河原 利明(かわはら としあき、1889年(明治22年)10… 河原 利明(かわはら としあき、1889年(明治22年)10月28日 - 1942年(昭和17年)10月19日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功二級 鹿児島県、現在の鹿児島市で生まれた。陸軍士官学校第24期、陸軍大学校第34期卒業卒業。1935年(昭和10年)12月に飛行第9連隊長に就任し、1936年(昭和11年)8月に陸軍航空兵大佐に進級した。1937年(昭和12年)に陸軍士官学校分校幹事に転じ、1938年(昭和13年)に陸軍航空士官学校幹事に就任。 1939年(昭和14年)3月9日に陸軍少将に進級し、8月1日に東京陸軍航空学校長に着任。1940年(昭和15年)12月に第4飛行団長に転じ、1942年(昭和17年)8月15日に南方航空輸送司令官(南方軍)に就任。
平岡 力(ひらおか りき、1889年(明治22年)9月29日… 平岡 力(ひらおか りき、1889年(明治22年)9月29日 - 1980年(昭和55年)8月2日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 鹿児島県日置郡吉利村(日吉町を経て現日置市日吉町吉利)で生まれた。陸軍士官学校第24期卒業。1938年(昭和13年)7月15日に陸軍歩兵大佐進級と同時に鹿児島連隊区司令官に着任。1940年(昭和15年)8月に歩兵第45連隊長(第11軍・第6師団・歩兵第36旅団のち第6歩兵団)に転じ、日中戦争に出動。岳州から第一次長沙作戦、第二次長沙作戦などに参加した。 1942年(昭和17年)11月に横浜連隊区司令官に就任し、1943年(昭和18年)3月に陸軍少将に進級した。
佐野 虎太(さの とらた、1889年(明治22年)8月8日 … 佐野 虎太(さの とらた、1889年(明治22年)8月8日 - 1961年(昭和36年)2月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級 鹿児島県桑原郡横川村(横川町を経て現霧島市)で生まれた。陸軍士官学校第23期卒業。青島の戦いに従軍し戦傷を受けた。1937年(昭和12年)7月20日に歩兵第80連隊補充隊長に就任し、11月1日に陸軍歩兵大佐に進級。1938年(昭和13年)5月に歩兵第23連隊長(第11軍・第6師団・歩兵第36旅団)に転じ、日中戦争に出動。武漢作戦では漢口に一番乗りの戦果を挙げ、岳州を根拠地として贛湘作戦などにも参加した。1940年(昭和15年)8月1日に熊本陸軍教導学校長に転じた。
龍野 定一(たつの ていいち、1889年(明治22年)3月6… 龍野 定一(たつの ていいち、1889年(明治22年)3月6日 - 1986年(昭和61年)7月29日)は、日本の教育者。鹿児島県立大島中学校(旧制)校長、全国公民館協議会会長などを歴任。徳之島町名誉町民、奄美市名誉市民。 1989年、鹿児島県大島郡亀津村(現・徳之島町)生まれ。亀津尋常高等小学校、旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校(現・鹿児島県立甲南高等学校)、広島高等師範学校卒業。広島高師を卒業後は、福岡県、鹿児島県、広島県、京都府で教職に就く。1924年、35歳で旧制鹿児島県立大島中学校(現・鹿児島県立大島高等学校)の第4代校長となる。学力低下および生徒指導上の問題を抱えていた旧制大島中を、後述の教育方針で再建。
竹内 可吉(たけうち かきち、1889年(明治22年)2月2… 竹内 可吉(たけうち かきち、1889年(明治22年)2月28日 - 1948年(昭和23年)12月29日)は、日本の商工官僚。商工次官、企画院総裁、貴族院勅選議員。鹿児島県出身。 鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島県立鹿児島第一中学校、第三高等学校を経て、1915年(大正4年)に東京帝国大学法科大学経済科を卒業して、農商務属となり、翌年に高等文官試験に合格した。以後、事務官、書記官、商工省工務局長、特許局長官、燃料局長官を経て、1936年(昭和11年)に商工次官に就任した。その後、臨時物資調整局次長、物価局次長を歴任して1939年(昭和14年)に退官した。 1940年(昭和15年)に企画院総裁に就任。
鮫島 二男丸(さめじま じなんまる、1889年 - 不明)は… 鮫島 二男丸(さめじま じなんまる、1889年 - 不明)は、種子島南種子町初代町長。糖業の振興、煙草の誘致、水稲の早期栽培に尽力し、1963年(昭和38年)に名誉町民の称号を贈られた。 南種子町島間の上方の農家に生まれ、学生時代から成績優秀、兵役後村長らに懇願され役場に入る。勧業主任、農会書記兼務、農会技手兼務、南種子町糖業支部長、農会副会長兼務、産業組合長。助役を経て村長に。一度辞職し、県農業委員を務めたのちに再び村長になった。この2期目の際に町制実施のため初代町長に就任(1956年〈昭和31年〉)。1959年(昭和34年)70歳の時に惜しまれて退任。その功績に報いるべく1963年(昭和38年)に胸像が役場前庭に建立された。
月野木 正雄(つきのき まさお、1888年(明治21年)11… 月野木 正雄(つきのき まさお、1888年(明治21年)11月17日 - 1972年(昭和47年)4月15日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級 鹿児島県出水郡、のちの出水市で生まれた。陸軍士官学校第22期卒業。1936年(昭和11年)8月に独立山砲兵第3連隊長に就任し、1937年(昭和12年)8月2日に陸軍砲兵大佐に進級した。盧溝橋事件発生後に戦線が拡大する中、日中戦争に出動。1938年(昭和13年)7月に近衛野砲兵連隊長に転じ、8月に南寧に出動した。 1941年(昭和16年)3月に陸軍少将に進級と同時に第13軍兵器部長に就任し、1942年(昭和17年)10月に長崎要塞司令官に転じた。
迫 栄吉(さこ えいきち、1888年(明治21年)8月1日 … 迫 栄吉(さこ えいきち、1888年(明治21年)8月1日 - 1953年(昭和28年)1月24日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍主計中将。 鹿児島県姶良郡、のちの加治木町(現姶良市)出身。陸軍経理学校第4期主計候補生として1910年(明治43年)5月24日に卒業した。1934年(昭和9年)6月28日に陸軍省経理局監査課長に就任し、8月1日に陸軍一等主計正に進級した。1937年(昭和12年)8月に第1軍経理部長に就任し、日中戦争に出動した。 1938年(昭和13年)7月に陸軍主計少将に進級し、1939年(昭和14年)8月に関東軍倉庫長に転じた。1941年(昭和16年)8月25日に陸軍主計中将に進級し、12月1日に陸軍経理学校長に就任。
岩谷 莫哀(いわや ばくあい、本名:岩谷 禎次、1888年(… 岩谷 莫哀(いわや ばくあい、本名:岩谷 禎次、1888年(明治21年)4月18日 - 1927年(昭和2年)11月20日)は、日本の歌人、編集者。鹿児島県生まれ。 鹿児島県薩摩郡宮之城村湯田(現在のさつま町)に生まれる。川内中学校(現在の鹿児島県立川内高等学校)に進学、今井白楊と同窓となり文学を志し、「秀才文壇」などに投稿。第七高等学校造士館(現在の鹿児島大学)を経て、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業。東大では尾上柴舟に学んだ。 短歌雑誌『車前草』を創刊。編集者として『桜草』や、橋田東聲主宰の『珊瑚礁』など、他の短歌雑誌でも活躍、のちに『水甕』を創刊し、同誌に専念する。 1916年、出版社「莫哀社」を起こすも事業に失敗し、翌年には明治製糖に入社して台湾に渡る。
若松 平治(わかまつ へいじ、1888年(明治21年)4月8… 若松 平治(わかまつ へいじ、1888年(明治21年)4月8日 - 1973年(昭和48年)4月11日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県薩摩郡、のちの下東郷村(川内市を経て現薩摩川内市)で生まれた。陸軍士官学校第21期卒業。1936年(昭和11年)8月に陸軍歩兵大佐に進級し、福知山連隊区司令官に就任し、1938年(昭和13年)に歩兵第45連隊長に転じた。 1939年(昭和14年)8に陸軍少将に進級し、歩兵第30旅団長に就任した。1941年(昭和16年)3月に独立混成第16旅団長に転じ、日中戦争に出動、汾陽に駐屯し、治安警備に当たった。1942年(昭和17年)2月3日に予備役に編入された。
岩切 重雄(いわきり しげお、1888年〈明治21年〉1月2… 岩切 重雄(いわきり しげお、1888年〈明治21年〉1月28日 - 1980年〈昭和55年〉1月27日)は、大正から昭和前期の政治家。衆議院議員(4期)、鹿児島市長(第13代)。号・五山。 鹿児島県鹿児島郡鹿児島城下平之馬場町(現・鹿児島市平之町)で、岩切仲二の長男として生まれた。鹿児島一中 (旧制)、第一高等学校 (旧制)を経て、1914年(大正3年)東京帝国大学法科大学政治学科卒業。 その後鳥取県属、同警視、鹿児島市助役、大蔵大臣秘書官を務め、1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙において鹿児島2区から立憲政友会で立候補して初当選。以後通算4期務めた。その後、同郷の床次竹二郎が政友会を離党し、政友本党を結成するとそれに従い、政友本党が憲政会と合流し、立憲民政党が結成されると同党に入党した。
徳 三宝(とく さんぽう、1887年12月12日 - 194… 徳 三宝(とく さんぽう、1887年12月12日 - 1945年3月10日)は、日本の柔道家。講道館柔道九段。大日本武徳会柔道教士。 鹿児島県の徳之島(大島郡天城町兼久)出身。亀津小学校から鹿児島県立第二鹿児島中学校(現在の鹿児島県立甲南高等学校)へ進学。剣道・柔道に励み、全九州の中学柔道大会を制しその名を知られる。師事した七校の佐村嘉一郎三段(後の十段)の勧めで上京し、東京高等師範学校体育科へ入学後、1906年に講道館へ入門。 一日に100本超える程の猛稽古を積み上達すると、当時の講道館でも最強を誇り、稽古中に姿勢が崩れる事のない強さ故に野中の一本杉とあだ名され、また、“膝つき一本(徳に膝をつかせただけでも、通常の一本に値するという意)”という言葉が生まれた。
早淵 四郎(はやぶち しろう、1887年(明治20年)11月… 早淵 四郎(はやぶち しろう、1887年(明治20年)11月6日 - 1957年(昭和32年)5月31日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県桑原郡、のちの姶良郡横川村(横川町を経て現霧島市)で生まれた。陸軍士官学校第21期卒業。1936年(昭和11年)8月に歩兵第3連隊留守隊長に就任し、1937年(昭和12年)3月1日に陸軍歩兵大佐に進級し、6月8日に独立守備歩兵第14大隊長に着任。1938年(昭和13年)3月9日に関東軍歩兵第1下士官候補者隊長に転じ、1939年(昭和14年)3月9日に第4国境守備隊長に就任した。 同年8月1日に陸軍少将に進級、1941年(昭和16年)3月に歩兵第26旅団長(第11軍)に就任し、日中戦争に出動。
本郷 かまと(ほんごう かまと、1887年9月16日?(また… 本郷 かまと(ほんごう かまと、1887年9月16日?(または1888年-1893年頃4月8日の可能性あり) - 2003年10月31日)は、かつて世界最高齢の人物としてギネス世界記録に認定されていた鹿児島県徳之島在住の日本人女性。戸籍上は1887年9月16日生まれで死去時には116歳であったが、年齢に異論が唱えられ2012年に世界記録の認定を取り消された。通称「かまとバア」。 鹿児島県大島郡徳之島面縄方(現在の伊仙町、徳之島の南部)出身。戸籍上は9月16日生まれだが、ひ孫によると実際の誕生日は4月8日であるという。1908年(明治41年)、本郷福佑と結婚。7児の母となる。その後曾孫、さらには玄孫(やしゃご)にも恵まれた。
昌谷 忠(さかや ただし、1887年(明治20年)9月 - … 昌谷 忠(さかや ただし、1887年(明治20年)9月 - 1972年(昭和47年)5月28日)は、日本の外交官。駐フィンランド公使。 奄美大島の管鈍(後に鹿児島県大島郡西方村を経て、大島郡瀬戸内町の管鈍)出身。旧名:昌(さかり) 忠二。管鈍小学校、古仁屋高等小学校、鹿児島県立大島農学校(現鹿児島県立大島高等学校)予科を経て、鹿児島県立川辺中学校(現鹿児島県立川辺高等学校)を卒業。1906年(明治39年)東京・神田の東京外国語学校(現東京外国語大学)独語科に入学して、ドイツ語を修め1909年(明治42年)に卒業。京都帝国大学法科大学(現京都大学法学部)に入学した後、東京帝国大学法科大学(現東京大学法学部)に転入。
牛島 満(うしじま みつる、旧字体: 牛島 滿、1887年(… 牛島 満(うしじま みつる、旧字体: 牛島 滿、1887年(明治20年)7月31日 - 1945年(昭和20年)6月23日)は、日本の陸軍軍人。陸士20期恩賜・陸大28期。最終階級は陸軍大将(自決直前の6月20日付で中将から昇進)。 日本陸軍の大将に昇進した最後の軍人。温厚な性格で知られ教育畑を歴任し、指揮官としても沖縄戦以前に歩兵第36旅団長として漢口及び南京攻略戦に参加。沖縄戦においては第32軍を指揮し、最期は自決した。これをもって日本軍の組織的戦闘が終結した6月23日は、沖縄県の慰霊の日に制定されている。 牛島満は1887年7月31日、薩摩藩士出身の陸軍中尉の父牛島実満と、同じく薩摩藩の武家の出である母牛島竹子との間に四男として生まれた。
池ノ上 賢吉(いけのうえ けんきち、1887年(明治20年)… 池ノ上 賢吉(いけのうえ けんきち、1887年(明治20年)6月16日 - 1975年(昭和50年)7月22日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県、のちの大口市(現伊佐市)で生まれた。陸軍士官学校第21期卒業。1935年(昭和10年)8月1日に陸軍歩兵大佐進級と同時に関東軍司令部附となり、旅順工科大学に配属され、1936年(昭和11年)8月に第1独立守備隊司令部附に転じたが、旅順工科大学配属が続いた。1937年(昭和12年)8月2日に関東軍司令部附となり、12月28日に福岡連隊区司令官に就任した。 1939年(昭和14年)8月1日に陸軍少将進級と同時に留守第4師団司令部附となり、1940年(昭和15年)8月に独立混成第9旅団長に就任。
島津 忠重(しまづ ただしげ、1886年〈明治19年〉10月… 島津 忠重(しまづ ただしげ、1886年〈明治19年〉10月20日 - 1968年〈昭和43年〉4月9日)は、日本の海軍軍人、貴族院議員。 島津氏第30代当主。島津忠義の四男であるが、兄たちの早世によりその嫡男(跡取り)となる。海軍少将正二位勲一等公爵。神号は「島津忠重命」。幼名は秀丸。 姉は邦彦王妃俔子で、香淳皇后の叔父にあたり、第125代天皇明仁の大叔父にあたる。 仙巌園で生まれ、幼少時代を過ごし、島津家庭尋常小学校(忠重とその兄弟が通うための学校)に通う。1898年(明治31年)2月1日、父・忠義の薨去により家督を相続し、公爵を襲爵する。叔父の島津珍彦が後見人となる。ほどなく鹿児島より上京し、学習院に編入学する。
池田 水藻(いけだ みずも、1886年(明治19年)10月1… 池田 水藻(いけだ みずも、1886年(明治19年)10月1日 - 1967年(昭和46年)12月27日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県川辺郡平山村(川辺村平山、川辺町平山を経て、現在の南九州市川辺町平山)出身。陸軍士官学校第19期、陸軍大学校第30期卒業。1923年(大正12年)8月、陸軍歩兵少佐に進級し、同年9月時点で歩兵第30連隊大隊長の任にあった。1925年(大正14年)12月に第14師団参謀に転じ、1928年(昭和3年)3月8日に歩兵第63連隊附となり、松江高等学校に配属された。同年3月24日には陸軍歩兵中佐に進級し、1931年(昭和6年)3月には学校配属を解かれ、歩兵第63連隊附となり、1932年(昭和7年)5月に高崎連隊区司令官に着任し、6月には陸軍歩兵大佐に進級した。
永田 良吉(ながた りょうきち、1886年(明治19年)9月… 永田 良吉(ながた りょうきち、1886年(明治19年)9月14日 - 1971年(昭和46年)5月11日)は、日本の政治家。衆議院議員、旧・鹿屋市長(第2・6・7代)。位階は正四位。 鹿児島県肝属郡大姶良村西俣(現・鹿屋市永野田町)出身。大姶良村会議員、大姶良村長、鹿児島県議会議員を経て、衆議院議員、鹿屋市長を歴任した。通称・飛行機代議士・請願代議士。現在の海上自衛隊鹿屋航空基地を始め、高隈ダムや星塚敬愛園を鹿屋市へ誘致した人物である。 1886年9月14日の午前9時に、永田助太郎の三男、3人兄弟の末っ子として誕生。永田家は西俣の大地主であったが、士族ではなく平民の身分であった。 1893年、西俣簡易小学校へ入学するが、同年中に南小学校に統合され、永野田の者は鹿屋村の田崎尋常小学校へ転校することになった。
萬造寺 齊(まんぞうじ ひとし、1886年(明治19年)7月… 萬造寺 齊(まんぞうじ ひとし、1886年(明治19年)7月29日 - 1957年(昭和32年)7月9日)は、日本の歌人、小説家、英文学者。鹿児島県生まれ。 鹿児島県日置郡串木野町羽島(現在のいちき串木野市)の裕福な地主の家に生まれる。旧制川内中学から旧制第七高等学校を経て東京帝国大学英文科卒業。東京で与謝野鉄幹に師事し、「明星」、「スバル」に参加、堀口大學から「短編実作者の第一人者」と評された。また石川啄木、高村光太郎、北原白秋、森鷗外らと親交し、東大卒業後は愛媛県西条中学校などで教鞭をとった。 28歳の時、加世田の私有地を売った資金で「我等」を創刊するも下宿の火事により原稿が消失、廃刊。京都に移り住み、「街道」を発行して再起を図るも1944年、戦時統制による紙不足でまたも廃刊、戦後は農地改革により地主としての地位を失い、故郷に戻る願いも叶わず1957年、京都で70年の生涯を終えた。
安岡 正臣(やすおか まさおみ、1886年(明治19年)7月… 安岡 正臣(やすおか まさおみ、1886年(明治19年)7月21日 - 1948年(昭和23年)4月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 鹿児島県、後の川内市(現・薩摩川内市御陵下町)で、安岡正陸軍大尉の息子として生れる。川内中学校、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第43連隊付となる。陸軍戸山学校で学び、1914年(大正3年)11月、陸軍大学校(第26期)を卒業した。 陸軍省軍務局課員、歩兵第51連隊大隊長、第9師団参謀、歩兵第29連隊付、第16師団参謀、歩兵第49連隊長、第5師団参謀長などを歴任し、1935年(昭和10年)3月、陸軍少将に進級。
岩川 与助(與助、いわかわ よすけ、1886年(明治19年)… 岩川 与助(與助、いわかわ よすけ、1886年(明治19年)1月10日 - 1969年(昭和44年)7月10日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(4期)。 鹿児島県馭謨郡(屋久島)、のちの上屋久村(熊毛郡上屋久村、上屋久町を経て現屋久島町)で生まれる。同村宮之浦地区で郵便配達をしながら独学。その後神戸に移り、浪速銀行神戸支店で奉公人として働きながらパルモア英学院(のちパルモア学院専門学校)で学び、1910年(明治43年)に卒業した。 その後、浪速銀行神戸支店書記補を経て、1916年(大正5年)三十字商会支配人となる。その後、藤田商事取締役、大和海上火災専務取締役、太平洋海上火災専務取締役、朝日生命専務取締役、第一毛糸監査役などを務めた。
和田 秀穂(わだ ひでほ、1886年1月2日 - 1972年… 和田 秀穂(わだ ひでほ、1886年1月2日 - 1972年4月3日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
野村 直邦(のむら なおくに、1885年〈明治18年〉5月1… 野村 直邦(のむら なおくに、1885年〈明治18年〉5月15日 - 1973年〈昭和48年〉12月12日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。東條英機内閣にて6日間だけ海軍大臣を務めた。これは戦前の閣僚在任期間の最短記録であった。旧名:仁蔵。 鹿児島県日置郡吉利村(現在の日置市日吉町吉利)出身。旧制鹿児島県立第一鹿児島中学校より海軍兵学校第35期入校。入校成績順位は183名中第125位、卒業成績順位は171名中第43位。 1920年(大正9年)海軍大学校(第18期)を次席で卒業。卒業後は第1潜水隊参謀を務め、1922年(大正11年)から1924年(大正13年)まで大使館付武官としてドイツに駐在し、潜水艦の研究に没頭する。
瀬戸山 兼斌(せとやま けんびん、1885年(明治18年)4… 瀬戸山 兼斌(せとやま けんびん、1885年(明治18年)4月29日 - 没年不明)は、明治時代後期から昭和時代前期の台湾総督府官僚。旧姓は加藤。 加藤里志の三男として鹿児島県大島郡東方村(現・瀬戸内町古仁屋)に生まれ、瀬戸山瀬助の養子となる。1904年(明治37年)大島郡古仁屋村外12箇村立戸長役場に奉職し、学務係および衛生係主任を務めたのち、1905年(明治38年)渡台し、澎湖庁雇として通信事務員となり、1910年(明治43年)2月、府通信手に進んだ。 ついで基隆郵便局勤務に転じ、府属秘書課勤務、台北州勤務、台北州海山郡守、高雄州旗山郡守、新竹州中壢郡守を歴任し、1932年(昭和7年)3月、退官する。
山本 実彦(やまもと さねひこ、1885年〈明治18年〉1月… 山本 実彦(やまもと さねひこ、1885年〈明治18年〉1月5日 - 1952年〈昭和27年〉7月1日)は、日本のジャーナリスト。改造社社長。雅号は亀城。 鹿児島県高城郡水引郷大小路村(現在の鹿児島県薩摩川内市大小路町)出身。1885年(明治18年)1月、にて鍛冶屋山本庄之助の長男として出生する。実彦が小学生の頃に生家の経済状況が悪化、困窮を極めたことから旧制鹿児島県立川内中学校を自主退学。自ら働くことを決意して沖縄に渡り、離島にて1902年(明治35年)に代用教員の職を得る。 1904年に19歳で上京、郵便及び筆耕屋の仕事の傍ら日本大学法律科を卒業。『門司新報』『やまと新聞』記者を経て、1915年(大正4年)に東京毎日新聞社(現在の毎日新聞とは資本関係はない)社長に就任。
東 幸治(ひがし こうじ、1884年(明治17年)11月25… 東 幸治(ひがし こうじ、1884年(明治17年)11月25日 - 1925年(大正14年)6月21日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。ジャーナリスト。号は孤竹。 鹿児島県出水郡上出水村(現在の出水市)出身。鹿児島中学校を卒業後、『鹿児島新聞』の記者となった。その後の1917年(大正6年)に中央大学を卒業した。内務省・鉄道省の嘱託として、アメリカ合衆国・メキシコ・中華民国・フィリピン・ボルネオ島・ジャワ島・マレー半島・南洋諸島・シベリアなどを調査した。 1924年(大正13年)、衆議院補欠選挙に出馬し、当選。同年の第15回衆議院議員総選挙で再選を果たした。
川越 丈雄(かわごえ たけお、1884年11月1日 - 19… 川越 丈雄(かわごえ たけお、1884年11月1日 - 1966年3月11日)は、日本の大蔵官僚、銀行家。大蔵次官、法制局長官。 鹿児島県出身。川越武助の長男として生まれる。加治木中学、第一高等学校を経て、1910年10月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験に合格し大蔵省に入省。専売局書記兼大蔵属・専売局長官官房兼理財局勤務となる。 1918年6月、大蔵省主計官・主計局予算決算課に配属され、以後、大蔵書記官、主計局司計課長、同決算課長、同予算決算課長、預金部長などを歴任。1934年5月、銀行局長に就任。対満事務局次長を経て、1936年3月、大蔵次官となる。1937年2月、林内閣の法制局長官となり同年6月まで在任した。
宮永 スエキク(みやなが スエキク、1884年〈明治17年〉… 宮永 スエキク(みやなが スエキク、1884年〈明治17年〉4月7日 - 1998年〈平成10年〉6月20日)は、長寿日本一だった鹿児島県曽於郡大隅町(現・曽於市)の女性。 1884年(明治17年)4月7日、鹿児島県曽於郡大隅町の農家に生まれる。1908年(明治41年)に24歳で愛右衛門と結婚し、四男七女をもうけた。趣味は三味線、太鼓、歌、踊りだった。 1954年(昭和29年)、70歳のときに愛右衛門と死別。冗談好きの明るい性格で、おはら節など歌や踊りが得意。107歳ごろまで三味線を弾いていた。そばが好きで、100歳を超えた後も自分でそばを打っていた。109歳までは一人で歩いていた。風邪をこじらせて寝たきりになり、1993年(平成5年)からは特別養護老人ホームで生活していた。
南郷 武夫(なんごう たけお、1884年(明治17年)3月2… 南郷 武夫(なんごう たけお、1884年(明治17年)3月22日 - 1976年(昭和51年)1月26日)は、明治末から昭和期の林業家、政治家。衆議院議員、鹿児島県日置郡東市来村長、同郡東市来町長。 鹿児島県日置郡市来郷伊作田村(東市来村伊作田、東市来町伊作田を経て現日置市東市来町伊作田)で、鉱山業・南郷徳之助の長男として生まれる。1904年(明治37年)鹿児島県立第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を卒業。早稲田大学を中退。 帰郷して父の鉱山業に従事。1930年(昭和5年)家督を相続。政界を目ざし1931年(昭和6年)鹿児島県会議員に選出され3期在任。1932年(昭和7年)東市来村長に就任。
逆瀬川 仁次郎(さかせがわ にじろう、1883年(明治16年… 逆瀬川 仁次郎(さかせがわ にじろう、1883年(明治16年)12月8日 – 1930年(昭和5年)10月29日)は、日本の衆議院議員(政友本党→立憲民政党)。ジャーナリスト。 鹿児島県姶良郡敷根村(現在の霧島市)出身。鹿児島県立加治木中学校 (旧制)を卒業して東京高等師範学校に進むが退学。第一高等学校 (旧制)を卒業し、1916年(大正5年)東京帝国大学法科大学政治科を卒業。大阪毎日新聞社に勤務した。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に政友本党で立候補して落選するが、1926年(大正15年)11月1日の衆議院鹿児島7区補欠選挙で当選。
牛島 省三(うしじま しょうぞう、せいぞう、1883年(明治… 牛島 省三(うしじま しょうぞう、せいぞう、1883年(明治16年)3月 - 1940年(昭和15年)10月14日)は、日本の内務・警察・朝鮮総督府官僚、実業家。官選茨城県知事。 陸軍大将の牛島満は弟。 鹿児島県鹿屋市出身。薩摩藩士牛島実満の二男。父は明治維新後、東京に住し、陸軍中尉として近衛連隊に勤務していたが、弟の満が生まれる半年前に死去。5歳の時に母に連れられて鹿児島に転居[要出典]。 第七高等学校造士館を卒業後、1910年に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1911年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し兵庫県試補となる。 以後、兵庫県警視、同県美嚢郡長、鳥取県理事官、山口県警察部長、熊本県警察部長、兵庫県警察部長、石川県書記官・内務部長、長野県書記官・内務部長、大阪府書記官・内務部長、警視庁警務部長などを歴任。
寺師 義信(てらし よしのぶ、1882年(明治15年)12月… 寺師 義信(てらし よしのぶ、1882年(明治15年)12月20日 - 1964年(昭和39年)8月13日)は、日本の医師。陸軍軍医中将。日本初の衛生飛行機を作成したことで知られる。 1882年(明治15年)、士族の漢方医伊東楽之助の次男として鹿児島県日置郡日置村(現日置市日吉町日置)に生まれる。満5歳の時に同じく士族である寺師清の養子となり寺師家を継いだ。寺師家では医師が多数いたため義信も医師に成ることを望まれたが、義信は漢詩や文筆を好み小説家を志向していた。鹿児島一中に進み、在学時に森鷗外の『水沫集』の影響を受け地方新聞に小説の連載を持っていた。実父の楽之助から何としても医者になるよう命じられたため義信は思い悩んでいたが、一中の岩崎行親校長から「鴎外先生は大文豪であると共に優れた医学者だ。
東郷 茂徳(とうごう しげのり、1882年〈明治15年〉12… 東郷 茂徳(とうごう しげのり、1882年〈明治15年〉12月10日 - 1950年〈昭和25年〉7月23日)は、日本の外交官、政治家。 東條内閣で外務大臣と拓務大臣、鈴木貫太郎内閣で外務大臣と大東亜大臣を務め、太平洋戦争開戦時および終戦時の外務大臣であった。この他、欧亜局長や駐ドイツ大使および駐ソ連大使を歴任。 萩原延壽『東郷茂徳 伝記と解説』によれば、茂徳は1882年12月10日に「朴茂徳」として鹿児島県日置郡苗代川村(現在の日置市東市来町美山)で生まれた。苗代川は、豊臣秀吉の文禄・慶長の役の際に捕虜になり島津義弘の帰国に同行させられた朝鮮人陶工の一部が、薩摩藩によって集められて形成された集落であった。
久米 成夫(くめ なりお、1882年(明治15年)12月1日… 久米 成夫(くめ なりお、1882年(明治15年)12月1日 - 1954年(昭和29年)9月29日)は、日本の内務官僚。政友会系官選県知事、鹿児島市長。 鹿児島県薩摩郡山崎村麓大窪(現さつま町)で、山崎村長を務めた久米岳、シメ夫妻の長男として生まれる。鹿児島県立川内中学校、第七高等学校造士館(首席卒業)を経て、1910年7月、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し千葉県属となる。 その後、千葉県試補、神奈川県愛甲郡長、同県理事官・知事官房主事、同県商工課長、秋田県理事官・教育兵事課長、岩手県警察部長、神奈川県警察部長、山形県内務部長、岩手県書記官・内務部長、広島県書記官・内務部長などを歴任。
津崎 尚武(つざき なおたけ、1882年(明治15年)5月2… 津崎 尚武(つざき なおたけ、1882年(明治15年)5月24日 - 1962年(昭和37年)8月29日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲民政党→立憲政友会)、厚生政務次官。 鹿児島県大隅郡小根占村(現在の肝属郡南大隅町)に下村尚論の三男として生まれ津崎家の養子となった。鹿児島県立第一鹿児島中学校、第七高等学校を卒業し、東京帝国大学法科大学政治科に入学した。1909年(明治42年)に卒業し、高等文官試験に合格した。内務省に入省し、長野県警視、更級郡長、長野県理事官、長野県視学官を歴任した。1915年(大正4年)、官を辞して渡米し、ニューヨーク土地建物株式会社で勤務した。翌年帰国し、東亜産業株式会社などの取締役を務めた。
中村 嘉寿(中村 嘉壽、なかむら かじゅ、1880年〈明治1… 中村 嘉寿(中村 嘉壽、なかむら かじゅ、1880年〈明治13年〉11月6日 - 1965年〈昭和40年〉12月30日)は日本の衆議院議員(政友本党→立憲民政党→立憲政友会→民主党)であり著述家。 鹿児島県川辺郡西南方村(坊津村に改称後、坊津町、後の南さつま市の一部)に生まれる。上京し水産講習所に入学。1900年(明治33年)に同講習所漁労科を優秀な成績で卒業すると、米国へ派遣され捕鯨を研究する。続いてニューヨーク大学へ入学し政治経済を専攻、修士号(Master of Arts)を得た。在学中に邦人の権利保護のため米国人と共同で弁護士事務所を設立。また星製薬社長の星一らと「日米週報」を発刊し自ら記者として筆を振るった。
白男川 譲介(しろおかわ / しろおがわ じょうすけ、188… 白男川 譲介(しろおかわ / しろおがわ じょうすけ、1880年(明治13年)1月19日 - 1951年(昭和26年))は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選県知事、鹿児島市長。旧姓・池田。 鹿児島県鹿児島市出身。池田休兵衛の四男として生まれ、1885年、母方の白男川渉の養子となる。第三高等学校を卒業。1906年、京都帝国大学法科大学政治学科を卒業し、大阪市に入る。1909年12月、文官高等試験に合格。内務省に転じ沖縄県属となる。 以後、福井県三方郡長、富山県警察部長、新潟県警察部長、北海道庁土木部長、奈良県内務部長、京都府内務部長などを歴任。 1921年5月、床次竹二郎内務大臣により起用され福井県知事に就任。
泉 重千代(いずみ しげちよ、定説では1880年頃 〈戸籍上… 泉 重千代(いずみ しげちよ、定説では1880年頃 〈戸籍上は1865年6月29日〉 - 1986年2月21日)は、奄美群島徳之島(当時は薩摩藩領内、現在の鹿児島県大島郡伊仙町阿三)出身の男性。1995年までギネスブック公認の世界最長寿、2010年まで男性としての世界最長寿とされていた人物。1865年(慶応元年)6月29日生まれの120歳とされてきたが、後述のように生年月日への疑問が呈され、現在120歳説は否定されている。 1972年に男性の日本最高齢、1976年に存命の日本最高齢という扱いになり、1979年にはギネスブックで世界最高齢と認定された。その後世界歴代最高齢記録はフランス人の女性ジャンヌ・カルマンによって更新されたが、男性としての世界最高齢記録は保持していた。
伊地知 四郎(いじち しろう、1879年(明治12年)11月… 伊地知 四郎(いじち しろう、1879年(明治12年)11月18日 - 1965年(昭和40年)5月19日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。第11代鹿児島市長、第3代谷山町長。 鹿児島県鹿児島郡谷山町(のちの谷山市、現在の鹿児島市)出身。旧制鹿児島一中卒業。1904年(明治37年)2月29日に海軍機関学校(12期)を卒業し、同年9月10日、海軍少機関士に任官した。以後、海軍機関学校教官・監事、佐世保海軍人事部員、矢矧機関長、海軍省艦政局局員、同軍需局局員、長門機関長などを務め、1923年(大正12年)12月1日、海軍機関大佐に昇進し第三戦隊機関長に就任。さらに呉鎮守府機関長・呉海軍艦船部部員、第一艦隊機関長・連合艦隊機関長、海軍燃料廠平壌鉱業部長などを歴任した。
酒匂 宗次郎(さこう そうじろう、1879年(明治12年)8… 酒匂 宗次郎(さこう そうじろう、1879年(明治12年)8月27日 - 没年不明)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県姶良郡、のちの姶良町(現姶良市)で生まれた。1902年(明治35年)陸軍士官学校第14期卒業。 1927年(昭和2年)7月に陸軍歩兵大佐・福岡連隊区司令官、1930年(昭和5年)3月に歩兵第19連隊長に就任。第一次上海事変に従軍した。1932年(昭和7年)8月8日に陸軍少将に進級と同時に待命、同月30日に予備役に編入した。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた。
岩元 禧(いわもと き、1879年(明治12年)7月2日 -… 岩元 禧(いわもと き、1879年(明治12年)7月2日 - 1944年(昭和19年)9月14日)は、日本の内務官僚。官選沖縄県知事、鹿児島市長。 鹿児島県鹿児島市出身。士族の四男として生まれる。第七高等学校の第1回卒業生。1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。内務省に入り、千葉県属、秋田県事務官、神奈川県理事官・視学官、香川県警察部長、島根県内務部長、茨城県内務部長を歴任。1923年(大正12年)から翌年まで沖縄県知事を務めた。1926年(大正15年)6月23日、休職満期となり退官した。 國學院大學・皇典講究所専務理事を経て、1933年(昭和8年)から1936年(昭和11年)まで第10代鹿児島市長を務めた。
川原 侃(かわはら すなお、1878年(明治11年)11月1… 川原 侃(かわはら すなお、1878年(明治11年)11月16日 - 1953年(昭和28年)11月28日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 鹿児島県、のちの川内市(現薩摩川内市)で、川原甚左衛門の三男として生れる。鹿児島第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を経て、1901年(明治34年)11月、陸軍士官学校(13期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第45連隊付となる。1904年(明治37年)6月から1906年(明治39年)3月まで日露戦争に出征した。 1906年5月、第6師団副官に就任。歩兵第45連隊中隊長、陸軍歩兵学校教官を経て、1917年(大正6年)8月、歩兵少佐に昇進し歩兵第10連隊付となる。
昇 曙夢(のぼり しょむ、1878年7月17日 - 1958… 昇 曙夢(のぼり しょむ、1878年7月17日 - 1958年11月22日)は、日本のロシア文学者。正教会の信徒であり、ニコライ・カサートキンの門下生の一人としても知られる。晩年には奄美群島の本土復帰運動に尽力した。 奄美群島加計呂麻島実久村芝(現鹿児島県大島郡瀬戸内町)生まれ。本名・直隆。 島の小学校を出ると鹿児島に行き、鹿児島正教会に通い間もなく洗礼を受けた。聖名はパウェル。 1895年、上京。1896年、日本正教会の教育機関である東京の正教神学校に入学。1903年、同校を卒業。在学中から評伝『露国文豪 ゴーゴリ』を執筆し、明治37年(1904年)刊行。卒業と同時に正教神学校講師として心理学・論理学を講じた。
島津 治子(しまづ はるこ、1878年〈明治11年〉7月7日… 島津 治子(しまづ はるこ、1878年〈明治11年〉7月7日 - 1970年〈昭和45年〉2月14日)は、男爵島津長丸(旧宮之城領主)の夫人。男爵島津珍彦(旧重富領主)の娘で、母は島津斉彬の四女・典子。正五位勲四等。不敬罪に問われ検挙された。 明治22年(1889年)華族女学校に入学し、同28年(1895年)卒業。翌年島津久治の遺児・長丸と結婚し、2男4女を産む。夫長丸は教育熱心で、特に女子教育の必要を痛感し、同29年(1896年)鹿児島市平ノ馬場町に私立鶴嶺女学校(現・鹿児島市立鹿児島玉龍中学校・鹿児島玉龍高等学校の前身校のひとつ)を創立した(校長・島津サエ子)。同40年(1907年)治子は同校第3代校長に就任し、経営不振に陥っていた同校の立て直しのため一大改革に着手し、薩摩古来の美風を尊重した良妻賢母の女子教育を推進し、入学者も増加して発展を遂げ、鹿児島の私立学校の先駆的な役割を果たした。
堀之内 直(ほりのうち すなお、1878年(明治11年)4月… 堀之内 直(ほりのうち すなお、1878年(明治11年)4月26日 - 1968年(昭和43年)9月17日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 鹿児島県大口村(後に北伊佐郡大口村、伊佐郡大口村、大口町を経て、合併で大口市、伊佐市)に生まれる。1899年(明治32年)陸軍士官学校第11期卒業。 1923年(大正12年)8月に敦賀連隊区司令部部員、1924年(大正13年)12月に陸軍歩兵大佐・敦賀連隊区司令官、1927年(昭和2年)3月に歩兵第32連隊長を経て、1930年(昭和5年)8月に陸軍少将・歩兵第13旅団長に任官。1932年(昭和7年)8月8日に待命、同年8月30日に予備役に編入する。
清河 純一(きよかわ じゅんいち、1878年(明治11年)1… 清河 純一(きよかわ じゅんいち、1878年(明治11年)1月7日 - 1935年(昭和10年)3月1日)は、日本の海軍軍人。海兵26期、海大甲種5期首席。最終階級は海軍中将。 清河公廉の長男として大阪・堺に生まれる。本籍鹿児島県。北野中学校7期生。1898年12月、海軍兵学校(26期)を卒業し、1900年1月、海軍少尉任官。日露戦争では「浅間」分隊長として出征する。黄海海戦後、第1艦隊参謀に抜擢され日本海海戦を経て連合艦隊参謀となる。1907年12月、海軍大学校(甲種5期)を首席で卒業した。 伏見宮博恭王付武官、「音羽」副長、横須賀予備艦隊参謀、軍令部参謀、兼東伏見宮依仁親王付武官、海大教官、第2艦隊参謀、軍令部参謀(第1班第1課長)、兼参謀本部員、欧米出張、国際連盟海軍代表随員、ワシントン軍縮会議随員などを歴任し、1922年12月、海軍少将に進級。
本田 親清(ほんだ ちかきよ、1877年(明治10年)12月… 本田 親清(ほんだ ちかきよ、1877年(明治10年)12月12日 - 1922年(大正11年)5月18日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 鹿児島県川辺郡勝目郷中山田村(川辺郡勝目村中山田、川辺町を経て現南九州市川辺町中山田)で、旧薩摩藩士・本田杏介の長男として生まれる。鉱山業、貿易商を営む。 大隈重信の支持を受け、田江泰造、山瀬幸人らの支援により、1915年(大正4年)3月、第12回衆議院議員総選挙に鳥取県郡部から無所属で出馬して当選し、その後公正会に所属し衆議院議員に1期在任した。いわゆる落下傘候補で、選挙期間中、地元にほとんど顔を見せることはなかった。1917年(大正6年)4月、第13回総選挙に鹿児島県郡部から立候補したが落選した。
樺山 可也(かばやま かなり、1877年(明治9年)10月1… 樺山 可也(かばやま かなり、1877年(明治9年)10月14日 - 1932年(昭和7年)10月27日)は、日本の海軍軍人(最終階級は海軍少将)、政治家(鹿児島市長)。族籍は鹿児島県士族。元フィギュアスケート選手・八木沼純子の曾祖父。 鹿児島県薩摩郡藺牟田村(現・薩摩川内市祁答院町藺牟田)出身。医者の次男である。1877年、父が西南戦争に西郷軍の軍医として出征、戦死した。可也は貧しい少年時代を送った。教科書を買う金がなかったため友達から借りて書き写し勉強した。 1898年12月、海軍兵学校(26期)を卒業し、1900年1月、海軍少尉任官。「大和」航海長などを経て、日露戦争に「和泉」分隊長として出征し、同砲術長となった。