下程 勇吉(したほど ゆうきち、1904年10月6日 - 1… 下程 勇吉(したほど ゆうきち、1904年10月6日 - 1998年3月17日)は、日本の教育学者、京都大学名誉教授。教育人間学を提唱した。 広島県安佐郡戸山村にて下程直太郎の長男として誕生。1924年3月広島県立第一中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)卒業。1927年3月広島高等学校(文科乙類)卒業。 1930年京都帝国大学文学部哲学科卒。1937年京都府立医科大学予科教授。1947年、京都大学助教授、「天道と人道 二宮尊徳の哲学」で、文学博士(京都大学)を取得。1948年京都大学教授。教育学部創設に参加し1951年から学部長。1968年定年退官、名誉教授。 松蔭女子学院大学学長 (1968.4 - 1970.3)。
栗原 佑(くりはら たすく/ゆう、1904年5月26日 - … 栗原 佑(くりはら たすく/ゆう、1904年5月26日 - 1980年1月4日)は、日本の経済学者、大阪市立大学名誉教授。広島県出身。
米田 健三(よねだ けんぞう、1904年1月13日 - 19… 米田 健三(よねだ けんぞう、1904年1月13日 - 1971年6月20日)は、日本の経営者、工学博士。久保田鉄工(現在のクボタ)社長を務めた。 広島県呉市出身。1928年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に久保田鉄工(現在のクボタ)に入社。1946年に取締役に就任し、1949年に常務、1960年に専務を経て、1967年に社長に就任した。 1968年11月に紫綬褒章を受章した。 1971年6月20日、胃がんのために死去。67歳没。
薄田 太郎(すすきだ たろう、1902年11月1日 - 19… 薄田 太郎(すすきだ たろう、1902年11月1日 - 1967年4月23日)はNHKの元アナウンサー、郷土史家、大衆芸能評論家。 NHK広島局の初代アナウンサーであり、戦前の広島市の大衆文化史を記録した『がんす横丁』の著者として知られる。 広島市に生まれ、1908年創立されたばかりの広島市立竹屋小学校に入学。卒業後、県立広島商業学校(現在の県立広島商業高校)に入学し、学生野球の応援団長として名を馳せた。その後、素人劇団「広島十一人座」の同人となり、1928年の広島放送局の開局とともに初代アナウンサーの一人となり、特にスポーツ実況で知られた。敗戦前後は南方にいたため原爆には被災せず、翌1946年夏に引揚船により帰国。
野間 繁(のま しげる、1902年10月15日 - 1978… 野間 繁(のま しげる、1902年10月15日 - 1978年8月12日)は、日本の法学者、裁判官、弁護士。明治大学名誉教授。民事訴訟法が専門。勲二等正四位。 1902年、広島県広島市生まれ。1921年明治大学予科に入学。雄弁部に所属する。1926年明治大学法学部を卒業。卒業後は裁判官となり、東京区裁判所判事、東京地方裁判所部長判事、函館地方裁判所部長判事、東京控訴院判事・勅任部長、裁判官訴追委員会事務局長を歴任、1958年に退官。 1947年、「上訴法の基礎理論」を明治大学に提出して法学博士号を取得。1958年明治大学教授となる。國學院大學教授も兼任。1974年、明治大学を定年退職し、名誉教授となった。
森滝 市郎(森瀧 市郎、もりたき いちろう、1901年4月2… 森滝 市郎(森瀧 市郎、もりたき いちろう、1901年4月28日 - 1994年1月25日)は、日本の倫理学者、原水禁運動家。日本原水爆被害者団体協議会理事長、原水爆禁止日本国民会議代表委員などを務めた。 広島県双三郡君田村(現三次市)生まれ。1925年に広島高等師範学校文科2部を卒業し県立三次中学校の教員となるが、1927年に京都帝国大学文学部哲学科に進学し1930年に卒業。その後入学した同大学の大学院を1931年に卒業、出身校である広島高師教授に任じられ同年末に西しげと結婚。 1945年の原爆投下に際し、広島高師教官として動員学徒を引率していた市内江波(現・中区)の三菱重工広島造船所江波工場(爆心から4km)で被爆、爆風で飛散した窓ガラスの破片で右目を失明した。
佐々木 彦一郎(ささき ひこいちろう、1901年4月13日 … 佐々木 彦一郎(ささき ひこいちろう、1901年4月13日 - 1936年4月10日)は、日本の地理学者。民俗学・経済学・社会学的な研究を加味して人文地理学を追究した。1930年前後に目覚ましく活躍するものの、36歳で亡くなり、研究生活は10年間にとどまった。 1901年、秋田県鹿角郡花輪町(現在の鹿角市)で生まれる。幼くして父母を亡くし、祖母に育てられる。小学校卒業とともに広島県呉市に住む叔父にひきとられ、広島県立呉中学校(現在の広島県立呉三津田高等学校)で学ぶ。卒業後は第二高等学校(現在の東北大学)文科に入学した。休日ごとに仙台の周辺を歩いたという。卒業後は東京帝国大学理学部地理学科に進み、山崎直方・辻村太郎・多田文男らの指導を受ける。
廿日出 逸暁(はつかで いつあき、1901年2月18日 - … 廿日出 逸暁(はつかで いつあき、1901年2月18日 - 1991年5月29日)とは、日本の図書館員・図書館学者である。 1901年、広島県豊田郡大長村(現・呉市)に生まれる。旧制崇徳中学校卒業。ライプチヒ大学附属図書館学校等を卒業後、御成婚記念千葉県図書館(現千葉県立中央図書館)の館長として経営に邁進する。戦後は移動図書館を日本に広めたことでも知られ、図書館法の成立にも尽力している。のちに国会図書館連絡部長や千葉経済短期大学教授等を歴任した。1971年、勲三等瑞宝章を受章。1991年死去。
宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 -… 宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 - 1988年10月21日)は、日本の動物生態学者。京都大学名誉教授。学位は、理学博士(京都帝国大学、1933年)。広島県尾道市生まれ。 宮地が定年退官後、京都大学の教室は京大出身で九州大学助教授であった森下正明が引き継いだ。 その森下正明が定年退官後、川那部浩哉が引き継いだ。杉山幸丸も宮地の流れを汲んでいる。
宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 -… 宮地 傳三郎(みやじ でんざぶろう、1901年1月26日 - 1988年10月21日)は、日本の動物生態学者。京都大学名誉教授。理学博士(京都帝国大学、1933年)。広島県尾道市生まれ。
土井美夫(どい よしお、1901年 - 1986年)は日本の… 土井美夫(どい よしお、1901年 - 1986年)は日本の植物学者である。 広島県尾道市出身、広島高等師範学校付属臨時教育育成養成所を卒業し、鹿児島県、広島県で中学、高校の教員を務めた。鹿児島県旧制伊集院中学の教員、教頭時代などに多くの新種の植物を採集した(沖縄、台湾等でも採取を行った)。鹿児島を訪れた天皇へご進講した。後に、広島県山中女子師範学校等に勤務。原爆投下時、2.5㎞地点で被爆した。長年にわたり採集、分類した多くの標本は、広島大学の宮島分所に保管されている。著書に、『薩摩植物誌』(文明堂書店、1926年-1931年)、『広島県植物目録』(博新館、1983年)(広島県の植物目録として、初期のものである。
禹長春(ウ・ジャンチュン、우장춘、通名:須永 長春(すなが … 禹長春(ウ・ジャンチュン、우장춘、通名:須永 長春(すなが ながはる)、1898年4月8日 - 1959年8月10日)は、農学者(農学博士)、育種学者。 韓国農業の父と呼ばれる。 父は乙未事変(朝鮮国王王妃閔妃暗殺事件)に参加した軍人・禹範善。範善が日本に亡命し日本人女性・酒井ナカと結婚、日本で生まれたのが禹長春である。出生地については東京赤坂説と広島説がある。育ったのは広島県呉市である。父の範善は閔妃を暗殺したため、1903年11月24日、禹が6歳の時にかつて閔妃に仕えていた高永根に呉で暗殺された。 同じく父が親日派とされ日本に逃れてきた具鎔書(のちに初代韓国銀行総裁、第10代大韓民国商工部長官などを歴任)ら、酒井の下に送られてきた親日派の子女6人で日本で育ち、禹は、広島県立呉中学校(現広島県立呉三津田高校)を卒業。
増本 量(ますもと はかる、1895年(明治28年)1月9日… 増本 量(ますもと はかる、1895年(明治28年)1月9日 - 1987年(昭和62年)8月12日)は、日本の金属物理学者。東北大学名誉教授。広島県安芸郡矢賀村(現広島市東区矢賀町)出身。
桐原 葆見(きりはら しげみ、1892年11月10日 - 1… 桐原 葆見(きりはら しげみ、1892年11月10日 - 1968年5月2日)は、日本の心理学者、僧侶、第十四代浄楽寺住職。 広島県安佐郡八木村(現・広島市安佐南区)の浄土真宗本願寺派浄楽寺住職桐原慈見の長男として誕生する。八木尋常小学校(現広島市立八木小学校)、高宮高等小学校、第四仏教中学(現崇徳高等学校)、旧制第三高等学校を経て1919年に東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修を卒業した。東京帝国大学では日本心理学会の草分けである松本亦太郎に師事して心理学を専攻した。卒業の年に実父が他界し、浄楽寺第14世住職を継ぐが引き続き大学院へ進学する。大学院在院中より倉敷労働科学研究所(現・公益財団法人大原記念労働科学研究所)の設立に貢献した。
三枝 博音(さいぐさ ひろと、1892年〈明治25年〉5月2… 三枝 博音(さいぐさ ひろと、1892年〈明治25年〉5月20日 - 1963年〈昭和38年〉11月9日)は、日本の哲学者。 思想史・科学史・技術史についての研究も多い。 広島県山県郡本地村(現・北広島町)出身。生家は浄土真宗の寺院・浄専坊。第四仏教中学(現・崇徳高等学校)を経て、東京帝国大学文学部哲学科に進む。在学中1年間の兵役体験から、社会的なものへ傾倒しマルクス主義に没頭した。 1922年大学卒業後は同郷で、医学史の大家・富士川游に師事。東洋大学、立正大学、法政大学などで教職に就いた。1928年、無神論運動を起こす。1931年半年間ドイツに留学、世界観の変革に多大な影響を受けた。1932年に戸坂潤らとともに唯物論研究会の創立に参加。
正木 亮(まさき あきら、1892年3月25日 - 1971… 正木 亮(まさき あきら、1892年3月25日 - 1971年8月22日)は、昭和期(戦前〜戦後)の監獄学・刑事政策の実践的法学者。戦後は死刑廃止の提唱者として日本における死刑廃止運動の中心的役割を担った。 広島県佐伯郡玖波村(現・大竹市玖波)出身。旧制三次中学校(のち三次高等学校)から第二高等学校を経て1918年、東京帝国大学法科大学法律学科(ドイツ法)卒。 大学在学中から牧野英一の教育刑論やトルストイの影響を受け、監獄の改善に強い関心を持つ。1916年(大正5年)1月1日、巣鴨監獄を参観。音羽の護国寺から田圃や雑木林を通り、はるか彼方に見える高い壁のそこに至るまでには一軒の農家さえなかったという。
佐竹 哲雄(さたけ てつお、1890年5月16日 - 198… 佐竹 哲雄(さたけ てつお、1890年5月16日 - 1981年3月26日)は、広島県出身の哲学者。主な専門は現象学。勲四等瑞宝章受賞。 広島県出身。第四仏教中学卒業後。1916年、東京帝国大学文学部哲学学科卒業。1919年、第八高等学校教授に就任。1945年、同職を退職。1949年、熊本大学教授に就任。1951年、東京都立大学教授に就任。1957年、東洋大学教授に就任。 1981年3月26日、逝去。享年90歳。墓所は青山霊園。
島 善鄰(しま よしちか、1889年8月27日 - 1964… 島 善鄰(しま よしちか、1889年8月27日 - 1964年8月7日)は、日本の農学者。北海道大学第6代学長。その一生をリンゴの研究と普及に努めリンゴの神様といわれる。正三位、勲一等瑞宝章を授与。 1889年、陸軍軍人の島時中、きち夫婦の5男として広島県広島市に生まれる。8歳の時に父が亡くなり岩手県稗貫郡矢沢村高木(現・花巻市)に移る。盛岡中学(現・岩手県立盛岡第一高等学校)を経て1914年、東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)を卒業。1916年、星野勇三教授に推挙されて青森県農事試験場の技師となる。当時の青森は褐斑病の発生でリンゴ生産減退の時期であったが、早速減収原因の調査に着手。リンゴ栽培改善事業として の三大事業を実施し、従来の粗放な技術から労働集約技術への転換を指導した。
森戸 辰男(もりと たつお、1888年(明治21年)12月2… 森戸 辰男(もりと たつお、1888年(明治21年)12月23日 - 1984年(昭和59年)5月28日)は、日本の学者、社会思想家、教育者(初代広島大学学長・名誉教授)、政治家(衆議院議員、文部大臣)。広島県広島市、福山市名誉市民。文化功労者(1971年)、勲一等旭日大綬章(1974年)。位階は従二位。 広島県深津郡福山東堀端(現在の福山市)に旧福山藩士・森戸鸞蔵、チカの二男として生まれる。広島県立福山中学校(現在の広島県立福山誠之館高等学校)から1907年、第一高等学校に進学した。前年校長に就任した新渡戸稲造の倫理の講義に感銘を受ける。弁論部で活動し、一高を卒業する1911年2月、弁論部の後輩・河上丈太郎に頼まれ大逆事件を主題とした徳冨蘆花の講演会「謀叛論」を開催した。
坂村 徹(さかむら てつ、1888年10月13日 - 198… 坂村 徹(さかむら てつ、1888年10月13日 - 1980年10月18日)は、遺伝学者、植物細胞学、生理学者。教育者。北海道大学農学部名誉教授。広島県広島市幟町(現・中区)幟町出身。 旧制・広島一中(現・広島国泰寺高校)から北海道帝国大学農学部に進み同大学卒業。恵迪寮OB。植物細胞学・植物生理学を研究し1918年、世界で初めて小麦の正確な染色体数を明らかにした。この発見は画期的なもので、この後日本で小麦の研究が盛んになり世界の学会をリードした。この研究を引き継ぎ、木原均が小麦の細胞遺伝学的研究でこの分野の新しい領域を切り拓いた。その他生物を利用した微量重金属の検出法などを開発。1919年同大学教授。
磯 永吉(いそ えいきち、1886年11月23日 - 197… 磯 永吉(いそ えいきち、1886年11月23日 - 1972年1月21日)は、日本の農学者、作物育種学者。台北帝国大学(現台湾大学)教授。台湾米(蓬萊米)の父と呼ばれた。農学博士(北海道大学・論文博士・1928年)(学位論文「台湾稲ノ育種学的研究」)。 1886年、広島県福山市新馬場町(霞町)で生まれた。旧制日彰館中学(現・広島県立日彰館高校)を経て、1905年に札幌農学校に入学。同学校は東北帝国大学農科大学に在学中に東北帝国大学農科大学に改組となったため、1911年に東北帝国大学農科大学を卒業。 1912年、台湾へ渡り、台湾総督府農事試験場に勤務。1928年、学位論文『台湾稲ノ育種学的研究』を北海道帝国大学に提出して農学博士号を取得。
山本 祥吉(やまもと しょうきち、1886年(明治19年)1… 山本 祥吉(やまもと しょうきち、1886年(明治19年)10月25日 - 1976年(昭和51年)10月28日)は、日本の調味学者。農林省水産講習所教授、水産試験場技師、南興水産取締役、東海大学教授、東京水産大学講師。 鰹節の研究を専門とし、味の素等の商品開発や南洋群島での水産事業に関わった。 1886年(明治19年)10月25日広島県安芸郡牛田村椎ノ木44番地(広島市東区牛田南一丁目)に小学訓導山本象六とタニの長男として生まれた。牛田村立尋常小学校を経て、1897年(明治30年)4月安佐郡立沼田高等小学校に入学したが、1899年(明治32年)3月中退、4月広島市立第二高等小学校に転じ、1901年(明治34年)3月卒業した。
河内 源一郎(かわち げんいちろう、1883年4月30日 -… 河内 源一郎(かわち げんいちろう、1883年4月30日 - 1948年3月31日)は、日本の官僚、科学者、実業家。 「河内菌」の発見により焼酎の品質を飛躍的に向上させた近代焼酎の父。広島県深津郡吉津村(現・福山市吉津町)生まれ。 河内は、代々続く醤油屋の家に生まれた。幼少期から麹や醪に馴染み、広島県立福山中学(現・福山誠之館高校)を経て大阪高等工業醸造科(現・大阪大学工学部発酵工学科)を卒業。家業が不振となったため、1909年に大蔵省入りし、熊本税務監査局鹿児島工業試験場へ技師・酒の鑑定官として赴任した。同年秋、造り酒屋の技術指導員として訪れた巡視先で、鹿児島焼酎と出会う。当時の焼酎はとても不味く、また暑い時期はすぐに腐っていた。
金行 幾太郎(かなゆき いくたろう、1882年(明治15年)… 金行 幾太郎(かなゆき いくたろう、1882年(明治15年)2月9日 - 1964年(昭和39年)11月27日)は、日本のキノコ学者である。 広島県賀茂郡大和町(現在の三原市)に生まれる。同地で生産されるマツタケの調査を行い、大和町のアカマツを用いてマツタケの増産方法を研究した。 結果増産は現実のものとなり、金行はこの方法を自身の名を用いて「金行式栽培法」と命名した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
秦 逸三(はた いつぞう、1880年12月14日 - 194… 秦 逸三(はた いつぞう、1880年12月14日 - 1944年5月25日)は、日本で初めて人造絹糸(レーヨン)製造に成功した科学者・実業家。帝国人造絹糸(現・帝人)共同設立者。今の広島県安芸郡海田町出身。 広島県立広島第一中学校(現広島県立国泰寺高校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学医科大学薬学部に入学したが、同大学工科大学応用科学科に転入学した。1908年に卒業後、樟脳事務局に就職。のち神戸税関を経て、米沢市にある旧制米沢高等工業学校(現山形大学工学部)教授となり、研究室でビスコース人造絹糸(レーヨン)製造に専念する。 1884年にフランス人イレール・ド・シャルドネ(フランス語版、英語版)によって発明されたレーヨンは、1892年に工業化に成功し、日本にも紹介され、1905年から本格的な輸入が始まり、日本市場にも徐々に普及していった。
平賀 譲(ひらが ゆずる、1878年(明治11年)3月8日 … 平賀 譲(ひらが ゆずる、1878年(明治11年)3月8日 - 1943年(昭和18年)2月17日)は、日本の海軍軍人、工学者、華族。海軍技術中将従三位男爵、東京帝大総長、工学博士。東京府(現・東京都)生まれ、本籍地は広島県広島市。父は芸州藩士から維新政府に仕えた主計官。兄・徳太郎は海軍軍人。
永井 潜(ながい ひそむ、1876年11月14日 - 195… 永井 潜(ながい ひそむ、1876年11月14日 - 1957年5月17日)は、日本の医学者、生理学者、優生学者。 広島県賀茂郡下市村(現・竹原市)出身。終戦直後に外務次官を務めた河相達夫は実弟。 1902年、東京帝国大学医科大学を卒業後、1903年よりドイツに留学。ゲッティンゲン大学で生理学者マックス・フェルヴォルン(Max Verworn)の薫陶を受け、冬眠動物の代謝生理の研究を行う。1906年に帰国、1915年には大沢謙二の後を継ぎ東京帝大医科大学生理学教室第2代教授となる。その前後から一般雑誌や婦人雑誌などに盛んに優生学や生命論をはじめとした論稿を多数発表している。1930年に日本民族衛生学会を設立、理事長として優生学研究の推進と国民優生法(1940年)の前身である民族優生保護法案の提出に大きな役割を果たした。
能海 寛(のうみ ゆたか、1868年7月7日〈慶応4年5月1… 能海 寛(のうみ ゆたか、1868年7月7日〈慶応4年5月18日〉 - 1903年〈明治36年〉?)は、チベットを探検した真宗大谷派の僧、仏教学者。 1868年(慶応4年)5月18日、島根県那賀郡波佐村(現在の浜田市金城町)長田にある浄蓮寺住職の能海法憧の次男として生まれる。1877年(明治10年)、10歳の時に広島へ出て進徳教校(現在の崇徳中学校・高等学校)で3年間漢籍などを学び、11歳の時得度し宗門に入る。その後郷里に戻り養父謙信から後継住職としての教育を受ける。1885年(明治18年)9月、18歳の時に再び広島へ出て進徳教校へ入学するが、4ヶ月後に退学し、京都へ出て、西本願寺の普通教校(現在の龍谷大学の前身の一部)で学ぶ。
廣田 理太郎(ひろた りたろう、1865年12月23日(慶應… 廣田 理太郎(ひろた りたろう、1865年12月23日(慶應元年11月6日) - 1935年(昭和10年)9月2日)は、日本の工学者、実業家、教育者。 広島県福山市出身。廣田家は代々備後福山藩の勘定役を勤めた家系であった。県立広島中学(現・広島県立国泰寺高校)を経て東京帝国大学機械科卒業。帝大の技術者の第一期の卒業生で技術者のはしり。当時は機械そのものが外国から輸入され、参考書や説明書も全て外国から取り寄せるため英語は不可欠だった。帝大在学中の1886年、学友と東京理科大学の生徒計4人で自転車会を設立。これは日本で最初の自転車クラブともいわれ、金を出し合って購入したオーディナリー型自転車を廣田らが日本人で初めて乗ったともいわれる。
富士川 游(ふじかわ ゆう、慶應元年5月11日〈1865年6… 富士川 游(ふじかわ ゆう、慶應元年5月11日〈1865年6月4日〉 - 昭和15年〈1940年〉11月6日)は、日本の医学者・医学史家。旧姓は藤川、幼名は充人。安芸国沼田郡長楽寺村(後に安佐郡に編入、現:広島県広島市安佐南区長楽寺)出身。 医師・藤川雪の子に生まれる。雪は医師であるとともに和歌・漢詩にも優れ、1872年の壬申戸籍作成時に「藤川」を佳字である「富士川」と改名している。 1879年、藩校浅野学校(現:修道中学校・高等学校)から広島県立中学(現:広島県立広島国泰寺高等学校)に転学を経て1887年、広島医学校(現:広島大学医学部)卒業。同級に尼子四郎らがいた。上京し明治生命保険の保険医となる。
横山 雅男(よこやま まさお、文久2年12月16日(1863… 横山 雅男(よこやま まさお、文久2年12月16日(1863年2月4日) - 1943年(昭和18年)2月12日)は、日本の統計学者。安芸国賀茂郡吉土実村(現・広島県東広島市)出身。 広島県師範学校(広島大学教育学部の前身)卒業。広島県内で小学校教員を務めた後上京。当時はまだ新奇な学問であった統計学の存在を知り、表記学社(1878年スタチスチック社、1892年統計学社と改名、1944年東京統計協会と合併し日本統計協会と改称)が1883年、杉亨二や岩崎弥太郎、渋沢栄一、世良太一らの尽力で設立した日本で最初で最後の統計専門学校「共立統計学校」の第一期生として入学。3年間、杉亨二の弟子として本格的に統計学を学ぶ。
勝島 仙之助(かつしま せんのすけ、安政5年10月11日(1… 勝島 仙之助(かつしま せんのすけ、安政5年10月11日(1858年11月16日) - 昭和6年(1931年)12月27日)は、日本の獣医学者。漢詩人。仙之介とも書く。号は仙坡。 備後国御調郡三原(現在の広島県三原市)出身。大阪英語学校を経て、1878年(明治11年)に駒場農学校に入学した。1882年(明治15年)、駒場農学校獣医学科を卒業。農商務省嘱託、助教授心得を経て、1887年(明治20年)に東京農林学校教授となった。1889年(明治22年)よりドイツに留学し、ベルリン高等獣医学校で学んだ。1891年(明治24年)に帰国し、帝国大学農科大学(のち東京帝国大学農学部)教授となった。1899年(明治32年)には獣医学博士の学位を受けた。
清水 郁太郎(しみず いくたろう、安政4年10月13日〈18… 清水 郁太郎(しみず いくたろう、安政4年10月13日〈1857年11月29日〉 - 明治18年2月26日〈1885年〉)は、日本の医学者、産婦人科医。医学博士第1号。初代の東京大学医学部産婦人科学教授。広島県吉津村(現・福山市)生まれ。 慶応元年(1865年)、藩校誠之館(現・広島県立福山誠之館高等学校)に入学、早くからその穎才を認められ明治2年(1869年)には、全国各藩の俊才数十名が選抜された東京遊学に、16歳から20歳という年齢制限が有るにもかかわらず12歳にして選ばれる。 明治4年(1871年)、大学南校(現・東京大学)入学、独学を専攻。翌明治5年(1872年)、大学東校(現・東京大学医学部)に転入。
江木高遠(えぎたかとお、1850年2月3日(嘉永2年12月2… 江木高遠(えぎたかとお、1850年2月3日(嘉永2年12月22日) - 1880年(明治13年)6月6日)は、文明開化期の学者、啓蒙家、外務官僚。養子に入り、『高戸賞士』を名乗った時期があった。米国で軍事と法律を学び、教員を経て演説家として名を馳せたが、外交官として渡米後ピストル自殺した。 備後福山藩の儒官、江木鰐水の第四子として福山に生まれた。幼名は賞士、通称は賞一郎。母は、年(とし)。 1856年(安政3年)(7歳)、藩校誠之館に入り、1868年(明治元年)(19歳)秋、長崎でフルベッキに学び、翌年、藩の推薦により東京の開成学校に転じ、明治2年(1869年)に慶應義塾に学んだ。1870年(明治3年)(21歳)、華頂宮博経親王の随員の一人としてニューヨークへ渡り、コロンビア法律学校(Columbia Law School)に学んだが、1872年、病気の親王と帰国し、1874年再渡米して、1876年卒業した。
佐沢 太郎(さざわ / ささわ たろう、1838年8月8日(… 佐沢 太郎(さざわ / ささわ たろう、1838年8月8日(天保9年6月19日) - 1896年(明治29年)5月26日)は明治時代の日本の洋学者、文部官僚。旧名元太郎、諱は高仰。 天保9年6月19日(1838年8月8日)、備後国品治郡新市村に三木嘉久平の五子として生まれる。福山藩儒江木鰐水の門に学んだのち、安政2年(1855年)に品治郡江良村の医師佐沢泰介の養継子となり、蘭方医となるため藩校誠之館の洋学教官寺地舟里、次いで長州藩の青木周弼に師事。さらに文久元年(1861年)、大阪の緒方洪庵に入門し、翌年秋には幕命により江戸に赴く師に同伴。幕府の西洋医学研究教育機関・医学所に入った。文久3年(1863年)、福山藩から洋学修行を命じられ、幕府の洋学研究教育機関・洋書調所(同年中に開成所と改称)でも修学。
市川 兼恭(いちかわ かねのり、文政元年5月11日(1818… 市川 兼恭(いちかわ かねのり、文政元年5月11日(1818年6月14日) - 明治32年(1899年)8月26日)は、幕末・明治の蘭学者。オランダ語、ドイツ語を修得。西洋兵学を学ぶ。姓は源、幼名三輔。後、岩之進または斎宮、明治2年(1869年)9月逸吉に改める。号は浮天斎。父は広島藩藩医の市川文微。母は林氏政子。市川文吉は長男。 福井藩で砲術師範となった。幕府天文台訳員を勤め、蕃書調所と開成所教授職を歴任。大番格砲兵差図役頭取勤方となる。電信機や活版印刷などの技術開発に携わる。維新後は陸軍兵学中教授となった。東京学士会院会員。 清水卯三郎「和蘭文典前後編」によれば蘭学の文法書「セインタキス」を翻刻したのは箕作阮甫であるとしているが、市川兼恭「経歴談」によると、市川が杉田のところにいた際に箕作から頼まれて版下を書き下ろして印刷したとある。
江木 鰐水(えぎ がくすい、1811年1月16日(文化7年1… 江木 鰐水(えぎ がくすい、1811年1月16日(文化7年12月22日) - 1881年(明治14年)10月8日)は、江戸時代後期から明治期の備後福山藩(現福山市)の儒学者、洋学者、開港論者。 藩校誠之館教授・医者・備後福山藩儒官。名は戩(ゆき)字は晋戈(しんか)。通称は繁太郎。号は健斎・三鹿斎。文化7年12月22日(1811年1月16日)安芸国豊田郡戸野村(現広島県東広島市河内町戸野)の庄屋福原与曽八(藤右衛門貞章)の三男として生まれる。 文化12年(1815年)6歳のとき父を亡くす。福山藩医・五十川菽斎(いかがわしゅくさい)および篠崎小竹に師事。福山藩医・江木玄朴の家を継ぎ江木を名乗るも、医術を好まず。
頼 山陽(らい さんよう、安永9年12月27日(1781年1… 頼 山陽(らい さんよう、安永9年12月27日(1781年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日))は、大坂生まれの江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人。幼名は久太郎(ひさたろう)、名は襄(のぼる)、字は子成。山陽、三十六峯外史と号した。主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。贈正四位。
小鷹狩 元凱(こたかり もとよし)は明治時代の軍人、政治家、… 小鷹狩 元凱(こたかり もとよし)は明治時代の軍人、政治家、郷土史家。号は預園、後に弘洲。旧広島藩士。維新後陸軍に出仕して徴兵事務に携わり、大尉まで進むも、薩長による藩閥に反発して立憲改進党に入党し、自由民権運動に携わった。帝国議会開設後、度々衆議院議員総選挙に出馬するも苦戦し、一期務めたのみで引退、晩年は芸備協会での育英事業に専念し、また広島の藩政時代等についての事跡を書き残した。
安田 進(やすだ すすむ)は、日本の地盤工学者。東京電機大学… 安田 進(やすだ すすむ)は、日本の地盤工学者。東京電機大学名誉教授、同大学元理工学部教授。元日本地震工学会会長、工学博士、技術士(総合技術監理部門、建設部門)、土木学会認定特別上級土木技術者(地盤・基礎)。 広島県広島市出身。主に液状化対策、地震時の斜面崩壊や豪雨時の土砂災害、堤防被害などの分野に携わり、地盤工学会、土木学会の要職を歴任。
岡田 潔(おかだ きよし)は、日本の教育学者。専門は、国語教… 岡田 潔(おかだ きよし)は、日本の教育学者。専門は、国語教育。広島県出身。
平川 一彦(ひらかわ かずひこ)は日本の電子工学者。東京大学… 平川 一彦(ひらかわ かずひこ)は日本の電子工学者。東京大学大学院工学系研究科電気系工学専攻および工学部電気電子工学科教授。生産技術研究所附属光物質ナノ科学研究センター所属。 テラヘルツ波に関する研究で知られる。
松坂 修二(まつさか しゅうじ)は、日本の化学工学者。京都大… 松坂 修二(まつさか しゅうじ)は、日本の化学工学者。京都大学大学院工学研究科化学工学専攻化学システム工学講座教授。 広島市立基町高等学校を経て、1981年広島大学工学部第三類生物化学工学課程卒業。1983年広島大学大学院工学研究科博士課程(前期)移動現象工学専攻修了、工学修士、東レエンジニアリング入社。1987年動力炉・核燃料開発事業団派遣。1989年京都大学工学部助手。1993年京都大学博士(工学)。1996年京都大学大学院工学研究科講師。1997年京都大学大学院工学研究科助教授。1999年サリー大学客員教授。2004年広島大学客員助教授。2007年京都大学大学院工学研究科准教授。2008年華南理工大学客員教授。
鈴木 基(すずき もとい、Motoi SUZUKI)は、日本… 鈴木 基(すずき もとい、Motoi SUZUKI)は、日本の医師、医学者(感染症疫学・臨床疫学)。学位はMaster(ロンドン大学衛生熱帯医学大学院・2009年)、医学博士(長崎大学大学院・2014年)。厚生労働省 国立感染症研究所 感染症疫学センター・センター長。長崎大学大学院・客員教授。
頼 春水(らい しゅんすい、延享3年6月30日(1746年8… 頼 春水(らい しゅんすい、延享3年6月30日(1746年8月16日) – 文化13年2月19日(1816年3月17日)は、江戸時代中期・後期の儒学者、詩人。頼山陽の父。
小佐古 敏荘(こさこ としそう)は日本の工学者(放射線安全学… 小佐古 敏荘(こさこ としそう)は日本の工学者(放射線安全学)。元東京大学大学院工学系研究科原子力国際専攻教授。
佐藤 宏介(さとう こうすけ)は日本の工学者(システム工学)… 佐藤 宏介(さとう こうすけ)は日本の工学者(システム工学)。大阪大学大学院基礎工学研究科システム創成専攻システム科学領域教授。