大石 千代子(おおいし ちよこ、1907年2月7日 - 19… 大石 千代子(おおいし ちよこ、1907年2月7日 - 1979年1月5日)は、日本の小説家。福岡県出身。第9回芥川賞候補。 1907年福岡県京都郡豊津町生まれ。京都高等女学校(現・福岡県立京都高等学校)卒業。本名は有山千代子。鶴田知也らの同人誌「村の我等」に参加。ブラジルやフィリピンに滞在した経験を持ち、移民や大陸開拓の題材が多い。
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大石 千代子(おおいし ちよこ、1907年2月7日 - 19… 大石 千代子(おおいし ちよこ、1907年2月7日 - 1979年1月5日)は、日本の小説家。福岡県出身。第9回芥川賞候補。 1907年福岡県京都郡豊津町生まれ。京都高等女学校(現・福岡県立京都高等学校)卒業。本名は有山千代子。鶴田知也らの同人誌「村の我等」に参加。ブラジルやフィリピンに滞在した経験を持ち、移民や大陸開拓の題材が多い。
火野 葦平(ひの あしへい、1907年〈明治40年〉1月25… 火野 葦平(ひの あしへい、1907年〈明治40年〉1月25日 - 1960年〈昭和35年〉1月24日)は、日本の昭和戦前・戦後期の小説家。本名:玉井 勝則。 早くから文学を志し、早大在学中『街』の創刊に参加。労働運動に参加するも検挙され転向した。日中戦争応召中に『糞尿譚』が芥川賞を受賞。次いで『麦と兵隊』以下3部作が評判を呼んで、兵隊作家としてマスコミの寵児となった。そのため、戦後は戦犯作家として指弾される。その後、筆力を揮って再び活躍したが、睡眠薬を用いて自殺した。甥にアフガニスタンで亡くなった医師の中村哲、Jリーグ・ギラヴァンツ北九州を運営する株式会社ギラヴァンツ北九州取締役会長の玉井行人がいる。
森友 政勝(もりとも まさかつ、1907年〈明治40年〉1月… 森友 政勝(もりとも まさかつ、1907年〈明治40年〉1月8日 - 1982年〈昭和57年〉11月18日)は、戦時中から戦後にかけて日本における農業実習を説いた人物である。 福岡県田川郡香春町生まれ、福岡県立田川農林高等学校を経て鳥取高等農業学校(現・鳥取大学農学部)、農林省(現・農林水産省)を経て、秋田県農業試験場で研究員として勤務していたが、第二次世界大戦で森友三治(満州国副参事官、満州国にて死亡)、森友一(日本海軍、戦死)が亡くなり森友家の跡継ぎ不在となったため、福岡県へ帰郷。帰郷後も農業研究の経験を活かし、農業実習の指導や農村における副業についても研究・指導、また国連職員としてモンゴルでの農業普及にも貢献した。
森部 静武(もりべ しずたけ、1906年(明治39年)11月… 森部 静武(もりべ しずたけ、1906年(明治39年)11月19日 - 1994年(平成6年)7月14日)は、日本のヴァイオリニスト。九州交響楽団専務理事。勲五等瑞宝章を1978年(昭和53年)に受賞。父は陸軍少将の森部静夫。 鈴木章に師事していた。 福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)卒業後、早稲田高等学院商科に進むも1928年(昭和3年)に中退。1930年(昭和5年)、東邦電力に入社。1935年(昭和10年)、九州鉄道(現・西日本鉄道)に入社。1961年(昭和36年)スポーツセンター常務に就任し、1967年(昭和42年)に退任。 学生時代からヴァイオリンを始め、戦前はヴァイオリニストとしてNHKに出演。戦後の1953年(昭和28年)九州交響楽団設立にあたり、懇意であった石丸寛と行動をともにする。
岩下 俊作(いわした しゅんさく、1906年11月16日 -… 岩下 俊作(いわした しゅんさく、1906年11月16日 - 1980年1月30日)は、日本の小説家。本名:八田秀吉。福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区)生まれ。 旧福岡県立小倉工業学校(現福岡県立小倉工業高等学校)機械科卒業。1928年から1961年まで八幡製鉄所に勤務した。1938年、同郷の芥川賞作家・火野葦平や劉寒吉らと共に同人誌「九州文学(第二期)」に参加し、代表作となる『富島松五郎伝』(「九州文学」1939年10月号。「オール讀物」1940年6月号)で、1939年下半期・第10回直木賞候補、翌1940年上半期・第11回直木賞候補に挙げられるも受賞ならず。さらに、「辰次と由松」で同年下半期・第12回直木賞候補、「西域記」で1943年上半期・第17回直木賞候補となったが、いずれも受賞できなかった。
県 満天雄(あがた まんてんゆう、1906年(明治39年)9… 県 満天雄(あがた まんてんゆう、1906年(明治39年)9月26日 - 1922年(大正11年)7月12日)は日本の詩人。福岡県出身。 福岡県福岡市生まれ。生後間もなく父の赴任先である旧・満州に一家で転居。1912年福岡に戻り、1913年には東京へ転居した。日本橋区箱崎小学校に入学するが、1914年に麹町区麹町小学校へ転入し卒業、1919年明治中学校(現:明治大学付属明治高等学校・中学校)に入学。この頃、独学で詩作活動を始める。明治中学在学中の1921年、学校遠足の帰りに雨に濡れ体調を崩し3週間病床に伏し、一旦は回復するも再び入院。その後、通学出来るまでに回復するが、担当医師の勧めで千葉県安房郡北条町(現:館山市)北条に療養のため転居。
劉 寒吉(りゅう かんきち、1906年(明治39年)9月18… 劉 寒吉(りゅう かんきち、1906年(明治39年)9月18日 - 1986年(昭和61年)4月20日) は、日本の昭和期の小説家。本名は 濱田 陸一(はまだ りくいち)。 1906年(明治39年)9月18日 福岡県小倉市、魚町33番地(現 北九州市小倉北区、魚町2丁目4番21号)で 父 濱田源治 母 マツの長男として生まれた。名は陸一。生家は、旧小倉藩小笠原公の砂糖御用達商人「濱田屋」。1925年(大正14年)小倉市立小倉商業学校(現 福岡県立小倉商業高等学校)卒業。 在学中より文学の道に進み、同人誌『悟桐』を創刊。1925年(大正14年)9月、同人誌『公孫樹』を創刊。1938年(昭和13年)『九州文学』創刊以来、1983年(昭和58年)12月号の第464号で休刊するまで、48年間『九州文学』の大黒柱として、編集経営に尽力した。
立木 勝(たき まさる、1906年8月2日 - 1987年4… 立木 勝(たき まさる、1906年8月2日 - 1987年4月13日)は、大分県知事(1971年 - 1979年)。官選も含めると第45・46代、公選のみでは第7・8代にあたる。 福岡県京都郡行橋町(※現在の行橋市、本籍は大分県大分市坂ノ市)出身。旧制大分中学校(現大分上野丘高校)、旧制第三高等学校を経て、1931年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、東京市社会局、京城府の小林鉱業に勤務。 終戦後に大分市役所に入り、1953年に大分県庁に移る。1955年に木下郁が県知事に当選すると、総務部長に抜擢され、総務部長、出納長、副知事として16年間の木下県政の女房役を務めた。 1971年に木下が引退すると、その後を継いで大分県知事に初当選。
朱牟田 夏雄(しゅむた なつお、1906年6月29日 - 1… 朱牟田 夏雄(しゅむた なつお、1906年6月29日 - 1987年10月18日)は、日本の英文学者。東京大学名誉教授。
浜村 純(はまむら じゅん、1906年〈明治39年〉2月7日… 浜村 純(はまむら じゅん、1906年〈明治39年〉2月7日 - 1995年〈平成7年〉6月21日)は、日本の俳優。本名:武内 武。 福岡県糟屋郡宇美町馬場出身。福岡市立商業学校卒業。新倉事務所に所属していた。 戦前は新築地劇団や劇団文化座などに所属して舞台俳優として活動。戦後は映画俳優として、数多くの話題作や名作に出演する。総出演本数は約300本に上る。個性的で幅の広い演技に定評があり、日本映画屈指の名バイプレーヤーとして活躍した。 1906年(明治39年)2月7日、福岡県糟屋郡宇美町馬場に、呉服商の父・伴太郎と母・むめの3男1女の三男として生まれる。宇美尋常高等小学校を経て1926年(大正15年)に福岡市立商業学校を卒業。
山崎 小五郎(やまざき こごろう、1905年〈明治38年〉1… 山崎 小五郎(やまざき こごろう、1905年〈明治38年〉11月10日 - 1976年〈昭和51年〉8月2日)は、日本の海上自衛官、逓信・運輸通信・運輸官僚。第24代運輸事務次官、海上保安庁次長、初代海上幕僚長。最終階級は海将。 Y委員会の一員として海上自衛隊の創設に尽力し、MSA協定に基づく日米艦船貸与協定を締結、護衛艦の国産を開始。コーストガードからネイビーへの橋渡しを終えて運輸省へ戻り事務方の頂点に就任する。 福岡県出身。山崎迂太郎の五男として生まれる。東筑中学、第七高等学校造士館を経て、1931年(昭和6年)3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。1929年(昭和4年)12月に高等試験司法科試験、1930年(昭和5年)10月、高等試験行政科試験にそれぞれ合格。
島野 武(しまの たけし、1905年(明治38年)9月20日… 島野 武(しまの たけし、1905年(明治38年)9月20日 - 1984年(昭和59年)11月6日)は、日本の政治家、弁護士。元・仙台市長。 島野翠・はる夫妻の子として福岡県福岡市荒戸町に生まれる。島野家は伊達政宗以来の仙台藩士の家柄で、家格は納戸奉行などを務める大番士であった。父翠は同じく大番士の小野家から島野家に養子に入った人物で、陸軍に入り陸軍大佐まで進み、退役後には仙台藩士会会長、仙台市会議員を務めていた。 1908年(明治41年)、父の退役に伴い仙台市に移る。1912年(明治45年)、宮城県立師範学校附属小学校(現在の宮城教育大学附属小学校)に入学し、1年から6年まで級長を務めた。1918年(大正7年)、旧制宮城県立第一中学校に一番で入学し、その後には父の薦めで陸軍幼年学校を受験したが、視力が足りずに身体検査で不合格となった。
福井 英一郎(ふくい えいいちろう、1905年9月9日 - … 福井 英一郎(ふくい えいいちろう、1905年9月9日 - 2000年11月3日)は、日本の気候学者・自然地理学者。東京教育大学名誉教授。門下から多数の気候学者を輩出した「日本の気候学の父」。 1905年、福岡県福岡市に生まれ育った。旧制福岡高等学校を経て、東京帝国大学理学部地理学科で学んだ。1928年に卒業。 卒業後は、日本大学、立正大学、東京府立第一中学校(東京都立日比谷高等学校の前身)などで教鞭を執った。1930年4月、東京文理科大学の助手に採用。1933年、学位論文『日本気候論』を東京帝国大学に提出して理学博士の学位を取得。 1939年1月、大日本帝国陸軍気象部嘱託を兼ねるようになり、同年4月には東京文理科大学専任講師に昇任した。
与田 凖一(よだ じゅんいち、1905年6月25日(戸籍上は… 与田 凖一(よだ じゅんいち、1905年6月25日(戸籍上は8月2日生まれ) - 1997年2月3日)は、日本の児童文学者・詩人。昭和期の日本の児童文学界において指導的役割を担った。作詞家を担当、巽聖歌らと親交を結びその後も本格的な執筆活動を開始し、1929年に初の童謡集「旗・蜂・雲」を出版した。作詞家橋本淳の父。ドイツ文学翻訳の与田静(1942- )は長女。與田凖一、与田準一の表記もある。日本ペンクラブ会員。 1905年、福岡県山門郡瀬高町(現在のみやま市瀬高町)に浅山与太郎、スエの次男として生まれた。翌年、親戚の与田家の養子となり、以降は与田姓を名乗った。養父母を相次いで亡くしたため、実家である浅山家で育つ。
船越 平八郎(ふなこし へいはちろう、1905年(明治38年… 船越 平八郎(ふなこし へいはちろう、1905年(明治38年)3月4日 - 没年不明)は、昭和時代の政治家。福岡県筑紫野市長。 福岡県筑紫野市出身。 1922年(大正11年)福岡県立朝倉中学校卒業。 1937年(昭和12年)山口村議会議員当選。1942年(昭和17年)、1947年(昭和22年)の連続三選する。 1949年(昭和24年)山口村長選当選、山口村村長となり、1953年(昭和28年)まで村長を務める。 1955年(昭和30年)筑紫野町議会議員当選。1959年(昭和34年)、1963年(昭和38年)の連続三選する。 1967年(昭和42年)筑紫野町長選にて当選、筑紫野町長となる。 1972年(昭和47年)4月1日の市制施行にあたり、初代筑紫野市長となる。
渋川 驍(しぶかわ ぎょう、1905年3月1日 - 1993… 渋川 驍(しぶかわ ぎょう、1905年3月1日 - 1993年1月24日)は、日本の小説家、文芸評論家。福岡県福岡市生まれ。本名・山崎武雄。東京帝国大学倫理学科卒。同人誌『日暦』、『人民文庫』などに参加して小説家として立つ。1938年、『龍源寺』で第7回芥川龍之介賞候補。戦後は評論にも進出した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
広田 精一郎(ひろた せいいちろう、1905年1月25日 -… 広田 精一郎(ひろた せいいちろう、1905年1月25日 - 1993年8月2日)は、日本の経営者。 福岡県遠賀郡遠賀町出身。1927年に広島高等工業学校を卒業し、同年に東洋レーヨン(のちの東レ)に入社。 名古屋、滋賀での各工場長を務め、1956年に取締役に就任し、1963年に副社長に就任し、1966年から1971年までに社長を務めた。 1968年に藍綬褒章を受章。 1993年8月2日急性心不全のために死去。88歳没。
足達 左京(あだち さきょう、1905年 - 1988年1月… 足達 左京(あだち さきょう、1905年 - 1988年1月30日)は、日本の気象技術者。海軍技術中佐。 福岡県柳川市出身。1923年福岡県立中学修猷館、1927年第五高等学校理科甲類を経て、1930年京都帝国大学理学部地球物理学科卒業。 1931年神戸高等商船学校教授に就任するが、1939年海軍水路部に転じ、気象予報を担当する。1943年海軍の要請により、海軍気象部において、特殊兵器「風船爆弾」の気球の開発に従事した。最終階級は海軍技術中佐。 1954年日本電建に入社。1964年に退職し、戦史の研究に従事。1976年渡米し、アメリカ本土の風船爆弾の攻撃の跡を訪ねている。
馬場 菊太郎(ばば きくたろう、1905年 - 2001年1… 馬場 菊太郎(ばば きくたろう、1905年 - 2001年11月30日)は、日本の後鰓類学者。福岡県糸島郡波多江村(現・糸島市波多江)出身。
長谷 健(はせ けん、1904年10月17日 - 1957年… 長谷 健(はせ けん、1904年10月17日 - 1957年12月21日)は、日本の小説家、児童文学者。 福岡県山門郡東宮永村下宮永北小路(現・柳川市下宮永町)生まれ。ちなみに、東宮永小学校は琴奨菊関の母校でもある。旧姓は堤、本名は藤田正俊。1925年(大正14年)福岡師範学校卒業。柳川の城内小学校教師をしたのち1929年(昭和4年)に上京、神田区の芳林小学校に勤務。このころからペンネームを長谷健とする。1932年(昭和7年)浅草区浅草小学校に転勤。1934年(昭和9年)に同人誌『教育文学』を創刊し、1936年(昭和11年)には『白墨』を創刊する。小学校教師として教育にあたり、文学者としても活動を行う。
石橋 英樹(いしばし ひでき、1904年10月13日 - 没… 石橋 英樹(いしばし ひでき、1904年10月13日 - 没年不詳)は、日本の実業家、電気技術者。 石橋茂樹の長男として、福岡県に生まれる。1922年福岡県立中学修猷館、1925年3月旧制福岡高等学校理科甲類を経て、1928年九州帝国大学工学部電気工学科を卒業。 1928年三菱電機神戸製作所に入社。同年から1930年まで米国ウェスティングハウス社に留学。1954年技術部長、1958年神戸製作所長を経て、1960年11月取締役となる。1963年11月電子事業部長を委嘱される。1966年11月退任。 1967年5月三菱プレシジョン副社長を経て、1969年5月社長に就任。
鬼木 勝利(おにき かつとし、1904年〈明治37年〉10月… 鬼木 勝利(おにき かつとし、1904年〈明治37年〉10月6日 - 1984年〈昭和59年〉2月10日)は、日本の政治家。参議院議員(1期)、衆議院議員(2期)。 福岡県甘木市(現朝倉市)出身。創価学会八女支部長を務める。 1959年、福岡県議会議員選挙に、福岡市早良区選挙区から無所属で立候補し、当選する。 1962年7月1日、第6回参議院議員通常選挙に、全国区から公明政治連盟公認候補として立候補し、当選する。 1964年11月17日、公明党結成に参加する。 1969年12月27日、第32回衆議院議員総選挙に福岡3区から立候補し、当選する(以降2期)。 1972年12月10日、第33回衆議院議員総選挙に立候補し、落選する。
末松 保和(すえまつ やすかず、1904年(明治37年)8月… 末松 保和(すえまつ やすかず、1904年(明治37年)8月20日 - 1992年(平成4年)4月10日)は、日本の歴史学者。学習院大学名誉教授。文学博士。専門は朝鮮史。 1904年(明治37年)、福岡県田川郡弓削田村(のち田川市)生まれ。福岡県立小倉中学校・佐賀高等学校文科甲類を経て、東京帝国大学文学部国史学科に入学。1927年に卒業した。 卒業後は朝鮮総督府朝鮮史編修会に修史官として勤務。『朝鮮史』などの編修事業に従事し、1933年から京城帝国大学法文学部助教授を経て、1939年に同教授に昇格した。 敗戦にともない引上げ帰国。1947年に学習院教授に招聘され、1949年学習院大学開学とともに文政学部教授に就いた。
米田 正文(よねだ まさふみ、1904年8月14日 - 19… 米田 正文(よねだ まさふみ、1904年8月14日 - 1984年6月20日)は、日本の内務及び建設官僚、政治家。参議院議員(3期)。 現在の福岡県田川郡添田町出身。佐賀高等学校理科甲類を経て、1928年(昭和3年) 九州帝国大学工学部土木学科卒業後、内務省入省、内務技師として奉職する。 1933年(昭和8年)8月、満洲国国道局技正(薦任七等)へ採用(この際、内務省は依願退職の形となっている)。満洲国では、時期不明ながら、満洲国国道局技正、奉天省交通庁長を務めており、1940年(康徳7年・昭和15年)9月に安東省公署土木廳から交通部遼河治水調査處に転じていることが確認できる。その後、1941年(康徳8年・昭和16年)までには大東港建設局處長となっており、岸信介、直木倫太郎らの支持の下、事業の推進にあたっている。
若松 満則(わかまつ みつのり、1904年7月29日 - 1… 若松 満則(わかまつ みつのり、1904年7月29日 - 1945年9月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中佐。
生汐 左衛門(いくしお さえもん、1904年4月26日 - … 生汐 左衛門(いくしお さえもん、1904年4月26日 - 没年不明)は、福岡県柳川市出身で、陸奥部屋に所属した元大相撲力士。本名は近藤 儀一郎。最高位は十両6枚目。 陸奥部屋に入門し、1923年1月序ノ口に就く。1932年5月十両に昇進。十両は2場所とも負け越しに終わった。1935年5月廃業。
秋山 清(あきやま きよし、1904年4月20日 - 198… 秋山 清(あきやま きよし、1904年4月20日 - 1988年11月14日)は、福岡県小倉市(現・北九州市)出身の詩人、アナキスト。終戦まで局(つぼね)清のペンネームを用いる。 1904年、福岡県小倉市(現・北九州市)で生まれる。小倉中学(現・県立小倉高)を経て日本大学中退。1924年創刊のアナーキズム系の詩誌『詩戦行』に参加。1930年、小野十三郎と『弾道』創刊。第二次世界大戦後、1946年、金子光晴、岡本潤、小野十三郎とともに詩誌『コスモス』を創刊。アナキスト連盟や新日本文学会常任委員の活動のかたわら、『新日本文学』、『現代詩』に詩や評論を発表。詩史や自伝、作家論などの著作も多い。
三浦 義男(みうら よしお、1904年(明治37年)3月9日… 三浦 義男(みうら よしお、1904年(明治37年)3月9日 - 1999年(平成11年)1月31日)は、日本の官僚。官選山形県知事、衆議院法制局長。旧姓・妹川。位階は正三位。 福岡県福岡市出身。妹川将雄の四男として生まれ三浦良幹の婿養子となる。第五高等学校を経て、1929年、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。前年10月、高等試験行政科試験に合格。 1929年、内務省に入り愛知県属となる。以後、茨城県学務課長などを務め、宮内省に転じた。帝室林野局庶務課長、宮内省参事官、内匠寮監理、内蔵寮用度、大膳寮庶務、主馬寮庶務、宮内省大臣官房連絡事務室長などを歴任。 福島県内務部長を経て、1946年10月、山形県知事に就任し1947年3月まで在任。
進藤 一馬(しんとう かずま、1904年(明治37年)1月1… 進藤 一馬(しんとう かずま、1904年(明治37年)1月1日 - 1992年(平成4年)11月28日)は、日本の政治家、実業家。 早稲田大学政治経済学部卒業後、中野正剛秘書、西日本新聞社の前身の九州日報社取締役を経て、玄洋社社長となる。戦後に自由民主党に加わり、衆議院議員を経て、福岡市市長を4期務めた。 福岡市西職人町(現中央区舞鶴)出身。旧福岡藩士・進藤喜平太(玄洋社の創立者の一人)の四男。 旧制福岡中学校(現・福岡県立福岡高等学校)、早稲田大学政治経済学部卒業。1929年(昭和4年)、中野正剛の秘書となり、1933年(昭和8年)に中野が結成した東方会に入会し総務部長となる。その後、九州日報社(現・西日本新聞社)取締役を経て、1944年(昭和19年)10月、第10代玄洋社社長に就任し、1946年(昭和21年)にGHQにより解散させられるまで社長を務めた。
林 芙美子(はやし ふみこ、1903年〈明治36年〉12月3… 林 芙美子(はやし ふみこ、1903年〈明治36年〉12月31日 - 1951年〈昭和26年〉6月28日)は、日本の小説家。本名フミコ。身長140cm少々。 幼少期からの不遇の半生を綴った自伝的小説『放浪記』(1928年)で一躍人気作家となる。詩情豊かな文体で、暗い現実をリアルに描写する作風。一貫して庶民の生活を共感をこめて描き、流行作家として明治・大正・昭和を駆け抜けた。作品に『風琴と魚の町』(1931年)、『晩菊』(1948年)、『浮雲』(1951年)などがある。 著書『放浪記1 林芙美子文庫』の後書きでは山口県下関市生まれとなっている。尾道市立高等女学校(現・広島県立尾道東高等学校)卒。私生児として生まれ、養父・実母と共に行商を営みながら日本の各地を放浪する生活の中で、露天商やカフェの女給等の様々な職業を経験している。
木部 シゲノ(きべ シゲノ、1903年(明治36年)11月1… 木部 シゲノ(きべ シゲノ、1903年(明治36年)11月12日 - 1980年(昭和55年)7月29日)は、日本の女性パイロットの草分けのひとりである。NHKの連続テレビ小説『雲のじゅうたん』のモデルのひとりといわれる。 福岡県築上郡八屋町上町久保(後の豊前市)出身。3歳のときに一家で朝鮮の平安南道鎮南浦(後の北朝鮮南浦特別市)に移住し、父は海産物商を営んだ。シゲノは幼少から男まさりの気性であったとされる。 女学校を卒業後、1923年(大正12年)に上京しシゲノは、蒲田にあった日本自動車学校の航空科で航空力学や発動機学を学んだのち、同年5月5日に神奈川県橘樹郡潮田町(後の横浜市鶴見区)で開校した第一航空学校に入学。
吉田 秀雄(よしだ ひでお、1903年11月9日 - 196… 吉田 秀雄(よしだ ひでお、1903年11月9日 - 1963年1月27日)は、日本の実業家。電通の経営者で、「鬼十則」を作るなど広告の鬼と呼ばれていた。 1903年(明治36年)渡辺勝五郎の次男として、福岡県小倉市(現・北九州市)に生まれる。勝五郎は市内の鉄工所で働いていたが、秀雄が小学校に上がるころに解雇されてしまう。そこで父は家族のことを考え、1910年(明治43年)、単身台湾に渡ることを決意する。翌年、母親サトは幼い子供を連れて勝五郎に続く。秀雄は小学校2年生、兄は小学4年生、妹は5歳と3歳のときであった。しかし、生活が向上することはなく、1913年(大正2年)、勝五郎一人を残して再び小倉に戻る。
照山 岩男(てるやま いわお、1903年8月30日 - 没年… 照山 岩男(てるやま いわお、1903年8月30日 - 没年不詳)は、日本のゴルフ選手、ゴルフコース設計者、ゴルフ場支配人。九州初のプロゴルファー、学士プロゴルファー第2号(村上伝二に次ぐ)である。 福岡市出身。父が筑豊の炭鉱王伊藤伝右衛門の会社の支配人をしていた関係で、伝右衛門の妻・伊藤白蓮(燁子)とともに、別府市の伊藤別荘(伝右衛門が白蓮のために建設したとされる)に一時滞在していたが、その間に、のちに白蓮事件を起こす宮崎龍介と白蓮が、1920年1月31日に初めて別府の楠港で出会った場に、ただ一人白蓮に連れられて立ち会っている。地域情報誌「月刊アドバンス大分」の1974年の記事において「その朝、別府桟橋まで宮崎を迎えに行く燁子(あきこ)に同行したが、黄八丈の袷に縫紋の羽織を着た燁子の姿をまぶしいまでに覚えている」と語っている。
三池山 大五郎(みいけやま だいごろう、1903年8月8日 … 三池山 大五郎(みいけやま だいごろう、1903年8月8日 - 1951年3月22日)は、昭和時代の大相撲力士。陸奥部屋所属。本名は松井 善次。最高位は十両9枚目。 福岡県大牟田市出身。陸奥部屋に入門し、1922年5月、「葉颪」の四股名で初土俵を踏む(のち「三池山」に改名)。1928年1月十両に昇進。この場所は2勝8敗1分と負け越した。昭和初期は東京場所と地方場所とで別々に番付が作成されたため、三池山の場合、東京場所では成績が良い反面、地方場所では不振となり、十両に昇進した次の場所の1928年3月では三段目の地位にあった。十両は在位1場所で終わり、復帰することはなかった。1930年10月に廃業。
古賀 繁一(こが しげいち、1903年4月20日 - 199… 古賀 繁一(こが しげいち、1903年4月20日 - 1992年12月4日)は、日本の経営者、造船技術者。三菱重工業社長、会長を務めた。福岡県出身。 福岡県柳川市の出身で旧制伝習館中学、旧制第五高校を経て、1926年に東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業し、同年に三菱造船に入社した。戦艦「武蔵」の設計に携わっていた。1964年に三菱重工業専務に就任し、1971年12月に社長に昇格した。1973年5月から1977年までに会長を務め、1977年から相談役を務めた。 国際貿易促進協会副会長、成蹊学園理事長なども歴任した。 1967年に藍綬褒章を受章し、1973年に勲一等瑞宝章を受章した。 1992年12月5日肺炎のために死去。
釜瀬 冨士雄(かませ ふじお、1903年4月9日 - 198… 釜瀬 冨士雄(かませ ふじお、1903年4月9日 - 1985年[要出典])は、日本の教育者。学校法人九州学園理事長。 九州学園創立者釜瀬新平の長男として福岡市に生まれる。1921年福岡県立中学修猷館を経て、1926年東京帝国大学文学部心理学科を卒業。 1928年6月旧制松本高等学校教授となり、1950年2月福岡県教育委員会に転じ、1955年4月久留米大学商学部教授に就任。 1960年6月九州学園理事長および九州女子高等学校(現・福岡大学附属若葉高等学校)校長に就任。1966年4月福岡女子短期大学を創設し学長を兼ねる。
新開 長英(しんかい ながふさ、1903年3月24日 - 1… 新開 長英(しんかい ながふさ、1903年3月24日 - 1985年8月5日)は、日本の哲学者。 福岡県田川市出身。1928年九州帝国大学法文学部哲学科卒、旧制広島高等学校教授、福岡高等学校教授、1932年九大助教授、1942年神宮皇學館教授に転じる。戦後は北九州大学教授、九州産業大学教授を務めた。
安川 寛(やすかわ ひろし、1903年1月12日 - 199… 安川 寛(やすかわ ひろし、1903年1月12日 - 1999年2月18日)は、日本の経営者、工学博士。安川電機社長、会長を務めた。福岡県北九州市出身。 旧制小倉中学校を経て、1927年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、1934年に東京帝国大学大学院を修了。東京大学で講師、航空研究所嘱託として勤務し、1936年に安川電機製作所取締役に就任。1944年に社長に就任し、1972年に会長を経て、1985年に名誉顧問に就任。 北九州商工会議所会頭、福岡大学理事長、エフエム九州社長、日本電機工業会会長、日本経営者団体連盟常任理事なども歴任。 1964年に藍綬褒章を受章し、1973年に勲二等瑞宝章を受章。
荒牧 寅雄(あらまき とらお、1902年11月22日 - 1… 荒牧 寅雄(あらまき とらお、1902年11月22日 - 1994年8月8日)は、日本の自動車技術者、実業家。いすゞ自動車社長や、同社会長、自動車技術会会長、日本兵器工業会会長などを務めた、正四位勲二等瑞宝章。 福岡県田川郡糸田町出身。1926年横浜高等工業学校(現横浜国立大学理工学部)機械工学科卒業、東京帝国大学工学部助手。1928年東京石川島造船所入社、自動車部。1937年東京自動車工業鶴見製造所設計課長。1944年ヂーゼル自動車工業技術部次長。1946年同社取締役。1952年いすゞ自動車常務取締役。1962年同社専務取締役、自動車技術会会長。1966年藍綬褒章受章。同年からいすゞ自動車取締役副社長を務め、1970年からは代表取締役社長としてゼネラルモーターズとの提携を行った。
渋田 黎明花(しぶた れいめいか、1902年11月12日 -… 渋田 黎明花(しぶた れいめいか、1902年11月12日 - 1978年10月10日)は、昭和時代日本の小説家、作詞家、俳人。本名は渋田 喜久雄(しぶた きくお)で、作詞家としては戦前・戦後を通じて多数のペンネームを使い分けていた。 1902年(明治35年)、福岡県糟屋郡席内村(現在の古賀市)庄に生まれる。吏員だった父親の転勤により、新潟県西蒲原郡赤塚村(現在の新潟市西区赤塚)で幼少の一時期を過ごした。 福岡へ戻った後は官営八幡製鐵所付属の幼年職工養成所を卒業し、旋盤工を務めていたが文芸を志して上京、1930年(昭和5年)に『サンデー毎日』誌の大衆文芸へ応募した時代小説『変幻花鳥図』が佳作を受賞、同年5月1日号に掲載される。
馬場 義続(馬場 義續。、ばば よしつぐ、1902年11月3… 馬場 義続(馬場 義續。、ばば よしつぐ、1902年11月3日 - 1977年2月24日)は、日本の検察官。位階は正三位。元検事総長。子に馬場義宣(弁護士、学習院大法科大学院教授、元最高検公安部長、法務省保護局長)。 福岡県(現 朝倉市秋月)出身。生家は貧乏であったが、幼少期よりすべての科目で秀才の誉れが高く、特に数学では並外れた才能を持っていたため、上級学校進学の援助者があり、田川中学、五高を経て、1927年3月に東京帝国大学法学部法律学科英法科卒業。同年12月に高文行政科・司法科試験に二度目で八番で合格。 翌年の1928年に司法官試補、1929年に検事任官。同期の柳川真文、井本臺吉らと共に“3羽ガラス”と称され、一期下に田中萬一がいた。
甲木 保(かつき たもつ、1902年(明治35年)11月1日… 甲木 保(かつき たもつ、1902年(明治35年)11月1日 - 1975年(昭和50年)11月30日)は、昭和期の文部官僚、実業家、政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県三潴郡蒲池村(現柳川市)で、甲木鹿松の二男として生まれる。福岡県立中学伝習館(現福岡県立伝習館高等学校)を経て、1926年(大正15年)日本大学専門部法律科を卒業した。 文部省に入省し、同省嘱託、文部属兼厚生属、文部理事官などを歴任。1942年(昭和17年)大政翼賛会に転じ、錬成部副部長に就任。1944年(昭和19年)翼賛会を退職し、三笠製薬研究所を設立。戦後に株式会社に改組し三笠製薬社長に就任。三笠物産社長も務めた。 1949年(昭和24年)1月、第24回衆議院議員総選挙で福岡県第3区から民主自由党所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
稲富 稜人(稻富 稜人、いなとみ たかと、1902年10月1… 稲富 稜人(稻富 稜人、いなとみ たかと、1902年10月19日 - 1989年11月6日)は、日本の政治家、農民運動家。位階は従三位、勲等は勲一等。衆議院議員(13期)。 福岡県八女郡岡山村(現八女市)出身。代用教員を経て1925年に早稲田大学政経学部を卒業。卒業後は農民運動に身を投じた。平野力三率いる全日本農民組合同盟に加わり、日本農民党を経て社会民衆党に参加。その後赤松克麿・小池四郎らと日本国家社会党に参加するがこれも脱退して皇道会から東方会に移籍、1935年に浮羽郡から福岡県議に当選し2期。 1946年日本社会党から衆議院議員になったが、公職追放を受け同年6月22日に辞職。追放解除後の1953年に右派社会党から返り咲き(福岡3区)、再統一を経て1960年の民主社会党に参加。
中村 寅太(なかむら とらた、1902年8月3日 – 197… 中村 寅太(なかむら とらた、1902年8月3日 – 1978年2月14日)は、日本の政治家。位階は正三位。 運輸大臣、国家公安委員会委員長、行政管理庁長官を歴任。 現在の福岡県糸島市志摩の農家に生まれる。農業の傍ら、中野正剛の門下生となり、同志を集めて「糸島又新会」を結成、普選運動に挺身する。1933年糸島農学校を卒業後、福岡県産業組合(現在の農協の前身)に入り、1938年主事となる。1942年県農業会主事。終戦後農業会を辞職し、「農民青年連盟」を結成、書記長となる。 1947年第23回衆議院議員総選挙に同連盟から旧福岡1区から立候補し、45,889票を集めて2位で当選する(当選同期に田中角栄・鈴木善幸・中曽根康弘など)。
井浦 祥二郎(いうら しょうじろう、1902年(明治35年)… 井浦 祥二郎(いうら しょうじろう、1902年(明治35年)3月31日 - 1965年(昭和40年)7月6日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 福岡県朝倉市出身。旧制福岡県立朝倉中学校より海軍兵学校第51期入校。席次は入校時293名中70番、卒業時255名中31番。太平洋戦争中、軍令部作戦部や第六艦隊などで参謀として潜水艦作戦の立案に携わる。潜水艦に関する航空本部と同様の中央機関の必要性を訴え、潜水艦部の発足に尽力。戦後B級戦犯に問われ巣鴨刑務所に収監された。 井浦の自著によれば、将兵の娯楽ために、各地の基地に慰安所を設置することを、軍中央は公然と指示しており、各地の司令部が慰安所の管理をしたという。
楢橋 渡(ならはし わたる、1902年(明治35年)3月22… 楢橋 渡(ならはし わたる、1902年(明治35年)3月22日 - 1973年(昭和48年)11月17日)は、日本の弁護士、政治家。国民民主党最高顧問。内閣書記官長・運輸大臣を務めた。その風貌と弁舌から怪物と呼ばれた。従三位。勲二等。元衆議院議員の楢橋進は長男。 福岡県三井郡国分村(現・久留米市)に生まれる。農業・楢橋浅吉の長男。三井郡立准教員養成所を卒業後、小倉師範学校を受験するも、色盲のため不合格となり、煩悶の末出奔する。北九州鞍手郡炭坑にて5年間鉱夫として働く。その後18歳で上京し、3年間の独学を経て1923年高等文官試験司法科に合格。最年少(20歳)合格者ということで各新聞に取り上げられた。
東 勇路(あずま ゆうじ、1902年3月15日 - 没年不詳… 東 勇路(あずま ゆうじ、1902年3月15日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名中島 勇(なかじま いさむ)、芸名を東 勇治、東 勇二とクレジットされた時期もあった。小笠原明峰率いる小笠原プロダクション創立時のスター俳優であり、日活に移籍後は、現代劇のバイプレイヤーとして知られた。 1902年(明治35年)3月15日、福岡県八女郡北山村(現在の同県八女市立花町北山)に生まれる。 旧制・福岡県立八女中学校(現在の福岡県立八女高等学校)を卒業し、旧制・西南学院高等学部(現在の西南学院大学)に進学するが、中途退学し、1923年(大正12年)の小笠原プロダクションの設立に参加した。学歴については、『世界のキネマスター』(報知新聞社)には、明治大学を卒業した旨の記述がみられる。
鶴田 知也(つるた ともや、1902年2月19日 - 198… 鶴田 知也(つるた ともや、1902年2月19日 - 1988年4月1日)は日本の小説家、農業指導者。小説『コシヤマイン記』で第3回芥川龍之介賞を受賞。 1902年(明治35年)2月19日、福岡県小倉市大阪町(現:北九州市小倉北区)でに高橋乕太郎、アサの三男として生まれる。実父乕太郎は植村正久門下のクリスチャンであり、リベラルな知識人として知られていた。兄弟に音楽家高橋信夫、画家の福田新生がいる。1909年(明治42年)、7歳の時に母アサの兄にあたる鶴田和彦、ミヨ夫妻の養子となり鶴田姓となる。鉄道技師であった養父和彦の転勤に伴い、小倉市、直方市、田川市、大分市の小学校を転々とし、最後に豊津尋常高等小学校で卒業した。
毛里 英於菟(もうり ひでおと、1902年〈明治35年〉2月… 毛里 英於菟(もうり ひでおと、1902年〈明治35年〉2月16日 - 1947年〈昭和22年〉2月23日)は、日本の大蔵官僚。代表的な革新官僚であり、またそのイデオローグ・政策立案者として活躍した。筆名は鎌倉 一郎(かまくら いちろう)。 『門司新報』社長で衆議院議員でもあった毛里保太郎の次男、妻は亀井貫一郎と亀井凱夫の妹。福岡県に生まれ、小倉中学校、第五高等学校から東京帝国大学法学部を卒業後、大蔵省へ入省。企画院の幹部を歴任した。 1935年(昭和10年)、満洲国財務部に勤務していた毛里はジャーナリストの杉原正巳と意気投合し、後に杉原が主宰する雑誌『解剖時代』に次々と論文を投稿した。杉原の活動は陸軍統制派の永田鉄山の援助を受けたものであった。
納戸 徳重(のと とくしげ、1902年1月24日 - 199… 納戸 徳重(のと とくしげ、1902年1月24日 - 1991年1月4日)は、日本の陸上競技(短距離走・中距離走)選手。 東京高等師範学校在学中の1920年代半ばに400メートル・800メートルの日本記録をたびたび更新、1924年パリオリンピックに両種目と十種競技で出場した。卒業後は福岡日日新聞社(のち西日本新聞社)に入社、1952年に九州一周駅伝を創設するなど、九州の陸上競技の振興に努めた。 福岡県三潴郡城島町(現在の久留米市)に生まれる。筑後川やクリーク(水路)を泳いで遊ぶ少年時代を過ごし、中学明善校(現在の福岡県立明善高等学校)在学中には野球部・庭球部・徒歩部・剣道部で選手を務めるスポーツ万能ぶりを見せていたという。