森 章(もり あきら、1907年12月12日 - 1991年… 森 章(もり あきら、1907年12月12日 - 1991年11月10日)は、日本の経営者。沖電気工業社長、会長を務めた。埼玉県出身。 旧制熊谷中学を経て、1928年に東京高等工業学校電気科を卒業し、同年に沖電気工業に入社。1947年に取締役に就任し、1956年に常務、1963年に専務を経て、1966年11月に社長に就任。1972年11月に会長に就任し、1976年6月に相談役を経て、1979年6月から特別顧問を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1978年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1991年11月10日肺炎のために死去。83歳没。
中山 一郎(なかやま いちろう、1907年(明治40年)7月… 中山 一郎(なかやま いちろう、1907年(明治40年)7月3日 - 1995年(平成7年)6月11日)は、日本の技術者、実業家。日本軽金属社長や、電気化学協会会長、軽金属学会会長、日本アルミニウム連盟(現日本アルミニウム協会)会長等を歴任した。 千葉県千葉市出身。1930年東京工業大学窯業学科卒業。1933年東京工業大学応用化学科卒業。1944年日本軽金属入社。1961年日本軽金属取締役に昇格。1963年日本軽金属常務取締役。1965年日本軽金属取締役副社長。1967年日本軽金属取締役社長、日本ゼオン監査役。1968年藍綬褒章受章。1970年アルミニウム資源開発を設立し同社取締役社長に就任。同年沖縄アルミニウムを設立し同社取締役社長に就任。
堀野 正雄(ほりの まさお、1907年1月22日 - 199… 堀野 正雄(ほりの まさお、1907年1月22日 - 1998年12月24日)は、日本の写真家である。新興写真の主要な担い手の一人。 1907年 (明治40年) 1月22日、東京市京橋区木挽町(現・東京都中央区銀座)生まれ。父・寛次郎、母・千代の四男三女の三男として生まれた。父親は仁和印刷株式会社と質店を合わせて経営しており、堀野の回想によれば非常に新しもの好きだったという。父親が、当時としてはかなり高価なカメラを持っていてアマチュア写真家として熱心に撮影しており、その影響を受けた。 1919年 (大正8年) 築地尋常小学校を卒業、同年芝中学校に入学、この頃から写真に興味を持ち始める。 1923年 (大正12年)、東京・赤坂の演技座で上演された高田雅夫舞踊団の新帰朝第1回舞踊公演を、舞台上の照明のみで、上演の様子をそのまま撮影することに成功、それを高田に見せたところ写真のできを賞賛された縁で、同舞踊団の撮影を続けることになった。
浅野 績(あさの いさお、1906年8月10日 - 1975… 浅野 績(あさの いさお、1906年8月10日 - 1975年2月9日 )は、日本の経営者。キャタピラー三菱社長を務めた。 岡山県総社市出身。1928年に東京高等工業学校工学部機械工学科を卒業し、同年に三菱造船に入社した。1965年5月に三菱重工業取締役に就任し、1966年11月に三菱自動車販売取締役を経て、1968年11月に社長に就任し、1970年1月にキャタピラー三菱社長に就任。 1975年2月9日、激症肝炎のために死去。68歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
関 英男(せき ひでお、1905年(明治38年)10月13日… 関 英男(せき ひでお、1905年(明治38年)10月13日 - 2001年(平成13年)12月16日)は日本の電気工学者。 山形県出身。1932年(昭和7年)東京工業大学電気工学科卒業。逓信省小山送信所勤務、高電力短波送信機の運用保守に従事。1934年(昭和9年) 逓信省福岡受信所勤務、雑音の研究を行う。 1955年(昭和30年) 退官、岩崎通信機技師長に就任。シンクロスコープの開発に尽力。工学博士。東京工業大学・ハワイ大学・電気通信大学・千葉工業大学・東海大学の教授を歴任。電子情報通信学会名誉会員、IEEEフェロー。紫綬褒章、勲三等瑞宝章受章。電波工学の世界的権威として知られ、当時の最先端技術を牽引した。
田中勇(たなか いさむ、1905年(明治38年)1月20日 … 田中勇(たなか いさむ、1905年(明治38年)1月20日 - 2000年(平成12年)2月12日)は、日本の実業家。東京急行電鉄副社長、伊豆急行社長、東亜国内航空社長。五島慶太・昇父子に仕え「東急グループの大番頭」の異名で呼ばれた。
岩岡 次郎(いわおか じろう、1905年 - 1991年)は… 岩岡 次郎(いわおか じろう、1905年 - 1991年)は、日本の自動車技術者。トヨタ自動車工業の製造部長などを経て、アイシン精機の初代社長や会長を務めた。藍綬褒章受章。自動車部品製造事業を確立した。 福岡県出身。1927年東京高等工業学校(のちの東京科学大学)機械科卒業、豊田自動織機製作所入社。豊田喜一郎の紹介により1934年から東北帝国大学に国内留学して成瀬政男に師事し、紡織機製造の傍らで自動車試作などに従事した。その後自動車量産化のため、菅隆俊のもと、豊田英二、齋藤尚一と豊田自動織機製作所挙母工場(のちのトヨタ自動車本社工場)の建設構想にあたった。トヨタ自動車工業設立後は同社製造部長に就任。
松尾 義人(まつお よしと、1904年9月12日 - 196… 松尾 義人(まつお よしと、1904年9月12日 - 1966年10月31日)は、日本の経営者。日本特殊陶業社長を務めた。 長崎県出身。1926年に東京高等工業学校窯業科を卒業。日本碍子での勤務を経て、1937年に日本特殊陶業に転じ、1944年に取締役、1951年8月に常務、1956年11月に専務を経て、1961年11月には社長に就任。 1966年10月31日、狭心症のために在任中に死去。62歳没。
谷口 吉郎(たにぐち よしろう、1904年(明治37年)6月… 谷口 吉郎(たにぐち よしろう、1904年(明治37年)6月24日 - 1979年(昭和54年)2月2日)は、昭和期の建築家である。石川県金沢市出身。
藤久保 三四郎(ふじくぼ さんしろう、1904年5月10日 … 藤久保 三四郎(ふじくぼ さんしろう、1904年5月10日 - 1983年6月2日)は、日本の経営者。日立化成工業社長、会長を務めた。栃木県出身。 1925年に東京高等工業学校電気工学科を卒業し、同年4月に日立製作所に入社。1961年11月に常務、1963年4月には日立化成工業社長に就任。1974年11月に会長に就任し、1977年6月には相談役に就任。 1970年4月に藍綬褒章を受章し、1976年4月に勲三等旭日中綬章を受章した。 1983年6月2日脳出血のために死去。79歳没。
田部 辰(たなべ のぶる、1904年2月20日 - 1994… 田部 辰(たなべ のぶる、1904年2月20日 - 1994年2月9日 )は、広島県出身のサッカー選手、サッカー指導者。 広島県立広島第一中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)を卒業後、東京工業大学応用科学科に入学。また、広島一中出身者で組織された鯉城蹴球団にも所属し、1923年5月に開催された第6回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出されたが、出場機会は無かった。 また、鯉城蹴球団 (鯉城クラブ) のフォワードとして清水直右衛門や深山静夫、香川幸らと共に1924年の第1回明治神宮競技大会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第4回天皇杯全日本サッカー選手権大会)および1925年の第2回明治神宮競技大会兼ア式蹴球全國優勝競技會(第5回天皇杯全日本サッカー選手権大会と2年連続での優勝に貢献した。
長谷 長次(はせ ちょうじ、1903年(明治36年)8月23… 長谷 長次(はせ ちょうじ、1903年(明治36年)8月23日 - 1977年(昭和52年)12月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。弁護士。 石川県出身。1926年東京高等工業学校電気化学科卒。司法官試補となり、検察官となる。 1937年の第20回衆議院議員総選挙で石川1区から立候補して当選する。1942年の総選挙(いわゆる翼賛選挙)では非推薦で立候補して落選した。戦後第1回の1946年の第22回衆議院議員総選挙で石川県(全県1区)から立候補したが、次点で落選。翌1947年の第1回北海道知事選挙(1947年北海道庁長官選挙)で無所属で立候補したが落選した。1949年の総選挙と1950年の参院選に北海道から立候補したが、いずれも落選。
白澤 富一郎(しらさわ とみいちろう、1903年(明治36年… 白澤 富一郎(しらさわ とみいちろう、1903年(明治36年)6月16日 - 1990年(平成2年)11月6日)は、日本の電気技術者、実業家。東京電力副社長や、日本原子力発電社長、同社会長、日本原子力産業会議副会長等を務めた。 1926年東京高等工業学校(現東京工業大学)電気科卒業。東京電力副社長を経て、1970年から日本原子力発電取締役社長を務め、もんじゅへの技術協力などを進めた。1977年日本原子力発電取締役会長。1978年蔵前工業会理事長。1982年日本動力協会会長。日本原子力産業会議副会長、原子力委員会新型転換炉実証炉評価検討専門部会長等も歴任した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
鈴木 松雄(すずき まつお、1903年(明治36年) - 1… 鈴木 松雄(すずき まつお、1903年(明治36年) - 1978年(昭和53年)9月6日)は、日本の実業家、工学者。東京工業大学電気工学科教授。工学博士(東京帝国大学)。昭和電線電䌫(現・昭和電線ホールディングス)社長・会長・相談役やCQ出版社長、多摩電気工業(現・KOA (企業))社長などを歴任した。
木谷 龍吉(きたに りゅうきち、1902年(明治35年)12… 木谷 龍吉(きたに りゅうきち、1902年(明治35年)12月8日 - 没年不明は、日本の技術者(化学者)。 福井県敦賀郡(現:敦賀市)出身。東京高等工業学校応用化学科(現:東京科学大学)を卒業し、東京電気株式会社(現:東芝)に入社。東芝マツダ研究所の主任研究員を務め、東芝の電球ブランド「マツダ」の化学的基礎研究を行った。 1936年(昭和11年)に照明学会発達調査委員会の委員となる。。 父は敦賀二十五銀行主任の木谷滋治郎。従兄弟は旅順工科大学教授の木谷要一。東京電気入社直後は親族で外務省の成田五郎宅に居住していた。
蘇 歩青(そ ほせい、1902年9月23日 - 2003年3… 蘇 歩青(そ ほせい、1902年9月23日 - 2003年3月17日)は、中国の数学者。復旦大学名誉学長。中国数学会名誉理事長。元中国科学院院士。創価大学名誉博士。 浙江省温州市平陽の山間部の農家に生まれる。浙江省立第十中学校(のちの浙江省温州中学(英語版))に首席で合格して学費全額免除を得て卒業後、1919年から日本に留学した。 1920年に兄が通っていた東京高等工業学校(のちの東京科学大学)電気科に進学。在学中関東大震災で被災したものの生き残り、1924年に卒業し、東北帝国大学理学部数学科に進学した。 仙台では止宿先が同じ家だった茅誠司(のちに東京大学総長)と親しくなり、第二次世界大戦後も交友が続いた。
倉田 元治(くらた もとはる、1901年(明治34年)7月2… 倉田 元治(くらた もとはる、1901年(明治34年)7月22日 - 1989年(平成元年)3月19日)は、日本の技術者、実業家。旭硝子(現AGC)社長や、同社会長、日本ソーダ工業会会長などを務めた。 福島県会津若松市で豪商倉田為実の家系に生まれる。会津中学校(現福島県立会津高等学校)を経て、1925年東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科卒業、旭硝子入社。三菱化成工業尼崎工場長在任中の1945年には尼崎工業会初代会長に就任した。1946年尼崎商工会議所副会頭。 1950年旭硝子常務取締役。1961年日本建鉄取締役、日本光学工業取締役。1963年旭硝子副社長。1967年から旭硝子社長を務めた。
本間 嘉平(ほんま かへい、1901年 <明治34年> 6月… 本間 嘉平(ほんま かへい、1901年 <明治34年> 6月17日 - 1993年 <平成5年> 1月16日)は、日本の経営者。大成建設社長を務めた。位階は従四位。 福島県出身。1922年に東京高等工業学校建築学科を卒業し、同年に大成建設に入社。1947年3月に取締役に就任し、1950年6月に常務、1957年5月に専務を経て、1960年12月に副社長に就任し、1963年5月に社長に昇格。1969年5月に会長に就任し、1973年5月から相談役を務めた。 1971年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 1993年1月16日心不全のために死去。91歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
重盛 寿治(しげもり としはる、1901年〈明治34年〉4月… 重盛 寿治(しげもり としはる、1901年〈明治34年〉4月29日 - 1997年〈平成9年〉12月14日)は日本の労働運動家。政治家。参議院議員(2期)、衆議院議員(1期)。 長野県上伊那郡西箕輪村(現伊那市)生まれ。大正8年(1919年)旧制蔵前工業専修学校(東京工業大学附属科学技術高等学校)建築学科卒業。昭和9年(1934年)東京市電気局自動車課に入局し、同年の労働争議に参加。同14年(1939年)東京交通労働組合の大会で常任委員に就任し、翌15年(1940年)同組合中央執行委員長に就任。 同20年(1945年)日本社会党に参画し、前記の労働組合を再建し、初代中央執行委員長に就任。同25年(1950年)第2回参議院議員通常選挙に東京都選挙区から出馬し初当選。
尾見 半左右(おみ はんぞう、1901年4月5日 - 198… 尾見 半左右(おみ はんぞう、1901年4月5日 - 1985年1月30日)は、日本の通信技術者。富士通の常務取締役、電気通信学会及び情報処理学会の会長などを歴任。 茨城県真壁郡明野に生誕。1923年、東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業。南満州鉄道の鉄道研究所に入社し、電気通信の研究に従事する。1936年、富士通信機製造株式会社に入社。情報・通信の技術開発・研究に従事し、同社の取締役、常務取締役、富士通研究所の代表取締役社長などを歴任。その他、鉄道通信協会の副会長、電気通信学会会長、情報処理学会会長、神戸工業株式会社の取締役社長、富士電機化学株式会社の代表取締役社長なども務めた。 情報・通信分野で技術発展・産業振興に国内外で広く尽力し、国産大型電子計算機の開発にとくに貢献した。
小川 安朗(おがわ やすろう、1901年2月7日 - 199… 小川 安朗(おがわ やすろう、1901年2月7日 - 1991年3月20日)は、日本の服飾学者、文化女子大学名誉教授。 長野県諏訪郡永明村(現茅野市)出身。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、東京高等工業学校(現・東京工業大学)色染科卒業。陸軍被服本廠理化学部長、研究部長。戦後は繊維会社に勤務し繊維を研究、1962年文化女子短期大学教授、1964年文化女子大教授兼任。1972年定年退任、名誉教授。 世界各地の民族衣装を研究、1964年ヨーロッパ7か国を回り、57か国で研究、死去の直前まで中国雲南省で研究していた。
蕗沢 紀志夫(ふきざわ きしお、1901年 - 1981年)… 蕗沢 紀志夫(ふきざわ きしお、1901年 - 1981年)は、日本の応用化学者、翻訳家。出生名は、蕗沢喜芳(ふきざわ のぶよし)。妻は同じく翻訳家の蕗沢忠枝。 長野県東筑摩郡芳川村野溝(現・松本市)出身。東京高等工業学校附設工業教員養成所・応用化学科を卒業した後、学校現場で理科・化学を教えるとともに、30代のころに高名な応用化学者たちとの共著書を著していることから、専門性に秀でた化学者であったとうかがえる。30代の終わりごろ、戦時中に『国策線上の理化教材』を著す中で「理化教育の国策化」を教育目標に掲げており、当時の皇国教育の立場に立っていた。敗戦後、民主教育の導入に伴う教師たちの思想的転向が一般的であった中で、蕗沢も例外でなかったと考えられる。
谷口 忠(たにぐち ただし、1900年(明治33年)12月8… 谷口 忠(たにぐち ただし、1900年(明治33年)12月8日 - 1995年(平成7年)12月11日)は、昭和期の建築学者である。
佐伯 仁三郎(さえき じんざぶろう、明治33年(1900年)… 佐伯 仁三郎(さえき じんざぶろう、明治33年(1900年)9月27日 - 昭和49年(1974年)7月31日)は、日本の歌人、国文学者。文学博士。 祖父は儒学者正墻適処。兄は歌人佐伯新一郎。 鳥取県倉吉市仲ノ町に教育者佐伯元吉の三男として生まれた。 鳥取師範(現鳥取大学地域学部)、東京高等工業学校(現東京工業大学)を経て1937年早稲田大学文学部卒業。新聞記者や満州国官吏を歴任し、1960年「歴代和歌の詞に関する論文」で文学博士の学位を得る。 1926年歌誌『国民文学』に入社。「論の佐伯、作の新免(新免忠)」といわれ、『短歌雑誌』の歌壇批評で中央歌壇から注目された。 1935年歌誌『槻の木』に入社し窪田空穂に師事、戦後は歌誌『珊瑚礁』『樹木』同人、また『花冠』を主宰する傍ら多くの雑誌に短歌論を発表してその地位を不動のものとした。
チョウ・ディン(Kyaw Din、1900年6月 - 没年不… チョウ・ディン(Kyaw Din、1900年6月 - 没年不詳)は、イギリス統治下のビルマ(現ミャンマー)出身のエンジニア、陸上競技選手、日本のサッカー指導者。日本に留学中の1920年代に、日本サッカーの技術、戦術の伝統の基礎を作ったとして知られる。名をモン・チョー・ディンとする資料もある。 チョウ・ディンの経歴は断片的に調査・紹介されているものの、1920年代前半の日本への留学時代以外については不明な点が多い。第一次世界大戦では宗主国であったイギリスの兵士として従軍し、負傷したという。 チョウ・ディンは走高跳の選手だったが、ミャンマーは他の東南アジア同様、古くからサッカーが盛んであり、チョウ・ディンもショートパス戦法を編み出したスコットランド人にサッカーを学んだという。
古賀 逸策(こが いっさく、1899年〈明治32年〉12月5… 古賀 逸策(こが いっさく、1899年〈明治32年〉12月5日 - 1982年〈昭和57年〉9月2日)は、日本の電気通信工学者。東京工業大学および東京大学名誉教授。 佐賀県三養基郡田代村(現・鳥栖市)生まれ。熊本中学校、第五高等学校、東京帝国大学卒業。東京工業大学、東京大学の教授を歴任し、東京工業大学及び東京大学名誉教授。東京大学を退官してからは国際電信電話に移籍し研究職を続けた。 水晶結晶(クォーツ)を用いた圧電効果の研究が多くある。無線通信に用いる水晶振動子において温度変化の影響を受けない水晶振動子を開発し、さらに分周器(プリスケーラ)を発明し日本初のクォーツ時計を製作するなど現在の水晶振動子利用の基礎を築いた。
大久保 謙(おおくぼ けん、1899年4月18日 - 198… 大久保 謙(おおくぼ けん、1899年4月18日 - 1986年3月26日)は、日本の実業家。三菱電機代表取締役社長や、日本電機工業会会長、日本兵器工業会会長、日本電子機械工業会会長などを歴任した。正四位勲二等旭日重光章。 栃木県出身。1921年東京高等工業学校(のちの東京科学大学)機械科卒業。1924年東北帝国大学工学部電気工学科卒業、三菱電機入社。姫路工場長、営業部長を経て、1954年取締役事業部長に昇格。 1964年から三菱電機社長を務め、兵器事業の強化にあたった。1965年藍綬褒章受章。 1970年三菱電機会長。1971年蔵前工業会理事長。日本電機工業会会長、日本兵器工業会会長、日本電子機械工業会会長も歴任。
篠原 昌三(しのはら しょうぞう、1899年3月9日 - 1… 篠原 昌三(しのはら しょうぞう、1899年3月9日 - 1986年)は、日本の通信技術者、実業家。 篠原多一郎の三男として福岡市に生まれる。1918年福岡県立中学修猷館を経て、1922年7月東京高等工業学校(現・東京工業大学)電気科を卒業。 卒業後、朝鮮総督府逓信局の技手となる。同局において放送用無線電話(ラジオ放送)の調査研究と知識普及のために、官営の実験用無線電話局を開設することが計画され、篠原にその任務が命ぜられる。1924年1月に東京に赴き、技術修得と共に、通信機器を調達、京城に戻り、通信設備工事と機器調整を行い、同年11月、朝鮮半島最初の放送電波を発射した。1926年11月京城放送局(コールサイン「JODK」)が設立され、篠原はその技術責任者として通信設備を構築し、1927年2月16日、1kw放送設備での本放送が開始された。
臼井 芳一(うすい よしかず、1899年1月28日 - 19… 臼井 芳一(うすい よしかず、1899年1月28日 - 1980年2月9日)は、日本の経営者。伊奈製陶(INAXを経て、現在のLIXIL)社長を務めた。 栃木県栃木市出身。1921年に東京高等工業学校窯業学科を卒業した。 日本陶器(ノリタケカンパニーリミテドを経て、現在のノリタケ)での勤務を経て、1924年に伊奈製陶に転じ、1933年に取締役、1948年9月に常務を経て、1963年12月に社長に就任した。1968年10月、相談役に就任した。 1967年10月に藍綬褒章を受章した。 1980年2月9日、脳梗塞のため死去した。81歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
山県 道義(やまがた みちよし、1899年(明治32年) -… 山県 道義(やまがた みちよし、1899年(明治32年) - 没年不明)は、日本の発明家。 広島市出身。広島工業学校を卒業し、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)に在籍した。その後、陸軍運輸部、合資会社天洋工業所技師長を経て、1928年に大阪市港区で山縣機械工作所(現在の山縣機械)を創業し、写真製版用腐食機械の設計製造を始めた。
木下 義謙(きのした よしのり、1898年10月19日 - … 木下 義謙(きのした よしのり、1898年10月19日 - 1996年7月16日)は、日本の洋画家。一水会創立会員、女子美術大学名誉教授。 東京市四谷区生まれ。同じく画家の木下孝則は実兄。父の友三郎は明治大学総長。母方の叔父の児島善久雄は西洋美術史家。 1915年、学習院中等科を卒業、同年東京高等工業学校(現東京工業大学)機械科に入学、1918年に卒業、1919年から同学校助教授となった。油彩画は独学ではじめたが、同学校を辞職した1921年の第8回二科展に「兄の肖像」が初入選した。その後は、二科展に出品をつづけ、1926年の第13回展では、「N氏の肖像」等7点を出品、二科賞を受賞した。 また、萬鉄五郎、小林徳三郎が中心となって結成された円鳥会に参加、1923年の第1回展から1925年の第4回展まで出品した。
津村 利光(つむら としみつ、1898年8月9日 - 198… 津村 利光(つむら としみつ、1898年8月9日 - 1989年10月3日)は、昭和期の機械工学者である。専門は材料力学。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
吉本 熊夫(よしもと くまお、1898年(明治31年)1月2… 吉本 熊夫(よしもと くまお、1898年(明治31年)1月24日 - 1959年(昭和34年)9月19日)は、日本の実業家。日本ガイシ代表取締役社長や、愛知県経営者協会会長を務めた。 山口県下松市出身。1919年東京高等工業学校(現東京工業大学)電気科卒業。1948年日本碍子社長。1950年初代昭和法人会会長、名古屋地方国有鉄道調停委員会委員。1955年化学工学会東海支部長、経済審議会委員。1958年愛知県経営者協会会長。1959年急逝、正五位勲三等瑞宝章。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
篠崎 平馬(しのざき へいま、1898年 - 1981年)は… 篠崎 平馬(しのざき へいま、1898年 - 1981年)は、日本の化学工学者。元山形大学学長。 茨城県生まれ。東京高等工業学校(現東京工業大学)応用化学科を経て、1923年東北帝国大学工学部化学工学科卒業。同年助手。1927年商工省東京工業試験所入所。1928年理学博士。1933年保土谷曹達入社。保土谷曹達郡山工場長を経て、1952年山形大学工学部応用化学科教授。1955年山形大学工学部長。1963年山形大学学長。山形大学工学部に化学工学科を設立し、退官後は、山形大学名誉教授の称号を受け、日本大学工学部工業化学科教授となった。1981年郡山市内の病院で死去。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
橋本 彦七(はしもと ひこしち、1897年(明治30年)8月… 橋本 彦七(はしもと ひこしち、1897年(明治30年)8月11日 - 1972年(昭和47年)9月12日)は、日本の政治家、技術者。熊本県水俣市長(4期)。日本窒素肥料株式会社(現・チッソ)水俣工場勤務時代、水銀触媒を用いたアセトアルデヒドと酢酸の合成法を発明。1938年(昭和6年)から1946年(昭和21年)まで水俣工場長を務めた。 現在の北海道札幌市に南部家の四男として生まれる。旧制札幌第一中学校卒業後、1916年(大正5年)、東京市日本橋在住の橋本家の養子となる。1919年(大正8年)、東京高等工業学校電気化学科(現・東京工業大学)卒業。同年、日本窒素肥料(現・チッソ)に入社。 1931年(昭和6年)、橋本らは、カーバイトからアセチレンを作り,これを水銀触媒を使ってアセトアルデヒドに変える一連の合成方法を発明し、特許原簿に登録した。
常葉 隆興(ときわ たかおき、1897年 - 1977年9月… 常葉 隆興(ときわ たかおき、1897年 - 1977年9月20日)は、日本の牧師、神学者。日本キリスト改革派教会の創立者の一人。 山形県の新庄藩の士族の常葉作太郎とその妻常葉ノブの長男として生れる。父は上山小学校校長であった。1915年(大正4年)沖縄県立第一中学校を卒業。東京高等工業学校(現東京工業大学)に入学。 1918年(大正7年)に父が死去。叔父の常葉金太郎によってキリスト教信仰に導かれ、同年1918年、日本基督教会の指導者植村正久牧師より富士見町教会にて洗礼を受ける。 1920年(大正9年)、植村正久の創立した東京神学社に入学、1923年(大正12年)に卒業。同級生に熊野義孝。小野村林蔵牧師の司式で結婚する。
鹿島 透(かしま とおる、1896年(明治29年)12月2日… 鹿島 透(かしま とおる、1896年(明治29年)12月2日 ‐ 1980年(昭和55年)1月24日) は、大正末から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。 宮崎県児湯郡上穂北村穂北(西都町を経て現西都市穂北)で、鹿島栄三郎の三男として生まれた。1923年(大正12年)東京高等工業学校(現東京工業大学)附設工業教員養成所を卒業した。 宮崎県、大阪市の小学校訓導、宮崎県立宮崎工業学校(現宮崎県立宮崎工業高等学校)長兼教諭、青年学校視学委員、宮崎県教育会長、同県建設業協会長、国土計画審議会委員、上代日向研究所委員、日本教育会宮崎県副支部長、宮崎県教育委員長などを務めた。 1946(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に宮崎県全県区から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任した。
北尾 春道(きたお はるみち、 1896年(明治29年)12… 北尾 春道(きたお はるみち、 1896年(明治29年)12月1日 - 1973年(昭和48年)9月1日)は、昭和時代の日本の建築家、数寄屋(茶室)建築学者。東京高等工業学校 (現・東京工業大学)卒。大阪府出身。 大阪府南河内郡北八下村(現・堺市北区の一部および松原市の一部)の北尾吉郎兵衛(浄郭)の四男として生まれる。 父は社寺・楼閣建築に携わるも、春道の9歳の時(1904年・明治37年)には本願寺門跡の僧侶となったため、春道も同時に本願寺の衆徒となった。また春道の初名は春吉であったが、同年に名を改めている。 春道は上京し東京高等工業学校 (現・東京工業大学)に入学、伊東忠太のもと建築設計の実務に携わり、伊東のヨーロッパ旅行にも同行した。
山田 延男(やまだ のぶお、1896年〈明治29年〉6月4日… 山田 延男(やまだ のぶお、1896年〈明治29年〉6月4日 - 1927年〈昭和2年〉11月1日)は、日本の科学者。フランスのラジウム研究所(後のキュリー研究所)で物理学者であるマリ・キュリーに師事し、その長女の物理学者イレーヌ・ジョリオ=キュリーらと共に放射能の研究に貢献。研究に伴う放射線障害により死去した。ラジウム研究所に留学した最初の日本人であり、放射線化学研究の犠牲となって死去した最初の日本人とされる。 戦前の日本は放射能研究の範囲が狭かったため、日本国内ではマリ・キュリーの偉業とは対照的に、山田の留学や死についてほとんど知られていなかった。山田に関する資料の大部分が関東大震災や東京大空襲で焼失したことも、その一因である。
栗西 清(くりにし きよし、1896年3月30日 - 197… 栗西 清(くりにし きよし、1896年3月30日 - 1970年11月11日)は、日本の経営者。 東京都出身。1917年に東京高等工業学校応用化学科を卒業し、同年に大日本人造肥料(のちの日産化学工業)に入社。1947年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1957年から1962年までに社長を務めた。 1967年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1970年11月11日脳軟化症のために死去。74歳没。
狩野 春ー(かのう はるかず、1896年(明治29年)3月5… 狩野 春ー(かのう はるかず、1896年(明治29年)3月5日 - 1985年(昭和60年)10月19日)は、日本の建築学者。セメントコンクリートの基礎的研究を大成した。 滋賀県生まれ。東京工業大学などで建築材科学を学問的に位置づけ、後進の教育・育成にあたる。東京工業大学教授を退職後も明治大学工学部建築学科の発足により教授として同大学建築学科の発展に尽くし、さらに工学院大学教授も歴任、多数の研究者、技術者の育成に尽くし特に学閥にとらわれることなく多数の研究者、技術者の育成に尽くした。 旧建設省営繕審議会委員、日本建築学会の材料施工委員会委員のほか建材試験センター、日本シーリング工業界、全日本プレハブ建築防水協会等々の各顧問として広く建築界に貢献した。
各務 鑛三(かがみ こうぞう、1896年3月3日 - 198… 各務 鑛三(かがみ こうぞう、1896年3月3日 - 1985年12月3日)は、日本のガラス工芸家。カガミクリスタル創業者。日本藝術院賞受賞。岩田藤七と並び、ガラス工芸を美術品の領域まで高めた。 岐阜県土岐郡笠原町(現多治見市)出身。1913年、愛知県立瀬戸陶器学校(のちの愛知県立瀬戸工科高等学校)卒業。1914年、東京高等工業学校(のちの東京科学大学)附設工業教員養成所工業図案科選科修了。同期の芹沢銈介、1期下の濱田庄司とは生涯交友を持った。同年同校雇員、1917年、同校窯業科嘱託教員。平野耕輔の移籍に伴って、1920年、南満洲鉄道窯業試験所入所。1927年からドイツ・シュツットガルト美術工芸学校に留学し、ウィルヘルム・フォン・アイフ校長に師事。
沼畑 金四郎(ぬまはた きんしろう、1895年(明治28年)… 沼畑 金四郎(ぬまはた きんしろう、1895年(明治28年)5月22日 - 1970年(昭和45年)11月26日)は、日本の生活科学者である。旧姓は佐藤。 青森県に生まれ、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)附属の工業教員養成所に入学する。1918年(大正7年)に卒業後は、1926年(大正15年)に大妻高等女学校(現在の大妻中学校・高等学校)にて教師として活動した。その後は同学校付属の技芸学校で教鞭を執り、1933年(昭和8年)には東京女子経済専門学校(現在の新渡戸文化短期大学)の教授となり1970年(昭和45年)の定年退職および死去までその職にあたった。 またその傍らで文化女子大学(現在の文化学園大学)でも教鞭を執り、文部省家庭教科書検定調査委員や編集委員、工業技術庁日本工業標準規格調査委員等も兼任する。
石毛 郁治(いしげ いくじ、1895年5月18日 - 198… 石毛 郁治(いしげ いくじ、1895年5月18日 - 1981年9月1日)は、日本の化学技術者、実業家。東洋高圧工業(現三井化学)社長や、三井化学工業社長を務めた。 千葉県海上郡飯岡町(現旭市)生まれ。1912年飯岡小学校代用教員。1917年東京高等工業学校(現東京工業大学)応用化学科卒業、三井鉱山入社。肥料用尿素の大量生産法の開発に成功し、1947年から東洋高圧工業社長を務め、1963年には会長に就任。1964年蔵前工業会理事長。1965年飯岡町名誉町民第1号。1966年からは三井化学工業社長を務め、1968年には東洋高圧工業と三井化学工業の合併にあたった。紺綬褒章、藍綬褒章、勲二等旭日重光章受章。
芹沢 銈介(芹澤銈介、せりざわ けいすけ、「けい」は金偏に圭… 芹沢 銈介(芹澤銈介、せりざわ けいすけ、「けい」は金偏に圭、1895年(明治28年)5月13日 - 1984年(昭和59年)4月5日)は、日本の染色工芸家。
林 茂助(はやし もすけ、明治28年(1895年)4月29日… 林 茂助(はやし もすけ、明治28年(1895年)4月29日 - 平成2年(1990年)10月4日)は、日本の化学者、理学博士、東京工業大学名誉教授、鶴岡工業高等専門学校初代校長。
中安 閑一(なかやす かんいち、1895年〈明治28年〉4月… 中安 閑一(なかやす かんいち、1895年〈明治28年〉4月5日 - 1984年〈昭和59年〉1月31日)は、日本の経営者。宇部興産株式会社(現:UBE株式会社)会長、経済団体連合会常任理事、日本経営者団体連盟常任理事、経済企画庁経済審議会専門委員、産業機械統制会理事技術部長。 山口県宇部市出身である。宇部尋常高等小学校を卒業後、山口中学校に入学。中学時代は模型飛行機作りに熱中しながら勉学に励んだといい、卒業後は機械工学を学ぶため東京高等工業学校機械科(現・東京工業大学工学部)に入学した。 1918年(大正7年)3月に東京高等工業を卒業すると、三菱重工業に入社した。当時は戦争景気に沸き高給を約束してくれる会社も多かったが、当時三菱がイスパノシーザーと呼ばれる飛行機を製造していたことから入社を決めたという。
遠山 静雄(とおやま しずお、1895年2月15日 - 19… 遠山 静雄(とおやま しずお、1895年2月15日 - 1986年11月10日)は、日本の照明技師。舞台照明の草分け。広島県出身。 1915年東京高等工業学校(現東京工業大学)電気科卒。東京電気(現東芝)に4年半勤務のち退職して演劇の道に入る。1920年、田中良を主唱者とする舞台美術会(トンボヤの会)に土方与志、伊藤憙朔らと共に参加。「私がやらなければ恐らく誰もやらないだろう」と1920年から本格的に舞台照明に関わる。1921年から新劇、新歌舞伎、新舞踊の舞台照明を担当。当時未開であった舞台照明の研究と確立を目指し、その実践を行うため1929年、小川昇、神保道臣等と共に「遠山照明研究所」(TIL)を創設した。
織本 道三郎(おりもと みちさぶろう、1895年 - 197… 織本 道三郎(おりもと みちさぶろう、1895年 - 1974年)は、日本の構造家・構造設計技術者・発明家・全国建築士事務所連合会(現:日本建築士事務所協会連合会)初代会長・織本建築設計計算事務所創立者。織本匠は義子。 1895年、栃木県南河内町(現宇都宮市)に生まれる。 1916年に、東京高等工業学校(現・東京工業大学)建築科を卒業し、鉄道省に入省した。 1923年に織本建築設計計算事務所(現・織本総合建築設計)を下根岸に開設した。日本で最初の建築構造体の設計監理を業務とする建築事務所といわれる 1952年に鉄骨大張間の特殊組方・木造接手の改良およびその他の発表考案により藍綬褒章を受章。 1962年に全国建築士事務所連合会初代会長に就任した。
濱田 庄司(はまだ しょうじ、1894年〈明治27年〉12月… 濱田 庄司(はまだ しょうじ、1894年〈明治27年〉12月9日 - 1978年〈昭和53年〉1月5日、本名象二)は、主に昭和時代に活躍した日本の陶芸家。民藝運動の中心的な活動家の一人であり、栃木県益子町に定住し、益子焼の中興の祖となった。 長男の濱田琉司は毎日新聞社記者。次男の濱田晋作、三男の濱田篤哉、孫(晋作の次男)の濱田友緒はいずれも陶芸家、四男の濱田能生は硝子工芸家。 神奈川県橘樹郡高津村(現・川崎市高津区溝ノ口)で、濱田久三の子として、母の実家である太田医院で生まれる。東京府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)を経て、1913年(大正2年)、東京高等工業学校(後の東京工業大学)窯業科に入学、板谷波山に師事し、窯業の基礎科学面を学ぶ。