長谷川 藤七(はせがわ とうしち、1896年〈明治29年〉5… 長谷川 藤七(はせがわ とうしち、1896年〈明治29年〉5月21日 - 1977年〈昭和52年〉2月10日)は、昭和時代の政治家。実業家。山口県徳山市長。 1912年(明治45年)3月、岡山商業学校卒業。1940年(昭和15年)4月、東亜窯業会社技師長を経て、1942年(昭和17年)11月に小野田耐火工業社長を務めたのち、1947年(昭和22年)4月に徳山市の初代公選市長に当選した。 幹線道路の幅を36メートルに広げるなど当時としては桁外れな土地区画整理事業により猛烈な反対運動が生じたが、戦災復興およびのちの徳山市の発展の基礎固めとなる施策であった。ほか、公共的建物の統合配置による官公街の形成や公園緑地の適正配置による都市の美観を図ることを目指した。
原 彪(はら ひょう / たけし、男性、1894年(明治27… 原 彪(はら ひょう / たけし、男性、1894年(明治27年)11月24日 - 1975年(昭和50年)12月17日)は、日本の政治家、政治学者。衆議院副議長。本名は彪之助。 岡山県小田郡金浦村(現・笠岡市)に生まれる。岡山一中、第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。その後は文部省嘱託、鉄道省鉄道講習所講師、明治大学講師を経て、1928年法政大学教授に就任。政治学・政治史を講じていた。 学生時代より社会主義に共鳴し、1924年安部磯雄らと社会主義研究団体「日本フェビアン協会」を結成する。以後安部に付き従い、1932年安部を委員長とする社会大衆党が結成されると原も入党し中央執行委員になる。
滝澤 脩作(たきさわ しゅうさく、1893年(明治26年)8… 滝澤 脩作(たきさわ しゅうさく、1893年(明治26年)8月25日 - 1958年(昭和33年)7月1日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 岡山県浅口郡乙島村(玉島町乙島、玉島市乙島を経て現倉敷市玉島乙島)で、滝澤嘉三郎の長男として生まれた。玉島尋常高等小学校を卒業後、神戸市立工業学校で学んだ。 川崎造船所、住友伸銅所での勤務を経て、1922年(大正11年)大阪市東成区猪飼野でボール盤製造を始めていた弟・七三郎に合流して滝澤鉄工所(現:TAKISAWA)を設立した。満州事変以後の工作機械需要の増大を受けて会社は発展し、1933年(昭和8年)郷里の玉島に、1935年(昭和10年)と1938年(昭和13年)には大阪の二箇所に工場を新設した。
宗藤 大陸(むねとう たいろく、1893年(明治26年)4月… 宗藤 大陸(むねとう たいろく、1893年(明治26年)4月14日 - 1974年(昭和49年)2月27日)は、大正から昭和時代前期の政治家。台湾総督府官僚。屏東市尹、高雄市尹。北海道函館市長。 岡山県久米郡吉岡村(現在の美咲町)出身。1914年(大正3年)から兵庫県で巡査、巡査部長、警部を歴任。1924年(大正13年)に台湾に渡り、警務局勤務、文教局属、新竹市助役、豊原郡守を歴任。1936年(昭和11年)、屏東市尹に就任し、翌年に高雄市尹に転じた。 退官後、台湾製糖株式会社企画部長、同総務部長、高雄州会議員、屏東商業会議所会頭などを務めた。 戦後は函館市助役を経て、坂本森一の急逝をうけて1947年(昭和22年)に市長に選出された。
粕山 八郎治(かすやま はちろうじ、1892年(明治25年)… 粕山 八郎治(かすやま はちろうじ、1892年(明治25年)6月15日 - 不明 )は、日本の新聞記者であり、政治家である。岡山新聞(現:山陽新聞)の常務取締役、岡山交通取締役、岡山県議会議長を務めた。岡山県岡山市出身。 1892年(明治25年)岡山県御津郡大野村野田(現:岡山市)に粕山治三郎の次男として出生。その後、1905年(明治18年)に旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学し、同期には、映画監督となる中川紫郎がいた。1910年(明治43年)に同校を卒業し、17歳で山陽新報(現:山陽新聞)へ入社する。 山陽新報へ入社してから2年後の1912年(明治45年)、大日本帝国海軍に志願し入隊。
大村 清一(おおむら せいいち、旧字体: 大村淸一、1892… 大村 清一(おおむら せいいち、旧字体: 大村淸一、1892年(明治25年)5月4日 - 1968年(昭和43年)5月24日)は、日本の内務官僚、弁護士、政治家。衆議院議員(6期、自由民主党)。貴族院議員(勅選)、防衛庁長官(第2代)、内務大臣(第65代)。日本林業協会長、相模女子大学長。 防衛庁長官を務めた大村襄治は子。岳父は東大名誉教授本多静六。 岡山県津山市に生まれる。大村吉五郎の長男。 鹿児島高等農林学校卒業の後、1917年(大正6年)京都帝国大学法科大学独法科卒業。同大学院修了。内務省に入省。土木局属。鹿児島県揖宿郡長、東京市主事、地方、復興局、内務、鉄道各事務官、内務書記官、長野、神奈川県知事となり、長野県知事を2度務め話題になった。
片山 一男(かたやま かずお、1892年(明治25年)3月7… 片山 一男(かたやま かずお、1892年(明治25年)3月7日 - 1953年(昭和28年)12月27日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・河本。 岡山県久米北条郡大井西村坪井下(久米郡大井西村、大井町、久米町を経て現津山市坪井下)で、素封家・河本芳太郎の長男として生れ、同村の親族、医師・片山恒四郎の養子となる。三宮電信局通信書記補を経て、実業家を目ざして同郷の西山和三郎の秘書となり、久米銀行千代支店長、山陽銀行千代支店長、同落合支店長、津山土地支配人、東京小松川土地建物常務取締役などを務めて成功をおさめ、岡山土地倉庫常務取締役、東京平井三業社長、宇部燃料工業社長、津山土地取締役、中国住宅取締役などを務めた。
安井 誠一郎(やすい せいいちろう、1891年(明治24年)… 安井 誠一郎(やすい せいいちろう、1891年(明治24年)3月11日 - 1962年(昭和37年)1月19日)は、日本の政治家。内務・厚生官僚、東京都長官(6・8代)、東京都知事(初・2・3代)、新潟県知事(34代)、衆議院議員(1期)を歴任した。位階は正三位。 参議院議長を務めた安井謙と、雪印食品副社長を務めた安井三郎は弟。 岡山県御津郡伊島村(現:岡山市北区津島)生まれ。岡山県立岡山中学校、旧制一高、東京帝国大学独法科を卒業後、内務省に入省。 1920年から茨城県庶務課長、稲敷郡長を務めた。休職後にドイツ視察留学を経て、東京市社会局長として関東大震災の復興にあたる。その間茨城県・神奈川県で警視を務めた。
行吉 角治(ゆきよし かくじ、1890年(明治23年)6月1… 行吉 角治(ゆきよし かくじ、1890年(明治23年)6月10日 - 1945年(昭和20年)3月5日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 岡山県和気郡香登村香登西(香登町香登西、備前町を経て現備前市香登西)で、行吉百三郎の息子として生れた。行吉家は屋号「戎屋」として瓦製造を家業としていたが、百三郎はかけごとが好きなことなどから事業に失敗し、角治が3、4歳ころに岡山市に移り食べ物屋「三子屋ぜんざい」を開いた。角治は関西中学校(現関西高等学校)で学んだが、素行不良で中退した。その後、遊び人の仲間となった。 岡山で土木請負業「山崎組」を営む。1928年(昭和3年)2月の第16回衆議院議員総選挙で横山泰造の選挙運動に加わったことが契機で政治家に関心を持つようになった。
家野 猛之(いえの たけし、1890年〈明治23年〉2月1日… 家野 猛之(いえの たけし、1890年〈明治23年〉2月1日 - 1973年〈昭和48年〉4月9日)は、日本の政治家。岡山県西大寺市(現・岡山市)長。 岡山県邑久郡福田村(のち邑久町、現・瀬戸内市)出身。邑久尋常高等小学校卒。1922年(大正11年)4月、日本農民組合の結成大会に参加する。同年11月上道郡金田村(のち西大寺市、現・岡山市)の小作争議に加わり、検挙され、有罪判決を受ける。その後、労働農民党に入り、1927年(昭和2年)、同党公認で岡山県会議員選挙に立候補したが落選した。1929年(昭和4年)に福田村会議員となり、福田村農会長、邑久郡町村会議員連盟会長などを歴任した。1947年(昭和22年)、西大寺町長に初当選、1951年(昭和26年)に再選。
久山 知之(くやま ともゆき、1889年〈明治22年〉4月1… 久山 知之(くやま ともゆき、1889年〈明治22年〉4月1日 - 1968年〈昭和43年〉2月3日)は、日本の政治家、実業家、著述業。衆議院議員(岡山県第一区選出、当選6回)。岡山県会議員。 岡山県久米郡大井西村(現・津山市)に生まれた。久山茂樹の長男。1909年、家督を相続した。早稲田大学に学び、中退した。中国民報社に勤務し、記者となった。岡山県交通互助会長、高信銀行支店長、同支配人、久山工業所長、西美鉄道、美作電化工業各会社重役を務めた。 1919年、岡山県会議員に当選。1928年、衆議院議員に当選(6期連続当選)。立憲政友会に所属した。立憲政友会総務を務めた。1937年6月、第1次近衛内閣で司法政務次官に任ぜられ、1939年1月、退任した。
小山 美登四(こやま みとし、1888年(明治21年)10月… 小山 美登四(こやま みとし、1888年(明治21年)10月 - 1959年(昭和34年))は日本の銀行家・実業家・弁護士・政治家である。初代台湾高雄州協議会の会員。台湾銀行本店支配人、三蟠鉄道・昭和護謨監査役、岡山県議会議員と岡山市議会議員を務めた。岡山県倉敷市出身 1888年(明治21年)、岡山県浅口郡船穂村(現:倉敷市船穂町)の小山四郎兵衛秀男の次男として出生。旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1906年(明治39年)第六高等学校に進学する。 その後、1909年(明治42年)6月に同校を卒業し、同年に東京帝国大学法科大学政治学科へ進学した。1913年(大正2年)7月、24歳で同大学を卒業し、一年志願兵として入営し陸軍二等計手になった後、1915年(大正4年)台湾銀行書記として入行した。
堀口 功(ほりぐち いさお、1888年8月18日 - 196… 堀口 功(ほりぐち いさお、1888年8月18日 - 1964年2月17日)は、日本の政治家。岡山県玉島市(現・倉敷市)長。 岡山県浅口郡阿賀崎村(のち玉島町→玉島市、現・倉敷市)出身。旧制岡山中学校(現・岡山県立朝日高等学校)、金川中学校(後、岡山県立金川高等学校、現在廃校)を経て、1918年、早稲田大学政治経済学科卒。同年、高等文官試験行政科に合格する。福岡県属、同官房主事、地方課長、兵庫県地方、議事各課長、沖縄、広島、高知、千葉各県の学務部長、宮城、鹿児島各県の経済部長、福井県の総務部長を歴任し、1939年に退官した。退官後は神戸製鋼所総務部長などを経て、1951年、玉島町長に就任。翌年1月、玉島町の市制施行に伴い、玉島市長となった。
土屋 源市(つちや げんいち、1888年〈明治21年〉7月1… 土屋 源市(つちや げんいち、1888年〈明治21年〉7月1日 - 1968年〈昭和43年〉7月8日)は、明治末から昭和期の獣医師、政治家、実業家。衆議院議員、岡山県新見市長、同市名誉市民。旧姓・佐々木。和牛の改良に心血を注ぎ岡山県の「和牛の父」と称された。 岡山県阿賀郡実村(千屋村、阿哲郡千屋村を経て現新見市千屋実)で、農業・佐々木久太郎の三男として生まれる。1908年(明治41年)岡山県農学校(現岡山県立高松農業高等学校)獣医科を卒業した。1913年(大正2年)阿哲郡美穀村唐松の土屋和吉の養子となる。 阿哲郡吏員、同農業技手、阿哲郡産牛馬組合技師を務め、千屋牛の改良に尽力した。1920年(大正9年)阿哲畜産 (株) が設立されると支配人に就任し、その後、同社長を務めた。
逢沢 寛(逢澤寛、あいざわ かん、1888年〈明治21年〉5… 逢沢 寛(逢澤寛、あいざわ かん、1888年〈明治21年〉5月15日 - 1982年〈昭和57年〉10月25日)は、昭和時代の日本の政治家、衆議院議員(9期)。 岡山県の農家に生まれる。 1899年臥竜高等小学校中退。1912年逢沢組を設立、1939年逢沢組を改組し中国土木(アイサワ工業の前身)を設立、同社社長に就任。その間、1937年の第20回衆議院議員総選挙で旧岡山1区から立憲民政党公認で立候補するが落選。1942年の翼賛選挙で非推薦候補として立候補し初当選。以後当選9回。通算25年代議士を務め、御津郡芳田村(現・岡山市)村長、運輸政務次官や岡山商工会議所会頭、岡山県遺族会会長、日本遺族会副会長などを歴任。
半井 清(なからい きよし、1888年(明治21年)3月31… 半井 清(なからい きよし、1888年(明治21年)3月31日 - 1982年(昭和57年)9月3日)は、日本の内務官僚、政治家。官選府県知事、北海道庁長官、横浜市長。岡山県真庭市出身。位階は従三位。 岡山県真庭郡落合町(現:真庭市)出身。1888年(明治21年)衆議院議員・福井三郎の長男として生まれるが半井家を継いだ。第一高等学校を経て、1913年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。同年12月、大阪府属となり内務部地方課に配属。その後、大阪府理事官、大阪府視学官、石川県理事官などを歴任。 1919年10月、朝鮮総督府に転じ学務局宗教課長に就任。
川上 貫一(かわかみ かんいち、1888年〈明治21年〉1月… 川上 貫一(かわかみ かんいち、1888年〈明治21年〉1月28日 - 1968年〈昭和43年〉9月12日)は、大正・昭和の労働運動活動家・政治家。後に日本共産党国会議員団長となる。娘は洋画家の川上律江。 岡山県哲多郡(現・新見市)出身。 1907年(明治40年)県立農学校を卒業後、代用教員や岡山県職員を務め、後に大阪府の社会課主事に転じる。1927年(昭和2年)に昭和文化学会に参加して以後、共産党シンパとしての活動を強め、翌年には検挙を受ける。また、1937年(昭和12年)の人民戦線事件でも検挙されて懲役2年の実刑判決を受けている。この間、マルクス経済学を学び、社会主義系の雑誌や研究所の立ち上げに関与した。
星島 二郎(ほししま にろう、1887年(明治20年)11月… 星島 二郎(ほししま にろう、1887年(明治20年)11月6日 - 1980年(昭和55年)1月3日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員。元衆議院議長。従二位勲一等旭日桐花大綬章。 岡山県児島郡藤戸町(現・倉敷市藤戸町)出身。岡山中学校、第六高等学校、東京帝国大学卒業。政界入りする前は弁護士であり、東京・日比谷に片山哲らと中央法律事務所を開設し、森戸事件等を担当した。 戦前は普通選挙運動、婦人参政権、公娼廃止に熱心な自由主義的・進歩的な立場を貫き、母性保護連盟の委員として母子保護法の成立(1937年)にも尽力した。 戦時中も議会政治擁護の立場を変えなかった。戦後は山崎首班工作に関与したこともあった。
松本 学(まつもと がく / まなぶ、1886年(明治19年… 松本 学(まつもと がく / まなぶ、1886年(明治19年)11月20日(ただし、戸籍上は同年12月28日) - 1974年(昭和49年)3月27日)は、日本の内務官僚、政治家。旧姓は片岡(断絶した外祖父の松本家を再興した際に改姓した)。 岡山県出身。片岡房太の長男として生まれる。1910年、祖父松本礼造の跡を承け家督を相続した。 関西中学校、第六高等学校、東京帝国大学法科大学を経て、1911年に文官高等試験に合格して同年の大学卒業とともに内務省に入省する。愛媛県属。神社局長を経て1926年に静岡県知事に任ぜられる。1927年、立憲民政党系とみなされて、立憲政友会政権が行った地方官人事で鹿児島県知事に転任。
湛増 庸一(たんそう よういち、1886年(明治19年)4月… 湛増 庸一(たんそう よういち、1886年(明治19年)4月17日 – 1941年(昭和16年)5月14日)は、日本の政治家、教育者。衆議院議員(1期)。 岡山県久米郡倭文西村(現在の美咲町)出身。1904年(明治37年)、岡山県立第一中学校を卒業。1908年(明治41年)に東京帝国大学農科大学を卒業。その後、アメリカ合衆国に留学して、ミネソタ州立農科大学を卒業し、さらにノースダコタ大学に学んだ。1912年(明治45年)に帰国した後は、岡山県農業試験場講師、山本農学校校長・山本実科高等女学校校長などを務めた。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬して当選を果たしたがその際、同じ岡山県第七区での競合相手だった藤島守太と談合して藤島方の選挙民を1万円で買収、衆議院選挙罰則違反で禁錮3月の判決を受け、1925年(大正14年)11月19日、大審院で上告棄却され、失職した。
山上 岩二(やまのうえ いわじ、1885年(明治18年)6月… 山上 岩二(やまのうえ いわじ、1885年(明治18年)6月15日 - 1966年(昭和41年)12月30日)は、大正から昭和時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 山上脩三郎の兄として岡山県岡山区船頭町(現岡山市北区)に生まれ、1910年(明治43年)岡山市二日市町(現:北区)の地主・山上頼治の養子となり、1917年(大正6年)家督を相続する。岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)、第一高等学校を経て、1910年(明治43年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。岡山住宅土地専務取締役、萬歳酒造監査役、岡山米穀取引所理事、同理事長、岡山商業会議所会頭などを歴任した。 1924年(大正13年)岡山市会議員に当選。
小谷 節夫(こたに せつお、1885年1月28日 - 195… 小谷 節夫(こたに せつお、1885年1月28日 - 1959年8月30日)は、日本の政治家。岡山県阿哲郡新見町(現・新見市)生まれ。近藤鶴代は妹。 新見の旧家・近藤家に生まれ、8歳の時に真庭郡八束村(現・真庭市)の小谷家の養子となる。岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)卒業後、1906年に上海の東亜同文書院入学(第5期生)。古河鉱業(現・古河機械金属)を経て、1914年に青島で『大青島報』(後の『青島大新民報』)を創刊、1916年には貿易会社「天佑公司」を創立した。帰国後、1928年に衆議院議員に当選し、1945年の日本の敗戦後に公職追放された。岡山では親切運動を展開した。
今井田 清徳(いまいだ きよのり / せいとく、1884年(… 今井田 清徳(いまいだ きよのり / せいとく、1884年(明治17年)2月1日 - 1940年(昭和15年)5月8日)は、日本の逓信官僚、政治家。貴族院議員、朝鮮総督府政務総監、逓信次官。旧姓・国塩。 岡山県赤坂郡神田村(赤磐郡鳥取中村、高陽村、山陽町を経て現赤磐市)出身。旧岡山藩士・国塩与三郎の三男として生まれ、磐梨郡佐伯北村(赤磐郡吉井町を経て現:赤磐市)今井田善十郎の養嗣子となる。関西中学校、第六高等学校を経て、1909年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。通信属となり逓信省通信局に配属。同年11月、文官高等試験に合格。 1910年4月、通信事務官・大阪中央郵便局長に就任。以後、神戸逓信管理局総務部長、逓信省電気局管理課、東部逓信局経理部規画課長などを歴任。
古村 貢三郎(ふるむら こうざぶろう、1884年〈明治17年… 古村 貢三郎(ふるむら こうざぶろう、1884年〈明治17年〉1月17日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の政治家。愛知県瀬戸市長。 岡山県勝田郡古吉野村石生(現・勝央町石生)に生まれる。1906年(明治39年)11月、和歌山県属となり、以後、滋賀、鳥取、北海道、大阪、福井各県属を経て、1918年(大正7年)3月に福井県知事官房主事となる。 同年12月に同県大飯郡長、ついで足羽郡長、敦賀郡長、遠敷郡長を経て、1925年(大正14年)1月、地方事務官となり福井県内務部勧業課長に発令される。翌年の1926年(大正15年)8月、辞任し、新潟市主事を経て、1927年(昭和2年)7月に樺太庁に転じ、豊原支庁長、本斗支庁長、真岡支庁長を歴任し、1929年(昭和4年)11月まで務めた。
菅 實(かん みのる、1884年? - 1946年(昭和21… 菅 實(かん みのる、1884年? - 1946年(昭和21年))は、日本の医師、政治家。新字体にて菅 実(かん みのる)と表記されることもある。菅納家重の子。第94代内閣総理大臣菅直人の祖父。 久米郡医師会会長、久米郡会議員などを歴任した。 岡山県出身。生家は江戸時代には村の庄屋を務めており、元は豪族であった。 旧制岡山県津山中学校(現・岡山県立津山高等学校)を経て岡山医学専門学校を卒業し、医師となる。岡山県病院で研修の後、1911年(明治44年)に津山市内で開業。1913年(大正2年)に郷里に戻って医業を続け、久米郡医師会長、郡会議員などを歴任。囲碁、俳諧の趣味も楽しみ、1946年(昭和21年)に62歳で死去。
大森 吉五郎(おおもり きちごろう、1883年(明治16年)… 大森 吉五郎(おおもり きちごろう、1883年(明治16年)4月11日 - 1946年(昭和21年))は、日本の内務・警察官僚、政治家。民政党系官選県知事、京都市長。 岡山県上道郡中井村(現:岡山市中区中井)出身。大森久五郎の長男として生まれる。岡山中学校、第三高等学校 を卒業。1908年、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。内務省に入省し京都府属となる。1910年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1910年、京都府南桑田郡長に就任。以後、京都市助役、熊本県理事官、愛媛県警察部長、神奈川県警察部長、神奈川県港務部長、熊本県内務部長、長崎県内務部長、北海道庁土木部長など歴任。 1925年10月、山口県知事に就任。
清水 比庵(しみず ひあん、1883年(明治16年)2月8日… 清水 比庵(しみず ひあん、1883年(明治16年)2月8日 - 1975年(昭和50年)10月24日)は、日本の歌人、書家、画家、政治家。本名は清水秀(しみず ひで)。号は他に匕舟、比舟、比安。質素な生活ぶり、岡山にゆかりがあること、歌人・書家という活動分野から、晩年は「今良寛」と呼ばれた。 岡山県上房郡高梁町(現・高梁市弓之町)に清水質(ただし)と妻・すへの長男として生まれる。旧制高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)、第六高等学校(現・岡山大学)を経て、1908年(明治41年)京都帝国大学(現・京都大学)法学部を卒業。中学から大学まで同級生だった友人に神社柳吉がいる。司法官として神戸地方裁判所へ勤務。
白神 邦二(しらかみ くにじ、1882年(明治15年)11月… 白神 邦二(しらかみ くにじ、1882年(明治15年)11月10日 - 1934年(昭和9年)4月15日)は、大正から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 岡山県浅口郡勇崎村西浦(柏崎村、玉島町、玉島市を経て現倉敷市玉島勇崎)で、肥料問屋「北国屋」白神亀五郎、貞の二男として生れ、白神カチの養子となり1897年(明治30年)家督を相続した。玉島尋常高等小学校を卒業。その後の経歴は不明確で、ロシア帝国沿海州などを視察し、帰郷して岡山市で海産物商、米穀仲買人などを営む。 その後大阪に移り、堂島などで相場、株式の知識を習得し、1918年(大正7年)米相場、株式を掲載した『大阪毎夕新聞』を創刊し1921年(大正10年)社長に就任した。
平松 俊太郎(ひらまつ としたろう、1882年(明治15年)… 平松 俊太郎(ひらまつ としたろう、1882年(明治15年)4月29日 - 1967年(昭和42年)7月24日)は、岡山県川上郡備中町(現・高梁市)出身の地方政治家。倉敷市長、津山市長。 1882年、川上郡備中町で生まれる。学校は、岡山県師範学校へ進学した。 1929年から1937年まで、倉敷市長を2期務める。 1943年から1946年まで、津山市長を務めた。戦後、公職追放となった。その後岡山県議会議員を務めた。 1967年7月24日死去。享年85。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
中岡 弥高(なかおか やたか、1882年(明治15年)1月1… 中岡 弥高(なかおか やたか、1882年(明治15年)1月1日 - 1975年(昭和50年)1月21日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。 岡山県出身。中岡黙陸軍少将の長男として東京で生れる。岡山中学、陸軍幼年学校を経て、1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業。翌年6月、砲兵少尉に任官し野砲兵第1連隊付となる。1907年(明治40年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。陸士教官などを経て、1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 1912年12月、野砲兵第17連隊中隊長となり、参謀本部付、参謀本部員、フランス留学、イタリア軍従軍などを歴任。
則井 万寿雄(のりい ますお、1879年(明治12年)10月… 則井 万寿雄(のりい ますお、1879年(明治12年)10月24日 - 1936年(昭和11年)10月26日)は、衆議院議員(立憲政友会)であり、弁護士でもある。 1879年(明治12年)岡山県上房郡川面村(現:高梁市)出身で農業・土木請負業の則井兼十郎の次男に生まれる。川面小学校、旧制高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)を卒業後上京し、昼間郵便局でアルバイトをしながら明治大学夜間部、明治大学高等研究科で法学の研究を続け1904年(明治37年)7月修了した。 1904年(明治37年)に判事検事登用試験に合格し、高松地方裁判所に勤務したが、1年で辞した。その後、東京で弁護士を開業したが、岡山に戻って高梁で開業した。
黒田 英雄(くろだ ひでお、1879年(明治12年)9月2日… 黒田 英雄(くろだ ひでお、1879年(明治12年)9月2日 – 1956年(昭和31年)11月1日)は、日本の大蔵官僚、政治家。大蔵次官、貴族院議員、参議院議員。
二宮 治重(にのみや はるしげ、1879年(明治12年)2月… 二宮 治重(にのみや はるしげ、1879年(明治12年)2月17日 - 1945年(昭和20年)2月17日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。文部大臣。 岡山県出身。二宮成重の三男として生まれる。母は松平紀伊守娘の志乃。次兄に重友、養子に三郎(森定次郎の三男)がいる。岡山中学校を経て、1898年(明治31年)12月、士官候補生となる。1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第20連隊付となる。1904年(明治37年)5月、歩兵第20連隊中隊長となり、1906年(明治39年)1月まで日露戦争に出征した。1910年(明治43年)11月、陸軍大学校(22期)を優等で卒業。
逢坂 藍水(おうさか らんすい、1878年〈明治11年〉11… 逢坂 藍水(おうさか らんすい、1878年〈明治11年〉11月13日 - 1949年〈昭和24年〉2月11日)は、日本の医師、歌人、政治家。本名は逢坂 佐馬之助(おうさか さまのすけ)。他の筆名に逢坂 蘭翠がある。 1878年11月13日、徳島県美馬郡半田町(現・つるぎ町)に、熊八の三男として生まれる。1879年10月20日、熊八が病死し、それ以降は伯父の真佐八を「父」と呼ぶ。 1883年4月、半田口山小学校初等科(後の半田尋常小学校)に入学する。1888年3月、半田尋常小学校を卒業する。同年4月、半田簡易小学校において1年間の補習を受ける。1889年5月から1890年4月まで、半田簡易小学校の補助教員に、1895年1月から4月まで、久保尋常小学校の補助教員に、同年5月から12月まで、半田尋常高等小学校の補助教員になる。
岡田 忠彦(おかだ ただひこ、1878年〈明治11年〉3月2… 岡田 忠彦(おかだ ただひこ、1878年〈明治11年〉3月21日 - 1958年〈昭和33年〉10月30日)は、日本の内務官僚、政治家。埼玉県(官選第17代)、長野県(官選第14代)、熊本県知事(官選第16代)、内務省警保局長、衆議院議員(8期)、厚生大臣(第11代)、衆議院議長(第35代)。 岡山県、のちの岡山市小橋町(現中区小橋町)出身。岡田吟平、多嘉恵の長男として生まれた。岡山中学校、第一高等学校を経て、1903年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。 官界に入り逓信省鉄道書記となる。1903年(明治36年)11月、第10回文官高等試験行政科合格。 内務省に移り1906年静岡県事務官、1915年東京府内務部長、1916年埼玉県知事、1921年長野県知事、1922年熊本県知事。
古屋野 橘衛(こやの きつえ、1878年(明治11年)1月1… 古屋野 橘衛(こやの きつえ、1878年(明治11年)1月1日 - 1957年(昭和32年)4月10日)は、岡山県都窪郡豊洲村(現・倉敷市)出身の地方政治家。倉敷市長。 1878年1月1日、都窪郡豊洲村に槙尾利八の二男として生まれる。その後、古屋野家を継ぐ。旧制同志社中学、旧制第三高等学校を経て、京都帝国大学法学部へ進学する。 京都帝大卒業後は貿易業へ就き、その後アメリカへ渡る。17年間滞在し、1922年に帰国する。 1923年、万寿村長となり、その後、岡山県議会議員に3回当選する。1927年、倉敷市制実現のため、倉敷町・万寿村・大高村の3町村合併に尽力した。 合併後の、1928年、倉敷市議会議員となり、その後、市議会議長となる。
溝手 保太郎(みぞて やすたろう、1877年(明治10年)3… 溝手 保太郎(みぞて やすたろう、1877年(明治10年)3月30日 - 1933年(昭和8年)11月25日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家、銀行家、大地主。貴族院多額納税者議員。 溝手直次郎の長男として岡山県都宇郡早島村(現都窪郡早島町)に生まれる。一時直次郎の兄の養嗣子となるが、のち復籍し、9歳にして家督を相続する。1896年(明治29年)1月、早島、倉敷の地主、佐藤、綱島、大橋らと共に中備銀行を創立し頭取に就任した。早島随一の大地主として120町歩の小作地を経営し、その収入を株式や公債に当て利殖を図る。1910年(明治43年)韓国併合を契機に韓国にも180町歩の土地を購入、農場経営に着手した。
小川 郷太郎(おがわ ごうたろう、1876年(明治9年)6月… 小川 郷太郎(おがわ ごうたろう、1876年(明治9年)6月9日 - 1945年(昭和20年)4月1日)は、大正・昭和期の財政学者、政治家。京都帝国大学経済学部教授、拓殖大学学監、衆議院議員、商工大臣、鉄道大臣などを歴任。従三位勲一等、法学博士。旧姓・村山。 岡山県浅口郡、のちの里庄村(現里庄町)で村山菊蔵の長男として生まれる。岡山県医局長で医師の小川知彰の養子となり、岡山中学、開成中学、旧制第一高等学校を経て、1900年(明治33年)東京帝国大学に入学。 1903年(明治36年)東京帝国大学法科大学政治学科次席卒業。首席は小野義一(大蔵官僚、高文次席)、3位が上杉慎吉(東大教授、憲法学者)、4位は馬場鍈一(大蔵官僚、高文首席)。
三宅 磐(みやけ いわお、1876年(明治9年)6月8日 -… 三宅 磐(みやけ いわお、1876年(明治9年)6月8日 - 1935年(昭和10年)5月23日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。 岡山県岡山市出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)英語政治科卒業。大阪朝日新聞記者、東京日日新聞記者を経て、1909年(明治42年)、横浜市市政顧問に就任。1910年(明治43年)に横浜貿易新報社を創設し、初代社長に就任した。大正期に横浜市会議員、神奈川県会議員を経て、1927年(昭和2年)の衆議院補欠選挙に出馬し、当選。以後、4回の当選回数を数えた。1932年(昭和7年)に発足した立憲民政党横浜支部の初代支部長に就任。党内では同じく新聞人出身の永井柳太郎と親しかった。
玉野 知義(たまの ともよし、1876年(明治9年)2月8日… 玉野 知義(たまの ともよし、1876年(明治9年)2月8日 - 1945年(昭和20年)2月7日)は、明治後期から昭和前期の政治家、実業家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県和気郡片上町長。幼名・桃三郎。1886年(明治19年)家督を相続し知義に改名した。反木堂派として活動した。 岡山県和気郡東片上村(片上村、片上町、備前町を経て現備前市東片上)で、農業・玉野友吉、文の二男として生まれる。閑谷黌(閑谷学校)で学んだが中退し、片上郵便局勤務を経て和気郡書記に就任。 1900年(明治33年)片上町助役を経て1902年(明治35年)片上町長に就任し2年間在任。片上町会議員、和気郡会議員、同参事会員も務めた。
関藤 碩衛(せきどう ひろえ、1871年7月24日(明治4年… 関藤 碩衛(せきどう ひろえ、1871年7月24日(明治4年6月7日)- 1957年(昭和32年)5月9日)は、岡山県小田郡陶山村(現・笠岡市)出身の官吏、地方政治家。初代倉敷市長。 1871年6月7日、小田郡陶山村に生まれる。私立関西学館を卒業し、小田郡書記となる。 その後、岡山県庁へ入り県知事官房主事まで昇進したが辞任し、1921年、赤磐郡長となる。その後、浅口郡長、倉敷町長を歴任。1928年、市制が発布され、初代倉敷市長に就任する。その後日比町長となる。 1940年、日比町と宇野町が合併し玉野市となり初代市長に就任する。初代市長に2度就任することは稀な出来事であった。戦後、公職追放となる。
横山 泰造(よこやま たいぞう、1870年10月14日(明治… 横山 泰造(よこやま たいぞう、1870年10月14日(明治3年9月20日)- 1947年(昭和22年)4月10日)は、明治後期から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県邑久郡鶴山村長、同県和気郡日生町長。木堂派として活動した。 備前国邑久郡鶴海村(岡山県邑久郡鶴山村鶴海、備前町を経て現備前市鶴海)で、素封家、酒造業・横山栄蔵の二男として生まれる。東京高等商業学校(現一橋大学)を中退し兵役に服し、帰郷して家業の酒造業を手伝った。 その後、分家して果樹園を営みナシ栽培を行う。邑久郡農会長、同郡畜産組合長、岡山県畜産組合連合会副会長、中央畜産会副会頭、帝国馬匹協会理事、岡山酪農販売購買利用組合理事長などを務め、畜産などの農業振興に尽力。
豊福 泰造(とよふく たいぞう、1870年1月2日(明治2年… 豊福 泰造(とよふく たいぞう、1870年1月2日(明治2年12月1日) - 1945年(昭和20年)10月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。岡山県美作市出身。 岡山県英田郡栗広村(現:美作市)出身。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)を経て、東京専門学校及び哲学館で学ぶ。農業と林業を営む。粟広村(現・美作市)会議員、英田郡会議員、所得税調査委員となる。また、倉庫業を経営し、勝英銀行、勝英貯蓄銀行各頭取、播美軽便鉄道(株)社長を務めた。 1912年の第11回衆議院議員総選挙において岡山県郡部から立憲国民党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1915年の第12回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
宇垣 一成(うがき かずしげ、慶応4年6月21日(1868年… 宇垣 一成(うがき かずしげ、慶応4年6月21日(1868年8月9日) - 昭和31年(1956年)4月30日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍大将。
岡 喜七郎(おか きしちろう、1868年5月15日(慶応4年… 岡 喜七郎(おか きしちろう、1868年5月15日(慶応4年4月23日) - 1947年(昭和22年)7月4日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、警視総監、貴族院議員。旧姓・伊丹。 備前国御野郡大安寺村(後の岡山県御津郡大野村を経て現岡山市北区)出身。農業・伊丹喜三郎の長男として生まれ、旧幕臣・岡敬孝の養子となる。岡山中学、成立学舎、大学予備門を経て、1891年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年10月、高等試験に合格し、内務省試補となり警保局に配属され、さらに県治局へ異動した。 1893年11月、鳥取県参事官に就任。以後、青森県内務部長、内務書記官・警保局警務課長、大阪府内務部長などを歴任。
野間 五造(のま ごぞう、慶応4年3月10日(1868年4月… 野間 五造(のま ごぞう、慶応4年3月10日(1868年4月2日) - 昭和21年(1946年)2月18日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)。ジャーナリスト。 岡山藩士野間隼太の長男として生まれる。岡山中学校を卒業後、同志社英学校などを経て、1887年(明治20年)に東京専門学校に入学した。1888年(明治21年)に英語科を卒業し、翌年には邦語政治科を卒業した。1890年(明治23年)、『東京日日新聞』の記者となる。翌年、清に渡って広東同文館で中国語を学び、また『東京日日新聞』『東京新報』特派員として長江流域の哥老会反乱を報じた。1893年(明治26年)、沖縄県に渡って琉球新報社を興し、主筆となった。
内田 嘉吉(うちだ かきち、1866年11月18日〈慶応2年… 内田 嘉吉(うちだ かきち、1866年11月18日〈慶応2年10月12日〉- 1933年〈昭和8年〉1月3日)は、日本の逓信官僚、政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。 逓信省管船局長、台湾総督府民政長官、逓信次官、台湾総督(第9代)、貴族院議員などをつとめた。 東京出身。内田正八の長男として生まれる。岡山中学、第一高等学校を経て、1891年(明治24年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年7月、司法官試補、翌月、逓信省試補となり逓信省に入る。逓信事務官、逓信書記官(兼務)、船舶司検所司検官兼逓信省参事官、逓信大臣秘書官、官房秘書課長、人事課長(兼務)、高等海員審判所所長などを歴任。
藤原 元太郎(ふじわら もとたろう、1866年2月24日(慶… 藤原 元太郎(ふじわら もとたろう、1866年2月24日(慶應2年1月10日)- 1933年(昭和8年)3月6日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県児島郡八浜村長、同郡八浜町長。 備前国児島郡八浜村(岡山県小島郡玉井村、八浜村、八浜町を経て現玉野市)で、藤原久三郎の長男として生れ、1890年(明治23年)7月に家督を相続した。旧制岡山中学校(現:岡山県立岡山朝日高等学校)で学んだ。 玉井村(のち八浜村に改称)助役を経て、1892年(明治25年)10月、玉野村長に就任し、1925年(大正14年)2月まで連続して八浜村長、八浜町長を務めた。また、1898年(明治31年)岡山県会議員に選出され1915年(大正4年)3月まで在任し、1909年(明治42年)から1911年(明治44年)まで県会議長を務めた。
池田 詮政(いけだ のりまさ、1866年2月9日〈慶応元年1… 池田 詮政(いけだ のりまさ、1866年2月9日〈慶応元年12月24日〉- 1909年〈明治42年〉6月1日)は、侯爵・貴族院議員。旧岡山藩池田家第13代当主。 1866年(慶応元年)、備前国岡山城下鴨方藩邸(現在の岡山県岡山市)生まれ。幼名銀三郎。明治維新後に鴨方藩池田家から池田宗家を継承し、備前岡山藩の最後の藩主となった池田章政(政詮)の三男(名前は父の初名を逆にしたようなものになっている)。母は大垣藩主戸田氏正の娘鑑子。 1882年(明治15年)、フランスに留学。公爵島津忠義の次女充子と結婚したが、1889年(明治22年)に離婚し、翌1890年(明治23年)に久邇宮朝彦親王の三女安喜子女王と再婚している。
田辺 為三郎(田邊 爲三郎、たなべ ためさぶろう、1864年… 田辺 為三郎(田邊 爲三郎、たなべ ためさぶろう、1864年12月31日(元治元年12月3日)- 1931年(昭和6年)4月18日)は、明治から昭和初期の実業家・政治家・漢詩人。衆議院議員。名・華、字・秋穀、号・碧堂。 備中国浅口郡長尾村(岡山県浅口郡長尾村、長尾町、玉島市を経て現倉敷市玉島長尾)で、庄屋・田辺新三の三男として生まれた。7歳で父を失い、母に養育され虚弱のため学校に通わず、独学で漢学、外国語学、政治経済学などを修めた。1879年(明治12年)3月、家督を相続した。 1888年(明治21年)玉島紡績会社に入社し、1896年(明治29年)同社取締役に就任。1890年(明治23年)児島郡味野村(現:倉敷市児島味野)の野﨑家の理事となり、当主野崎武吉郎の貴族院多額納税者議員としての活動を支え、同家の塩業事業の発展に寄与した。