芥川 也寸志(あくたがわ やすし、英: Yasushi Ak… 芥川 也寸志(あくたがわ やすし、英: Yasushi Akutagawa、1925年7月12日 - 1989年1月31日)は、日本の作曲家、指揮者。JASRAC元理事長。 作風は大きく分けて3つに分かれる。東京音楽学校を卒業後、快活な旋律とリズムで彩られた作風が魅力の第1期。それらの要素を削ぎ落とし、減衰、静的な要素を取り入れた前衛的作風に転換した第2期。そして第1期の快活明朗なるリズムを用いつつも、第2期以来の作風とクロスオーバーさせ、新たな世界への転換を図った第3期。この区分においても共通するものに、彼自身の生涯のテーマとなるオスティナートの使用がある。リズムを失った音楽は死ぬ、と述べているように、リズムこそ彼の音楽そのものであった。
萩原 哲晶(はぎわら ひろあき、本名:南沢 哲晶、1925年… 萩原 哲晶(はぎわら ひろあき、本名:南沢 哲晶、1925年(大正14年)5月26日 - 1984年(昭和59年)1月13日)は、日本の作曲家。 北海道岩見沢市で病院長の家庭に生まれる。弟の萩原秀樹はジャズピアニスト。旧制北海中学を経て、1942年(昭和17年)、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)器楽科に入学(クラリネット専攻)。同級に岩井直溥や早川博二がいた。戦時中は團伊玖磨、芥川也寸志、斎藤高順、梶原完たちと陸軍戸山学校軍楽隊に入隊。素人の養成機関の軍楽隊に音楽学校の生徒が入る背景には、乗杉嘉壽から山口常光(戸山軍楽隊)、山口から阿南惟幾へ話の持ち込みがあり、全く便宜を計る必要がない音楽学校の生徒である彼等は特例中の特例で、いわゆる徴兵から逃げた。
中根 寛(なかね ひろし、1925年3月26日 - 2018… 中根 寛(なかね ひろし、1925年3月26日 - 2018年1月17日)は、日本の洋画家。繊細で清澄な点描が特徴である。東京芸術大学名誉教授。 愛知県額田郡豊富村夏山(現・岡崎市夏山町)に生まれた。額田郡本宿村(現・岡崎市本宿町)で少年時代を過ごす。1931年(昭和6年)4月、父親が校長を務めていた本宿尋常小学校(現・岡崎市立本宿小学校)に入学。高等科を経て、1937年(昭和12年)に愛知県岡崎中学校(現・愛知県立岡崎高等学校)に入学。中学で東京美術学校(現・東京芸術大学)出身の図画教師の山本鍬太郎と出会い、山本から絵を描くことの楽しさを教えられる。 1939年(昭和14年)、愛知県岡崎師範学校(愛知教育大学の前身)に入学。
津神 久三(つがみ きゅうぞう、1925年2月26日 - 2… 津神 久三(つがみ きゅうぞう、1925年2月26日 - 2017年10月10日)は、日本のイラストレーター、西部劇研究家。 東京府東京市神田区(現・東京都千代田区)出身。本名・小林久三。別名・白井哲。1948年東京美術学校油絵科卒。NHKに2年勤めた後、フリーのイラストレーターとなり1963年渡米。ニューヨークで18年間過ごし、1980年帰国。千葉大学工学部教授としてイラストを教えた。1999年定年退官。西部劇研究家でもあった。
加藤 一(かとう はじめ、1925年2月7日 - 2000年… 加藤 一(かとう はじめ、1925年2月7日 - 2000年2月10日)は画家。元競輪選手、元自転車競技選手。競輪選手選手登録番号1690。 東京・神田小川町生まれ。幼い頃から趣味として絵を描き続ける傍ら、生家の自転車を乗り回していた。旧制法政中学校から法政大学経済学部に入学し、自転車競技において活躍する最中に太平洋戦争で召集を受ける。復員後は法大を休学して東京美術学校(現・東京藝術大学)図案科に入学したが数か月で退学し、法大に復学して自転車競技を続けることになった。 大学卒業後から国民体育大会において短距離種目だけでなくロード種目においても優勝を重ねたことからヘルシンキオリンピックの代表候補に内定していた。
森 康二(もり やすじ、1925年1月28日 - 1992年… 森 康二(もり やすじ、1925年1月28日 - 1992年9月4日)は、日本のアニメーター、キャラクターデザイナー、絵本作家。日本アニメーション所属。森やすじ、もりやすじという表記も使用した。 鳥取県鳥取市出身。台湾で幼少期を過ごす。東京美術学校(現・東京芸術大学)卒業。 政岡憲三に師事しアニメーションを学ぶ。日本における初期の本格的な商業用アニメーション製作会社・東映動画(現・東映アニメーション)に発足当初から参加し、同社草創期の作画部門において大工原章らとともに指導的な役割を果たす。以後長年にわたり、数々の児童向けアニメーション映画・テレビ番組制作に携わる。 日本アニメーションに所属してからは、アニメーション制作の他に新人、若手アニメーターの教育や指導も行っていた。
稲田 年行(いなだ ねんこう、1925年1月4日 - 201… 稲田 年行(いなだ ねんこう、1925年1月4日 - 2014年2月3日、本名:稻田俊志、いなだ としゆき)は、日本の版画家、浮世絵研究家、郷土玩具収集家、岐阜大学名誉教授、浜松大学教授( - 2000年)。位階は従四位。 東京美術学校卒、同専修科修了。安井曽太郎に師事。日本美術家連盟会員、大学版画協会会員、竹とんぼの会会員。水府森家の末裔で、森鴻次郎の孫。建築家稲田尚之の兄、版画家松田ハルミの夫、哲学者純丘曜彰、版画家稲田醍伊祐の父。憲法学者小林直樹の甥。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
柴田 喜代子(しばた きよこ、1924年12月6日 - 20… 柴田 喜代子(しばた きよこ、1924年12月6日 - 2005年9月9日)は、日本の声楽家。ソプラノ歌手。 1924年(大正13年)に大阪府で生まれる。1947年(昭和22年)に東京音楽学校 (旧制)声楽科を卒業。1952年(昭和27年)に結成された二期会に所属。同会の第1回オペラ公演、プッチーニの「ラ・ボエーム」でヒロインのミミ役を演じた。この際、ロドルフォ役を務めた柴田睦陸と後に結婚。その後も音楽活動を続け、1968年(昭和43年)に発売された音楽誌『音楽の友 26』の記事「現代日本の声楽家102人」の中でも取り上げられる存在であった。 後年、聖徳大学短期大学部教授を務めたほか、活水女子短期大学で後進指導にも当たった。
梶原 完(かじわら ひろし、1924年(大正13)11月9日… 梶原 完(かじわら ひろし、1924年(大正13)11月9日 - 1989年(平成元)7月29日)は、日本出身のピアニスト、音楽教育者。日本で演奏活動を始めた後、1954年にドイツに渡り、ヨーロッパ各地で演奏を重ねる。1960年からドイツ西部のベッツドルフにあるアドルフ音楽院でピアノのレッスンを始め、演奏活動を続けるかたわら多くの生徒を育てた。 梶原完は、父梶原國生と母恒子の次男として、1924年11月9日に上海で生まれた。長野県出身の父は満鉄調査部上海事務所に勤めており、音楽を愛する学究肌の人物だった。同じく長野県出身の母は、女子高等師範学校を首席で卒業し、仙台で教師を務めた後に、結婚まで東京の東洋英和女学院でも教えていた。
眞鍋 理一郎(まなべ りいちろう、1924年〈大正13年〉1… 眞鍋 理一郎(まなべ りいちろう、1924年〈大正13年〉11月9日 - 2015年〈平成27年〉1月29日)は、日本の作曲家。東京都神田出身。 父はニコライ学校で学び、神田ニコライ堂で奉職した真鍋理従。幼少期より教会音楽に親しみ、中学校の音楽教師や教会の聖歌隊長などを志す。東京工業大学卒業後、東京藝術大学声楽科(畑中良輔に師事)にて学び、1951年に作曲科へ転科。作曲を池内友次郎に師事した後、池野成の仲介により伊福部昭に師事。イタリアにて映画音楽作曲家のアンジェロ・フランチェスコ・ラヴァニーノ(イタリア語版)と親交を持った。 藝大卒業後、親戚の伝手により映画音楽家の吉澤博に師事し、その後吉澤の紹介により仁木他喜雄の助手を務める。
小泉 淳作(こいずみ じゅんさく、1924年10月26日 -… 小泉 淳作(こいずみ じゅんさく、1924年10月26日 - 2012年1月9日)は、日本の日本画家、陶芸家。特定の美術団体に属さず、画壇とも距離を置いたことから「孤高の画家」と呼ばれた。 神奈川県鎌倉市生まれ。政治家小泉策太郎の七男で、俳優小泉博は弟にあたる。慶應義塾幼稚舎、普通部を経て、慶應義塾大学文学部予科に入学。1943年、慶應義塾大学予科を中退し、東京美術学校日本画科に入学。山本丘人に師事し、1952年同学科を卒業。1944年応召となるが、結核で療養生活に入る。陸軍予備士官学校の経験からか、戦争には強烈な嫌悪感を抱いていた。 その後、デザイナーとして活動し、1954年第18回新制作展に「花火」「床やにて」が初入選。
大中 恩(おおなか めぐみ、1924年7月24日 - 201… 大中 恩(おおなか めぐみ、1924年7月24日 - 2018年12月3日)は、日本の作曲家。男性。土田藍(つちだ あい)という筆名で、自身の歌の作詞も手がけている。 父は『椰子の実』の作曲者である大中寅二。詩人、作家の阪田寛夫は従弟に当たる。 父親が霊南坂教会のオルガニスト兼合唱指揮者であったことから、歌を愛好するようになった(聖歌隊の女の子に惹かれたからだとも語っている)。1942年に東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)本科作曲部に入学し、信時潔に作曲を、橋本國彦に管弦楽法を、細川碧に対位法を師事した。1943年の混声合唱曲『わたりどり』(詩:北原白秋)は戦地で果てる覚悟で書いたという。
深沢 幸雄(ふかざわ ゆきお、1924年7月1日 - 201… 深沢 幸雄(ふかざわ ゆきお、1924年7月1日 - 2017年1月2日)は、日本の版画家、銅版画家。多摩美術大学名誉教授。深澤幸雄と表記されることもある。 銅版画の一種であるメゾチントを中心とした作品を制作し、日本における戦後銅版画の第一人者のひとりとされている。版画だけでなく、書(詩)、陶芸、ガラス絵、パステル画の創作も行なっている。 初期には人間の内面や感情の奥底を表現したモノクロの作品が多かったが、やがて壮大で叙事詩的なテーマを取りあげるようになり、鮮烈な色彩といくつもの銅版画技法を用いるようになった。深沢の作品はニューヨーク近代美術館(MoMA)、ボルティモア美術館(英語版)(いずれもアメリカ)、メキシコ国立版画美術館(メキシコ)、ケルン文化会館(ドイツ)、ウフィツィ美術館(イタリア)、チェコ国立近代美術館(チェコ)、山梨県立美術館、南アルプス市立春仙美術館などに所蔵されている。
芦野 宏(あしの ひろし、1924年6月18日 - 2012… 芦野 宏(あしの ひろし、1924年6月18日 - 2012年2月4日)は、日本のシャンソン歌手、声楽家。本名:羽鳥廣。
芥川(間所) 紗織(あくたがわ〈まどころ〉さおり、1924年… 芥川(間所) 紗織(あくたがわ〈まどころ〉さおり、1924年〈大正13年〉5月24日 - 1966年〈昭和41年〉1月31日)は、愛知県渥美郡高師村(現・豊橋市)出身の画家。 1950年代から急逝するまで、当時はほとんどいなかった前衛の女性画家の一人であり、また「染色」という全く独自の技法で道を切り開いた作家である。 「芥川」は芥川也寸志との最初の結婚時の、「間所」は間所幸雄との再婚後の姓で、旧姓は山田である。「芥川紗織」とも「間所紗織」とも呼ばれるが、2つの姓を併記して「芥川(間所)紗織」と書かれることも多い。 旧姓を山田といった。東京音楽学校(現・東京藝術大学)本科声楽部を卒業後、作曲家の芥川也寸志と結婚し、芥川麻実子ら2女をもうけた。
片岡 みどり(かたおか みどり、1923年(大正12年)10… 片岡 みどり(かたおか みどり、1923年(大正12年)10月15日 - 2009年(平成21年)12月1日)は、日本のピアニスト。相愛大学名誉教授。 東京音楽学校卒業。愛知県出身。 愛知県出身。中村佳永子、井口基成に師事し、1944年(昭和19年)に東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)本科器楽部ピアノ専攻を卒業。相愛大学名誉教授や日本シマノフスキ協会の理事を務めていた。 門下生に花房晴美、太田紗和子、平野智子、今岡淑子などがいる。 2009年(平成21年)12月1日、86歳で亡くなった。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル クラシック音楽/ウィキプロジェクト クラシック音楽)。
岩井 直溥(いわい なおひろ、1923年10月2日 - 20… 岩井 直溥(いわい なおひろ、1923年10月2日 - 2014年5月10日)は、日本の作曲家、編曲家および指揮者。 陸軍中将で男爵の野崎貞澄の孫として東京牛込に生まれる。父の岩井貞麿(旧姓野崎)は音楽教室経営者で、柴田南雄のピアノの師。母は帝国劇場のリハーサルピアノプレーヤー。 1942年(昭和17年)、東京音楽学校(現東京藝術大学)器楽科(ホルン専攻)入学。作曲を橋本國彦に師事。1943年(昭和18年)に学徒出陣により旧大日本帝国陸軍に入隊。朝鮮半島へ出征。その後千葉県習志野市の東部軍教育隊へ異動。館山市の守備隊で見習士官(准尉)で終戦を迎える。ホルン専攻ではあるが、終戦後ジャズの世界にとびこみ、トランペットも演奏。
岩河 三郎(いわかわ さぶろう、1923年9月9日 - 20… 岩河 三郎(いわかわ さぶろう、1923年9月9日 - 2013年9月16日)は、日本の作曲家。 富山県富山市生まれ。1947年、東京音楽学校(現:東京藝術大学)声楽科卒業。後に作曲家となり平井康三郎、池内友次郎に師事。日本童謡協会理事、山口大学教授を歴任。日本作曲家協議会会員。 合唱作品の作曲家として知られている一方、NHKでも放送・レコード関係の作曲・編曲などを手がけた。吹奏楽作品も全日本吹奏楽コンクール用に多く作曲し、作曲家グループ「ニュー・エイトの会」の一員で、意欲的に吹奏楽曲の作曲を行った。また、作曲のみならず作詞も数作手がけている。 次女は岩河智子(いわかわともこ、作曲家、札幌室内歌劇場音楽監督)墓は富山市の長岡墓地。
大塚 清六(おおつか せいろく、1923年8月18日 - 1… 大塚 清六(おおつか せいろく、1923年8月18日 - 1974年6月5日)は、日本の画家、イラストレーター、装幀家、グラフィックデザイナー。先駆的なミニマリストとしても知られる。 1950年代から1970年代前半にかけて、小説の挿絵や装幀、油彩画などを手がける一方、商業デザインでも活躍。1962年(昭和37年)からは広瀬鎌二設計の自邸「SH-60」に居住した。 1923年(大正12年)8月18日、福島県喜多方町(現:喜多方市)に生まれる。女手ひとつで育てられ、町立喜多方幼稚園、喜多方小学校を経て、1941年(昭和16年)に喜多方商業学校を卒業する。1943年(昭和18年)、父親の位牌を鉈で割って上京し、東京美術学校に入学。
平山 美智子(ひらやま みちこ、1923年7月14日 - 2… 平山 美智子(ひらやま みちこ、1923年7月14日 - 2018年4月1日)は、日本の声楽家(ソプラノ歌手)。 ブーレーズ、ケージ、クセナキスが彼女の為に作品を多く作っている。 1923年7月14日、 東京府東京市出身。1944年に東京音楽学校(現・東京芸術大学)を卒業。 1953年にイタリアへ渡り、サンタ・チェチーリア国立アカデミア(ローマ)及びキジアーナ音楽院(シエーナ)にて声楽を学ぶ。1957年にはオーストリアへ行き、モーツァルテウム音楽院(ザルツブルク)でヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作品の研究を始めたのを皮切りに、フーゴー・ヴォルフ以後の後期ロマン派音楽に探求の幅を広げるなど意欲的な音楽活動を展開する。
飯田 善國(いいだ よしくに、1923年7月10日 - 20… 飯田 善國(いいだ よしくに、1923年7月10日 - 2006年4月19日)は、日本の彫刻家、現代美術家、詩人。 栃木県足利市生まれ。旧制館林中学卒。慶應義塾大学在学中に徴兵され中国を転戦した。帰国後慶應に復学した後、かねてからの希望だった画家を志して東京藝術大学に入学、梅原龍三郎らの教えを受け1953年に卒業した。その後は、池田龍雄らと制作者懇談会を結成し、芸術論の交換をしながら、戦争体験でばらばらになった世界観や自己への懐疑を再構築すべく、表現主義的な絵画で彼なりのリアリズムを築き上げようとした。 1956年からのローマ留学の間、彫刻のコースで学び、さらにヴォルスの絵画やヘンリー・ムーアの抽象彫刻に衝撃を受けてそれまで描いてきた「リアル」に対する概念をゆすぶられた彼は、より外に開かれた、実感に近いものを求めて彫刻制作に転じ、ウィーンやベルリンなど主に欧州で活躍し、木や石を素材に各地の展覧会に出展した。
砂原 美智子(すなはら みちこ、1923年〈大正12年〉2月… 砂原 美智子(すなはら みちこ、1923年〈大正12年〉2月19日 - 1987年〈昭和62年〉8月27日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、音楽教育者。 広島県呉市出身。呉市立吾妻小学校(現・呉市立明立小学校)在学中の1930年(昭和5年)、音楽を学ぶために一家で東京移住。東京府立第六高等女学校(現・東京都立三田高等学校)卒業。1942年(昭和17年)東京音楽学校入学。1944年(昭和19年)東京音楽学校本科声楽科卒業(戦時中のため、卒業時期短縮で9月卒業)。平原寿恵子に師事。1947年(昭和22年)藤原歌劇団公演のプッチーニ『ラ・ボエーム』ムゼッタでデビュー。翌年にかけてビゼー『カルメン』のミカエラ、ロッシーニ『セビリアの理髪師』のロジーナ、プッチーニ『蝶々夫人』などを演じて一躍同劇団のプリマドンナになる。
桑原 瑛子(くわばら えいこ、1923年〈大正12年〉1月2… 桑原 瑛子(くわばら えいこ、1923年〈大正12年〉1月28日 - 2023年〈令和5年〉9月8日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、オペラ歌手、音楽教育者。 東京府出身。東京音楽学校 (旧制) 卒業。ヘルマン・ヴーハープフェニッヒに師事。 1947年(昭和22年)に團伊玖磨と結婚。 1948年(昭和23年)藤原歌劇団を率いる藤原義江にモーツアルト『ドン・ジョヴァンニ』(本邦初演・帝国劇場)のドンナ・アンナの役を頼まれオペラデビュー。以後、藤原歌劇団の興隆期の大プリマとして活躍した。1950年代にはイタリアに留学。1958年(昭和33年)の藤原歌劇団によるプッチーニ『トスカ』でタイトル・ロールを歌った。
木村 信之(きむら のぶゆき、1923年1月20日 - 20… 木村 信之(きむら のぶゆき、1923年1月20日 - 2016年7月3日)は、日本の音楽教育学者。 鳥取県に生まれる。1948年に東京音楽学校甲類師範科を卒業。群馬大学学芸学部付属小学校教諭、東京学芸大学附属大泉小学校教諭を務めた後、東京学芸大学の講師、助教授を経て、教授となる。[要出典]1986年に定年退官し、名誉教授となるとともに、文教大学教育学部教授を務めた。没後、従四位に叙せられる[要出典]。
千蔵 八郎(ちくら はちろう、1923年1月20日 - 20… 千蔵 八郎(ちくら はちろう、1923年1月20日 - 2010年7月15日)は、日本の音楽学者、音楽教育学者。武蔵野音楽大学名誉教授。 東京(現豊島区)生まれ。1948年東京音楽学校卒、1954年東京芸術大学音楽学部卒業。島根大学助教授、武蔵野音楽大学教授、93年名誉教授。
高﨑 元尚(たかさき もとなお、1923年1月6日 - 20… 高﨑 元尚(たかさき もとなお、1923年1月6日 - 2017年6月22日)は、日本の美術家。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
安藤 士(あんどう たけし、1923年〈大正12年〉 - 2… 安藤 士(あんどう たけし、1923年〈大正12年〉 - 2019年〈平成31年〉1月13日)は、日本の彫刻家である。現代工房代表取締役社長。父は彫刻家の安藤照である。 東京・渋谷に現存する「忠犬ハチ公像」(2代目)の製作者として知られる。
岡部 冬彦(おかべ ふゆひこ、1922年12月27日 - 2… 岡部 冬彦(おかべ ふゆひこ、1922年12月27日 - 2005年5月16日)は、東京出身の漫画家、科学ジャーナリスト。埼玉県さいたま市に在住していた。 東京生まれ。東京美術学校(現東京芸術大学)卒。卒業後、ライオン歯磨宣伝部を経て、漫画家となった。漫画集団同人。名取洋之助が編集していた『岩波写真文庫』の現場で、三木淳、稲村隆正らともに学ぶ。またスタッフだった女性デザイナーと結婚した。 1956年から13年間『週刊朝日』に『アッちゃん』を連載し、サラリーマン家庭の暮らしぶりを子どもの視点からユーモラスに描いた作風で人気を博す。せりふのない4コマ漫画『ベビーギャング』、外国漫画の影響を受けた『アツカマ氏』『オヤカマ氏』などの作品で人気を博した。
佐藤 圀夫(さとう くにお、1922年 <大正11年> 8月… 佐藤 圀夫(さとう くにお、1922年 <大正11年> 8月16日 - 2006年 <平成18年> 1月24日)は、日本画家、日本芸術院会員。岩手県出身。日展理事。名古屋芸術大学教授。主に風景を題材とし、重厚な色感ながら情感あふれる作品を描いた。位階は正五位。 岩手県九戸郡野田村出身。1946年東京美術学校日本画科首席卒業、同年第31回院展初入選。1948年に髙山辰雄らの日本画研究団体一采社に参加。1949年日展初入選。1951年から山口蓬春に師事。1954年、第10回日展で「冬」が特選・白寿賞を受賞。1959年第2回新日展「津軽の浜」が特選・白寿賞となり、1962年第5回新日展「夕凪」で菊華賞を受賞。
石井 好子(いしい よしこ、1922年8月4日 - 2010… 石井 好子(いしい よしこ、1922年8月4日 - 2010年7月17日)は、日本のシャンソン歌手、エッセイスト、実業家(芸能プロモーター)。日本シャンソン界の草分けであり、半世紀以上に亘り牽引し続けた業界の代表・中心人物として知られている。日本シャンソン協会初代会長。東京都出身。東京府立第六高等女学校(現・東京都立三田高等学校)卒業、東京音楽学校声楽専科卒業。 政治家・石井光次郎の次女として生まれ、母の勧めにより6歳からピアノを習う。ただ、歌は好きだがピアノは好きになれなかったという。ピアノを教えていた岡本たま(音楽家岡本敏明の妻)は、そんな好子にピアノを無理強いすることなく、ただ好きな歌を歌うよう勧めた。
斎藤 真一(さいとう しんいち、1922年7月6日 - 19… 斎藤 真一(さいとう しんいち、1922年7月6日 - 1994年9月18日)は、岡山県倉敷市出身の洋画家、作家。映画「吉原炎上」の原作者としても知られる。 斎藤真一は1922年(大正11年)、岡山県児島郡味野町(現・倉敷市児島味野)に父・斎藤藤太郎(都山流尺八大師範)、母・益の長男として生まれる。1935年(昭和10年)に岡山県立天城中学校に入学すると、味野から峠を越えて天城中学まで3里半の道のりを5年間、自転車で通学する。2年生で陸上部に入部、秋から県大会に出場し始めるとしばしば入賞し、3年生で県下の駅伝大会にアンカーとして出場し優勝、天城中学の名を高める。その実績を買われて4年次にマラソンに誘われるが、好きな絵を優先させて断念する。
鈴木 清三(すずき せいぞう、1922年6月20日 - 20… 鈴木 清三(すずき せいぞう、1922年6月20日 - 2008年1月12日)は、日本のオーボエ奏者。 北海道札幌市出身。父親は清元高輪派の名匠:清元清美太夫。 1942年、東京音楽学校(現・東京藝術大学)在学中に、満州国建国10周年奉祝使節団として東京音楽学校によって組織されたオーケストラに参加し、首都・新京その他で演奏に加わった。1944年、東京音楽学校を学徒出陣で繰上げ卒業。海軍航空隊で終戦を迎えた。卒業演奏はグロヴレーズの「サラバンドとアレグロ」(1943年末の報国演奏会)で、ピアノ伴奏を中田一次が務めた。 復員後、研究科に復学、修了後は東京フィルハーモニー交響楽団、NHKサロン・アンサンブル、日本フィルハーモニー交響楽団(創立メンバー)を経て、1972年に新日本フィルハーモニー交響楽団の結成に参画し、首席奏者、運営委員長、楽団長、名誉首席奏者を歴任、1992年のリサイタルまで長く演奏活動を続けた。
戸田 敏子(とだ としこ、1922年〈大正11年〉5月10日… 戸田 敏子(とだ としこ、1922年〈大正11年〉5月10日 - 2015年〈平成27年〉9月24日)は、日本の声楽家(メゾソプラノ、アルト)、オペラ歌手、音楽教育者。東京藝術大学名誉教授。 東京府出身。1943年(昭和18年)東京音楽学校(現:東京藝術大学)を総代で卒業。 1943年11月13日に東京音楽学校の奏楽堂で開催された第149回報国団出陣学徒壮行演奏会で、村野弘二の繰り上げ卒業時に発表されたオペラ『白狐』第二幕のアリア「こるはの獨唱」(作詞:岡倉天心 ピアノ伴奏:高橋美代子)を歌う。その後、同級生の畑中良輔とともに村野作品のレコード吹込みを行い、戸田は「こるはの獨唱」(ピアノ伴奏:高橋美代子)と、歌曲『重たげの夢』(作詞:三好達治 ピアノ伴奏:村野弘二 チェロ伴奏:井上みどり)を歌った。
大山 忠作(おおやま ちゅうさく、1922年5月5日 - 2… 大山 忠作(おおやま ちゅうさく、1922年5月5日 - 2009年2月19日)は、日本画家。日展会長。福島県二本松市出身。妻和子。 長男は日本テレビフットボールクラブ(東京ヴェルディ)役員の大山昌作、娘は女優の一色采子。 1943年、学徒出陣の為、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)を繰り上げ卒業。埼玉県で特別操縦見習士官3期となり、台湾の航空隊で終戦を迎えた。 1946年、復員し、その年の第2回日展『O先生』が初入選。翌年、高山辰雄らの日本画研究団体「一采社」に参加。山口蓬春に師事した。人物画、宗教的作品、花鳥、風景など高範な題材を得意とする。1961年、日展会員となり、事務局長、理事長などを歴任。
吉田 漱(よしだ すすぐ、1922年3月11日 - 2001… 吉田 漱(よしだ すすぐ、1922年3月11日 - 2001年8月21日)は、日本の歌人、美術史家。筆名・利根光一。美術史、特に浮世絵に関する研究書で知られる。 東京府で彫刻家の吉田久継の長男として生まれる。1941年、東京美術学校油絵科に入学。1943年、学徒出陣により中国大陸中部を転戦。復員後の1947年に東京美術学校を卒業。同年、アララギ歌会に出席し土屋文明に入門。1948年、アララギの若手集団「芽」に参加。1951年、近藤芳美を中心とする歌誌『未来』の創刊に参加、編集を担当するなど、同誌のの推進的リーダーとなる。青年歌人会議、東京歌人集会、定型詩の会にも参加して、現代短歌運動を推し進めた。
畑中 良輔(はたなか りょうすけ、1922年(大正11年)2… 畑中 良輔(はたなか りょうすけ、1922年(大正11年)2月12日 - 2012年(平成24年)5月24日)は、日本の声楽家(バリトン)、音楽教育者、合唱指揮者、音楽評論家、作曲家、詩人、翻訳家(訳詞家)、エッセイスト。日本芸術院会員。日本の洋楽の発展に多大な功績を残した。 福岡県門司市(現:北九州市門司区)に浅野セメントに勤める父・勝次郎と、琴および三絃の師匠をしていた母・筆の長男として生まれる。四人家族で、二つ上の姉がいる。旧制門司中学校に入学、ラッパ鼓隊に所属し小太鼓を担当する。進学先として受験科目に苦手の数学が無い東京音楽学校を選び、人前で歌ったことはなかったが消去法で「声楽科」と書いたという。
四代目 寶 山左衛門(たから さんざえもん、六代目福原百之助… 四代目 寶 山左衛門(たから さんざえもん、六代目福原百之助、本名: 若林 英次、1922年1月5日 - 2010年8月7日)は、東京市芝区宇田川町出身の長唄囃子方、篠笛演奏家・作曲家。福原流鳴物六代目宗家、福原流百之助派四代目家元。東京芸術大学客員教授、国立劇場養成所講師。 長唄囃子方五代目福原百之助の跡取りとして生まれ、母親も長唄の師匠。幼い頃より芸の薫陶を受けた。 1939年、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)卒業。 第二次世界大戦中は駆逐艦の建造等に動員されたが、戦後邦楽界の再建に携わり、1940年に福原英次を名乗る。1964年に六代目百之助を襲名。1981年に長唄協会理事。
金子 篤司(かねこ あつし、1922年- 2002年)は、日… 金子 篤司(かねこ あつし、1922年- 2002年)は、日本の彫刻家。 1922年(大正11年)、山口県下関市に生まれる。神奈川一中(現県立希望ヶ丘高校)卒業後、日本刀鍛錬伝習所に入門。修業途中で兵役に召集されたが、兄弟子の人間国宝宮入行平とは、終生の交流を持ち続けた。 1949年、東京芸術大学美術学部木彫科入学。平櫛田中に師事。1953年同卒業。主に日展、日彫展などで活躍した。日展初入選以後、15回入選。日展会友。日彫展会員。1965年女子美術大学講師(以後18年間)。 1982年横浜美術協会会長。横浜美術協会理事・相談役。2002年、神奈川県相模原市にて心不全のため死去。(「ART MIND 2006秋季号」P.1」 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
三尾 彰藍(みお しょうらん、1922年 - 2011年)は… 三尾 彰藍(みお しょうらん、1922年 - 2011年)は、埼玉県北足立郡浦和町(現・さいたま市浦和区)出身の日本画家。本名、三尾雄治。浦和画家のひとり。 浦和画家、三尾呉石の二男。1歳の時に関東大震災に被災し、父と共に埼玉県浦和町(のち浦和市)に転居、生涯浦和に居住。東京美術学校卒業。山口蓬春、髙山辰雄に師事した。院展で活躍し、風景画や静物画を得意とした。1979年までは本名(三尾雄治)で発表していた。2013年3月には埼玉県立近代美術館で回顧展が行われた。県展運営委員。
牛玖 健治(うしく けんじ、1922年 - 2012年)は、… 牛玖 健治(うしく けんじ、1922年 - 2012年)は、日本の版画家、洋画家。千葉県出身。 1922年(大正11年)、千葉県に生まれる。旧制佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て、東京美術学校(現在の東京芸術大学)を卒業。東京版画国際展をはじめ、毎日国際展、毎日現代展、朝日秀作美術展、JAA国際展などで活躍する。河童絵の牛玖博は実弟。
村尾 アサ子(むらお アサこ、旧姓:中村、1921年(大正1… 村尾 アサ子(むらお アサこ、旧姓:中村、1921年(大正10年)12月31日 - 2003年(平成15年))は、日本のオルガニスト。ピアニスト。元徳島文理大学音楽学部教授。 東京音楽学校器楽科卒業。香川県高松市出身。 香川県高松市出身。1943年(昭和18年)に東京音楽学校器楽科(現:東京芸術大学音楽学部)を卒業し、オルガンを真篠俊雄、井原秀子に師事する。 大学を卒業後は徳島女子大学音楽学部で講師となり、その後、徳島文理大学音楽学部で教授を務めた。 またこれまでに香川音楽協会、全四国大学音楽学会に所属し、香川県教育委員会音楽指導主事などを歴任した。 2003年(平成15年)、死去。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。
長 大作(ちょう だいさく、1921年9月16日 - 201… 長 大作(ちょう だいさく、1921年9月16日 - 2014年5月1日)は、日本の家具デザイナー、建築家。 中国東北部(旧満洲)生まれ。1945年に東京美術学校建築科を卒業し、1947年に坂倉準三建築研究所に入社。 1957年の「藤山愛一郎邸」、1958年の「八代目 松本幸四郎邸」では、建築の設計から家具のデザインに至るすべてを手がけたという。 1960年に「低座イス」を発表して同年グッドデザイン賞を受賞。1972年に長大作建築設計室を立ち上げた。
広瀬功(ひろせ こう、1921年9月15日 - 2006年2… 広瀬功(ひろせ こう、1921年9月15日 - 2006年2月16日)は、日本の洋画家。日展を中心に活動し、風景画や静物画で知られた。日本芸術院賞受賞者。 神奈川県に生まれる。1946年に東京美術学校油絵科を卒業し、同年日展に初入選した。1950年に日展特選を受賞し、1963年には日展審査員を務めた。 風景画や静物画を主に手がけ、日展を主な発表の場とした。1982年には日展内閣総理大臣賞を受賞し、1985年には日展出品作「高原の秋」に対して日本芸術院賞を受賞した。翌1986年には小山敬三賞を受賞した。 山岳、高原、湖沼、都市風景などを主題とし、代表作に「妙高高原新雪」などの風景画を残した。
高橋 剛(たかはし ごう、本名の読み:たかはし たけし、19… 高橋 剛(たかはし ごう、本名の読み:たかはし たけし、1921年(大正10年)8月31日 - 1991年(平成3年)9月5日)は日本の彫刻家。山形県酒田市出身。 バレリーナをモチーフとした彫刻で知られ、昭和30年代(1955年 - 1964年)中頃まで木彫を中心に制作したが後に塑像へ転向した。 1921年(大正10年)8月31日、神社仏閣の木彫を生業とする生家に生まれる。祖父は宮彫師、父は日本美術院所属の仏教彫刻家。父に師事し木彫を始める。 1940年(昭和15年)上京、翌1941年(昭和16年)東京美術学校入学、関野聖雲に師事。1946年(昭和21年)東京美術学校(現東京芸術大学)卒業。 1947年(昭和22年)、第3回日展に初入選。
安谷屋 正義(あだにや まさよし、1921年〈大正10年〉8… 安谷屋 正義(あだにや まさよし、1921年〈大正10年〉8月26日 - 1967年〈昭和42年〉7月29日)は、昭和時代に沖縄県で活躍した洋画家。 東京府北豊島郡滝野川町田端(現・東京都北区田端)に生まれる。1929年(昭和4年)に沖縄県に転居し、沖縄県立第二中学校で比嘉景常の指導を受け、西洋画を志す。1940年(昭和15年)、東京美術学校図案科に入学し、在学時に出征するが、1945年(昭和20年)の敗戦で除隊する。その後、大分県日田市の日田漆器に入社するが、米軍占領下の沖縄に戻り、1948年、首里市儀保町(現・那覇市首里儀保町)のニシムイ美術村に住宅兼アトリエを建てて住む。 1949年、第1回沖縄美術展覧会(沖展)が開かれると、名渡山愛順・大嶺政寛ら戦後第一世代の審査内容に反発し、1950年に安次嶺金正・玉那覇正吉らと「五人会」(1954年に「グループとしての活動の意義が終わった」という理由で解散)を結成した。
笹田 和子(ささだ かずこ、1921年(大正10年)6月30… 笹田 和子(ささだ かずこ、1921年(大正10年)6月30日 - 2007年(平成19年)11月30日)は、日本の声楽家(ソプラノ)、オペラ歌手、音楽教育者。 大阪府大阪市出身。小学生の時に美声をかわれて教会の日曜学校で歌う。1939年(昭和14年)、東京音楽学校(現: 東京藝術大学)予科入学。木下保と原信子に師事。本科の同期には同じ声楽部の内田るり子、石井好子、畑中更予(米田更子)、前田幸市郎、器楽部の森正(指揮者)などがいた。1942年(昭和17年)に卒業と同時に藤原歌劇団に入り、同年11月にワーグナーのオペラ『ローエングリン』ヒロインのエルザでデビューを果たす。以来、同歌劇団で1000回余りの舞台を踏み、ワーグナー『タンホイザー』日本初演のエリーザベトなども務めた。
前田 幸市郎(まえだ こういちろう、1921年(大正10年)… 前田 幸市郎(まえだ こういちろう、1921年(大正10年)6月16日 - 1989年(平成元年)9月18日)は東京都出身の指揮者、大学教授。 東京都生まれ。加賀前田家の支藩である富山藩の前田家、男爵前田利功の三男。 1942年東京音楽学校(現東京藝術大学)声楽科卒業。同研究科にて指揮法を学ぶ。橋本國彦、尾高尚忠、クルト・ヴェスに師事。 NHK交響楽団、東京混声合唱団、神奈川フィルハーモニー管弦楽団等を指揮。 また東京室内混声合唱団、東京大学音楽部コールアカデミーなどの指導に当たった。 教育者として、山形大学、横浜国立大学、東京音楽大学にて教鞭をとった。 息子にチェロ奏者・上野学園大学教授の前田幸康がいる。
藤田 喬平(ふじた きょうへい、1921年4月28日 - 2… 藤田 喬平(ふじた きょうへい、1921年4月28日 - 2004年9月18日)は、東京府豊多摩郡大久保町(現・東京都新宿区百人町)生まれのガラス工芸家。 東京美術学校で彫金を学ぶが、途中でガラス工芸に転向する。その後、イタリアで学んだ色ガラスと金箔を混ぜた飾筥(かざりばこ)で独自のガラス工芸分野を確立した。 1955年の市川市北方に転居。 1989年(平成元年)日本芸術院会員、1997年(平成9年)文化功労者、1999年(平成11年)、市川市名誉市民、2002年(平成14年)文化勲章受章。 宮城県宮城郡松島町(日本三景・松島)に、藤田喬平ガラス美術館がある。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。
室井 摩耶子(むろい まやこ、1921年〈大正10年〉4月1… 室井 摩耶子(むろい まやこ、1921年〈大正10年〉4月18日 - )は、日本のピアニスト。2025年現在、104歳でなお現役の日本最高齢ピアニストである。 東京府(現・東京都)に生まれる。成城小学校に入学した6歳からピアノを始め、小学4年次から高折宮次に師事。1941年、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)を首席で卒業。同校研究科へ進み、レオニード・クロイツァー教授に師事、1943年に修了。 1945年1月、日比谷公会堂での日本交響楽団(NHK交響楽団の前身)の演奏会でソリストを務めてデビュー。終戦後、本格的にリサイタル活動を開始。エリック・サティやデュカスなど多くの作品を日本初演した。
小栗 潮(おぐり うしお、男性、1921年(大正10年)3月… 小栗 潮(おぐり うしお、男性、1921年(大正10年)3月11日 - 2013年(平成25年)6月20日)は、日本画家。日展参与。 佐賀県西松浦郡有田町出身。1944年(昭和19年)東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科卒。同年学徒出陣。1947年(昭和22年)第一作「不忍池」が院展入選。1956年(昭和31年)日展に所属、同年「尾瀬沼畔」入選。翌年、第十三回展において「尾瀬沼」が初の特選を受賞した。1991年、第23回日展にて文部大臣賞を受賞。 山口蓬春、山本丘人らに師事した。2013年6月20日死去、92歳。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。