瀬川 清子(せがわ きよこ、1895年(明治28年)10月2… 瀬川 清子(せがわ きよこ、1895年(明治28年)10月20日 - 1984年(昭和59年)2月20日)は日本の民俗学者。元大妻女子大学教授。秋田県出身。日本の女性民俗学者の草分けのひとり。 1895年(明治28年)に秋田県鹿角郡毛馬内町(現鹿角市)で岩船源太郎、スケ夫妻の長女として誕生する。本名はキヨ。母は、産後の肥立ちが悪く、キヨが1歳になる前に亡くなった。里子に出されたが、父が後妻を迎え、実家に戻った。その後は、同居している叔母や祖父がキヨの教育を行い、1909年(明治42年)、14歳の時に毛馬内尋常高等小学校を卒業。準教員検定準備場を経て、母校の小学校などに勤務したのち、1915年に尋常小学校本科正教員の免許を取得し,毛馬内小学校はじめ、いくつかの学校で訓導として働きながら、1917年(大正6年)には、同じく教師として働いていた瀬川三郎と結婚した。
柳川 宗左衛門(宗左衞門、やながわ そうざえもん、1895年… 柳川 宗左衛門(宗左衞門、やながわ そうざえもん、1895年〈明治28年〉7月21日 - 1978年〈昭和53年〉11月8日)は、明治期から昭和期にかけての地主であり、醤油醸造家、実業家、政治家。衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)。 常陸国鹿島郡の日川砂漠を開拓した柳川宗左衛門秀勝の孫(四代目)。 茨城県鹿島郡若松村大字柳川新田(現:神栖市柳川)に、農業や醤油醸造業を営む第三代・柳川宗左衛門の長男・謙一として生まれる。1911年(明治44年)家督を相続。1913年(大正2年)東京市の京北中学校(現・東洋大学京北中学高等学校)を卒業した。 父が小作人のために設立した産業組合、柳川信用販売組合を継承し発展させた。
鄭 重燮(チョン・ジュンソプ、朝鮮語: 정중섭、1895年3… 鄭 重燮(チョン・ジュンソプ、朝鮮語: 정중섭、1895年3月6日または1898年3月6日 - 1978年2月27日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、教育者、警察官、政治家。第3・4代韓国国会議員。 咸鏡南道利原郡出身。京城高等工業専門学校(朝鮮語版)応用化学科卒、在学中は独立運動に関与して数回拘束された。東洋大学東洋倫理哲学科卒または3年修了。間島で東興中学校を設立し、教員・校長を務め、左翼団体である平友同盟にも参加したが、5・20間島暴動により避難し帰国した。その後は高城警察署刑事部長、北青工業学校教員・校長、北青産業学校・北青中学校教員、木浦工業学校(朝鮮語版)校長、光州西公立中学校(現・光州第一高等学校(朝鮮語版))校長、木浦商業学校(現・全南大学校)校長、全南大学校商科大学学長、全羅南道学務課長・教育局長、全南教育会創立初代会長、民主党中央委員、株式会社ラジオ木浦発起人・初代代表理事、初代木浦MBC社長、新民党中央委員会議長、共和党常任委員を務めた。
小泉苳三(こいずみ・とうぞう、1894年4月4日 - 195… 小泉苳三(こいずみ・とうぞう、1894年4月4日 - 1956年11月27日)は大正・昭和期日本の歌人、国文学者。文学博士。本名は小泉藤造。別号は小泉藤三。 神奈川県横浜市に生まれる。1917年(大正6年)に東洋大学国文学科を卒業。苦学し、23歳で中等学校国語国文科教員無試験検定合格、33歳で高等学校国語科教員検定に合格する。いずれも、当時はかなりの難関試験であった。 立命館大学・関西学院大学、一時は国立北京師範大学教授をも兼任する。専攻は国語国文学(近代短歌史)。古典から近代まで研究対象は多岐にわたり、『明治大正短歌資料大成』は貴重な資料として評価が高い。 和歌は尾上柴舟に師事し、歌誌『車前草』をへて『水甕』の同人となる。
本多 鋼治(ほんだ こうじ、1893年(明治26年)12月1… 本多 鋼治(ほんだ こうじ、1893年(明治26年)12月15日 - 1964年(昭和39年)12月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、愛知県会議員(4期)、愛知県議会議長(1期)などを務めた。 文芸評論家の本多秋五、陶芸研究家の本多静雄は弟。衆議院議員の伊藤よし子は義妹。 愛知県西加茂郡上郷村花本(現・豊田市花本町)に生まれる。父親の本多松三郎は上郷村長を務めた。挙母尋常高等小学校(現・豊田市立童子山小学校)卒業。1912年(明治45年)、京北中学校(現・東洋大学京北中学高等学校)卒業。 1927年(昭和2年)9月25日の愛知県会議員選挙に西加茂郡選挙区から立憲民政党公認候補として出馬し初当選した。
栗山 津禰(くりやま つね、1892年(明治25年)11月1… 栗山 津禰(くりやま つね、1892年(明治25年)11月11日 - 1964年(昭和39年)1月4日)は、日本の教育者。紫式部や源氏物語の研究者。また、日本で最初に私立大学に入学した女子学生でもあった。 1892年(明治25年)11月11日、山形市で栗山判兵衛と清の次女として生まれる。 山形県立山形高等女学校卒業後、1914年(大正3年)4月に上京。国語学伝習所、二松学舎に学んだ。 1916年(大正5年)4月、東洋大学大学部第二科に入学。専門学校令に基づく私立の旧制専門学校は男子専門学校とみなされていたが、東洋大学は入学を認めた。私立の高等教育機関として初めての女子生徒(学生)となった。 「目下数多い男学生の中に五名のうら若い女学生が混り、男も恥る程の真面目の研究振りを見せて夫々特色を発揮されて居ます。
常光 浩然(つねみつ こうねん、1891年5月12日 - 1… 常光 浩然(つねみつ こうねん、1891年5月12日 - 1973年11月29日)は、仏教ジャーナリスト、浄土真宗本願寺派の僧。 広島県出身。1914年東洋大学理学教育学科卒。1923年から26年東洋大学社会事業科幹事を務め、26年から1930年にかけて中山文化研究所理事。この間、1928-29年欧米の宗教教育事情を視察。1930年東京中野に日米ホームを創立、1941年まで在米日系人の子供を教育した。1946年広島県で「仏教タイムス」を創刊。1952年第2回世界仏教徒会議事務局長。55年仏教タイムス社を創設、61年社長。1968年仏教伝道文化賞受賞。
島津 久基(しまづ ひさもと、1891年(明治24年)4月1… 島津 久基(しまづ ひさもと、1891年(明治24年)4月16日 - 1949年(昭和24年)4月8日)は、国文学者。東洋大学教授、東京大学教授、文学博士。 生家は島津氏分家・花岡島津家。鹿児島県鹿児島市の天文館通りにあった花岡島津屋敷で生まれ育つ。鹿児島県立第一鹿児島中学校(旧制)を経て、第七高等学校造士館(旧制)に進み、1913年に卒業。1916年東京帝国大学文科大学を卒業。東大在学中、芳賀矢一の知遇を受ける。また、成績優秀のため、卒業時に恩賜銀時計を受ける。大学院に入り勉学を続ける。 1919年日本大学講師となり、同年第一高等学校(旧制)教授となった。1922年、母校の東京帝国大学助教授となったが、1924年に病気のため休職し1926年に退職。
渡辺 素舟(渡邊 素舟、わたなべ そしゅう、1890年11月… 渡辺 素舟(渡邊 素舟、わたなべ そしゅう、1890年11月16日 - 1986年1月16日)は、工芸研究者。 愛知県西春日井郡新川村(現・清須市)出身。本名は清重郎。1916年東洋大学専門部哲学科卒。1931年帝国美術学校講師、多摩帝国美術学校教師、1939年東京高等工芸学校講師、1948年多摩造形芸術専門学校教授。1953年校名変更で多摩美術大学教授、1965年定年退任、名誉教授。1961年「東洋文様史の研究」で東洋大学文学博士。日本工芸会評議員。東洋に伝わる建造物や工芸品、着物の文様を系統的に研究した先駆者。
陳 群(ちん ぐん、1890年〈光緒16年〉 - 1945年… 陳 群(ちん ぐん、1890年〈光緒16年〉 - 1945年〈民国34年〉8月17日)は、中華民国の政治家。字は人鶴。孫文ら革命派や南方政府(護法軍政府)に与し、後に中国国民党や国民政府で活動した。日中戦争期には、中華民国維新政府や南京国民政府の要職を歴任した。 日本へ留学して、明治大学で法学士、東洋大学で文学士の称号をそれぞれ取得した。孫文が護法運動を開始すると、1917年(民国6年)9月、陳群は広州の大元帥府秘書に就任した。1923年(民国12年)5月、大元帥府宣伝委員となる。後に大本営中国国民党党務準備委員に就任した。 孫文死後の1926年(民国15年)以後は、国民党上海政治分会委員、国民革命軍東路総指揮部政治部主任、上海警備総司令部軍法処処長、国民党宣伝部駐滬弁事処主任、第26軍政治部主任、上海法政学院総務長などを歴任した。
葛西 善蔵(かさい ぜんぞう、1887年(明治20年)1月1… 葛西 善蔵(かさい ぜんぞう、1887年(明治20年)1月16日 - 1928年(昭和3年)7月23日)は、日本の小説家である。自身の貧困や病気といった人生の辛苦や酒と女、人間関係の不調和を描き、「私小説の神様」と呼ばれた。 青森県中津軽郡弘前松森町(現・弘前市)で当時米の仲買業をしていた父・卯一郎、母・ひさの長男として生まれた。姉二人(長女・いそ、次女・ちよ)と祖母・かよがいた。また、同年に弟の勇蔵が生まれている。 1889年(明治22年)、家業不振により一家で北海道に移住。1891年(明治24年)、一家で青森に戻り、青森町を経て五所川原村に移住。1893年(明治26年)、青森県五所川原小学校に入学するが、母の故郷である碇ヶ関村への一家の転居にともない、碇ヶ関小学校に転校する。
佐々木 喜善(ささき きぜん、1886年〈明治19年〉10月… 佐々木 喜善(ささき きぜん、1886年〈明治19年〉10月5日 - 1933年〈昭和8年〉9月29日)は、日本の民俗学者、作家、文学者、文学研究者、民話・伝説・習俗・口承文学の収集家、研究家。一般には学者として扱われるが、佐々木自身は資料収集者であり学者ではないと称している。 オシラサマやザシキワラシなどの研究と、400編以上に上る昔話の収集は、日本の民俗学、口承文学研究の大きな功績で、「日本のグリム」と称される。 岩手県土淵村(現在の岩手県遠野市土淵)の裕福な農家に育つ。母方の祖父である万蔵は近所でも名うての語り部で、喜善はその祖父から様々な民話や妖怪譚を吸収して育つ。その後、祖父の医者になる期待を背負い、明治35年、岩手県医科学校(現在の岩手医科大学)に入学するも、医師としての将来を思い描くことができず、2年後に中退する。
高井 観海(たかい かんかい、1884年7月1日 - 195… 高井 観海(たかい かんかい、1884年7月1日 - 1953年1月9日)は、日本の仏教学者、僧侶である。哲学館(現・東洋大学)で井上円了から仏教学を学んだ後に、智山専門学校校長。大正大学教授。真言宗智山派管長。智積院55世能化。真言宗上品蓮台寺住職となる。仏教学の専門は密教学。
重松 俊章(しげまつ しゅんしょう、1883年(明治16年)… 重松 俊章(しげまつ しゅんしょう、1883年(明治16年)11月18日 - 1961年(昭和36年)10月6日)は、日本の東洋学者・真言宗豊山派僧侶。 愛媛県温泉郡荏原村生まれ。1894年(明治27年)に得度し、私立豊山中学校を卒業。1909年(明治42年)、東洋大学本科を3年修了で退学した後、東京帝国大学文科大学史学科選科生として入学。1913年(大正2年)東京帝国大学文科大学の史学科を卒業。 1919年6月、松山高等学校教授、1926年から1年間の中国留学後、1927年11月、九州帝国大学法文学部東洋史学講座の初代教授として赴任。1944年9月、定年退官。退官後、松山市にある四国八十八箇所霊場第51番札所の熊野山石手寺の第41世住職に就任した。
西山 哲治(にしやま てつじ、1883年(明治16年)2月1… 西山 哲治(にしやま てつじ、1883年(明治16年)2月13日 - 1939年(昭和14年)12月15日)は、日本の教育者。 兵庫県氷上郡竹田村(現在の丹波市)出身。代用教員、准教員を経て、1901年(明治34年)に哲学館(現在の東洋大学)に入学した。1905年(明治38年)に哲学館を卒業した後は、雑誌「教育実験界」の記者となり、また日本家庭辞書の編纂にあたった。1906年(明治39年)から1910年(明治43年)までニューヨーク大学に留学し、教育学博士の称号を得た。 1912年(明治45年)には帝国小学校・帝国幼稚園を創設し経営にあたった。さらに1926年(大正15年)からは東洋大学教授も務めた。
税所 篤秀(さいしょ あつひで、1882年(明治15年)8月… 税所 篤秀(さいしょ あつひで、1882年(明治15年)8月16日 - 1930年(昭和5年)7月10日)は、大正から昭和期の政治家、華族。貴族院子爵議員。 本籍鹿児島県。警察官僚・税所篤一の長男として生まれる。 1908年(明治41年)私立東洋大学を卒業。同年、東亜煙草に入社し大連販売所で勤務。その後、浪速銀行書記、十五銀行勤務となった。 父・篤一の死去に伴い、1914年(大正3年)6月30日、子爵を襲爵した。 1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され、研究会に属して活動し死去するまで1期在任した。
大倉 邦彦(おおくら くにひこ、旧姓:江原、1882年(明治… 大倉 邦彦(おおくら くにひこ、旧姓:江原、1882年(明治15年)4月9日 - 1971年(昭和46年)7月25日)は、日本の実業家・教育者。号を三空居士と称した。大倉喜八郎の大倉財閥とは全く関係がない。 大倉洋紙店(現・新生紙パルプ商事)会長。現在の神奈川県横浜市港北区大倉山に大倉精神文化研究所を創設。第10・11代東洋大学学長。 1882年4月9日、佐賀県神埼郡西郷村(現神埼市)の士族・江原家に生まれる。1902年に旧制佐賀中学校、1906年に上海の東亜同文書院を卒業の後、大倉洋紙店に入社。社長の大倉文二に見込まれて婿養子となり、その後社長に就任、事業を大きく発展させる。 日本の教育界・思想界の乱れを憂えた邦彦は、教育の重要性を説き、私財を投じて東京目黒に富士見幼稚園、郷里である佐賀県西郷村に農村工芸学院などを開設したほか、この考えをさらに広く普及させるべく、1932年には現在の神奈川県横浜市港北区大倉山に大倉精神文化研究所を創設する。
正富 汪洋(まさとみ おうよう、1881年〈明治14年〉2月… 正富 汪洋(まさとみ おうよう、1881年〈明治14年〉2月20日 - 1967年〈昭和42年〉8月14日)は、日本の詩人、歌人。 岡山県邑久郡本庄村(現:瀬戸内市)生まれ。哲学館大学(現:東洋大学)教育部卒業。 尾上柴舟・若山牧水ら共に「車前草社」を結成している。清水橘村との共著の『夏ひさし』、『小鼓』がある。大正7年『新進詩人』を創刊している。戦後、日夏耿之介・西條八十と共に日本詩人クラブを結成。 妻は与謝野鉄幹の元妻の林滝野。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
和田 性海(わだ しょうかい、1879年8月2日 - 196… 和田 性海(わだ しょうかい、1879年8月2日 - 1962年3月9日)は日本の僧。歌人。元高野山真言宗管長、金剛峯寺座主。高野山大学学長。歌人としては正岡子規直門の弟子である。 明治12年(1879年)8月2日、兵庫県佐用郡幕山村大垣内1番地に和田桂次の9人兄弟の6男として生まれる。母親は作東中嶋の安藤氏の出である。生家は宍粟郡安志藩下の地方庄屋として栄えたが、桂次の代に事業に失敗し倒産するに至り、両親も病死した。 明治23年(1890年)2月17日に、12歳で檀那寺の正覚寺にて加賀美隆賀の許へ入寺するも隆賀が退寺する事となり、同26年(1893年)に佐用郡久崎村の清林寺の伊藤義禅の許へ転籍し出家した。
阿部 正己(あべ まさき、1879年3月23日 - 1946… 阿部 正己(あべ まさき、1879年3月23日 - 1946年3月15日)は、日本の歴史家。 1879年(明治12年)3月23日、阿部拓弥の長男として松嶺町(現・酒田市)に生まれる。1900年(明治33年)荘内中学校(山形県立鶴岡南高等学校)卒業。哲学館(現・東洋大学)卒業。 北海道庁に入庁し、北海道史編纂係となって作業に没頭。1918年(大正7年)同職辞任、酒田に戻り酒田町史編纂主務。光丘文庫(図書館)勤務。1931年(昭和6年)城輪柵址発掘調査を指導し、石原重俊らと共に本楯国府跡を調査。 のちに酒田市当局と意見が合わず市史出版作業が中絶し、資料は市史稿として残された。 1946年(昭和21年)3月15日、死去。
新免一五坊(しんめん いちごぼう、1879年(明治12年) … 新免一五坊(しんめん いちごぼう、1879年(明治12年) - 1941年(昭和16年))は、日本の俳人・教員。本名は睦之助。後に藤木姓を名乗る。 1879年(明治12年)、岡山県吉野郡大野村(現・美作市)川上で父和太郎、母こまのの二男として代々庄屋や酒造家だった旧家に生まれ、睦之助と名付けられる。俳号の一五坊は睦のムツを6に掛け、一と五に分けたと推測される。1892年(明治25年)13歳で上京して神田中学院、翌26年国語伝習所、翌27年哲学館予科を経て明治28年小石川哲学館本科教育部に入学後18歳で卒業。1898年(明治31年)の夏、一五坊は根岸(東京都台東区根岸)の子規庵を訪れ正岡子規の門人となり、句会や歌会に参加する。
佐藤 義亮(さとう よしすけ(ぎりょう)、1878年〈明治1… 佐藤 義亮(さとう よしすけ(ぎりょう)、1878年〈明治11年〉2月18日 - 1951年〈昭和26年〉8月18日)は、新潮社の創立者。雑誌「新潮」を発行した。哲学館(現在の東洋大学)を卒業。筆名に橘香、妖堂、浩堂など。 1878年(明治11年)に秋田県仙北郡角館町(現・仙北市)に佐藤為吉、とく夫妻の四男として生まれる。両親は荒物屋を営み、彼の幼名は儀助であった。父親の為吉は商人には珍しく読書好きな人物で、熱心な仏教徒だった。義亮は1883年(明治16年)小学校に入学、優等生で二段進級を許された年もあった。14歳で角館高等小学校を卒業すると奉公に出されることになっていたが、向学心に燃える義亮は進学の許しを父に幾度と無く請い、為吉は仕方なく官費の師範学校ならばと進学を許可した。
磯村 春子(いそむら はるこ、1877年3月16日- 191… 磯村 春子(いそむら はるこ、1877年3月16日- 1918年1月31日)は、明治・大正期の新聞記者。NHK朝の連続テレビ小説『はね駒』(1986年前期作品)の主人公のモデルともなった。長男は、国際東アジア研究センター名誉所長や東洋大学学長などを務めた磯村英一(1903- 1997)。 1877年(明治10年)、小泉伊助とカツの長女として、福島県相馬郡中村町(現・相馬市)に生まれる。 宮城女学校(現・学校法人宮城学院)に入学。母校は1886年(明治19年)に創立されたばかりのキリスト教系の学校で、日本のキリスト教者の押川方義牧師等がアメリカ合衆国の改革派教会宣教師ウィリアム・E・ホーイと開いた。
中川 観秀(なかがわ かんしゅう、1876年11月15日 -… 中川 観秀(なかがわ かんしゅう、1876年11月15日 - 1938年12月18日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 長崎県出身。1902年、東京哲学館(現・東洋大学)哲学科卒。長崎市議、同参事会員、同副議長、長崎県議、同参事会員を歴任する。佐世保軍港新聞記者、長崎新聞記者、同主筆、同社長、長崎高等女学校保護者会理事、瓊浦中学校保護者会長、長崎市教育会理事となる。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において長崎1区(当時)から立憲民政党公認で立候補したが次点で落選した。1932年の第18回衆議院議員総選挙で当選。その後、国民同盟に移り、1936年の第19回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
安藤 正純(あんどう まさずみ、1876年(明治9年)9月2… 安藤 正純(あんどう まさずみ、1876年(明治9年)9月25日 - 1955年(昭和30年)10月14日)は、大正から昭和期のジャーナリスト、政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。文部大臣(第71代)、国務大臣、衆議院議員(11期)。 東京府東京市浅草区浅草松葉町(現在の東京都台東区松が谷)にある、真宗大谷派真龍寺の住職、安藤了戒の子として生まれ、僧籍を有する。青年時代は宗門改革運動に情熱を燃やしていた。1895年に哲学館(現東洋大学)、1899年に東京専門学校(現早稲田大学)哲学科をそれぞれ卒業。陸羯南主宰の新聞『日本』記者を経て、東京朝日新聞に入社し、1920年には取締役編集局長となる。同年の衆議院議員総選挙に旧東京7区から無所属で立候補し当選を果たす。
志田 義秀(しだ ぎしゅう、1876年7月27日 - 194… 志田 義秀(しだ ぎしゅう、1876年7月27日 - 1946年1月17日)は、日本の国文学者・俳人。学位は、文学博士(1937年)(学位論文「問題の点を主としたる芭蕉の伝記の研究」)。元東洋大学教授。連歌俳諧研究、説話研究、歌謡研究、辞典の編纂など、多方面に業績を残した。 富山県上新川郡出身。旧姓は藤井。俳号は素琴。富山中学校[要出典]、第四高等学校を経て[要出典]、1903年東京帝国大学文学部国文科卒。第六高等学校教授、1925年旧制成蹊高等学校教授、東洋大学教授。1937年「問題の点を主としたる芭蕉の伝記の研究」で文学博士の学位を取得。日本で初めて俳文学によって文学博士の学位を取得した[要出典]。
塙 泉嶺(はなわ せんれい、1876年(明治9年) - 没年… 塙 泉嶺(はなわ せんれい、1876年(明治9年) - 没年不詳)は、茨城県の民間出身の郷土史編纂主任、新聞社(宗教新聞社・政教新聞社)の主幹・社長。1922年(大正11年)から1928年(昭和3年)にかけて、宗教新聞社・政教新聞社発行による塙 泉嶺の郷土史は、東茨城郡・西茨城郡・那珂郡・久慈郡・多賀郡・真壁郡・新治郡・稲敷郡・筑波郡・行方郡・鹿島郡の11郡に及んでいる。 塙 泉嶺は、茨城県東茨城郡渡里村(現在の水戸市渡里町)の旧跡、一盛長者(一守長者)の里に住んでいた。塙氏は地方の名族であった。宗教学を志し、東京に苦学すること数年、神田三崎町の大成中学校、早稲田大学文学科を卒業後、転向し仏大学に入学し、真俗二諦の教理を修め海外に雄飛すること数年を経て帰国した。
江羅 直三郎(えら なおざぶろう、1875年12月25日 -… 江羅 直三郎(えら なおざぶろう、1875年12月25日 - 1939年12月8日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。旧姓は北村。 和歌山県和歌山市生まれ。1889年、日蓮宗学林を卒業した。1891年12月に日蓮宗の僧侶である叔父の江羅日明の養子となる。1891年、日蓮宗宮谷大学林を卒業した。1895年、哲学館(現・東洋大学)を卒業する。その後は、京都で僧侶になる為の修行を積んだ。1907年に京華日報が創立すると記者となり、後に副社長となった。 1910年4月に京都市会議員に当選した。以後、1913年、1917年、1929年、1937年と5選を果たした。また、1915年9月には京都府会議員となった。
林 古溪(はやし こけい、1875年〈明治8年〉7月15日 … 林 古溪(はやし こけい、1875年〈明治8年〉7月15日 - 1947年〈昭和22年〉2月20日)は歌人、作詞家、漢文学者、立正大学教授、東洋大学講師。本名は竹次郎。東京・神田出身。哲学館(現東洋大学)教育学部卒。 林羅山に連なる家系で、代々学者の家柄である。林家の次男として東京神田に生まれる。 幼少時代を神奈川県愛甲郡古沢村(現厚木市)で過ごし、古渓の筆名はこの古沢村から採ったという。 10歳の時に父を失って以来、池上本門寺に入って修行。さらに哲学館(現東洋大学)に入学すると国漢を学んだ。漢詩に非凡な才を見せたが、一方で新体詩のグループを作っては積極的に活動を始めた。卒業後、同校付属の京北中学校で国漢科教員となり、生徒たちから「達磨さん」と呼ばれて慕われたという。
冨田 斅純(とみた こうじゅん、1875年5月2日 - 19… 冨田 斅純(とみた こうじゅん、1875年5月2日 - 1955年7月22日)は、明治〜昭和期の日本の僧侶。真言宗豊山派管長および教育者。 「斅」が特殊文字であることから、ウェブ上では「富田学純」という代用表記も見られる。 長野県水内郡水内村(現・長野市信州新町)に生まれる。1897年、哲学館(現・東洋大学)卒業。1882年、長野県更府村長勝寺の冨田容純の従弟となる。1902年、哲学館の卒論を「新義真言宗史綱」として出版。1911年、真言宗豊山派宗務長、同派集議などを経て、1932年、同派管長となり、大僧正。 1914年より東京中野宝仙寺住職。一方1920年豊山大学長となり、1926年同大と大正大学合同で、大正大学教授となった。
高嶋 米峰(高島、たかしま べいほう、1875年1月15日 … 高嶋 米峰(高島、たかしま べいほう、1875年1月15日 - 1949年10月25日)は、日本の社会教育家、仏教学者、宗教家。東洋大学第12代学長。号は大圓。聖徳太子奉賛会理事を務め、『聖徳太子正伝』(明治書院)が天皇・皇后・皇太后・皇太子に献上されるなど、皇室とも深い関わりがあった。 1875年、新潟県中頸城郡竹直村(現在の上越市吉川区)生まれ。高田の興仁教校、西本願寺文学寮を経て1893年(明治26年)に上京して哲学館(後の東洋大学)に入学し、1896年(明治29年)卒業。井上円了の助手となり、『東洋哲学』の編集に従事する。その後『北國新聞』記者、京華尋常中学校講師を経て『中央公論』の評論を担当する。
田中 善立(たなか ぜんりゅう、1874年(明治7年)11月… 田中 善立(たなか ぜんりゅう、1874年(明治7年)11月24日 - 1955年(昭和30年)2月20日)は、明治から昭和前期の教育者、僧侶、政治家。衆議院議員(7期)。 愛知県愛知郡、のちの篠原村(松葉村、常磐村大字篠原を経て現名古屋市中川区)で、豪農・田中平八、タキ夫妻の二男として生まれる。熱心な真宗信徒の父が中学進学を認めなかったため、13歳で出家得度し真宗大谷派名古屋別院内の普通学校(現名古屋大谷高等学校)に入学し、校長南条文雄の薫陶を受けた。1891年(明治24年)12月に上京し東京英語学校(現日本学園中学校・高等学校)に入学し、1892年(明治25年)夏、哲学館(現東洋大学)に転じた。
佐藤 信古(さとう しんこ、1873年(明治6年)2月10日… 佐藤 信古(さとう しんこ、1873年(明治6年)2月10日 - 1942年(昭和17年)9月7日)は、明治時代後期から昭和時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。衆議院議員(1期)。 佐藤祐太郎の子として山形県田川郡宮曽根村(東田川郡栄村、余目町を経て現庄内町)に生まれる。二松學舍を経て哲学館を修了する。1905年(明治38年)以降、北洋漁業取締役、共益倉庫社長などのほか、栄村会議員、東田川郡会議員、栄村長、東田川郡育英会理事長、同教育会理事長などを歴任した。この間、1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙では山形県郡部から立憲政友会所属で出馬し当選し、衆議院議員を1期務めた。
菅 舜英(すが しゅんえい、明治5年(1872年)10月19… 菅 舜英(すが しゅんえい、明治5年(1872年)10月19日- 昭和31年(1956年)5月27日)は、日本の僧侶、政治活動家。大正・昭和期の社会主義者、後に国家社会主義に転向。 井上円了の東京哲学館、東京神学院で学び、西本願寺北海道開教の僧侶として渡道。本山特命布教使として各地で布教講演を行う。日露戦争で従軍布教使として従軍し、乃木希典陸軍大将に講話を披露。以後、シベリア出兵などで中国、ロシアへ度々渡る。勇払郡安平村(現・安平町)安立寺住職に就いてからは、言論出版に精を出す。 個人雑誌「同志」「浄土」「他力」などを発行し、新聞雑誌への論文投稿も数多い。交友関係は広く、本願寺の改革運動で知り合った赤松克麿と親しく、赤松のすすめで社会民衆党公認で衆議院議員選挙に戦前だけで3度立候補している。
比田井天来(ひだい てんらい、1872年3月2日(明治5年1… 比田井天来(ひだい てんらい、1872年3月2日(明治5年1月23日) - 1939年1月4日)は、日本の書道家。「現代書道の父」と呼ばれる。本名・鴻。雅号は天来、別号に画沙(かくさ)、大朴(たいぼく)、象之(ぞうし)、淳風(じゅんぷう)も用いる。 長野県北佐久郡片倉村(現・佐久市)生まれ。幼名は常太郎。古碑法帖を多角的に研究し、古典臨書の新分野を開拓し、その集大成として『学書筌蹄』がある。俯仰法の解明をし、剛毛筆を使用して古典を分解再構築し、新しい造形世界を展開したその活動は、近代日本の書道界において新境地であったとされる。また、仁和寺伝来の三十帖冊子の橘逸勢筆の部分を看破したことでも有名である。
渡邊 玄宗(わたなべ げんしゅう、俗名:青柳与兵次、明治2年… 渡邊 玄宗(わたなべ げんしゅう、俗名:青柳与兵次、明治2年10月25日(1869年11月28日) - 昭和38年(1963年)12月9日)は、日本の曹洞宗の僧侶。總持寺独住17世貫首(円鑑不昧禅師)。号は本行。 曹洞宗の僧ながら、臨済宗円覚寺派宮路宗海の元に数年にわたり参禅し印可を得ている。近世以降、曹洞宗の僧で臨済宗の祖室を究めた人物は玄宗ただ一人とも言われている。 1869年(明治2年)、新潟県三島郡日吉村鳥越(現、長岡市)の農家青柳家の次男に生まれる。指物師の箕山家に養子に入るも、出家を望み、1892年に長野県松本市泉龍寺の渡邊俊龍に就いて出家する。 1897年に富山市光厳寺に移って修行を重ね、哲学館仏教専修科にも通学する。
伊賀 駒吉郎(いが こまきちろう、1869年7月23日〈明治… 伊賀 駒吉郎(いが こまきちろう、1869年7月23日〈明治2年〉 - 1946年〈昭和21年〉3月3日)は、日本の思想家、教育者、心理学者、宗教学者。関西教育界の第一人者であり、特に、女子教育で定評があった。当時、菊池寛、三土忠造とともに、香川県出身の代表的な三人として並べられることもあった。甲陽学院中学校・高等学校創立者。
鷲尾 順敬(わしお じゅんきょう、慶応4年3月18日(186… 鷲尾 順敬(わしお じゅんきょう、慶応4年3月18日(1868年4月10日) - 昭和16年(1941年)1月13日)は、摂津国(大阪府)出身の仏教史学者。 東洋大学卒業後、曹洞宗大学林、その後身の駒澤大学、東洋大学にて教授。明治25年(1892年)、境野黄洋、村上専精と協力して溯源窟を興し『仏教史林』を刊行。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
吉良 元夫(きら もとお、1867年10月18日(慶応3年9… 吉良 元夫(きら もとお、1867年10月18日(慶応3年9月21日)- 1938年(昭和13年)10月15日)は、明治から昭和前期の醸造家、政治家。衆議院議員、大分県大野郡上井田村長。号・淡遠。 豊後国大野郡上尾塚村(大分県大野郡上井田村上尾塚、朝地村、朝地町を経て現豊後大野市朝地町上尾塚)で、酒造業・吉良圭蔵の長男として生まれる。竹田町の寺井塾で漢学を修めた。その後、上京して神田共立学校(現開成中学校・高等学校)、三田英語塾(慶應義塾)で学び、哲学館(現東洋大学)を卒業した。 帰郷して家業の酒造業、醤油醸造業を営む。大野郡酒屋組合長、両豊銀行監査役も務めた。日露戦争では豊州新報記者として従軍した。
本多 日生(ほんだ にっしょう、1867年4月17日(慶応3… 本多 日生(ほんだ にっしょう、1867年4月17日(慶応3年3月13日) - 1931年(昭和6年)3月16日)は、日本の宗教家、僧侶。日蓮宗妙満寺派、顕本法華宗元管長であり、法号は聖応院日生。近代日本の代表的な日蓮仏教の改革者として名を残す。 1867年(慶応3年)、播磨国姫路藩(現在の兵庫県姫路市)に、姫路藩士・国友堅二郎と勝子との間に次男として生まれる(幼名・長二)。幼くして母方の菩提寺である妙善寺の本多日境に師事し、本多姓を継いだ。小学校卒業後、妙立寺の池田日昌のもとで得度し、日昌亡き後は岡山県津山の本蓮寺で児玉日容のもと、日什教学を学ぶ。18歳で大阪府堺市の妙満寺住職に任命され、1887年(明治20年)、上京後に私立哲学館(現・東洋大学)の第一期生として入学する。
河口 慧海(かわぐち えかい、1866年2月26日(慶応2年… 河口 慧海(かわぐち えかい、1866年2月26日(慶応2年1月12日) - 1945年(昭和20年)2月24日)は、日本の黄檗僧、仏教学者、探検家。幼名は定治郎。僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。チベット名はセーラブ・ギャムツォ。チベットでの通称はセライ・アムチー。 日本や中国の漢語仏典に疑問をおぼえ、仏陀本来の教えの意味が分かる書物を求めて、梵語原典やチベット語訳仏典の入手を決意し、日本人として初めてチベットへの入国を果たした。その旅行記は英訳もされ、チベットの聖地伝説化に拍車をかけた。 『西蔵旅行記』『在家仏教』『正真仏教』をはじめとして数多くの著作を残し、慧文社から著作選集も出版されている。
清沢 満之(きよざわ まんし、1863年8月10日(文久3年… 清沢 満之(きよざわ まんし、1863年8月10日(文久3年6月26日) - 1903年(明治36年)6月6日)は、日本の明治期に活躍した真宗大谷派(本山・東本願寺)の僧侶、哲学者・宗教家。旧姓は「徳永」。幼名は「満之助」。院号法名は、「信力院釋現誠」。
棚橋 一郎(たなはし いちろう、文久2年11月12日(186… 棚橋 一郎(たなはし いちろう、文久2年11月12日(1863年1月1日) - 昭和17年(1942年)2月7日)は、岐阜県出身の教育者、漢学者(今でいう倫理学者)。衆議院議員、東京市会議員。
中山 通幽(なかやま つうゆう、1862年4月19日(文久2… 中山 通幽(なかやま つうゆう、1862年4月19日(文久2年3月21日) - 1936年(昭和11年)5月17日)は、日本の宗教家。岡山県出身。宗教団体・福田海(ふくでんかい)の開祖。旧姓・薬師寺。本名・多田盛太。多田通幽とも。 備中国(現在の岡山県高梁市)に生まれる。3歳で吉備津の多田家の養子となる。[要出典] 16歳で小学校教員となる[要出典]。当山派で修験道を修する。また、井上円了の哲学館に学び、大阪に関西哲学館を開く。1895年(明治28年)、大阪市天王寺伶人町に宗教団体・無縁法界講を結成し、無縁仏の供養に取り組む[要出典]。 1908年(明治41年)、大阪で神道・儒教・仏教・道教を折衷した宗教団体・福田海を開宗し、陰徳積善を説く。
井上 円了(旧字体: 井上 圓了、いのうえ えんりょう、18… 井上 円了(旧字体: 井上 圓了、いのうえ えんりょう、1858年3月18日(安政5年2月4日) - 1919年(大正8年)6月6日)は、日本の哲学者、教育者。 明治日本に哲学を広めた人物の一人。哲学館(現、東洋大学)や哲学堂公園を設立した。仏教哲学や妖怪学にも業績がある。 1858年(安政5年)、越後長岡藩領の三島郡浦村(現・新潟県長岡市浦)にある慈光寺に生まれる。幼名、岸丸。父は円悟、母はイク。 16歳で長岡洋学校に入学し、洋学を学んだ。1877年(明治10年)、東本願寺の教師学校に入学する。1878年(明治11年)東本願寺の国内留学生に選ばれ上京し、東京大学予備門に入学する。その後東京大学に入学し、文学部哲学科に進んだ。
前田 慧雲(恵雲、まえだ えうん、安政2年1月14日(185… 前田 慧雲(恵雲、まえだ えうん、安政2年1月14日(1855年3月2日) - 昭和5年(1930年)4月29日)は、伊勢国桑名(現・三重県桑名市)出身の浄土真宗本願寺派の学僧。第2代東洋大学長、龍谷大学学長。「含潤」、「止舟斎」とも号した。 1855年(安政2年)、桑名の西福寺に生まれた。漢文を大賀旭川、佐藤牧山の下で学び、また仏教学を西山教校、比叡山で修めた。松島善譲にも学んでいる。 1888年に上京して大内青巒と共に尊皇奉仏を唱え、新欲主学問所の主事となった。東京大学講師として教鞭を執り、1904年からは高輪仏教大学学長を務めた。1906年、井上円了の意志を継いで哲学館大学を東洋大学と改称し、第2代学長に就任(1914年に退任)。
村上 専精(むらかみ せんしょう、嘉永4年4月1日(1851… 村上 専精(むらかみ せんしょう、嘉永4年4月1日(1851年5月1日) - 昭和4年(1929年)10月31日)は、日本の明治・大正期に活躍した日本の教育者・仏教史学者。東洋高等女学校創立者、東京帝国大学印度哲学科初代教授・同名誉教授、大谷大学学長。 明治・大正期の教育界において主として高等教育の充実に尽力。特に、仏教思想・仏教史を近代的学問体系からの批判に耐え得る形で研究するとともに、その成果を自ら整備に関与した公私の諸教育機関において公開した。 1851年(嘉永4年)、丹波国の真宗大谷派教覚寺に生まれた。本姓は広崎。幼時より父について浄土三部経を習い、漢学の才にすぐれるが、生家の寺が貧しかったため近郊の行雲寺(岡村波洲)に預けられた。
木村 雅子(きむら まさこ、8月4日 - )は、日本のフリー… 木村 雅子(きむら まさこ、8月4日 - )は、日本のフリーアナウンサー。ライムライト所属。 岩手県宮古市出身。東洋大学社会学部社会福祉学科卒業。 2003年から2年間エフエム岩手のアナウンサーを務めた後、フリーでの活動を開始する。 脚注の無いデータは、ライムライト公式サイトと講師依頼サイト『CLOUDCASTING』それぞれに掲載されているプロフィールからの参考。 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(アナウンサーPJ)。
青木 玲緒樹 は、東京都板橋区出身の女子競泳選手である。武蔵… 青木 玲緒樹 は、東京都板橋区出身の女子競泳選手である。武蔵野中学高等学校、東洋大学卒。ミズノ所属。種目は平泳ぎ。
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