別宮 貞俊(べっく さだとし、1893年2月18日 - 19… 別宮 貞俊(べっく さだとし、1893年2月18日 - 1958年9月19日)は、日本の実業家、工学博士、登山家。住友電気工業初代社長を務めた。 東京都で別宮音五郎の子として生まれる。1917年に東京帝国大学工学部電気科を卒業し、逓信省で電気試験所技師を務め、東京工業大学教授も務めた。 1930年に住友電気工業の前身である住友電線製造所に転職し、常務、専務、社長を歴任した。 東京電機大学教授、日本科学技術情報センター理事長、日本電気学会会長なども歴任した。登山が趣味で日本山岳会会長も務めた。 1958年9月19日、狭心症のために死去。65歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
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矢内原 忠雄(やないはら ただお、1893年(明治26年)1… 矢内原 忠雄(やないはら ただお、1893年(明治26年)1月27日 - 1961年(昭和36年)12月25日)は、日本の経済学者・植民政策学者。東京大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章。無教会派キリスト教の指導者としても知られる。
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東 龍太郎(あずま りょうたろう、1893年〈明治26年〉1… 東 龍太郎(あずま りょうたろう、1893年〈明治26年〉1月16日 - 1983年〈昭和58年〉5月26日)は、日本の政治家、医学者、厚生官僚。東京大学名誉教授。位階は正三位。東京都知事(第4・5代)、日本赤十字社社長(第10代)などを歴任した。 位階勲等は正三位勲一等旭日桐花大綬章。学位は医学博士(東京帝国大学)。称号は東京都名誉都民、日本赤十字社名誉社長など。 父は医師の東藤九郎。弟は野球選手の東武雄。武雄は東大野球部の投手として活躍し、龍太郎はボート部の選手として活躍した。妻は東京帝国大学総長を務めた山川健次郎(枢密顧問官、男爵)の三女・照子。 大阪府大阪市中央区久太郎町に、医師の東藤九郎の長男として生まれる。
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井上 貞蔵(いのうえ ていぞう、1893年〈明治26年〉1月… 井上 貞蔵(いのうえ ていぞう、1893年〈明治26年〉1月7日 - 1963年〈昭和38年〉8月12日)は、日本の商学博士。日本大学名誉教授。東京簿記学校名誉学長。明治大学商学部教授。 神奈川県都筑郡田奈村大字長津田(のち横浜市緑区長津田町)出身。井上傳五左衛門の二男。錦城商業学校、東京府立第四中学校を卒業。専門学校検定試験合格。 1917年、第一高等学校第一部文科を卒業。1920年、東京帝国大学経済学部を卒業。1922年、日本大学商学部講師。1924年、日本大学商学部教授兼学監心得。 1924年より1926年まで経済政策研究の為独逸及び英国に留学。1927年、日本大学商経学部教授兼学監。1936年、主論文「商業使用人問題の研究」及び副論文「商店法論」により「商学博士」を授与される。
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小町谷 操三(こまちや そうぞう、1893年1月1日 - 1… 小町谷 操三(こまちや そうぞう、1893年1月1日 - 1979年1月5日)は、日本の商法学者。専門は海商法。学位は法学博士(東京帝国大学)。東北大学名誉教授。 長野県出身。旧制第二高等学校を経て、1917年(大正6年)東京帝国大学法科卒業。東京地方裁判所判事を経て欧米各国に留学し帰国。1924年(大正13年)東北帝国大学教授。1929年(昭和4年)法学博士(東京帝国大学)。第二次世界大戦後は東北大学教授、1956年まで務め名誉教授。退官後は法政大学、次いで愛知学院大学で教授を務める。戦前に旧法制審議会幹事、戦後に法制審議会商法部会委員を務めた。 二高時代には阿波研造の下で弓道を嗜み、東北帝大教授時代には、『弓と禅』で知られるオイゲン・ヘリゲルと阿波の通訳を務めた。
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宮道 悦男(みやみち えつお、1893年 - 1992年3月… 宮道 悦男(みやみち えつお、1893年 - 1992年3月15日)は、日本の薬学者(薬品化学)。学位は薬学博士(東京帝国大学・1931年)。岐阜薬科大学名誉教授、静岡県立大学名誉教授、社団法人日本薬学会名誉会員。 富山薬学専門学校教授、岐阜薬学専門学校校長(第2代)、岐阜薬科大学学長(初代)、静岡県立薬学専門学校校長(初代)、静岡薬科大学学長(初代)、大阪薬科大学学長(第3代)、学校法人大阪薬科大学理事長(第5代)、岐阜女子大学学長(第2代)などを歴任した。 薬品化学を専攻する薬学者である。アミノ酸誘導体の研究で知られている。富山薬学専門学校にて教鞭を執るなど、後進の育成に努めた。岐阜薬学専門学校の最後の校長を務め、同校を母体とする岐阜薬科大学でも初代学長に就任するなど、数十年にわたって同校のトップを務め、岐阜県の薬学の振興発展に尽力した。
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岡崎 義恵(おかざき よしえ、男性、1892年12月27日 … 岡崎 義恵(おかざき よしえ、男性、1892年12月27日 - 1982年8月6日)は、日本の国文学者・文芸学者。文学博士。日本学士院会員。 高知市生まれ。東京帝国大学卒、1923年東北帝国大学助教授、のち東北大学教授、1955年共立女子大学教授。1965年日本学士院会員。 美学に基づく日本文芸学を唱えた。1937年谷崎潤一郎が『源氏物語』の現代語訳を出した際、光源氏と藤壺の密通の場面が削除されたことを批判した。『岡崎義恵著作集』全10巻がある。 墓所はさいたま市西区三橋の青葉園。
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赤神 良譲(あかがみ りょうじょう、1892年10月30日 … 赤神 良譲(あかがみ りょうじょう、1892年10月30日 - 1953年4月6日)は大正時代から昭和時代初期に活動した日本の社会学者、経済学者、教育者。良譲は僧名で旧名は外蔵、別名崇弘。戦後は教蔵院住職も務めた。 新潟県三島郡寺泊町(現 長岡市)に生まれる。1919年(大正8年)に東京帝国大学文学部社会学科、1923年(昭和12年)に法学部政治学科を卒業。同大助手を経て1922年(大正11年)5月に明治大学教授となった。 1934年(昭和9年)、北陸日日新聞(現北日本新聞)に主筆として迎えられ、新聞統制で他の3紙と統合となる1940年(昭和15年)まで在職した。 ソビエト連邦の政治やマルクス経済学の研究を進めていたが、第二次世界大戦以前は国家主義者としても活動。
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江本 義数(えもと よしかず、1892年(明治25年)10月… 江本 義数(えもと よしかず、1892年(明治25年)10月28日 - 1979年(昭和54年)5月18日)は、日本の微生物学者である。 東京府東京市本所区(現在の墨田区)に生まれ、東京帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)に入学し植物学科に所属する。1917年(大正6年)に卒業後は17年の空白を経て1934年(昭和9年)に学習院大学の教授を務め同年理学博士を取得し、1953年(昭和28年)より学習院女子短期大学(2001年(平成13年)廃止)にて教鞭を執った。 退職後の1958年(昭和33年)には東京国立文化財研究所の調査研究員となり、1974年(昭和49年)に退所するまで16年間奈良県に出張し法隆寺金堂壁画の焼損した部分や高松塚古墳壁画の微生物調査や防除処理等の研究に携わる。
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黒河 龍三(くろかわ りゅうぞう、1892年(明治25年)1… 黒河 龍三(くろかわ りゅうぞう、1892年(明治25年)10月9日 - 1935年(昭和10年)1月)は、日本の数学者、旧制第一高等学校教授。 東京で杉村彦右衛門の二男として生まれ、外祖父・黒川春村を嗣ぎ、黒河を名乗る。旧制第一高等学校を卒業、1916年(大正5年)東京帝国大学理学部数学科卒業後すぐ第一高等学校の数学講師に就任する。1918年(大正7年)第一高等学校教授を拝命、東京高等師範学校、 東京文理科大学の講師も務める。 「竹のひご」と「えんどう豆」を使った空間幾何学の講義や、三角関数は指数関数で表され、逆三角関数は解析関数であるから、初等関数は結局代数関数、指数関数、対数関数の有限個の組み合わせであるという説明など、教科書を使わずに講義案を周到に準備し、論理学上厳格かつ極めて明快な講義を進めていった。
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関 重広(せき しげひろ、1892年9月6日 - 1982年… 関 重広(せき しげひろ、1892年9月6日 - 1982年2月13日 )は、日本の電気工学者、社会事業家、工学博士、専門は照明工学。「照明の父」といわれる。 広島県出身(本籍は神奈川県小田原市)。海軍少将関重忠(1863-1945)の子。母は男爵渡辺清の娘文子(1872年生)。祖父は小田原藩士で、幕末の佐幕運動家関重麿。東京帝国大学工学部電気工学科卒業。母が早くに亡くなり、父の後妻として佐賀藩士から官僚になった西岡逾明(1835-1912)の娘・喜美子が入った。 東京芝浦電気(現・東芝)に入社し、日本で初めて蛍光灯照明を開発し、その実用化を成功させる。戦後、関東学院大学教授をつとめる傍ら、妻真理子の伯父石井亮一が創立し、実の伯母石井筆子が学園長をつとめた日本初の知的障害者教育・福祉施設滝乃川学園の理事長(第6代)に就任、13年間つとめた。
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岡田 弥一郎(おかだ やいちろう、1892年6月24日 - … 岡田 弥一郎(おかだ やいちろう、1892年6月24日 - 1976年4月28日)は、日本の動物学者。学位は、理学博士(東京大学)。三重県立大学(現三重大学)教授、東海大学教授を歴任。 石川県加賀市出身。水産講習所(現東京海洋大学)卒業、東京帝国大学助手、1929年、理学博士(東京大学)(学位論文:「六枚海綿ファレア・ソラシーの發生に就て」)取得。東京高等師範学校教授、三重水産専門学校校長、戦後三重県立大学(現三重大学)教授、水産学部長。定年後、東海大学教授、日本魚類学会初代会長などを歴任。 動物学者としては、魚類、爬虫類や両生類などの分類学の分野において貢献している。 死後半世紀近くたったため、2020年代には岡田の著作はその殆どが国立国会図書館デジタルコレクションでデジタル化され、インターネット上で公開されている。
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岡部 三郎(おかべ さぶろう、1892年(明治25年)6月8… 岡部 三郎(おかべ さぶろう、1892年(明治25年)6月8日 - 1978年(昭和53年)4月18日)は、大正から昭和時代の土木工学者、内務官僚。 福島県に生まれる。1916年(大正5年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業後内務省に奉職し、1920年(大正9年)まで信濃川の分水工事に従事する。1921年(大正10年)横浜港拡張工事のため横浜土木出張所に赴任したが、工事中に関東大震災に見舞われ、同港の復旧工事に当たった。1924年(大正13年)には大阪市の顧問に転じ、堂島川、土佐堀川、道頓堀川などの可動堰や日本初の沈埋式の安治川河底トンネルの設計に当たった。 1927年(昭和2年)官職を辞し東京市土木局橋梁課長となり、吾妻橋、厩橋、両国橋など多くの橋の修理と架設に当たった。
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山口 青邨(やまぐち せいそん、1892年〈明治25年〉5月… 山口 青邨(やまぐち せいそん、1892年〈明治25年〉5月10日 - 1988年〈昭和63年〉12月15日)は、日本の俳人・鉱山学者。岩手県出身。東京大学名誉教授。 本名は吉郎(きちろう)。初号は泥邨。高浜虚子に俳句を師事、工学博士として東京大学に勤めながら俳誌「夏草」を主宰した。 岩手県盛岡市出身。父は士族の家柄。5歳のときに母が死去し、母方の叔父笹間夫妻の元で育った。岩手県立盛岡中学校卒業、1910年、第二高等学校入学。野球部でキャプテンを務めた。1916年、東京帝国大学工科大学採鉱科卒業。古河鉱業に入社。1918年、退社し農商務省技師として鉱山省に勤務。19年にはシベリア炭鉱を調査した。
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藤本 了泰(ふじもと りょうたい、1892年〈明治25年〉3… 藤本 了泰(ふじもと りょうたい、1892年〈明治25年〉3月4日 - 1945年〈昭和20年〉3月16日)は、日本の仏教学者、教育者、僧侶。大正大学文学部教授、立教大学文学部教授。京都・帰命院住職、東京芝・天徳寺住職。近代的な研究手法により、従来から不明瞭な部分が多かった浄土教の歴史解明に深く貢献した。号は摂蓮社心誉常阿。 1892年(明治25年)3月4日、茨城県猿島郡岩井村(岩井町、岩井市を経て、現在の坂東市)に生まれる。 1907年(明治40年)に得度(出家)し、東京・増上寺において堀尾貫務から宗脈・戒脈を授けられる。 1918年(大正7年)、東京帝国大学文科大史学科国史学専修を卒業したのち、1921年(大正10年)、同大史料編纂所に史料編纂補助嘱託として入り、のちに史料編纂官補となり、1929年(昭和4年)まで勤務した。
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團 伊能(だん いのう、1892年〈明治25年〉2月21日 … 團 伊能(だん いのう、1892年〈明治25年〉2月21日 - 1973年〈昭和48年〉2月9日)は、日本の実業家、政治家、美術史家。男爵。 1892年(明治25年)、三井合名会社理事長團琢磨の長男として、福岡県大牟田市に生まれる。 東京帝国大学文学部美術史学科で瀧精一に師事。ハーヴァード大学、ロンドン大学およびリヨン大学に学ぶ。東京帝国大学文学部美術史学科助教授時代の門人に坂倉準三、富永惣一、今泉篤男などがいる。デビュー作『パリ万国博覧会日本館』を設計する機会を坂倉に与えたのは團だった。また、坂倉の初期の代表作で昭和期の代表的な住宅建築である飯箸邸(東京都世田谷区等々力)は、1941年(昭和16年)に團の都内別邸として建てられたものである。
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小川 一清(おがわ かずきよ、1892年(明治25年)1月2… 小川 一清(おがわ かずきよ、1892年(明治25年)1月25日 - 1958年(昭和33年)12月11日)は、日本の電気工学者。電気学の権威。神奈川大学教授、同大理事を兼任した。京都帝国大学工科教授工学博士小川梅三郎・志摩(共に同墓)の長男であり、妻の香代(香代子)の家系も科学者の家系であり父は地質学者小川琢治、母小雪(小川駒橘の娘)であり、その小川琢治の三男にノーベル賞物理学者湯川秀樹がいる。一清と香代の長男の小川岩雄も核物理学者。享年66歳。墓所は多磨霊園。 東京出身。東京帝国大学卒業。逓信省電気試験所第二部長、東北帝国大学教授、富士通信機製造取締役部長、古河電工通信機部長などを歴任。1949年(昭和24年)新制神奈川大学発足時に神奈川大学教授。
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宮本 武之輔(みやもと たけのすけ、1892年(明治25年)… 宮本 武之輔(みやもと たけのすけ、1892年(明治25年)1月5日 - 1941年(昭和16年)12月24日)は、日本の工学者・土木技術者。内務官僚・企画院次長。 愛媛県松山市興居島出身。1917年(大正6年)、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務技手となった。1919年(大正8年)、内務技師となり、東京第一土木出張所、東京土木出張所、新潟土木出張所・土木試験所、内務省土木局に勤務した。1910年代には、当時待遇が文官に比べて冷遇されていた土木官僚たちによる待遇改善をめざした「技術者水平運動」のリーダー的存在であった。その間、1928年(昭和3年)に工学博士号を受けた。1937年(昭和12年)から東京帝国大学工学部教授を兼任。
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春日井 新一郎(かすがい しんいちろう、1892年(明治25… 春日井 新一郎(かすがい しんいちろう、1892年(明治25年)1月2日 - 1952年(昭和27年)6月3日)は、日本の肥料学者である。 東京府東京市(現在の東京都区部)に生まれる。1905年に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1909年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第一高等学校を経て、東京帝国大学(現在の東京大学)に入学し、農芸化学を専攻した。1918年(大正7年)の卒業後も大学に残り講師や農商務省の技手等を経て、1923年(大正12年)に助教授として務め、1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)の帰国まで肥料の研究のためドイツに留学する。
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綿貫 勇彦(わたぬき いさひこ、1892年 - 1943年)… 綿貫 勇彦(わたぬき いさひこ、1892年 - 1943年)は、日本の地理学者。 ドイツの地理学を踏まえた地理学方法論を提起し、集落地理学の体系化と研究の深化を図った。 1892年、奈良県奈良町(奈良市)に生まれる。1920年、第四高等学校(現・金沢大学)を卒業し、東京帝国大学理学部地理学科に入学する。山崎直方・辻村太郎らの指導を受け、1923年に卒業。早くも松山高等商業学校(現・松山大学)教授および松山高等学校(現・愛媛大学)講師となる。以後8年間、松山市に在住し、野外調査に意欲を燃やすようになる。当初は、四国などの地形研究を行っていたが、次第に住民の生活に主な関心を移していき、村落の地理学的な研究において幅広い研究領域を開拓していく。
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古川 竹二(ふるかわ たけじ、1891年12月1日 - 19… 古川 竹二(ふるかわ たけじ、1891年12月1日 - 1940年2月12日)は、日本の教育学者・心理学者。東京女子高等師範学校教授。 長崎県出身。第五高等学校卒、1916年東京帝国大学文科大学教育学科卒。東京女子高等師範学校 (現お茶の水女子大学) 附属中学校教諭、東京女高師教授。49歳で死去。 1927年の「血液型による氣質の研究」(『心理學研究』) 以下一連の論文や著作で、血液型と性格の関係を本格的に論じた人として知られる。
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古賀 行義(こが ゆきよし、1891年(明治24年)11月2… 古賀 行義(こが ゆきよし、1891年(明治24年)11月26日 - 1979年(昭和54年)3月28日)は、日本の心理学者である。別名に壺井 潔(つぼい きよし)がある。 熊本県熊本市に生まれる。東京帝国大学(現在の東京大学)にて哲学科に所属し、後に同じく心理学者となる浜中浜太郎、黒田亮らと共に心理学を学ぶ。1915年(大正4年)に卒業を迎えたが、その後も同大学に残留し経済学科に所属した。1920年(大正9年)に卒業後は、旧制の名古屋高等商業学校(現在の名古屋大学大学院経済学研究科・経済学部)にて教鞭を執った。 1921年(大正10年)より留学のため渡米し、その後はイギリスにてロンドン大学に入学する。
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福田 得志(ふくだ とくし、1891年11月23日 - 19… 福田 得志(ふくだ とくし、1891年11月23日 - 1975年10月4日)は、日本の医学者、薬理学者。鹿児島大学第2代学長・名誉教授、鹿児島県立大学元学長、九州大学名誉教授、日本薬理学会名誉会員、医学博士。フグ毒やハブ毒研究の権威だった。 熊本県宇土郡宇土町(現宇土市の一部)生まれ、下益城郡松橋村(松橋町を経て現宇城市の一部)出身。旧制熊本中学校(熊本県立熊本高等学校の前身)を経て、1912年に第五高等学校大学予科第三部(医科志望)を卒業。1916年12月に東京帝国大学医科大学(現東京大学医学部)を卒業して、副手として薬物学教室入りし、高橋順太郎、林春雄各教授に師事。1918年9月、東京帝国大学附属医院三浦内科に転じ、三浦謹之助教授のもと内科一般を修める。
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阿部 利雄(あべ としお、1891年11月16日 - 199… 阿部 利雄(あべ としお、1891年11月16日 - 1990年)は、日本の経営学者・地方公務員。専門は人事労務管理論。学校法人北海道産業学園初代理事長。北海道の山鼻屯田(現札幌市中央区)生まれ。
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松浦 新之助(まつうら しんのすけ、1891年〈明治24年〉… 松浦 新之助(まつうら しんのすけ、1891年〈明治24年〉11月15日 - 1975年〈昭和50年〉4月6日)は、日本の化学者。位階は正四位。勲等は勲二等。学位は理学博士(東京帝国大学・1934年)。九州大学名誉教授。 広島高等工業学校教授、九州帝国大学理学部教授、九州帝国大学理学部学部長(第2代)、九州大学理学部教授、九州大学理学部学部長(初・第4代)、静岡女子短期大学学長(第3代)、静岡女子大学学長(初代)などを歴任した。 静岡県出身の化学者である。ラドンや弗素の研究などで知られていた。広島高等工業学校、九州帝国大学、九州大学で教鞭を執った。九州帝国大学理学部としては最後の学部長であり、同時に九州大学理学部としては最初の学部長である。
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小山 文太郎(こやま ぶんたろう、1891年11月3日 - … 小山 文太郎(こやま ぶんたろう、1891年11月3日 - 1972年10月22日)は、日本の社会学者・社会科教育学者。 東京出身。1919年東京高等師範学校卒、1922年東京帝国大学文学部社会学科卒、横浜実科高等女学校教諭、1925年千葉県銚子町公正会主事。1927年東京帝大経済学部卒。1932年東京府豊島師範学校教諭、1934年東京市視学。39年東京市主事教育局教育研究所長、1952年駒澤大学教授(-1962)、1955年東京経済大学教授、1956年亜細亜大学教授・日本経済短期大学教授、1971年亜細亜大を定年、名誉教授。
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丹羽 鼎三(にわ ていぞう、1891年9月18日 - 196… 丹羽 鼎三(にわ ていぞう、1891年9月18日 - 1967年2月23日)は、日本の造園学者。造園学の教育者。 横浜市生まれ。第二高等学校を経て、1917年東京帝国大学農学部農学科を卒業。ただちに宮内技手として内匠寮に入り、新宿御苑において桜と菊の研究に従事した。1922年ヨーロッパ留学を経て、1924年三重高等農林学校教授、1929年東京大学助教授となり園芸学を担当した[要出典]。同年2月、東京帝国大学農学博士。論文の題は「日本菊花ニ関スル研究」。1932年同大学教授に就任。原煕の後継者として、東京大学農学部農学科園芸第二講座として花井及び庭園学を担当。この講座を大成させた。1952年定年退官、東京大学名誉教授。
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勝俣 稔(かつまた みのる、1891年(明治24年)9月5日… 勝俣 稔(かつまた みのる、1891年(明治24年)9月5日 - 1969年(昭和44年)3月9日)は、大正から昭和期の医師、技官、公衆衛生学者、政治家。参議院議員(1期)、衆議院議員(1期)、厚生省顧問、藤楓協会理事。父は、医師で第2代上田市長を務めた勝俣英吉郎。日本の近代公衆衛生の父と称された。 長野県小県郡上田町馬場町(現上田市)で勝俣英吉郎の長男として生まれた。上田中学校(現長野県上田高等学校)、第八高等学校を経て、1919年(大正8年)東京帝国大学医学部を卒業。 北里研究所に入所。慶應義塾大学医学部に転じ細菌学教室助手に就任。 1923年(大正12年)内務省衛生局に移り防疫官に就任。関東大震災では医療救護に尽力。
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本名 文任(ほんな ふみのり、1891年(明治24年)8月2… 本名 文任(ほんな ふみのり、1891年(明治24年)8月29日 - 1968年(昭和43年)4月20日)は、日本の医学者、防衛官僚である。京城帝国大学教授、警察予備隊本部医務局長、防衛庁衛生監を歴任。「Ueber die Noma」で東京帝大医学博士、日本大腸肛門病学会会長。日本の膿胸手術における先駆者である。 福島県南会津郡大宮村(現・南会津町)出身。会津中学、一高を経て、東京帝国大学を卒業。医学部首席の井深健次は一高、大学とも同級生であった。東大第二外科局員、東京女子医専講師を経て台湾入りし、台湾総督府医院外科医長兼台北医学専門学校教授、日本大学専門部医学科教授を歴任。この間フランス留学を経験している。
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岡田 要(おかだ よう、1891年8月11日 - 1973年… 岡田 要(おかだ よう、1891年8月11日 - 1973年12月26日)は、日本の動物学者。理学博士(京都帝国大学・論文博士・1929年)(学位論文「La regeneration chez les Coelenteres(腔腸動物に於ける再生の研究)」)。東京帝国大学名誉教授。日本学士院会員、文化功労者。 兵庫県相生生まれ。旧制八高を経て1918年(大正7年)東京帝国大学理科大学動物学科卒。三崎臨海実験所勤務の後、1924年(大正13年)から6年間ヨーロッパ留学。帰国後、1929年(昭和4年)京都帝国大学理学部動物学科教授、同年理学博士(京都帝国大学(学位論文「La regeneration chez les Coelenteres(腔腸動物に於ける再生の研究)」)。
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富岡 惟中(とみおか これなか、1891年〈明治24年〉7月… 富岡 惟中(とみおか これなか、1891年〈明治24年〉7月24日 - 没年不明)は、日本の工学博士、技師。染料界の権威である。 東京府・富岡保の二男。医学博士・富岡有象の弟。1909年、東京府立第四中学校を卒業。1912年、第一高等学校を卒業。1915年、東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業。東京瓦斯技師に就任。 1918年、臨時産業調査局技師兼農務局技師に転じ、1922年、欧米各国に留学を命ぜられる。1925年、商工技師に任じ、東北帝国大学工学部、東京工業大学及び東京工業試験所等に勤務する。 1930年、工学博士の学位を授与される。染料製造奨励に関する事務に従事する。1933年、官を辞し三菱鉱業に入り参事となる。
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千輪 浩(ちわ ひろし、1891年6月29日 - 1978年… 千輪 浩(ちわ ひろし、1891年6月29日 - 1978年8月13日)は、日本の心理学者、東京大学名誉教授。 旧制第六高等学校、東京帝国大学文学部哲学科心理学専攻卒業。1926年東京帝大助教授、のち教授、1952年定年退官。1965年 日本心理学会名誉会員。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
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児玉 桂三(こだま けいぞう、1891年(明治24年)6月1… 児玉 桂三(こだま けいぞう、1891年(明治24年)6月17日 - 1972年(昭和47年)10月1日)は、日本の生化学者。滋賀県出身。東京大学名誉教授。第2代徳島大学学長。元トヨタ自動車工業監査役。 児玉一造東洋綿花社長や、豊田利三郎トヨタ自動車工業社長は兄。妻の壽は北村七郎三井物産監査役の三女で、詩人の北村初雄は義弟。他の姻族に山下財閥創業者の山下亀三郎の長男山下太郎山下汽船社長などもいた。 東京帝国大学卒業。1937年(昭和12年)に実兄の豊田利三郎が初代社長となる形でトヨタ自動車工業が設立されると同社大株主となり、のちに1953年(昭和28年)から1956年(昭和31年)まで監査役も務めた。
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古畑 種基(ふるはた たねもと、1891年(明治24年)6月… 古畑 種基(ふるはた たねもと、1891年(明治24年)6月15日 - 1975年(昭和50年)5月6日)は、日本の法医学者。医学博士。日本学士院会員。東京大学名誉教授。位階は正三位。科学警察研究所所長を務め、科学捜査の研究に寄与。日本の法医学の草分けの一人である。ABO式血液型の研究に若干の功績を残した。その一方でその鑑定方法は権威主義的であり、冤罪事件を多数作り出した御用学者と見なす向きもある。 三重県南牟婁郡相野谷村(現紀宝町)出身。古畑虎之助の次男。和歌山中学校、第三高等学校を経て1912年、東京帝国大学(医科)に入学。1916年、同大学を卒業し同大学助手となり1921年、欧米各国に留学した。
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中村 拓(なかむら ひろし、1891年(明治24年)3月25… 中村 拓(なかむら ひろし、1891年(明治24年)3月25日- 1974年(昭和49年)2月7日)は、日本の医学者、生化学者、古地図学者。本業である生化学者としての業績のほか、古地図研究でも多くの業績を残している。 1891年、福島県伊達郡梁川町に生まれる(現在の伊達市)。1916年第一高等学校を卒業。1920年(大正9年)東京帝国大学医学部を卒業。 1921年、伝染病研究所(長与又郎研究室)に入り、パリのパスツール研究所に留学。1924年ガブリエル・ベルトラン(英語版)教授に師事し、ソルボンヌ大学から理学博士号を授与される。1925年、東京帝国大学から医学博士号を授与される。1926年にポール・ジャクレーの母で18歳上の未亡人ジャンヌ (1874-1940)と結婚。
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瀬藤 象二(せとう しょうじ、1891年3月18日 - 19… 瀬藤 象二(せとう しょうじ、1891年3月18日 - 1977年10月20日)は、電気工学者。和歌山県出身。
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河鰭 実英(かわばた さねひで、1891年(明治24年)3月… 河鰭 実英(かわばた さねひで、1891年(明治24年)3月12日 - 1983年(昭和58年)2月23日)は、日本の服飾史学者。日本服飾史が専門。 三条実美の四男として東京に生まれる。河鰭家当主・河鰭公篤の養子となる。養父の死去に伴い、1922年4月29日、子爵を襲爵した。東京帝国大学文学部卒業。大正天皇の侍従。1949年昭和女子大学教授、1969年学長。1960年に日本風俗史学会の設立に参加。1961年「近世に於ける公家服飾の史的研究」で東京教育大学より文学博士の学位を取得。墓所は多磨霊園。
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井上 孚麿(いのうえ たかまろ、1891年(明治24年)2月… 井上 孚麿(いのうえ たかまろ、1891年(明治24年)2月22日 - 1978年(昭和53年)3月27日)は、日本の歌人・法学者。台北帝国大学教授、法政大学教授、亜細亜大学教授。 長崎県平戸出身。父は井上寅之助、母はテイ(千浦庄七守本の長女)。 専門は憲法学。GHQ占領直後に日本国憲法無効論を唱えた。次男の井上實は東京銀行元頭取。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
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中村 左衛門太郎(なかむら さえもんたろう、1891年1月2… 中村 左衛門太郎(なかむら さえもんたろう、1891年1月29日 - 1974年11月25日)は、地震学者。 東京府出身。東京市京橋区銀座一丁目で針問屋を営む中村利吉と母美保(神田区鍛冶町の唐物商・恵藤卯平の姪)の長男として生まれる。号・傾円。キリスト教徒。1914年東京帝国大学理学部実験物理学科卒。1920年理学博士。中央気象台勤務を経て1924年東北帝国大学理学部教授。1951年同名誉教授、熊本大学理学部教授、1955年理学部長。1956年定年退官、九州物理探査社長、1961年熊本商科大学教授。地震計、地磁気の研究で知られる。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
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大谷 武夫(おおたに たけお、1891年(明治24年)1月1… 大谷 武夫(おおたに たけお、1891年(明治24年)1月15日 - 1950年(昭和25年)8月16日)は、日本の水産学者である。 福島県に生まれ、東京帝国大学農科大学(現在の東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部)水産学科に入学する。1916年(大正5年)に卒業後は母校で教鞭を執り、1921年(大正10年)には水産講習所(現在の東京海洋大学)に転勤し同じく教授として活動した。 その後は宮崎大学の教授として活動し同時期に魚類の自己消化やその消化酵素、ビタミン、フィッシュミールといった魚類に含まれる様々な成分の研究に携わる。この業績で1928年(昭和3年)に農学博士を取得し、1932年(昭和7年)には日本水産学会の設立にも携わり後に1946年(昭和21年)まで副会長を務めた。
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小野 清一郎(おの せいいちろう、1891年(明治24年)1… 小野 清一郎(おの せいいちろう、1891年(明治24年)1月10日 - 1986年(昭和61年)3月9日)は、日本の法学者・弁護士。専門は、刑法・刑事訴訟法・法哲学。学位は、法学博士。東京大学名誉教授。法務省特別顧問。日本学士院会員。勲一等瑞宝章・文化勲章受章者。岩手県盛岡市出身。盛岡小野組の一族である。 仏教の影響を受け、客観主義の法哲学・刑法理論を展開し、大場茂馬以来の後期旧派理論を継承する。戦後の刑法学会に多大な影響を与えた。東京裁判では海軍側被告人の弁護人をつとめた。親鸞に造詣の深い仏教研究者でもあった。 盛岡市で生まれる。盛岡中学校(盛岡一高の前身)卒業後、一高(東京大学教養学部の前身)独法科を首席で卒業。
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阿部 正直(あべ まさなお、1891年〈明治24年〉1月9日… 阿部 正直(あべ まさなお、1891年〈明治24年〉1月9日 - 1966年〈昭和41年〉1月1日)は、日本の理学博士、気象研究所長。伯爵。 父は備後福山藩10代藩主・阿部正桓。弟は農林大臣や日本中央競馬会理事長などを歴任した酒井忠正。姉の貞子は小笠原長幹の妻。 東京生まれ。東京帝国大学理学部卒業後、雲の研究に携わり、1927年御殿場市に阿部雲気流研究所を設立、主に富士山の雲に関する研究を行った。1945年には「山雲及山の気流に関する研究」により、帝国学士院より伯爵鹿島萩麿記念賞を受賞。戦後、中央気象台を経て気象研究所長に就任した。その後は財団法人誠之舎の理事長を務め、また文京区に阿部幼稚園を設立して園長も務めた。
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阿部 余四男(あべ よしお、1891年〈明治24年〉1月3日… 阿部 余四男(あべ よしお、1891年〈明治24年〉1月3日 - 1960年〈昭和35年〉4月22日)は、日本の動物学者。広島大学名誉教授。 哲学者・美学者の阿部次郎、陸軍軍人・実業家の堀三也は兄。歴史学者の竹岡勝也は弟。動物生態学者の阿部襄は甥。 1891年(明治24年)山形県飽海郡上郷村(現・酒田市)大字山寺で、教師をしていた父・阿部富太郎と医師の娘であった母・ゆきの四男として生まれる。 旧制・山形県立山形中学校、旧制・第二高等学校を経て、東京帝国大学理科大学で渡瀬庄三郎教授のもとで学び、1916年(大正5年)同動物学科を卒業し、同理学部嘱託、ヨーロッパ留学をへて、第二高等学校および広島高等師範学校教授を歴任し、1929年(昭和4年)広島文理科大学(現・広島大学)教授となる。
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今泉 源吉(いまいずみ げんきち、1891年 - 1969年… 今泉 源吉(いまいずみ げんきち、1891年 - 1969年)は、日本の法律家、キリスト教伝道者。福音同志会の中央委員・日本基督教団中渋谷教会(日本基督教会)長老牧師を務めた。母の今泉みねは蘭学の家として知られる桂川家出身。母に回想録『名ごりの夢』口述を勧め、自らも『蘭学の家桂川の人々』を著した。 佐賀藩出身の検事今泉利春と今泉みねの三男として生まれる。東京帝国大学法学部を卒業。植村正久の後継者高倉徳太郎の神学を受け入れ、その協力者となり、「福音と現代」の発行を助けた。 1935年に月刊誌『みくに』を発行し、みくに運動を展開した。第二次世界大戦においては戦争協力の姿勢を示し、「キリストにより日本の国体を明らかにする」「皇国の使命を認識して、之をたすけることが最も神のみこころにかなうのである。
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富士川 漻(ふじかわ きよし(富士川 きよし)、1890年1… 富士川 漻(ふじかわ きよし(富士川 きよし)、1890年12月29日 - 1978年9月13日)は、韓国海苔の生産向上に貢献した日本の水産学者。 1890年12月29日広島県沼田郡安村(現・広島市安佐南区)生まれ。東京帝国大学水産学科卒業後、1919年から朝鮮総督府勤務。同水産試験場主任技師として水産養殖、加工研究に従事。特に海苔養殖と加工で独自の養殖技術を開発、生産量を向上させた。朝鮮半島での海苔養殖が盛んになるのは、日本が韓国併合した1910年前後からで、広島出身者を中心に多くの民間養殖業者が渡航、移住し日本式の養殖技術が導入され各地に広まった。しかし品質に問題があったため、富士川ら学者・技術者がこれの改善、品質の均一化等の研究を進めた。
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内海 清温(うつみ きよはる、1890年(明治23年)12月… 内海 清温(うつみ きよはる、1890年(明治23年)12月6日 - 1984年(昭和59年)3月9日)は、大正時代から昭和時代の土木工学者、内務官僚。 鳥取県久米郡倉吉町(現・倉吉市)に生まれる。第一高等学校を経て、1915年(大正4年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務省に入省する。江戸川改修事務所勤務として江戸川分流頭首工事を担当する。1919年(大正8年)9月に退官し、朝鮮に渡り電気化学工業(現・デンカ)の発電水力調査業務に従事。工務部土木課長として朝鮮での10万kW級の水力発電所の建設可能性を現地調査し、帰朝後は宮崎県の大淀川の水力発電所建設所長に転じ、1万5千kWと3万kWの2ヵ所の水力発電所を建設した。
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福田 啓二(ふくだ けいじ、1890年〈明治23年〉12月1… 福田 啓二(ふくだ けいじ、1890年〈明治23年〉12月1日 - 1964年〈昭和39年〉3月23日)は、日本の海軍軍人、造船学者。戦艦「大和」設計者の一人。海軍技術中将正四位勲二等(旭日重光章・瑞宝章)。 福田馬之助海軍造船中将の次男。東京府東多摩郡中野村(現東京都中野区)生まれ。旧制第一高等学校を経て1914年(大正3年)、東京帝国大学工学部造船科卒業。海軍中技師(中尉相当)任官。1920年(大正9年)から1923年(大正12年)まで英国駐在。グリニッジ王立海軍大学校に学ぶ。造船中佐時代はロンドン海軍軍縮会議のため半年間英国出張した。 藤本喜久雄の急死後、1935年(昭和10年)から1936年(昭和11年)にかけて、海軍艦政本部第四部基本計画主任として大和型戦艦の設計に携わる(平賀譲#平賀艦艇設計の評価)。
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和田 清(わだ せい、1890年11月15日 - 1963年… 和田 清(わだ せい、1890年11月15日 - 1963年6月22日)は、大正後期から昭和前期にかけての東洋史学者。 1890年、神奈川県高座郡鶴嶺村(現在の茅ヶ崎市)の豪農の家に生まれた。第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学史学科東洋史学専攻に進学。1915年に卒業し、同大学大学院に進んだ。 大学院修了後は、中央大学予科および東京帝国大学講師となった。1924年に留学を命じられ、欧米や中華民国に留学。帰国の翌年の1927年に東京帝国大学助教授に昇格。折りしも、留学中に東京帝国大学における東洋史学の基礎を築いた白鳥庫吉・市村瓚次郎が定年退官を迎え、世代交代の最中にあった。和田は池内宏・加藤繁とともに新しい東洋史学科の中心的な地位に立つことになった。
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田中 耕太郎(たなか こうたろう、1890年(明治23年)1… 田中 耕太郎(たなか こうたろう、1890年(明治23年)10月25日 - 1974年(昭和49年)3月1日)は、日本の法学者、法哲学者、裁判官、政治家。専門は商法。学位は法学博士。東京帝国大学法学部長、第1次吉田内閣文部大臣、第2代最高裁判所長官、国際司法裁判所判事、日本学士院会員。日本法哲学会初代会長。文化勲章、勲一等旭日桐花大綬章を受章。大勲位菊花大綬章を没後叙勲、正二位を追贈された。松本烝治に師事。弟子に山尾時三、伊沢孝平、西原寛一、鈴木竹雄、石井照久、矢沢惇など。 裁判官・検察官であった田中秀夫の長男として鹿児島県鹿児島市に生まれる。父の出身地は佐賀県杵島郡北方村(現在の武雄市)。 高等小学校2年次に岡山中学入学。
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小林 清貞(こばやし きよさだ、1890年8月24日 - 1… 小林 清貞(こばやし きよさだ、1890年8月24日 - 1968年4月21日)は、日本の学者、弁護士。元東京外国語学校教授、正四位・勲四等・独法学者。旧姓加藤。 愛知県立第一中学校、第八高等学校を経て1917年(大正6年)3月 東京帝国大学卒業。卒業後、朝鮮総督府検事補となる。 1922年(大正11年)2月に朝鮮総督府検事退官し、従四位勲四等を贈られる。同年3月に名古屋地方検事局弁護士名簿登録される。 東京外国語学校教授となったあと、1923年(大正12年)9月に名古屋三大商家・桑名屋の娘である小林初子と結婚し、小林家に入婿した。 1925年(大正14年)6月1日から1927年(昭和2年)12月15日の間、ドイツやアメリカに留学した。
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