野田 義夫(のだ よしお、1874年(明治7年)7月15日 … 野田 義夫(のだ よしお、1874年(明治7年)7月15日 - 1950年(昭和25年)11月1日)は、日本の教育者。 福岡県八女郡下広川村(現在の広川町)出身。1899年(明治32年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、さらに大学院で学んだ。1900年(明治33年)に文部属となり、広島高等師範学校教授、奈良女子高等師範学校教授、文部省督学官、大阪高等学校校長を歴任した。その間の1924年(大正13年)、文学博士号を受けた。 退官後、大阪高等女子職業学校(現在の英真学園高等学校)教授・名誉校長、羽衣高等女学校(現在の羽衣学園中学校・高等学校)校長を経て、1936年(昭和11年)から親和高等女学校(親和中学校・親和女子高等学校)校長を務めた。
池田 敬八(いけだ けいはち、旧姓・赤坂、1874年(明治7… 池田 敬八(いけだ けいはち、旧姓・赤坂、1874年(明治7年)7月3日 - 1963年(昭和38年)3月23日)は、日本の政治家・衆議院議員(立憲民政党)、大蔵官僚、弁護士。カナモジ会理事。 三重県度会郡宇治山田町(宇治山田市を経て現在の伊勢市)出身。三重平民・赤坂敬二の三男、あるいは六男として生まれ、池田房明の養子となった。 1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格した。大蔵省専売局事務官、専売局参事、専売局長官官房監理課長などを経て、1917年(大正6年)からは印刷局長を務めた。 1928年(昭和3年)、退官。三重県第二区より第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
正親町季董(おおぎまち すえただ、1874年(明治7年)6月… 正親町季董(おおぎまち すえただ、1874年(明治7年)6月19日 - 1945年(昭和20年))は、日本の華族(男爵)。正親町公董の三男。妻は裏松良光の長女・良子。旧名・董次郎。 1889年(明治22年)5月6日、正親町伯爵家分家を起こし、父の勲功により男爵を叙爵した。東京帝国大学法科大学政治科卒業、司法大臣秘書官を務めた。久原商事の支配人として、1916年(大正5年)7月から1年間ロシア帝国のペトログラードに滞在。帰国後その体験談として「滞露漫記」を雑誌『実業之日本』に連載し、『露西亜遊記』の題で単行本を刊行した。華族廃止論を唱えた。のち山下汽船会社顧問。1919年(大正8年)11月22日に隠居し、1920年(大正9年)2月3日に分家した。
岡崎 国臣(おかざき くにおみ、1874年(明治7年)6月1… 岡崎 国臣(おかざき くにおみ、1874年(明治7年)6月12日 – 1936年(昭和11年)5月22日)は、日本の農商務官僚、衆議院書記官長。東京株式取引所理事長。 島根県簸川郡久木村(現在の出雲市)に勝部又一郎の二男として生まれ、衆議院議員岡崎運兵衛の養子となった。1900年(明治33年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。農商務省山林局事務官、群馬県事務官、福井県事務官、農商務省参事官、同書記官、大阪鉱務署長、農商務省大臣官房文書課長などを歴任し、1915年(大正4年)に衆議院書記官長に就任した。 退官後は東京株式取引所理事・理事長を務めた。その他に第三国立銀行取締役、大社宮島鉄道取締役、松陽新報社社主などを務めた。
十時 弥(ととき わたる、1874年(明治7年)6月6日 -… 十時 弥(ととき わたる、1874年(明治7年)6月6日 - 1940年(昭和15年)4月29日)は、日本の教育者。 福岡県に衆議院議員十時一郎の二男として生まれ、大叔父の養子となった。第三高等学校から第五高等学校に転じ1896年(明治29年)7月に卒業。1899年(明治32年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。学習院教授、第三高等学校教授などを務め、1922年(大正11年)、社会学研究のため欧米に留学した。1923年(大正12年)、新設の広島高等学校(現在の広島大学総合科学部)校長に就任し、1932年(昭和7年)に第五高等学校校長に転じた。
中目 覚(なかのめ あきら、1874年5月23日 - 195… 中目 覚(なかのめ あきら、1874年5月23日 - 1959年3月27日)は、宮城県仙台市出身の地理学者、言語学者、教育行政官、エスペランティスト。 1874年、仙台藩一家 十七家の一つ中目氏の一族として宮城県仙台市に生まれる。9歳で宮城師範学校付属小学校に入学し、14歳で退学、宮城県尋常中学校に入学する。翌年同校を退学し、第二高等中学校に入学する。23歳で同校を卒業し、帝国大学文科大学独逸文学科に入学する。 1899年(明治32年)、東京帝国大学を首席卒業。恩賜の銀時計を授与。第四高等学校(後の金沢大学)でドイツ語教授をしていたが、1903年(明治36年)、30歳の時に創立された広島高等師範学校(後の広島大学)でドイツ語と地理学を三ヶ月ほど教えたのち、3年間オーストリア・ハンガリーへの留学を文部省から命じられる。
緒方 惟一郎(おがた ゆいいちろう、1874年〈明治7年〉5… 緒方 惟一郎(おがた ゆいいちろう、1874年〈明治7年〉5月18日 - 1951年〈昭和26年〉10月21日)は、日本の内務・警察官僚。位階は正五位。官選青森県知事、警視庁消防部長。 熊本県出身。緒方夫門の長男として生まれる。第五高等学校を経て、1904年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1905年3月、内務省に入省し警視庁属兼警部となる。 1910年、警視庁警視・神田警察署長に就任。以後、浅草南元町警察署長、麻布鳥居坂警察署長などを経て、1915年、警視庁消防部長となり、9年間在任した。 1924年6月6日、青森県知事に発令されたが、在任18日後の6月24日に休職となる。その理由は不明である。
蒲原 久四郎(かんばら きゅうしろう、1874年(明治7年)… 蒲原 久四郎(かんばら きゅうしろう、1874年(明治7年)5月18日 - 1933年(昭和8年)1月29日)は、日本の逓信官僚。朝鮮総督府官僚。 佐賀県出身。1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。通信事務官・東京郵便電信学校教授、神戸郵便局監理課長、横浜郵便局監理課長、鹿児島郵便局長、逓信書記官・経理局検査課長、新潟逓信管理局長、名古屋郵便局長、西部逓信局総務部長、通信局規画課長、臨時電信電話建設局広島出張所長、朝鮮総督府逓信局長を歴任した。 1933年(昭和8年)1月29日、糖尿病のため朝鮮京城府東四軒町(現大韓民国ソウル特別市中区奨忠洞)の自宅で死去、58歳。
藤田 外次郎(ふじた がいじろう、1874年(明治7年)5月… 藤田 外次郎(ふじた がいじろう、1874年(明治7年)5月15日 - 没年不明)は日本の陸軍教授、教育者、数学者。 石川県士族の家に生まれる。1891年(明治25年)7月に予科を卒業し、9月に第四高等中学校の特待生を勝ち取った。1894年、(明治28年)7月、第四高等学校第二部理科を卒業。1898年(明治31年)7月、東京帝国大学を卒業。8月12日、高等官八等を以て陸軍教授に就任し、8月13日に陸軍砲工学校附を命じられた。8月19日、東京帝国大学大学院に入学し、帰納幾何学を専攻。学士会にも参加している。1903年(明治36年)12月1日より砲工学校に復職。1904年(明治37年)10月28日、歩兵少尉に任命され従軍、翌1905年(明治38年)12月30日に退役した。
紀平 正美(きひら ただよし、1874年4月30日 - 19… 紀平 正美(きひら ただよし、1874年4月30日 - 1949年9月19日)は、日本の哲学者。文学博士。学習院教授、国民精神文化研究所哲学科所員。帝大七生社代表。 日本におけるヘーゲル哲学研究の先駆者。主著に『行の哲学』、『日本精神』など。三重県出身。 1874年、三重県で生まれた。第四高等学校を経て、東京帝国大学文科大学哲学科に進学。1900年に卒業。 1905年より小田切良太郎と共にゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル『哲学体系』を翻訳して掲載し、日本への紹介を始めた。ヘーゲルの『哲學大辭書』(1912年)の編纂においては論理学・認識論に関する記事の執筆を担当した。國學院大學・東洋大学などでの講師を経て、1919年に学習院教授に就任。
吉江 琢兒(よしえ たくじ、1874年4月29日 - 194… 吉江 琢兒(よしえ たくじ、1874年4月29日 - 1947年12月26日)は、日本の数学者。東京帝国大学名誉教授。専門は微分方程式論。高木貞治とともに日本で最初の数学科出身の数学者。 東宮御学問所御用掛として皇太子時代の昭和天皇に数学を進講している。 1874年4月、山形県上山生まれ。誕生の翌年、元上山藩士の父・磨磋記が県庁勤務から東京の陸軍省会計課勤務となり、東京に移住。芝小学校に入学。10歳の時に父の転勤に伴い広島の小学校に転校、広島県尋常中学校を経て、1891年第三高等中学校に入学。同級に高木貞治、一級上に林鶴一がいた。三高では河合十太郎に数学を学び、リヒャルト・デーデキントの「連続性と無理数」を強制的に読まされたという。
三井 米松(みつい よねまつ、1874年(明治7年)4月27… 三井 米松(みつい よねまつ、1874年(明治7年)4月27日 – 1953年(昭和28年)4月15日)は、農商務官僚、商工官僚。実業家。 旧対馬藩士佐伯雲平の二男として佐賀県(後に三潴県、長崎県となる)下県郡厳原に生まれ(兄は教育者の佐伯小弥太)、後に福山藩士三井豊次郎の養子となった。第五高等学校を経て、1901年(明治34年)に東京帝国大学文科大学英文科を卒業した。さらに同大学法科大学に入り、1906年(明治39年)に英法科を卒業した。翌年に農商務省に入省。水産局属。水産講習所教授、水産局書記官、農商務書記官、福岡鉱務署長、東京鉱務署長、農商務省水産局長、商工省鉱山局長、社会局参与などを歴任した。
濱口 梧洞(はまぐち ごとう)または10代目 濱口 儀兵衛(… 濱口 梧洞(はまぐち ごとう)または10代目 濱口 儀兵衛(じゅうだいめ はまぐち ぎへえ、1874年(明治7年)4月24日 - 1962年(昭和37年)1月31日)は、和歌山県出身の実業家・貴族院議員。明治後期から昭和戦前期にかけて、ヤマサ醤油株式会社を経営する濱口儀兵衛家の当主を務めた。「醤油王」と謳われた。銚子市名誉市民。 1874年(明治7年)、4月24日、和歌山県有田郡広村大字広(現在の和歌山県有田郡広川町)に、ヤマサの屋号で知られる濱口儀兵衛家の8代濱口儀兵衞の二男として生まれた。出生名は濱口慶次。1895年(明治28年)、立教学校(現・立教大学)卒業。その後、帝国大学理科に進み、イギリスに留学して化学を専攻した。
土屋 岩保(つちや いわほ、1874年(明治7年)4月16日… 土屋 岩保(つちや いわほ、1874年(明治7年)4月16日 – 1928年(昭和3年)8月22日)は、日本の衆議院議員(新正倶楽部)。内科医。 山梨県東八代郡祝村(現在の甲州市)で土屋順周の次男として生まれる。1901年(明治34年)、東京帝国大学医科大学を卒業し、同大学の助手となった。1907年(明治40年)より1909年(明治42年)までドイツに留学し、ハレ大学、ベルリン大学で学んだ。1911年(明治44年)、医学博士号を授与。同年、侍医に任命され、皇太子(後の大正天皇)の診察にあたった。 1921年(大正10年)、侍医を辞して医院を開業し、その傍ら日本住血吸虫症の研究にあたった。その後、赤坂区医師会長を務めた。
堀田 義次郎(ほりた ぎじろう、1874年(明治7年)4月1… 堀田 義次郎(ほりた ぎじろう、1874年(明治7年)4月14日 - 1942年(昭和17年)11月19日)は、日本の政治家、内務官僚。衆議院議員、滋賀県知事、大津市長。弓道家(大日本武徳会弓道範士)。 福岡県御井郡、のちの三井郡大城村(北野町を経て現久留米市)出身。第五高等学校を卒業。1902年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1904年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し内務属となる。 以後、愛媛県事務官、島根県事務官・第四部長、長野県事務官・警察部長、三重県内務部長、滋賀県内務部長、愛知県内務部長などを歴任。 1919年4月、原内閣により滋賀県知事に登用され、1923年10月まで在任。
鈴木 梅太郎(すずき うめたろう、1874年(明治7年)4月… 鈴木 梅太郎(すずき うめたろう、1874年(明治7年)4月7日 - 1943年(昭和18年)9月20日)は、戦前の日本の農芸化学者。米糠を用いて抗脚気因子を初めて抽出したことで有名。勲等は勲一等瑞宝章。東京帝国大学名誉教授、帝国学士院会員。文化勲章受章者。長岡半太郎、本多光太郎と共に理研の三太郎と称される。 静岡県榛原郡堀野新田村(現:牧之原市堀野新田)にて、農業・鈴木庄蔵の次男として生まれる。 帝国大学農科大学(現:東京大学農学部)農芸化学科を卒業する。東京帝国大学教授を務めるとともに理化学研究所の設立者として名を連ねる。 鈴木は、糠に含まれる抗脚気因子を物理的に抽出することに成功した。 ヨーロッパ留学から帰った鈴木は、オランダの医学者クリスティアーン・エイクマンの追試を行い、ニワトリとハトを白米で飼育すると脚気同様の症状が出て死ぬこと、糠と麦と玄米にはその症状を予防して快復させる成分があること、白米はいろいろな成分が欠乏していることを認めた。
佐藤 信安(さとう のぶやす、1874年〈明治7年〉4月5日… 佐藤 信安(さとう のぶやす、1874年〈明治7年〉4月5日 - 1964年〈昭和39年〉8月1日)は、内務官僚、広島市長。 島根県松江市生まれ。1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となった。その後、1900年(明治33年)に東京帝国大学大学院に入学し、同年には歩兵第21連隊に召集された。1902年(明治35年)、司法官試補を辞職して弁護士を開業した。1909年(明治42年)より検事となり、各地方の裁判所に勤務した。1913年(大正2年)、熊本県警察部長に転じ、翌年には山口県警察部長に就任した。さらに福島県内務部長を務めた。 1922年(大正11年)4月17日から1925年(大正14年)1月21日まで第14代広島市長を務めた。
森垣 亀一郎(もりがき きいちろう、1874年(明治7年)3… 森垣 亀一郎(もりがき きいちろう、1874年(明治7年)3月22日 - 1934年(昭和9年)1月23日)は、兵庫県出身の日本の土木技術者。大阪築港工事に8年間従事し、鉄桟橋、神戸築港、防波堤の工事にあたった。 但馬国豊岡(現・兵庫県豊岡市)に生まれる。新治郎とちくの次男。5歳で父を亡くす。明治13年に豊岡小学校に入学。学業が優秀だったことから、地元の資産家の援助により東京府尋常中学校に入学する。さらに第一高等中学校に進むが、資産家が事業に失敗したことで、苦学を余儀なくされた。その状況でも帝国大学工科大学土木工学科に進学し、1898年(明治31年)に卒業した。この間の学費は、出身小学校長の弟だった土木技師の沖野忠雄から援助された。
稲田 龍吉(いなだ りょうきち、1874年(明治7年)3月1… 稲田 龍吉(いなだ りょうきち、1874年(明治7年)3月18日 - 1950年(昭和25年)2月27日)は、愛知県名古屋市出身の細菌学者。九州帝国大学医学部第一内科初代教授、恩賜財団母子愛育会愛育研究所(現・日本総合愛育研究所)初代所長を歴任。東京大学名誉教授、医学者。 洋学校を経て上京し、共立学校などの予備校に在籍した後、第一高等中学校を経て1895年(明治28年)帝国大学医科大学(現 東京大学医学部)に入学、1900年(明治33年)に首席で卒業し、青山胤通教授の内科教室に入局。 1902年(明治35年)から文部省海外留学生としてドイツに公費留学。1905年(明治38年)京都帝国大学福岡医科大学内科学第一講座初代教授に着任(現九州大学医学部第一内科(病態修復内科))。
西川 籐吉(にしかわ とうきち、1874年(明治7年)3月1… 西川 籐吉(にしかわ とうきち、1874年(明治7年)3月17日 - 1909年(明治42年)6月22日)は、日本の真円真珠養殖の研究者、真円真珠発明者。大阪府桃谷出身。 見瀬辰平とともに真円真珠を発明した研究者として知られている。西川式・ピース式と呼ばれ、現在の真珠養殖の技術の基礎となっている。東京帝国大学で水産動物学を専攻し1897年(明治30年)に卒業した後、農商務省水産局技師として、箕作佳吉・飯島魁両博士の指導の下、真円真珠養殖およびアワビの人工授精の研究に従事した。御木本研究所で本格的な真珠の研究にはいり、真円真珠形成の原理を解明した。 1903年(明治36年)、御木本幸吉の次女を嫁に貰う。
大石 和三郎(おおいし わさぶろう、1874年〈明治7年〉3… 大石 和三郎(おおいし わさぶろう、1874年〈明治7年〉3月15日 - 1950年〈昭和25年〉12月18日)は、日本の気象学者。ジェット気流の発見者として有名。エスペランティストである。 1874年、佐賀県鳥栖市生まれ。第一高等中学校予科尋常中学科、第一高等学校第二部学科を経て、1898年(明治31年)東京帝国大学理科大学物理学科を卒業。さらに大学院で学んだ。1899年(明治32年)中央気象台に入り、地磁気、空中電気の観測を担当する。1911年(明治44年)ドイツのリンデンベルク高層気象台及びポツダム気象台に留学した。帰国後の1920年(大正9年)に高層気象台の初代台長に就任した。 1926年に刊行された「高層気象台報告第1号」で、大石は測風気球による高層気流の観測結果をエスペラントで世界に公表した(同年に「高層気象台彙報」にて日本語で報告している)。
立 作太郎(たち さくたろう、1874年(明治7年)3月15… 立 作太郎(たち さくたろう、1874年(明治7年)3月15日 - 1943年(昭和18年)5月13日)は、日本の法学者(国際法)。東京帝国大学教授。 東京で旧幕臣・立嘉度(よしのり)の息子として生まれ、伯父・立嘉一(広作、外務省文書権正・大蔵省大丞)の養子となる。慶應義塾幼稚舎、共立学校、第一高等学校を経て、1897年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年10月、大学院に進み国際公法を専攻。1900年6月、外交史研究のためヨーロッパに留学。1901年3月、東京帝国大学法科大学助教授に発令され、1904年3月に帰国した。 1904年4月、東京帝国大学法科大学教授に就任し、外交史の講座を担当。
渡辺 世祐(わたなべ よすけ、1874年3月13日 - 19… 渡辺 世祐(わたなべ よすけ、1874年3月13日 - 1957年4月28日)は、日本史学者。明治大学、國學院大學各教授。学位は、文学博士(1919年)。山口県平民。 1874年、山口県吉敷郡下宇野令村(現・山口市)生まれ。旧姓は蔵田。山口高校を経て1900年7月、東京帝国大学文科大学国史学科を卒業。熊谷中学校勤務の後、1903年に「関東ヲ中心トシタル足利時代史」の研究のため、東京帝国大学大学院に進学する。 1904年(明治37年)から東京帝国大学史料編纂掛(史料編纂所)に勤務。1905年(明治38年)からは東京帝国大学文科大学講師として室町時代・戦国時代の歴史を講義する。1910年(明治43年)からは國學院大學部でも教鞭を取る。
草野 俊助(くさの しゅんすけ、1874年(明治7年)3月2… 草野 俊助(くさの しゅんすけ、1874年(明治7年)3月2日 - 1962年(昭和37年)5月19日)は、日本の植物学者、病理学者である。東京大学名誉教授。理学博士。 福島県の生まれ。草野孝信の長男。 東京帝国大学(現在の東京大学)卒業後、1925年(大正11年)に母校の同大学教授として活動する。同大学勤務中は教鞭を執る傍ら主に菌類の研究に携わり、1933年(昭和8年)に壺状菌類の生活史に関する研究に携わったことで帝国学士院賞(東宮御成婚記念賞)を受賞し、同院の会員となった。 また帝大に勤務中の1931年(昭和6年)には東京文理科大学(後の東京教育大学、現在の筑波大学)の教授としても活動し、1937年(昭和12年)の定年退官まで両大学教授を兼務する。
白河 鯉洋(しらかわ りよう、1874年(明治7年)3月2日… 白河 鯉洋(しらかわ りよう、1874年(明治7年)3月2日 - 1919年(大正8年)12月25日)は、衆議院議員(立憲国民党)、ジャーナリスト、東洋学者。本名は次郎。 福岡県京都郡豊津村(現在のみやこ町)出身の豊津藩(小倉藩)士で、豊前宇都宮氏の末裔である。 1897年(明治30年)、東京帝国大学文科大学漢学科を卒業。卒業後は神戸新聞、九州日報の主筆を務めた。1903年(明治36年)、清に渡って南京の江南高等学堂の総教習を務めた。帰国後は、早稲田大学講師、関西日報客員を務めた。1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。 墓所は多磨霊園(6-2-6)と日光市浄光寺(田岡嶺雲との連理塚)。
岡野 義三郎(おかの よしさぶろう、1874年(明治7年)3… 岡野 義三郎(おかの よしさぶろう、1874年(明治7年)3月1日 - 1939年(昭和14年)8月27日)は、日本の教育者。 大阪府出身。第三高等学校を経て、1897年(明治30年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。高知県尋常中学校教諭、岐阜県尋常中学校教諭、第六高等学校教授、第八高等学校校長、第二高等学校校長を歴任。1928年(昭和3年)、第六高等学校長に就任した。1935年(昭和10年)に退官した後は、第六高等学校名誉教授の称号を受けた。建築家の岡野寛次(竹中工務店)は弟儀助の養子となった次男である。
坂本 健一(さかもと けんいち、1874年3月 - 1930… 坂本 健一(さかもと けんいち、1874年3月 - 1930年?月)は、日本の歴史家、著述家。号は蠡舟(れいしゅう・いしゅう)。坂本 健名義の著書もあるらしい。 兵庫県淡路島平民出身。1895年7月3日に旧制第四高等学校大学予科第一部を卒業、1898年7月10日に東京帝国大学文学部史学科を卒業。1900年北京京師大学堂(現・北京大学)の招聘を受け、7年間の出向を経て著述業に従事。 大正期には「コーラン経」(1920年、セイルらのクルアーン英訳本からの重訳)や「ムハメッド伝」(1923年)を著した。 以下は北京京師大学堂での同僚。
吉田 熊次(よしだ くまじ、1874年(明治7年)2月27日… 吉田 熊次(よしだ くまじ、1874年(明治7年)2月27日 - 1964年(昭和39年)7月15日)は、日本の教育学者。文学博士。東京帝国大学教授。 山形県東置賜郡中川村(現在の南陽市)出身。1897年(明治30年)第一高等中学校卒業、1900年(明治33年)東京帝国大学文科大学哲学科を卒業、大学院に学んだ。1903年(明治36年)、倫理学研究のためフランス、ドイツに留学した。1904年(明治37年)、東京女子高等師範学校教授・東京高等師範学校教授に就任。1907年(明治40年)、東京帝国大学文科大学助教授、1912年(明治45年)には文学博士の学位を取得した。1916年(大正5年)、東京帝国大学文学部教授に就任。
雨宮 量七郎(あまみや りょうしちろう、明治7年(1874年… 雨宮 量七郎(あまみや りょうしちろう、明治7年(1874年)2月26日 - 昭和40年(1965年)2月)は、大日本帝国の海軍軍人。最終階級は海軍軍医中将。呉病院長、海軍医学校校長、海軍省医務局長を歴任する。埼玉県出身。 明治7年(1874年)2月26日、雨宮春潭の三男として出生する。明治33年、東京帝国大学医学部を卒業し、東京海軍軍令部に所属する。その後、海軍造幣廠、海軍軍医学校へ入校し卒業を経て、呉海軍病院第二部長となる。この後、海軍軍医学校教官、同校教頭となり、艦政本部技術会議員、佐世保鎮守府軍医長、呉海軍病院長を経て、大正13年(1924年)12月1日、海軍医学校校長となる。 翌年、大正14年(1925年)12月1日に海軍中将に昇進し、海軍省医務局長に就任。
大味 久五郎(おおみ / おおあじ きゅうごろう、1874年… 大味 久五郎(おおみ / おおあじ きゅうごろう、1874年〈明治7年〉2月24日 - 1943年〈昭和18年〉)は、日本の内務・警察官僚。官選沖縄県知事、小樽区長。 石川県石川郡金沢(現:金沢市)小将町[要出典]で、旧加賀藩士・大味如金の長男として生まれる。1894年7月、第四高等中学校を卒業。1897年7月、東京帝国大学法科大学を卒業。拓殖務省に入省し拓殖務属となり南部局勤務となる。同年9月、拓殖務省が廃止され、内閣属・台湾事務局勤務に転じた。1898年12月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1899年1月、内務省に転じ内務属・大臣官房文書課兼警保局勤務となった。以後、香川県参事官、奈良県参事官、奈良県警部長、山梨県警部長、福島県警部長、福島県事務官・第四部長、山口県事務官・第四部長、同警察部長、青森県事務官・警察部長、徳島県事務官・警察部長、山形県事務官・内務部長などを歴任。
田村 瑞穂(たむら みずほ、1874年(明治7年)2月21日… 田村 瑞穂(たむら みずほ、1874年(明治7年)2月21日 – 没年不詳)は、東京市区長、医師。 高知県高岡郡尾川村(現在の佐川町)出身。東京帝国大学医科大学選科で学び、医術開業免状を得た。神奈川県で開業した後、伝染病研究所に技師として勤務した。1902年(明治35年)、香港政庁に招聘されペスト対策に従事した。帰国後、徳島県技師、大分県技師、群馬県技師、内務省検疫官を歴任した。1921年(大正10年)、東京市に転じ、衛生課長、本所区長、浅草区長、日本橋区長、保険局長を務めた。
斎藤 礼三(さいとう れいぞう、1874年(明治7年)2月1… 斎藤 礼三(さいとう れいぞう、1874年(明治7年)2月15日 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。朝鮮総督府官僚。弁護士。 熊本県出身。1901年(明治34年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。台湾総督府事務官・警視、統監府書記官、朝鮮総督府事務官、忠清北道第一部長、京城府尹、咸鏡北道知事などを歴任した。 退官後は弁護士を開業した。
風間 礼助(かざま れいすけ、明治7年(1874年)2月4日… 風間 礼助(かざま れいすけ、明治7年(1874年)2月4日 - 昭和34年(1959年)9月10日)は、日本の政治家・ジャーナリスト。衆議院議員、号は冠峯。 長野県更級郡稲荷山村(現千曲市)生まれ。成立学舎、旧制第一高等学校を経て、帝国大学法科大学政治学科を卒業。明治36年(1903年)茅原華山の後任として『長野新聞』主筆となる。その後、横浜港湾改良期成委員会書記長、横浜精糖会社営業部長などを務めた。同45年(1912年)第11回衆議院議員総選挙に初当選し、同年末には憲政擁護、藩閥打破の見地から第一次護憲運動を推進した。大正2年(1913年)第1次山本内閣に際して、尾崎行雄らと政友会を脱党して政友倶楽部を結成し、営業税全廃運動でも先陣に立って活動した。
長屋 順耳(ながや じゅんじ、1874年(明治7年)2月3日… 長屋 順耳(ながや じゅんじ、1874年(明治7年)2月3日 - 1951年(昭和26年)8月19日)は、東京外国語学校校長。女子学習院長。宮中顧問官。 岐阜県出身。1897年(明治30年)に東京帝国大学文科大学英文科を卒業し、大学院に進学した。1898年(明治31年)に第四高等学校教授となり、1904年(明治37年)から広島高等師範学校教授、1917年(大正6年)から文部省督学官を務めた。1919年(大正8年)、東京外国語学校校長となり、1932年(昭和7年)に女子学習院長に転じた。1940年(昭和15年)に退官して、宮中顧問官となった。
荘司 市太郎(しょうじ いちたろう、1874年〈明治7年〉1… 荘司 市太郎(しょうじ いちたろう、1874年〈明治7年〉1月30日 - 1950年〈昭和25年〉2月25日)は、日本の技師、工学博士、工業試験所技師、大阪工業試験所長。工業化学会会長。専門は応用化学。 福井県敦賀郡敦賀町に生まれる。東京府・荘司孝治郎の長男。1900年、家督を相続する。 1899年、東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業。更に大学院に学ぶ。農商務省に入り、技師に任ぜられる。 日本蝋燭製造所顧問、農商務技師、工業試験所技師、特許局技師兼同審査官兼工場監督官、臨時産業調査局技師等に歴任。1918年、工業試験所技師に任じ大阪工業試験所長となり1938年2月、退官する。 族籍は東京平民であった。
石原 磊三(いしはら らいぞう、1874年(明治7年)1月2… 石原 磊三(いしはら らいぞう、1874年(明治7年)1月28日 - 1916年(大正5年)8月14日)は、日本の内務官僚。警視庁官房主事。位階は正五位、勲等は勲四等。広島県出身。 広島県御調郡美郷村(現・尾道市)にて、平民・石原定七の二男として生まれる。母はタツ(実政元助の二女)。1901年(明治34年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、同年11月に高等文官試験に合格した。翌年、埼玉県属に任ぜられ、以後、富山県・岩手県・石川県・愛知県などで事務官・内務書記官を歴任した。 1906年(明治39年)7月には、岩手県第二部長として着任直後に難航していた盛岡市の小学校敷地問題を解決したことが記録されている。
芳澤 謙吉(よしざわ けんきち、1874年〈明治7年〉1月2… 芳澤 謙吉(よしざわ けんきち、1874年〈明治7年〉1月24日 - 1965年〈昭和40年〉1月5日)は、日本の外交官、政治家。従二位勲一等旭日桐花大綬章。新潟県中頸城郡下堀之内村(現:上越市諏訪)出身。犬養毅の娘婿。 大日本帝国きっての亜細亜通の外交官として知られ、日ソ基本条約締結による日ソ国交回復等に関わる。義父は犬養毅であり、犬養内閣においては外務大臣を務めた。第二次世界大戦終結後に公職追放を受けるが、解除後は1952年から3年間駐中華民国大使を務め、辞任後も自由アジア擁護連盟代表、自由アジア協会長として台湾擁護に奔走した。 1925年1月20日の北京での日ソ基本条約締結時、その5日前にスケートで腰の骨を折った為、ベッドの上で調印した。
森田 正馬(もりた まさたけ、通称:しょうま、1874年〈明… 森田 正馬(もりた まさたけ、通称:しょうま、1874年〈明治7年〉1月18日 - 1938年〈昭和13年〉4月12日)は、日本の医学者、精神科神経科医。(森田)神経質に対する精神療法である「森田療法」を創始した。 高知県野市町(現・香南市)生まれ。号は形外。 高知県立第一中学、第五高等学校、東京帝国大学医科大学を卒業。東京帝国大学では呉秀三門下。巣鴨病院に勤務。根岸病院顧問(1906-29)。東京慈恵会医科大学教授を務める。 1919年(大正8年)、妻の久亥の助けを借りながら、自宅を利用して神経症の入院療法を開始する。
賀来 佐賀太郎(かく さがたろう、1874年〈明治7年〉1月… 賀来 佐賀太郎(かく さがたろう、1874年〈明治7年〉1月16日 - 1949年〈昭和24年〉4月6日)は、日本の農商務官僚、実業家。台湾総督府総務長官。 大分県宇佐郡佐田村(現:宇佐市安心院町佐田)で、佐田賀来氏一族の賀来重八郎の長男として生まれ、親戚の賀来熊次郎(本名は惟達、『大神系譜』の著者)の養子となる。第五高等学校を経て、1899年(明治32年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年8月、農商務省に入り、鉱山局属となる。 1900年(明治33年)11月、文官高等試験行政科試験に合格した。東京鉱山監督署で鉱山監督官として勤務。1903年(明治36年)9月、台湾総督府に転じ、同年10月、民政部通信局庶務課長に就任。
小平 浪平(おだいら なみへい、1874年1月15日 - 1… 小平 浪平(おだいら なみへい、1874年1月15日 - 1951年10月5日)は、日本の技術者・実業家で、株式会社日立製作所の創業者である。 東京帝国大学工科大学電気工学科(現・東京大学工学部)を卒業し、日立製作所専務取締役や同社の初代取締役社長などを歴任した。 1910年には、国産初の5馬力誘導電動機(モーター)を完成させた。 小平は1874年1月15日、小平惣八、チヨの次男として栃木県下都賀郡家中村大字合戦場(現・栃木市都賀町合戦場)に生まれる。合戦場小学校(後に栃木小学校に転校)、栃木高等小学校を経て上京、東京英語学校を卒業。第一高等中学校を受験するも失敗し、その間に父が多額の借金を遺して病没。
赤星 陸治(あかほし りくじ、1874年1月9日- 1942… 赤星 陸治(あかほし りくじ、1874年1月9日- 1942年3月28日)は、日本の実業家。三菱財閥に入社し、小岩井農場場長、三菱地所社長・会長などを務めた。熊本県八代郡鏡町上鏡(現在の八代市鏡町上鏡)出身。法科大学(現在の東京大学法学部)卒業。 熊本県八代郡の豪農・下山群太の二男として生まれてすぐ熊本藩士・赤星五郞八の養子となる。旧制五高を経て東京帝国大学法科大学政治科卒業後、三菱財閥に入社。小岩井農場が岩崎家によって直接経営されるようになった際に同農場の場長に抜擢され、1916年まで場長を務めた。当時小岩井農場は多額の累積赤字を抱えており、従業員の待遇は非常に悪かった。陸治は農場のオーナーであった岩崎久弥の全面的な支持のもと、従業員の給料を引き上げ、日用品を安く提供し、借金の返済の相談に応じるなど数々の待遇改善策を打ち出した。
岡田 文次(おかだ ぶんじ、1874年〈明治7年〉1月1日 … 岡田 文次(おかだ ぶんじ、1874年〈明治7年〉1月1日 - 1943年〈昭和18年〉7月23日)は、日本の内務官僚、政治家、実業家。官選栃木県知事、樺太庁長官、警視総監、貴族院議員。旧姓・浜田。 山形県出身。米沢市関東町にて餌差(足軽階級)であった浜田長之助の長男として生まれ、岡田義質の養子となる。米沢尋常中学興譲館を経て、1898年7月、東京帝国大学法科大学撰科を卒業。同年12月、文官高等試験に合格し、内務属となり警保局に配属された。 1899年5月、沖縄県参事官兼臨時沖縄県土地整理事務局事務官に就任。以後、山梨県警察部長、千葉県警察部長、新潟県事務官・第四部長、警視庁第二部長、同官房主事などを歴任。
成毛 基雄(なるげ もとお、1874年(明治7年)1月1日 … 成毛 基雄(なるげ もとお、1874年(明治7年)1月1日 - 1950年(昭和25年)2月20日)は、日本の内務官僚。内閣拓殖局長、官選奈良県知事。 1874年(明治7年)1月、成毛勝蔵の長男として千葉県香取郡高岡村に生まれる。帝国大学農科大学乙科、東京専門学校英語政治科(現早稲田大学政治経済学部)、和仏法律学校(現法政大学)法律科(1901年(明治34年))を卒業する。 1905年(明治38年)11月に高等文官試験行政科に合格して、大蔵省に入省し内務省に転じた。宮城県玉造郡長、富山県事務官・警察部長、秋田県・熊本県・兵庫県の警察部長、埼玉県・兵庫県・愛知県の内務部長を歴任する。 1922年(大正11年)に奈良県知事に就任し、1927年(昭和2年)に内閣拓殖局長に就任する。
滝 精一(たき せいいち、1873年(明治6年)12月23日… 滝 精一(たき せいいち、1873年(明治6年)12月23日 - 1945年(昭和20年)5月17日)は、日本の美術史家。東京帝国大学教授。 東京生まれ。滝和亭の長男。号は拙庵。東京帝国大学哲学科卒、1914年、母校の文学部に美術史学講座が開設された際に初代教授となり、昭和9年(1934年)の退官まで日本美術史と中国絵画史を講じた。1925年帝国学士院会員。1927年文学部長。大阪朝日新聞客員、東方文化学院理事長、会長を務め、『国華』の編集に携わる。1940年朝日文化賞受賞。 かつて滝に新聞学講座開設を阻止された小野秀雄の恨みを買い、没後、小野の回想録で憎悪に満ちた批判を受けた。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
山川 端夫(やまかわ ただお、1873年(明治6年)12月1… 山川 端夫(やまかわ ただお、1873年(明治6年)12月15日 - 1962年(昭和37年)3月2日)は、日本の海軍・外務官僚、政治家、国際法学者。法学博士、貴族院議員、法制局長官。 長崎県出身。山川景範の長男として生まれる。長崎中学、第五高等学校を経て、1898年(明治31年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進む。同年12月、文官高等試験に合格。1899年(明治32年)3月、海軍省に入り参事官に就任。その後、兼高等捕獲審検所事務官、兼鉄道院理事、海軍教官兼海軍省参事官、講和会議全権委員随員などを歴任。1919年(大正8年)4月、法学博士号を取得。 1920年(大正9年)4月、外務省に移り臨時平和条約事務局第1部長に就任し、さらに条約局長となる。
山辺 知春(やまべ ともはる、1873年(明治6年)12月6… 山辺 知春(やまべ ともはる、1873年(明治6年)12月6日 - 1936年(昭和11年)11月21日)は、日本の宮内官僚。教育者。 福島県人の山辺知一の子。1898年(明治31年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。一年志願兵として陸軍歩兵少尉となり、その後中等教育に従事した。1903年(明治36年)、北白川宮成久王の教育掛となり、1910年(明治43年)より北白川宮家家令を務めた。その後宮内事務官・式部官を務めた。1922年(大正11年)、秩父宮別当に就任し、1926年(大正15年)からは北白川宮永久王・美年子女王・佐和子女王・多恵子女王の保育係を務めた。1930年(昭和5年)、宮中顧問官に就任し、北白川宮家別当となった。
水野 幸吉(みずの こうきち、1873年(明治6年)12月 … 水野 幸吉(みずの こうきち、1873年(明治6年)12月 - 1914年(大正3年)5月23日)は、明治時代から大正時代の外交官。位階および勲等は従四位・勲三等。号は酔香で、俳人としても活動した。 旧尾張藩の勘定吟味役の水野尋樹の次男として姫路市龍野町に生まれる。父は明治維新後、東京に出て刑部省の役人となり、1872年に兵庫県庁に転職し1876年に淡路島洲本の支庁に移った。母は産後の肥立ちが悪く、産んだ5年後の1878年に没した。家は貧しかった。 幸吉は姉の栄子を頼り苦学し、1885年に京都の平安義校を卒業後、第三高等中学校に入学した。愛知県出身者のための愛育社の奨学金により、1897年に東京帝国大学政治学科を卒業。
三橋 久美(みつはし ひさよし、1873年〈明治6年〉11月… 三橋 久美(みつはし ひさよし、1873年〈明治6年〉11月27日 - 1943年〈昭和18年〉4月5日)は、明治から大正時代の日本の判事(裁判官)、教育者。大審院判事・部長、東京控訴院判事・部長、東京地方裁判所判事・部長、立教大学教授。 1873年(明治6年)11月、東京府人・三橋久實の長男として東京市小石川区で生まれる。その後、家督を相続する。 1901年(明治34年)7月、東京帝国大学法科大学英法科を卒業した後、翌年3月に司法官試補(東京区裁判所詰)となる。 その後、東京地方裁判所判事、東京控訴院判事、東京地方裁判所部長、東京控訴院部長を歴任。 1924年(大正13年)1月、大審院判事に任じられ、1933年(昭和8年)1月には大審院部長に就任。
坂野 鉄次郎(さかの てつじろう、1873年(明治6年)11… 坂野 鉄次郎(さかの てつじろう、1873年(明治6年)11月14日 - 1952年(昭和27年)6月5日)は、日本の逓信官僚、政治家・貴族院議員(多額納税)、実業家。 岡山県津高郡菅野村(後の御津郡野谷村菅野、現在の岡山市北区菅野)出身。岡山県士族・坂野半四郎の長男。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。 逓信省通信局に入る。1899年(明治32年)、逓信事務官に任ぜられた。大阪郵便局に転じ、監理課長を務めた。北清事変の際には野戦郵便事務視察官を務めた。1901年(明治34年)、長野郵便局長に任ぜられ、1902年(明治35年)、本省書記官となり、日露戦争の際には大本営野戦高等郵便局長を務めた。
相賀 照郷(あいが てるさと、1873年〈明治6年〉11月9… 相賀 照郷(あいが てるさと、1873年〈明治6年〉11月9日 - 1950年〈昭和25年〉11月17日[要出典])は、日本の警察・台湾総督府官僚。佐世保市長。 佐賀県杵島郡富岡村(現:武雄市)で、佐賀県士族・相賀照忠の長男として生まれる。1896年7月、第五高等学校を卒業。1900年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同月、逓信省に入省し鉄道書記となる。1902年11月、文官高等試験行政科試験に合格した。 1903年3月、内務省に転じ警視庁属兼同庁警部となる。以後、警視庁警視、府中警察署長を務める。1905年5月、関東州民政署に転じ民政署警視に就任。以後、金州支署長、関東都督府金州民政署長、同旅順民政署長、同大連民政署長などを歴任し、1912年12月に休職となる。