佐々木 基一(ささき きいち、1914年(大正3年)11月3… 佐々木 基一(ささき きいち、1914年(大正3年)11月30日 - 1993年4月25日)は、日本の文芸評論家。本名・永井善次郎。
広島県:2,640人
佐々木 基一(ささき きいち、1914年(大正3年)11月3… 佐々木 基一(ささき きいち、1914年(大正3年)11月30日 - 1993年4月25日)は、日本の文芸評論家。本名・永井善次郎。
木下 夕爾(きのした ゆうじ、1914年(大正3年)10月2… 木下 夕爾(きのした ゆうじ、1914年(大正3年)10月27日 - 1965年(昭和40年)8月4日)は、日本の詩人、俳人。本名・優二。 広島県福山市御幸町に生まれる。広島県立府中中学(現・広島県立府中高等学校)を卒業後、1933年にいったんは第一早稲田高等学院文科(仏文科)に入学するが、養父の結核発病に伴い家業を継ぐために転学した。1938年に名古屋薬学専門学校(現・名古屋市立大学)を卒業し、広島県福山市の実家で薬局を営む。以後、終生郷里を離れなかった。この間堀口大学に傾倒し影響を受けており、13歳のときには堀口の詩誌「若草」で特選を取っている。1940年、第一詩集『田舎の食卓』を刊行、第6回文芸汎論賞を受賞。
上田 正(うえだ ただし、1914年10月25日 - 194… 上田 正(うえだ ただし、1914年10月25日 - 1944年)は広島県出身のプロ野球選手。
河津 憲太郎(かわつ けんたろう、1914年(大正3年)9月… 河津 憲太郎(かわつ けんたろう、1914年(大正3年)9月26日 - 1970年(昭和45年)3月24日)は、日本の水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピック100メートル背泳ぎで銅メダルを獲得。明治大学出身。
友納 武人(とものう たけと、1914年(大正3年)9月12… 友納 武人(とものう たけと、1914年(大正3年)9月12日 - 1999年(平成11年)11月15日)は、昭和期の厚生官僚、政治家。元千葉県知事、衆議院議員。広島県広島市出身。 小学校教諭の友納友次郎の四男として生まれる。 府立六中・府立高等学校 (旧制)を卒業。 東京帝国大学法学部政治学科在学中に高等文官試験に合格し、卒業後の1937年4月に内務省に入省。 埼玉県総務部で勤務の後、兵役で大日本帝国陸軍習志野騎兵第15連隊に見習士官として入営し、ノモンハン事件にも参加している。 陸軍中尉で軍役解除後、滋賀県学務課長、岐阜県庶務課長を経て厚生省保険局健康保険課勤務となり、1947年2月に同課課長。
広田 修三(ひろた しゅうぞう、1914年8月28日 - 没… 広田 修三(ひろた しゅうぞう、1914年8月28日 - 没年不詳)は広島県出身の元プロ野球選手。名古屋金鯱軍創設時の捕手。
野澤 晁(のざわ あきら[要出典]、1914年8月15日ー2… 野澤 晁(のざわ あきら[要出典]、1914年8月15日ー2000年5月13日[要出典])は、広島県出身のサッカー選手、日本代表選手(全日本)。フォワード。野澤正雄は実兄。 広島高等師範附属中学(現広島大学附属高校)から1933年、早稲田大学へ入学。早稲田大学ア式蹴球部で、川本泰三、堀江忠男、加茂健、加茂正五、西邑昌一らと関東大学リーグを四連覇、東京大学ア式蹴球部黄金期後の早稲田大学黄金時代に貢献した。 大学在学中の1934年には日本代表に選出され、第10回極東選手権大会(マニラ)出場。足を痛めていた川本に次ぐフォワードとして全3試合にフル出場。第2戦のフィリピン代表戦では、相手に胸を蹴られて肋骨が折れ、意識を無くすほどの重症を負ったが、逆転の決勝ゴールを叩き込むなど3試合3得点を決めた。
小長谷 睦治(こながや むつはる、1914年6月30日[要出… 小長谷 睦治(こながや むつはる、1914年6月30日[要出典] - 1988年4月3日[要出典])は、大日本帝国海軍軍人で、のちに日本の実業家となる。 広島県江田島町(現江田島市)に生まれる。1936年に海軍機関学校を卒業し、翌1937年海軍機関少尉に任官した。空母加賀、大村海軍航空隊、横須賀海軍航空隊での勤務の後、海軍機関学校教官、第三航空艦隊参謀などを歴任した。 1945年8月の終戦後、海軍少佐として厚木連絡委員会委員を命じられ、マニラのダグラス・マッカーサー連合国最高司令官の下に派遣される降伏軍使の搭乗する緑十字機の準備など、終戦処理に従事した。 1946年の海軍解体により、千葉県銚子市で水産加工業、水飴澱粉製造、肥料製造などを手がけた。
安藝ノ海 節男(あきのうみ せつお、1914年5月30日 -… 安藝ノ海 節男(あきのうみ せつお、1914年5月30日 - 1979年3月25日)は、広島県広島市南区宇品海岸出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。第37代横綱。本名は永田 節男(ながた たかお)。 双葉山定次の70連勝を阻止した「世紀の一番」で知られる。四股名は「せつお」だが、本名は「たかお」と読む。 広島県広島市南区宇品海岸の食料品商の家に生まれ、宇品尋常高等小学校を卒業後は家業を手伝う。1931年に市内で開催された関西中学校相撲選手権を観戦したところ、藤嶌にスカウトされて角界入り。1932年2月場所に出羽海部屋から“永田”の四股名で初土俵を踏む。序二段で「安藝ノ海」と改名すると、順調に昇進して1936年1月場所に新十両、1938年1月場所では、23歳で新入幕を果たした。
田坂 勝彦(たさか かつひこ、1914年5月28日 - 19… 田坂 勝彦(たさか かつひこ、1914年5月28日 - 1979年9月20日)は、日本の映画監督。広島県豊田郡沼田東村(三原市沼田東町)出身。兄は映画監督の田坂具隆。 尾道中学校(現広島県立尾道北高等学校)卒業後、百貨店勤務を経て、1937年に『明治一代女』のヒットで日活多摩川撮影所へ復帰した兄・具隆を追うように、日活京都撮影所監督部に入る。1942年に大映に移籍し、1952年に長谷川一夫主演の「勘太郎月夜唄」で監督デビュー。文芸作品を得意としていた兄とは違い、娯楽時代劇を多く撮った。 1964年の「夕日と拳銃」からテレビドラマの演出を手がけ、1965年に大映を退社。中小企業の経営の傍ら、1976年まで「銭形平次」「大岡越前」「水戸黄門」「伝七捕物帖(中村梅之助版)」など、テレビ時代劇の監督ローテーションに入っていた。
浅井 太郎(あさい たろう、1914年5月8日 - 没年不明… 浅井 太郎(あさい たろう、1914年5月8日 - 没年不明)は、広島県出身の元プロ野球選手(内野手)。
三戸サツヱ(みとさつえ、1914年4月21日 - 2012年… 三戸サツヱ(みとさつえ、1914年4月21日 - 2012年4月7日)は教師、研究者。小学校、中学校の教員をしながら、1948年から始まった京都大学の宮崎県串間市幸島(発音は本により、コウシマと、コージマがある)のサルの研究に加勢した。三戸はサル全数の個体識別を行い、戸籍を作り、サルがイモを洗って食べる習慣の発生と伝達など発見し、サル学の発展に貢献した。1970年から1984年にかけて、京都大学霊長類研究所研究員になった。著書の名義では三戸サツエの表記も使われる。
山﨑 芳樹(やまさき よしき、1914年(大正3年)4月8日… 山﨑 芳樹(やまさき よしき、1914年(大正3年)4月8日 - 2014年(平成26年)3月10日)は、広島県広島市出身の実業家。 マツダ5代目社長。元広島商工会議所会頭。元サッカー選手・東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)創設者、初代監督。 広島県安芸郡仁保島村大河(現・広島市南区北大河町)生まれ。生家は広島の旧家、父も技術者。 広島高等師範学校附属小学校(現広島大学附属小学校)5年生からサッカーを始め、広島県立第一中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)でもサッカー部に所属する。二浪した後、広島高等工業学校機械工学科(現広島大学工学部)に入学。 1938年(昭和13年)、東洋工業へ入社、以降生産技術畑を歩む。
桜 緋紗子(さくら ひさこ、1914年3月15日 - 200… 桜 緋紗子(さくら ひさこ、1914年3月15日 - 2002年3月20日)は、日本の女優、元宝塚少女歌劇団娘役スター。宝塚退団後、新派を経て引退。その後仏門に入り小笠原日凰(おがさわら にちおう)と名乗る尼僧となった。戦前の表記は櫻緋紗子。
小林 政夫(こばやし まさお、1914年 <大正3年> 2月… 小林 政夫(こばやし まさお、1914年 <大正3年> 2月16日 - 2000年 <平成12年> 9月15日)は、日本の実業家、政治家。日東製網社長、参議院議員(1期)、福山商工会議所会頭などを歴任した。位階は従四位。孫に衆議院議員の小林史明がいる。 広島県福山町(現・福山市西町)に生まれる。1931年(昭和6年)、広島県立福山誠之館中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)卒業。1938年(昭和13年)に東京商科大学(現・一橋大学)を卒業。 三洋証券社長の土屋陽三郎、新日本証券社長の鷹尾寛、東京銀行頭取の横山宗一、鹿島建設副会長の原明太郎、マツダ会長の岩沢正二、丸井今井社長の今井道雄、三井不動産社長の坪井東、一橋大学学長の小泉明らとともに大学の同期会を結成。
奥原 次郎(おくはら じろう、1914年〈大正3年〉1月15… 奥原 次郎(おくはら じろう、1914年〈大正3年〉1月15日 - 2008年〈平成20年〉7月24日)は、日本の実業家。寿工業会長。呉商工会議所会頭。 広島県呉市出身。高小卒。1935年、広島県呉市阿賀町に奥原工作所を創設。1943年に奥原工作所を改組、東亜航空工業と改称。1952年、寿工業株式会社へ商号変更。東亜航空工業、呉繊維、寿工業各社長を務める。 1965年9月、トヨタカローラ山口取締役。1971年9月、サンデーサン(現・ジョリーパスタ)取締役。1974年8月、山口トヨペット取締役。1985年、郷原ゴルフ観光社長。黒瀬観光会長を務める。勲四等に叙せらる。トヨタオート広島代表取締役名誉会長となる。
長崎 重芳(ながさき しげよし、1914年 - 1997年)… 長崎 重芳(ながさき しげよし、1914年 - 1997年)は、日本のバレーボール選手、バレーボール指導者。元バレーボール全日本選手、元バレーボール日本男子代表監督。元日本バレーボール協会理事。 “重砲“と呼ばれた猛スパイクで、戦前最高の選手と謳われたバレーボーラー。“球神“とも“日本バレーの父“とも呼ばれた。広島県広島市出身。5寸9尺(約180センチ)、21貫(約80キロ)(中学4年時)。 広陵中学(現広陵高校)で野球をするつもりだったが、親の反対に遭い1927年、広島二中(現広島観音高校)に進学。陸上競技で大活躍したことで、排球部(バレーボール部)に勧誘された。多田徳雄下で黄金期を創った神戸高商(現神戸大学)の中心選手・高橋哲雄と鎔米二の指導を受け、中学上級生並みの体格と人並み外れた運動神経で、すぐに当時の9人制バレー、エースポジションである中衛左に入ると、2年時・14歳で早くも全日本候補となる。
藤間 生大(とうま せいた、1913年5月16日 - 201… 藤間 生大(とうま せいた、1913年5月16日 - 2018年12月10日)は、日本の歴史学者、考古学者で、古代日本史から近代東アジア史まで幅広く研究を行った。 広島市生まれ。1936年、早稲田大学文学部史学科卒。1938年、日本評論社入社、戦前には教育科学研究会生活教育研究部会に参加。1945年7月、埼玉県立浦和中学校教諭、1949年、民主主義科学者協会事務局常任書記長、1951年まで務める。1952年の第25回衆議院議員総選挙及び1953年の第26回衆議院議員総選挙に埼玉1区から出馬するが落選。1971年、熊本商科大学教授、同付属海外事情研究所長、1982年、退職。 日本共産党に属し、戦後しばらく、マルクス主義歴史学者として、井上清、石母田正と並んで盛名を馳せ、当時の学生の必読書となった。
栗原 貞子(くりはら さだこ、1913年3月4日 - 200… 栗原 貞子(くりはら さだこ、1913年3月4日 - 2005年3月6日)は、詩人。「生ましめんかな」や「ヒロシマというとき」で知られる。 広島県広島市生まれ。可部高等女学校(現広島県立可部高等学校)在学中の17歳から、短歌・詩を中心に創作活動を始めた。1930年、山本康夫が広島で創刊した歌誌『処女林』(1932年に『真樹』に改題)の同人となる。1945年8月6日(広島市への原子爆弾投下)に爆心地の4キロ北の自宅で被爆。戦後は夫の栗原唯一とともに執筆活動を行い、平和運動に参加し、反戦、反核、反原発、反差別、反天皇制を主張、特に昭和天皇の戦争責任を言及しており、『戦前・戦中派にとって天皇絶対主義の恐怖は母斑のように肉体にしみついている。
横山 正(よこやま ただし、1913年2月27日 - 198… 横山 正(よこやま ただし、1913年2月27日 - 1989年11月29日)は、日本の芸能・演劇史研究者。 広島県福山市生まれ。1938年九州帝国大学文学部国文科卒、1944年京都帝国大学大学院退学。大阪学芸大学助教授、大阪教育大学教授。1962年「近世的性格に焦点をおいた浄瑠璃の史的研究」で大阪大学文学博士。78年定年退官、名誉教授。
真野 さよ(まの さよ、1913年 - )は、日本の小説家、… 真野 さよ(まの さよ、1913年 - )は、日本の小説家、詩人。 高知県出身。1955年、広島県立高等女学校(現広島県立広島皆実高等学校)卒業、1958年、日本女子大学国文学部中退。 戦後、河井醉茗の塔影社に入り創作活動を開始し、1977年、詩集『葡萄祭』出版。小説『蜂』にて婦人公論新人小説賞受賞。 読売新聞「人生案内」の回答者として活躍するほか、各地で「伊勢物語」「枕草子」などの古典文学や女性問題などの講義を重ねた。
副島 廣之(そえじま ひろゆき、1913年 - 2007年)… 副島 廣之(そえじま ひろゆき、1913年 - 2007年)は、昭和・平成時代の神職、政治活動家。明治神宮権宮司。「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」の両団体の初代事務総長を務め、日本会議に連なる保守運動に挺身した。 広島県広島市生まれ。佐賀藩の須古鍋島家の家臣の副島家に生まれる。父親の副島知一は副島家第13代に当たる。1934年、國學院大學神道部を卒業した。 熊野那智大社、坐摩神社に勤めたのち、1940年に明治神宮に入った。1945年4月の空襲で本殿が焼失すると、戦後、御社殿の戦災復興募金活動や御社殿の復興に尽力したとされる。明治神宮の権宮司をつとめるとともに明治神宮崇敬会の事務局長、理事長、副会長として組織の発展に貢献した。
武田 邦太郎(たけだ くにたろう、1912年(大正元年)12… 武田 邦太郎(たけだ くにたろう、1912年(大正元年)12月20日 - 2012年(平成24年)11月15日)は、日本の政治家。元参議院議員(1期)。日本新党副代表。1998年勲三等旭日中綬章を受章。 広島県福山市生まれ。福岡高等学校を経て、東京帝国大学文学部卒業後、鐘紡に入社。同社農林部に所属し、満洲において農業事業に取り組んでいるとき、職業軍人・石原莞爾と知り合う。これは、武田の従兄に当たる池本喜三夫が石原のブレインであったことも大きいという。 終戦を迎え、石原は生まれ故郷である山形県・鶴岡に戻り、遊佐の鳥海山麓に自給自足の農村共同体である「西山農場」を創設し、理想郷づくりをはじめる。石原が目指した「小さな満洲」建設には、武田や石原の一番弟子で、武田の良きパートナーであった曹寧柱をはじめ全国から「東亜連盟」の理想に共鳴するものが参加。
田部 シメ子(たなべ シメこ、 1912年(大正元年)12月… 田部 シメ子(たなべ シメこ、 1912年(大正元年)12月2日 - 1930年(昭和5年)11月29日)は作家太宰治の恋人の一人。別名田部あつみ、また田辺あつみとも。太宰の短篇「道化の華」(1935年)に登場する心中事件の相手"園"のモデル。 広島県安佐郡小河内(現:広島市西区小河内町)で田部島吉・シナの四女として誕生。シメ子とはこの子で終わりにしようという意味で命名された名前で、当人はこの名前を嫌っており、兄と相談の上、早くからあつみを名乗っていた。 学業優秀だったが、広島市立第一高等女学校(現:広島市立舟入高等学校)を3年時に中退後、広島の繁華街新天地の大型喫茶店「平和ホーム」の女給となる。
宮本 正太郎(みやもと しょうたろう、1912年12月1日 … 宮本 正太郎(みやもと しょうたろう、1912年12月1日 - 1992年5月11日)は、日本の天文学者。荒木俊馬の弟子の一人で、惑星気象学の開拓者として有名。広島県出身。
大佐古 一郎(おおさこ いちろう、1912年(大正元年)11… 大佐古 一郎(おおさこ いちろう、1912年(大正元年)11月15日 - 1995年(平成7年))は、昭和時代のジャーナリスト・著作家。広島市での原爆被災をはさむ長い時期にわたって、在広島の地方紙である中国新聞の記者を務めた。 広島県山県郡壬生町(現・北広島町)生まれ。1933年に(旧制)山陽中学を卒業したのち日本大学予科に入学。同大学文学部に学んだのち、標準教科書出版協会・哈爾濱日日新聞社を経て、1939年中国新聞社に入社。この間、中国大陸で兵役に就く。県政(広島県庁・中国総監府)担当記者であった33歳時、1945年8月6日に原爆に被災した。同社が壊滅して幹部・同僚記者が多数被爆死し、また敗戦後の枕崎台風によって疎開先の印刷工場も機能停止に陥るなか、辛くも生き延びて戦後の再建に参加した。
瀬良 明(、1912年〈大正元年〉10月14日 - 没年不詳… 瀬良 明(、1912年〈大正元年〉10月14日 - 没年不詳)は、日本の俳優。岡山県児島郡味野町[要出典]出身。本名は渡辺 章()。 広島県立福山誠之館中学を経て大阪外国語学校スペイン語部を卒業。 1935年(昭和10年)、大阪共同劇団の創立に参加し、久板栄二郎作『断層』や真船豊作『裸の町』などの舞台に出演。1939年(昭和14年)、今井正監督の『沼津兵学校』で映画初出演。劇団解散後の1941年(昭和16年)、大阪放送劇団創立に参加するが、翌1942年(昭和17年)に退団、上京して瑞穂劇団に参加し、終戦まで移動演劇を続けた。 戦後、大阪共同劇団出身であった田中友幸の誘いにより東宝の専属となり、黒澤明監督の『生きる』を始め多くの映画に出演。
灰山 元治(はいやま もとはる、大正元年(1912年)7月1… 灰山 元治(はいやま もとはる、大正元年(1912年)7月17日 - 昭和62年(1987年)11月27日)は、昭和初期に中等野球他で活躍したアマチュア野球選手、プロ野球選手。投手・内野手。プロ入り後は灰山元章と改名した。広島県佐伯郡廿日市町桜尾(現:廿日市市)出身。
松尾 孝(まつお たかし、1912年(明治45年)7月15日… 松尾 孝(まつお たかし、1912年(明治45年)7月15日 - 2003年(平成15年)10月28日)は、日本の実業家。カルビー創業者。広島県広島市出身。 カルビーの前身は1905年(明治38年)広島市宇品で創業した広島名産柿ようかん製造の松尾巡角堂である。ただ、松尾が幼少時代の家業は、米ぬかを中心とした穀粉製造販売を行っていた。幼少期は比較的不自由なく生活していた。太田川(旧太田川)で捕った小エビで母親が作ってくれたかき揚げが大好物で、これがのちにかっぱえびせんにつながっていく。 もち米の暴落で父が相場で失敗し、当時の金額で1万円の莫大な借金を抱えた。さらに1927年(昭和2年)広島第一中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)5年のとき、母が亡くなり、病弱で足も不自由な父と弟を養わなくてはならなくなり家業を始めた。
奥田 元宋(おくだ げんそう、1912年(明治45年)6月7… 奥田 元宋(おくだ げんそう、1912年(明治45年)6月7日 - 2003年(平成15年)2月15日)は日本画家。元・日本芸術院会員。1984年(昭和59年)に文化勲章受章。本名は奧田 嚴三(おくだ げんそう)。妻は人形作家の奥田小由女。 「元宋の赤」と言われる独特な赤色が特徴。「美術人名辞典」(思文閣)によれば「自然と自己の内面を照応した幽玄な山水で精神性の濃い絵画世界を築く」と評されているほか、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典には「日本の風景美の伝統を受け継いだ静かで神秘的な水墨画の世界に、多彩な色使いによる色彩美を加え、新朦朧派と評される独自の風景画を確立した」と解説されている。 歌人としても著名で、1981年正月には宮中歌会始の召人に選ばれた。
清水 芳人(しみず よしと、1912年(明治45年)6月 -… 清水 芳人(しみず よしと、1912年(明治45年)6月 - 2008年)は、日本海軍の軍人。 海兵60期。最終階級は海軍少佐。戦艦大和の沖縄特攻に従事した乗組員における生存者の一人だった。 広島県呉市出身。早くして両親を失い、兄弟と共に東京の親戚宅に身を寄せるが、関東大震災で被災し再び呉に戻る。 1925年、広島県立呉中学校(在学中に広島県立呉第一中学校へと改称、現広島県立呉三津田高等学校)に入学し、引き続き規定よりはやく飛び入学で4年から[要出典]海軍兵学校に60期生として入学。 卒業後練習艦隊の「八雲」で渡米したことを皮切りに、「高雄」「扶桑」「五十鈴」「妙高」「呉竹」「江風」「三日月」「追風」「朝雲」「大鯨」「龍田」「磐手」といった様々な艦に勤務した。
塩出 英雄(しおで ひでお、1912年4月6日 - 2001… 塩出 英雄(しおで ひでお、1912年4月6日 - 2001年3月20日)は昭和-平成時代の日本画家。 明治45年(1912年)4月6日、広島県福山市生まれ。17歳の時美術に志を立て、1931(昭和6)年上京し姻戚関係にあった尾道出身の片山牧羊に日本画の手ほどきを受ける。同年 帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)日本画科に入学。主に山口蓬春の指導を受けるかたわら、学科では同校の教頭金原省吾から東洋美学や東洋美術史、国文や漢文まで広く学び、その後金原が没する58年まで薫陶を受けることになる。また学外でも高楠順次郎に仏教学を学び、高楠が没する45年まで師事する。36年に美術学校を卒業するが、この間35年より奥村土牛に師事し、昭和12年(1937年)より院展で活躍。
岩本 義行(いわもと よしゆき、1912年3月11日 - 2… 岩本 義行(いわもと よしゆき、1912年3月11日 - 2008年9月26日)は、広島県三次市出身のプロ野球選手(外野手)・監督。「元祖神主打法」「初代トリプルスリー」[4]。弟はプロ野球南海の投手・審判を務めた岩本信一。5人いる孫の1人に女優の遠野舞子がいる[5]。
原田 東岷(はらだ とうみん、1912年2月14日 - 19… 原田 東岷(はらだ とうみん、1912年2月14日 - 1999年6月25日)は、日本の外科医、平和運動家。広島県広島市出身。広島市名誉市民。 旧制・広島県立広島第一中学校、旧制・広島高等学校を経て、東京慈恵会医科大学を卒業。第二次世界大戦中、軍医として中国大陸を転戦する。1946年(昭和21年)に広島へ戻り、原子爆弾投下直後の同市で爆心地にバラックの外科病院を作り、治療を開始する。被爆によるケロイド治療や原爆医療法の制定で中心的な役割を担うなど被爆者医療に尽力した。外科医としての活動の傍ら、平和運動に参加。1955年(昭和30年)体にケロイドの残る「原爆乙女」に付き添う形で訪米。渡米治療に道を開くとともに、原爆の惨禍を世界に伝えた。
池田 満枝(いけだ みつえ、1912年〈明治45年〉1月15… 池田 満枝(いけだ みつえ、1912年〈明治45年〉1月15日 - 2001年〈平成13年〉1月9日)は、日本の58・59・60代内閣総理大臣である池田勇人の妻。広島県、現在の竹原市出身。 医師である大貫四郎吉の二女として生まれた。後に夫となる池田勇人とは、母親同士が従姉妹で再従兄妹に当たる。実兄の大貫修郎は陸軍少尉・軍医で、旧制崇徳中学校、旧制千葉医科大学を卒業し、戦後地元の竹原で開業医となった。 広島の名門である山中高等女学校在学中に父を亡くし、卒業式の前日に母・池田秀を亡くしている。その後、名古屋市の母方の親戚に引き取られ金城女子専門学校に進学し卒業。金城女子専門学校在学中に脚気にかかって地元の広島へ戻り、同じく母方の親戚である池田家に身を寄せたことがきっかけで、池田勇人と出会う。
荒川 正嘉(あらかわ まさよし、1912年 - 没年不詳)は… 荒川 正嘉(あらかわ まさよし、1912年 - 没年不詳)は、広島県出身のプロ野球選手。 呉工業学校(旧制)から呉海軍工廠を経て、1938年秋に名古屋金鯱軍へ入団。1940年に退団。
金田 邦夫(かねだ くにお、1911年(明治44年)12月1… 金田 邦夫(かねだ くにお、1911年(明治44年)12月15日 - 1962年(昭和37年)10月6日)は、日本の実業家、サンスターの創業者。広島県安芸郡坂町出身。 大阪に出て1932年、金田兄弟商會を設立し自転車や履物用ゴム糊の製造を開始。1941年、4社のゴム製造業者統合により帝國合同護謨工業が設立され、翌年社長に就任。太平洋戦争期の空襲で工場の大半を焼失したが戦後1946年、金田軽金属チューブ工業所(同年改組し金田金属工業)を設立し、焼け残ったゴム糊を金属チューブに充填する機械を活かし、金属チューブ容器の開発に成功。その後取引先であった星光社からの相談によりチューブに歯磨剤を充填し、金属チューブ入り練歯磨剤を開発し発売した。
河石 達吾(かわいし たつご、1911年(明治44年)12月… 河石 達吾(かわいし たつご、1911年(明治44年)12月10日 - 1945年(昭和20年)3月17日)は、大日本帝国陸軍の軍人、最終階級は陸軍大尉。水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピック100m自由形銀メダリスト。慶應義塾大学法学部出身。
永野 治(ながの おさむ、1911年(明治44年)10月9日… 永野 治(ながの おさむ、1911年(明治44年)10月9日 - 1998年(平成10年))は、日本の航空技術者、実業家。元海軍技術少佐、元石川島播磨重工業(IHI)副社長。国産のジェットエンジンを開発した技術者。
橋本 達吉(はしもと たつきち、1911年〈大正元年〉10月… 橋本 達吉(はしもと たつきち、1911年〈大正元年〉10月4日 - 没年不明)は、日本の実業家。 大阪電気軌道入社後、近鉄百貨店(近畿日本鉄道百貨店部)勤務を経て、京都近鉄百貨店(旧・丸物、現在の近鉄百貨店)で社長を務めた。 広島県尾道市出身。日本画家の橋本関雪と姻戚関係にあり、子供時代は画家になりたいと思っていた。しかし、関雪の一門であった叔父から「画家で飯は食えない」と言われたことから、グラフィックデザイナーに志望変更し、京都工業専門学校(現在の京都工芸繊維大学)図案課へ進学した。 尾道へ帰省の時は丸物本店で土産を買って帰っており、創業時の建物の北側に鉄筋コンクリート造の新館ができているのを目にしていた。
進藤 三郎(しんどう さぶろう、1911年(明治44年)8月… 進藤 三郎(しんどう さぶろう、1911年(明治44年)8月28日 - 2000年(平成12年)2月2日)は、日本の海軍軍人。海兵60期。最終階級は海軍少佐。 1911年(明治44年)8月28日、神奈川県横須賀市で、海軍機関大佐であった進藤登三郎の3男として生まれる。父親の転勤に伴い小学校一年から広島県呉市で育った。父が1921年(大正10年)新設された広海軍工廠の総務部長に就任したため、飛行機が身近なものとなる。広島県立第一中学校(現広島国泰寺高校)4年のとき、町でヤクザと喧嘩して相手に怪我を負わせて退校処分となり崇徳中学に編入、1929年(昭和4年)、海軍兵学校60期生として入学した。 ロサンゼルスへの遠洋航海後、「名取」・「日向」・「伊4」・「呂66」の乗組員を経て、1934年(昭和9年)11月に第26期飛行学生となった。
宇田 要之助(うだ ようのすけ、1911年5月6日 - 20… 宇田 要之助(うだ ようのすけ、1911年5月6日 - 2006年6月14日)は、日本の洋画家。広島県福山市出身。 明治44年(1911年)5月6日、広島県沼隈郡水呑村(水呑町を経て現:福山市水呑町)に生まれる。 昭和初期、福山より同郷の彩美堂主人・土肥円修を尋ねて上京する。本郷洋画研究所、太平洋美術学校、番衆義塾に学び、安井曾太郎に師事した。新燈社展を始め、光風会展、白日会展、第一美術展、東光展、春陽展、二科展、第1回日展に入選する。 戦後は国展(国画会)及び埼玉県美術展に毎年出品し、それぞれ委員、審査員を務めた。 主に福島県の只見川に取材し、四季折々の自然に感じた生命感を、画面に形象化して制作した。
水原 玲子(みずはら れいこ、1911年3月10日 - 19… 水原 玲子(みずはら れいこ、1911年3月10日 - 1935年10月12日)は、日本の女優である。本名、吉野 美智子(よしの みちこ)。 1911年(明治44年)3月10日、広島県広島市下柳町(現在の同市中区銀山町)に生まれる。 旧制・広島県立広島第一高等女学校(現在の広島県立広島皆実高等学校)に進学するが、同校を中途退学して大阪に移り、道頓堀の「カフェー赤玉」の女給に入り、人気を得る。梅田新道の「パリジャン」に移籍するが、1930年(昭和5年)9月、帝国キネマ演芸が広津和郎の小説『女給』を映画化すべくヒロインを探していたところ、白羽の矢が当たり、同社太秦撮影所現代劇部に入社する。主役の『女給』と脇役の『春遠からず』(いずれも監督曾根純三)が同時進行で撮影され、前者が翌1931年(昭和6年)1月10日、後者が同年1月5日に公開されて前者が大ヒットとなり、満19歳のデビュー作にして「女給出身のスター」と話題になった。
佐和 隆研(さわ りゅうけん/さわ たかあき、1911年3月… 佐和 隆研(さわ りゅうけん/さわ たかあき、1911年3月9日 - 1983年1月5日)は、日本の美術史家・仏教学者・真言宗の僧侶。京都市立芸術大学名誉教授。嵯峨美術短期大学元学長。密教美術や仏像研究の第一人者。密教図像学会会長も務めた。 広島県生まれ。インドネシア、インド、アフガニスタンなど仏教美術の伝流経路、源流地を訪ね歩いた。 経済学者の佐和隆光(京都大学名誉教授、滋賀大学学長)は息子。
中川 弘(なかがわ ひろむ、1911年(明治44年)2月20… 中川 弘(なかがわ ひろむ、1911年(明治44年)2月20日 - 2011年3月14日)は、日本の政治家。第9代福山市長(1期)。 広島県沼隈郡神島村(現福山市)出身。1928年(昭和3年)3月、広島県立福山誠之館中学校(現広島県立福山誠之館高等学校)を卒業。蚕糸、削鰹製造業にたずさわる。1940年(昭和15年)3月、中国に渡り天津市で藁工品製造業を営んだ。1945年(昭和20年)、現地応召。 1946年(昭和21年)6月、引き揚げ。公職追放を受けていた元衆議院議員の宮澤裕の薫陶を受けて政治に関与するようになる。 1947年(昭和22年)4月、福山市議会議員に初当選。1951年(昭和26年)4月には広島県議会議員となり、以来1979年(昭和54年)まで連続8回当選を重ねた。
千葉 早智子(ちば さちこ、1911年2月16日 - 199… 千葉 早智子(ちば さちこ、1911年2月16日 - 1993年10月22日)は、日本の元女優。PCL(後の東宝)の主演女優第1号。映画監督の成瀬巳喜男は元夫。広島県芦品郡新市町(現在の同県福山市)出身。本名:千葉 鶴子。 広島市立高等女学校(現・広島市立舟入高等学校)卒業。明眸、豊麗なマル顔全体が大輪咲きの花となって微笑みかけて来るような絢爛たる美貌と、育ちのいいお嬢さん然として品位に加え、幼児から邦楽、洋楽どちらにも親しんだ音楽的素養も深く、殊に箏は宮城道雄について本格的に学び、尺八の吉田晴風と組んでアメリカに演奏旅行(1931年~1932年)をしたこともあるという多彩な経歴の持ち主。 1933年、新映画社の『叫ぶアジア』で純情可憐な中国娘役で映画デビュー。
小川 年安(おがわ としやす、 1911年1月1日 - 19… 小川 年安(おがわ としやす、 1911年1月1日 - 1944年7月11日)は、広島県出身のプロ野球選手。 大阪タイガース創立時の3番打者、正捕手。戦死したプロ野球選手の一人。結婚後の姓名は吉田 年安(没年および姓については後述)。 1927年、前年春選抜を制した広陵中学(現・広陵高校)の捕手として、春選抜は田部武雄と、夏の選手権は八十川胖とバッテリーを組み、更に打線も山城健三、三浦芳郎、中尾長らを揃えて広陵野球部史上最強チームと言われたが、連覇を狙った春は小川正太郎の和歌山中学に、夏も水原茂らのいた高松商業に決勝で敗れた。 翌1928年も春夏連続出場したが、いずれも初戦敗退。続いて翌1929年春は、中尾、佐々木美利、野村実に、のち慶大・阪神と同僚となる平桝敏男らがいた強力打線だったが、決勝で第一神港商業にまたしても敗れ準優勝(第一神港商業は翌年も優勝し史上初の春連覇)。
正坊地 隆美(しょうぼうじ たかみ、1910年12月9日 -… 正坊地 隆美(しょうぼうじ たかみ、1910年12月9日 - 2004年12月10日)は、日本の実業家。日本コロムビア元代表取締役社長。最大で64億円の累積赤字を出し、1970年前後に経営危機にあったレコード界の名門・日本コロムビアに日立製作所から送り込まれ、経営立て直しに成功させた。また日本レコード協会会長を二度にわたり務めた。 広島県高田郡白木町(現・広島市安佐北区)出身。白木小学校を経て、広島県立職工学校(広島県立広島工業高等学校)電気工学科を卒業後、日立製作所に入社。1960年代後半の日本コロムビアは、神崎丈二社長以下経営陣が内紛を繰り返し、バックアップしていた野村證券の奥村綱雄相談役(当時)と横田郁日本勧業銀行頭取(当時)は、たまりかねて日立製作所の駒井健一郎社長(当時)に駆け込み、1969年5月、日立製作所の西清専務が日本コロムビアに会長として送り込まれ、続いて1970年5月、正坊地が副社長として送り込まれた。
湧永 満之(わくなが まんじ、1910年9月10日 - 19… 湧永 満之(わくなが まんじ、1910年9月10日 - 1992年8月9日)は、実業家。 湧永製薬創業者。 広島県高田郡甲田町(現安芸高田市)出身。1929年、旧制崇徳中学(現崇徳高校)卒業。野村信託勤務後、共同で大阪に商社を設立、薬品担当の役員だった1950年代前半、人を介して紹介された元ベルリン大学教授・シュネル博士のニンニク研究のすすめを受け独立。1955年6月、湧永薬品を設立した。当初はシュネル博士の研究室で作った薬品を販売する会社であった。このため製品の遅れや営業の不慣れがあって経営は苦難があった。湧永は専門家でも研究者でもないが、こうした販売業と並行し素人の強みで体当たりでニンニク研究にも没頭。
鈴木 實(すずき みのる 1910年(明治43年)4月20日… 鈴木 實(すずき みのる 1910年(明治43年)4月20日- 2001年(平成13年)10月28日)は、東京麹町生まれの大日本帝国海軍の軍人、実業家。旧海軍時代の最終階級は海軍中佐。本籍は新潟県岩船郡村上本町。