田村 實(たむら みのる、1889年(明治22年)2月28日… 田村 實(たむら みのる、1889年(明治22年)2月28日 - 1941年(昭和16年)9月1日)は、大正から昭和前期の農業経営者、政治家。衆議院議員。 高知県長岡郡、のちの新改村(香美郡土佐山田町を経て現香美市)で、田村勇吉の長男として生まれる。1907年(明治40年)高知県立農林学校(現高知県立高知農業高等学校)を卒業した。 1916年(大正5年)土陽新聞社(現高知新聞)の東京支局記者に就任。1919年(大正8年)高知市会議員に選出され3期在任。その後、高知県会議員も務めた。その他、地方森林会議員、高知県水産会長、高知県織物同業組合長などを務めた。 1932年(昭和7年)2月の第18回衆議院議員総選挙で高知県第1区から立憲政友会所属で出馬して当選。
土州山 役太郎(どしゅうざん やくたろう、1888年10月5… 土州山 役太郎(どしゅうざん やくたろう、1888年10月5日 - 1960年3月26日)は、高知県香美郡赤岡町(現在の香南市)出身で友綱部屋に所属した大相撲力士。本名は永森 役太郎(ながもり やくたろう、旧姓は岡本)。身長164cm、体重94kg。得意手は左四つ、寄り、掬い投げ、波離間投げ。最高位は前頭筆頭。 1907年(明治40年)1月場所に幕下付出で初土俵を踏むと、1908年(明治41年)5月場所に新十両、1910年(明治43年)1月場所に新入幕した。黒髪豊か、大銀杏が似合う好男子で、二字口(徳俵)いっぱいまで下がって仕切り、相手の懐に飛び込んで攻め立てる取り口だった。また技を多く持ち、奇手で相手を苦しめた。
関田 繁里(せきた しげさと、旧姓:井上(いのうえ)、188… 関田 繁里(せきた しげさと、旧姓:井上(いのうえ)、1888年 (明治21年)9月28日 - 1937年(昭和12年)5月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。位階は正五位。勲等は勲三等。 高知県長岡郡稲生村(現南国市)において井上虎吉と益の三男として生まれる。高知県立中学海南学校を経て、1910年7月、海軍兵学校(38期)を卒業。卒業席次は149名中78番。少尉候補生として練習艦隊の浅間乗組、香取乗組を経て、1911年12月、海軍少尉に任官。1913年11月、海軍中尉に任官。1914年5月、海軍砲術学校普通科を卒業、同年12月、海軍水雷学校普通科を卒業。曙乗組、鞍馬乗組、扶桑乗組、扶桑分隊長心得を経て、1917年12月、海軍大尉に任官。
石本 貞直(いしもと さだなお、1888年(明治21年)2月… 石本 貞直(いしもと さだなお、1888年(明治21年)2月18日 - 1965年(昭和40年)8月30日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級 高知県土佐郡神田村(鴨田村大字神田を経て現高知市)で、石本正直、菊枝の長男として生まれた。陸軍士官学校第22期卒業。1937年(昭和12年)8月に陸軍歩兵大佐に進級し、9月に歩兵第1連隊留守隊長に就任した。1938年(昭和13年)に台湾歩兵第1連隊長を経て、1939年(昭和14年)8月に陸軍少将に進級し、留守第11師団司令部附となった。 同年10月に第40歩兵団長に転じ、日中戦争に出動。宜昌作戦に参加した。1940年(昭和15年)に第4歩兵団長に転じ、1941年(昭和16年)に第62独立歩兵団長を経て、1943年(昭和18年)に釜山要塞司令官兼釜山陸軍軍需輸送統制部長に就任した。
松永 寿雄(まつなが ひさお/としお、1888年1月15日 … 松永 寿雄(まつなが ひさお/としお、1888年1月15日 - 1955年12月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 1888年(明治21年)、香美郡山田村(現在の香美市)に生まれた。海南中学校を経て、1909年(明治42年)11月、海軍兵学校(37期)を卒業し、1910年(明治43年)12月、海軍少尉任官。1921年(大正10年)11月、海軍大学校(甲種19期)を卒業。 1921年12月、海軍少佐に昇進し横須賀海軍航空隊附兼臨時航空術講習部部員に就任。1922年(大正11年)11月、霞ヶ浦海軍航空隊教官となり、横須賀鎮守府参謀、軍令部出仕兼海軍省出仕、軍務局局員(一課)などを歴任。
島本 正一(しまもと まさいち、1887年(明治20年)11… 島本 正一(しまもと まさいち、1887年(明治20年)11月16日 - 1967年(昭和42年)4月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県土佐郡初月村(現・高知市)出身。島本宗次郎・志賀の息子として生まれる。海南中学校(現高知県立高知小津高等学校)、広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第49連隊付となる。1918年(大正7年)11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。 1919年(大正8年)7月、参謀本部付勤務となり、同年10月、浦塩派遣軍司令部付に発令されシベリア出兵に出征。同年11月から12月までイルクーツク特務機関に勤務。
福森 白洋(ふくもり はくよう、本名:憲一、1887年10月… 福森 白洋(ふくもり はくよう、本名:憲一、1887年10月20日 - 1942年3月3日)は、日本の写真家。芸術写真系統を代表する人物のひとり。 高知県香美郡赤岡町に生まれる。高知商業学校卒業(1904年)。 英語を生かして、大阪商船、米井商店、中島商会などで、それぞれ貿易に携わった。 1910年代後半に写真を始め、1921年に、浪華写真倶楽部に入会。1922年には、米谷紅浪らとともに、天弓会を結成。浪華写真倶楽部にとって、昭和戦前期における代表的な会員であり、小林鳴村など後進を多く育てた。 作品としては、ブロムオイル印画法による芸術写真が主ではあり(中でも特に風景写真)、ブロムオイル印画の名手とも言われた。
下村 定(しもむら さだむ、1887年(明治20年)9月23… 下村 定(しもむら さだむ、1887年(明治20年)9月23日 - 1968年(昭和43年)3月25日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍大将。位階勲等功級は正三位勲一等功三級。 陸軍大臣(第56・57代)、教育総監(第27代)、参議院議員(1期)などを歴任した。 本籍地は高知県。旧土佐藩士で、陸軍中佐・金沢聯隊区司令官の下村定辞の長男として石川県金沢市に生まれる。 金沢第一中学校、名古屋陸軍幼年学校を経て、1908年(明治41年)12月、陸軍士官学校第20期を皇族を除いた6番/273名の成績で卒業する。砲兵科では、橋本群(陸軍省軍務局軍事課長、参謀本部第1部長を歴任、のち中将)に次いで2番の成績であった。
宮川 竹馬(みやがわ たけま、1887年4月18日 - 19… 宮川 竹馬(みやがわ たけま、1887年4月18日 - 1964年8月27日)は、昭和時代に活動した日本の実業家。高知県幡多郡入野村早咲(現・幡多郡黒潮町)出身。 旧制中村中学校(現・高知県立中村高等学校)を経て、東京高等工業学校(現・東京工業大学)電気科電気機械分科を1912年(明治45年)に卒業後、九州電灯鉄道(後の東邦電力)に入社。以後電力業界を歩み、1951年電気事業再編成により発足した四国電力株式会社の初代社長となる。また、その再編成案を松永安左エ門と協力してつくったことでも知られる。孫の坂間英気は、電力業界を経て、現在はサイバーセキュリティ企業の株式会社 AppGuardに勤務する。
沢田 茂(さわだ しげる、1887年(明治20年)3月29日… 沢田 茂(さわだ しげる、1887年(明治20年)3月29日 - 1980年(昭和55年)12月1日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県高知郡鴨部村(現・高知市鴨部町)出身。農業・沢田栄之助の三男として生まれる。兄弟四人のうち、長男を除く三兄弟が陸軍将校となった。1899年(明治32年)4月に高知県立海南中学校に入校。同期は山下奉文で、永らく交友を結んだ。広島陸軍地方幼年学校を経て、1905年(明治38年)11月15日、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月26日、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第16連隊付となる。野戦砲兵第22連隊付などを経て、1910年(明治43年)11月26日、陸軍砲工学校高等科を卒業。
白石 喜太郎(しらいし きたろう、1887年(明治20年)1… 白石 喜太郎(しらいし きたろう、1887年(明治20年)1月7日 - 1945年(昭和20年)7月28日)は、高知県出身の日本の実業家、計理士、渋沢栄一、敬三に仕え、渋沢同族株式会社の専務取締役になどを歴任した。 1887年(明治20年)、先代喜太郎と丑の長男として高知県安芸郡田野村(現・田野町)に生まれる。1896年(明治29年)先代喜太郎が病没、家督相続し又喜を改め襲名。1905年(明治38年)、高知県立中学海南学校を卒業後、官立東京高等商業学校(高等商業学校を改称、東京高商、現・一橋大学)に入学。渋沢事務所の八十島親徳に保証人を依頼。在学中は、休暇の前後に八十島を訪問し、種々教えを受ける。
青木 繁吉(あおき しげきち、1886年12月21日 - 1… 青木 繁吉(あおき しげきち、1886年12月21日 - 1971年4月21日)は日本の実業家。太陽石油の創業者。 明治19年12月21日高知県高岡郡高岡村(現土佐市)で生まれる。姉の嫁ぎ先に丁稚奉公をしたことがきっかけで商売の道に入り、明治41年に自身の名字を入れた「青木石油店」を高岡に開業。天秤棒を担ぎながら灯油を売り歩く日々を送る。しかし大正4年に経済の発展から将来性が見込めるとして、経営の拠点を愛媛県八幡浜に移し、石油製品の小売業へ転換。さらに独自の精製方法やオリジナルブランドを開発し、販路拡大を始める。大正9年に原油輸送の要であるタンカーを木製ながら自前で建造し、石油元売りに打って出る。
橋田 東聲(はしだ とうせい、1886年12月20日 - 1… 橋田 東聲(はしだ とうせい、1886年12月20日 - 1930年12月20日)は、日本の歌人・経済学者。号は東声とも書く。高知県出身。元妻は同じく歌人で、『平城山』の作詞者でもある北見志保子。 高知県中村市(現・四万十市)有岡の農家の二男として生まれる。本名・丑吾。宿毛小学校高等科時代に、一年上の川島朝野(後の北見志保子)と出会う。中村中学時代に短歌をはじめ、雑誌『青年』に投稿。第七高等学校在学中に『明星』の社友となり、与謝野鉄幹に東聲の号を授けられる。級友には中村憲吉、堀内卓造、森園天涙など。東京帝国大学英文科に進学するが、後に経済学科に転科して卒業。東京帝大進学後はいったん作歌から離れ、小説・新劇にも興味を持ち、森田草平と同居をしていた。
伊賀 氏広(いが うじひろ、1886年(明治19年)9月18… 伊賀 氏広(いが うじひろ、1886年(明治19年)9月18日 - 1966年(昭和41年)2月25日)は、日本の飛行機製作の先駆者、華族(男爵)。伊賀家の当主。南部信俊の父。妻は岩村通俊(男爵・旧家臣系)の娘の北子。子に伊賀氏英。 山内容堂の弟・山内豊盈の子として現在の高知県高知市に生まれる。宿毛(現・宿毛市)の旧領主だった伊賀家12代氏成(伊賀陽太郎)の養子になる。1895年(明治28年)宿毛尋常高等小学校(前身は伊賀家が設立した藩校)に転入学し、尋常科を卒業。引き続き高等科に進んだ。1897年(明治30年)6月、養父氏成の死去に伴い家督を相続する、高等科2年生在学中の1898年(明治31年)に東京市に移り住み、高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に転入した。
山脇 正隆(やまわき まさたか、1886年(明治19年)3月… 山脇 正隆(やまわき まさたか、1886年(明治19年)3月2日 - 1974年(昭和49年)4月21日)は、日本の陸軍軍人、陸軍大将従三位勲一等功三級。 高知県高岡郡甲原村(現:土佐市)に於いて士族で、北原村の村長を務めた山脇豊正の長男として生まれる。生家は山内家に代々仕えた土器(かわらけ)師の家系だった。 1900年広島陸軍地方幼年学校、1905年陸軍士官学校18期、1914年陸軍大学校(26期)卒業、首席により天皇より軍刀を下賜。1927年参謀本部編成班長。1929年参謀本部編成動員課長。1931年歩兵第22連隊長。1932年教育総監部第一課長。1934年3月ポーランド大使館付武官、同年8月陸軍少将に。
黒岩 義勝(くろいわ よしかつ、1886年(明治19年)2月… 黒岩 義勝(くろいわ よしかつ、1886年(明治19年)2月13日 - 1947年(昭和22年)8月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1886年(明治19年)2月、高知県香美郡山北村(現・香南市)に生まれた。1904年(明治37年)第一中学校卒を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉任官。 歩兵第78連隊(龍山)付などを経て、1932年(昭和7年)12月、歩兵大佐に昇進し福島連隊区司令官に就任。1934年(昭和9年)1月、歩兵第27連隊長(旭川)となり、陸軍士官学校予科生徒隊長を経て、1937年(昭和12年)8月、陸軍少将に進級し歩兵第22旅団長に就任、満州に赴任した。
林 亘(はやし わたる、1886年〈明治19年〉- 1950… 林 亘(はやし わたる、1886年〈明治19年〉- 1950年〈昭和25年〉)は、日本のクラリネット奏者、陸軍軍楽隊長。 高知県香美郡猪野々村(現・香美市)に生まれた。高等小学校3年の時、軍楽隊の試験に合格し、第四師団に配属された。英国に留学したのちに同師団の軍楽隊長に就任。 軍楽隊廃止後は大阪市音楽団の音楽長兼隊長として指揮をした。1950年(昭和25年)没。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。
岡本 利吉(おかもと りきち、1885年(明治18年)12月… 岡本 利吉(おかもと りきち、1885年(明治18年)12月25日 - 1963年(昭和38年)10月14日)は、日本の社会運動家、思想家でもあり、人工言語ボアーボム(Babm)の発明者としても知られる。思想家としては、岡本普意識(おかもと ふいしき)と名乗っていた。 高知市に生まれる。東京郵便電信学校を卒業したのち、逓信省・三菱倉庫に勤務した。その後、1919年(大正8年)に企業立憲協会を組織した。翌1920年(大正9年)には東京亀戸に消費者組合亀戸協働社を開設、関東消費組合に発展させた。1928年(昭和3年)富士山麓愛鷹山中腹に農村青年共働学校を開設して、開墾や自給自足の農本自治を理念とした、農村中堅青年の育成をめざした。
山下 奉文(やました ともゆき、1885年(明治18年)11… 山下 奉文(やました ともゆき、1885年(明治18年)11月8日 - 1946年(昭和21年)2月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将、位階勲等は従三位勲一等功三級。 高知県出身。陸士18期・陸大28期恩賜。太平洋戦争の劈頭、第25軍司令官としてイギリス領マレーとシンガポールを攻略した武功、「マレーの虎」の異名で知られる。 1885年(明治18年)11月8日、開業医である父・佐吉、豪農だった森田家の長女である母・由宇の次男として高知県香美郡暁霞村(現香美市)に生まれる。2歳の時、父親の故郷である長岡郡大杉村(現大豊町)に移る。兄・奉表は海軍の軍医となり最終階級は海軍軍医少将。弟・奉守、妹・照猪、妹・久寿猪の五人兄妹。
坂本 清馬(さかもと せいま、1885年〈明治18年〉7月4… 坂本 清馬(さかもと せいま、1885年〈明治18年〉7月4日 - 1975年〈昭和50年〉1月15日)は、日本の社会運動家、幸徳事件(いわゆる大逆事件)で逮捕され、仮釈放後も無実を訴え続けた。 高知県安芸郡元村(のち同郡室戸町、現・室戸市)出身。高知第二中学校を中退し、中退後は上京し、砲兵工廠に勤務する。「平民新聞」を読み、社会主義に関心を持ち、1907年〈明治40年〉に同郷の幸徳秋水の門を叩き、その書生となる。翌年、熊本に移り、「熊本評論」の記者となる。同年赤旗事件が起こり、上京し、幸徳の元に身を寄せた。しかし、意見の相違により幸徳から離れ、各地を移動する。1910年〈明治43年〉東京に戻り、7月26日に「浮浪罪」で逮捕され、8月9日に天皇爆殺を企てた大逆事件の被告として起訴された。
岡村 畯児(おかむら しゅんじ、1885年(明治18年)5月… 岡村 畯児(おかむら しゅんじ、1885年(明治18年)5月13日 - 1943年(昭和18年)6月4日)は、日本の陸軍法務官。最終階級は陸軍法務中将。軍法の権威として知られた。 1885年(明治18年)5月、高知県幡多郡平田村(現在の宿毛市)に生まれた。海南中学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業。 第2師団法官部理事、陸軍法務官近衛師団軍法会議法務官、兼憲兵練習所教官、兼法務部司法事務官、関東軍軍法会議法務官、陸軍法務官、兼陸軍司法事務官、兼陸軍監獄長、朝鮮軍軍法会議法務官、朝鮮軍法務部部長、兼第24師団法務部長、朝鮮衛戍刑務所所長などを歴任。 1942年(昭和17年)4月、陸軍法務少将に昇進し、南方軍法務部長に就任。
西山 勉(にしやま つとむ、1885年4月18日 - 196… 西山 勉(にしやま つとむ、1885年4月18日 - 1960年9月21日)は日本の銀行家、外交官。満州中央銀行総裁、終戦連絡中央事務局次長等を務めた後、戦後 GHQにより公職追放を受ける。追放解除後は初代駐インド大使を務めた。高知県出身。
清水 真澄(しみず ますみ、1885年 - 1954年)は、… 清水 真澄(しみず ますみ、1885年 - 1954年)は、高知県土佐郡河内街北門筋(現在の高知市永国寺町)出身で高知市役所に勤務した行政職員。 昭和初期から戦後復興期まで高知市役所で、高知市の都市計画、土木工事に対し都市計画創成期から戦後復興期まで20数年間携わった人物。高知市の土木部長や建設局長を務め、昭和の百々越前と呼ばれた。そして日本最初の沈下橋とされる柳原沈下橋の架橋を推進。 高知県立海南中学校を卒業して高知大林区署に勤務。4年後高知県庁に移り、土木課配属。高知公園の整備と五台山公園設立に携わり、技術を体得。1919年の都市計画法公布後、高知市にも都市計画調査委員会が設置された。以降適用指定で行政を進めるため、1924年1月に高知市土木課長に就任。
佐竹 僴一郎(さたけ かんいちろう、1885年 - 1937… 佐竹 僴一郎(さたけ かんいちろう、1885年 - 1937年3月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は騎兵大佐。 高知県香美郡田村(現在の南国市)に生まれる。共立学校、海南学校(現在の高知県立高知小津高等学校)を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、陸軍騎兵少尉に任官。 陸軍騎兵学校教導隊長、陸軍士官学校馬術部教官、朝鮮龍山騎兵第28連隊長、豊橋陸軍教導学校騎兵隊長などを歴任。1936年(昭和11年)満洲に派遣され佐竹部隊長として活躍中に公傷を負い、翌年3月16日没。
関田 為平(せきだ ためへい、1885年 - 1956年)は… 関田 為平(せきだ ためへい、1885年 - 1956年)は、高知県長岡郡大篠村(現 南国市)の社会教育家。 社会教育家。明治18年10月29日長岡郡大篠村 大そね乙1746(南国市)に生まれる。父可通、母喜代。県立第一中学校をへて、第一高等学校3年を中退する。高知市に無料施療所を開設し、大正6年頃には高知県連合青年団を結成して副会長 となり、長岡郡連合会長を兼任した。処女団を創設、部落解放運動として部落内青年団、処女団運動を起こす。からわら貧しい優秀な青年には学資を提供した。大正8年県会議員に当選。また大篠村長 や修養団高知県連合会 理事を務め希望社や生長の家にも関係する。こうした運動に 30町歩ほどの所有地を投入した。
浜田 勇(はまだ いさむ、1884年12月20日 - 194… 浜田 勇(はまだ いさむ、1884年12月20日 - 1945年1月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1884年(明治17年)12月、高知県安芸郡羽根村(現在の室戸市)に浜田勇次郎の子として生まれた。海南中学を経て、1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、歩兵少尉任官。 1917年(大正6年)、歩兵大尉になり歩兵第44連隊中隊長に就任。1919年(大正8年)、シベリア出兵に従軍。1929年(昭和4年)、歩兵中佐に進級。1931年(昭和6年)、予備役に編入された。1937年(昭和12年)、日中戦争(日華事変)で召集。1943年(昭和18年)、陸軍大佐に進んだ。
浦 澄江(うら すみえ、1884年(明治17年)8月18日 … 浦 澄江(うら すみえ、1884年(明治17年)8月18日 - 1951年(昭和26年)1月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県長岡郡、のちの三里村(現高知市)で生まれた。高知県尋常中学海南学校(現高知県立高知小津高等学校)を経て、陸軍士官学校第16期、陸軍大学校第29期卒業。1928年(昭和3年)6月7日に奉天軍に応聘され、8月10日に陸軍砲兵大佐に進級した。1929年(昭和4年)3月に山砲兵第9連隊長に転じ、1931年(昭和6年)8月に台湾軍参謀に就任した。 1933年(昭和8年)8月1日に陸軍少将進級と同時に佐世保要塞司令官に着任した。1934年(昭和9年)8月に第6師団司令部附となり、1936年(昭和11年)3月に由良要塞司令官に就任。
中村 亀三郎(なかむら かめざぶろう、1884年1月28日 … 中村 亀三郎(なかむら かめざぶろう、1884年1月28日 - 1944年11月2日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
大崎 熊雄(おおさき くまお、1884年〈明治17年〉 - … 大崎 熊雄(おおさき くまお、1884年〈明治17年〉 - 1939年〈昭和14年〉4月25日)は、将棋棋士。贈九段。当初は関根金次郎十三世名人門下であったが、後に井上義雄八段門下に転じる。高知県高知市出身。本名は大崎熊吉。日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人。 若い頃には坂本龍馬を尊敬し、政治家を志したこともあるという。 日露戦争に従軍し旅順包囲軍に参加。奉天での戦いで負傷に依り右腕の自由を失う。この負傷で伍長となり金鵄勲章を受ける。 帰還した後に関根金次郎十三世名人門下として将棋界に入り、その後井上義雄八段門下に「師匠替え」する。のちに井上の名から「雄」の字を貰い「熊雄」と改名することになる。
窪田 駒吉(くぼた こまきち、1883年(明治16年)10月… 窪田 駒吉(くぼた こまきち、1883年(明治16年)10月15日 - 1935年(昭和10年)6月9日)は、日本の実業家。鈴木商店東京支店長を経て、日本製粉社長として同社の経営再建にあたった。 高知県長岡郡介良村(現高知市介良)の貧しい肴屋の子として生まれる。15歳で神戸に出て、阪神樟脳合資会社を経て、金子直吉の知遇を得て鈴木商店に入社。上海出張所詰や天津出張所詰を務めて、鈴木商店が東京進出を果たし1912年に東京支店が設立されると、支配人から東京支店長に就任した。1927年から鈴木商店傘下の日本製粉社長を務め、経営再建にあたった。鈴木商店破綻後、三井物産に支援を求め、1933年まで日本製粉相談役を務めた。
西山 政猪(にしやま まさい、1883年(明治16年)1月2… 西山 政猪(にしやま まさい、1883年(明治16年)1月21日 - 1951年(昭和26年)12月17日)は、日本の文部官僚。 高知県高岡郡越知町出身。1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。長崎高等商業学校教授となり、1920年(大正9年)から民法・商法研究のためイギリス・アメリカ合衆国・ドイツに留学した。帰国後、東京帝国大学書記官・学生監、同庶務課長、文部書記官・大臣官房会計課長、専門学務局長を歴任し、1929年(昭和4年)に宗教局長に就任した。1932年(昭和7年)に退官し、同年から1935年(昭和10年)まで満州国文教部総務司長を務めた。
井上 伊之助(いのうえ いのすけ、1882年(明治15年)9… 井上 伊之助(いのうえ いのすけ、1882年(明治15年)9月2日 - 1966年(昭和41年)6月20日)は、日本出身の台湾宣教師である。 1882年(明治15年)、高知県幡多郡川崎村(現・四万十市)に生まれた。小学校は高等科で終了し、病院や村役場に事務員として勤務した。1900年に立身出世を願い、上京して昼間は郵便局に勤め、夜は大成学館で勉強に励んだ。この頃、メソジストの本郷教会に通い、内村鑑三の著作を読んで求道した。1903年より、中田重治の指導する神田の中央福音伝道館に通い、1903年6月中田より洗礼を受けた。1905年9月に東洋宣教会の聖書学院に入学し、聖書学院校長の笹尾鉄三郎より薫陶を受ける。
小島 祐馬(おじま すけま、1881年〈明治14年〉12月3… 小島 祐馬(おじま すけま、1881年〈明治14年〉12月3日 - 1966年〈昭和41年〉11月18日)は、東洋史学者・東洋思想史研究者(中国社会思想史)。京都帝国大学名誉教授。号は「抱甕」(ほうおう)。財団法人板垣会顧問。 1881年、高知県吾川郡弘岡上ノ村(現・高知市)で生まれた。弘岡上ノ村の小学校を卒業して高知県立第一中学校に進学し、漢文の授業では『日本外史』『十八史略』『孟子』などを学び、荻生徂徠の立場から孟子を非難する教師に反論して孟子を弁護したりしたという。また、後年の小島は、これまで読んできたなかで最も有益で興味深い中国の書物として、中学時代から読んできた『孟子』『荘子』『史記』を挙げると述べている。
渋谷 伊之彦(しぶや いのひこ、1881年11月14日 - … 渋谷 伊之彦(しぶや いのひこ、1881年11月14日 - 1935年12月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
岡村 柿紅(おかむら しこう、1881年(明治14年)9月1… 岡村 柿紅(おかむら しこう、1881年(明治14年)9月14日 - 1925年(大正14年)5月6日)は日本の劇作家・劇評家。狂言をもとにした歌舞伎舞踊の作品「身替座禅」「棒しばり」等は今日でもよく上演される。1915年以降、市村座の運営に関わった。 本名久寿治。高知市北奉公人町に生まれ、5歳のとき、両親と叔母に従い東京へ移った。叔母『加藤はま』は、初代竹本綾之助らと女義太夫を盛んにした『竹本東玉』である。 中学卒業後独逸学協会に在籍したものの、叔母の感化で芸能界に親しみ、1901年から1909年まで中央新聞に勤め、次に二六新報に転じて劇評を書いた。1908年の有楽座開場時には、顧問を引き受けた。
竹崎 瑞夫(たけざき みずお、1881年8月28日 - 19… 竹崎 瑞夫(たけざき みずお、1881年8月28日 - 1961年9月7日)は、日本の経営者、ダイハツ工業社長、会長を務めた。高知県高知市出身。 1908年に京都帝国大学工科機械科を卒業。名古屋瓦斯支配人、竹崎鉄工所代表役員、島津製作所取締役などを経て、1932年に発動機製造(現在のダイハツ工業)取締役に就任し、1947年には社長に昇格。1955年に会長に就任。 1937年に大阪府実業功労賞を受賞し、1956年11月に池田市名誉市民に選ばれ、1957年3月に藍綬褒章を受章。 1961年9月7日、肋膜炎のために死去。
中山 友次郎(なかやま ともじろう、1881年(明治14年)… 中山 友次郎(なかやま ともじろう、1881年(明治14年)8月6日 - 1946年(昭和21年)11月15日)は、日本の海軍軍人、教育者。最終階級は海軍大佐。 1881年(明治14年)8月6日、高知街通町の商家阿波屋・中山友治の長男に生まれる。海南学校(現在の高知県立高知小津高等学校)を経て、1901年(明治34年)12月、海軍兵学校(29期)を卒業し、少尉候補生になる。1903年(明治36年)1月に海軍少尉任官。 その後、兵学校教官、「富士」航海長などを歴任。第一次世界大戦では駆逐艦艦長として紀淡海峡の警備につく。また地中海では第二特務艦隊第22駆逐隊(第10駆逐隊から改称)司令として英国商船の護衛に当り、ドイツ潜水艦を捕獲し勇名をあげた。
山本 忠興(やまもと ただおき、1881年(明治14年)6月… 山本 忠興(やまもと ただおき、1881年(明治14年)6月25日 - 1951年(昭和26年)4月21日)は、日本の電気工学者、発明家、教育者。 高知県香美郡岩村(現南国市金地)出身。政治家山本忠秀の長男として生まれるが、母親の山本さがは入籍前に死去したため、忠秀の養子として育てられる。 1893年(明治26年)高知県尋常中学校進学、野球やボートなどスポーツに取り組み、英語や体操は得意だったが、数学や図画は不得意だった。1898年(明治31年)同校を首席で卒業し上京、1899年(明治32年)9月第一高等学校入学、剣道や野球、ボートの選手として活躍する。1902年(明治35年)9月東京帝国大学工科大学電気工学科入学、在学中に植村正久の指導でキリスト教に入信。1905年(明治38年)同大学を卒業、芝浦製作所(現東芝)に入所。
沖 直道(おき なおみち、1880年12月25日 - 193… 沖 直道(おき なおみち、1880年12月25日 - 1932年10月16日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1880年(明治13年)、高知県土佐郡小高坂村(現在の高知市)に生まれた。海南中学校を経て、1902年(明治35年)11月、陸軍士官学校(14期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官。1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業した。 平和条約実施委員、陸軍大学校兵学教官などを経て、1923年(大正12年)8月、歩兵大佐に昇進し参謀本部運輸課長に就任。1924年(大正13年)7月、歩兵第68連隊長となり、参謀本部運輸課長、陸軍省人事局補任課長を歴任。
永野 修身(ながの おさみ、1880年〈明治13年〉6月15… 永野 修身(ながの おさみ、1880年〈明治13年〉6月15日 - 1947年〈昭和22年〉1月5日)は、日本の海軍軍人、教育者。 海軍兵学校28期、海軍大学校甲種8期。最終階級および栄典は元帥海軍大将、従二位勲一等功五級。第24代連合艦隊司令長官。第38代海軍大臣。第16代軍令部総長。海軍の三顕職(連合艦隊司令長官、海軍大臣、軍令部総長)を全て経験した唯一の海軍軍人であると同時に、大戦中に生前元帥府に列された唯一の海軍軍人でもある。 千葉工業大学の創設発案者。A級戦犯の容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンで急性肺炎を患い、米国陸軍病院(US Army Hosp)へ搬送され治療を受けたがその後死亡する。
岡上 梁(おかのうえ りょう、1880年(明治13年)1月3… 岡上 梁(おかのうえ りょう、1880年(明治13年)1月3日 - 1954年(昭和29年)12月14日)は、日本の教育者。 岡上市次・竹の次男として高知県長岡郡大篠村(現・南国市)に生まれる。高知県尋常中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)、第五高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。 私立有恒学舎教授、金沢第一中学校教諭、佐沼中学校校長、第七高等学校造士館教授、第五高等学校教授、東亜同文書院副院長、徳島中学校校長、新潟高等学校校長、広島高等学校校長を歴任した。1936年(昭和11年)、浦和高等学校校長に就任し、1939年(昭和14年)に第四高等学校校長に転じた。
大川 寿賀(おおかわ すが、1879年(明治12年)12月2… 大川 寿賀(おおかわ すが、1879年(明治12年)12月28日 - 1970年(昭和45年)10月1日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 1879年(明治12年)12月28日、高知県土佐郡小高坂村(現在の高知市)で生まれた。海南中学を経て、1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業。1903年(明治36年)6月、歩兵少尉に任官。1929年(昭和4年)8月、歩兵第23連隊長(宮崎)に就任。1932年(昭和7年)4月、陸軍少将になる。 退役後は土佐在郷将校会副会長、帝国在郷軍人会高知市連合会長等を歴任。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。 1970年(昭和45年)10月、90歳で死去した。
大谷 一男(おおたに かずお、1879年(明治12年)12月… 大谷 一男(おおたに かずお、1879年(明治12年)12月7日 - 1949年(昭和24年)8月9日[要出典])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 高知県長岡郡五台山村(現在の高知市)に生まれた。1898年(明治31年)高知県尋常中学校卒を経て、1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官。1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(24期)を卒業。 1922年(大正11年)11月、歩兵大佐に昇進し、陸士本科訓育部長に就任。近衛歩兵第2連隊長、第8師団参謀長を歴任。1927年(昭和2年)7月、陸軍少将に進級し歩兵第38旅団長となる。1930年(昭和5年)3月、近衛師団司令部付となり、1931年(昭和6年)10月、旅順要塞司令官に着任。
玉屋 喜章(たまや よしあき、1879年(明治12年)2月1… 玉屋 喜章(たまや よしあき、1879年(明治12年)2月1日 - 1956年(昭和31年)10月17日)は、明治末から昭和期の実業家、政治家。参議院議員。通称・時次郎。 高知県安芸郡佐喜浜村(佐喜浜町を経て現室戸市佐喜浜町)で、漁業・玉屋能作の長男として生まれる。15歳頃から帆船(阪神へ薪炭を輸送)乗組となり、1900年(明治33年)大阪市の海士学館を卒業した。 海運業を始め、高知で紙問屋、大阪で事業を行うが失敗した。その後、関東に移ってから成功し、1923年(大正12年)総武銀行(現千葉銀行)頭取に就任。その他、台湾産業社長、大興紡績社長、共同生命保険社長、蓬莱閣ホテル社長、宮城電気鉄道取締役、成田急行電鉄常任監査役、玉屋産業海運商会社長、松田汽船社長、千葉合同無尽社長、千葉銀行取締役、千葉県商工連合会長、同県経営者協会会長などを務め、1946年(昭和21年)千葉商工会議所会頭に就任した。
坂本 政右衛門(さかもと まさえもん、1879年1月20日 … 坂本 政右衛門(さかもと まさえもん、1879年1月20日 - 1942年2月27日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 1879年(明治12年)、高知県高岡郡宇佐村(現・土佐市)に生まれた。1899年(明治32年)11月、陸軍士官学校(11期)を卒業し、翌年6月、歩兵少尉に任官。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業。 1920年(大正9年)8月、陸軍兵器本廠付となり、1921年(大正10年)4月、歩兵大佐に昇進。同年7月、歩兵第55連隊長に就任。1922年(大正11年)8月、第8師団参謀長に転じ、教育総監部第1課長に移る。1925年(大正14年)5月、陸軍少将に進級し第3師団司令部付となる。
山地 土佐太郎(やまじ とさたろう、1878年(明治11年)… 山地 土佐太郎(やまじ とさたろう、1878年(明治11年)12月26日 - 1958年(昭和33年)2月2日)は、大正・昭和期の実業家、政治家。貴族院勅選議員。極洋捕鯨(現・極洋)の創業者である。 東京府京橋区新富町(現・東京都中央区)で、警視庁勤務・山地享吉の長男として生まれる。山地家は土佐国安芸郡津呂村(現・高知県室戸市室戸岬町)の出身で、先祖代々「津呂組」という鯨組の株主だった。父が西南戦争従軍後、一家は1880年(明治13年)に高知県へ帰郷した。土佐太郎は1888年(明治21年)、安芸郡羽根尋常小学校を卒業。同県土佐郡第一高等小学校に進学したが、父の死去に伴い1891年(明治24年)に高等小学校を中退し、家業に従事した。
多田 耕太郎(ただ こうたろう、1878年(明治11年)10… 多田 耕太郎(ただ こうたろう、1878年(明治11年)10月15日 - 1928年(昭和3年)10月13日)は、明治から昭和時代初期の水産功労者、漁業経営者、政治家。高知県多額納税者。 多田嘉七の長男として高知県安芸郡津呂村(現・高知県室戸市室戸岬町)に生まれ、1912年(大正元年)家督を相続する。大正期に発展した定置網漁業の経営者として県内外にて漁場を開発。三重県志摩半島にも進出しブリ飼付漁業を経営した。ほか、大北漁業、並村製糸場などの取締役を歴任した。 政治家としても活躍し、安芸郡会議員を経て、1923年(大正12年)高知県会議員に当選。1927年(昭和2年)再選される。立憲民政党の成立と同時に総務となり、1928年(昭和3年)7月に24代県会議長に就任した。
武田 秀一(たけだ ひでいち、1878年(明治11年)9月3… 武田 秀一(たけだ ひでいち、1878年(明治11年)9月3日 - 1939年(昭和14年)5月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。正四位勲三等功四級。字は魯男。 1878年(明治11年)9月、高知県香美郡野市村(現在の香南市)に武田秀山の長男として生まれる。1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官。 千葉陸軍歩兵学校教官などを経て、1923年(大正12年)8月、歩兵大佐に昇進し青森連隊区司令官に就任。1924年(大正13年)8月、歩兵学校教導連隊長となり、豊橋陸軍教導学校長に転じ、1929年(昭和4年)8月、陸軍少将に進級。 1930年(昭和5年)8月、歩兵第37旅団長となり、近衛師団司令部付を経て、1933年(昭和8年)8月、陸軍中将に進んだ。
田中 茂穂(たなか しげほ、1878年8月16日 - 197… 田中 茂穂(たなか しげほ、1878年8月16日 - 1974年12月24日)は、日本の魚類学者であり、東京帝国大学の動物学の教授である。「近代魚類分類学の父」として知られる。魚類やサメに関する多くの論文を発表し、著名なアメリカ人科学者であるデイビッド・スター・ジョーダンおよびジョン・オターバイン・スナイダー(英語版)とともに日本の魚類に関する書籍(Jordan, Tanaka & Snyder 1913)を共著し、一般性の高い地方名に基づく標準和名を提唱した。財団法人板垣会顧問。 研究論文を約300編、書籍は50冊に及ぶ著作を行っている。
三吉 務(みよし つとむ、1878年(明治11年)7月1日 … 三吉 務(みよし つとむ、1878年(明治11年)7月1日 - 1975年(昭和50年)7月31日)は、日本の牧師、富士見町教会の第4代目主任牧師である。 1878年高知県長岡郡新改村に生まれる。1899年大阪南教会で鈴木寿一から洗礼を受ける。1902年に明治学院神学部に入学したが、中退する。 1904年4月に日本基督教会の教師試補試験に合格し伝道師に准允される。その後、福井、高槻、大連の教会主任を務めた。1908年渡米してイリノイ州オマハ神学校とプリンストン神学校で学ぶ。 1913年2月に大連教会主任となる。1927年南廉平の後を次いで、富士見町教会牧師に就任する。1948年に辞任し、名誉牧師になる。