桃原 茂太(とうばる / ももはら しげた、1892年(明治… 桃原 茂太(とうばる / ももはら しげた、1892年(明治25年)11月18日 - 1955年(昭和30年)2月28日)は、沖縄県出身の弁護士、実業家、政治家。衆議院議員。 宜野湾間切大謝名(現宜野湾市)で、桃原正裕の長男として生まれる。沖縄県第一中学校、第五高等学校を経て、1918年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。その後、東洋拓殖 (株) に入社。同参事、同監事、同太田及び釜山支店支配人、日蘇石油販売 (株) 専務取締役などを務めた。 1934年、帰郷して那覇市松山町で弁護士を開業。1942年4月の第21回衆議院議員総選挙で沖縄県選挙区から出馬し、翼賛政治体制協議会の非推薦候補であったが当選し衆議院議員を一期務めた。
宮崎 龍介(みやざき りゅうすけ、1892年(明治25年)1… 宮崎 龍介(みやざき りゅうすけ、1892年(明治25年)11月2日 - 1971年(昭和46年)1月23日)は、大正・昭和期の編集者・弁護士・社会運動家。孫文の盟友の宮崎滔天の長男。母は前田案山子の三女・槌子。有夫であった歌人・柳原白蓮と駆け落ちした白蓮事件で知られる。竜介とも。 熊本県玉名郡荒尾村(現在の荒尾市)で宮崎滔天・槌子夫妻の長男として生まれた。父の滔天は革命運動に打ち込んで家庭を顧みないため、お嬢様育ちであった母・槌子が慣れない石灰販売などで必死で働いて子供達を育てた。槌子は、自由民権運動の闘士であった前田案山子の子として育ったことから、夫の滔天の思想や活動にも理解があり協力的だった。
久能木 慎治(久能木 愼治、くのき しんじ、1892年〈明治… 久能木 慎治(久能木 愼治、くのき しんじ、1892年〈明治25年〉9月16日 - 没年不明)は、日本の弁護士、弁理士、久能木法律事務所主、会社役員。関東興業監査役。 東京府人・久能木宇兵衛の二男。久能木宇兵衛の弟。鈴木信太郎、團伊能、山田珠樹らと共に構想し、1917年、『攻魂珠』が創刊される。東京高師附属中学、第一高等学校を経て、1918年、東京帝国大学法科大学仏法科卒業。事務所を設立し、開業する。一般の法律事務に従事する。 趣味は乗馬、釣り。宗教は浄土宗。住所は東京日本橋室町2丁目。
大矢 半次郎(おおや はんじろう、1892年〈明治25年〉1… 大矢 半次郎(おおや はんじろう、1892年〈明治25年〉1月9日 – 1977年〈昭和52年〉12月7日)は、大正から昭和期の大蔵官僚、弁護士、政治家。参議院議員、農林中央金庫副理事長。旧姓は佐々木。 岩手県紫波郡、のちの都南村(現盛岡市)で、佐々木定吉の三男として生まれ、政治家大矢馬太郎の養子となり1918年(大正7年)に分家した。盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)を経て、第一高等学校を卒業し、1917年(大正6年)10月、文官高等試験行政科試験に合格。1918年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業した。同年、大蔵省に入省し参事官室属となる。 以後、富山税務署長、品川税務署長、永代税務署長、仙台税務監督局直税部長、大阪税務監督局直税部長、銀行検査官、大蔵省主税局国税課長兼主税局臨時土地調査課長、東京税務監督局長、日本銀行監理官、大蔵省主税局長などを歴任。
篠原 義政(しのはら よしまさ、1892年(明治25年)1月… 篠原 義政(しのはら よしまさ、1892年(明治25年)1月9日 – 1943年(昭和18年)7月16日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。旧名は文治。 群馬県碓氷郡八幡村(現在の高崎市)出身。旧制高崎中学卒業。1916年(大正5年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学法律科を卒業した。内務省に入り、長野県属、東京府属、内務属を歴任した。1919年(大正8年)に内閣軍需局事務官となり、翌年には国勢院事務官に任命された。1922年(大正11年)に退官した後は弁護士・弁理士事務所を開業した。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。4回連続当選を果たした。
窪井 義道(くぼい よしみち、1892年(明治25年)1月4… 窪井 義道(くぼい よしみち、1892年(明治25年)1月4日 - 1949年(昭和24年)11月13日)は、日本の政治家・弁護士・実業家。立憲政友会→昭和会→政友会革新同盟→日本進歩党所属の衆議院議員で内務政務次官や海軍参与官を務めた。 山口県熊毛郡三丘村(現・周南市)出身。1918年(大正7年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。大倉商事に入社したが、1922年(大正11年)に法律研究のためドイツに留学した。1924年(大正13年)に帰国し、弁護士を開業した。 1924年(大正13年)、衆議院補欠選挙に出馬し当選。さらに第18回衆議院議員総選挙から第21回衆議院議員総選挙まで4期連続当選を果たした。
相川 勝六(あいかわ かつろく、1891年(明治24年)12… 相川 勝六(あいかわ かつろく、1891年(明治24年)12月6日 - 1973年(昭和48年)10月3日)は、日本の内務及び厚生官僚、政治家、弁護士。宮崎・広島・愛知・愛媛各県官選知事。大政翼賛会実践局長、小磯内閣厚生大臣(第10代)、衆議院議員(8期)。 佐賀県藤津郡嬉野村(現嬉野市)出身。農業・相川定蔵の二男として生まれた。1911年、佐賀県立鹿島中学校卒業。1912年、第二高等学校入学。1915年、第二高等学校卒業。1919年7月、東京帝国大学法学部法律学科(独)卒業。 同年、内務省入省。千葉県属1926年、徳島県労務課長から警視庁刑事部長に就任。神奈川県警察部長などを歴任。1934年、内務省警保局保安課長となり第二次大本教弾圧などを指導。
則元 卯太郎(のりもと うたろう、1891年(明治24年)1… 則元 卯太郎(のりもと うたろう、1891年(明治24年)11月20日 - 1944年(昭和19年)7月16日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)、弁護士。 長崎県長崎市出身。父は衆議院議員則元由庸。長崎県立長崎中学校、第五高等学校を経て、1917年(大正6年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。同年に長崎市で弁護士を開業した。1930年(昭和5年)、長崎日日新聞社副社長に就任した。 1921年(大正10年)より長崎市会議員に6度当選し、副議長にも選出された。また1923年(大正12年)より長崎県会議員に3度当選し、副議長に選出された。 1938年(昭和13年)、衆議院に補欠当選を果たし、1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙でも再選された。
立川 平(たつかわ おさむ、1891年(明治24年)9月12… 立川 平(たつかわ おさむ、1891年(明治24年)9月12日 - 1978年(昭和53年)11月9日)は、大正から昭和期の弁護士、実業家、政治家。衆議院議員。 長野県北佐久郡岩村田町(浅間町を経て現佐久市岩村田)で、弁護士、政治家立川雲平の長男として生まれる。1898年(明治31年)家督を相続した。第二高等学校を経て、1916年(大正5年)11月、文官高等試験行政科試験に合格し、1917年(大正6年)3月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。 司法官試補となるが、大阪田中商事 (株) に転じ、さらに十五銀行に移った。大阪地方裁判所勤務を経て、1922年(大正11年)神戸市で弁護士を開業した。
松永 義雄(まつなが よしお、1891年〈明治24年〉7月1… 松永 義雄(まつなが よしお、1891年〈明治24年〉7月15日 - 1955年〈昭和30年〉4月14日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)。 愛知県海部郡立田村(現愛西市)出身。1917年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年、弁護士を開業。1924年、日本労働総同盟法律部員に就任し、野田醤油労働争議などの弁護を行う。1926年、社会民衆党結党に参画。その他、東京市会議員、同参事会員、社会大衆党常任中央執行委員、日本農民組合総同盟主事などを務めた。1937年4月、第20回衆議院議員総選挙で埼玉県第一区に社会大衆党所属で出馬し初当選した。 戦後、日本社会党結党に参画し、中央執行委員、党統制委員長、埼玉県連会長などを務めた。
山田 璋(やまだ しょう、1891年6月1日-1985年7月… 山田 璋(やまだ しょう、1891年6月1日-1985年7月9日)は、日本の弁護士。第二東京弁護士会(二弁)会長、日本弁護士連合会(日弁連)副会長。二弁内会派清友会の長老格だった。 岡山県と鹿児島県出身(後述の父が1901年に鹿児島の第七高等学校造士館 (旧制)教授となったため)。1908年、鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)卒業。第一高等学校 (旧制)大学予科へ進学して1912年7月に卒業し、東京帝国大学法科大学独法科を1916年に卒業(法学士)。二松學舍中退。大学卒業後日清汽船に入社し上海支店勤務となるが間もなく退職し、中国製鉄取締役、藝備銀行監査役を歴任。 1920年に弁護士登録し、1926年に弁護士開業。
綾川 武治(あやかわ たけじ、1891年(明治24年)4月2… 綾川 武治(あやかわ たけじ、1891年(明治24年)4月23日 - 1966年(昭和41年)12月7日)は、日本の国家主義者、弁護士、政治家。衆議院議員。 埼玉県幡羅郡長井村字善ヶ島(のち大里郡長井村、現:熊谷市)で、小作農・綾川幸太郎、せん夫妻の長男として生まれる。江波学校(長井尋常小学校)、幡羅高等小学校を経て、1904年4月、埼玉県立熊谷中学校に入学。実家の家計悪化のため、1907年3月、中学を休学して、父の職場であった磐城炭鉱 (株) 越賀炭鉱(福島県石城郡内郷村)で一年余り働き、熊谷中四年に復学し1910年3月に卒業した。 無試験検定で合格し、1910年9月、第七高等学校造士館第一部甲(英法科)に入学。
小野 清一郎(おの せいいちろう、1891年(明治24年)1… 小野 清一郎(おの せいいちろう、1891年(明治24年)1月10日 - 1986年(昭和61年)3月9日)は、日本の法学者・弁護士。専門は、刑法・刑事訴訟法・法哲学。学位は、法学博士。東京大学名誉教授。法務省特別顧問。日本学士院会員。勲一等瑞宝章・文化勲章受章者。岩手県盛岡市出身。盛岡小野組の一族である。 仏教の影響を受け、客観主義の法哲学・刑法理論を展開し、大場茂馬以来の後期旧派理論を継承する。戦後の刑法学会に多大な影響を与えた。東京裁判では海軍側被告人の弁護人をつとめた。親鸞に造詣の深い仏教研究者でもあった。 盛岡市で生まれる。盛岡中学校(盛岡一高の前身)卒業後、一高(東京大学教養学部の前身)独法科を首席で卒業。
辰野 保(たつの たもつ、1891年(明治24年)1月10日… 辰野 保(たつの たもつ、1891年(明治24年)1月10日 - 1938年(昭和13年)10月17日)は、日本の陸上競技選手、弁護士、政治家。 父は建築家の辰野金吾、兄はフランス文学者の辰野隆。 1891年、東京市赤坂に生まれる。旧制第一高等学校を経て東京帝国大学法学部に入学。東大在学時の1913年(大正2年)、第1回全国陸上大会において砲丸投げで9m00の記録を打ち立てて優勝する。父・金吾、兄・隆ともども相撲好きで、保はとくに強く、一高時代には出羽海部屋に通っていた。 1917年に東大法学部を卒業後、岩田宙造の法律事務所に入って実務研修する。同年、中山瑞彦の娘千代子と結婚。翌1918年に独立して弁護士を開業し、法律事務および特許関係の仕事に従事する。
小林 清貞(こばやし きよさだ、1890年8月24日 - 1… 小林 清貞(こばやし きよさだ、1890年8月24日 - 1968年4月21日)は、日本の学者、弁護士。元東京外国語学校教授、正四位・勲四等・独法学者。旧姓加藤。 愛知県立第一中学校、第八高等学校を経て1917年(大正6年)3月 東京帝国大学卒業。卒業後、朝鮮総督府検事補となる。 1922年(大正11年)2月に朝鮮総督府検事退官し、従四位勲四等を贈られる。同年3月に名古屋地方検事局弁護士名簿登録される。 東京外国語学校教授となったあと、1923年(大正12年)9月に名古屋三大商家・桑名屋の娘である小林初子と結婚し、小林家に入婿した。 1925年(大正14年)6月1日から1927年(昭和2年)12月15日の間、ドイツやアメリカに留学した。
国松 福禄(くにまつ ふくろく、1890年〈明治23年〉6月… 国松 福禄(くにまつ ふくろく、1890年〈明治23年〉6月9日 – 1958年〈昭和33年〉2月15日)は、日本の弁護士。愛媛県宇和島市長。 愛媛県北宇和郡高近村(現在の宇和島市)に愛媛県会議員・参事会員を務めた国松磊奇智の長男として生まれた。宇和島中学校を卒業後、中央大学に学んだが、第三高等学校に転じた。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学法律科を卒業。大阪市で弁護士を開業したが、翌1918年(大正7年)に宇和島市に移り、民事・商事事件を扱い、破産管財人にも選出された。1928年(昭和3年)、宇和島新聞社社長となり、『南予毎日新聞』と改題した。また宇和島市会議員、同議長、愛媛県会議員などを歴任した。
河井 栄蔵(榮藏、かわい えいぞう、1890年(明治23年)… 河井 栄蔵(榮藏、かわい えいぞう、1890年(明治23年)1月30日 - 1965年(昭和40年)8月10日)は、大正から昭和期の労働運動家、弁護士、政治家。衆議院議員。 愛媛県出身。1917年(大正6年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業した。 同年、弁護士となる。1919年(大正8年)全国坑夫組合を結成し会長に就任。1920年(大正9年)全日本鉱夫総連合本部理事となるが、まもなく労働運動から身を引き大阪で弁護士を開業した。その他、(株) 大行社化機製作所取締役、有限責任第一貯蓄信用組合理事を務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に大阪府第1区から日本社会党公認で出馬して落選。
榎本 重治(えのもと じゅうじ、明治23年〈1890年〉1月… 榎本 重治(えのもと じゅうじ、明治23年〈1890年〉1月16日 - 昭和54年〈1979年〉11月30日)は、大日本帝国海軍の海軍書記官(海軍高等文官)、日本の弁護士・国際法学者。 東京府立第三中学校(現:東京都立両国高等学校・附属中学校)、第二高等学校を経て、東京帝国大学法科大学英法科に進み、大正2年(1913年)11月に高等文官試験行政科に合格し、大正3年(1914年)7月に東京帝大を卒業した。 鉄道院書記を経て、大正4年(1915年)10月、大日本帝国海軍の高等文官たる海軍書記官(当時の官名は海軍省参事官)に任官し、高等官七等(奏任官、中尉相当)に叙された。 昭和13年(1938年)10月、高等官一等(勅任官、海軍高等文官の最高位、各省次官〈高等文官〉や陸海軍中将〈高等武官〉に相当)に叙された。
庄野 理一(しょうの りいち、1888年12月20日 - 1… 庄野 理一(しょうの りいち、1888年12月20日 - 1954年5月23日)は、日本の弁護士。最高裁判所判事。香川県出身。 1913年(大正2年)に東京帝国大学独法科を卒業し、すぐに弁護士になった。民事が専門。弁護士をしながら、東邦商事など数社の役員や顧問をし、実業界でも活動した。東京弁護士会会長も務め、戦後は公職資格審査委員会委員長に選出されたりもした。 裁判官任命諮問委員会による諮問の結果、1947年(昭和22年)8月に最高裁判所判事となる。1948年(昭和23年)2月10日、東京帝大出身の弁護士を中心として開かれた会合で、平野事件に関して「牧野英一公職適否審査委員長が西尾末広から50万円を貰い、委員に10万ずつ渡した」旨の発言をした。
勝田 永吉(かつた えいきち、1888年(明治21年)11月… 勝田 永吉(かつた えいきち、1888年(明治21年)11月30日 - 1946年(昭和21年)4月13日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(大阪府第五区選出、当選6回)。 大阪府三島郡富田町(現高槻市)出身。勝田悌三郎の二男。1913年、東京帝国大学法科大学独法科卒業。弁護士の業務に従事する。 衆議院議員に6回当選する。立憲民政党、日本進歩党に所属する。1946年4月13日、死去。
杉 宜陳(すぎ よしのぶ、1888年(明治21年)11月6日… 杉 宜陳(すぎ よしのぶ、1888年(明治21年)11月6日 - 1949年(昭和24年)4月2日)は、日本の衆議院議員(中正倶楽部→立憲政友会)、弁護士。 愛媛県周桑郡三芳村(現在西条市)出身。第一高等学校を経て、1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。高等文官試験に合格して逓信書記官補となり、1916年(大正5年)には朝鮮銀行書記・勝田主計総裁秘書となった。寺内内閣が成立して、勝田が大蔵大臣に就任すると、引き続き秘書官となり、大蔵参事官も兼ねた。1924年(大正13年)に清浦内閣が成立して再び勝田が大蔵大臣となると、杉もまた秘書官となった。 同年、第15回衆議院議員総選挙に出馬し当選を果たした。
岡部 常(おかべ つね、1888年8月21日 - 1968年… 岡部 常(おかべ つね、1888年8月21日 - 1968年1月29日)は、日本の司法官僚、弁護士、政治家。参議院議員(1期)。 東京都出身。1914年東京帝国大学法科卒。翌年司法属となり、司法書記官や各地の刑務所長を務める。さらに九州行刑管区司令、関東行刑管区長を経て、弁護士、刑務協会顧問を歴任する。 1947年の第1回参議院議員通常選挙において全国区から立候補して当選した。会派は緑風会に所属し、国会内では法務委員長を務めた。参議院議員は1期務め、1953年の第3回参議院議員通常選挙には緑風会公認で出馬したが辞退した。 1966年春の叙勲で勲二等瑞宝章受章(勲三等からの昇叙)。 1968年1月29日死去、79歳。
山崎 佐(やまざき たすく、1888年〈明治21年〉7月5日… 山崎 佐(やまざき たすく、1888年〈明治21年〉7月5日 - 1967年〈昭和42年〉7月30日)は、日本の弁護士、法学博士、医学博士、医史学者、医事法制学創始者。日本弁護士連合会会長、日本医史学会理事長、公安審査委員会委員長などを歴任した。 1888年(明治21年)、千葉県君津郡木更津町の医家に生まれる。1909年(明治42年)に旧制第七高等学校造士館を卒業後、1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法兼修)を卒業した。 1913年(大正2年)7月に医事法制の志を立て、東京地方裁判所予審判事として法曹実務に携わる傍ら、翌1914年(大正3年)春から医学者及び医学史家の富士川游に師事して医史学や医事法制等の研究を開始し、両分野にまたがる独特の地歩を築いた。
小林 俊三(こばやし しゅんぞう、1888年〈明治21年〉6… 小林 俊三(こばやし しゅんぞう、1888年〈明治21年〉6月3日 - 1982年〈昭和57年〉6月3日)は、日本の昭和時代の最高裁判所判事、弁護士(第二東京弁護士会所属)。 東京出身。1914年(大正3年)に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業後、いったん会社員になったが、1年10ヶ月で退社して弁護士となる。1941年(昭和16年)、ゾルゲ事件の尾崎秀実の官選弁護人を務めた。太平洋戦争における日本の降伏に伴う極東国際軍事裁判(東京裁判)では松岡洋右の弁護人を務めた。「検事、弁護士をした後に裁判官になるのが最も望ましい」と主張する法曹一元化論者であった。 1947年(昭和22年)10月に東京高等裁判所長官に就任。
飯村 五郎(いいむら ごろう、1888年(明治21年)4月1… 飯村 五郎(いいむら ごろう、1888年(明治21年)4月13日 - 1946年(昭和21年)5月8日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→昭和会)、弁護士。 茨城県筑波郡真瀬村(現在のつくば市)出身。飯野茂吉の二男として生まれ、1910年(明治43年)に茨城県会議長飯村忠七の婿養子となった。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学を卒業後、一年志願兵制度によって陸軍三等主計に任じられた。退役後は弁護士を開業した。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は6回を数えた。その間、米内内閣で厚生参与官を務めた。1935年(昭和10年)には昭和会を結党にも参加している。
平野 龍起(ひらの たつき、1888年(明治21年)2月16… 平野 龍起(ひらの たつき、1888年(明治21年)2月16日 - 1945年(昭和20年)8月10日)は、日本の政治家、弁護士。熊本市長。 熊本県鹿本郡来民町(現在の山鹿市)出身。第一高等学校を経て、1915年(大正4年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。東京で弁護士を開業したが、1918年(大正7年)に熊本市に移り、後には熊本弁護士会長に選出された。1921年(大正10年)より熊本市会議員に選ばれ、副議長、議長を務めた。また熊本県会議員にも選ばれた。その他に肥後米券社理事、鹿本鉄道株式会社監査役、熊本脳病院監事などを務めた。 1942年(昭和17年)、熊本市長に就任。終戦直前の1945年8月10日に病のため死去した。
星島 二郎(ほししま にろう、1887年(明治20年)11月… 星島 二郎(ほししま にろう、1887年(明治20年)11月6日 - 1980年(昭和55年)1月3日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員。元衆議院議長。従二位勲一等旭日桐花大綬章。 岡山県児島郡藤戸町(現・倉敷市藤戸町)出身。岡山中学校、第六高等学校、東京帝国大学卒業。政界入りする前は弁護士であり、東京・日比谷に片山哲らと中央法律事務所を開設し、森戸事件等を担当した。 戦前は普通選挙運動、婦人参政権、公娼廃止に熱心な自由主義的・進歩的な立場を貫き、母性保護連盟の委員として母子保護法の成立(1937年)にも尽力した。 戦時中も議会政治擁護の立場を変えなかった。戦後は山崎首班工作に関与したこともあった。
大野 緑一郎(おおの ろくいちろう、明治20年(1887年)… 大野 緑一郎(おおの ろくいちろう、明治20年(1887年)10月1日 - 昭和60年(1985年)9月2日)は、日本の内務官僚、弁護士。第37代警視総監、朝鮮総督府政務総監など歴任。 第82代・第83代内閣総理大臣・橋本龍太郎の外祖父。衆議院議員・橋本岳の曾祖父。 明治20年(1887年)10月1日、現在の埼玉県さいたま市(旧浦和市)に農業・大野安之助の四男として生まれた。旧制一高を経て、明治45年(1912年)7月東京帝国大学法科大学(独法)卒業。内務省入省。 大正3年(1914年)7月、秋田県庶務課長。大正5年(1916年)11月、香川県勧業課長。 大正15年(1926年)9月、徳島県知事。
山口 政二(やまぐち まさじ、1887年(明治20年)8月6… 山口 政二(やまぐち まさじ、1887年(明治20年)8月6日 - 1927年(昭和2年)2月23日)は、衆議院議員、弁護士。 埼玉県比企郡小見野村(現在の川島町)に山口喜一郎の二男として生まれる。1910年7月に第一高等学校大学予科を、1914年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。高等文官試験に合格し、同年、朝鮮総督府試補に任ぜられ、翌1915年朝鮮総督府道事務官。その後、陸軍省御用掛、青島守備軍民政部事務官を歴任した後、1921年10月に弁護士登録し、開業した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に埼玉県第3区から立候補し、当選した。無所属であったが、1924年5月30日に中正倶楽部設立に参加し、同年10月23日に立憲政友会に移るも、1925年6月1日には新正倶楽部設立に参加した。
中谷 貞頼(なかたに さだより、1887年2月8日 - 19… 中谷 貞頼(なかたに さだより、1887年2月8日 - 1954年11月21日)は、日本の実業家、映画製作者、弁護士、政治家である。大正から昭和初年にかけて衆議院議員であり、日本活動写真(日活)の専務取締役、代表取締役社長として映画を製作した。衆議院議員の中谷元は孫。 1887年(明治20年)、茨城県真壁郡下妻町(現・下妻市)に元下妻藩士・中ノ内昌為の四男として生まれる。 1901年(明治34年)母の兄弟であった、もと土佐藩士で大審院判事や樺太地方裁判所長などを務めた中谷速水の養子となった。 1913年(大正2年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業した。三井物産に入社して香港支店勤務となるが辞職して台湾に移り、弁護士を開業。
長井 亜歴山(ながい あれきさん、1887年〈明治20年〉1… 長井 亜歴山(ながい あれきさん、1887年〈明治20年〉1月19日 - 1966年〈昭和41年〉6月12日)は、日本の外交官、弁護士、弁理士。東京帝国大学法学部卒業。 父はエフェドリンの発見者で日本薬学の父として知られる長井長義。祖父は徳島藩医の長井琳章。 1887年(明治20年)、近代薬学の開祖である長井長義とドイツ人女性のテレーゼ・シューマッハの長男として生まれる。第一高等学校仏法科を経て、東京帝国大学法学部を卒業後、逓信省勤務、久原本店勤務を経て、外交官となり、6ヶ国語に精通した。また勝海舟の孫で、目賀田種太郎の次女・多計代(たけよ)と結婚した。 駐ドイツ日本国大使館付商務官となり、第二次世界大戦のベルリン陥落後はアメリカ軍によりワシントンD.C.に連行された。
杉生 糺 (すぎう ただす、1887年1月15日 – 196… 杉生 糺 (すぎう ただす、1887年1月15日 – 1968年)は、日本の弁護士。初代名古屋高等裁判所長官。 明治20年(1887年)福井県三方郡三方町に生まれる。昭和37年3月 – 旧制小浜中学校卒業、第一高等学校入学。 大正2年 6月 – 東京大学法学部卒業。大正3年3月 – 弁護士開業。大正11年 – 東京市浅草区会議員当選。昭和14年 – 弁理士。 昭和22年9月26日 – 名古屋高等裁判所長官。昭和27年1月14日 – 定年退官。昭和27年2月 – 弁護士復帰。
宮崎 一(みやざき はじめ、1886年〈明治19年〉11月2… 宮崎 一(みやざき はじめ、1886年〈明治19年〉11月21日 – 1951年〈昭和26年〉10月10日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 埼玉県北足立郡浦和町(現在のさいたま市)に衆議院議員宮崎鏋三郎の長男として生まれる。浦和中学校、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学を卒業した。卒業後は浦和で弁護士事務所を開業した。1919年(大正8年)に埼玉県会議員に当選し、後には議長も務めた。また浦和弁護士会長にも選ばれた。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。4回連続当選を果たした。その間、米内内閣で陸軍参与官に、幣原内閣で陸軍政務次官・第一復員政務次官に就任した。
柏田 忠一(かしわだ ただかず、1886年(明治19年)11… 柏田 忠一(かしわだ ただかず、1886年(明治19年)11月5日 - 1958年(昭和33年)10月3日)は、日本の衆議院議員(政友本党→立憲民政党)、弁護士。 岩手県二戸郡金田一村(現在の二戸市)出身。1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、オックスフォード大学に留学した。その後、上海日日新聞社主筆を経て、1916年(大正5年)に弁護士を開業。また財団法人東亜攻究会理事を務めた。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後は、拓殖大学教授やハルビン市公署顧問を務めた。 またその他に、東北桐材株式会社取締役、アマゾン興業株式会社監査役、馬淵電気株式会社顧問などを務めている。
草野 豹一郎(くさの ひょういちろう 1886年10月7日 … 草野 豹一郎(くさの ひょういちろう 1886年10月7日 - 1951年9月12日)は、日本の裁判官、法学者、弁護士。
上田 孝吉(うえだ こうきち、1886年(明治19年)9月1… 上田 孝吉(うえだ こうきち、1886年(明治19年)9月18日 – 1952年(昭和27年)8月16日)は、日本の政治家で立憲政友会所属の衆議院議員、弁護士。 石川県石川郡金石町(現在の金沢市)に扇能長平の二男として生まれ、上田喜久代の養子となった。1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、弁護士となった。大阪市会議員を務め、参事会員、副議長を歴任した。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。5回連続当選を果たした。その間、平沼内閣で逓信参与官を、鈴木貫太郎内閣で農商政務次官をそれぞれ務めた。 戦後、推薦議員のため公職追放となった。
山中 恒三(やまなか つねぞう、1886年(明治19年)6月… 山中 恒三(やまなか つねぞう、1886年(明治19年)6月23日 - 1975年(昭和50年)7月1日)は、日本の内務官僚、弁護士。官選県知事。 山口県都濃郡富田村(新南陽市を経て現周南市)出身。山中安兵衛の二男として生まれる。第六高等学校を経て、1912年(明治45年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。司法省に入省。1914年(大正3年)内務省に転じ三重県属となる 以後、三重県警視、同県安濃郡長、青森県理事官、岐阜県警察部長、北海道庁書記官・拓殖部長、福岡県書記官・内務部長、北海道庁土木部長などを歴任。 1929年(昭和4年)2月、富山県知事に就任。
有吉 実(ありよし みのる、1886年(明治19年)5月5日… 有吉 実(ありよし みのる、1886年(明治19年)5月5日 - 1968年(昭和43年)6月29日)は、日本の内務・警察官僚、弁護士。官選宮崎県知事、尼崎市長。 京都府出身。有吉三七の三男として生まれる。第六高等学校を卒業。1912年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1913年(大正2年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。司法省を経て内務省に入省し徳島県属となる。 以後、徳島県警視、徳島県理事官、長野県理事官、山形県理事官、鳥取県警察部長、三重県警察部長、福岡県書記官・警察部長、宮崎県書記官・内務部長、愛知県書記官・警察部長などを歴任。 1930年(昭和5年)8月、宮崎県知事に就任。
遠藤 柳作(えんどう りゅうさく、1886年〈明治19年〉3… 遠藤 柳作(えんどう りゅうさく、1886年〈明治19年〉3月18日 - 1963年〈昭和38年〉9月18日)は、日本の政治家、官僚、実業家、弁護士。衆議院議員。貴族院議員。参議院議員。武蔵野銀行初代頭取。 埼玉県葛飾郡千塚村(北葛飾郡行幸村、幸手町を経て現幸手市)生まれ。遠藤幸五郎の二男。第二高等学校を経て、1910年、東京帝国大学法科大学独法科を卒業後、文官高等試験に合格し、内務省に入る。朝鮮総督府に入り試補、同書記官、同秘書官を務めた。1920年、東京府産業部長、次いで千葉県内務部長、青森・三重県知事を歴任した。 1928年、埼玉3区から立憲政友会に属して衆議院議員となった。弁護士を開業し、武蔵野鉄道会社社長に就任。
木村 篤太郎(きむら とくたろう、1886年〈明治19年〉2… 木村 篤太郎(きむら とくたろう、1886年〈明治19年〉2月7日 - 1982年〈昭和57年〉8月8日)は、日本の政治家、検察官、弁護士、剣道家である。 検事総長(第19代)、第一東京弁護士会会長(第16代)、法務大臣(初代)、保安庁長官(初代)、防衛庁長官(初代)、全日本剣道連盟会長(初代)等を歴任した。 太平洋戦争での日本の敗戦直後に政官界へ転じ、幣原喜重郎首相によって検事総長に登用され、続く吉田茂内閣では司法大臣として初入閣。1946年(昭和21年)11月3日に公布された日本国憲法には、首相の吉田、無任所国務大臣の幣原に続き三番目に署名した。 その後、公職追放令により公職追放されるが、追放解除程無くして第3次吉田内閣の改造時に法務府初代総裁として再入閣。
福井 盛太(ふくい もりた、1885年〈明治18年〉7月14… 福井 盛太(ふくい もりた、1885年〈明治18年〉7月14日 - 1965年〈昭和40年〉12月27日)は、日本の弁護士(第一東京弁護士会会長)、検察官、政治家。検事総長、衆議院議員(3期)、日本弁護士連合会副会長、共立薬科大学理事長等を歴任。また、日本野球機構初代コミッショナーを務めた。従三位、勲二等旭日重光章、館林市名誉市民。囲碁5段、柔道3段。 1885年(明治18年)、群馬県邑楽郡館林町(現在の館林市)に、旧館林藩士・福井盛武の長男として生まれる。館林小学校尋常科・同高等科を経て、1900年(明治33年)群馬県立太田中学校を卒業し旧制第二高等学校に進む。1913年(大正2年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、翌年弁護士開業。
本田 英作(ほんだ えいさく、1885年(明治18年)4月1… 本田 英作(ほんだ えいさく、1885年(明治18年)4月18日 - 1948年(昭和23年)10月4日)は、衆議院議員(立憲民政党→日本自由党)、弁護士。 長崎市出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。司法官試補を経て、鹿児島地方裁判所や長崎地方裁判所で判事を務めた。退官後は弁護士事務所を開業し、長崎市会議員を3期、長崎県会議員を2期務めた。 1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回・第20回でも再選された。 戦後の1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙で当選。第23回でも再選された。その間、第1次吉田内閣で外務政務次官に就任した。
中島 鵬六(なかじま ほうろく、1885年(明治18年)2月… 中島 鵬六(なかじま ほうろく、1885年(明治18年)2月17日 - 1931年(昭和6年)2月17日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 宮城県加美郡中新田村(現在の加美町)出身。中新田町長・中島金也の長男として生まれる。古川中学校(現宮城県古川高等学校)、第二高等学校を経て、1912年(大正元年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、弁護士となる。仙台産馬畜産組合長、大東銀行監査役を務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。合計で3期務めた。この間、馬政委員会委員、帝国馬匹協会理事を務めた。
南 慎一郎(みなみ しんいちろう、1885年(明治18年)2… 南 慎一郎(みなみ しんいちろう、1885年(明治18年)2月8日 - 1965年(昭和40年)8月17日)は、日本の弁護士。富山県高岡市長。勲五等双光旭日章。 富山県高岡市出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。三共株式会社秘書・泰昌製薬株式会社取締役を務め、1921年(大正10年)に退職した。同年、弁護士を開業した。 1926年(大正15年)、高岡市長に選出され、1930年(昭和5年)まで在任した。 退任後は日本興業銀行取締役、高岡土地株式会社監査役を務め、1932年(昭和7年)より再び弁護士を開業した。1940年(昭和15年)から検事に転じ、岡山地方裁判所検事、横須賀区裁判所検事を務めた。
守屋 栄夫(もりや えいふ、守屋 榮夫、明治17年(1884… 守屋 栄夫(もりや えいふ、守屋 榮夫、明治17年(1884年)11月8日 - 昭和48年(1973年)2月1日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士、歌人。衆議院議員、宮城県塩竈市長。宮城県平民。 元駐アフガニスタン公使守屋和郎の兄。元防衛事務次官守屋武昌の父。 明治17年(1884年)、宮城県遠田郡に生まれた。守屋徳郎の長男。宮城県古川高等学校卒業。二高を経て、 明治43年(1910年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業。文官高等試験に合格。 内務省に入省。千葉、愛知各県理事官、内務監察官、内務省参事官、朝鮮総督府秘書官、同秘書課長、同庶務部長、内務省社会局社会部長を歴任。1925年(大正14年)3月、社会局第二部長を務めていた際に、第7回国際労働会議政府代表に前田多門とともに選出。
霜山 精一(しもやま せいいち、1884年(明治17年)10… 霜山 精一(しもやま せいいち、1884年(明治17年)10月15日 - 1975年(昭和50年)3月12日)は、日本の司法官僚、弁護士。大審院長、最高裁判所判事、貴族院議員。従二位勲一等。 1910年(明治43年)に東京帝国大学を卒業。1912年(大正元年)12月に判事に任官。司法省参事官も務め、1924年(大正13年)1月に大審院判事、1934年(昭和9年)5月に札幌控訴院院長になった時は51歳で全国控訴院長のうち最年少であった。この後、広島控訴院長を経て、1939年(昭和14年)に東京控訴院長と昇進。1942年(昭和17年)に控訴院判事人事は部長会議(分科会)の合議で決めることになっていたが、霜山院長の独断で代理部長の人事を決めた際に、法律違反だとして若手判事らが徒党を組んで抗議して撤回を迫られるという控訴院分科会事件が発生した。
村上 常太郎(むらかみ じょうたろう、1884年〈明治17年… 村上 常太郎(むらかみ じょうたろう、1884年〈明治17年〉9月15日 - 1975年〈昭和50年〉3月)は日本の検察官、弁護士。元東京控訴院次席検事。政治家村上誠一郎の祖父。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
安田 正男(やすだ まさお、1884年(明治17年)7月25… 安田 正男(やすだ まさお、1884年(明治17年)7月25日 - 1946年(昭和21年)6月15日)は、日本の弁護士・政治家で立憲民政党所属の衆議院議員。 千葉県長狭郡大山村(現在の鴨川市)出身。衆議院議員安田勲の二男。1917年(大正6年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業。名古屋電灯株式会社に入社し、庶務課長、福澤桃介社長秘書を歴任した。大同電力株式会社創立事務主任、天竜川電力株式会社創立事務主任を務め、事業完成後は弁護士となって、岩田宙造の事務所に勤務した。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し当選。小泉又次郎逓信大臣の秘書官を務めた。 その他、東邦電力株式会社顧問、球磨川電気株式会社顧問などを務めた。
畑山 四男美(はたやま しおみ、1884年〈明治17年〉7月… 畑山 四男美(はたやま しおみ、1884年〈明治17年〉7月13日 - 1971年〈昭和46年〉8月8日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。県知事、福岡市長。位階は正四位。勲等は勲三等。 高知県安芸郡羽根村(現室戸市羽根町)で、畑山亀喜代、岩の四男として生まれる。第四高等学校を経て、1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1916年(大正5年)、内務省に入り宮城県属となる。 以後、宮城県亘理郡長、佐賀県・岩手県・長野県の各理事官、岐阜県書記官、熊本県書記官・学務部長、鹿児島県書記官・警察部長、同内務部長、大分県書記官・内務部長、北海道庁部長・土木部長などを歴任。
立川 太郎(たちかわ たろう、1884年〈明治17年〉4月1… 立川 太郎(たちかわ たろう、1884年〈明治17年〉4月14日 – 1960年〈昭和35年〉7月31日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 広島県安佐郡三入村(現在の広島市安佐北区)に立川斧太郎の長男として生まれる。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、警視庁警部として警務課に勤務した。1915年(大正4年)に警視に昇進し、大塚警察署、牛込警察署、神楽坂警察署、京橋警察署の署長を歴任した。1818年(大正7年)、本庁に復帰して監察官に就任した。1920年(大正9年)、警視庁を退職して弁護士を開業した。 1922年(大正11年)に牛込区会議員に当選し、1926年(大正15年)には東京市会議員に選出された。