野原 四郎(のはら しろう、1903年9月5日 - 1981… 野原 四郎(のはら しろう、1903年9月5日 - 1981年1月3日)は、日本の東洋史学者。専攻は中国近現代史。 1903年、北海道札幌市で生まれた。生家は札幌市内で勧工場(現在の百貨店の前身)を営んでいた。高輪中学、浦和高校文科丙類を経て、東京帝国大学東洋史学科に進学。同級には、江上波夫、増井経夫がいた。1930年、卒業論文『高蝶(中国古代の結びの神)について』を提出して卒業した。これは、フランスの東洋学者・マルセル・グラネの説を参照しつつ論じたものであった。 卒業後は史学会委員(有給)となった(1932年まで)。1930年、『史学雑誌』に郭沫若著『中国古代社会研究』の書評を発表。史学会幹部からは良い評価が得られなかったものの、翌1931年に偶然亡命中の郭沫若に東洋文庫で会い、同書について意見交換。
野田 稲吉(のだ とうきち、明治36年(1903年)8月29… 野田 稲吉(のだ とうきち、明治36年(1903年)8月29日 - 平成9年(1997年)9月29日)は、日本の応用化学者。名古屋大学名誉教授、三重大学名誉教授(元学長)。 山梨県出身。1927年東京帝国大学応用化学科卒業。1929年東京工業大学講師、1930年助教授を経て、1941年名古屋帝国大学教授、1961年年名古屋大学工学部長、1967年三重大学学長。1953年年フルブライト・プログラム交換教授として渡米した。天然雲母の不足から合成雲母の研究と試作をおこない、透明大型の結晶の製造に成功し、その特性を解明した。1973年勲二等旭日重光章受章。 妻のうめは甲野棐の二女。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。
富田 真雄(とみた まさお、1903年8月15日-1989年… 富田 真雄(とみた まさお、1903年8月15日-1989年9月25日)は、日本の薬学者。京都大学名誉教授、薬学博士。 東京府出身。東京帝国大学薬学科卒業。乙卯研究所主任研究員を経て、1940年京都帝国大学教授となり、有機薬化学講座を創設。塩基性天然有機化合物の研究を進めた。ビスコクラウリン型塩基の全合成を完成、欧米に先んじて必須の開裂反応を開発した。京都大学初代薬学部長に就任し、京都大学微量元素分析総合施設を創始した。日本学術会議会員、第30代日本薬学会会頭、京都薬科大学学長などを歴任した。著作に「製薬化学」がある。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
大山 義年(おおやま よしとし、1903年(明治36年)8月… 大山 義年(おおやま よしとし、1903年(明治36年)8月2日 - 1977年(昭和52年)7月16日)は、昭和時代の日本の化学工学者。東京工業大学名誉教授。 茨城県水戸市に生まれる。麻布中学校、水戸高等学校を経て、東京帝国大学工学部造兵学科へ入学。化学機械を修め、恩師の大河内正敏の勧めで理化学研究所に入る。その後、1931年(昭和6年)台北帝国大学に赴任し、粉体工学の研究を行い、1940年(昭和15年)東京工業大学化学工学科助教授を経て、1942年(昭和17年)同大学教授、1958年(昭和33年)東京大学応用微生物研究所教授兼任、1960年(昭和35年)東京工業大学原子炉研究施設長、さらに1962年(昭和37年)より2年間同大学第6代学長を務める。
原田 慶吉(はらだ けいきち、1903年7月30日 - 19… 原田 慶吉(はらだ けいきち、1903年7月30日 - 1950年9月1日)は、日本の法制史学者。専門はローマ法。兵庫県神戸市出身。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
大塚 弥之助(おおつか やのすけ、1903年(明治36年)7… 大塚 弥之助(おおつか やのすけ、1903年(明治36年)7月11日 - 1950年(昭和25年)8月7日)は、日本の地質学者である。 東京・日本橋で生まれ、東京高等師範学校附属中学校から静岡高等学校を経て、東京帝国大学理学部地質学教室を1929年(昭和4年)に卒業した。在学中は小沢儀明から地史学の方法を、辻村太郎から地形学の方法を、徳永重康からは新生代生物層序の方法を学んだ。 卒業後は同大学地震研究所の助手として勤務した。大塚の地球科学における研究は広い範囲におよび、地形学・地球物理学・層位学・古生物学・地史学・構造地質学にわたっている。在学中に四国の四万十川の曲流地形を調査し、『地理学評論』に論文を発表した。
日沖 憲郎(ひおき のりお、1903年7月2日 - 1993… 日沖 憲郎(ひおき のりお、1903年7月2日 - 1993年4月8日)は、日本の刑法学者、裁判官、弁護士、法学博士。 三重県出身。小野清一郎らに師事、刑法学者として改正刑法準備草案、ついで改正刑法草案の作成に関わる。戦後政財界の主な汚職事件で弁護団に参加、ロッキード事件では全日空の若狭得治の主任弁護士として活動した。訳書にイェーリング著『権利のための闘争』(岩波文庫)がある。
松田 修(まつだ おさむ、1903年6月28日 - 1990… 松田 修(まつだ おさむ、1903年6月28日 - 1990年2月26日)は、日本の文学者、植物学者。 山形県出身。1928年、東京帝国大学農学部卒。日本赤十字子供の家園長、東京大学講師などを務め、日本植物友の会の設立に参加。日本の古典文芸に現われる上代の植物の研究を行ない、植物文学を提唱した。研究対象は、『古事記』、『日本書紀』、『風土記』、『万葉集』、『古今和歌集』、『枕草子』、『源氏物語』などにわたる。 古典文学と植物との関連について、以下のように論じた。 『古事記』には77種類、『日本書紀』には85種類の植物が登場。現われている植物の大半は日本全土の山野に自生しているもので、『日本書紀』では渡来の植物が増えている。
増田 福太郎(ますだ ふくたろう、1903年6月25日 - … 増田 福太郎(ますだ ふくたろう、1903年6月25日 - 1982年11月15日)は日本の法学者。第二次世界大戦前に台北帝国大学の助教授をつとめた頃に得た知見をもとにした台湾研究で知られる。法学のみならず、台湾における宗教関連の著作もある。 1903年6月25日に新潟県中頸城郡高田町に生まれた。第一高等学校文科甲類を経て、1927年に東京帝国大学法学部法律学科を卒業。1929年3月に同大学院を満期退学(法理学)。 大学院を卒業後、台湾総督府嘱託として台湾へ渡った。どういうわけか法学ではなく、現地の宗教調査を任務とした。ただし、この調査は早々に中断され、1930年5月からは台北帝国大学講師となった。
守屋 善輝(もりや よしてる、1903年5月15日 - 19… 守屋 善輝(もりや よしてる、1903年5月15日 - 1993年3月11日)は、日本の法学者(英米法)。法学博士(中央大学・論文博士・1962年)。中央大学名誉教授。元中央大学学長代理。勲三等旭日中綬章受章。高柳賢三門下。 東京出身1929年東京帝国大学法学部卒業。1933年同大学院(旧制)法学研究科修了。1935年中央大学法学部教授。1936年イギリス・ケンブリッジ大学、アメリカ・ハーバード大学に留学。1948年中央大学予科長。1951年中央大学評議員(~1972年)。1952年中央大学学生部長。1954年中央大学通信教育部長。1966年日本比較法研究所所長(~1972年)。1968年中央大学学長事務取扱。
相良 守次(さがら もりじ、1903年5月8日 - 1986… 相良 守次(さがら もりじ、1903年5月8日 - 1986年11月7日)は、日本の心理学者、東京大学名誉教授。栄典は、正四位・勲三等旭日中綬章。 山形県鶴岡市に相良守一の次男として生まれる[要出典]。荘内中学校を経て[要出典]、1925年水戸高等学校理科甲類卒業。1929年東京帝国大学文学部心理学科卒業、同文学部副手。1936年成城高等学校教授、1943年東京帝国大学文学部心理学科助教授、1952年同教授。1952年『逆向抑制の心理学的研究』で文学博士。1964年定年退官、名誉教授。1964年東京女子大学文理学部教授、1969年同大学退職。このほか、湘南工科大学、文教大学の各教授を務めた。 1961年から1964年まで日本心理学会会長を務める。
矢島 祐利(やじま すけとし、1903年〈明治36年〉5月2… 矢島 祐利(やじま すけとし、1903年〈明治36年〉5月2日 - 1995年〈平成7年〉8月12日)は、日本の科学史家。 1903年、栃木県安蘇郡界村(現:佐野市)に生まれる。中学卒業後、一高(旧制)を経て、東京帝国大学に入学。中村清二、寺田寅彦、田丸卓郎の指導を受ける。1926年、東京帝国大学理学部物理学科を卒業。同大学工学部講師を経て、1941年から1945年まで京城帝国大学教授。日本に引き揚げ後はGHQに勤務。1949年より東京物理学校講師、のち校名変更で1950年より東京理科大学教授。1969年「電磁理論の発展史」で東京理科大学より理学博士の学位を取得。1973年、定年退職。東京理科大学名誉教授、国際科学史アカデミー会員。
国松 久弥(國松 久彌、くにまつ きゅうや、1903年5月1… 国松 久弥(國松 久彌、くにまつ きゅうや、1903年5月1日 - 1986年4月14日)は、日本の経済地理学者。茨城大学名誉教授。 弟は独文学者の国松孝二。 千葉県船橋町(現船橋市)生まれ。1926年東京帝国大学経済学部卒。1931年上智大学講師、38年大東文化学院講師、1941年明治学院講師、1946年巣鴨経済専門学校教授、1949年千葉工業大学教授、1950年大東文化大学教授兼任、1952年茨城大学教授、69年定年退官、名誉教授、専修大学教授、金沢経済大学教授。
友近 晋(ともちか すすむ、1903年4月11日 - 196… 友近 晋(ともちか すすむ、1903年4月11日 - 1964年12月9日)は、日本の機械工学・物理学者。理学博士(東京帝国大学)。京都大学元理学部部長および大阪帝国大学理学部元教授。日本物理学会第14代会長。日本学術会議会員(1期)。国際理論応用力学連合日本代表。流体力学・航空物理学の第一人者の一人。 専門は、流体力学・流体機械、航空物理学。 愛媛県松山市生まれ。1926年東京帝国大学理学部物理学科卒業(指導教授は、理論物理学者の第一人者の一人で東京帝国大学航空研究所所長を務めた寺沢寛一)。同大学助手を経て、1929年同大学理学部助教授。1932年理学博士(東京帝国大学)。同大学航空研究所所員も務める。
井森 陸平(ゐもり りくへい、1903年3月26日 - 19… 井森 陸平(ゐもり りくへい、1903年3月26日 - 1982年12月29日)は、日本の社会学者、甲南大学名誉教授(文学博士)。専門は、農村社会学、産業社会学。 岐阜県郡上郡西和良村鬼谷(現・郡上市八幡町美山)生まれ。その父(京之助)は農商務省京都蚕業講習所(現・京都工芸繊維大学)の第一回卒業生であり蚕業技術者だった。また郡上八幡の実家では養蚕を行っていた。1926年3月、東京帝国大学文学部社会学科卒業。その後、鳥取高等農業学校、第八高等学校、名古屋大学、金沢大学、愛知大学、甲南大学(1973年3月定年退職)の教授を歴任した。甲南大学の就任には臼井二尚の推薦があったという。その学問は、テンニース、バレートの理論社会学研究からはじめ、次第に村落研究を人口、文化、習俗の観点から行うようになった。
小野 薫(おの かおる、1903年(明治36年)3月20日 … 小野 薫(おの かおる、1903年(明治36年)3月20日 - 1957年(昭和32年)1月11日)は、日本の建築構造学者。構造教育者。 架構力学理論の研究者であり、難解な構造力学の分野を平易に紹介。戦前は満州で建築教育に携わり、戦後は東京大学および日本大学において後進の育成に当たった。 日本の強度計算方式に1つの形式を与え、その水準を高める上に現在日本のラーメン計算ではスラブからの三角型分布荷重と小梁からの集中荷重で大梁の曲げモーメント失算出することが行われているが、これは小野の創意になる図表が用意されていたからこそ可能になった習慣とされる。小野の図表がなければ、恐らく外国並に有効等分布荷重といったもので概算する程度に止まっていたとされている。
赤崎 兼義(あかざき かねよし、1903年3月8日-1989… 赤崎 兼義(あかざき かねよし、1903年3月8日-1989年10月12日)は、日本の医学者。病理学が専門。医学博士、ドイツ名誉医学博士。東北大学名誉教授。愛知県がんセンター研究所名誉所長。 宮崎県西諸県郡加久藤村(現・えびの市)にて生誕。鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)を経て、1923年3月に第七高等学校造士館 (旧制)理科乙類を卒業。1927年3月東京帝国大学医学部医学科を卒業し、9月20日より同医学部病理学教室嘱託。1931年4月同大学院入学特選給費生に選定され、1934年9月に医学博士の学位を取得し大学院退学。同年10月13日に新潟医科大学 (旧制)助教授となる。1935年1月29日より2年間ドイツに病理学研究の留学をし、1937年3月26日に帰国。
石津 照璽(いしづ てるじ、1903年2月26日 - 197… 石津 照璽(いしづ てるじ、1903年2月26日 - 1972年6月6日)は、日本の宗教哲学者。 山口県美祢郡大田村(現美祢市)出身。旧姓は秋里。1926年東京帝国大学文学部宗教学宗教史学科卒。東大副手、1931年日本大学講師を経て、1938年東北帝国大学法文学部助教授、1943年教授、東北大学文学部教授、1960年文学部長、1963年東北大学学長。1965年、宮城教育大学学長併任。同年東北大学学生、農学部移転問題にからんで大学自治を要求し無期限全学ストライキ(9月20日まで)、9月28日、石津学長を辞任。1966年定年退官、名誉教授、慶応義塾大学教授、駒澤大学教授を務めた。1956年から四期日本宗教学会会長。
布施 欽吾(ふせ きんご、1903年2月13日 - 1971… 布施 欽吾(ふせ きんご、1903年2月13日 - 1971年3月8日)は、日本の漢学者、教育者。中央大学文学部教授、立教大学文学部教授。 千葉県出身。1928年(昭和3年)東京帝国大学文学部卒業。1929年(昭和4年)4月に、立教大学文学部教授に就任し、漢文を担当する。 戦後、1949年(昭和24年)より中央大学文学部教授を務め、1952年(昭和27年)に文学部に哲学専攻が発足すると、中国哲学を教える。 1961年(昭和36年)5月1日には中央大学学生部長に就任。1963年(昭和38年)11月、中央大学文学部長に就任。 1971年(昭和46年)3月8日、脳塞栓のため東京都杉並区荻窪の東京衛生病院で死去 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
吉田 富三(よしだ とみぞう、1903年(明治36年)2月1… 吉田 富三(よしだ とみぞう、1903年(明治36年)2月10日 - 1973年(昭和48年)4月27日)は、日本の医師、病理学者。学位は医学博士(東京大学・1936年)。長崎医科大学教授、東京大学医学部長などを歴任。文化勲章・勲一等旭日大綬章受章。 福島県石川郡浅川村(現・浅川町)生まれ。ラットの腹水癌である吉田肉腫と腹水肝癌の発見で実験腫瘍学に新たな扉を開いた。財団法人癌研究会癌研究所長、財団法人佐々木研究所研究所長、日本学術会議会員・副会長(第6期)、国語審議会委員(第1-6期)などを務めた。テレビディレクターの吉田直哉は長男である。動物学者の田子勝彌は叔父である。
菅井 準一(すがい じゅんいち、1903年2月1日 - 19… 菅井 準一(すがい じゅんいち、1903年2月1日 - 1982年6月14日)は、日本の科学史家。 山形県出身。旧制山形高校、東京帝国大学理学部物理学科卒業。陸軍士官学校教授などを経て、1942年文部省視学官兼科学官。教育科学研究会の科学教育研究部会数学教育分会に参加。1941年の日本科学史学会創立に加わり『近代科学成立史』を編集した。1973年横浜商科大学教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
武藤 清(むとう きよし、1903年1月29日 - 1989… 武藤 清(むとう きよし、1903年1月29日 - 1989年3月12日)は、日本の建築家・建築構造学者・構造家。千葉工業大学工学部建築学科の創設者。元鹿島建設副社長。兄は医学者の武藤完雄。日本建築学会会長、国際地震工学会初代会長、日本コンクリート会議初代会長などを歴任し、また自身で武藤構造力学研究所を開く。 茨城県北相馬郡井野村大字青柳(現在の取手市青柳)出身。龍ヶ崎中学校(現在の茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)から第二高等学校を経て東京帝国大学工学部建築学科に進学。1925年(大正14年)卒業後、母校に残り佐野利器の元で建築構造の研究に打ち込む。 関東大震災の直後から構造振動解析の研究に着手し、耐震構造学の研究を進めた。
北岡 正見(きたおか まさみ、1903年1月29日 - 19… 北岡 正見(きたおか まさみ、1903年1月29日 - 1979年1月13日)は、日本の医学者、病理学者、ウイルス学者。 富山出身。旧制第四高等学校を経て、1927年(昭和2年)東京帝国大学医学部卒業。同大第三内科入局。同大伝染病研究所入所。1941年(昭和16年)同大助教授。1947年(昭和22年)国立予防衛生研究所リケッチア・ウイルス部、1952年(昭和27年)部長。1970年(昭和45年)予研副所長、1973年(昭和48年)退官。 1934年2月東京帝国大学医学博士。論文の題は「病原性並に非病原性スピロヘータに関する研究」。 妻・安慰子は高田商会社長・高田釜吉の長女。孫は女優の髙田万由子、孫婿(高田の夫)はヴァイオリニストの葉加瀬太郎。
隈元 謙次郎(くまもと けんじろう、1903年1月28日 -… 隈元 謙次郎(くまもと けんじろう、1903年1月28日 - 1978年1月25日)は、美術史家。近代日本美術の研究に貢献。 鹿児島県鹿児島郡中郡宇村大字中(現在の鹿児島市鴨池)出身。1924年旧制第七高等学校理科卒業。1928年東京帝国大学文学部美学美術史学科卒業、1931年大学院西洋美術史専攻中退。1932年帝国美術院附属(1947年から国立博物館附属)美術研究所入所。1951年美術研究所第二研究部長となり、1952年の改組によって東京文化財研究所(1954年東京国立文化財研究所と改称)美術部第二研究室室長、1966年退職。1966年から1974年まで東京家政大学教授。その他、文化財保護審議会専門委員、東京国立近代美術館評議員も務めた。
日置 陸奥夫(ひおき/へき むつお、1903年(明治36年)… 日置 陸奥夫(ひおき/へき むつお、1903年(明治36年)1月23日 - 1957年(昭和32年)5月26日)は、日本の医学者。金沢医科大学(現在の金沢大学医学部)教授や同大学附属病院長を務めたほか、日本結核病学会を歴任した。 郷土史家の日置謙の息子として石川県に生まれる。1926年(大正15年)に東京帝国大学医学部卒業後、金沢医科大学にて教鞭を執る。後に同僚であった大里俊吾の指導により、脂質代謝を研究した。 1932年(昭和7年)には同内科助教授となり、1936年(昭和11年)からドイツに留学し、ミュンヘン化学研究所や、カイザー・ウィルヘルム研究所などで研究する。1938年(昭和13年)に帰国し、1942年(昭和17年)に金沢医科大学結核研究所員となり、1944年(昭和19年)には第2内科主任教授となる。
大串 兎代夫(おおぐし とよお、1903年(明治36年)1月… 大串 兎代夫(おおぐし とよお、1903年(明治36年)1月19日 - 1967年(昭和42年)1月3日)は、日本の法学者、国家学者。東洋大学教授、國學院大學教授、名城大学教授、名城大学法商学部長、名城大学総長。従四位勲三等瑞宝章。 国民精神文化研究所では哲学者の小島威彦、教育学者の伏見猛弥と共に三羽烏と呼ばれる。 1903年、判事大村大代の三男として、大阪市に生まれる。1907年、長崎県西彼杵郡面高村の大串一郎の養子となる。1923年、第五高等学校卒業。1926年、東京帝国大学法学部英法科を卒業、同大学大学院に進学して上杉慎吉に師事する。1927年、高等試験司法科合格。1928年、大学院を修了すると、ドイツに留学。
本川弘一(もとかわ こういち、1903年1月17日 - 19… 本川弘一(もとかわ こういち、1903年1月17日 - 1971年2月3日)は、日本の生理学者。東北大学教授・学長。石川県出身。加賀市名誉市民。 1903年、石川県江沼郡桑原村(現在の加賀市桑原)で、本川弘の4番目の子として生まれる。五人姉弟中、唯一の男子であり、農家の後を継ぐのが当然のものとして育てられた。小学校を卒業する時、「この子は成績が抜群だから是非中学に進学させるように」と担任が自宅まで親を説得に来た。弘一も是非進学したいと懇願したが、「農家の跡継ぎだから家を継がせる。代々肝煎の家を絶やしたのでは御先祖様に申し訳がない」という父親の強い意向により、卒業後は家業の農業に従事した。 しかし勉学への思いは断ち難く、17歳で家出する。
藤永 元作(ふじなが もとさく、1903年1月16日 - 1… 藤永 元作(ふじなが もとさく、1903年1月16日 - 1973年9月12日)は、日本の水産学者。元・水産庁調査研究部長、藤永くるまえび研究所理事長。 クルマエビの人工孵化に初めて成功し、クルマエビ養殖の商業化に貢献している。従来のエビ養殖は天然の稚エビを捕獲して育てる「畜養」が一般的だったが藤永は卵から人工孵化させて育てる養殖の道筋を確立した。 藤永が確立したクルマエビの養殖技術は、ブラックタイガー(ウシエビ)やバナメイエビといった他のクルマエビ科の養殖にも活用されている。1963年紫綬褒章受章。1973年4月勲三等瑞宝章。 1903年1月16日山口県萩町で生まれる。旧制松江高校から東京帝国大学へ進学し1933年東京帝国大学農学部水産学科を30歳で卒業。
山崎 知二(やまざき ともじ、1903年〈明治36年〉1月8… 山崎 知二(やまざき ともじ、1903年〈明治36年〉1月8日 - 1994年〈平成6年〉2月26日)は、日本の文学者(フランス文学)。愛知大学名誉教授。 京城帝国大学法文学部助教授、愛知大学文学部教授、愛知大学文学部学部長、愛知大学教養部部長などを歴任した。 静岡県出身のフランス文学を専攻する文学研究者である。シャルル・ボードレールやアンドレ・ジッドの作品の研究で知られている。当初は京城帝国大学で教鞭を執り、太平洋戦争後は長年に亘り愛知大学で教鞭を執った。 1903年(明治36年)1月8日に山崎豐太郞の二男として生まれ、静岡県小笠郡で育った。愛知県名古屋市に所在する旧制高等学校にて学んだ。東京府東京市に所在する東京帝国大学に進学し、文学部の仏文学専攻で学んだ。
小林 英夫(こばやし ひでお、1903年1月5日 - 197… 小林 英夫(こばやし ひでお、1903年1月5日 - 1978年10月5日)は、日本の言語学者、東京工業大学名誉教授。 東京府出身。1927年東京帝国大学言語学科卒。1928年、ソシュールの『一般言語学講義』(仏: Cours de linguistique générale)を『言語学原論』として世界にさきがけて翻訳する。1929年京城帝国大学講師、1932年助教授(ギリシア語、言語学)、敗戦により東京に引き揚げ、1946年京都帝国大学文学博士。1948年東京工業大学教授(フランス語、言語学)、1950年名古屋大学教授兼任。1963年東工大を定年となり名誉教授、早稲田大学教授、1973年退職。
相川 広秋(あいかわ ひろあき、1903年(明治36年)1月… 相川 広秋(あいかわ ひろあき、1903年(明治36年)1月1日 - 1962年(昭和37年)1月27日)は、昭和期の日本の水産学者。 1925年(大正14年)、東京帝国大学農学部水産学科を卒業後、農林省(現 農林水産省)水産講習所・水産試験場技師を経て、1942年(昭和17年)より九州帝国大学の教授となり、同大天草臨海実験所長、長崎大学教授、水産庁調査研究部長、津屋崎水産実験所長を兼任。その他、中央漁業調整審議会委員、日本学術会議会員などを歴任した。プランクトンの研究に従事し、国内の水産資源学の発展に尽力した。1938年(昭和13年)、「日本産短尾甲殻類ノ幼形ニ関スル研究」で農学博士。1949年(昭和24年)5月31日、熊本県に昭和天皇の戦後巡幸が行われた際には、九州大学付属天草臨海実験所の所長を務めており、昭和天皇に無脊椎海棲動物標本の説明役を担った。
松木明(まつき あきら、1903年 - 1981年12月3日… 松木明(まつき あきら、1903年 - 1981年12月3日)は、日本の血清学者、民俗学者。 第八師団軍医広田守の長男として青森県弘前市に生まれ、母親の実家を次いで松木姓になる。弘前中学から弘前高等学校、東京帝国大学医学部を卒業後、同大学の三田定則教授のもと血清学を学び、1934年弘前に帰って開業。血清人類学の研究を行う。津軽民俗の会会長。息子は松木明知。
岡山 俊雄(おかやま としお、1903年 - 1987年8月… 岡山 俊雄(おかやま としお、1903年 - 1987年8月10日)は、日本の地理学者。明治大学名誉教授。理学博士(1961年)。地形学者だが、地理学教育にも尽力した。26年かけて日本全土の接峰面図を描き、それをもとに日本列島の地形構造を考察した。 1903年、東京市小石川区(現・東京都文京区)にて生まれる。東京高等師範学校附属中学校(筑波大学附属高等学校)に入学し、遠足・旅行・登山などで多くを学び、大縮尺の地形図に親しむ。卒業後、松本高等学校(現・信州大学)に入学し、登山を続けた。1926年、同校を卒業し、東京帝国大学理学部地理学科に入学。山崎直方・辻村太郎らの指導を受ける。当時、出身中学のサッカー部のコーチをしていた岡山は責任のとり方について悩み、中期論文を採る気持ちになれなかったが、山崎直方の「出したまえ」の一喝により切羽詰まって「切峰面による釜無・赤石二山地の研究」を2年時の進級論文として書き上げた。
富山 小太郎(とみやま こたろう、1902年(明治35年)1… 富山 小太郎(とみやま こたろう、1902年(明治35年)12月28日 - 1972年(昭和47年)8月23日)は、日本の物理学者。理論物理学を専門とした東京物理学校、早稲田大学の各教授である。その著作や『科学』編集主任としての活動を通じ「現代物理学の紹介者、解説者」であった。 福島県喜多方町に生まれる。幼時に父が日露戦争で戦死し、母の養育を受けた。母方の祖父は喜多方事件の中心人物の一人で、のち県会副議長を務めた中島友八である。会津中学4年修了、二高理科甲類を経て、1925年(大正14年)3月に東京帝国大学を卒業。堀内寿郎は二高、中谷宇吉郎、三石巌、和達清夫は理学部物理学科の同級生であった。 同年4月から翌々年3月まで松本高校の講師、教授を務め、物理学を担当した。
久留 勝(くる まさる、1902年〈明治35年〉11月28日… 久留 勝(くる まさる、1902年〈明治35年〉11月28日 - 1970年〈昭和45年〉9月8日)は、日本の医学者。医学博士。がんの外科学研究で知られる。 三重県伊勢市豊川町の生まれ。1926年に東京帝国大学を卒業と同時に塩田広重教授の塩田外科に入局。1931年より2年間、文部省の在外研究員として欧米への外科学の研究のため留学。1933年1月に東京帝国大学医学博士。論文の題は「人の類黄色腫性病竈より培養せられたる一新病原性糸状菌イサリア・シオタエに就て (独文)」。1933年11月に、塩田教授の推薦で癌研究会の康楽病院外科医長として赴任。その後、1941年金沢医科大学の外科学教授として赴任。1954年1月に大阪大学の外科学教授を歴任、1962年国立がんセンター病院長に就任、1967年国立がんセンター総長となる。
矢部 貞治(やべ ていじ、1902年(明治35年)11月9日… 矢部 貞治(やべ ていじ、1902年(明治35年)11月9日 - 1967年(昭和42年)5月7日)は、日本の政治学者、評論家。東京帝国大学法学部教授、拓殖大学総長などを歴任した。政治学博士。旧姓横山。 1902年11月9日、鳥取県気高郡美穂村大字向国安(現・鳥取市向国安)の農家に生まれる。のち、愛媛県今治市出身の司法官・矢部安男の養子となる。美穂小学校、旧制鳥取県立鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、旧制第一高等学校文科甲類を経て、東京帝国大学法学部に入学。1926年3月同大学法学部政治学科を卒業、矢内原忠雄博士から教育者になることをすすめられ、政治学の創始者たる恩師・小野塚喜平次博士に従って政治学者への道を進むこととなる。
木下 広居(きのした ひろい、1902年10月25日 - 1… 木下 広居(きのした ひろい、1902年10月25日 - 1981年11月14日)は、日本の政治学者。 熊本県生まれ。東京帝国大学法学部政治学科卒業。旧制松江高等学校教授、文部省図書監修官を経て、戦後は参議院法制局調査課長を務めた。1954年『イギリスの議会』で日本エッセイストクラブ賞受賞。その後専修大学教授、創価大学教授を務めた。自民党、公明党の顧問も務めた。 1981年11月14日、閉塞性黄疸のため死去。
岡 義武(おか よしたけ、1902年10月21日 - 199… 岡 義武(おか よしたけ、1902年10月21日 - 1990年10月5日)は、日本の政治学者。東京大学名誉教授。専門は、政治史、日本政治史。 1902年、東京市麹町で生まれた。父は大阪毎日新聞社副社長・会長、農商務省商工局長(兼・臨時産業調査局第3・第4部長)を務めた岡實。 旧制府立一中、第一高等学校文科乙類を経て東京帝国大学に入学。法学部で小野塚喜平次の教えを受けた。1926年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に進み労働政策・社会政策を担当することも考えたが、実務家を目指すことには躊躇があったことから、卒業と同時に小野塚の推薦を受けて法学部助手に採用された。 同期採用の矢部貞治が政治学講座の助手として採用されたことから自身も政治史研究に転じ、助手時代は吉野作造に師事。
冲中 重雄(おきなか しげお、1902年〈明治35年〉10月… 冲中 重雄(おきなか しげお、1902年〈明治35年〉10月8日 - 1992年〈平成4年〉4月20日)は、日本の内科学者。東京大学名誉教授、元日本学士院会員。日本学士院恩賜賞受賞。文化勲章受章。勲等は勲一等瑞宝章。位階は従三位。石川県金沢市生まれ。 石川県金沢市で、大日本帝国陸軍軍人の太田米丸(田中義一の同期でのちに陸軍大佐)の家に生まれる。兄に大日本帝国陸軍中将の太田米雄がいる。伊予松山藩藩士で国学者の太田満穂は曽祖父。 1909年、岡山県師範学校附属小学校(現・岡山大学教育学部附属小学校)入学。その後、東京府北豊島郡王子尋常高等小学校(現北区立王子小学校)に転校。 1921年に父が亡くなったため、父のいとこで医師の冲中磐根と養子縁組をする。
宮地 政司(みやじ まさし、1902年10月7日 - 198… 宮地 政司(みやじ まさし、1902年10月7日 - 1986年10月11日)は、日本の天文学者、理学博士。 広島県因島市(現・尾道市)出身。旧制第六高等学校を経て、1925年東京帝国大学理学部天文学科卒業。ジャワ島ボスカ天文台長、東京天文台国際報時所研究主任を経て東京大学教授兼東京天文台技官となり、東京天文台長を務めた。1964年測地学審議会長となり、日本地図センター長も務めた。
福田 武雄(ふくだ たけお、1902年9月30日 - 198… 福田 武雄(ふくだ たけお、1902年9月30日 - 1981年1月6日)は、昭和期の土木技術者・橋梁工学者。工学博士。大阪市出身。 1925年(大正14年)に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業。大学では田中豊に師事。卒業後、田中が橋梁課長を務める内務省復興局の嘱託となる。 1926年(大正15年)には東京帝国大学助教授を兼務し、フィーレンディール橋の豊海橋を設計(1927年(昭和2年)竣工)。 1927年には、新潟市の萬代橋の設計を依頼され、田中や成瀬勝武(復興局橋梁課筆頭技師)の指導を受けながら、5か月で設計を仕上げ、その設計料で欧米に留学したという。なお、萬代橋は1929年に竣工した。 1933年(昭和8年)、土木学会賞を受賞。
富永 惣一(とみなが そういち、1902年9月18日 - 1… 富永 惣一(とみなが そういち、1902年9月18日 - 1980年6月4日)は、日本の美術史家、美術評論家。男爵・安場末喜の孫。 東京市生まれ。学習院初等科、中等科、高等科を経て、1923年東京帝国大学文学部フランス文学科に進学する。翌年美学美術史学科に転科し、1926年同学科を卒業。1927年学習院講師、1929年学習院教授。1931年から1933年にかけて、宮内省在外研究員として欧米に留学。1949年、学習院大学文学部教授。1954年、美術評論家連盟会長。1959年、国立西洋美術館初代館長に就任するが、1968年に購入作品の真贋問題が追及された責任をとって辞任した。1968年大阪万国博覧会美術館館長、共立女子大学教授。
山本 空外(やまもと くうがい、1902年9月13日 - 2… 山本 空外(やまもと くうがい、1902年9月13日 - 2001年8月7日)は、哲学者、浄土宗の僧。 1902年、広島市南区金屋町生まれ。旧名・幹夫。1926年、東京帝国大学文学部哲学科を卒業。 1927年より(旧制)山形高等学校教授、1929年より広島文理科大学助教授。1929から1931年まで欧米に留学して学ぶ。1935年「哲学体系構成の二途 プローティーノス解釈試論」を提出して文学博士号を取得。1936年より広島文理科大学教授。1945年に被爆し、同年望月信亨のもとで出家する。1947年、広島文理科大学を退官する。1952年より愛媛大学文理学部教授をつとめた。1953年、法蓮寺住職となり、また広島大学文学部教授となった。
坪井 忠二(つぼい ちゅうじ、1902年(明治35年)9月9… 坪井 忠二(つぼい ちゅうじ、1902年(明治35年)9月9日 - 1982年(昭和57年)11月19日)は日本の男性地球物理学者、随筆家。東京大学名誉教授。理学博士で、寺田寅彦の弟子として知られている。
菊池 正士(きくち せいし、1902年(明治35年)8月25… 菊池 正士(きくち せいし、1902年(明治35年)8月25日 - 1974年(昭和49年)11月12日)は、日本の物理学者。理学博士(東京大学・1932年)。日本の原子物理学の黎明期を起ち上げた一人である。大阪大学名誉教授。日本学士院会員。文化勲章、勲一等瑞宝章受章者。贈正三位(没時叙位)。 数学者・教育者・貴族院議員・枢密顧問官として活躍した男爵菊池大麓の四男として東京府に生まれた。 1915年(大正4年)、東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業。1920年(大正9年)、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中学の同級生には、のちに最高裁判所判事となった下村三郎、獨協大学学長となった市原豊太、東京大学名誉教授の坪井忠二、フランス文学者の中島健蔵などがいた。
小林 正次(こばやし まさつぐ、1902年8月16日 - 1… 小林 正次(こばやし まさつぐ、1902年8月16日 - 1975年10月31日)は、日本の技術者、工学博士。元日本電気(NEC)専務取締役。元慶應義塾大学工学部教授。 岡山県久米郡加美村字亀甲(現・久米郡美咲町)生まれ。父親が広島で郡長、のち広島赤十字社主事等になったため広島県比婆郡庄原町(現庄原市)や府中市他で育つ。 1917年、福山中学校(現・福山誠之館高校)から広島高師附属中学(現・広島大学附属高校)に転入、第八高等学校を経て東京帝国大学工学部電気工学科卒業(1926年)。同年日本電気(NEC)入社。大学の先輩・丹羽保次郎が優秀な大学卒を採用するという方針で入社した第一期で、英才の誉れ高い小林が引っぱられたものであった。
佐竹 義輔(さたけ よしすけ、1902年8月8日 - 200… 佐竹 義輔(さたけ よしすけ、1902年8月8日 - 2000年3月31日)は、日本の植物学者。佐竹氏一門の佐竹南家第19代当主、男爵。湯沢市名誉市民。日本高山植物保護協会会長。 1902年、秋田県で佐竹南家の佐竹義雄の次男として生まれた。旧名は佐竹義宏。次男であったため、はじめ早川家の養子となったが、兄の義質の急死に伴い佐竹南家の当主となり、男爵位を継承した。 秋田県立橫手中学校(現、秋田県立横手高等学校)を経て、東京帝国大学(現、東京大学)理学部に進む。東京大学に学位論文「Boehmeria japonica (日本産やぶまを屬)」を提出して理学博士号を取得。大学卒業後は東京科学博物館 (現:国立科学博物館) の植物研究部長に就任した。
富永 理(とみなが ただし、1902年(明治35年)8月2日… 富永 理(とみなが ただし、1902年(明治35年)8月2日 - ? )は、日本の哲学者。松商学園短期大学第5代学長。「リベラルな思想家」と評された。 佐賀県佐賀市生まれ。第七高等学校から、東京帝国大学文学部に進み、哲学科を卒業した。東亜研究所に勤務したが、戦後にシベリア抑留を経験し、1950年に鹿児島商科短期大学(後の鹿児島経済大学〜鹿児島国際大学の前身)教授となり、1959年に松商学園短期大学教授に転じた。 1971年6月に、当時の学長であった長守善が死去した後、学長事務取扱となり、翌1972年3月1日から正式に第5代学長となった。4期8年の学長在任中に、松商学園高等学校と共有されていたキャンパスの分離移転に取り組み、新村地区(現在の松本大学の校地の一部)への短大の新築移転を実現した。
戸田 清(とだ きよし、1902年7月8日 - 2001年9… 戸田 清(とだ きよし、1902年7月8日 - 2001年9月19日)は、日本の数学教育学者、柔道家。 1902年、岡山県生まれ。岡山の六高で高専柔道に励む。1921年までに初段となる。1921年、六高が開発した脚への関節技・膝跨関節十字固(膝十字固め)に最も熟練していて対四高戦で新兵器として使用した。相手が怒りだし蹴飛ばされる。相手は審判から注意され、耐えて引き分けとなる。だが、四高側が反則だと猛烈に抗議し出し、協議の結果、暫定的に以降使用禁止となる。この後、柔道で本格的に禁止技になったが、サンボやプロレス、MMAで使用されるようになった。 東京帝国大学理学部数学科を卒業。卒業後は広島高等師範学校教授。
山内 恭彦(やまのうち たかひこ、1902年7月2日 - 1… 山内 恭彦(やまのうち たかひこ、1902年7月2日 - 1986年10月14日)は、日本の理論物理学者。東京大学名誉教授。理学博士(東京帝国大学、1938年)。神奈川県生まれ。祖父は山内堤雲(六三郎)。