池田 亮次(いけだ りょうじ、1886年〈明治19年〉3月1… 池田 亮次(いけだ りょうじ、1886年〈明治19年〉3月16日 - 1972年〈昭和47年〉3月28日)は日本の研究者・実業家である。日立製作所常務。後、第二次世界大戦中の統制会理事長。日本エレベーター(現:日本ケーブル)代表取締役。広島県福山市出身。 1886年(明治19年)、広島県深安郡山野村(現:福山市)で生まれる。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1905年(明治38年)第六高等学校二部乙類に進学、1909年(明治42年)6月、同校を卒業し、東京帝国大学工学部電気科へ進学した。1912年(明治45年)同大学を卒業後、日立製作所へ就職した。 帝大卒業後、日立製作所へ入社したが、これは当時、創業したばかりの日立製作所(創業:1910年・明治43年)の社長であった小平浪平の影響が大きかった。
倉田 信太郎(くらた のぶたろう、1886年〈明治19年〉3… 倉田 信太郎(くらた のぶたろう、1886年〈明治19年〉3月3日 - 1938年〈昭和13年〉3月27日)は、日本の商人(履物商)、実業家。広島瓦斯電軌社長。倉田商事代表社員。昭和証券、防石鉄道各取締役。芸備銀行監査役。 広島県広島市堺町・倉田幾蔵の長男。広島第一中学校に入学したが、家業に従事するため中途退学する。履物商を営み、傍ら会社重役であった。広島瓦斯電軌専務取締役、同副社長を経て社長。 趣味は絵画。住所は広島市大手町9丁目、同市堺町。 倉田家は安芸郡牛田村(現・広島市東区)より明治の初年に祖父・幾蔵が出広し荒物、下駄の販売を創めた。2代目幾蔵は賀茂郡西志和村(現・東広島市)出身で、門根木家より入婿し、家業に精励、明治24、25年頃より下駄の海外輸出を決行、莫大の利益を得る。
八木 秀次(やぎ ひでつぐ、1886年(明治19年)1月28… 八木 秀次(やぎ ひでつぐ、1886年(明治19年)1月28日 - 1976年(昭和51年)1月19日)は、電気工学、通信工学を専門とする日本の研究者、教育者。八木・宇田アンテナの発明家として知られる。東北帝国大学、大阪帝国大学教授、内閣技術院総裁を歴任し、東京工業大学、大阪帝国大学、武蔵工業大学で学長を務めた。八木アンテナ株式会社社長として企業家、参議院議員として政治家の経歴も持つ。日本学士院会員。勲一等瑞宝章受章、文化勲章受章、贈勲一等旭日大綬章(没時陞勲)。栄典は従二位。 電気工学を専門とし、宇田新太郎と共に開発した「八木・宇田アンテナ」の共同発明者として知られている。東北帝国大学や大阪帝国大学での研究指導、教育や、東京工業大学、武蔵工業大学などで学長として奉職するなど、長年にわたり学術研究、教育分野で活躍した。
掛谷 宗一(かけや そういち、1886年〈明治19年〉1月1… 掛谷 宗一(かけや そういち、1886年〈明治19年〉1月18日 - 1947年〈昭和22年〉1月9日)は、日本の数学者。東京文理科大学兼東京帝国大学教授。統計数理研究所初代所長。理学博士。 1886年(明治19年)、広島県深安郡坪生村生まれ(現・福山市坪生町)。広島県第二中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)を卒業後、第三高等学校を経て、1906年(明治39年)10月に東京帝国大学理科大学数学科に進んだ。2、3年生時は特待生に選定され、3年進級時にはモルレー博士記念数学賞を受賞。1909年(明治42年)7月卒業。 1911年(明治44年)第一高等学校教授、1912年(大正元年)に東北帝国大学助教授に就任。
桑木 崇明(くわき たかあきら、1885年(明治18年)10… 桑木 崇明(くわき たかあきら、1885年(明治18年)10月22日 - 1945年(昭和20年)12月6日)は、日本の陸軍軍人。陸士16期恩賜・陸大26期恩賜。最終階級は陸軍中将。 本籍石川県。桑木崇台歩兵大佐の三男として広島で生まれる。広島一中、広島陸軍地方幼年学校(首席)、中央幼年学校(首席。次席は永田鉄山。)を経て、1904年(明治37年)10月、陸軍士官学校(16期)(全兵科では4番/549名であり、砲兵科首席、恩賜)を卒業。同年11月、砲兵少尉に任官し野砲兵第14連隊付となる。1905年(明治38年)3月から1906年(明治39年)2月まで日露戦争に出征。1910年(明治43年)11月、陸軍砲工学校普通科(恩賜)高等科(16期)を卒業。
渡辺 銕蔵(わたなべ てつぞう、明治18年(1885年)10… 渡辺 銕蔵(わたなべ てつぞう、明治18年(1885年)10月14日 - 昭和55年(1980年)4月5日)は、大正・昭和期の経済学者、教育者、政治家、実業家。東宝争議時の東宝社長。 大阪市生まれ。9歳から広島県広島市本通電停前の書店・積善館店主の子として育つ。 広島済美小学校(広島偕行社付属済美学校)~広島一中~第一高等学校を経て明治43年(1910年)、東京帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。同年から文部省特派海外留学生として英国・ドイツ・ベルギーに留学。 大正2年(1913年)帰国し東京帝国大学法科大学助教授となる。同年北里柴三郎の長女と結婚。大正5年(1916年)教授、大正6年(1917年)法学博士。
田端 八十吉(たばた やそきち、1885年(明治18年)3月… 田端 八十吉(たばた やそきち、1885年(明治18年)3月17日 - 1968年(昭和43年)8月20日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 広島県佐伯郡玖波村(玖波町を経て現大竹市玖波)で生まれた。陸軍士官学校第17期卒業。1922年(大正11年)8月15日に陸軍歩兵少佐、1926年(大正15年)8月6日に陸軍歩兵中佐に進級し、1930年(昭和5年)に歩兵第70連隊附となり、神戸商業大学兼神戸商業大学附属商学専門部服務となった。1932年(昭和7年)に陸軍歩兵大佐に進級し、第4師団司令部附となる。1933年(昭和8年)3月18日に東京陸軍幼年学校附を経て、8月1日に東京陸軍幼年学校訓育部長に就任した。
福田 千代作(ふくだ ちよさく、1885年(明治18年)1月… 福田 千代作(ふくだ ちよさく、1885年(明治18年)1月30日 - 没年不明)は、日本の実業家。中華電気製作所、支那興業各取締役。住友本社、呉服販売店支配人。上海居留民団長。族籍は広島県士族。 広島県士族・福田千次郎の四男。広島市西白島町出身。1904年、県立広島中学校卒業。直に広島県より推選され清国留学生を命ぜられた。1907年、上海東亜同文書院商務科を卒業した。上海に在住し、支那貿易事務に従った。1935年、甥・光次郎方より分家した。 宗教は神道。趣味は大弓、漢籍。住所は広島市西白島町、上海市。
尼子 勝吉(あまこ かつきち、1884年〈明治17年〉12月… 尼子 勝吉(あまこ かつきち、1884年〈明治17年〉12月23日 - 没年不明)は、日本の商人(醤油商)、醤油醸造家、広島県醤油同業組合長、広島県多額納税者、実業家。備南銀行取締役。 広島県広島市出身。先代忠蔵の長男。神田吉松の兄。広島県立広島商業学校を卒業。安政3年創業の醤油醸造業を承継し、傍ら銀行の重役であり県下の多額納税者に列した。 1926年、広島県醤油同業組合長に就任し、同年に先代退隠により家督を相続した。1927年以来、町総代。1930年、備南銀行取締役に当選。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。趣味は魚釣、書画、骨董。宗教は真言宗。処世の信条は、穏健着実主義。住所は広島市胡町。
石黒 英彦(いしぐろ ひでひこ、1884年12月20日 - … 石黒 英彦(いしぐろ ひでひこ、1884年12月20日 - 1945年6月21日)は、日本の文部・朝鮮総督府・台湾総督府官僚。 広島県出身。石黒清左衛門の五男として生まれる。広島中学、第三高等学校を経て、1910年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1911年5月、文部省維新史料編纂事務局書記となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年6月、文部属となり普通学務局に配属。その後、兼内務属・地方局勤務、秋田県理事官、群馬県視学官などを歴任。 1919年8月、朝鮮総督府に転じ江原道第三部長に就任。さらに平安北道第三部長、同警察部長、朝鮮総督府内務局地方課長などを歴任した。
石橋 理一(いしばし りいち、1884年〈明治17年〉11月… 石橋 理一(いしばし りいち、1884年〈明治17年〉11月3日 - 没年不明)は、日本の商人(畳表商)、醸造家、広島県多額納税者。 広島県人・石橋喜助の二男。1917年、家督を相続する。酒造業を営み直接国税1110円を納め、広島県多額納税者に列する。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は広島県呉市泉場町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松山 省三(まつやま しょうぞう、旧姓・渡辺、1884年〈明… 松山 省三(まつやま しょうぞう、旧姓・渡辺、1884年〈明治17年〉9月8日 - 1970年〈昭和45年〉2月2日)は、日本の洋画家、カフェー・プランタンの経営者。 広島県広島市出身。渡辺又三郎の三男。日本中学校を経て東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画撰科に入学、1907年卒業(卒業時は渡辺姓。その後、弁護士・松山広居に養子入り)。 リベラリストだった省三は政治家になることを嫌がり、画家になるべく家族を連れて1909年上京。妻・英子は当時妊娠7ヵ月で、上京直後に生まれた長男が後の歌舞伎役者、河原崎国太郎である。1909年11月に小山内薫が主宰した自由劇場の公演で、他の美術学校関係者とともに背景画を担当したという。
神原 勝太郎(かんばら かつたろう、1884年〈明治17年〉… 神原 勝太郎(かんばら かつたろう、1884年〈明治17年〉8月 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。常石グループの創始者。神原汽船、常石造船創業者。 広島県沼隈郡千年村字常石(現・福山市沼隈町常石)出身。神原嘉平次の三男。1903年、帆船を3隻購入し石炭輸送を開始する。海運事業を展開するうち、勝太郎は「船の製造や修理を自前でできるようになればコストダウンができる」と考え、常石の地で造船事業を開始した。 1908年、分家する。瀬戸内海運送社長、同専務、村会議員、学務委員をつとめた。 傾いた家運を挽回しようと努力を怠らなかった。村内屈指の資産家として数十万の富を得て、名門の誉を高くした。高額所得者である。
大妻 コタカ(おおつま こたか、1884年〈明治17年〉6月… 大妻 コタカ(おおつま こたか、1884年〈明治17年〉6月21日 - 1970年〈昭和45年〉1月3日)は、日本の教育者。大妻学院創立者。広島県世羅郡甲山町(現在の世羅町)出身。旧姓は熊田。世羅町名誉町民。その功績から日本における女子教育の草分けとも言われている。 名前の由来は、6月の農繁期に6人兄弟の末っ子として生まれた女児であったため、「忙しい時に『困った子』」が訛ったものである。しかも農繁期であったため、出生届の提出が遅れ、入籍されたのは11月20日となった。生前「私には年に2回の誕生日がある」と話していた。現在、この11月20日が大妻学院の学校記念日とされている。3歳で父を、14歳で母を亡くす。
渡辺 伍(わたなべ あつむ、1884年(明治17年)6月5日… 渡辺 伍(わたなべ あつむ、1884年(明治17年)6月5日 - 1960年(昭和35年)7月25日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会、昭和会)。呉市長。弁護士。 広島県呉市出身。渡辺秀四郎の長男として生まれる。1916年(大正5年)7月、京都帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業し、弁護士を開業した。呉市会議員、同参事会員、広島県会議員、同参事会員に選出された。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙で再選され、また呉市長にも選出された。 その後、上海居留民団助役を務めた。
辻 永(つじ ひさし、1884年〈明治17年〉2月20日 -… 辻 永(つじ ひさし、1884年〈明治17年〉2月20日 - 1974年〈昭和49年〉7月23日)は、日本の洋画家。広島県広島市生まれ、茨城県水戸市育ち。 広島県広島市に生まれ、後に父の任地変更に伴い家族で茨城県水戸市に移り住んだ。水戸警察署長を務めた父の趣味が書画、骨董品の蒐集および草花、西洋野菜の育成であったことが永の絵画と植物の方面へ影響を及ぼした、と水戸市立博物館は2011年辻永植物画特別展の際に記している。 水戸中学校在学時代の1900年(明治33年)に白馬会会員で図画教師の丹羽林平宅に同居しつつ油絵を学び、以後東京美術学校西洋画科本科に進学し黒田清輝、岡田三郎助らに師事し洋画家となった。
宮澤 裕(みやざわ ゆたか、1884年〈明治17年〉1月12… 宮澤 裕(みやざわ ゆたか、1884年〈明治17年〉1月12日 - 1963年〈昭和38年〉5月23日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)。 長野県庁勤めを経て、一時実業界入った後、逓信、内務各大臣秘書官。その間、昭和3年(1928年)郷里の広島3区から衆議院議員に当選して政界入り。以来連続6回当選し、鉄道政務次官、商工省参与などを歴任。内閣総理大臣などを務めた宮澤喜一は長男。 広島県沼隈郡金見村(現・福山市金江町金見)の小さな農家に生まれた。父・鹿吉の時代は生活は楽でなかった。だが教育熱心な鹿吉は、裕が村の小さな小学校を卒業すると、苦しい家計をやりくりして福山中学校に通わせた。裕は中学を卒業すると、さらに上級の高校を目指そうとした。
岡田 八千代(おかだ やちよ、1883年(明治16年)12月… 岡田 八千代(おかだ やちよ、1883年(明治16年)12月3日 - 1962年(昭和37年)2月10日)は、明治 - 昭和期の小説家、劇作家、劇評家。芹影(きんえい)、芹影女、伊達虫子などの筆名を用いた。
鈴川 貫一(すずかわ かんいち、1883年(明治16年)11… 鈴川 貫一(すずかわ かんいち、1883年(明治16年)11月24日 - 1963年(昭和38年)1月22日)は、日本の電気技術者、実業家。中国配電(現・中国電力)社長。鈴川合資会社代表社員。 広島県・鈴川源三郎の男。段原村(のちの段原町)生まれ。1885年、家督を相続する。広島一中から1902年に岡山第六高等学校に入学、1906年に二部甲類を卒業。1909年、京都帝国大学工科大学電気工学科卒業。 旧鹿児島藩の島津家が経営する芹ヶ野金山に赴任、島津公爵家電気事業主任技師となる。1912年、広島呉電力技師長、支配人、取締役、広島電気取締役、技師長、支配人、常務取締役を経て副社長。 また木ノ江電気、境電気、東洋合成化学工業、瀬戸内海横断電力、広電証券、中国塗料、太田川水力各取締役、白石工業、日本電熱器製造各監査役等を務めた。
丸山 鶴吉(まるやま つるきち、1883年〈明治16年〉9月… 丸山 鶴吉(まるやま つるきち、1883年〈明治16年〉9月27日 - 1956年〈昭和31年〉6月3日)は、日本の内務官僚、政治家、教育者。警視総監、宮城県知事、武蔵野美術学校校長。位階は従三位。広島県沼隈郡松永村(現・福山市松永町)生まれ。 1883年(明治16年)、松永下駄の創始者、丸山茂助の四男として生まれる。負けん気の強い少年で、5年生になる頃には学校を仕切った。広島県立福山中学(現・福山誠之館高校)、第一高等学校を経て東京帝国大学法科大学政治学科に入学。卒業後1909年(明治42年)、内務省に入る。 香川県警部、警視庁特高課長、保安課長、静岡県内務部長を歴任。保安課長時代には私娼撲滅運動を展開した。
大原 寿恵子(おおはら すえこ、1883年9月10日 - 1… 大原 寿恵子(おおはら すえこ、1883年9月10日 - 1930年4月25日)は、アララギ派の歌人で、実業家大原孫三郎の妻。旧姓名は石井スエ。 広島県深安郡深津村(現・福山市)において、石井英太郎の四女として生まれる。1898年(明治31年)、近所に女学校が無かったため、川路寛堂を招聘して中等教育を受ける。1901年(明治34年)、岡山孤児院を創設した石井十次の紹介で、大原孫三郎と結婚し、1909年(明治42年)に長男総一郎を生む。 1921年(大正10年)高野勇五郎より旧派和歌を学び、高野の死後は西川国臣より学ぶ。1925年(大正14年)、労働者のための託児所「若竹の園」を開設。この年より雑誌『アララギ』を読み、歌人・中村憲吉とも会って短歌作りに励む。
上原 轍三郎(うえはら てつさぶろう、1883年8月25日 … 上原 轍三郎(うえはら てつさぶろう、1883年8月25日 - 1972年2月27日)は、日本の農業経済学者・教育者。専門は、拓殖学(植民学)・開発政策・北海道開拓史。学校法人北海学園理事長・北海学園大学初代学長・北海学園大学短期大学部初代学長等を歴任。 1883年、広島県山県郡南方村(現・北広島町)で生まれた。旧制日彰館中学(現広島県立日彰館高校)を経て、1905年に札幌農学校に入学。農学校では高岡熊雄に師事した。同校は東北帝国大学農科大学に改組となり、1912年に東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)を卒業。 1912年、東北帝国大学農科大学助手に採用された。1914年、東北帝国大学農科大学助教授に昇格。
南 薫造(みなみ くんぞう、1883年(明治16年)7月21… 南 薫造(みなみ くんぞう、1883年(明治16年)7月21日 - 1950年(昭和25年)1月6日)は、広島県賀茂郡内海町(現呉市安浦町)出身の画家。 東京美術学校西洋画科出身。1907年〜1910年にかけて、イギリスで学ぶ。文展、帝展、新文展、日展で活躍し、1932年から43年にかけては東京美術学校の教授を務めた。油画家、水彩画家として知られるが、版画の制作にも携わっていた。晩年は郷里の安浦町で暮らし、瀬戸内海を描き続けた。 ウィキメディア・コモンズには、南薫造に関するカテゴリがあります。
河内 源一郎(かわち げんいちろう、1883年4月30日 -… 河内 源一郎(かわち げんいちろう、1883年4月30日 - 1948年3月31日)は、日本の官僚、科学者、実業家。 「河内菌」の発見により焼酎の品質を飛躍的に向上させた近代焼酎の父。広島県深津郡吉津村(現・福山市吉津町)生まれ。 河内は、代々続く醤油屋の家に生まれた。幼少期から麹や醪に馴染み、広島県立福山中学(現・福山誠之館高校)を経て大阪高等工業醸造科(現・大阪大学工学部発酵工学科)を卒業。家業が不振となったため、1909年に大蔵省入りし、熊本税務監査局鹿児島工業試験場へ技師・酒の鑑定官として赴任した。同年秋、造り酒屋の技術指導員として訪れた巡視先で、鹿児島焼酎と出会う。当時の焼酎はとても不味く、また暑い時期はすぐに腐っていた。
加藤 隆義(かとう たかよし、明治16年(1883年)3月2… 加藤 隆義(かとう たかよし、明治16年(1883年)3月20日 - 昭和30年(1955年)2月10日)は、大正から昭和期の日本の海軍軍人、華族。最終階級は海軍大将。子爵。広島県出身で旧姓は船越。同郷の加藤友三郎元帥から養子に迎えられ、以後加藤姓を名乗る。
鈴木 三重吉(すずき みえきち、1882年〈明治15年〉9月… 鈴木 三重吉(すずき みえきち、1882年〈明治15年〉9月29日 - 1936年〈昭和11年〉6月27日)は、広島県広島市出身の小説家、児童文学者。日本の児童文化運動の父とされる。 1882年(明治15年)9月29日、広島県広島市猿楽町(現、中区紙屋町、現在エディオン広島本店 本館がある地)に、父悦二、母ふさの三男として生まれる。 1889年(明治22年)本川小学校に入学。1891年(明治24年)三重吉が9歳の時に、母ふさが亡くなる。1893年(明治26年)11歳の時に、第一高等小学校に入学。1896年(明治29年)広島県広島尋常中学校(現・広島県立広島国泰寺高等学校)に入学。1897年(明治30年)、三重吉が15歳の時に書いた『亡母を慕ふ』が、「少年倶楽部」4月号に、『天長節の記』が「小国民」9年2号(どちらの雑誌も北隆館)に掲載される。
金子 養三(かねこ ようぞう、1882年(明治15年)6月1… 金子 養三(かねこ ようぞう、1882年(明治15年)6月11日 - 1941年(昭和16年)12月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。日本海軍の最初期の搭乗員で、また搭乗員経験者として最初の将官となった。日本海軍飛行機の元祖、また海鷲育ての親ともいわれる人物である。
岡本 半次郎(おかもと はんじろう、1882年4月22日 -… 岡本 半次郎(おかもと はんじろう、1882年4月22日 - 1960年3月4日)は日本の教育者。昆虫学者、農学博士。 妻せんは北海道開拓事業にその生涯を捧げ、“北海道酪農の父”とよばれた町村金弥の次女。 広島県福山市東町に岡本圭吉の子として生まれる。岡本家は旧備後福山藩士として勘定奉行を務めた家柄。 広島県第二中学校(現福山誠之館高校)を経て1907年札幌農学校本科を卒業し、北海道庁技手として北海道農事試験場に勤務。1912年から1年間東北帝国大学講師を兼ねる。1919年本邦産草蜻蛉科に関する論文で農学博士となった。1920年朝鮮総督府勧業模範場に招聘されて赴き水原高等農林学校教授を兼任し1925年12月に退官し帰郷する。
金行 幾太郎(かなゆき いくたろう、1882年(明治15年)… 金行 幾太郎(かなゆき いくたろう、1882年(明治15年)2月9日 - 1964年(昭和39年)11月27日)は、日本のキノコ学者である。 広島県賀茂郡大和町(現在の三原市)に生まれる。同地で生産されるマツタケの調査を行い、大和町のアカマツを用いてマツタケの増産方法を研究した。 結果増産は現実のものとなり、金行はこの方法を自身の名を用いて「金行式栽培法」と命名した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
長崎 英造(ながさき えいぞう、1881年(明治14年)8月… 長崎 英造(ながさき えいぞう、1881年(明治14年)8月13日 - 1953年(昭和28年)4月29日)は大正・昭和期の日本の大蔵官僚、実業家。日本証券投資協会長。 広島県広島市堺町(現・広島市中区)生まれ。旧広島藩士・長崎正平の三男。旧制広島一中(現・広島県立広島国泰寺高等学校)卒業後、旧制第一高等中学(一高)、東京帝国大学法科大学と進み、1907年(明治40年)、大蔵省理財局国庫課入り。1910年(明治43年)、台湾銀行を経て、1913年(大正2年)、幻の総合商社、神戸の鈴木商店に帝大出身者として初の入社、大番頭金子直吉の片腕として多くの事業を手がける。特に東京総支配人(東京支店長)時代、当時の政財界人のトップが集った「番町会」のメンバーになるなど縦横に交流する。
小山内 薫(おさない かおる、1881年〈明治14年〉7月2… 小山内 薫(おさない かおる、1881年〈明治14年〉7月26日 - 1928年〈昭和3年〉12月25日)は、明治末から大正・昭和初期に活躍した日本の劇作家、小説家、演出家、批評家、詩人。 日本の演劇界の革新にその半生を捧げた"新劇の父" 。 1909年に「自由劇場」を、1924年に土方与志らと「築地小劇場」を設立し、新劇運動に尽力した。戯曲に『第一の世界』(1920年)、『息子』(1922年)などがある。また、1919年に松竹本社理事兼松竹蒲田撮影所撮影総監督となり、1920年松竹キネマ俳優学校校長、松竹キネマ研究所設立を通して、トーキー(発声映画)が登場する日本映画黎明期に深く関わった。 1881年(明治14年)7月26日、広島陸軍衛戍病院長・小山内建の二男として後の広島市細工町(現在の大手町一・二丁目付近)に生まれた。
秦 逸三(はた いつぞう、1880年12月14日 - 194… 秦 逸三(はた いつぞう、1880年12月14日 - 1944年5月25日)は、日本で初めて人造絹糸(レーヨン)製造に成功した科学者・実業家。帝国人造絹糸(現・帝人)共同設立者。今の広島県安芸郡海田町出身。 広島県立広島第一中学校(現広島県立国泰寺高校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学医科大学薬学部に入学したが、同大学工科大学応用科学科に転入学した。1908年に卒業後、樟脳事務局に就職。のち神戸税関を経て、米沢市にある旧制米沢高等工業学校(現山形大学工学部)教授となり、研究室でビスコース人造絹糸(レーヨン)製造に専念する。 1884年にフランス人イレール・ド・シャルドネ(フランス語版、英語版)によって発明されたレーヨンは、1892年に工業化に成功し、日本にも紹介され、1905年から本格的な輸入が始まり、日本市場にも徐々に普及していった。
土屋 寛(つちや ゆたか、1880年(明治13年)12月10… 土屋 寛(つちや ゆたか、1880年(明治13年)12月10日 - 1950年(昭和25年)11月12日)は、衆議院議員(立憲民政党)、尾道市長。 広島県御調郡栗原村(のち栗原町、現尾道市)出身。御調郡書記を務めた後、1909年(明治42年)に栗原村の村長に選出され、町制施行後も町長を務めた。また、広島県会議員に選出され、県会の郡部会議長にも就任した。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し当選。当選回数は合計で4回を数えた。その間、1940年(昭和15年)から1942年(昭和17年)にかけて尾道市長を務めた。 戦後、日本進歩党の結成に参加するが、大政翼賛会の推薦議員だったため、間もなく公職追放となった。
桝井 光次郎(ますい みつじろう、1880年3月19日 - … 桝井 光次郎(ますい みつじろう、1880年3月19日 - 1950年12月1日)は、実業家、種苗業者。現在日本で栽培されるイチジク(無花果)の主品種「桝井ドーフィン」創始者。広島県佐伯郡宮内村(現・廿日市市)出身。 1887年、宮内村から初めてハワイへの海外移民が始まり、幼少のころから海外雄飛への夢をふくらませた光次郎は尋常小学校卒業後、家業の農業に従事していたが1902年、好きだったバラの苗木の育て方を習うため単身アメリカに渡る。カリフォルニアの農場で6年の間、果樹、花木類の繁殖、育成の最新技術を学ぶ。しかし肺病と誤診され1908年帰国し、桝井農場を設立。渡米の当初の目的だったバラ作りは日本では早過ぎて成功せず。
上田 直次(うえだ なおじ、1880年1月23日 - 195… 上田 直次(うえだ なおじ、1880年1月23日 - 1953年2月21日)は、日本の彫刻家。広島県賀茂郡川尻村生まれ。 1880年(明治13年)1月23日、広島県賀茂郡川尻村(現在の呉市川尻)宮大工の第一人者と称された上田治作の次男に生まれる。 1906年(明治39年)大阪産業博覧会で高村光雲の「浜辺で遊ぶ子ら」を見て感銘を受け、翌1907年、川尻村光明寺の住職日高緝熙に斡旋された浅草の広楽寺を目指して妻を残し単身上京。東京府下谷区谷中(清水町)真島町一番地にある太平洋画会研究所 に学ぶ。木彫を山崎朝雲に師事、塑像を朝倉文雄のもとで研究。旧広島藩第12代藩主浅野長勲に認められ、望月圭介の庇護を受けた。
青盛 恕一(あおもり じょいち、1879年〈明治12年〉11… 青盛 恕一(あおもり じょいち、1879年〈明治12年〉11月2日 - 没年不明)は、日本の商人(木材商)、広島県多額納税者。族籍は広島県平民。 広島県人・青盛友太郞の甥。1908年、分家。海軍用達商・材木商を営む広島県多額納税者である。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。住所は呉市西二河通。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
勝盛 達之助(かつもり たつのすけ、1879年〈明治12年〉… 勝盛 達之助(かつもり たつのすけ、1879年〈明治12年〉4月1日 - 1942年〈昭和17年〉5月27日)は、日本の商人(海産物商)、広島県多額納税者、政治家。広島市会議長(25代)。広島商工会議所会頭。前名・四方吉。広島市立工業専門学校長、広島電機大学長などを務めた勝盛豊一の養父。 広島県安芸郡呉村(現・呉市)出身。先代達之助の長男。私立光道館卒業。1882年、父に従い、広島市猫屋町に移る。先代を補佐して家事に従事。1908年に家業を継ぎ、海産物問屋兼輸出業を経営、同年5月より12年間猫屋町町総代を勤める。 1909年、家督を相続し四方吉を改め襲名する。1913年2月より連続8期広島商工会議所議員に当選、その間2回副会頭となり、1940年2月に広島商工会議所会頭に就任する。
佐分利 貞男(さぶり さだお、1879年〈明治12年〉1月2… 佐分利 貞男(さぶり さだお、1879年〈明治12年〉1月20日 - 1929年〈昭和4年〉11月29日)は、大正・昭和初期の外交官。広島県出身。妻は小村寿太郎の娘・文子。 佐分利家は備後福山藩士で佐分利流槍術を営む家柄であった。貞男は、1879年(明治12年)1月20日、父・好直、母・八代の五男として出生した。1905年(明治38年)7月、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業、10月、外交官及領事官試験に合格した。外交官補として清国、ロシア、フランス在勤などを経て、外務省参事官、大使館参事官、通商局長、条約局長等を歴任。 1929年(昭和4年)8月、浜口雄幸内閣の外相幣原喜重郎に乞われて、駐ソ大使への出世を犠牲に駐支那公使に就任。
神岡 一亨(かみおか いっこう、1879年〈明治12年〉1月… 神岡 一亨(かみおか いっこう、1879年〈明治12年〉1月10日 - 1924年〈大正13年〉11月21日)は、日本の医師、軍医。李王家御典医。広島県高田郡長田村(現在の安芸高田市)出身。最終階級は陸軍三等軍医正(少佐相当官)。
平賀 譲(ひらが ゆずる、1878年(明治11年)3月8日 … 平賀 譲(ひらが ゆずる、1878年(明治11年)3月8日 - 1943年(昭和18年)2月17日)は、日本の海軍軍人、工学者、華族。海軍技術中将従三位男爵、東京帝大総長、工学博士。東京府(現・東京都)生まれ、本籍地は広島県広島市。父は芸州藩士から維新政府に仕えた主計官。兄・徳太郎は海軍軍人。
京山 若丸(きょうやま わかまる、1878年(明治11年) … 京山 若丸(きょうやま わかまる、1878年(明治11年) - 1953年(昭和28年)5月13日)は、明治~昭和期の浪曲師。本名、坂上仁三郎。広島県白市村(現・東広島市)出身。 22歳で大阪に出て2代目京山恭安斎の弟子となる。修行時代は「義士伝」なども読んだが、デビュー後は関西では珍しく、旧ものは読まず自作自演の「新談(新作)読み」で通した。明治維新に想を得た「乃木将軍」や「召集令」、「江藤新平」、「大西郷」などの傑作を残している。1908年(明治41年)6月、桃中軒雲右衛門、2代目吉田奈良丸に次いで上京。セリフの切れよし、声よし、人物描写に長け、品格のある立派な舞台姿で人気を博し雲右衛門、吉田奈良丸、京山小円らと覇を競い、浪曲の第1期黄金時代を築いた。
小林 躋造(こばやし せいぞう、1877年〈明治10年〉10… 小林 躋造(こばやし せいぞう、1877年〈明治10年〉10月1日 - 1962年〈昭和37年〉7月4日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。 広島県広島市出身。福山誠之館中学、修道学校(現:修道中学校・高等学校)、旧制私立海軍予備校を経て海軍兵学校第26期入校。入校時成績順位62名中第4位、卒業時成績順位59名中第3位。海軍次官、連合艦隊司令長官、台湾総督、翼賛政治会総裁、小磯内閣の国務大臣などを歴任した。 一部の書籍で同郷の加藤友三郎元帥・内閣総理大臣の甥と記載されているが、加藤の兄弟姉妹に小林の縁故者はおらず、加藤との姻戚関係はないことが強く推定される。弟は早川幹夫中将、義弟(妹の夫)は新見政一中将。
京山 小円(きょうやま こえん、1877年(明治10年)3月… 京山 小円(きょうやま こえん、1877年(明治10年)3月15日 - 1928年(昭和3年)10月30日)は、浪曲師。広島県尾道生まれ。本名・吉田松吉。京山小圓とも表記する。 幼いころから義太夫語りになるため修行を積む。浪曲師で京山派の始祖・2代目京山恭安斎の弟子となる。余技に義太夫を得意とし、息の長い重厚な小円節を創り上げた。1908年上京、京橋新富座で独演会を開くと“関西にこの人あり”と評判を呼んだ。桃中軒雲右衛門の武士道鼓吹に対して、人道鼓吹とも称し、巧みな会話と俗に三段流しといわれる息の長さと低音の関西節に聴衆は酔いしれたという。明治末期から大正期にかけて雲右衛門、二代目吉田奈良丸と共に、三巨頭とも称され第1期の浪曲黄金時代を創り上げた元老の一人である。
行友 李風(ゆきとも りふう、明治10年(1877年)3月2… 行友 李風(ゆきとも りふう、明治10年(1877年)3月2日 - 昭和34年(1959年)12月13日)は、大正、昭和期の劇作家、小説家。広島県尾道市土堂町出身。本名は直次郎。 家は岩子屋という藍商で、その総領息子だった。学歴は小学校卒業とされる。明治39年(1906年)大阪新報社入社。社会部記者となり演芸欄を担当。大正5年(1916年)退社、大阪松竹合名会社(松竹)文芸部を経て、大正初期、田村木国(俳人)らと洗堰吟社をおこす。 大正6年(1917年)、芸術座を退団した沢田正二郎が、より一般大衆に親しまれる"新しい国劇"を目的とし新国劇を結成。松竹の白井松次郎の考えから新国劇に派遣され、大正8年(1919年)正月の大阪弁天座公演から、行友は座付き作者として迎えられた。
守屋 松之助(もりや まつのすけ、1877年(明治10年)2… 守屋 松之助(もりや まつのすけ、1877年(明治10年)2月16日 - 1951年(昭和26年)12月23日)は、明治末から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、岡山県岡山市長、小田郡矢掛町長。旧姓・石井。大原財閥の四天王と称された。号・覚堂(かくどう)。 広島県深津郡深津村(深安郡深津村を経て現福山市東深津町)で、石井治郎右衛門の二男として生まれる。11歳で父を亡くし、苦学して深津小学校、尋常中学誠之館(現広島県立福山誠之館高等学校)を卒業。三菱合資会社三菱造船所(現三菱重工業長崎造船所)に勤務。日清戦争、日露戦争に従軍。1901年(明治34年)小田郡矢掛町の守屋忠作長女(火+禾)の入夫となり家督を相続。
江藤 栄吉(えとう えいきち、1876年(明治9年)12月 … 江藤 栄吉(えとう えいきち、1876年(明治9年)12月 - 1928年(昭和3年)4月27日)は、広島県出身の教育者、政治家。衆議院議員。
永井 潜(ながい ひそむ、1876年11月14日 - 195… 永井 潜(ながい ひそむ、1876年11月14日 - 1957年5月17日)は、日本の医学者、生理学者、優生学者。 広島県賀茂郡下市村(現・竹原市)出身。終戦直後に外務次官を務めた河相達夫は実弟。 1902年、東京帝国大学医科大学を卒業後、1903年よりドイツに留学。ゲッティンゲン大学で生理学者マックス・フェルヴォルン(Max Verworn)の薫陶を受け、冬眠動物の代謝生理の研究を行う。1906年に帰国、1915年には大沢謙二の後を継ぎ東京帝大医科大学生理学教室第2代教授となる。その前後から一般雑誌や婦人雑誌などに盛んに優生学や生命論をはじめとした論稿を多数発表している。1930年に日本民族衛生学会を設立、理事長として優生学研究の推進と国民優生法(1940年)の前身である民族優生保護法案の提出に大きな役割を果たした。
麻生 イト(あそう いと、1876年〈明治9年〉7月3日 -… 麻生 イト(あそう いと、1876年〈明治9年〉7月3日 - 1956年〈昭和31年〉7月20日)は、広島県尾道市出身の実業家・慈善家。麻生 以登とも。教育分野・社会インフラ事業・文化事業などに私財を投じた。因島の麻生旅館主。侠客「因島の女親分」として、勝新太郎主演のヒット映画『悪名シリーズ』で唯一実名で出てくることで知られる。原作の小説『悪名』(今東光)には実在した親分衆が数名登場する。 尾道十四日町、現在の十四日元町から長江のあたりで煙草屋あるいは宿屋を営んでいた麻生家の三女として生まれる。小学校を卒業後、神戸に養女に出される。これ以降しばらくイトの詳細はわかっておらず、関西で住み込み女中や工事現場の事務員、また北海道に移り住んでいたなど、転々としていた。
清水 南山(しみず なんざん、1875年〈明治8年〉3月30… 清水 南山(しみず なんざん、1875年〈明治8年〉3月30日 - 1948年〈昭和23年〉12月7日)は、広島県豊田郡能地村(現・三原市幸崎町能地)出身の彫金家。本名、清水 亀蔵(しみず かめぞう)。日本画の大家である平山郁夫の祖母の兄。 広島県出身者としては初めて特待生として東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学した。最初は絵画科(日本画)へ所属していたが、後に彫金科に編入した。彫金科を卒業後に研究科で加納夏雄、海野勝珉に、塑造科で藤田文蔵に学んだ。その後は独自の創作活動を続け、彫金界の第一人者としての地位を築いた。1909年、香川県立工芸学校の教諭になるが、6年余りで退職し、奈良県に住んで法隆寺の古美術を研究した。
天野 健太郎(あまの けんたろう、1875年(明治8年)3月… 天野 健太郎(あまの けんたろう、1875年(明治8年)3月9日 - 1937年〈昭和12年〉6月17日)は、日本の商人(呉服商)、政治家。広島県呉市長。廣島銀行、呉銀行各取締役。広島合同貯蓄銀行常務取締役。族籍は広島県平民。 広島県安芸郡和庄村(のち和庄町、現・呉市)出身。広島県平民・天野健左衛門の長男。生家は代々農業を営む。1897年、呉服商店を開始する。1898年、家督を相続する。23歳の壮齢に早くも和庄町助役となり、2年余在職する。1902年、市会議員に当選し、翌年市助役に就任。 1908年、市参事会員となる。1909年、推されて廣島銀行取締役呉支店長に任ぜられる。1911年、市会議長となる。