川勝 政太郎(かわかつ まさたろう、1905年(明治38年)… 川勝 政太郎(かわかつ まさたろう、1905年(明治38年)5月22日 - 1978年(昭和53年)12月23日)は、日本の歴史学者・考古学者・美術史家。学位は、文学博士。専門はサンスクリット、石造美術の研究。京都市生まれ。 京都府京都市生まれ。京都市立第一商業学校(現:京都市立西京高等学校・附属中学校)卒業後、建築史家の天沼俊一に師事し、石造遺品への関心を深めた。1926年に自宅で書店をひらき、屋号をスズカケと称し、1928年にはスズカケ出版部を設け、『古美術史蹟 京都行脚』を刊行し、1929年、京都史蹟会の会誌『京都史蹟』の創刊に携わった。1930年、史迹美術同攷会(しせきびじゅつどうこうかい)を創立し、会の機関誌として研究雑誌『史迹と美術』を創刊した。
東郷 豊治(とうごう とよはる、1905年4月28日 - 1… 東郷 豊治(とうごう とよはる、1905年4月28日 - 1969年3月17日)は、日本の心理学者、良寛研究家。 福井県敦賀市生まれ。1930年京都帝国大学文学部心理学科卒。1945年新潟県高田師範学校教授、1955年大阪外国語大学教授。 伝記『良寛』で1957年度読売文学賞受賞。堀口大學、鈴木虎雄と協力し良寛全集編さん・研究を行った。
高山 岩男(こうやま いわお、1905年(明治38年)4月1… 高山 岩男(こうやま いわお、1905年(明治38年)4月18日 - 1993年(平成5年)7月7日)は、日本の哲学者。京都帝国大学教授・神奈川大学教授・日本大学教授・東海大学教授、秋田経済法科大学学長を歴任。 1905年、山形県山形市で生まれた。1918年、山形県立山形中学校(現・山形県立山形東高等学校)に入学。1925年、山形高等学校を卒業。西田幾多郎、田辺元の著書に触発され、京都帝国大学文学部哲学科に入学。当時の文学部には西田幾多郎、波多野精一、田辺元、和辻哲郎らが教員として在籍しており、京都学派の全盛期であり、特に田辺から多大な影響を受けた。西田幾多郎からは俊秀と評され、京都帝国大学を首席卒業した。
福山 敏男(ふくやま としお、1905年4月1日 - 199… 福山 敏男(ふくやま としお、1905年4月1日 - 1995年5月20日)は、日本の建築史家。京都大学名誉教授。 1905年、福岡県山門郡城内村(現柳川市)で生まれた。第五高等学校を経て、京都帝国大学工学部建築学科に進学。1927年に卒業。 修了後は、内務省造神宮使庁嘱託に採用された。1939年、京都帝国大学から工学博士の学位を取得。1942年、文部技師に昇格として宗教局に勤務。のち教化局総務課勤務を経て、1943年11月1日付けで教学局文化課勤務。 1947年より東京国立博物館附属美術研究所(東京国立文化財研究所)に勤務。1951年より同所資料部長、1954年より同所美術部長。1959年、京都大学教授に転じた。
薗田 香勲(そのだ こうくん、1905年〈明治38年〉3月2… 薗田 香勲(そのだ こうくん、1905年〈明治38年〉3月25日 - 1969年〈昭和44年〉4月9日)は、日本のドイツ文学者・仏教学者、浄土真宗本願寺派の僧。大阪府立大学教授。ゲーテ、親鸞を研究した。 1905年、和歌山県和歌山市で浄土真宗本願寺派の妙慶寺に生まれた。1916年に得度。京都帝国大学文学部独文科で学び、1927年に卒業。 卒業後は、同1927年より龍谷大学講師。1931年、大阪商科大学(現:大阪市立大学)教授となった。1951年からは浪速大学教授、校名変更で大阪府立大学教授。 宗門においては、1926年より妙慶寺住職(1969年まで)。1947年から1951年まで、浄土真宗本願寺派和歌山教区長兼鷺森別院輪番をつとめた。
浅野 清(あさの きよし、1905年2月15日 - 1991… 浅野 清(あさの きよし、1905年2月15日 - 1991年8月19日)は、愛知県名古屋市出身の建築学者・建築史家。工学博士(京都大学)。元奈良学芸大学・大阪市立大学・大阪工業大学・愛知工業大学教授。 古建築の復原研究の第一人者であり、建築遺跡発掘調査を伴う「建物復原調査法」の開発、「古代建築技法」の解明など、日本建築史学における偉大な業績を残した。また、社寺の建築や民家研究でも貢献した。 1926年名古屋高等工業学校(現:名古屋工業大学)建築科を卒業。1934年法隆寺国宝保存工事事務所技手、後に所長となり、法隆寺建築物の復元、修理に尽力する。1952年工学博士(京都大学)。同年、奈良学芸大学助教授および奈良国立文化財研究所研究員を併任。
桑田 猛(くわた たけし、1905年2月14日 - 2000… 桑田 猛(くわた たけし、1905年2月14日 - 2000年8月18日)は、日本の経営者、理学博士。協和醗酵工業(現在の協和キリン)社長を務めた。 京都府京都市出身。1931年に京都帝国大学理学部化学科を卒業し、協和化学研究所主任を経て、1949年7月に協和醗酵工業に入社し、常務にも就任。1956年に専務を経て、1962年8月に副社長に就任し、1969年8月には社長に昇格。1972年7月に取締役相談役に就任し、1978年3月に相談役に就任。 2000年8月18日気管支肺炎のために死去。95歳没。
飯田 一男(いいだ かずお、1905年〈明治38年〉1月10… 飯田 一男(いいだ かずお、1905年〈明治38年〉1月10日 - 1995年〈平成7年〉[要出典])は、日本の電気工学・通信工学者。工学博士(京都大学)。大阪工業大学名誉教授。元電気工学教室担当。 専門は、電気科学(特にテレビ受像機)、電気通信工学・無線工学。 京都帝国大学工学部電気工学科を卒業。 1949年、摂南工業大学(同年、大阪工業大学に改称)工学部電気工学科教授となり、電気工学教室を担当した。指導する電気科学研究部が製作したテレビ受像機が文部大臣賞(1953年)を受賞した。その後も20年わたって教鞭を執り、大学初期の電気工学・電気通信工学(特に無線工学)の研究・育成を手がけた。 1959年4月に大阪工業大学電子工学科客員教授にも就任した。
尾上 正男(おのえ まさお、1905年1月4日 - 1999… 尾上 正男(おのえ まさお、1905年1月4日 - 1999年5月16日)は、日本の国際政治学者、法学者、ソ連研究者。神戸大学名誉教授。 鹿児島県鹿児島市出身。1929年京都帝国大学法学部卒業。満州のハルピン学院や建国大学で教授を務める。終戦直前に現地召集され、戦後は5年間シベリア抑留された。 1951年より神戸大学法学部教授、1968年定年退官、名誉教授。同年より神戸学院大学法学部教授を務め、1974年から1980年までは学長も務めた。1989年退職。 1961年、「ソビエト外交史」で京都大学法学博士。1975年勲三等旭日中綬章受章。
植田 重正(うえだ しげまさ、1905年(明治38年) - … 植田 重正(うえだ しげまさ、1905年(明治38年) - 1987年(昭和62年)4月8日)は、日本の法学者(刑事法学)。京都帝国大学法学部卒業後、関西大学法学部教授。京都府出身。 主著『共犯論上の諸問題』と『共犯の基本問題』で、今でいう純粋惹起説(間接正犯を認めず、「正犯なき共犯」を肯定する)を主張した。植田の共犯論は、佐伯千仭のそれとともに、関西の学者を中心に大きな影響を及ぼした。 弟子に中義勝や振津隆行(金沢大学教授)がいる(中の弟子が山中敬一)。今でも佐伯・中の共犯論を支持するのは、中山研一(京都大学名誉教授)と浅田和茂(大阪市立大学教授)ら。 「正犯なき共犯」を肯定する点は、共犯従属性説の放棄であるとして、関東共犯論の西田典之(東京大学)、山口厚(東京大学)、井田良(慶應義塾大学)らから、激しく非難されている。
宮川 善造(みやかわ ぜんぞう、1904年(明治37年)10… 宮川 善造(みやかわ ぜんぞう、1904年(明治37年)10月14日 - 1985年(昭和60年)12月11日)は、日本の地理学者。満州の建国大学で教鞭をとった。 青森県弘前市出身。京都大学地理学教室を卒業。大学院を経て東北の東北学院高等学校の教授となる。その後、1938年、作田荘一が指導する満州の建国大学へ着任する。戦後はチェレンホーボ炭鉱に抑留され、1947年に日本に帰国した。1949年に東北大学の講師、翌年に教授となった。 太平洋戦争中の彼の論文「大東亜地政学と満洲の地位」によれば、大東亜共栄圏について大東亜という広い地域のなかでの日本を中核とした国家連合を想定した。その大東亜の範囲について、日本を中心に、内核には日本、満州、中国を、中間圏にタイ王国やフィリピン、極東のシベリアなど、外側にはオーストラリアやアリューシャン列島などを想定する。
下程 勇吉(したほど ゆうきち、1904年10月6日 - 1… 下程 勇吉(したほど ゆうきち、1904年10月6日 - 1998年3月17日)は、日本の教育学者、京都大学名誉教授。教育人間学を提唱した。 広島県安佐郡戸山村にて下程直太郎の長男として誕生。1924年3月広島県立第一中学校(現:広島県立広島国泰寺高等学校)卒業。1927年3月広島高等学校(文科乙類)卒業。 1930年京都帝国大学文学部哲学科卒。1937年京都府立医科大学予科教授。1947年、京都大学助教授、「天道と人道 二宮尊徳の哲学」で、文学博士(京都大学)を取得。1948年京都大学教授。教育学部創設に参加し1951年から学部長。1968年定年退官、名誉教授。 松蔭女子学院大学学長 (1968.4 - 1970.3)。
大隅 健一郎(おおすみ けんいちろう、1904年10月2日 … 大隅 健一郎(おおすみ けんいちろう、1904年10月2日 - 1998年3月19日)は、日本の法学者。専門は商法。学位は、法学博士(京都大学・論文博士・1953年)(学位論文「株式会社法変遷論」)。京都大学名誉教授。最高裁判所裁判官。1973年勲一等瑞宝章受章、1977年日本学士院会員、1985年文化功労者、1993年文化勲章受章。愛知県蒲郡市出身。竹田省門下。弟子に上柳克郎、河本一郎、龍田節、川又良也など。 旧制岡崎中学校(現愛知県立岡崎高等学校)卒業。旧制第八高等学校(現名古屋大学)卒業。大学在学中に高等文官試験の行政科と司法科に合格。1928年に京都帝国大学法学部卒業。山田正三学部長の勧められて、京都帝国大学法学部助手となる。
田村 雄一(たむら ゆういち、1904年(明治37年)9月2… 田村 雄一(たむら ゆういち、1904年(明治37年)9月27日 - 1981年(昭和56年)8月15日 )は、日本の教育者・大気電気学者。京都大学名誉教授、岡山県高梁市出身。 1904年(明治37年)に岡山県川上郡吹屋町(現:高梁市成羽町吹屋)で生まれる。その後は地元に近い旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学し、1922年(大正11年)に卒業。旧制第六高等学校を経て、1925年(大正14年)京都帝国大学へ入学。同大学工学部電気工学科を1928年(昭和3年)に卒業した。卒業論文は「電光と避雷」であり、これが田村の将来を決めた。 田村は、京大卒業後、発電所か鉄道関係への就職を考えていたが、同大学理学部物理学教室から大気電気の研究助手の話があり、長谷川万吉教授の研究室に入った。
北上 四郎(きたかみ しろう、1904年(明治37年)9月3… 北上 四郎(きたかみ しろう、1904年(明治37年)9月3日 - 1953年7月25日)は、兵庫県出身の昆虫学者、登山家。男性。特にアミカ科昆虫の分類学的研究で知られる。日本でアミカの幼虫を初めて発見したのも北上である。 1904年、兵庫県武庫郡山田村 上谷上(現在の神戸市北区山田町上谷上)において、北上倉太良・りつの四男として生まれた。旧制第四高等学校(現在の金沢大学)を卒業し、1924年に京都帝国大学(現:京都大学)理学部動物学科に進学。 登山の愛好家でもあった北上は、大学在学中に早月川(富山県)へ出かけてイワナ釣りをしていた所、イワナの胃の中から当時日本未発見であったアミカの幼虫を発見した。
蓮實 重康(はすみ しげやす、1904年5月30日 - 19… 蓮實 重康(はすみ しげやす、1904年5月30日 - 1979年1月11日)は、日本美術史学者、元京都大学教授。東京市麻布生まれ。
田村 実造(たむら じつぞう、1904年5月25日 - 19… 田村 実造(たむら じつぞう、1904年5月25日 - 1999年2月24日)は、日本の東洋史学者、京都大学名誉教授、京都女子大学学長。 1904年、山口県生まれ。1929年京都帝国大学文学部史学科卒業。 1940年に京都帝国大学助教授となり、1947年に教授、文学部長を務め、1968年に定年退官する。京都女子大学学長。主著に『中国征服王朝の研究』、東洋史教科書作成にも多く参加した。1930年代に中国東北部の実地調査を行い、契丹・遼代の遺跡墳墓を発掘、契丹文字を初めて学会に紹介した。
田村 実造(たむら じつぞう、1904年5月25日 - 19… 田村 実造(たむら じつぞう、1904年5月25日 - 1999年2月24日)は、東洋史学者、京都大学名誉教授、元京都女子大学学長。
桑原 武夫(くわばら たけお、1904年〈明治37年〉5月1… 桑原 武夫(くわばら たけお、1904年〈明治37年〉5月10日 - 1988年〈昭和63年〉4月10日)は、日本のフランス文学・文化研究者、評論家。京都大学名誉教授。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は従三位・勲一等。人文科学における共同研究の先駆的指導者でもあった。芸術・思想・社会・教育など文化全般に通じ、共同研究を推進。その成果は『ルソー研究』(1951年)などの著作に結実した。『第二芸術ー現代俳句について』(1946年)での俳句批判は物議を醸した。 1904年、福井県敦賀郡敦賀町蓬莱(現・敦賀市)で生まれた。父は京都帝国大学教授で東洋史専攻の桑原隲蔵(じつぞう)。敦賀は里帰り出産(両親とも同地の出身)の地であり、このような場合は京都生まれと称するのが通例だが、本人は敦賀に愛着を持っており、出身地として記載を続けた。
貝塚 茂樹(かいづか しげき、1904年〈明治37年〉5月1… 貝塚 茂樹(かいづか しげき、1904年〈明治37年〉5月1日 - 1987年〈昭和62年〉2月9日)は、日本の東洋学者、中国史学者、中国考古学者。京都大学名誉教授。勲二等瑞宝章叙勲、文化功労者顕彰、文化勲章受章。 1904年(明治37年)、東京で地質学者・小川琢治の次男として生まれた。旧制京都府立京都第一中学校(現・京都府立洛北高等学校)、旧制第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部史学科に進学。1928年3月に卒業。同年4月、同大学院文学研究科に進学。1930年3月に修士課程を修了。1932年5月に博士後期課程を退学。 同1932年5月、東方文化学院京都研究所研究員に採用された。1938年4月、研究所の改組に伴い、以降東方文化研究所研究員。
鈴木 安蔵(すずき やすぞう、1904年3月3日 - 198… 鈴木 安蔵(すずき やすぞう、1904年3月3日 - 1983年8月7日)は、日本の法学者(憲法学者)・法制史家。静岡大学名誉教授。 1904年、福島県相馬郡小高町(現・南相馬市)生まれ。相馬中学、二高を経て、京都帝国大学哲学科に入学。文学部哲学科に入学したものの、河上肇の影響を受けて経済学部に転じる。1926年(大正15年)京都学連事件で検挙され、この事件が治安維持法違反第1号となり、大学を自主退学、豊多摩刑務所で2年間服役した。出獄後は吉野作造(明治文化研究会を結成し『明治文化全集』を編集)の影響を受け、マルクス主義の立場から大日本帝国憲法の制定史を研究、1933年(昭和8年)、著書『憲法の歴史的研究』として刊行したが「唯物史観的」として発禁処分を受け学界からは完全にパージされてしまった。
樺 俊雄(かんば としお、1904年〈明治37年〉3月2日 … 樺 俊雄(かんば としお、1904年〈明治37年〉3月2日 - 1980年〈昭和55年〉12月23日)は、日本の哲学者・社会学者。立正大学教授・中央大学教授・神戸大学教授・東京外国語大学教授・創価大学教授を歴任。 数学教育近代化の先駆的役割を果たした数学者・樺正董の孫。安保闘争で死亡した東京大学の女子学生樺美智子の父でもある。 東京府平民・会社重役樺剛の長男。 1927年京都帝国大学文学部哲学科卒、東京帝国大学大学院入学。1928年、立正大学講師、1933年 立正大学教授。 戦後1947年 中央大学教授。1950年、神戸大学教授、1952年、東京外国語大学教授、1955年、再び中央大学教授。1971年、創価大学教授。
田村 松平(たむら まつへい、1904年2月6日 - 199… 田村 松平(たむら まつへい、1904年2月6日 - 1994年9月24日)は日本の物理学者。 愛知県出身。京都帝国大学理学部物理学科卒業。京都大学理学部教授。1968年定年退官、名誉教授。スコラ哲学を経て誕生した物理学に詳しい。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
桜田 一郎(さくらだ いちろう、戸籍上は「櫻田」。1904年… 桜田 一郎(さくらだ いちろう、戸籍上は「櫻田」。1904年(明治37年)1月1日 - 1986年(昭和61年)6月23日)は、日本の化学者。京都大学名誉教授。日本学士院会員。紫綬褒章・文化勲章受章。 1939年(昭和14年)に日本初の合成繊維であるポリビニルアルコール系合成繊維(ビニロン)を李升基、川上博(大日本紡績)らと共同開発した。このほか、桜田の粘度式をはじめとして高分子に関する様々な研究を展開し、日本の高分子化学の基礎を築いた。高分子という日本語を定着させたのも彼である。 エスペランティストでもあった。 京都府生まれ。京都一中を卒業。三高時代にエスペラントを学ぶ。三高を卒業。 1924年ルドヴィコ・ザメンホフの演説集をエスペラントから日本語訳して、カニヤ書店から『夜の空の星の如くに』として出版した。
三友 國五郎(みとも くにごろう、1904年 <明治37年>… 三友 國五郎(みとも くにごろう、1904年 <明治37年> - 1983年 <昭和58年> 3月1日)は、日本の地理学者、考古学者。吉野ヶ里遺跡の発見者。位階は正四位。 埼玉県大里郡久下村(現・熊谷市)に生まれる。 旧制埼玉県立熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校)、旧制浦和高等学校(現・埼玉大学)を経て、1931年に京都帝国大学文学部史学科を卒業した。 卒業後は旧制福岡県立東筑中学校(現・福岡県立東筑高等学校)の教諭となる。当地では北九州郷土史研究会に参加した。1934年に吉野ヶ里遺跡を学会に報告し、七田忠七とともに発見者となった。 1938年に日本統治下の朝鮮にあった旧制平壌第三中学校に転任、1940年に旧制平壌第一中学校に移る。
山東 茂一郎(さんどう もいちろう、1904年 - 1985… 山東 茂一郎(さんどう もいちろう、1904年 - 1985年)は、日本の商学者。和歌山大学教授、甲南大学教授を歴任した。甲南大学名誉教授。専門はマーケティング論、販売政策。 日本の高度経済成長期において、販売政策やブランド論(有標品)の研究で先駆的な業績を残した。日本商業学会賞を2度受賞している。 1904年(明治37年)、大阪府大阪市に生まれ、その後和歌山県和歌山市で育つ。実家は和歌山市内で文房具商を営む家であった。父は商売人としての矜持を持ち、家業が繁盛していたため、長男である茂一郎に家業を継ぐことを望んでいた。一方で、士族出身の母は商売よりも学問や精神性を重んじる気風を持っていた。 小学校卒業時、成績優秀であったが、父は「商売を継ぐのに学問はいらない」として、進学予備校的な役割も果たしていた旧制和歌山中学校(現・桐蔭高校)への進学を認めなかった。
平山 重勝(ひらやま しげかつ、1904年(明治37年) -… 平山 重勝(ひらやま しげかつ、1904年(明治37年) - 1994年(平成6年)4月5日)は、日本の植物病理学者。タバコモザイク病などの研究を行った。 三重高等農林学校を卒業後、京都帝国大学農学部に入学、1928年卒業、大学院に進学し、1930年、徳川生物学研究所の嘱託研究員となった。徳川生物学研究所でタバコモザイク病の研究をはじめ、1935年に「煙草・モザイク病の細胞学的研究1」を発表した。1939年に徳川生物学研究所を退職、厚生省衛生試験所技師となり、1947年に厚生省衛生試験所植物部長などを務め、病変米菌の代謝生物に関する研究などを行った。1949年、「タバコモザイク病に関する研究」にて農学博士(京都大学)。
中村健児(なかむら けんじ、1903年11月23日 - 19… 中村健児(なかむら けんじ、1903年11月23日 - 1984年7月30日)は、日本の生物学者(動物学・発生生物学・細胞生物学)。京都大学名誉教授。理学博士。 男爵中村雄次郎の六男。中村貫之の弟。 細胞分裂時の染色体に関する研究、爬虫類の分類学的研究を行った。
小島 威彦(こじま たけひこ、1903年11月19日 - 1… 小島 威彦(こじま たけひこ、1903年11月19日 - 1996年12月1日)は、日本の哲学者。明星大学名誉教授。 実業家・政治家の深尾隆太郎は妻の父。兄に海軍少将の小島秀雄。 神戸出身。1928年、京都帝国大学文学部哲学科卒業。1930年、同大学院修了。1932年、中華民国に留学。1936年、英国・フランス・ドイツに学ぶ。 1930年、仲小路彰らと科学アカデミアを創立。同人に、佐々弘雄・三枝博音・飯島正・冨澤有爲男・唐木順三・渡辺一夫・服部之総らがいた。1938年、国民精神文化研究所所員となって以降、右翼思想を喧伝。国家学者の大串兎代夫や教育学者の伏見猛彌と共に精研三羽烏と呼ばれる。 出版社の世界創造社、および編集プロダクション兼文化サロン「戦争文化研究所」を創設。
内田 洋一(うちだ よういち、1903年〈明治36年〉11月… 内田 洋一(うちだ よういち、1903年〈明治36年〉11月 - 1999年〈平成11年〉9月18日)は、日本の応用物理学者。専門は分光学。京都大学名誉教授。 1903年11月に京都市左京区吉田で生まれた。1926年3月に京都帝国大学理学部物理学科を卒業し、同年4月に同大学理学部助手に着任した。木村正路研究室で分光学の研究に従事し、日本で最初にラマンスペクトルを測定、1928年12月に報告した。当時の実験装置は光源強度が弱く、その分ラマン散乱光も微弱なため、最高80時間試料に対し暴露することによって、ラマンスペクトルの測定に成功した。1930年代中葉から、分光学的手法を原子・分子から固体研究に適用することを考え、蛍光および燐光体の研究を開始した。
勝木 新次(かつき しんじ、1903年9月19日 - 198… 勝木 新次(かつき しんじ、1903年9月19日 - 1985年1月27日)は、日本の労働衛生学者。弟は生理学者の勝木保次。 石川県出身。旧制小松中学、旧制第三高校を経て、東京帝国大学医学部卒業、1934年医学博士。大原記念労働科学研究所に勤め、所長、出版部。明治生命厚生事業団体力医学研究所。
佐竹 金次(さたけ きんじ、1903年〈明治36年〉8月13… 佐竹 金次(さたけ きんじ、1903年〈明治36年〉8月13日 - 1964年〈昭和39年〉10月18日)は大日本帝国陸軍の軍人・工学者。 陸軍科学研究所、ドイツ任官を経て日本陸軍のレーダー開発に貢献した。 1903年(明治36年)、愛知県豊川市森町にて、父幹方、母ときの4男(8人兄弟)として生まれる。幼少期から学業に優れ、名古屋陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校本科を経て、1924年(大正13年)7月18日に陸軍士官学校(36期)を卒業し、同年10月25日に工兵少尉に任官、工兵第1大隊付となる。1927年(昭和2年)12月22日に陸軍砲工学校(33期)高等科を首席卒業後、更に員外学生として京都帝国大学電気工学科に在学。
森 暢(もり とおる、1903年7月 - 1985年11月4… 森 暢(もり とおる、1903年7月 - 1985年11月4日)は、日本の美術史家。大阪工業大学名誉教授。中世日本の絵画を研究。 和歌山県生まれ。京都帝国大学文学撰修科修了。大阪工業大学教授、外務省嘱託。1971年「歌仙絵の研究」で東洋大学文学博士。川端康成と親しかった。妻は女優の毛利菊枝。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
中西 信太郎(なかにし のぶたろう、1903年4月26日 -… 中西 信太郎(なかにし のぶたろう、1903年4月26日 - 1976年6月3日)は、日本の英文学者、京都大学名誉教授。 京都府生まれ。京都帝国大学英文科卒業。京都女子高等専門学校教授などを経て1934年京都帝大文学部助教授、1949年京大教授。1967年定年退官、名誉教授、関西大学教授、甲南女子大学教授。 シェイクスピアの「ソネット集」を完訳した。 園部高等学校の校歌の作詞も手がけた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
藤 直幹(ふじ なおもと、1903年3月6日 - 1965年… 藤 直幹(ふじ なおもと、1903年3月6日 - 1965年8月24日)は、日本の日本史学者。 徳島県徳島市に生まれる。松山高等学校を経て、1928年京都帝国大学文学部史学科卒業。1931年に同大学院を退学し、京都帝国大学文学部講師となる。1936年助教授。戦後は、1948年に大阪大学法文学部教授(1953年、文学部教授)となり、1958年には文学部長。 専門は日本中世史。「中世武家故実の研究」によって1948年に京都大学から文学博士の学位を授与される。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
藤本 武助(ふじもと ぶすけ、1903年1月16日 - 19… 藤本 武助(ふじもと ぶすけ、1903年1月16日 - 1985年)は、日本の空気力学者、流体力学者、教育者。 1903年(明治36年)大阪府に生まれる。1927年(昭和2年)、京都帝国大学工学部機械学科を卒業。京都帝国大学工学部講師、助教授を経て1935年(昭和10年)から欧米に留学。帰国した1939年(昭和14年)に京都帝国大学の教授となった。 1953年(昭和28年)、京都大学工学所所長に就任。1960年(昭和35年)から1962年(昭和37年)にかけて京都大学工学研究所(現京都大学エネルギー理工学研究所)研究用原子炉建設本部の本部長に就任。原子炉の設置承認に立ち会った。1963年(昭和38年)から1965年(昭和40年)、京都大学大学院工学研究科・工学部部長を務め、1966年(昭和41年)からは京都工芸繊維大学工業短期大学部学長を務めた。
大石 義雄(おおいし よしお、1903年1月8日 - 199… 大石 義雄(おおいし よしお、1903年1月8日 - 1991年4月29日)は、日本の法学者(憲法)。法学博士(立命館大学・論文博士・1947年)。京都大学名誉教授。従三位勲二等瑞宝章。山形県出身[要出典]。 戦後、押し付け憲法論、憲法無効論、改憲論を積極的に唱えた。 旧制弘前高等学校(弘前大学の前身)を経て、1929年に京都帝国大学法学部卒業。同大では佐々木惣一に憲法を学ぶ。1947年立命館大学より法学博士の学位を取得。 1930年、和歌山高等商業学校(和歌山大学経済学部の前身)講師、1939年、同教授。1947年、大阪府立淀川工業専門学校(大阪府立大学工学部の前身)校長、1947年12月京都大学法学部教授(国法学講座)、1950年から1956年まで大阪大学教授兼任、1956年9月京都大学法学部長(1958年12月まで)、1966年4月京都大学を定年退官し名誉教授となる。
栗原 善夫(くりはら よしお、1902年〈明治35年〉12月… 栗原 善夫(くりはら よしお、1902年〈明治35年〉12月26日 - 1977年〈昭和52年〉11月21日)は、日本の皮膚科学者、皮膚科医。医学博士。大阪医科大学名誉教授、日本皮膚科学会名誉会員。趣味は蝶の収集。 新潟県西蒲原郡味方村大字西白根(現 新潟市南区西白根)の白根尋常高等小学校訓導・栗原九十九の長男として出生。1908年(明治41年)4月の父の吉田尋常高等小学校への異動に伴って新潟県西蒲原郡吉田村(現 燕市)に転居。 吉田尋常高等小学校を経て、1921年(大正10年)3月に新潟中学校を卒業、1925年(大正14年)3月に新潟高等学校を卒業、1930年(昭和5年)3月に京都帝国大学医学部医学科を卒業。
大山 敷太郎(おおやま しきたろう、1902年12月1日 -… 大山 敷太郎(おおやま しきたろう、1902年12月1日 - 1975年1月31日)は、日本の経済学・経済史学者。 1902年、愛知県渥美郡花田村で生まれた。京都帝国大学経済学部で学び、1928年に卒業した。同大学大学院に進学。 1932年、京都帝国大学経済学部の助手に採用された。1933年から1940年まで、大蔵省の委託で『明治・大正財政史』の編纂にあたった。1941年、立命館大学経済学部教授に就いた。1950年、学位論文『近世交通経済史論』を立命館大学に提出して経済学博士の学位を取得。戦後の1956年、甲南大学経済学部教授。1973年に甲南大を定年退職し、名誉教授となった。1975年に死去。
高田 三郎(たかだ さぶろう、1902年〈明治35年〉11月… 高田 三郎(たかだ さぶろう、1902年〈明治35年〉11月14日 - 1994年〈平成6年〉5月12日)は、日本の西洋哲学史(中世哲学)研究者、京都大学名誉教授。 大阪府に生まれる。1927年(昭和2年)京都帝国大学文学部哲学科(西洋古代中世哲学専攻)卒業。同年大学院に進学。1929年(昭和4年)から1932年(昭和7年)までの3年間ヨーロッパに留学し、オックスフォード大学のウィリアム・デイヴィッド・ロス(英語版)や、ベルリン大学のヴェルナー・イェーガーらのもとで西洋古典哲学を学んだ。 帰国後に広島文理科大学哲学科に講師として赴任。1936年(昭和11年)同大助教授、1947年(昭和22年)より京都大学文学部助教授、1950年(昭和25年)同大教授、1966年(昭和41年)定年退官し名誉教授。
三宅 儀(みやけ ただし、1902年(明治35年)10月29… 三宅 儀(みやけ ただし、1902年(明治35年)10月29日 - 1993年(平成5年)5月18日 )は、岡山県高梁市出身の医学者。京都大学名誉教授。佳木斯医科大学講師、岐阜県立医科大学教授・学長心得(代理)を経て京大医学部教授となる。第21代京都大学医学部附属病院長、国立京都病院長を務めた。 1902年(明治35年)に岡山県川上郡大賀村(現:高梁市)で生まれる。その後、1915年(大正4年)旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学した。同校は、後に三宅の上司となる井上硬の出身校でもあり、三宅も井上と同じ学歴を歩むだけでなく、医者としても同じコースを歩むこととなる。 1920年(大正9年)に卒業し、旧制第六高等学校へ進学する。
磯部 喜一(いそべ きいち、1902年10月18日 - 19… 磯部 喜一(いそべ きいち、1902年10月18日 - 1987年8月15日)は、日本の経済学者・経営学者。専門は、工業経済学、中小企業論。東京工業大学・武蔵大学名誉教授。 大阪府大阪市生まれ。1926年京都帝国大学経済学部卒。1949年「日本漆器工業論」で、京都大学より経済学博士の学位を取得。1928年関西大学専任講師、助教授、教授、1944年東京工業大学生産工学部助教授、教授、1963年定年退官、名誉教授、広島大学工学部教授・武蔵大学教授。1972年武蔵大学名誉教授。日本工業経営学会会長。
吉岡 金市(よしおか かねいち、1902年7月26日 - 1… 吉岡 金市(よしおか かねいち、1902年7月26日 - 1986年11月20日)は、日本の農学者。 岡山県井原市に生まれる。1930年京都帝国大学農学部農林経済学科を卒業する。倉敷労働科学研究所員、労働科学研究所を経て、岡山理科大学教授、同朋大学教授、金沢経済大学(現・金沢星稜大学)学長、龍谷大学教授などを歴任した。1961年、萩野昇とともに富山県神通川流域のイタイイタイ病の原因がカドミウムであることを突き止めた。ほかに1950年の第2回参議院議員通常選挙で全国区から立候補したが辞退した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
梯 明秀(かけはし あきひで、 1902年7月16日 - 1… 梯 明秀(かけはし あきひで、 1902年7月16日 - 1996年4月14日は、日本の哲学者(経済哲学)。立命館大学名誉教授。 ヘーゲル、マルクスを専門とし、京都学派左派の戦時下抵抗思想と三木哲学批判で知られる。 徳島県出身。1928年京都帝国大学文学部哲学科(社会学)卒。西田幾多郎・田辺元にも師事。唯物論研究会に所属するが、1938年に検挙され転向。戦後は第六高等学校教授を経て、1950年に立命館大学教授。1959年「資本論の学的体系性 マルクス主義経済哲学の基礎づけのために」で立命館大学経済学博士。立命館大学経済学部教授、1963年定年退任、名誉教授。橘女子大学教授。1964年に廃止された立命館大学吉田寮の寮監を務めていた。
三品 彰英(みしな あきひで、みしな しょうえい、1902年… 三品 彰英(みしな あきひで、みしな しょうえい、1902年7月5日 - 1971年12月19日)は、日本の歴史学者、神話学者。海軍教授、大谷大学教授、同志社大学教授、大阪市立博物館館長、佛教大学教授などを歴任。 1928年、京都帝国大学文学部史学科を卒業。戦前は、智山大学講師、京都帝国大学講師、海軍教授などを務めた。 戦後の1945年、海軍教授を退職して大谷大学講師となり、1946年に同教授、1955年から同志社大学教授を1960年まで務める。退職後は大阪市立博物館館長・佛教大学教授など歴任。朝鮮古代史で著名な東北大学名誉教授の井上秀雄などを指導したほかに、1960年から日本書紀研究会を主宰するなどして関西の日本古代史研究者を多く育てた。
淡野 安太郎(だんの やすたろう、1902年(明治35年)7… 淡野 安太郎(だんの やすたろう、1902年(明治35年)7月2日 - 1967年(昭和42年)9月28日)は、日本の哲学者。台北帝国大学助教授、東京大学教授、学習院大学教授を歴任。 兵庫県出身。京都帝国大学哲学科卒。台北帝国大学助教授、東京大学教養学部助教授、1957年教授、63年定年退官、学習院大学教授。専門はフランス哲学、社会思想史。
猪熊 兼繁(いのくま かねしげ、1902年7月1日 - 19… 猪熊 兼繁(いのくま かねしげ、1902年7月1日 - 1979年1月7日)は、日本の歴史学者、国学者。京都大学名誉教授。専門は日本法制史。 京都府京都市生まれ。父は有職故実学者の猪熊浅麻呂。祖父の猪熊夏樹は白鳥神社の10代宮司・宮中進講(皇族のための教師)。兄に猪熊兼幹。妻は吉村伊助の娘。子に猪熊兼勝。甥に猪熊兼年。孫に猪熊兼樹。 旧制第三高等学校文科乙類を経て、1928年に京都帝国大学法学部を卒業。1962年「倭国法研究序説」で京都大学より法学博士の学位を取得。 1947年京都大学法学部教授となり、1966年退官。 家学である有識故実の研究にも従事。京都の葵祭や時代祭、都をどりなどの時代考証を行った。
島 芳夫(しま よしお、1902年5月20日 - 1985年… 島 芳夫(しま よしお、1902年5月20日 - 1985年11月)は、日本の倫理学者、京都大学名誉教授。 福井県生まれ。1926年京都帝国大学文学部哲学科卒。1936年、同助教授、京大教授、1966年、定年退官、大谷大学教授。文学博士。
佐藤 匡玄(さとう きょうげん、1902年5月19日 - 1… 佐藤 匡玄(さとう きょうげん、1902年5月19日 - 1993年10月7日)は、日本の東洋学者、教育者。第2代愛知学芸大学(現・愛知教育大学)学長、東方文化研究所研究員、建国大学助教授などを務めた。 愛知県豊橋町または豊岡村に生まれる(現在の豊橋市東田町)。京都帝国大学文学部支那哲学科卒業。1935年(昭和10年)、第三高等学校講師となる。 1938年(昭和13年)から2年間、文部省文化事業部在支特別研究員として中国に留学した。1940年(昭和10年)、東方文化研究所研究員を命ぜられる。1941年(昭和16年)、満州国の建国大学助教授に就任。東洋文化の解明に学究的情熱を傾注した。 終戦まで建国大学に在職。
西山 市三(にしやま いちぞう、1902年〈明治35年〉2月… 西山 市三(にしやま いちぞう、1902年〈明治35年〉2月19日 - 1999年〈平成11年〉7月16日)は、日本の遺伝学者。京都大学名誉教授・農学博士。専門は細胞遺伝学。位階は正四位。 群馬県利根郡沼田町(現在の沼田市)町田町に生まれる。旧制沼田中学校(現・群馬県立沼田高等学校)を経て、京都帝国大学農学部農林生物学科に入学、木原均に就いて学び、1927年に卒業。 卒業後は同大学でカラスムギの細胞遺伝の研究に取り組む。1937年に助教授、1946年には教授となり、同大食糧科学研究所に勤務。1956年、京都大学農学部に配置替えとなる。1965年定年により退官、同大学名誉教授となる。 退官後も1965年から67年まで米国ウィスコンシン大学客員教授、1967年から68年までミズーリ大学客員教授、帰国後の1971年から84年まで財団法人木原研究所評議員、1972年から74年まで名城大学教授を務めた。