江田 斗米吉(えだ とめきち、1891年〈明治24年〉1月1… 江田 斗米吉(えだ とめきち、1891年〈明治24年〉1月1日 - 1957年〈昭和32年〉4月19日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県上妻郡矢部村(八女郡矢部村を経て現八女市)で生まれる。高等小学校卒業。農業、石炭業を営む。 東豊炭坑江田鉱業所長、恩賜財団同胞援護会福岡県川崎分会長などを務めた。 1933年(昭和8年)川崎町会議員に当選し、以後3選した。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙で福岡県第4区から民主自由党所属で出馬して当選した。1952年(昭和27年)10月の第25回総選挙(福岡県第4区、自由党)では落選し、衆議院議員に1期在任した。 1957年(昭和32年)4月19日死去、66歳。
高橋 権六(權六、たかはし ごんろく、1890年(明治23年… 高橋 権六(權六、たかはし ごんろく、1890年(明治23年)12月9日 - 1972年(昭和47年)3月4日)は、大正から昭和期の実業家・政治家。衆議院議員。 福岡県八女郡、現在の八女市で酒造家の家に生まれる。1918年(大正7年)明治学院普通部を卒業。 若いときから院外団に加わった。福岡県会議員に選出され2期在任し、同参事会員、八女郡教育会評議員も務めた。1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙から1947年(昭和22年)第23回総選挙まで立候補を続けたがいずれも落選。同年の福岡県知事選挙でも落選した。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙(福岡県第3区、無所属)で当選。当時の地元新聞に「同情票で勝利」と分析した記事が掲載された。
古賀 喜太郎(こが きたろう、1890年(明治23年)7月2… 古賀 喜太郎(こが きたろう、1890年(明治23年)7月29日 - 1957年(昭和32年)1月8日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 福岡県三池郡大牟田町(現大牟田市有明町)で、古賀健蔵の息子として生まれる。1909年(明治42年)久留米市立商業学校(現久留米市立久留米商業高等学校)を卒業した。 1919年(大正8年)12月、円仏古賀商店取締役に就任。1932年(昭和7年)大牟田商工会議所議員、1934年(昭和9年)同副会頭に就任した。その他、大牟田信用組合(現大牟田柳川信用金庫)監事、福岡県陸上小運搬業組合大牟田支部長、旭セメント取締役、三池製氷取締役などを務めた。 1921年(大正10年)大牟田市会議員に選出され、同副議長、大牟田市所得調査委員などを務め、福岡県会議員にも在任した。
山崎 元幹(やまざき もとき、1889年(明治22年)7月7… 山崎 元幹(やまざき もとき、1889年(明治22年)7月7日 - 1971年(昭和46年)1月24日)は昭和期の実業家。南満洲鉄道株式会社(満鉄)最後の総裁としてその終戦処理をおこなった。 福岡県糸島郡福吉村(現・糸島市二丈地域)出身。名前の読みは「もとき」であるが「げんかん」と音読みするものが多かったという。唐津中学、第一高等学校英法科、東京帝国大学法科大学政治学科を首席卒業。 1916年(大正5年)5月、満鉄に入社し、総務部に勤務。1921年(大正10年)8月から1923年(大正12年)9月にかけて、欧米に留学する。帰国後は社長室文書課勤務となる。1925年(大正14年)6月、撫順炭鉱参事に移り、翌年8月には撫順炭鉱庶務課長を務めた。
橋上 保(はしがみ たもつ、1889年(明治22年)7月 -… 橋上 保(はしがみ たもつ、1889年(明治22年)7月 - 1949年(昭和24年)11月26日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。参議院議員。 福岡県京都郡椿市村(現行橋市)で、橋上弥五郎、モトの二男として生まれ、1914年(大正3年)に家督を相続した。1904(明治37年)高等小学校を卒業した。 1923年(大正12年)6月、上山田炭鉱(現嘉麻市上山田)を開鉱。1931年(昭和6年)1月、橋上鉱業 (株) を設立し社長に、弟・俊崇が常務取締役に就任。1937年(昭和12年)5月、新山野炭鉱(現嘉麻市山野)を開鉱。同年6月、日本炭業 (株) を設立し社長に就任。1938年(昭和13年)宝珠山鉱業 (株) を設立し代表となり、1940年(昭和15年)同社長に就任。
石橋 正二郎(いしばし しょうじろう、1889年〈明治22年… 石橋 正二郎(いしばし しょうじろう、1889年〈明治22年〉2月1日 - 1976年〈昭和51年〉9月11日)は、日本の実業家。ブリヂストン創業者。 ブリヂストンタイヤ(現・ブリヂストン)の創業者であり、1966年(昭和41年)8月1日に日産自動車と合併したプリンス自動車工業の育ての親(出資者)でもあり、プリンス・ロイヤル、プリンス・スカイラインの名付け親である。また、張り付け式ゴム底足袋(地下足袋)の考案者でもある。 企業活動を通じて、日本のゴム工業や自動車工業の発展に多大な貢献を行った。長年の功績により2002年(平成14年)には日本自動車殿堂入り、2006年(平成18年)には米国自動車殿堂入りを果たしている。
松尾 三蔵(三藏、まつお さんぞう、1888年(明治21年)… 松尾 三蔵(三藏、まつお さんぞう、1888年(明治21年)1月11日 - 1948年(昭和23年)5月14日)は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 福岡県上妻郡川崎村(八女郡川崎村を経て現八女市)で、土木請負業・松尾藤蔵の二男として生まれる。 三菱合資会社に勤務。1917年(大正6年)嘉穂郡碓井村(現嘉麻市)に松尾鉱業所を設立。その後、稲築村山野(現嘉麻市)の中西炭鉱 (株) の坑長に転じた。1926年(大正15年)田川郡に糸飛炭鉱 (株) を設立。1934年(昭和9年)直方市郊外に新高紅炭鉱を開鉱し、後に小林鉱業 (株) に譲渡した。その他、石炭鉱業互助会相談役、金丸鉱業取締役、久恒鉱業顧問、田籠鉱業顧問、藤井鉱業顧問、三崎鉱業顧問、九州曹達顧問などを務めた。
安座上 真(あざがみ まこと、1888年1月5日 - 195… 安座上 真(あざがみ まこと、1888年1月5日 - 1957年8月11日)は、日本の経営者。日本通運社長を務めた。 福岡県宗像郡河東村(現在の宗像市)出身。1907年に東筑中学校を卒業。吉田組、(出光商会)、内国通運での勤務を経て、1937年に日本通運理事および台湾支社長に就任し、1946年に副社長に就任した。1954年には社長に昇格した。それまでの社長はいずれも鉄道出身者であったが安座上は初の社員出身の社長となった。 日本経営者団体連盟常任理事も務めた。
芳賀 茂元(はが しげもと、1887年(明治20年)12月2… 芳賀 茂元(はが しげもと、1887年(明治20年)12月2日 - 1948年(昭和23年)5月18日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。旧制専門学校経営者。前名は茂。 芳賀善一郎の二男として福岡県遠賀郡(現北九州市)に生まれ、芳賀善次郎の養子となり、1927年(昭和2年)前名を改め翌年家督を相続する。福岡県立東筑中学校を卒業し、1909年(明治42年)八幡市役所に奉職する。同市農会副会長、福岡県消防協会理事、九州土地相談役などを歴任する。 のち、福岡県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、1932年(昭和7年)3月8日から同年9月28日まで在任した。この間、同年ジュネーブで行われた第28回列国議会同盟会議やベルギーのオーステンデで行われた万国議院商事会議評議員会に出席した。
麻生 太郎(あそう たろう、1887年〈明治20年〉9月4日… 麻生 太郎(あそう たろう、1887年〈明治20年〉9月4日 - 1919年〈大正8年〉3月4日)は日本の実業家。第92代内閣総理大臣麻生太郎の祖父。 麻生太吉の三男として生まれる。長兄の太右衛門は病弱で、次兄の鶴十郎も若くして他界したため、麻生家の後継となる。しかし本人も病弱であり31歳で死去した。生前は麻生商店取締役を務めていた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
今見 昇(いまみ のぼる、1887年2月 - 没年不詳)は、… 今見 昇(いまみ のぼる、1887年2月 - 没年不詳)は、日本の林業技術者、実業家。 士族前田実穂の二男として福岡県に生まれ、1897年今見義勇の養子となる。1907年福岡県立中学修猷館を経て、1916年東北帝国大学農科大学林学科を卒業。 1916年朝鮮総督府営林廠技手となるが、フィリピンのマニラ麻会社の支配人に迎えられる。ここで、後に南洋興発を設立する松江春次が南洋視察に訪れ、今見が南洋諸島を案内したことで親交を深めた。その後、このマニラ麻会社が倒産したため、南洋庁産業試験場技師を経て、1930年樺太庁技師となり、農林部林業課長を務めた。 1937年7月退官し、松江に迎えられ南洋興発技師となり、1941年12月取締役に就任。
藤田 勇(ふじた いさむ、1887年 - 1955年)は日本… 藤田 勇(ふじた いさむ、1887年 - 1955年)は日本の新聞記者、実業家、阿片ブローカー、フィクサー。『東京毎日新聞』や『報知新聞』の記者を経て1919年に東京毎日新聞社社長となり、「厳正非中立」を掲げて組合運動や社会主義者、アナキストを支援。1923年にはヨッフェ訪日を実現させた。他方で貴族院の「研究会」の黒幕となり、日中戦争期には上海への麻薬の密輸に携わった。 1887(明治20)年、福岡県行橋市の生まれ。 中学卒業後、大陸へ密航し、馬賊になろうとした。 日本に帰国後、新聞『日本』の記者となり、東京毎日新聞や報知新聞の記者を経る。 1919(大正8)年から東京毎日新聞社社長。就任当時、「いさぎよく、正義と弱者と善に味方する」という意味の「厳正非中立」という標語を新聞の一面に掲げ、また銀座の社屋の屋上から垂れ幕を下げていた[要検証 – ノート]。
安川 第五郎(やすかわ だいごろう、1886年(明治19年)… 安川 第五郎(やすかわ だいごろう、1886年(明治19年)6月2日 - 1976年(昭和51年)6月25日)は、日本の実業家。安川電機社長、九州電力会長、日本原子力発電初代社長、日本原子力研究所初代理事長、日本原子力産業会議会長、1964年東京オリンピック組織委員会会長。
倉田 主税(くらた ちから、1886年3月1日 - 1969… 倉田 主税(くらた ちから、1886年3月1日 - 1969年12月25日)は、日本の実業家。株式会社日立製作所元社長・会長、日本科学技術振興財団初代会長、毎日放送元取締役。 弟には俳人の神崎縷々、三井鉱山社長を務めた倉田興人がいる。 福岡県宗像郡神興村(現・福津市)出身。小倉工業を経て仙台高等工業学校(現東北大学工学部)卒業。久原鉱業所日立製作所に入社し、日立鉱山より産出される銅を用いての電線自主製造確立に成功。電線事業確立後は電線工場の工場長に就任し、以降20年に渡り電線製造に携わる。 その後着任した笠戸工場工場長時に、公職追放された初代社長小平浪平以下16名の後を継いで、1947年に日立製作所二代目社長に就任。
2代 石橋 徳次郎(いしばし とくじろう、1886年(明治1… 2代 石橋 徳次郎(いしばし とくじろう、1886年(明治19年)2月23日 - 1958年(昭和33年)8月19日)は、昭和時代前期の政治家、実業家。福岡県久留米市長。前名は重太郎。 先代・石橋徳次郎の長男として久留米城下荘島町に生まれる。家業の仕立て屋「しまや」をつぎ、弟正二郎とともに業容を拡大。1912年(大正元年)には「しまや足袋」の宣伝に九州初の自動車を使用して知名度を高めた。1918年(大正7年)「日本足袋株式会社」を発足、1922年(大正11年)貼付式ゴム底足袋、即ち、地下足袋を発明(1923年10月 実用新案登録番号第80594号)し発売。1936年(昭和11年)デパート旭屋(現.久留米井筒屋)を創立。
出光 佐三(いでみつ さぞう、1885年〈明治18年〉8月2… 出光 佐三(いでみつ さぞう、1885年〈明治18年〉8月22日 - 1981年〈昭和56年〉3月7日)は、明治から戦後にかけての日本の実業家・石油エンジニア・海事実業家・慈善家。石油元売会社出光興産の創業者。貴族院多額納税者議員。フランス共和国文化勲章コマンドール受章。 神戸高等商業学校(現・神戸大学)卒業。同校で水島銕也校長に師事し「士魂商才」の理念に感化を受ける。同期に高畑誠一、永井幸太郎、和田恒輔。内池廉吉教授の「商業概論」の講義で受けた「商売は金儲けではない」との教えから、1940年に出光興産創業後、大地域小売業を展開した。 弟(六男)・出光計助は1966年10月から1972年1月まで第2代社長。
田淵 助六(たぶち すけろく、1884年6月28日 - 19… 田淵 助六(たぶち すけろく、1884年6月28日 - 1969年10月27日)は、福岡県出身の日本の実業家。 福岡県京都郡仲津村(現・行橋市)で農業を営んでいた田淵市平の長男として生まれる。中学を中退し跡取りを次男に譲って北海道への移民団に加わって札幌へと移住。北海道庁に給仕として入庁、道庁勤務の傍ら夜間中学を卒業の後、1906年に北海法学校を卒業。 北海法学校卒業後に帝国鉄道庁入庁、書記を経て1907年に任官。1913年に釧路運輸事務所、その後旭川運輸事務所、鉄道省移行後に札幌鉄道局運輸課で貨物業務、小樽駅第13代駅長(1923年12月1日-1929年3月29日)、旭川駅16代駅長(1929年3月30日-1930年10月)、札幌鉄道局運輸課高等官を歴任した。
大藪 守治(おおやぶ もりじ、1883年(明治16年)10月… 大藪 守治(おおやぶ もりじ、1883年(明治16年)10月14日 - 1945年(昭和20年)10月15日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 福岡県久留米市苧扱川町(現:久留米市本町)で、実業家・大藪房次郎の三男として生まれる。両替町(現: 城南町)に分家した。早稲田大学を修了後、欧米に遊学した。 1909年(明治42年)以降、筑後水力電気社長、九州水力電気取締役、筑後電気取締役、昭和電灯取締役、九州電気協会評議員、久留米商工会議所顧問などを務めた。筑後水力電気が九州水力電気に合併した際に、その分配金について紛争が生じたが、他の重役よりも社員を優先する立場に立って処理を行った。
中山 悦治(なかやま えつじ、1883年7月15日 - 19… 中山 悦治(なかやま えつじ、1883年7月15日 - 1951年12月25日)は大正・昭和期の実業家。中山製鋼所の創設者。 福岡県行橋市南泉の中山家に生まれ、行橋市立泉小学校を卒業。豊津中学校(現在の育徳館中学校)三年時、父が事業に失敗し、中途退学。その後、製糸工事、炭鉱、行商など様々な職を転々した。1919年に兵庫県尼崎にメッキ炉1基、作業員数名からなる亜鉛鉱金製造工場を開設した。この工場が中山悦治商店を経て中山製鋼所となる。
真藤 慎太郎(眞藤 愼太郎、しんどう しんたろう、1883年… 真藤 慎太郎(眞藤 愼太郎、しんどう しんたろう、1883年(明治16年)7月1日 - 1971年(昭和46年)1月11日)は、日本の実業家、漁業家、政治家。衆議院議員。玄洋社社員。 福岡県福岡区(現福岡市)で回船問屋・真藤利吉の長男として生まれる。福岡県立福岡中学校を卒業後、玄洋社に所属。中国大陸で活動し、日本の対ロシア帝国政策に着目してロシア語を習得。日露戦争開戦後、通訳として従軍した。 その後、カムチャツカ半島沿岸などの北洋漁業で財を築いた。1926年6月、日魯漁業(現マルハニチロ)の取締役に就任。その他、日魯漁業副社長、東洋製罐取締役、函館水産販売取締役、函館製網船具取締役、樺太共同漁業取締役、台湾殖産工業取締役、北千島水産社長、函館定温倉庫社長、北千島鱈漁業社長、北海道護謨社長、北日本漁業社長、東都冷蔵社長、函館公海漁業取締役、輸出鱈協会理事長、中央水産業会副会長、西部瓦斯顧問などを務めた。
貝島 太市(かいじま たいち、1881年11月3日 - 19… 貝島 太市(かいじま たいち、1881年11月3日 - 1966年8月28日)は、日本の実業家。貝島炭礦社長。 貝島炭礦の創始者である貝島太助の四男として、福岡県遠賀郡に生まれる。1895年、福岡県立尋常中学修猷館に入学、在学中の1898年、貝島鉱業合名会社を、社長・貝島太助、社員・貝島六太郎(太助の次弟)、貝島嘉蔵(太助の三弟)、貝島太市の4名で設立する。1901年、東京高等商業学校(現・一橋大学)を目指すため、修猷館を退学して東京商工中学校へ入学し、1902年、東京高等商業学校に進学する。在学中の1904年、旧長州藩士鮎川弥八の三女で鮎川義介(日産コンツェルン創始者)の妹であるフジと結婚する。
中野 太三郎(なかの たさぶろう、1880年(明治13年)1… 中野 太三郎(なかの たさぶろう、1880年(明治13年)12月 - 1941年(昭和16年)11月10日)は、朝鮮総督府官僚、実業家。玄洋社員。
実岡 半之助(實岡、さねおか はんのすけ、1878年(明治1… 実岡 半之助(實岡、さねおか はんのすけ、1878年(明治11年)11月15日 - 1947年(昭和22年)5月23日)は、日本の政治家、実業家、農業経営者。衆議院議員、福岡県嘉穂郡宮野村長。 福岡県嘉麻郡宮吉村(現嘉麻市宮吉)で、宮野銀行頭取・実岡半三郎の長男として生まれる。小学校卒業後、検定で資格を取得し代用教員、准教員、小学校訓導を15年間務めた。 その後、宮野村長、宮野村会議員、嘉穂郡会議員、同郡農会長、福岡県会議員、同県農会評議員、同県山林会評議員、地方森林会議員、消防組頭、福岡県消防評議員、宮野信用組合長、宮野銀行取締役頭取、大隈酒造 (株) 取締役などを務めた。 1932年2月、第18回衆議院議員総選挙に福岡県第二区から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
岡 幸三郎(おか こうざぶろう、1876年(明治9年)1月2… 岡 幸三郎(おか こうざぶろう、1876年(明治9年)1月24日 - 1955年(昭和30年)11月23日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、久留米市長。 三潴県三井郡通町(現福岡県久留米市通町)で、3代・岡茂平の三男として生まれる。父の死後、兄が事業に失敗して朝鮮に渡ったため、岡家の再興を志し、1924年(大正13年)母が死去すると直ぐに中国・青島に渡航して沈没船引揚業を営んだ。私財を蓄えて帰国し、久留米絣 (株) の支配人を経て絣問屋を設立した。その後、久留米商工会議所議員、久留米縞同業組合議長、久留米絣同業組合議長、地方森林会議員、福岡県教育会評議員、同県国防会参与、久留米絣工業組合連合会副理事長、久留米畜産組合長などを務めた。
高嶋 菊次郎(たかしま きくじろう、1875年(明治8年)5… 高嶋 菊次郎(たかしま きくじろう、1875年(明治8年)5月17日 - 1969年(昭和44年)1月29日)は、明治、大正、昭和期の日本の実業家。 福岡県生まれ。1900年(明治33年)に東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業。大阪商船に入社。後に三井物産に転じ、藤原銀次郎の知遇を得て、1912年(明治45年)に王子製紙に入社。 苫小牧工場長を経て、1914年(大正3年)に王子製紙取締役に就任。常務、専務、副社長を経て、藤原銀次郎の後任として1938年(昭和13年)12月に取締役社長に就任した。その後1942年12月まで王子製紙の社長を務めている。同社のほか、傍系会社の日本パルプ工業の取締役社長を1939年(昭和14年)5月から1943年(昭和18年)1月まで務めた。
飯田 延太郎(いいだ のぶたろう、1873年〈明治6年〉5月… 飯田 延太郎(いいだ のぶたろう、1873年〈明治6年〉5月2日 - 没年不詳)は、日本の実業家。 飯田久助の長男として、福岡県穂波郡、のちの嘉穂郡桂川村(現桂川町)で生まれた。1896年福岡県立尋常中学修猷館を経て、1898年中央大学を卒業。 1899年弁護士試験に合格し、東京地方裁判所所属弁護士を経て、独立開業する。 1910年弁護士を廃業して玄洋社に入り、鉱山業に従事。1911年北海道炭山を三井鉱山に、次いで1915年美唄炭山を三菱合資に売却して、巨利を得て実業界に進出。南満洲太興を設立して代表社員となり、天図軽便鉄路、図們鉄道、弓張嶺鉄山、天宝山銀銅鉱などの事業を経営。新登川炭鉱社長、神国生命保険社長、有隣生命保険社長、萬朝報社長なども務めた。
中村 清造(なかむら せいぞう、1871年5月9日(明治4年… 中村 清造(なかむら せいぞう、1871年5月9日(明治4年3月20日) - 1932年(昭和7年)7月21日)は、日本の実業家、醸造家、政治家。衆議院議員。 筑前国宗像郡上西郷村(現:福岡県福津市)で、酒造家・中村清作の長男として生まれる。1889年(明治22年)県立中学校を卒業。日清戦争、日露戦争に従軍した。 上西郷村長、津屋崎町長、宗像郡会議員、同参事会員、福岡県会議員、同参事会員などを歴任。その他、福岡県地方森林会議員、全国酒造組合連合会評議員、宗像郡酒造組合長などを務めた。 1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙に福岡県第9区から立憲政友会所属で出馬して当選。第15回総選挙でも当選し、衆議院議員を連続2期務めた。
縣 左吉(あがた さきち、明治4年2月 (旧暦)(1871年… 縣 左吉(あがた さきち、明治4年2月 (旧暦)(1871年) - 没年不詳)は、日本の実業家。 福岡県士族縣連の三男として生まれる。1892年福岡県立尋常中学修猷館を卒業。一時三井鉱山に勤務するが、退職し上京して東京物理学校、法律学校に学ぶ。 1895年三井銀行本店営業部に入社し、小樽支店、足利支店、三池支店などで勤務した後、1902年退社し、三井物産との取引事業を満洲に興す。1913年三井系の後援を得て、藤山常一と共に、1915年電気化学工業(現・デンカ)を創業、常務取締役などを務めた。 電気化学工業の傘下企業である、大淀川水力電気の常務取締役なども務めた。
松本 健次郎(まつもと けんじろう、明治3年10月4日(18… 松本 健次郎(まつもと けんじろう、明治3年10月4日(1870年10月28日) - 昭和38年(1963年)10月17日)は、日本の実業家。父・安川敬一郎とともに炭鉱で安川財閥を築いた。 旧自宅は旧松本家住宅(国の重要文化財)として保存されている。カトリック。既婚、7男6女。 安川財閥の創始者安川敬一郎の二男として、筑前国福岡藩(現・福岡県福岡市中央区)に生まれる。1887年(明治20年)、福岡県福岡中学を卒業。しかし、卒業試験中に急性脚気となり、進学を断念。同年上京、イーストレーキの国民英学会に通う。同期に小野塚喜平次がいる。1890年(明治23年)安川敬一郎の兄、松本潜(ひそむ)の子が亡くなったため、松本家に養子として入籍。
後藤 武夫(ごとう たけお、1870年9月13日(明治3年8… 後藤 武夫(ごとう たけお、1870年9月13日(明治3年8月18日) - 1933年(昭和8年)2月25日)は、日本の実業家。帝国興信所(現・帝国データバンク)、日本魂社創業者。福岡県出身。 筑後国出身。1883年(明治16年)、福岡県立福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)を経て、1887年(明治20年)4月、上京して東京英語学校に入学するが、1890年(明治23年)に帰郷して井尻高等小学校 (現・福岡市立三宅小学校)の教員となる。1894年(明治27年)、妻子を伴って大阪市へ移り、 関西法律学校(現・関西大学)に入学し、勤めながら修学し、1897年(明治30年)に卒業する。福岡日日新聞記者を経て1898年(明治31年)上京の後、明治33年(1900年)に帝国興信所(現・帝国データバンク)を設立した。
有馬 秀雄(ありま ひでお、1869年5月4日〈明治2年3月… 有馬 秀雄(ありま ひでお、1869年5月4日〈明治2年3月23日〉- 1954年〈昭和29年〉12月10日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、東京府南葛飾郡寺島町長。 筑後国三潴郡久留米城下(現:福岡県久留米市)で、久留米藩重臣・有馬重固の長男として生まれ、同藩重臣・有馬孝三郎の養嗣子となる。1889年(明治22年)、久留米尋常中学校を卒業し、1892年(明治25年)、帝国大学農科大学実科を卒業。 その後、旧藩主・有馬伯爵家の家令となり、同家の財政の立て直しに尽力した。久留米六十一銀行の頭取を務め、旧久留米藩の士族授産企業・赤松社の活動にも貢献した。 1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙で福岡県久留米選挙区から出馬して当選。
向野 堅一(こうの けんいち、1868年10月19日(慶応4… 向野 堅一(こうの けんいち、1868年10月19日(慶応4年9月4日) - 1931年(昭和6年)9月17日)は、明治から昭和初期の実業家。日清戦争当時、軍事探偵として活動した。戦後、満州経済界で活躍した。
堀 三太郎(ほり さんたろう、1866年10月2日(慶応2年… 堀 三太郎(ほり さんたろう、1866年10月2日(慶応2年8月24日)- 1958年(昭和33年)7月19日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・瓜生。筑豊の五大炭鉱主と称された。 筑前国鞍手郡、のちの福岡県鞍手郡直方町新町(現直方市)で、醤油醸造業・瓜生幾次の長男として生まれる。小学校の課程を修了すると私塾で漢文学、数学を修めた。1886年(明治19年)8月、先代亡堀甚四郎の養子となり死跡を相続した。 1889年(明治22年)小竹町の御徳炭鉱の経営を始め、付近の海軍鉱区の払下げを受け、当時、直鞍地区随一の炭鉱に発展した。さらに本洞(直方)、若瀬(中間)、平山(嘉穂)、中津川(田川)、篠栗(篠栗)の各炭鉱を買収し、堀鉱業を設立し代表取締役となる。
古林 与六(與六、こばやし よろく、1866年5月31日(慶… 古林 与六(與六、こばやし よろく、1866年5月31日(慶応2年4月17日) - 1922年(大正11年)10月9日)は、日本の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。幼名・磯五郎。 筑前国上座郡古毛村(のち福岡県朝倉郡朝倉町、現:朝倉市)で、素封家・先代古林与六の長男として生まれる。中学校を卒業し農業を営む。 耕地整理に尽力し古毛耕地整理委員長を務めた。自由民権を唱え、朝倉村会議員、同村長、朝倉郡会議員、同参事会員、福岡県会議員などを歴任した。その他、福岡県醤油組合支部長、朝倉軌道取締役などを務めた。 1920年5月、第14回衆議院議員総選挙に福岡県第11区から立憲政友会所属で出馬して当選したが、在任中に死去した。
野口 忠太郎(のぐち ちゅうたろう、1865年9月27日(慶… 野口 忠太郎(のぐち ちゅうたろう、1865年9月27日(慶応元年8月8日)- 1931年(昭和6年)2月24日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 筑後国三池郡横須村(現:福岡県大牟田市中町1丁目33番地)で、野口忠七、キワ夫妻の長男として生まれる。1882年(明治15年)橘陰校中学部を卒業。1883年(明治16年)9月14日に家督を相続した。 野田卯太郎、永江純一らの知遇を得て、1887年(明治20年)合資会社三池土木会社の創立に参画し事務担当者となり、1900年(明治33年)社長に就任した。その他、三池銀行監査役、大牟田瓦斯取締役、九州電灯鉄道取締役、東邦電力取締役、三池無尽取締役、大牟田無尽取締役、大東畜産工業取締役、三池肥筑物産社長などを務めた。
山内 範造(やまうち はんぞう、1865年5月6日(慶応元年… 山内 範造(やまうち はんぞう、1865年5月6日(慶応元年4月12日)- 1945年(昭和20年)3月17日)は、明治から昭和前期の農業経営者、銀行家、政治家。衆議院議員、福岡県筑紫郡筑紫村長。曾孫は元衆議院議員山内康一。 筑前国御笠郡、のちの福岡県筑紫郡筑紫村(筑紫野町を経て現筑紫野市)で、山内伊七郎、タヨの長男として生まれる。漢学を修めた。1894年(明治27年)3月に家督を相続し農業を営む。筑紫郡農会特別議員、福岡県農会特別議員、同評議員、帝国農会議員、同評議員、地方森林会議員などを務めた。 1897年(明治30年)筑紫村長に就任。1904年(明治37年)筑紫郡会議員となり同参事会員も務めた。
成清 博愛(なりきよ ひろえ、1864年11月13日(元治元… 成清 博愛(なりきよ ひろえ、1864年11月13日(元治元年10月14日)- 1916年(大正5年)1月18日)は、明治から大正前期の実業家、政治家。衆議院議員、福岡県山門郡小川村長。号・的山(てきざん)。金山王と称された。 筑後国山門郡、のちの福岡県山門郡小川村 (瀬高町を経て現みやま市)で生まれた。柳川藩儒者・西田麗川に師事し漢学を修めた。1887年(明治20年)慶應義塾に入塾したが、1888年(明治21年)病のため中退して帰郷した。 1890年(明治23年)小川村会議員に選出され、九州改進党の結成に尽力した。政治活動資金を捻出するため炭坑、金山の経営に乗り出したが失敗し財産を失うが、小川村長、山門郡会議員、福岡県会議員、瀬高銀行取締役などを務めた。
神崎 勲(こうざき / かんざき いさお、1864年9月25… 神崎 勲(こうざき / かんざき いさお、1864年9月25日(元治元年8月25日)- 1954年(昭和29年)3月8日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。号・鶉迫。 豊前国上毛郡四郎丸村(現福岡県豊前市山田)で、酒造家・神崎栄蔵の長男として生まれる。蔵春園で学んだ。家業の他、小倉酒精社長、角屋酒造社長、八尾貯蓄銀行取締役、築上銀行取締役、八尾銀行取締役、宇島銀行取締役、宇島鉄道専務取締役などを務めた。 1907年、福岡県会議員に当選し立憲政友会に所属。1910年から1923年まで県会議長を務めた。その他、福岡県結核予防協会長、同山林会副会長、同教育会長、同実業団体連合会長、同酒造業組合会顧問などを歴任。
小野 英二郎(おの えいじろう、元治元年6月23日(1864… 小野 英二郎(おの えいじろう、元治元年6月23日(1864年7月26日) - 昭和2年(1927年)11月26日)は、柳川藩士の子で、福岡県出身の財界人。ジョン・レノンの妻・オノ・ヨーコの祖父である。 筑後柳川の藩士のもとに出生した。立花四天王の小野鎮幸の末裔と言われることが多いが、小野鎮幸嫡系の大組組頭世襲家の小野家との関係は不詳である。 地元の柳河中学校を経て1880年(明治13年)、同志社英学校2年に入学する。同級生に安部磯雄や岸本能武太がいた。1883年(明治16年)、新島襄から洗礼を受ける。同年末、徴兵令改正により私立学校は徴兵免除の特典を受けられなくなったため、官立学校への転校を図り退学する。
牛島 謹爾(うしじま きんじ、1864年2月13日(文久4年… 牛島 謹爾(うしじま きんじ、1864年2月13日(文久4年1月6日) - 1926年(大正15年)3月27日)は、実業家。アメリカに移民し、「馬鈴薯王」と呼ばれた。勲四等、雅号に別天。現地ではジョージ・シマの名で親しまれた。妻は同志社総長, 下村孝太郎の妹である.
日比 翁助(ひび おうすけ、1860年8月12日(万延元年6… 日比 翁助(ひび おうすけ、1860年8月12日(万延元年6月26日) - 1931年(昭和6年)2月22日)は、明治時代から昭和前期にかけての実業家。三越百貨店を創業し三越の経営改革を進め、日本初の百貨店をつくった人物。号は美勲。 娘のシゲノは陸軍大将・緒方勝一の妻。 幕末の1860年(万延元年)に筑後国久留米藩士・竹井安太郎(馬廻格・高良山別荘臨番)の次男として生まれる。1876年(明治9年)18歳で江崎済の黒木塾にて学ぶ。海軍軍人になることを志し、竹崎氏に漢学を、剣術を藩主指南役・津田氏に、南画を同藩の狩野氏に学んだ。1879年(明治12年)日比家の養嗣子になった事で転向する。 剣も相当の腕だったが、久留米藩御納戸役時代に福澤諭吉の著作を読んで傾倒し、上京して1884年(明治17年)、慶應義塾を卒業。
熊本 寿人(くまもと ひさと〔仮、読み不詳〕、1858年9月… 熊本 寿人(くまもと ひさと〔仮、読み不詳〕、1858年9月21日(安政5年8月15日)- 1924年(大正13年)1月10日)は、明治から大正期の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・北村。 筑後国三潴郡、のちの福岡県久留米市で久留米藩士・北村養啓の二男として生まれ、三潴郡木室村中木室(現大川市)の熊本謹蔵の養子となる。和洋学を修めた。 1886年(明治19年)福岡県の花筵業振興のため合資会社共産社を設立。花筵の製造、販売に従事し、染料の改善、染釜の改良などにより製品の品質向上に尽力した。また、筑後茣蓙商同業組合頭取、福岡県花筵同業組合長などを務めた。その他、三潴銀行取締役、福岡県農工銀行監査役にも在任した。
團 琢磨(だん たくま 安政5年8月1日(1858年9月7日… 團 琢磨(だん たくま 安政5年8月1日(1858年9月7日) - 1932年(昭和7年)3月5日)は、日本の工学者、実業家。爵位は男爵。アメリカで鉱山学を学び、三井三池炭鉱の経営を行う。経営を成功させ、三井財閥の総帥となった。三井合名会社理事長、日本工業倶楽部初代理事長などを歴任した。
岩垂 邦彦(いわだれ くにひこ、安政4年8月15日(1857… 岩垂 邦彦(いわだれ くにひこ、安政4年8月15日(1857年10月2日) - 昭和16年(1941年)12月20日)は技術者、日本の実業家。日本で最初の外資との合弁企業である日本電気(NEC)の創業者。勲五等。 豊前国豊津(現在の福岡県京都郡みやこ町、旧・豊津町)に小倉藩士・喜田村修蔵の次男として生まれる。兄・寛治(娘婿・喜田村朔治の養父)は豊津中学校(現:福岡県立育徳館中学校・高等学校)教師であった。 父・修蔵は岩垂家から喜田村家に婿養子として入ったが、岩垂家の後嗣がなかったため、邦彦が岩垂家を継ぐこととなった。1868年(明治元年)[要検証 – ノート]に修蔵が東京で暗殺されたため、仇討ちを志して兄とともに上京した。
麻生 太吉(あそう たきち、1857年8月26日(安政4年7… 麻生 太吉(あそう たきち、1857年8月26日(安政4年7月7日) - 1933年(昭和8年)12月8日)は日本の炭鉱業者、実業家、政治家。第92代内閣総理大臣麻生太郎の曽祖父。
石橋 喜祐(いしばし きゆう、1857年4月27日〈安政4年… 石橋 喜祐(いしばし きゆう、1857年4月27日〈安政4年4月4日〉 - 没年不明)は、日本の篤農家、実業家。石材販売合資会社代表社員。早良銀行、姪浜魚市、姪浜石材各取締役。族籍は福岡県平民。 福岡県平民・石橋太七の二男。1874年5月、分家して一家を創立した。銀行、会社役員である。住所は福岡県早良郡姪浜町(現・福岡市西区姪浜)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
永江 純一(ながえ じゅんいち、1853年3月18日(嘉永6… 永江 純一(ながえ じゅんいち、1853年3月18日(嘉永6年2月9日)- 1917年(大正6年)12月9日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 筑後国三池郡江浦村(現:福岡県みやま市)で、永江藤次郎の長男として生まれる。中野南強から漢学を学び、西田幹治郎の私塾を経て、平戸に遊学。明治維新後、長崎で英学を東京で法律を学んだ。弟の死去に伴い帰郷した。野田卯太郎らの同志と自由民権運動に尽力。また、同志と筑後白日会を結成し国権主義を主張した。 1878年、永治村戸長に就任。その後、江浦村戸長を兼務し、三池郡町村連合会議員、福岡県会議員を歴任。1892年2月の第2回衆議院議員総選挙の選挙運動中に政敵の迫害を受け、大牟田川畔で襲撃を受けて足を負傷し歩行が困難となった。
石田 平吉(いしだ へいきち、1853年1月24日(嘉永5年… 石田 平吉(いしだ へいきち、1853年1月24日(嘉永5年12月15日)- 1929年(昭和4年)11月18日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・元満。 筑前国福岡城下(現福岡市)で、福岡藩陪臣・元満元二の長男として生まれる。漢学を修めた。 維新後に商売を営むが成功せず、1874年(明治7年)博多に移転し回漕業を営む。郵便汽船三菱会社の岩崎弥太郎と面談して同社保有船の博多寄港の約束を取り付けた。1877年(明治10年)10月、先代石田平吉の養子となり家督を相続し旅人宿業を営む。西南戦争では陸軍物資の輸送に従事。1889年(明治22年)九州鉄道の敷設に際して建築資材の運搬を担った。
大藪 房次郎(おおやぶ ふさじろう、1852年2月9日(嘉永… 大藪 房次郎(おおやぶ ふさじろう、1852年2月9日(嘉永5年1月20日)- 1927年(昭和2年)5月2日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 筑後国御井郡久留米城下苧扱川町(現福岡県久留米市本町)で、富豪・大藪萬蔵の長男として生まれる。1900年(明治33年)8月に分家した。 第六十一国立銀行取締役、久留米紡績会社社長、筑後水力電気顧問、大川鉄道顧問などを務め、市営瓦斯事業の開始などに尽力し、貧困層への義捐などを行った。 政界では、1889年(明治22年)4月の市制施行の際に久留米市会議員に選出されたが数ヶ月で辞職。その後、市参事会員に就任。1889年(明治22年)4月から1914年(大正3年)まで久留米市会議員に選出され、その他、所得税調査委員会会長、宅地価修正委員会会長などを務めた。
倉田 雲平(くらた うんぺい、嘉永4年4月〈1851年5月〉… 倉田 雲平(くらた うんぺい、嘉永4年4月〈1851年5月〉 - 大正6年〈1917年〉6月)は、日本の実業家、足袋職人。主として明治時代から大正時代にかけて活動した人物であり、ムーンスターの創業者である。足袋王、九州の足袋王あるいは久留米の足袋王と異名される。大正3年(1914年)に緑綬褒章を受章している。 倉田家の祖先は武士であり、江戸時代に久留米藩に出仕して御先手物頭を務めたこともあったとされる。やがて町人に転向してからは、両替商や呉服商、米穀商を営む豪商となったが、水難事故や火災などに相次いで遭遇したために、家の経済力は徐々に衰退していき、雲平が生まれる頃には煎餅屋を経営していた。 雲平は、嘉永4年4月(1851年5月)、筑後国御井郡(現在の福岡県久留米市)の米屋町に五男一女の末子として出生した。