水越 幸一(みずこし こういち、1879年(明治12年)6月… 水越 幸一(みずこし こういち、1879年(明治12年)6月6日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 山梨県出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治科選科を卒業し、東京市主事となった。1912年(大正元年)、高等学校卒業検定試験に合格し、東京帝国大学法科大学政治家を卒業。高等文官試験に合格し、台湾総督府事務官、内務局地方課長、総督官房審議室勤務、交通局理事を歴任。1929年(昭和4年)、台中州知事となり、1931年(昭和6年)に退官した。 その後は台北市会議員、台北商業会議所理事を務めた。
三潴 信三(みつま しんぞうまたは みずま しんぞう、187… 三潴 信三(みつま しんぞうまたは みずま しんぞう、1879年(明治12年)5月28日 - 1937年(昭和12年)3月27日)は、日本の法学者。専門はドイツ法、民法。東京帝国大学法学部教授などを務めた。 1879年(明治12年)5月28日、東京湯島に生まれる。獨逸学協会中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学独逸法兼修に入学、1905年(明治38年)7月に卒業した。 東京帝国大学卒業の前から早稲田大学講師としてドイツ語を教え、卒業後の1907年(明治40年)には早稲田大学の派遣でドイツ、イタリアに留学し、民法や法理学を学んだ。1909年(明治42年)に帰国、早稲田大学教授に就任。この時期には複数のドイツ語文法書を出版している。
木村 鋭市(きむら えいいち、1879年(明治12年)5月2… 木村 鋭市(きむら えいいち、1879年(明治12年)5月26日 - 1947年(昭和22年)7月21日)は、日本の外交官。駐チェコスロバキア公使。 島根県出身。1906年(明治39年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業。1908年(明治41年)、外交官及領事官試験・高等文官試験に合格し、外交官補となった。外務省参事官、ベルギー公使館三等書記官、フランス大使館二等書記官を務めた。1919年(大正8年)、パリ講和会議全権委員随員を務め、帰国後は亜細亜局の課長となった。ワシントン会議でも全権委員随員を務め、1923年(大正12年)からアメリカ合衆国大使館一等書記官、同参事官を歴任した。1925年(大正14年)より亜細亜局長となり、1927年(昭和2年)に駐チェコスロバキア公使に転じた。
勝 正憲(かつ まさのり、1879年(明治12年)5月21日… 勝 正憲(かつ まさのり、1879年(明治12年)5月21日 - 1957年(昭和32年)11月11日)は、日本の大蔵官僚、政治家。衆議院議員、逓信大臣。 福岡県出身。元小倉藩士・勝平八郎の長男として生まれる。豊津中学、第五高等学校を経て、1905年(明治38年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。塩務局属兼大蔵属となり横浜塩務局兼理財局国債課勤務となる。同年11月、文官高等試験に合格。 1906年(明治39年)12月、税務監督局事務官・大阪税務監督局勤務となり、以後、税務行政を担当する。1907年(明治40年)5月、松江税務監督局長に就任。さらに、兼松江塩務局長、長崎税務監督局長、鹿児島税務監督局長、長野税務監督局長、税務監督官・東京税務監督局、函館税関長、仙台税務監督局長、大蔵書記官・主税局国税課長、兼大蔵省参事官、東京税務監督局長、海外駐箚財務官(米国駐在)、兼米国大使館付などを歴任。
石原 誠(いしはら まこと、1879年(明治12年)5月18… 石原 誠(いしはら まこと、1879年(明治12年)5月18日 - 1938年(昭和13年)12月11日)は日本の生理学者、医学博士。 兵庫県伊丹出身。1901年(明治34年)東京帝国大学医科大学卒。当初、内科医を目指すものの中耳炎のため聴診・打診に支障をきたしたため生理学に転向する。卒業後、欧州留学(マールブルク、ウィーン)を命ぜられ、留学中に京都帝国大学福岡医科大学助教授に任官される。1906年9月同大学教授に就任する。 1911年(明治44年)に日本で初めて心電図を記録するなど心臓の自働性の研究(心臓前房の電流曲線の研究)に業績を上げ、この分野において石原は世界的権威として知られた。コイやフナの血清学的研究などで知られた。
岡 今朝雄(おか けさお、1879年〈明治12年〉5月15日… 岡 今朝雄(おか けさお、1879年〈明治12年〉5月15日 - 1941年〈昭和16年〉10月15日)は、日本の官僚。会計検査院長。 佐賀県出身。1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。税務属・大蔵属、税務監督局事務官・塩務局事務官、検査官補、副検査官、朝鮮総督府事務官、同営林廠長を歴任。1921年(大正10年)より検査官となり、1924年(大正13年)からは会計検査院部長を務めた。1938年(昭和13年)、会計検査院長に就任した。1941年(昭和16年)10月15日、幽門狭窄症で療養中に東京府東京市大森区雪ヶ谷町(現東京都大田区)の自宅で死去、62歳。
吉田 清風(よしだ きよかぜ、1879年(明治12年)5月7… 吉田 清風(よしだ きよかぜ、1879年(明治12年)5月7日 - 1937年(昭和12年)11月27日)は、明治から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 東京府で外交官・吉田清成の長男として生まれる。父の死去に伴い、1891年8月20日、子爵を襲爵した。 学習院高等科を経て、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を修了。1911年(明治44年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に所属して活動し、死去するまで4期在任した。
吉野 小一郎(よしの こいちろう、1879年(明治12年)5… 吉野 小一郎(よしの こいちろう、1879年(明治12年)5月1日 - 1948年(昭和23年)6月20日)は、大正から昭和時代前期の政治家、実業家。衆議院議員。神奈川県津久井郡吉野町長。 吉野十郎の長男として神奈川県津久井郡吉野駅(吉野町、藤野町、相模原市を経て現同市緑区吉野)に生まれ、1900年(明治33年)12月、家督を相続する。学習院から第一高等学校を経て、1906年(明治39年)東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、台湾銀行に入行。同行秘書課勤務・助役補を務めた。 1931年(昭和6年)奉天にて事業を興し、満州中央銀行の創立に関わり、奥地開発や日満経済の連携に尽くした。また、醸造酒販売会社を設立し日本酒の中国進出を行った。
坂元 雪鳥(さかもと せっちょう、1879年4月25日 - … 坂元 雪鳥(さかもと せっちょう、1879年4月25日 - 1938年2月5日)は、日本の能楽評論家、国文学者。号・天邪鬼。能楽評論で活躍した。 福岡県柳川出身。旧姓は白仁、本名は三郎。坂元家の養子となる。父は柳川藩士で、幼少から喜多流の能を学ぶ。第五高等学校で夏目漱石に師事、以後漱石の弟子格となる。1907年東京帝国大学文科大学を首席で卒業、東京朝日新聞社に入社。独協中学校教諭、1928年日本大学教授。昭和13年2月5日没。墓所は青山霊園立山墓地。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
武富 済(たけとみ わたる、1879年(明治12年)4月23… 武富 済(たけとみ わたる、1879年(明治12年)4月23日 - 1937年(昭和12年)4月20日)は、日本の検事、弁護士、衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。正しくは武富 濟。
内田 隆(うちだ たかし、1879年(明治12年)3月30日… 内田 隆(うちだ たかし、1879年(明治12年)3月30日 - 1963年(昭和38年)7月11日)は、日本の台湾総督府・内務官僚、実業家。官選秋田県知事。旧姓・長田。 福島県出身。長田庄衛の二男として生まれた。福島県立安積中学校、宮城県立仙台第二中学校を経て、第二高等学校を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。東洋拓殖を経て、1911年、朝鮮総督府に入り農商工部属となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内田家に夫婦養子となり改姓した。 以後、青島守備軍民政部事務官、台湾総督府事務官、同殖産局長などを歴任。 秋田県出身の川村竹治台湾総督に仕えたことがきっかけで、1931年12月、犬養内閣により秋田県知事に任じられた。
新庄 直知(しんじょう なおとし、1879年(明治12年)3… 新庄 直知(しんじょう なおとし、1879年(明治12年)3月16日 - 1945年(昭和20年)8月28日)は、明治から昭和期の鉄道技術者、政治家、華族。貴族院子爵議員。新荘と表記される場合がある。元常陸国の麻生藩主の家系。 本籍・茨城県行方郡麻生町。司法官・新庄直陳の長男として生まれた。父の死去に伴い、1913年(大正2年)6月20日、子爵を襲爵した。 1908年(明治41年)7月、東京帝国大学工科大学造兵学科を卒業。1910年(明治43年)鉄道院(後の日本国有鉄道の前身)技手に就任。その後、同技師、同嘱託などを務めた。 1917年(大正6年)3月10日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1939年(昭和14年)7月9日まで4期在任した。
水口 周平(みなくち しゅうへい、1879年3月12日 - … 水口 周平(みなくち しゅうへい、1879年3月12日 - 1957年2月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県大野郡清見村(現高山市)出身。1903年、医学専門学校済生学舎卒。東京帝国大学医科で学び、産婦人科専科修了。日露戦争に従軍し、二等軍医となる。その後、大野郡会議員、清見村長、岐阜県会議員、同議長を歴任する。 1946年の第22回衆議院議員総選挙において岐阜県から日本自由党公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、翌1947年の第23回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。 このほか清見村森林組合長、同村農業会長、岐阜県農業会理事、日本警防協会特別会員、清見村国民健康保険診療所医師を務めた。
入江 貫一(いりえ かんいち、1879年(明治12年)3月6… 入江 貫一(いりえ かんいち、1879年(明治12年)3月6日 - 1955年(昭和30年)4月22日)は、日本の官僚。帝室会計審査局長官、貴族院議員等を務めた。野村靖の次男であり、伯父である入江九一の家督を継いだ。 1879年(明治12年)に野村靖・花子夫妻の次男として生まれ、2歳で靖の亡き兄・入江九一の養嫡子として入江姓を継ぐ。東京府尋常中学、旧制山口高校を卒業。1906年(明治39年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年、7月14日神奈川県属、知事官房兼第一部地方課に勤務。同年11月高等文官試験に合格。1907年(明治40年)3月19日内務属、大臣官房台湾課兼地方局勤務。同年、5月1日大臣官房樺太課兼務に就く。
石田 収蔵(いしだ しゅうぞう、1879年〈明治12年〉3月… 石田 収蔵(いしだ しゅうぞう、1879年〈明治12年〉3月6日 - 1940年〈昭和15年〉1月31日)は、日本の人類学者。樺太(サハリン)のアイヌ、ウィルタ、ニヴフなど北方諸民族の先駆的研究者。東京農業大学教授。 秋田県鹿角郡柴平村柴内(現在の鹿角市花輪)に生まれる。1890年、父の死に伴って青森県八戸市へ移る。1902年、第四高等学校を卒業し、東京帝国大学理科大学動物学科入学。1905年7月卒業。人類学の研究のため、東京帝国大学大学院進学。この頃、東京人類学会に入会し、以後、同会の幹事、編集員、編集主任、評議員・庶務幹事、発行兼編集者を務める。1907年から1939年までの5次にわたり、樺太において民族調査を行った。
服部 英明(はっとり えいめい、1879年(明治12年)3月… 服部 英明(はっとり えいめい、1879年(明治12年)3月6日 - 1952年(昭和27年)12月31日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 愛知県中島郡祖父江町(現在の稲沢市)で服部増次郎の次男として生まれる。1907年(明治40年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。弁護士事務所を開業し、東京第一弁護士会評議員を務めた。また 麻布獣医専門学校・麻布獣医畜産学校(現在の麻布大学)の理事・教授を務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回、第19回、第20回(補欠)でも当選を果たした。 その他、東京瓦斯株式会社法律顧問、中外製薬株式会社取締役などを務めた。
草間 滋(くさま しげる、1879年2月25日 - 1936… 草間 滋(くさま しげる、1879年2月25日 - 1936年10月8日)は、日本の病理学者、細菌学者。医学博士(東京帝国大学、1914年)。 長野県東筑摩郡寿村(現:松本市)出身。獨逸学協会学校、旧制第一高等学校を経て、1905年に東京帝国大学医科大学卒業、病理学教室にて山極勝三郎の下で病理学を専攻、1908年に伝染病研究所に移り、北里柴三郎の下で細菌学・血清学を学び、実験病理学などの論文を発表した。1910年にドイツのフライブルク大学に留学し、ルートヴィヒ・アショフに師事。ハンブルク熱帯病研究所に転じ、熱帯病学の研究に従事した。1913年に帰国、伝染病研究所技師となったが、1914年北里研究所の創立に参画して部長に就任。
芝田 徹心(しばた てっしん、1879年〈明治12年〉2月2… 芝田 徹心(しばた てっしん、1879年〈明治12年〉2月25日 - 1950年〈昭和25年〉2月6日)は、日本の文部官僚。女子学習院長。宮中顧問官。 三重県三重郡四郷村(現在の四日市市)出身。三重県尋常中学校、第四高等学校を経て1903年(明治36年)に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、大学院で宗教哲学・倫理学を専攻した。高輪中学校教諭、順天中学校教諭、高輪仏教大学教授、日蓮宗大学教授、曹洞宗大学教授、第八高等学校講師、同教授・教務課長、愛知医学専門学校講師を務めた。さらに文部省督学官、第八高等学校校長、文部省図書局長を歴任。1936年(昭和11年)、東京美術学校校長に就任し、1940年(昭和15年)に女子学習院長に転じた。
矢吹 慶輝(やぶき けいき、1879年〈明治12年〉2月13… 矢吹 慶輝(やぶき けいき、1879年〈明治12年〉2月13日 - 1939年〈昭和14年〉6月10日)は、日本の宗教学者・社会事業家。旧姓は佐藤。号は隈渓。 1879年、福島県生まれ。東京帝国大学を卒業。卒業後は宗教大学(現大正大学)教授となり、欧米に留学。敦煌出土の仏典を研究し、1925年「三階教之研究」で学士院恩賜賞受賞。勤労児童のための三輪学院を創設、東京市社会局長。1939年、狭心症のため死去。 長男は弁護士の矢吹輝夫(1926-2006)。
藤川 利三郎(ふじかわ りざぶろう、1879年(明治12年)… 藤川 利三郎(ふじかわ りざぶろう、1879年(明治12年)2月10日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。実業家。 愛媛県に片山半三の二男として生まれ、藤川文造の養子となった。1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業。大韓帝国政府財政顧問、朝鮮総督府書記官、度支部税務課長、平安北道長官、慶尚北道知事などを歴任した。 退官後は四国電力株式会社代表取締役、高松電灯株式会社取締役、朝鮮京南鉄道取締役などを務めた。
若月 紫蘭(わかつき しらん、1879年2月10日 - 19… 若月 紫蘭(わかつき しらん、1879年2月10日 - 1962年7月22日)は、日本の劇作家、演劇研究家、翻訳家、歌人。本名の若月 保治での著作も多い。 山口高等学校を経て、1903年東京帝国大学卒業。兵庫県洲本中学校教諭、石川県七尾中学校校長代理ののち、1908年「万朝報」の記者となり、1921年「人と芸術」を創刊。1922年万朝報を辞職、新劇研究所を設立した。 千代田高等女学校教諭、1928年東洋大学教授として国文学を教え、1933年千代田女子専門学校および帝国女子専門学校教授を兼任。紫蘭の号を捨てて人形浄瑠璃の研究に専念した。 1945年戦災に遭い帰郷、1950年より山口大学講師。メーテルリンクの『青い鳥』を翻訳した。
井手 薫(いで かおる、1879年〈明治12年〉2月6日 -… 井手 薫(いで かおる、1879年〈明治12年〉2月6日 - 1944年〈昭和19年〉5月11日)は、日本統治時代の台湾で活躍した建築家。美濃国岐阜出身。台湾総督府営繕課在任中、台湾の官庁や民間建築を多く手がけ、その設計理念と風格は台湾建築界に影響を与えた。 1879年、井手今滋(いましげ)の長男として出生した。父の今滋は幕末の歌人・橘曙覧の長男で、山梨県尋常師範学校長、新潟県尋常師範学校長、岐阜県海西下石津郡長などを務めた。 第一高等学校を経て、1906年(明治39年)に東京帝国大学建築科を卒業(岡田信一郎、本野精吾、倉田謙らと同期)。同年辰野・葛西建築事務所に入り辰野金吾のもとで建築設計に従事した。
森岡 京次郎(もりおか きょうじろう、1879年2月5日 -… 森岡 京次郎(もりおか きょうじろう、1879年2月5日 - 1920年6月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 奈良県山辺郡出身。東京帝国大学政治科卒。森岡銀行頭取、日本紙業、玉造倉庫運輸信託各(株)社長となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において奈良2区から無所属で立候補して当選する。選挙中に森岡銀行が取り付け騒ぎに遭って破綻したため、当選から間もない6月27日、預金者に申し訳ないとして短刀で自殺を図り死去した。
赤池 濃(あかいけ あつし、1879年〈明治12年〉1月27… 赤池 濃(あかいけ あつし、1879年〈明治12年〉1月27日 - 1945年〈昭和20年〉9月10日)は、日本の内務官僚、政治家。静岡県知事、警視総監、貴族院議員。 長野県埴科郡南条村(現・坂城町)出身。赤池七右衛門の長男として生まれる。東京府立一中、第一高等学校を経て、1902年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。内務省に入り、京都府属となり内務部第一課に配属。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1904年5月、内務属・大臣官房秘書課兼地方局勤務となり、以後、福島県参事官、同県事務官、滋賀県事務官・警察部長、愛知県事務官・警察部長、兵庫県事務官・警察部長などを歴任。 1913年6月、内務省本省に戻り内務書記官に就任。
佐藤 寛次(さとう かんじ、1879年1月26日 - 196… 佐藤 寛次(さとう かんじ、1879年1月26日 - 1967年5月31日)は、明治・大正期の農学者、農業教育者。農学博士。専攻は農業経済学。東京農業大学第3代学長。位階および勲等は正三位・勲二等。 古海三次の三男として山形県米沢市に生まれる。兄は同市議会議長を務めた古海勘三郎。親戚に海軍主計少監となった古海長義がいる。 米沢中学(現山形県立米沢興譲館高等学校)入学の年、富農の佐藤文太郎に見込まれて養子となり、近代農業の可能性を感得して農学を志し、1904年、東京帝国大学農科大学を首席で卒業した。 帝国大学大学院で農業経済学研究のかたわら、全国農事会(帝国農会の前身)で加納久宜幹事長のもとに会誌『中央農事報』の編集に当たり、プラット『英国農業組織論』やピョートル『田園・工場・仕事場』などを紹介した。
上村清延(かみむら きよのぶ、1879年(明治12年)1月2… 上村清延(かみむら きよのぶ、1879年(明治12年)1月23日 - 1957年(昭和32年)11月1日)は、日本のドイツ文学者。現代ドイツ文学を専攻。東洋文学・思想のドイツ文学への影響を研究。 鹿児島県徳之島の亀津(現大島郡徳之島町)出身。東京帝国大学独文科卒。1943年「近代独逸文学と東洋」で九州帝国大学文学博士。第七高等学校教授、第一高等学校教授、旧制浦和高等学校教授、日本大学教授。1950年定年退任。墓所は青山霊園(1イ3-1)。 帝大時代には小山内薫、武林無想庵、吉田白甲らと同人誌『七人』を創刊し、同人の川田順によると、上村は樋口一葉に傾倒し、「にごりえ」「たけくらべ」は全部暗記していた。
宮島 清次郎(みやじま せいじろう、明治12年(1879年)… 宮島 清次郎(みやじま せいじろう、明治12年(1879年)1月20日 – 昭和38年(1963年)9月6日)は、大正・昭和期の経営者・財界人。日清紡績社長・会長、日本工業倶楽部理事長、東京市会議員。 栃木県安蘇郡飯田町(現・佐野市)に、佐野商業銀行頭取などを務めていた実業家・小林庄太郎の二男として生まれる。宇都宮中学(現・栃木県立宇都宮高等学校)時代は舎監いじめなど問題行動が多く、灸を据えるためか、10ヶ月ほど休学して東京の商店に丁稚奉公させられたことがある。この時の経験が、後に働く者の立場を重視する姿勢を涵養したものと思われる。 第四高等学校(現・金沢大学)を経て、1906年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、住友別子鉱業所(現・住友金属鉱山)に入社する。
古宇田 實(こうだ みのる、1879年1月13日 - 196… 古宇田 實(こうだ みのる、1879年1月13日 - 1965年2月16日)は、日本の建築家、建築史家、庭園研究家。神戸高等工業学校校長を務めた。フレッチャー(Banister Fletcher)『建築史』の翻訳でも知られる。日本建築の研究者で東京美術学校(現東京芸術大学)での教職の後、関西に活動の場を移し、その研究を生かし奈良、京都、鎌倉などの文化財修復にあたり、また鐘楼の設計などを多く手がけている。こうした功績で勲一等に叙せられた。 茨城県の判事・古宇田義鼎の二男として東京に生まれる。1902年に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業し、大学院に進む。庭園研究を師の辰野金吾に天沼俊一とともに勧められて始める。
水野 直(みずの なおし、1879年(明治12年)1月5日 … 水野 直(みずの なおし、1879年(明治12年)1月5日 - 1929年(昭和4年)4月30日)は、日本の華族(子爵)・政治家。貴族院の院内会派・研究会の幹部で、加藤高明内閣の陸軍政務次官。水野宗家第18代当主。旧紀伊新宮藩主・水野忠幹の五男。養父は旧結城藩当主家の水野忠愛。妻は旧菊間藩主・水野忠敬の三女・貞子。教育調査会会員、臨時教育会議委員、学習院御用掛、鉄道会議臨時議員などを歴任した。 1879年(明治12年)1月5日、旧紀伊新宮藩藩主・水野忠幹の五男として東京府で生まれる。1884年(明治17年)10月に水野宗家第17代当主・水野忠愛の養嗣子となって同年12月に家督を相続する。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学卒業。
大場 信続(おおば のぶつぐ、1879年(明治12年)1月4… 大場 信続(おおば のぶつぐ、1879年(明治12年)1月4日 - 1964年(昭和39年)10月7日)は、日本の郷士家。農業土木技術者。大場家は源平合戦(治承・寿永の乱)に勇名を知られた大庭景親の後胤で近世では代々世田谷郷の井伊家領土の代官。信続は13代目にあたる。父信愛の長男として世田谷邸世田谷代官屋敷に生まれる。 東京帝国大学農科大学農学科に入学し、学生時代農科の端艇部ボート選手として紫友会に活躍。1903年(明治36年)卒業後、兵役に服し陸軍砲兵少尉に任じる。1905年(明治38年)大学院に進学。農業工学を研究し、また1年間大学主催の耕地整理講習会にも参加。その後、東京農業大学の前身東京高等農学校講師、農商務省嘱託。
中井 励作(なかい れいさく、1879年(明治12年)1月3… 中井 励作(なかい れいさく、1879年(明治12年)1月3日 – 1968年(昭和43年)2月18日)は、農商務官僚、商工官僚、実業家。 熊本県出身。第五高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。翌年より農商務試補、山林局事務官、水産局書記官、広島大林区署長、高知大林区署長、東京大林区署長、大臣官房文書課長、会計課長、特許局長、山林局長を歴任した。1924年(大正13年)、農商務次官に就任し同年末に製鉄所長官に転じた。1934年(昭和9年)、製鉄所が日本製鉄株式会社に改組されると初代社長に就任し、1939年(昭和14年)まで在任した。
小屋 道治(こや みちはる、1879年〈明治12年〉 - 1… 小屋 道治(こや みちはる、1879年〈明治12年〉 - 1921年〈大正10年〉6月27日)は、日本の工学者。秋田鉱山専門学校(現・秋田大学)教授。 小屋右兵衛の長男として1879年(明治12年)に群馬県勢多郡笂井村(現在の前橋市笂井町)に生まれる。父小屋右兵衛は南勢多郡木瀬村の村長(1896年から1904年まで)を務めた人物であり、美学者大塚保治(旧姓・小屋)の兄である。 現在の前橋市立笂井小学校、群馬県立前橋高等学校を卒業後、第二高等学校を経て、東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業する。卒業後は東京砲兵工廠火薬製造技術にて研究に従事する。 中国広東省の高等工業学堂の教授を経て、1912年(明治45年)より秋田鉱山専門学校にて、講師、教授を務める。
朱 深または朱 㴱(しゅ しん、1879年〈光緒5年〉 - … 朱 深または朱 㴱(しゅ しん、1879年〈光緒5年〉 - 1943年〈民国31年〉7月2日)は、中華民国の政治家・検察官・法務官僚・実業家。字は博淵。北京政府では安徽派に属し、後に中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会にも参加した。 清末に日本へ留学する。1912年(民国元年・明治45年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(ドイツ法兼修)を卒業し、併せて法学士の称号を取得した。 帰国後の1912年7月26日に北京政府で法典編纂会纂修となり、翌1913年(民国2年)8月24日には総検察庁検察官に任命された。さらに京師地方検察庁検察長署理や京師高等検察庁検察長署理も務めている。1915年(民国4年)1 月27日、中大夫の位階を授与され、上大夫銜を加えられた。
高橋 其三(たかはし きぞう、1878年(明治11年)12月… 高橋 其三(たかはし きぞう、1878年(明治11年)12月13日 - 1934年(昭和9年)11月23日)は、日本の宮内官僚。判事、検事。宮中顧問官。 長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)出身。旧高遠藩士・山崎就正の次男に生まれ、のち高橋佐次郎の養子となる。1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。司法官試補となり、東京区裁判所検事代理、東京地方裁判所検事、東京区裁判所検事、東京地方裁判所判事、横浜区裁判所判事、横浜地方裁判所判事、東京地方裁判所判事、東京控訴院判事を歴任。1913年(大正2年)、帝室会計審査官に転じ、帝室会計審査局主事、宮内事務官、内匠寮経理課長、宮内書記官、帝室林野局次長を歴任した。
谷 欽太郎(たに きんたろう、1878年(明治11年)12月… 谷 欽太郎(たに きんたろう、1878年(明治11年)12月9日 - 1951年(昭和26年)9月16日)は、日本の台湾総督府官僚、政治家、実業家。衆議院議員。 富山県下新川郡仏田村(現富山県魚津市)で、谷平吉の長男として生まれ、1897年4月、谷順平の長女・寿意と結婚し婿養子となる。第四高等学校を経て、1904年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1905年8月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1906年2月、台湾総督府に入り、同属、同専売局書記、同事務官、同脳務課長などを歴任した。1913年に退官。 1915年3月、第12回衆議院議員総選挙に富山県郡部から立憲政友会所属で出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
高橋 亨(たかはし とおる、1878年12月3日 - 196… 高橋 亨(たかはし とおる、1878年12月3日 - 1967年9月4日)は、日本の朝鮮学者。 1878年、新潟県中魚沼郡川治村の大字高山一番地に、父・高橋茂一郎、母・きいの長男として生まれた。1898年、第四高等学校を卒業すると東京帝国大学文科に入学し、漢文科で学んだ。1902年、同大学を卒業。卒業論文は『漢易を難して根本博士の易説に及ぶ』であった。 卒業後の同1902年、九州日報の主筆となり、博多に移った。しかし、1903年に大韓帝国政府の招聘を受けて、幣原坦の後任として官立中学校の教師となった。1909年、『韓語文典』を、1910年、『朝鮮の物語集附俚諺』を刊行。この頃より、朝鮮の風俗調査に着手し、寺内正毅に朝鮮文献の収集を進言し、採用された。
作田 荘一(さくた しょういち、古い文書では“莊一”、読みを… 作田 荘一(さくた しょういち、古い文書では“莊一”、読みを「そういち」とするのは誤り 1878年12月1日 - 1973年2月9日)は、日本の経済学者。満洲建国大学初代副総長、同名誉教授。経済学博士。作田啓一(京都大学名誉教授)の父。戦前日本における統制経済の権威である。 山口県に藤本家の5男として生まれる。藤本家の家計の都合により高等小学校から上級学校への進学が困難であったため作田家の養子となり作田姓となる。山口高等学校(旧制山高)を経る。1905年、東京帝国大学法科大学経済学科卒業。1908年から1911年まで、中国の武昌湖北法政学堂(現在の武漢大学法学院)で経済学を教える。高等文官試験に合格し逓信事務官となる。
結城弘毅(ゆうき こうき、1878年12月 - 1956年)… 結城弘毅(ゆうき こうき、1878年12月 - 1956年)は、鉄道省(国鉄を当時運営)の局員であった人物。
久留 義郷(ひさとめ よしさと、1878年(明治11年)11… 久留 義郷(ひさとめ よしさと、1878年(明治11年)11月30日 - 1957年(昭和32年)8月18日)は、日本の政治家、鉄道官僚、弁護士。衆議院議員(2期)。仙台鉄道局長等を歴任。 鹿児島県徳之島亀津(現在の大島郡徳之島町)生まれ、出身。鹿児島高等中学造士館補充科、予科を経て、学校制度の変更により鹿児島県立尋常中学造士館を1897年(明治30年)に卒業。熊本の第五高等学校を1900年(明治33年)に卒業して、東京帝国大学法科大学へ進学。泉二新熊は高等中学予科、高等学校、大学での先輩で、第五高等学校時代には熊本の丹後寺に同宿した。また、法科大学では、泉二に相談して助言を受け、独法科を選んだ。
寺田 寅彦(てらだ とらひこ、1878年(明治11年)11月… 寺田 寅彦(てらだ とらひこ、1878年(明治11年)11月28日 - 1935年(昭和10年)12月31日)は、日本の物理学者、随筆家、俳人 日本派。吉村 冬彦(1920年から使用)、牛頓(ニュートン)、藪柑子(やぶこうじ)の筆名も使用している。俳号寅日子。高知県出身(出生地は東京市)。 東大物理学科卒。熊本の五高時代、物理学者田丸卓郎と、夏目漱石と出会い、終生この2人を師と仰いだ。東大入学後、写生文など小品を発表。以後物理学の研究と並行して吉村冬彦の名で随筆を書いた。随筆集に『冬彦集』(1923年)などがある。 1878年(明治11年)11月28日東京市麹町区(現在の千代田区)に高知県士族(旧足軽)寺田利正・亀夫妻の長男として誕生。
宮田 光雄(みやた みつお、1878年(明治11年)11月2… 宮田 光雄(みやた みつお、1878年(明治11年)11月25日 - 1956年(昭和31年)3月8日)は、日本の官僚、政治家。内閣書記官長、衆議院議員、貴族院議員。
宮田 光雄(みやた みつお、1878年(明治11年)11月2… 宮田 光雄(みやた みつお、1878年(明治11年)11月25日 - 1956年(昭和31年)3月8日)は、日本の官僚、政治家。内閣書記官長、衆議院議員、貴族院議員。 三重県一志郡八ツ山村(後に白山町、現在は津市)の村長で酒造を営む素封家宮田宇吉の長男として、同村八対野の屋敷に於いて生まれる。愛知一中、三高、帝国大学法科大学卒業(のちの東京大学法学部)。 貴族院官僚として奉職するも、衆議院議員として三重県より立候補、その後は貴族院勅選議員として活躍した。原敬首相の目にとまり1919年(大正8年)6月28日、福島県知事として赴任。1922年(大正11年)6月12日に加藤友三郎内閣で内閣書記官長として抜擢され、福島県知事を退任し、大腸癌を患う加藤友三郎首相にかわり国政を取り仕切る。
岸 倉松(きし くらまつ、1878年(明治11年)11月23… 岸 倉松(きし くらまつ、1878年(明治11年)11月23日 - 1968年(昭和43年)4月1日)は、日本の外交官。幣原喜重郎首相の内閣総理大臣秘書官。東京帝国大学卒業。秋田県出身。 岸太右衛門の長男として生まれる。東京帝国大学卒業後、外務省に入省し、内閣調査局調査官、在アントワープ領事を経て1940年(昭和15年)に幣原喜重郎首相の内閣総理大臣秘書官となる。東京帝国大学時代は内閣総理大臣を歴任した広田弘毅と同期であった。 また私生活では正則英語学校の校長である斎藤秀三郎の長女・ふみと結婚し1男4女を儲ける。 1968年(昭和43年)4月1日、死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
乗杉 嘉壽(のりすぎ よしひさ、「乘杉」とも表記、1878年… 乗杉 嘉壽(のりすぎ よしひさ、「乘杉」とも表記、1878年11月19日 - 1947年2月1日)は、明治から昭和期の文部官僚・教育者。日本に社会教育を体系的に紹介した人物とされている。 富山県出身(出生地は東京)。礪波市出町眞壽寺壽貞の次男。兄は乗杉教存である。 1904年に東京帝国大学文科大学哲学科卒業後、同大大学院に進学して実践哲学を研究するが、同年秋より文部省に招かれて普通学務局に配される。 1909年に第五高等学校教授に就任する。 1913年に文部省に復帰して督学官に就任、1917年には教育と教授法研究のためにアメリカ・イギリスに1年半留学、更にフランス・イタリアの教育事情を視察して帰国した。
田村 鎮(たむら やすし、1878年〈明治11年〉10月24… 田村 鎮(たむら やすし、1878年〈明治11年〉10月24日 - 1942年〈昭和17年〉2月11日)は、日本の建築家。陸軍技師として数多くの軍関連施設を手がけた人物。陸軍技師として特に旧陸軍航空飛行隊の施設計画に深く関与していたこと、陸軍技師の中では筆頭格であったことがわかっている。一関藩最後の藩主・田村崇顕の長男。 北の丸公園に立地する旧近衛師団司令部庁舎(現東京国立近代美術館分室、1910年、国重要文化財)が代表作。 他に田村が設計に大きく関わったと推定されるものには、樺太守備隊司令官宿舎(現ロシア陸軍法務局サハリン州軍管区裁判所、1908)、所沢飛行場飛行船庫(1913年)、広島陸軍被服支廠倉庫(1914年、国重要文化財)などが知られる。
鮭延 信道(さけのべ のぶみち、1878年(明治11年)10… 鮭延 信道(さけのべ のぶみち、1878年(明治11年)10月22日 - 1954年(昭和29年)10月27日)は、日本の外交官。駐チリ公使。 東京府に田中貫一の二男として生まれ、軍医鮭延良治の養子となった。鮭延家は加賀藩藩医の家柄で、良治の父の良節は手塚良仙の実弟、母は大槻俊斎の妹であった。 1904年(明治37年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、外交官及領事官試験合格した。領事官補、外務省参事官、大使館三等書記官、イギリス大使館二等書記官、カルカッタ(現在のコルカタ)総領事、大使館参事官、外務省大臣官房人事課長心得、駐チリ公使を歴任した。 1928年(昭和3年)に退官した後は、山中千之の後任として国際連盟常設委任統治委員会日本委員を務めた。
田辺 治通(たなべ はるみち、明治11年(1878年)10月… 田辺 治通(たなべ はるみち、明治11年(1878年)10月17日 - 昭和25年(1950年)1月30日)は、日本の逓信官僚・政治家。大阪府知事・内閣書記官長・逓信大臣・内務大臣を歴任した。山梨県出身。妻は杉山叙の養子である正四位勲二等東京府士族杉山四五郎の養妹である真知。 山梨県東山梨郡神金村(現在の甲州市)の酒造業者の次男に生まれる。明治38年(1905年)に東京帝国大学法科大学を卒業後、逓信省に入省する。横浜郵便局長、大阪郵便局長、逓信監理局書記官、同事務官、逓信省参事官兼為替貯金局事務官、大阪逓信局長、東京逓信局長を務めフランスに留学した後、無線電信法の制定に尽力するなど、通信行政の専門家として活躍して大正13年(1924年)には通信局長になり、「通信閥」の長と見られていた。
大久保 利賢(おおくぼ としかた、1878年〈明治11年〉1… 大久保 利賢(おおくぼ としかた、1878年〈明治11年〉10月16日 - 1958年〈昭和33年〉12月16日)は、日本の実業家。大久保利通の八男。妻は高橋是清の妹の和喜子。子に大久保利春がいる。 1903年7月、東京帝国大学法科大学卒業。 1903年8月、横浜正金銀行入行。1911年9月、東京支店副支配人に就任。1914年3月、ロンドン支店副支配人に就任。1919年3月、ロンドン支店支配人に就任。1923年3月、横浜正金銀行本店支配人に就任。1926年3月、横浜正金銀行取締役に就任。1933年3月、横浜正金銀行副頭取に就任。1936年9月、横浜正金銀行頭取(第13代)に就任。 日本銀行参与理事、商工省貿易局顧問、全国金融統制会監事、学習院評議員、南洋協会相談役なども務めた。
笠原 忠造(かさはら ちゅうぞう、1878年(明治11年)1… 笠原 忠造(かさはら ちゅうぞう、1878年(明治11年)10月7日 - 1926年(大正15年)11月12日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 長野県長野市に、薬種商を営む笠原十兵衛の長男として生まれる。1906年(明治39年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、長野市に弁護士事務所を開いた。弁護士業のかたわら、長野市会議員、同議長、長野県会議員、同議長を務めた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第15回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。 その他に、田川炭鉱株式会社常務取締役、京浜電力常務取締役、帝国石膏株式会社取締役を務めた。
真船 民伊(まふね たみい、1878年(明治11年)10月7… 真船 民伊(まふね たみい、1878年(明治11年)10月7日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。愛知県中央商工相談所常務理事。 福島県安積郡三代村(現在の郡山市)出身。1904年(明治37年)に東京高等師範学校英語部を、1910年(明治43年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業した。高等文官試験に合格し、福島県理事官、宮城県理事官、鳥取県警察部長、愛知県産業部長、島根県書記官・内務部長、香川県書記官・内務部長、茨城県書記官・内務部長、熊本県書記官・内務部長を歴任した。 退官後は豊橋市助役、愛知県中央商工相談所常務理事、愛知県嘱託を務めた。