桝田 與三郎(桝田 与三郎、ますだ よさぶろう、1880年〈… 桝田 與三郎(桝田 与三郎、ますだ よさぶろう、1880年〈明治13年〉5月28日 - 1951年〈昭和26年〉9月30日)は、日本の商人(生糸繭屑物商)、愛媛県多額納税者、実業家、政治家。愛媛県会議員、大洲町会議員。桝田製糸社長。愛媛県製糸業組合長。大洲銀行取締役、同監査役。旧姓・井上。 愛媛県西宇和郡三机村大字大江(後瀬戸町、現伊方町)出身。父・井上安次郎、母・シカの三男。大江小学校卒業後大洲に来て、呉服雑貨商・河野真太郎方に入り、商いについて学んだ。1899年、桝田家に養子入籍。1901年、生糸・繭屑物売買業を開始し、後桝田商店として蚕糸業に足を踏みこんだ。 1915年、若宮に製糸工場を開設、「伊予生糸」と称する生糸を生産した。
太宰 孫九(だざい まごく、1879年10月8日 - 194… 太宰 孫九(だざい まごく、1879年10月8日 - 1942年11月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。伊予鉄道電気(現伊予鉄グループ)6代社長。 愛媛県北宇和郡二名村(三間町を経て現宇和島市)生まれ。第四高等学校で学ぶ。1905年1月に二名村会議員となる。以後、北宇和郡会議員(1911年9月から1915年9月まで)、二名村長(1912年11月から1913年7月まで)を歴任する。 1915年9月の愛媛県会議員選挙に北宇和郡選挙区から、立憲政友会所属で立候補したが次点で落選した。その後、1917年7月の補欠選挙に当選して、同月17日に県会議員となる。1919年の県会議員選挙で再選を果たした。
相原 四郎(あいばら しろう、1879年(明治12年)10月… 相原 四郎(あいばら しろう、1879年(明治12年)10月2日 - 1911年(明治44年)1月8日)は、日本の海軍軍人。 日本海軍の最初の搭乗員であり、また日本初の航空事故犠牲者とする見解もある。相原は仏海軍士官ル・プリウール、田中舘愛橘と協力して日本で最初のグライダー製作および飛行の成功に貢献し自らも搭乗した。この成功は日本における航空工学に則った機体飛行の最初の事例であった。最終階級は海軍大尉。 現在の愛媛県松山市に生まれる。農業を営む父相原久米兵衛、母信の間に生まれた第四子で長男であった。松山中学在学中に父を失った相原は、海軍予備校として知られた攻玉社に転じ、1898年(明治31年)海軍兵学校に入校した。
曽我 鍛(そが きたう/きとう、1879年(明治12年)7月… 曽我 鍛(そが きたう/きとう、1879年(明治12年)7月15日 - 1959年(昭和34年)12月28日)は、日本の編集者、作家、記者。通称はきたえ。号は正堂、黄塔、鬼塔、青銅散士など。 1879年7月15日、愛媛県西宇和郡布喜川村(現在の西予市三瓶町鴫山)に生まれる。1901年旧制松山中学校卒業、1905年7月早稲田大学文学部卒業。同年9月に帝国大学史料編纂係となる。1906年帝国大学編纂係を依願退職、同年3月に三井家史料編纂の嘱託となる。1911年、病気療養のため三井家史料編纂嘱託を依願退職、帰郷する。帰郷後、療養中に双岩村の委嘱により村誌編集にあたる。 1913年4月、伊予日々新聞(柳原極堂経営)の主筆となる。
櫻井 忠温(さくらい ただよし、1879年(明治12年)6月… 櫻井 忠温(さくらい ただよし、1879年(明治12年)6月11日 - 1965年(昭和40年)9月17日)は、日本陸軍軍人、作家。最終階級は陸軍少将。翻訳家、教育者の櫻井鴎村は実兄。木村駿吉の娘婿で海軍中将の櫻井忠武は実弟。 1879年(明治12年)6月11日、愛媛県松山城下の小唐人町(現・松山市大街道1丁目)に士族の3男として生まれる。1899年(明治32年)、松山中学校を卒業し、神戸税関に勤務。1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校卒業(13期)。 松山の歩兵第22連隊旗手として日露戦争に出征。乃木将軍配下、旅順攻囲戦で体に8発の弾丸と無数の刀傷を受け(全身蜂巣銃創)、右手首を吹き飛ばされる重傷を負う。
村瀬 武男(むらせ たけお、1879年(明治12年)5月11… 村瀬 武男(むらせ たけお、1879年(明治12年)5月11日 - 1959年(昭和34年)2月3日)は、愛媛県出身の政治家。衆議院議員、愛媛県会議長などを務めた。
重岡 信治郎(しげおか のぶじろう 1879年(明治12年)… 重岡 信治郎(しげおか のぶじろう 1879年(明治12年)5月10日 - 1971年(昭和46年)1月16日)は、日本の海軍軍人。井出謙治らに続き、潜水艦の拡充に尽力した海軍中将である。なお"重岡信次郎"とする資料もある。 愛媛県出身。松山中学から1898年(明治31年)海軍兵学校に29期として入校。留年し1902年(明治35年)30期として卒業した。兵学校の卒業成績が昇進に大きく影響した海軍で、席次が187名中156番の重岡は中将まで昇進した。 尉官時代は「磐手」、「比叡」、「厳島」、「韓崎丸」乗組等を経て第一潜水艇隊付、同艇長心得、同艇長、第二潜水艇隊艇長と実務経験を重ね、以後もほぼ一貫して潜水艦畑を歩む。
朝潮 太郎(あさしお たろう、1879年〈明治12年〉4月1… 朝潮 太郎(あさしお たろう、1879年〈明治12年〉4月19日 - 1961年〈昭和36年〉4月30日)は、愛媛県新居郡玉津村(現西条市)出身の大相撲力士。本名は薦田 長吉(後に坪井 長吉)。最高位は大関。身長176cm、体重113kg。高砂部屋→佐ノ山→高砂部屋に所属した。 20歳の時には、体重の3倍近い荷物を持ち上げる怪力であり、初代朝汐の8代目佐ノ山に勧誘された。しかし、父が反対しすぐには入門できなかった。 父が亡くなると1901年(明治34年)に入門、同年5月に新序出世、四股名は朝嵐長太郎を名乗った。1906年(明治39年)1月場所で新十両、翌1907年(明治40年)1月場所で新入幕を果たす。
中平 常太郎(なかひら つねたろう、1879年(明治12年)… 中平 常太郎(なかひら つねたろう、1879年(明治12年)3月20日 ‐ 1964年(昭和39年)7月19日) は、明治末から昭和期の醸造家、社会事業家、政治家。参議院議員(1期)、愛媛県宇和島市長。 愛媛県西宇和郡伊方浦(伊方村を経て現伊方町)で生まれた。 1911年(明治44年)9月、北宇和郡会議員に就任。1914年(大正3年)宇和島で醤油醸造業を営む。1915年(大正4年)宇和島町会議員に選出され、1925年(大正14年)12月から1934年(昭和9年)まで宇和島市会議員に在任し、副議長も務めた。また愛媛県方面委員として社会事業に取り組み、1927年(昭和2年)10月、宇和島市民共済会を設立して救貧事業などを進め、授産場での団扇製造販売を手掛けるなどの活動で注目された。
真鍋 嘉一郎(まなべ かいちろう、正字体:眞鍋 嘉一郞、18… 真鍋 嘉一郎(まなべ かいちろう、正字体:眞鍋 嘉一郞、1878年(明治11年)8月8日 - 1941年(昭和16年)12月29日)は、明治後期から昭和初期の医学者、日本における物理療法(理学療法)、レントゲン学、温泉療法の先駆者。東京帝国大学教授。日本内科学会会頭、日本医学放射線学会初代会長を歴任。X線に「レントゲン」の名を初めて使用し日本に定着させたことでも知られ、医聖(いせい)と呼ばれた。族籍は東京府士族。 愛媛県新居郡大町村(現・西条市大町)に生まれる。真鍋虎吉の長男。1882年(明治15年)、家督を相続した。 西条高等小学校、愛媛県尋常中学校(現・松山東高)に学ぶ。中学の教員に夏目漱石、同級生に松根東洋城がいた。
今井 嘉幸(いまい よしゆき、1878年(明治11年)5月2… 今井 嘉幸(いまい よしゆき、1878年(明治11年)5月25日 - 1951年(昭和26年)6月30日)は、衆議院議員、弁護士。法学博士。 愛媛県周桑郡小松町南川(現在の西条市)生まれ。今井角次の二男。1897年に愛媛県立松山中学校を、1900年に第一高等学校を卒業し、1904年7月に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。さらに同大学院で国際法を専攻。修了後、東京地方裁判所判事に任命された。1908年、清の招聘で判事在職のまま天津の北洋法政学堂で司法制度を教授した。 1914年、帰国して判事を退官し、大阪で弁護士の業務に就く。同年12月24日に法学博士の学位を授与された。1916年、中華民国での護国戦争に際し、雲南軍政府の招きで軍務院の顧問に就任した。
川島 義之(かわしま よしゆき、1878年〈明治11年〉5月… 川島 義之(かわしま よしゆき、1878年〈明治11年〉5月25日 - 1945年〈昭和20年〉9月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。愛媛県生まれ。 1878年(明治11年)5月25日、愛媛県士族の川島右一の長男として生まれる。 松山市外側尋常小学校、愛媛県尋常中学校を経て、1898年(明治31年)、陸軍士官学校(10期)卒業。1908年(明治41年)、陸軍大学校(20期)卒業。作戦資材整備会議幹事長、陸軍省人事局長、近衛歩兵第1旅団長、第19師団長、第3師団長を歴任。教育総監部本部長、朝鮮軍司令官、軍事参議官を経て陸軍大臣に就任。 二・二六事件後、予備役に編入。終戦直後の1945年(昭和20年)9月8日、死去。
門屋 尚志(かどや なおゆき、1878年〈明治11年〉1月3… 門屋 尚志(かどや なおゆき、1878年〈明治11年〉1月3日 - 1939年〈昭和14年〉7月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県温泉郡、のちの素鵞村(現松山市)で生まれ、伊予郡郡中町(現伊予市)で成人した。東京高等商業学校(現一橋大学)で学ぶ。松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)、洲本中学校(現・兵庫県立洲本高等学校)の教員となる。日本棉花(株)社員、日本棉花同業会理事長となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において愛媛2区から憲政会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1939年に死去した。
船田 一雄(ふなだ かずお、1877年12月7日 - 195… 船田 一雄(ふなだ かずお、1877年12月7日 - 1950年4月18日)は大正、昭和期の日本の実業家。三菱合資会社理事長を務めた。 愛媛県上浮穴郡東明神(明神村→久万町を経て、現・久万高原町)出身。久万高等小学校卒業翌年の1892年(明治24年)、試験により愛媛県尋常中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)2年に編入学する。中学5年の1895年(明治28年)に夏目漱石が教員として赴任し、船田も漱石に食事などのもてなしを受けたという。 1896年(明治29年)、愛媛県尋常中学校卒業とともに第五高等学校文科に進学。1899年(明治32年)に第五高等学校を卒業して東京帝国大学法科大学独法科に進んだ。在学中に父が病死し、7年を要して1906年(明治39年)に卒業した。
深見 寅之助(ふかみ とらのすけ、1877年〈明治10年〉1… 深見 寅之助(ふかみ とらのすけ、1877年〈明治10年〉11月2日 - 1928年〈昭和3年〉3月6日)は、日本の政治家。東伯方村長、愛媛県会議員、同議長。衆議院議員。 総理府局長を務めた深見吉之助は長男。 愛媛県越智郡木浦村(伯方町を経て現今治市)、伯方島で江戸自体以前より製塩業を営む家に生まれる。幼くして今治の漢学者・菅周庵に師事し、9歳にして宇和島藩藩主伊達宗紀の前で複数回にわたって書を披露した記録が残る。今治市伯方町の三島神社には9歳の書「敬神愛国」の四字額が今も神前に掲げられている。 愛媛で初めてガスが灯された1912年(明治45年)から遅れること2年、1913年(大正2年)東予を営業区域とする今治瓦斯(後の四国ガス)を設立し、愛媛の近代化に貢献した。
近藤 豊吉(こんどう とよきち、1877年(明治10年)9月… 近藤 豊吉(こんどう とよきち、1877年(明治10年)9月1日 - 1930年(昭和5年)4月15日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 愛媛県桑村郡、後の周桑郡吉岡村(現西条市)で農家・近藤保太郎、フサ夫妻の三男として生まれる。父の事業の失敗で家産が傾き、家族総出で行商などを営む。1897年11月、歩兵第22連隊に入隊し、1898年10月、台湾守備隊に編入され渡台。1900年に除隊となるが、内野辰次郎中隊長の勧めで憲兵隊に志願するも馬術訓練中の事故で骨折し、その後の経過が思わしくないため、同年11月に後備役免除となった。 その後、北海道空知郡滝川村江部乙に移住していた兄・桝太郎の勧めで、1901年、母、妹と共に江部乙に移転。
尾崎 敬義(おざき ひろよし、1877年(明治10年)7月2… 尾崎 敬義(おざき ひろよし、1877年(明治10年)7月2日 ‐ 1965年(昭和40年)9月19日) は、日本の実業家・政治家。衆議院議員。 愛媛県温泉郡松山(現松山市)で愛媛県士族・尾崎敬正の長男として生まれた。年少のころは文学者を志していた。愛媛県尋常中学校(のち松山中学校、現愛媛県立松山東高等学校)を経て、1902年(明治35年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。さらに同大学院で経済学、財政学を研究した。官界を志望していたが実業界に転じた。 三井銀行に入行し、調査課長、部長を歴任。中国興業(中日実業)公司設立の際に三井銀行から出向して専務取締役に就任。その他、浦口土地組合代表、中国綿業取締役、中日銀行取締役、東洋拓殖理事、朝鮮鉄道監事を務めた。
佐伯 矩(さいき ただす、さえき ただす、1876年〈明治9… 佐伯 矩(さいき ただす、さえき ただす、1876年〈明治9年〉9月1日 - 1959年〈昭和34年〉11月29日)は、日本の栄養学者、医師。医学博士。「栄養学の創始者」、「栄養学の父」と称される。世界に先駆けて医学から栄養学を独立させ、栄養研究所、栄養士制度を発展させた。 栄養は保健・経済・道徳の基本をなすと「栄養三輪」を唱えた。著書『栄養』では、栄養学だけでなく食糧政策にも言及し、魚類を重んじ畜産は小動物にすべきとしている。自分で料理をすることはほとんどなかった。 佐伯が少年時代に育った愛媛県郡中町(現・伊予市)の栄養寺には、佐伯の筆による「栄養」の書と「栄養」顕彰碑が建立されている。 1876年9月1日、愛媛県新居郡氷見村(現・西条市)の医師の家に生まれる。
加茂 正雄(かも まさお、1876年(明治9年)8月15日 … 加茂 正雄(かも まさお、1876年(明治9年)8月15日 - 1960年(昭和35年)8月29日)は日本の工学者。東京帝国大学名誉教授。1929年東京での万国工業会議組織委員長、日本機械学会会長などの要職を歴任、国際的にも知られた。 1876年(明治9年)8月15日、愛媛県松山市榎町に愛媛県士族の加茂寬正の三男として生まれる。幼少の頃より器物玩具の製作に才を発揮し、伊予尋常中学校、第三高等中学校、第二高等学校 (旧制)を経て、1895年に東京帝国大学機械工学科に入学、1896年、1897年は特待生に選出され、在学中より逓信省官船局船舶検査と造船工事の監督補助に携わる。1898年(明治31年)に同校を卒業し、大学院で船用機関学を研究し、東京帝国大学工科大学助教授に就任。
杉浦 非水(すぎうら ひすい、1876年〈明治9年〉5月15… 杉浦 非水(すぎうら ひすい、1876年〈明治9年〉5月15日 - 1965年〈昭和40年〉8月18日)は、近代日本のグラフィックデザイナー。本名は杉浦朝武(すぎうら つとむ)。日本のグラフィックデザインの黎明期より活動し、商業美術の先駆けであり現代日本のグラフィックデザインの礎を築いた人物の一人として重要である。 1876年愛媛県松山市で、白石朝忠の長男として生まれる。のち杉浦祐明の養子になる。 当初は日本画家を志し、四条派の画家松浦巖暉に師事。1897年の上京後は川端玉章に師事し、東京美術学校日本画選科に入学。 この東京美術学校在学中に洋画家の黒田清輝より洋画や欧風図案の指導を受け、図案家へ転向する。
押川 春浪(おしかわ しゅんろう、1876年3月21日 - … 押川 春浪(おしかわ しゅんろう、1876年3月21日 - 1914年11月16日)は、日本の作家(冒険小説、SF、武侠小説)、編集者。愛媛県松山市出身、本名は方存(まさあり)。冒険小説のジャンルを定着させ、雑誌『冒険世界』『武侠世界』で主筆を務めて多くの後進の作家、画家育成に尽力した。 松山市生まれ。父は牧師でNHK朝の連続テレビ小説『はね駒』の主人公の恩師・松浪毅のモデルとなった押川方義。弟押川清は日本のプロ野球創始者として知られる。 生後8か月で、新潟で伝道を行っていた父に母とともに呼び寄せられる。1878年(明治11年)、1879年(明治12年)と続いた新潟大火のため、方義は伝道地を仙台に移し、同行。
寒川 鼠骨(さむかわ そこつ、1875年(明治8年)11月3… 寒川 鼠骨(さむかわ そこつ、1875年(明治8年)11月3日 - 1954年(昭和29年)8月18日)は、正岡子規門下の俳人。病床の子規に侍り、遺族を見守り、遺墨・遺構の保存に尽くした。 元伊予松山藩士寒川朝陽(ともあき)と八重(旧姓水野)との三男として、現・松山市三番町に生まれた。本名陽光(あきみつ)。号の鼠骨は粗忽に通じるという。1888年、番町小学校から県立松山中学校に入った。1893年(明治26年)(18歳)、三高の前身京都第三高等中学校へ進み、河東碧梧桐・高浜虚子と同じ下宿に住んだ。碧梧桐が二つ、虚子が一つ年上である。3人して郷土松山の先輩正岡子規を敬い慕い、日本新聞の俳句欄へ投稿し、選者の子規の選を受けた。
竹村 秋竹(たけむら しゅうちく、1875年9月 - 191… 竹村 秋竹(たけむら しゅうちく、1875年9月 - 1915年12月27日 )は、日本の俳人。本名:竹村 修。別名:修竹。 愛媛県松山市生まれ。明治27年(1894年)旧制三高入学、制度変更のため翌年四高に転入、同33年東京帝国大学英文科卒。島根県杵築中学、新潟県長岡中学、福井県小浜中学に勤め、小浜中学在任中に没。 俳句は早くより正岡子規に学ぶ。四高在学中『北辰会雑誌』『北國新聞』に俳句、俳論を発表。特に新聞紙上で客観写生俳句の主張と月並俳句攻撃の論陣をはり、旧派中条屋居石と論戦をかわす。 明治29年5月より北國新聞俳壇選を担当。同30年4月『北声会』を結成、北陸俳壇に大きな影響を与えた。 明治34年、子規の選句を無断で収録した『明治俳句』を発行。
田宮 嘉右衛門(たみや かえもん、1875年8月29日 - … 田宮 嘉右衛門(たみや かえもん、1875年8月29日 - 1959年4月13日)は、日本の実業家。初代神戸製鋼所支配人、第5代神戸製鋼所社長。 愛媛県新居郡立川山村(現:新居浜市)出身。1890年、別子山村の小足谷尋常高等小学校卒業。1904年、鈴木商店入社。1905年、神戸製鋼所支配人となり、1911年、神戸製鋼所が鈴木商店から分離独立して株式会社となると、常務取締役に就任。1928年に専務取締役、1934年に取締役社長となり、1945年に社長を退いて相談役となった。戦後の1947年に公職追放指定を受けたが、1951年の解除後は再び相談役に就任した。また、播磨造船所社長、神戸銀行取締役などを歴任し、経済同友会名誉会員、神戸商工会議所顧問などもつとめた。
高橋 龍太郎(たかはし りゅうたろう、1875年(明治8年)… 高橋 龍太郎(たかはし りゅうたろう、1875年(明治8年)7月15日 - 1967年(昭和42年)12月22日)は、昭和期の実業家、政治家。参議院議員(1期)、大日本麦酒社長、高橋ユニオンズオーナー、日本サッカー協会会長(第3代)。 ビール製造技術者から経営者となり、「日本のビール王」とも称される。 愛媛県喜多郡内子村(現内子町)生まれ。旧制松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)卒業後、東京高等商業学校(現一橋大学)に進学するも、脚気の治療のための転地を兼ねて新設された第三高等学校(現京都大学)工学部機械工学科に転校、1898年に卒業する。 高等学校卒業後、大阪麦酒(後の大日本麦酒、現・アサヒグループホールディングスおよびサッポロホールディングス)に入り、1898年から6年間ドイツに留学して醸造技術を学び、帰国後は製造責任者としてビール造りに携わる。
景浦 直孝(かげうら なおたか、1875年(明治8年)7月1… 景浦 直孝(かげうら なおたか、1875年(明治8年)7月12日 - 1962年(昭和37年)8月19日)は、明治時代から昭和中期にかけての愛媛県の郷土史家。号は景浦稚桃。 愛媛県松山城下北夷子町72番戸(現松山市三番町2丁目1-3)に、士族景浦充孝の子として生まれる。1894年(明治27年)愛媛県立伊予尋常中学校(後の旧制松山中学校)を卒業。湯殿高等小学校訓導を経て、1901年(明治34年)に松山高等女学校(現松山南高校)の教諭となり、1926年(大正15年)の退職、1926年(大正15年)から1938年(昭和13年)までは北予中学校(現松山北高校)の教諭となる。 1910年(明治43年)愛媛県の公刊事業で、『愛媛県誌稿』の編纂が始まり、景浦は委員に委嘱される。
水野 広徳(みずの ひろのり、旧字体: 水野 廣德、明治8年… 水野 広徳(みずの ひろのり、旧字体: 水野 廣德、明治8年(1875年)5月24日 - 昭和20年(1945年)10月18日)は、日本海軍の軍人・軍事評論家。最終階級は海軍大佐。父は旧松山藩能方の水野光之で末子。
皆川 治廣(みながわ はるひろ、1875年(明治8年)3月7… 皆川 治廣(みながわ はるひろ、1875年(明治8年)3月7日 - 1958年(昭和33年)3月7日)は、司法官僚、検事、判事。 愛媛県松山市出身。旧制第一高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補として大阪地方裁判所に勤務した。翌年、日露戦争が勃発すると第四軍司令部附国際法顧問として従軍した。 1906年(明治39年)、大阪地方裁判所予備検事となり、小倉区裁判所検事、東京地方裁判所検事を歴任した。1910年(明治43年)、ブリュッセルで開催された万国刑法会議に出席した後、フランス・ドイツ・スイスに留学した。1913年(大正2年)に帰国後、司法書記官・大臣官房職員課長に任命され、法律取調委員会幹事も務めた。
和田 重次郎(わだ じゅうじろう、1875年(明治8年)1月… 和田 重次郎(わだ じゅうじろう、1875年(明治8年)1月6日 - 1937年(昭和12年)3月5日)は、北アメリカ、アラスカ、カナダで著名なマッシャー(犬ぞり使い)。金鉱発掘やトレイル開拓、遭難船救助など行う。アラスカで行われる屋内マラソンランナーとしても三度の優勝を飾る。
堀 英四郎(ほり えいしろう、1874年11月24日 - 1… 堀 英四郎(ほり えいしろう、1874年11月24日 - 1963年7月6日)は、日本の英語学者。 愛媛県今治市出身。1884年徳冨蘆花の英語塾に学び、1888年上京、東京英語学校入学、1894年東京専門学校(早稲田大学)英文科卒、ここで坪内逍遙の講義を受け、神田の国民英学会で英語を教えた。1894年東京府立城北中学校、1897年岡山県立第一中学校に勤め、1902年江田島海軍兵学校教授。1916年-1945年慶応義塾大学教授。この間1932年-1941年NHK英語講座担当。1949年-1954年戸板女子短期大学英文科長。
留岡 菊子(とめおか きくこ、旧姓:寺尾(てらお)、1874… 留岡 菊子(とめおか きくこ、旧姓:寺尾(てらお)、1874年(明治7年)10月4日 - 1933年(昭和8年)4月19日)は留岡幸助の妻。社会福祉活動家。愛媛県喜多郡内子町出身[信頼性要検証]。 愛媛県喜多郡天神村(現在の内子町)に寺尾家の長女として誕生した。その後、設立したばかりの岡山県上房郡高梁町(現在の高梁市)にあった順正女学校(現在の岡山県立高梁高等学校)に学び、東京に出て巣鴨家庭学校の保母となる。1901年(明治34年)6月1日に留岡幸助と結婚した。菊子が26歳のときだった。 結婚した年の10月に菊子は慈善事業師範学校を開設して従事者の養成をはかるなど事業を拡大し、1906年7月には財団法人なった。
川崎 九淵(かわさき きゅうえん、1874年7月11日 - … 川崎 九淵(かわさき きゅうえん、1874年7月11日 - 1961年1月24日)は能楽大鼓の名手。葛野流宗家代理・宗家預りを歴任し、能楽界初の人間国宝となった。また、理論面においても地拍子の法則性を発見するなどの功績を残した。本名・旧名利吉。 1874年7月11日、愛媛県温泉郡魚町(現在の松山市本町近辺)に生れる。幼時より当地で盛んだった喜多流の能を稽古し、松山東雲神社の奉納能において神童との評判を取る。後、師高橋節之助の勧めにより葛野流大鼓を東正親に師事。この方面でもすぐに才能を示し、1892年に来松した石井流宗家石井一斎によって後継者に乞われるほどであったという。 1899年、小学校の同級生であった高浜虚子の兄池内信嘉の勧めにしたがって上京、葛野流預りの津村又喜に師事した。
高浜 虚子(たかはま きょし、旧字体: 高濱 虛子、1874… 高浜 虚子(たかはま きょし、旧字体: 高濱 虛子、1874年〈明治7年〉2月22日 - 1959年〈昭和34年〉4月8日)は、明治・大正・昭和の日本の俳人・小説家。本名は高浜 清(たかはま きよし、旧字体: 高濱 淸)。旧姓は池内。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 『ホトトギス』の理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱したことでも知られる。 愛媛県温泉郡長町新町(現:松山市湊町)に旧松山藩士・池内 政忠(いけのうち まさただ)の五男として生まれた。9歳の時に祖母の実家の高浜家を継ぐ。この時、清に次男を得られたら池内家に戻す約束があり、次男の友次郎には約束通り、池内姓を継がせた。兄の池内信嘉は能楽研究家である。
山下 宅治(やました たくじ、1874年 - 1959年)は… 山下 宅治(やました たくじ、1874年 - 1959年)は、愛媛県八幡浜生まれの公民権運動家。さまざまな社会的・法的障壁のあった時代に、在米アジア人にとっての三大障壁すなわち市民権取得、職業参入、土地所有における障壁に自ら立ち向かった。 1893年、宇和島明倫館を1年で修了し渡米。残されている写真などによると、タコマ高校を2年で卒業後、ワシントン大学法学部に第2期生として入学。1902年に同大学を卒業し法学士号を取得、抜群の成績でワシントン州の司法試験に合格する。1906年にアメリカ市民権を取得。 山下の弁護士開業申請に対しワシントン州最高裁は「帰化関連法に照らして、日本出生者には市民権認定の資格があるか疑わしい」とする命令を出した。
勝田 銀次郎(かつた ぎんじろう、1873年(明治6年)10… 勝田 銀次郎(かつた ぎんじろう、1873年(明治6年)10月1日 - 1952年(昭和27年)4月24日)は、日本の政治家、実業家。勝田商会創業者。山下亀三郎、内田信也と並ぶ「三大船成金」の一人。神戸市会議員、衆議院議員、貴族院議員、第8代神戸市長(在任:1933年12月21日 - 1941年12月20日)。準戦時体制下の神戸市政を担い「鉄腕市長」と呼ばれた。愛媛県出身。 1873年(明治6年)10月、愛媛県松山で米穀商の長男として生まれる。中学校(松山中学校)卒業前に父親を亡くした勝田は19歳の時に北海道へ移住し一旗揚げようとするが、その道中で出会った東京英和学校(青山学院の前身)校長の本多庸一に学問とりわけ外国語を身に着けることの大切さを説かれ、同校予備学部に入学した。
河東 碧梧桐(かわひがし へきごとう、1873年(明治6年)… 河東 碧梧桐(かわひがし へきごとう、1873年(明治6年)2月26日 - 1937年(昭和12年)2月1日)は、日本の俳人・随筆家。本名は秉五郎(へいごろう)。 正岡子規の高弟として高浜虚子と並び称され、俳句革新運動の代表的人物として知られる。 伊予・松山藩士の五男として生まれる。父は正岡子規の漢学の師。高浜虚子とは中学時に同級であり、後に子規の門下生となるまで、行動をともにした仲の良い友人であった。 子規没後、虚子は「ホトトギス」の経営を、碧梧桐は新聞「日本」の俳句欄を担当。やがて新傾向運動を展開し、季題趣味と定型を打ち破った自由なリズムによる俳句を推進した。1906年から3年間の全国行脚で多くの賛同者を得たが、大正期に至って、虚子が俳壇に復帰し、守旧派の立場から激しい攻撃を浴びせた。
樋口 虎若(ひぐち とらわか、明治5年11月10日(1872… 樋口 虎若(ひぐち とらわか、明治5年11月10日(1872年12月10日) – 1958年(昭和33年)6月4日)は、日本の医師。愛媛県宇和島市長。 愛媛県北宇和郡吉田町(現在の宇和島市)に吉田藩士の子として生まれた。1894年(明治27年)、第三高等中学校医学部を卒業し、翌年に陸軍三等軍医となった。一等軍医に昇進するが、辞して1900年(明治33年)に宇和島に耳鼻咽喉科医院を開業した。また宇和島市会議員、北宇和郡会議員、同副議長などを歴任した。 1938年(昭和13年)に宇和島市長に就任したが、翌年5月政党の対立抗争を嫌って退任した。
城 ノブ(じょう ノブ、1872年11月18日(明治5年10… 城 ノブ(じょう ノブ、1872年11月18日(明治5年10月18日)- 1959年(昭和34年)12月20日)は、日本のキリスト教徒、社会事業家である。愛称は「愛媛のマザー・テレサ」。 愛媛県温泉郡川上村(現在の東温市)にてフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの弟子であった城謙三の次女として生まれる。松山女学校(現在の松山東雲中学校・高等学校)に入学し、在学中は漢学塾でも学ぶ。1890年(明治23年)に卒業後は宣教師だったデュークス(Oscar A. Dukes)から洗礼を受けキリスト教徒となるが、父から勘当された事により独立した。1893年(明治26年)には横浜に居住し聖経女学校神学部(のち青山学院神学部女子部等を経て現在は東京神学大学)に入学し、卒業後は弘前に移住し来徳女学校(現在の弘前学院大学)にて教鞭を執り養老院勤務の傍らキリスト教の伝道活動にも携わる。
櫻井 鴎村(さくらい おうそん、1872年7月31日(明治5… 櫻井 鴎村(さくらい おうそん、1872年7月31日(明治5年6月26日) - 1929年(昭和4年)2月27日)は、日本の翻訳家、児童文学者、教育者、実業家である。本名は彦一郎(ひこいちろう)。日本で新渡戸稲造の『武士道』を出版したことで知られる。津田梅子とともに女子英学塾(今の津田塾大学)を設立して幹事となる。北樺太石油(英: Northern Karafuto Oil Consession)の取締役を務める。日本陸軍軍人の櫻井忠温は弟である。
松木 幹一郎(まつき かんいちろう、1872年3月10日(明… 松木 幹一郎(まつき かんいちろう、1872年3月10日(明治5年2月2日) - 1939年(昭和14年)6月14日)は、明治から昭和初期にかけて活動した官僚、実業家。台湾電力社長。族籍は愛媛県平民。動物学者の青木淳一は孫。 愛媛県周桑郡楠河村大字河原津(現在の愛媛県西条市河原津)出身。松木操平の長男。松木家は予州の豪族河野通有の後裔である。旧制愛媛一中、旧制三高を経て1896年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。法学士の称号を得る。 逓信省書記官、広島郵便局長、帝国鉄道庁参事、鉄道院理事、東京市参与同電気局長を歴任。1918年、山下合名会社総理事となり、山下汽船、福島炭鉱各会社代表取締役、山下鉱業、浦賀船渠会社取締役に挙げられた。
村上 春太郎(むらかみ はるたろう、明治5年(1872年)1… 村上 春太郎(むらかみ はるたろう、明治5年(1872年)1月2日 - 昭和22年(1947年)6月10日)は、日本の天文学者、物理学者。 愛媛県越智郡東伯方村大字有津の庄屋、村上重吉の長男として生まれる。独学で数学、物理学、化学の高等教員資格検定を合格、教授免状を取得する。 同志社理科学校で教え、明治36年(1903年)9月に第七高等学校造士館に赴任し、物理学教授として教鞭を振るう傍ら、赤道儀を設置した望遠鏡を備えた天文台を建設。啓蒙書「天文学一夕話(島津源蔵、明治35年)」、「天文と地象(恒星社厚生閣、1944、1949)」および旧制高校の教科書「物理学原論」を著した。
植岡 寛雄(うえおか ひろお、明治4年6月23日(1871年… 植岡 寛雄(うえおか ひろお、明治4年6月23日(1871年8月9日) - 1927年(昭和2年)2月16日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等は正五位勲三等。 愛媛県出身。旧士族。1893年(明治26年)7月に陸軍士官学校(4期)卒業。翌年3月、歩兵少尉に任官し、5月には兵科を輜重兵に転科。 日露戦争には第10師団隷下の輜重第10大隊中隊長として出征。同師団は遼陽会戦・沙河会戦・奉天会戦に参加。戦中の1904年(明治37年)11月、少佐に昇進。 1909年(明治42年)11月に輜重第11大隊長。翌年11月に中佐に進級。 1914年(大正3年)8月に輜重第7大隊長となり、1916年(大正5年)5月、陸軍輜重兵大佐に任官。
八木 春樹(やぎ はるき、1871年8月6日(明治4年6月2… 八木 春樹(やぎ はるき、1871年8月6日(明治4年6月20日) - 1943年(昭和18年)1月25日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・長野。 伊予国越智郡今治町(現愛媛県今治市)で、長野謙吉の弟として生まれる。1892年(明治25年)12月、素封家、酒造業・八木守三郎の養子となり、1911年(明治44年)2月に家督を相続した。 1904年(明治37年)以降、愛媛県越智郡酒造組合長、四国酒造連合会評議員、愛媛県酒造組合連合会会長、同県商工団体連合会副会長、今治商業銀行取締役、伊予相互貯蓄銀行取締役、今治清酒取締役、愛媛水力電気監査役、伊予鉄道電気監査役などを務めた。
西村 清雄(にしむら すがお、明治4年2月13日(1871年… 西村 清雄(にしむら すがお、明治4年2月13日(1871年4月2日) - 昭和39年(1964年)12月25日)は日本の教育者。日本人の創作賛美歌の有名な古典「山路こえて」を作詞したクリスチャン。松山名誉市民第3号。 祖父は幕末の松山を代表する歌人西村清臣。叔父は道後村村長で道後温泉本館を建てた伊佐庭如矢。 1871年(明治4年)、愛媛県松山市北京町に伊予松山藩士の長男として生まれる。1885年(明治18年)、愛媛県第一中学校(後の松山中学校、現愛媛県立松山東高等学校)へ入学するが、翌年、廃校。この頃、カトリック教会の洗礼を受けた。 1888年(明治21年)、大阪で英語を学び、大阪基督教会で宮川経輝の教えを受けプロテスタントの信仰を持つ。
五百木 良三(いおき りょうぞう、明治3年12月14日(18… 五百木 良三(いおき りょうぞう、明治3年12月14日(1871年2月3日) - 昭和12年(1937年)6月14日)は、日本の国粋主義者。俳号は飄亭。 伊予国温泉郡小坂村新場所(現・愛媛県松山市日の出町)の生まれ。明治18年(1885年)松山県立医学校に入学した。明治20年(1887年)大阪に出て、今橋の町医者のもとに寄寓し、医務手伝いのかたわら勉学にはげみ、19歳で医術開業の免許を得たが、その志は「病を癒さんより国を癒すの医」たらんとするものであった。 明治22年(1889年)上京して、旧藩主久松家の設立になる東京学生寮でドイツ語の研究に専心し、正岡子規と文学を論じ、子規から俳句の指導をうけた。
政尾 藤吉(まさお とうきち、明治3年11月17日(1871… 政尾 藤吉(まさお とうきち、明治3年11月17日(1871年1月7日) – 大正10年(1921年)8月11日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、駐シャム(タイ)公使。法学博士。
大久保 雅彦(おおくぼ まさひこ、1870年8月2日(明治3… 大久保 雅彦(おおくぼ まさひこ、1870年8月2日(明治3年7月6日)- 1922年(大正11年)6月6日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 伊予国越智郡蔵敷村(現在の愛媛県今治市)出身。1886年(明治19年)、松山中学校を卒業。英吉利法律学校(東京法学院、現在の中央大学)で英語法学を学び、1889年(明治22年)に首席で卒業。その後も穂積陳重のもとで学んだ。1892年(明治25年)に弁護士試験に合格し、松山市に事務所を開いた。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 三・一運動の際には、花井卓蔵・木尾虎之助らとともに、騒擾罪に問われた孫秉煕ら指導者の弁護にあたった。
曽根 松太郎(そね まつたろう、明治2年10月20日(186… 曽根 松太郎(そね まつたろう、明治2年10月20日(1869年11月23日) - 昭和20年(1945年))は、日本の教育者。文化書房主。号は金僊。 伊予国宇和郡吉田(現在の愛媛県宇和島市)出身。小学校訓導、松山中学校教諭、郡視学を歴任。1901年(明治34年)、金港堂に入り、雑誌「教育界」編集主任となった。1911年(明治44年)に独立して明治教育社を設立するが、やがて廃業した。1919年(大正8年)より南北社で編集長となるが、1922年(大正11年)に文化書房を興して再び独立した。 その他、東洋美術協会理事、中央教育品協会理事、愛媛県同交会長、帝国教育会評議員・出版部長、同理事を務めた。
勝田 主計(しょうだ かずえ、1869年10月19日〈明治2… 勝田 主計(しょうだ かずえ、1869年10月19日〈明治2年9月15日〉- 1948年〈昭和23年〉10月10日)は、日本の大蔵官僚、政治家。理財局長、大蔵次官、蔵相、文相、内閣参議を歴任。同郷の俳人・正岡子規や海軍軍人・秋山真之の友人だった。勝田宰州、勝田明庵は俳号。 1869年(明治2年)、伊予国松山一番町(現在の愛媛県松山市)に生まれた。松山藩士・勝田久廉の五男。 勝山学校、伊予尋常中学、一高を経て、1895年(明治28年)に東京帝国大学法科大学を卒業、大蔵省に入省。主税局属。1901年(明治34年)6月の函館税務管理局長兼税関長時代に関税法などの調査のために2年間ヨーロッパに派遣される。
山路 一善(やまじ かずよし、明治2年3月13日(1869年… 山路 一善(やまじ かずよし、明治2年3月13日(1869年4月24日)- 1963年(昭和38年)3月13日)は、明治から大正の大日本帝国海軍の海軍中将。兄に愛媛県師範学校長の山路一遊と、日本興業銀行副総裁の佃一予。夫人「すえ」は山本権兵衛の次女(財部彪夫人の実妹)。日本海軍での航空兵力の導入、整備に尽力し、「海軍航空の生みの親」と呼ばれる。