に生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学し、同期には、後に宇野の人生に大きな影響を与えた西雅雄や一高の特待生となる松田享爾、関西大学法学部教授になる高木益郎がいた。卒業後、第六高等学校を経て、1921年に東京帝国大学経済学部卒業。1954年、経済学博士(東京大学)。 1921年、大原社会問題研究所入所。ドイツ留学を経て、1924年に東北帝国大学法文学部経済学第三講座(経済政策論)助教授。
神崎 三益(かんざき さんえき/さんます、1897年(明治3… 神崎 三益(かんざき さんえき/さんます、1897年(明治30年)10月19日 - 1986年(昭和61年)7月27日)は、日本の医学者・教育者であり、日本赤十字武蔵野短期大学学長、日本赤十字常任理事、アジア病院連盟会長を務めた。また、日本病院協会会長として当時開業医中心の日本医師会に対抗した。岡山県高梁市出身。 1897年(明治30年)岡山県上房郡有漢村(現:高梁市)神崎秀甫の三男として出生する。その後、地元の旧制岡山県立高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学した。同期に、明治大学学長を務めた小出廉二、東京帝国大学教授で経済学の宇野学派を率いた宇野弘蔵、第一次日本共産党の西雅雄、キリスト教伝道師で内務官僚の松田享爾、関西大学法学部教授になる高木益郎がいた。
光延 東洋(みつのぶ とうよう、1897年(明治30年)10… 光延 東洋(みつのぶ とうよう、1897年(明治30年)10月9日 - 1944年(昭和19年)6月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 岡山県高梁市出身。大阪府立北野中学校より海軍兵学校第47期に進み首席で卒業した。しかし海軍大学校甲種課程には進まず、ヨーロッパへの出張と駐在を繰返し、井上成美らにその常識的思考を高く評価されていた。 イタリアでバドリオ政権が連合国に降伏した際、スイスに業務連絡の為に移動。フィレンツェ北方のアッペンニーノ山脈を通行中にマンリーコ・ドゥッチェスキ(イタリア語版)率いるパルチザンの襲撃に遭い、同乗していた山仲伝吾海軍中佐は重傷だったが、光延は射殺され戦死扱となる。
田中 弘道(たなか ひろみち、1897年9月21日 - 19… 田中 弘道(たなか ひろみち、1897年9月21日 - 1975年11月3日)は、岡山県岡山市小畑町出身の政治家。 1897年9月21日、岡山市小畑町に生まれる。大西姓を名乗っていたが、後に田中姓となる。1918年、旧制関西中学校(現・関西高等学校)を卒業する。 1934年、岡山市会議員に当選する。その後、市会議長を務め、1939年、岡山県会議員となる。 1947年、公選による初代岡山市長に就任し、1951年まで1期務める。 退任後の1952年、播備商事を設立し、会社経営に尽力した。 活躍が評価され、勲五等双光旭日章が授与された。 1975年11月3日死去。享年79。
横山 太喜夫(よこやま たきお、1897年〈明治30年〉9月… 横山 太喜夫(よこやま たきお、1897年〈明治30年〉9月1日 - 1969年〈昭和44年〉11月11日)は、日本の経営者。群馬銀行頭取を務めた。位階は正五位。 岡山県岡山市出身。1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業。日本銀行での勤務を経て、1944年11月に群馬大同銀行に転じ、1948年から1968年まで頭取を務めた。 1958年に黄綬褒章を受章し、1967年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1969年11月11日心臓麻痺のために死去。72歳没。死没日付をもって正五位に叙された。
岡崎 嘉平太(おかざき かへいた、1897年(明治30年)4… 岡崎 嘉平太(おかざき かへいた、1897年(明治30年)4月16日 - 1989年(平成元年)9月22日)は、日本の実業家。 1972年岡山県賀陽町(現・吉備中央町)名誉町民。1978年、勲一等瑞宝章受章。1985年、岡山県総社市名誉市民。1985年、岡山県名誉県民。1987年、中国洛陽市名誉市民。 岡山県賀陽郡大和村(上房郡賀陽町を経て現・加賀郡吉備中央町)に、農業・岡崎鶴太郎の長男として生まれる。 尋常小学校1年の頃に自宅が全焼し、吉備郡総社町(現・総社市)に移り住む。旧制岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、1916年第一高等学校に入学する。一高時代はボート部で活動し、また中国人留学生たちとの交流を深める。
相賀 武夫(おうが たけお/おおが たけお、1897年4月2… 相賀 武夫(おうが たけお/おおが たけお、1897年4月2日 - 1938年8月12日)は、日本の出版事業家、小学館及び集英社の創業者。1932年(昭和7年)7月に相賀祥宏と改名している。長男は小学館第2代社長の相賀徹夫。孫は小学館第3代社長の相賀昌宏(徹夫の長男)。 岡山県都窪郡加茂村(現在の岡山市北区加茂)出身。1897年(明治30年)4月2日、庄屋を営む相賀虎右衛門の長男として生まれる。祖父の春治は村会議員を務め、私財を投げうって村の発展に尽くしていた。 父・虎右衛門の時代には生家が没落して貧しかったため、1910年(明治43年)3月に加茂尋常小学校(現・岡山市立加茂小学校)卒業後は書記見習として県立高松農学校(現・岡山県立高松農業高等学校)に書記見習として就職(後に書記代理へ昇進)。
赤松 月船(あかまつ げっせん、1897年3月22日 - 1… 赤松 月船(あかまつ げっせん、1897年3月22日 - 1997年8月5日)は、日本の詩人、曹洞宗僧侶。梅花流詠讃歌で知られる。岡山県浅口郡鴨方村(現・浅口市)出身。旧名は藤井卯七郎。 小学校卒業と同時に井原の善福寺の住職赤松仏海の養子となり、13歳で得度、1914年(大正3年)から新居浜の瑞応寺で修行、1916年から大本山永平寺で修行。1918年(大正7年)、僧籍を離れ上京して生田長江に師事。文学上の友人としては村井武生がいる。佐藤春夫、室生犀星らと知り文学活動を始め、『紀元』『文藝時代』などに参加。 1936年、岡山県に帰り、洞松寺(矢掛町)、善福寺の住職。1950年、曹洞宗特派布教師。1951年、正教師。
広兼 篤郎(ひろかね あつろう、1897年(明治30年)3月… 広兼 篤郎(ひろかね あつろう、1897年(明治30年)3月8日 - 没年不詳 )は、日本の陸上競技選手であり、実業家でもある。元日本陸連理事も務めた。広兼が中心となり、現在まで続く早慶対抗陸上競技会を企画した人物としても知られる。岡山県川上郡吹屋町出身。 1897年(明治30年)岡山県川上郡吹屋町(現:高梁市)の素封家である広兼玉太郎の次男として出生する。生家は広兼邸として知られ、江戸後期に弁柄で大富豪となった家系として知られる。映画『八つ墓村』のロケ地としても有名である。 その後、1911年(明治44年)旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進み、この頃には、既に周囲と比べて足が速く、陸上競技で有名となっていた。
松田 享爾(まつだ きょうじ、1897年(明治30年)- 1… 松田 享爾(まつだ きょうじ、1897年(明治30年)- 1927年(昭和2年)3月)は日本の内務官僚でありキリスト教伝道者。内村鑑三に影響を受け、その配下である黒崎幸吉に師事した。岡山県真庭市出身。 1897年(明治30年)岡山県真庭郡美川村(現:真庭市)に生まれる。兄に松田壽比古がいる。地元に近い旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学する。同期に、明治大学学長を務めた小出廉二、東京帝国大学教授で経済学の宇野学派を率いた宇野弘蔵、第一次日本共産党の西雅雄、関西大学法学部教授になる高木益郎がいた。彼らはお互いに、影響を与えあった。特に、社会評論誌『第三帝国』を定期購読し、校内で宇野と熱心に政治論を戦わせた。
大月 伸(おおつき しん、1896年(明治29年)12月18… 大月 伸(おおつき しん、1896年(明治29年)12月18日 - 1980年(昭和55年)4月13日)は、日本の弁護士、大阪弁護士会会長、第15代日本弁護士連合会会長、関西大学理事・顧問を務めた。岡山県高梁市出身。 1896年(明治26年)岡山県上房郡上竹荘村(現:高梁市)で生れる。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、関西大学へ進学する。1917年(大正6年)7月に関西大学専門部法律学科を卒業し、翌年、1918年(大正7年)4月に日本大学法学高等研究科(現:日本大学法科大学院)を専攻する。1919年、同校を卒業し、1920年(大正9年)12月11日、大月は弁護士試験に合格する。
藤原 孝夫(ふじわら たかお、1896年(明治29年)11月… 藤原 孝夫(ふじわら たかお、1896年(明治29年)11月20日 - 1983年(昭和58年)5月8日)は、日本の内務官僚。官選山梨・千葉・神奈川県知事。 岡山県岡山市西古松に藤原祐三郎の長男として生まれる。岡山中学、第六高等学校を経て、1920年7月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入り山口県属となり内務部農務課に配属。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。 以後、1922年(大正11年)6月富山県理事官・内務部学務課長、同県視学官、1925年(大正14年)5月京都府内務部地方課長、岐阜県学務部長などを歴任し、1931年12月、復興事務局書記官・経理課長に就任した。1932年4月、内務事務官・大臣官房都市計画課勤務となり、さらに、衛生局保健課長、大臣官房会計課長を務めた。
土光 敏夫(どこう としお、1896年〈明治29年〉9月15… 土光 敏夫(どこう としお、1896年〈明治29年〉9月15日 - 1988年〈昭和63年〉8月4日)は、昭和時代の日本のエンジニア、実業家。位階勲等は従二位勲一等(勲一等旭日桐花大綬章・勲一等旭日大綬章・勲一等瑞宝章)。岡山県名誉県民、岡山市名誉市民。 石川島重工業・石川島播磨重工業 社長、東芝社長・会長を歴任、日本経済団体連合会第4代会長に就任し、「ミスター合理化」として「土光臨調」と称されている第二次臨時行政調査会でも辣腕を振るった。他方、橘学苑の理事長、校長を創設者の母から引き継いだ。また、質素な暮らしぶりで「メザシの土光さん」としても親しまれた。次男の土光哲夫は東芝タンガロイの元役員。