宮坂 保清(みやさか やすきよ、1916年3月28日 - 1… 宮坂 保清(みやさか やすきよ、1916年3月28日 - 1981年5月22日)は、日本の公認会計士、会計学者。 長野県諏訪市出身。旧制成立商業学校を経て、1937年明治大学商学部卒業。1939年計理士開業。1949年公認会計士開業。同年から1972年まで母校講師。1971-1977年日本公認会計士協会会長、同相談役。第一監査事務所代表社員。
明治大学:2,998人
宮坂 保清(みやさか やすきよ、1916年3月28日 - 1… 宮坂 保清(みやさか やすきよ、1916年3月28日 - 1981年5月22日)は、日本の公認会計士、会計学者。 長野県諏訪市出身。旧制成立商業学校を経て、1937年明治大学商学部卒業。1939年計理士開業。1949年公認会計士開業。同年から1972年まで母校講師。1971-1977年日本公認会計士協会会長、同相談役。第一監査事務所代表社員。
菊田 義孝(きくた よしたか、1916年(大正5年)3月21… 菊田 義孝(きくた よしたか、1916年(大正5年)3月21日 - 2002年(平成14年)7月21日)は、日本の詩人・文芸評論家。「群系」創刊同人。 仙台市生まれ。1937年(昭和12年)明治大学文藝科卒。太宰治と親しく交わる。戦後、紫書房、大蔵財務協会に勤務。1960年(昭和35年)よりフリーの編集者。かたわら文芸評論を書いた。「群系」創刊同人。 息子・菊田求(1949-1975)も詩や小説を書いたが、学生運動のさなか自死した。遺稿集に『反逆と愛のはざまで ある学生の孤独な遺書』(光風社出版 1979年5月)がある。
曺 逸煥(チョ・イルァン、朝鮮語: 조일환/曺逸煥、1916… 曺 逸煥(チョ・イルァン、朝鮮語: 조일환/曺逸煥、1916年3月13日 - 1980年1月28日)は、大韓民国の政治家。第4・5・7・8代韓国国会議員。本貫は昌寧曺氏(朝鮮語版)。24保安法波動の時に負傷し病院に搬送された野党議員の1人であった。 日本統治時代の大邱府出身。明治大学法学部卒。大邱大学(現・嶺南大学校)講師、民主党中央党政策委員・中央常務委員・大邱戊区党委員長、新民党慶尚北道第4地区党委員長・全党大会副議長・中央党指導委員、国会財政経済委員会幹事、国会大邱西門市場(朝鮮語版)火災事件救護調査特別委員会委員長を務めた。 1980年1月28日、持病により大邱市内の自宅で死去。享年64。
三上 隆彦(みかみ たかひこ、1916年2月16日 - 19… 三上 隆彦(みかみ たかひこ、1916年2月16日 - 1988年9月27日)は、日本の洋画家。 東京都出身。明治大学卒業。1934年第10回白日会展に中学生で初入選する。独立美術協会展に14年間出品(恩師:中村節也画伯)。 明大時代はフェンシングや馬術の選手として活躍。(戦後は日本フェンシング協会理事長をつとめた。) その後、渡米しニューヨーク・ナショナル・アカデミー美術学校に学ぶ。欧米で日本の美術文化の紹介に努め、美術教育に当たる。馬の三上と言われる程、馬を描いて有名である。棟方志功は渡米した時に三上隆彦にお世話になったと自伝小説に記している。 1967年、日本へ帰国後1976年日輝会美術協会を創設、会長に就任して第1回日輝展を公募、総合美術展として上野の森美術館で旗揚げした。
繁里 栄(しげり さかえ、1916年 - 1960年12月8… 繁里 栄(しげり さかえ、1916年 - 1960年12月8日)は、大分県出身のプロ野球選手。ボジションは投手。
小阪 三郎(こさか さぶろう、1915年11月16日 - 1… 小阪 三郎(こさか さぶろう、1915年11月16日 - 1992年12月5日)は、三重県出身のプロ野球選手(内野手)。
島田 正郎(しまだ まさお、1915年9月29日 - 200… 島田 正郎(しまだ まさお、1915年9月29日 - 2009年11月23日)は、日本の東洋史学者・法制史学者。学位は、法学博士(明治大学・論文博士・1951年)(学位論文「遼令の研究」)。元明治大学総長。東京市麹町区生まれ。 旧制明治中学校(現:明治大学付属明治高等学校)を卒業し、1939年に東京帝国大学文学部東洋史学科を卒業。北京に留学し、41年に帰国。 1942年、東方文化学院(東京研究所)研究員。1947年、東京大学東洋文化研究所所員。1948年、明治大学専門部法律科講師。明治大学専門部法律科助教授。1951年、明治大学法学部教授。同年、「遼令の研究」で法学博士(明治大学)の学位を取得。
李 敏雨(イ・ミヌ、1915年9月5日 - 2004年12月… 李 敏雨(イ・ミヌ、1915年9月5日 - 2004年12月9日)は、大韓民国における政治家。1958年に行われた第4代総選挙で初当選(民主党)した後、国会議員を通算6期務めた。その間、国会副議長(1976年3月12日~79年3月11日)や第五共和国時代(1980年 - 1988年)における最大野党であった新韓民主党の総裁を務めるなど、権威主義時代の韓国における代表的な野党政治家として活躍した。 1915年9月15日、忠清南道論山で生まれる。本貫は慶州李氏。日本の明治大学法学部を中退後(1941年)、朝鮮に帰国。解放後の1946年に忠北新報の総務局長兼営業局長となり、48年に清州市議会副議長となった。
天野 秀二(あまの しゅうじ、1915年8月2日 - 200… 天野 秀二(あまの しゅうじ、1915年8月2日 - 2009年3月11日)は、新宿高野に勤務して「フルーツ評論家」として、また「ギャラリー新宿高野」の支配人として知られた日本のサラリーマン。 1915年、静岡県浜松市に生まれる。父親は当時、静岡銀行の支店長をしていた。 明治大学商学部に学び、1938年に住友銀行に入行した。 第二次世界大戦中には召集されて、名古屋の自動車部隊の助教となった。兵役期間を満了し、1944年に住友銀行に復帰し、終戦までの時期に、家族を静岡に疎開させながら東京で勤務し、激しい空襲を経験する。 1959年、当時副社長であった高野保の誘いに乗って新宿高野に転職し、以降、広報を担当し「フルーツ評論家」として各方面に寄稿するなどして、後には、取締役になった。
伊藤 三郎(いとう さぶろう、1915年7月18日 - 19… 伊藤 三郎(いとう さぶろう、1915年7月18日 - 1978年1月19日)は、日本の競泳選手。現役時代の種目は平泳ぎで、明治大学在学中に1936年ベルリンオリンピック日本代表のひとりとなり、男子200m平泳ぎ決勝で2分47秒6のタイムを出し、5位に入賞した。 静岡県磐田郡豊浜村(後の磐田市の南東部)出身。中泉農学校(後の静岡県立磐田農業高等学校の前身)から、明治大学に進んだ。 1938年に明治大学を卒業し、昭和製鋼所に入社と報じられた。 1941年、陸軍少尉となっていた伊藤は、第23軍第38師団の一員として香港島の戦いに参加した。そして、12月22日、戦闘中に銃創を負ったと報道された。 明治大学水泳部監督、日本水泳連盟常務理事、埼玉県水泳連盟副会長を歴任。
金子 操(かねこ みさお、1915年7月1日 - 1990年… 金子 操(かねこ みさお、1915年7月1日 - 1990年3月22日)は日本の実業家。死亡時の役職は東宝代表取締役副社長、生活衛生同業組合京都興行理事長。東京都小平市出身。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
森 一也(もり かずや、 1915年(大正4年)4月8日 -… 森 一也(もり かずや、 1915年(大正4年)4月8日 - 1998年(平成10年)2月1日)は、コロムビア専属の作曲家・音楽評論家(懐メロ解説)。愛知県出身。弟にアニメーション評論で知られる映画評論家の森卓也。 幼少の頃から詩人・西條八十の大ファンで、西條八十作の童話に親しみ、毎晩母親から読み聞かせてもらわなければ寝られぬほどであったという。昭和7年4月に愛知県の一宮中学校から明治大学附属中学校に編入、翌8年4月に家事都合で退学する。また、明治大学講堂で開かれた山田耕筰の音楽講座に出席するなど音楽についての研究に没頭し、その後、東京音楽学校(現:東京藝術大学)を卒業。一時、ビクターコンサートビューローに籍を置き、戦時中は地元名古屋で音楽教師として活躍。
石原田 愿(いしはらだ すなお、1915年(大正4年)3月2… 石原田 愿(いしはらだ すなお、1915年(大正4年)3月24日 - 1987年(昭和62年)3月19日)は、昭和時代の競泳選手。 鹿児島県姶良郡福山村(福山町を経て現霧島市)に生まれる。旧制福山中学校(現 鹿児島県立福山高等学校)出身。 明治大学在学中、1932年ロサンゼルスオリンピックに競泳日本代表として男子1500m自由形に出場し4位に入賞した。つづく1936年ベルリンオリンピックでは前大会と同じく男子1500m自由形に出場し4位に入賞した。
木元 健太(きもと けんた、1915年〈大正4年〉1月15日… 木元 健太(きもと けんた、1915年〈大正4年〉1月15日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である。本名は木元 一郎(きもと いちろう)。館林 一郎(たてばやし いちろう)の名で脚本を提供したことがある。 1915年(大正4年)1月15日、群馬県邑楽郡館林町(現在の同県館林市)に生まれる。 明治大学文芸科に進学し、在学中は映画研究会に所属した。1936年(昭和11年)に明治大学を卒業。1937年(昭和12年)日活多摩川撮影所(のちの大映東京撮影所、現在の角川大映撮影所)助監督部に入社、内田吐夢(1936年 - 1940年在籍)、伊賀山正光(当時は正徳、1934年 - 1942年在籍)、春原政久(1934年 - 1941年在籍)、千葉泰樹(1934年 - 1939年在籍)、富岡捷(1938年 - 1939年在籍)らに師事した。
室井 豊(むろい ゆたか、1915年 - 1965年10月6… 室井 豊(むろい ゆたか、1915年 - 1965年10月6日)は、大阪府出身のプロ野球選手。主なポジションは捕手。
三淵 嘉子(みぶち よしこ、1914年〈大正3年〉11月13… 三淵 嘉子(みぶち よしこ、1914年〈大正3年〉11月13日 - 1984年〈昭和59年〉5月28日)は、日本初の女性弁護士の1人であり、初の女性判事および家庭裁判所長。旧姓:和田()、旧々姓:武藤()。従三位。 台湾銀行勤務の武藤貞雄とノブの長女として、シンガポールにて生まれる。シンガポールの漢字表記のひとつである「新嘉坡」から「嘉子」と名付けられた。 東京府青山師範学校附属小学校(現在の東京学芸大学附属世田谷小学校)を経て東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属高等学校)を卒業した際に、進歩的な考えを持つ父に影響を受け法律を学ぶことを決意し、当時女子に唯一法学の門戸を開いていた明治大学専門部女子部法科に入学した。
河津 憲太郎(かわつ けんたろう、1914年(大正3年)9月… 河津 憲太郎(かわつ けんたろう、1914年(大正3年)9月26日 - 1970年(昭和45年)3月24日)は、日本の水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピック100メートル背泳ぎで銅メダルを獲得。明治大学出身。
永松 英吉(ながまつ ひできち、男性、1914年8月4日 -… 永松 英吉(ながまつ ひできち、男性、1914年8月4日 - 1992年11月18日)は、日本の元アマチュアボクシング選手。ベルリンオリンピックライト級日本代表。明治大学卒業。歌手の菅原都々子は妻。 大学時代、1934年から3年連続で全日本選手権ライト級に優勝を収めた。 1936年、ベルリンオリンピックにライト級の日本代表として出場し、1回戦にポイント勝ちを収め、2回戦でこの大会の銀メダリストとなるニコライ・ステパロフ(英語版)(エストニア)との対戦にポイント負けとなった。 この項目は、ボクシング関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJボクシング/PJキックボクシング)。
杉浦 清(すぎうら きよし、1914年7月20日 - 198… 杉浦 清(すぎうら きよし、1914年7月20日 - 1987年8月22日)は、愛知県西尾市出身のプロ野球選手・監督、旧制中等学校野球指導者、野球解説者。
金指 正三(かなさし しょうぞう、1914年〈大正3年〉6月… 金指 正三(かなさし しょうぞう、1914年〈大正3年〉6月14日 - 1989年4月24日)は、日本の歴史家。法学博士。法制史、海事慣習制度の研究者。 1914年6月14日、静岡県富士市に生まれる。静岡県立富士中学校、福岡高等学校文科丙類を卒業。1941年3月、東京帝国大学文学部国史学科卒業。1943年、同経済学部経済学科卒業。のち、同大学院経済学研究科修了。1962年、「江戸時代の海難救助制度の研究」により明治大学から法学博士の学位を取得。1952年、海上保安大学校教授。1973年4月から1975年4月まで教頭。1976年11月、海上保安大学校退官、名誉教授の称号を授与される。山陽女子短期大学教授、呉市立図書館長。
寺田 弘(てらだ ひろし、1914年4月29日 - 2013… 寺田 弘(てらだ ひろし、1914年4月29日 - 2013年3月7日)は、日本の詩人。 福島県生まれ。明治大学専門部卒、愛知教育大学事務局長、都民劇場常任理事。1991年から1993年まで日本詩人クラブ会長。1996年現代詩人会から先達詩人顕彰を受ける。2013年3月7日、老衰のため98歳で死去。
吉田 正男(よしだ まさお、1914年4月14日 - 199… 吉田 正男(よしだ まさお、1914年4月14日 - 1996年5月23日)は、昭和初期に活躍した中等学校野球、大学野球及び社会人野球の選手。昭和6年(1931年)から昭和8年(1933年)にかけて、夏の甲子園大会で3連覇の偉業を達成した中京商業学校(現・中京大学附属中京高等学校)のエース。甲子園で史上最多となる23勝を記録した。
平野 仁啓(ひらの きみひろ/じんけい、1914年4月6日 … 平野 仁啓(ひらの きみひろ/じんけい、1914年4月6日 - 1996年11月25日)は、日本の文芸評論家。 広島県生まれ。本名・保。明治大学文学部卒、明大教授、1985年定年退職、名誉教授。20代には、同人文芸誌「批評」にも参加した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
船山 馨(ふなやま かおる、1914年3月31日 - 198… 船山 馨(ふなやま かおる、1914年3月31日 - 1981年8月5日)は、日本の小説家。船山春子の夫。次男は彫刻家の船山滋生。戦後文学の旗手として活躍し、代表作に『石狩平野』『お登勢』などがある。 北海道札幌市生まれ。実父の小林甚三郎は余市町の出身で、馨の出生当時は東北帝国大学農科大学(現・北海道大学農学部)の学生であった(後に北海道拓殖銀行などに勤務)。母方の実家の意向で母方の船山姓を名乗り、実父とも生後間もなく離別した。なお、馨によると甚三郎はクリスチャンで、トルストイなどの文学愛好者でもあったという。養父は新聞記者・森笛川。 札幌二中(現北海道札幌西高等学校)に在学中、組合教会に通った。
江口 榛一(えぐち しんいち、1914年〈大正3年〉3月24… 江口 榛一(えぐち しんいち、1914年〈大正3年〉3月24日 - 1979年〈昭和54年〉4月18日)は、日本の詩人、社会運動家。 大分県中津市耶馬溪町山移に生まれる。本名は江口新一。1937年(昭和12年)明治大学文芸科を卒業。大学卒業後は満州で新聞記者を務める。 戦後、日本に復員後は赤坂書店で働きながら詩作を行う。一時期共産党に加入。 1949年(昭和24年)に「未練」(『文藝時代』1949年3月号)が第21回芥川龍之介賞予選候補、1954年(昭和29年)に「近所合壁」(『新潮』1954年5月号)が第31回芥川龍之介賞候補となる。 1955年(昭和30年)に受洗。翌年の1956年(昭和31年)、地の塩の箱運動を起こし、機関誌『地の塩の箱』を発行する。
堀尾 青史(ほりお せいし、1914年3月22日〈大正3年〉… 堀尾 青史(ほりお せいし、1914年3月22日〈大正3年〉 - 1991年〈平成3年〉11月6日)は、日本の紙芝居作家・児童文学作家。宮沢賢治の伝記研究でも知られる。 兵庫県加古郡高砂町(現・高砂市)生まれ。1935年明治大学中退、松永健哉と出会い、紙芝居に関わる。その前年、東北大冷害の取材のために岩手県を訪れ、宮沢賢治とその前年の死去を知る。その後、賢治の実弟である宮沢清六の知遇を得て、賢治の事績について研究を始める。戦後は1948年民主紙芝居集団、1968年子どもの文化研究所に参加。また、農山漁村文化協会や全日本社会教育連合会に勤務した。 1966年、宮沢賢治の編年体伝記『年譜宮澤賢治伝』(図書新聞社)を刊行する。
松山 千恵子(松山 千惠子、まつやま ちえこ、1914年〈大… 松山 千恵子(松山 千惠子、まつやま ちえこ、1914年〈大正3年〉3月11日 - 2015年〈平成27年〉2月6日)は、日本の政治家。衆議院議員(自民党)。衆議院議長や文部大臣などを歴任した松永東の長女。 1914年、東京府(現・東京都)に出生。長崎県人・松永東の長女。生母は、うたである。 京華高等女学校を卒業。1934年、明治大学専門部女子部法科を卒業。1937年、長崎県諌早市出身の弁護士・松山義雄と結婚する。 1960年、埼玉県第2区より、衆議院選挙に立候補し当選、埼玉県初の女性代議士となった(当選3回)。厚生政務次官、郵政政務次官などを歴任した。 1984年4月の春の叙勲で勲三等に叙され、宝冠章を受章する。
松本 善壽(まつもと よしじ、1914年3月1日 - 200… 松本 善壽(まつもと よしじ、1914年3月1日 - 2000年1月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。計理士。税理士。行政書士。社会保険労務士。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
石田 政良(いしだ まさよし、1914年1月7日 - 没年不… 石田 政良(いしだ まさよし、1914年1月7日 - 没年不明)は、鹿児島県出身のプロ野球選手。ポジションは外野手。 鹿児島商業では第15回全国中等学校優勝野球大会に出場。この大会では本塁打も記録している。卒業後は明治大学、門司鉄道局へ進み、1937年に名古屋軍へ入団。1938年春季リーグでリーグ3位となる打率.324を記録。俊足の選手であり、1940年の夏季シーズン途中に応召されるが、その時点で32盗塁を記録しており、そのまま追い抜かれることはなく盗塁王を獲得した。 1946年に復帰し、同年引退した。
金 正淵(きん せいえん、キム・ジョンヨン、ハングル:김정연… 金 正淵(きん せいえん、キム・ジョンヨン、ハングル:김정연、1914年1月7日 - 1992年7月16日)は、日本統治時代の朝鮮の元スピードスケート選手。平安南道江西郡の出身。 公立平壌高等普通学校時代から大同江でスケートをおこなっていた。1932年に明治大学商学部に進学。1934年と1935年の全日本スピードスケート選手権大会を連覇。この当時は500m・1500m・5000m・10000mの総合得点で順位を決定していた。1934年2月に鴨緑江で行われた1934年大会では、金は500m3位、5000mと1000mで1位であった。1935年1月に日光で開かれた1935年大会では、500mは石原省三らに敗れたものの残る3種目はすべて1位となった。
原 忠實(忠実、はら ただみ、1913年(大正2年)12月3… 原 忠實(忠実、はら ただみ、1913年(大正2年)12月30日 - 1990年(平成2年)2月13日)は、昭和時代の政治家。佐賀県鳥栖市長。鳥栖市名誉市民。 佐賀県三養基郡鳥栖町(現鳥栖市)出身。1936年(昭和11年)明治大学専門部政治経済学科を卒業する。鳥栖町商工課長、1950年(昭和25年)鳥栖町収入役、1965年(昭和40年)鳥栖市助役を経て、1970年(昭和45年)1月、鳥栖市長に就任した。1973年(昭和48年)「みどりの産業都市」を理想像とした鳥栖市総合計画および1981年(昭和56年)「みどりと若さあふれ心ゆたかな鳥栖をめざして」を基本理念とした第2次鳥栖市総合計画を策定し、市政に尽くした。
杉原 荘介(すぎはら そうすけ、1913年12月6日 - 1… 杉原 荘介(すぎはら そうすけ、1913年12月6日 - 1983年9月1日)は、日本の考古学者。 1913年に東京市日本橋区小舟町に生まれた。府立三中(現都立両国高校)の時代に考古学を志すも、家業の和紙問屋を継ぐ。東京考古学会の同人として活躍。1935年東京外国語学校専修科(仏語)を卒業し、1937年上智大学外国語学校独語科卒業。1941年、27歳で明治大学専門部地歴科に入学し、1943年首席卒業。同年、卒業論文『原史学序論』を上梓。卒業とともに軍務に服し、1946年の春に復員する。同年4月から文部省嘱託教科書局に勤務し、国定歴史教科書『くにのあゆみ』の編輯などにあたった。1948年から明治大学専門部助教授、翌年に同大学文学部助教授、1953年には文学部教授となる。
李 炳夏(イ・ビョンハ、朝鮮語: 이병하、1913年11月1… 李 炳夏(イ・ビョンハ、朝鮮語: 이병하、1913年11月18日 - 2000年11月2日)は、大韓民国の政治家、裁判官、弁護士、公証人。第12代法務部長官、第4・5代韓国国会議員。 本貫は真城李氏(朝鮮語版)。号は暁汀、日本名は李家炳夏。 日本統治時代の慶尚北道聞慶郡出身。地元で普通学校を卒業後、1928年に京城に上京し雑貨店の店員を務めたが、1931年9月に内地に密航し、同年11月に大阪の日刊新聞の従業員に就職した。1933年4月には甲種中学校である大阪北洋商業学校の夜間部3年に編入し、1935年3月に卒業。同年4月に明治大学専門部法科夜間部に入学し、1938年に卒業した。卒業後はしばらく京城の三中井百貨店で経理・人事管理・商品購入担当職員を務め、1940年には三中井百貨店の東京支社に転職した。
志村 正順(しむら せいじゅん 本名:表記同じく「しむら ま… 志村 正順(しむら せいじゅん 本名:表記同じく「しむら まさより」、1913年10月2日 - 2007年12月1日)は、日本の昭和時代に活動したアナウンサー。NHKで主に大相撲、プロ野球等のスポーツ実況中継を担当した。 東京府北豊島郡南千住町(現・東京都荒川区南千住)の乾物・雑穀商「川萬商店」に生まれる。出生時の名は「正二」。日大付属中卒業後の1931年、一時僧侶を志し、大正大学予科に通うかたわら、滋賀県甲賀郡大原村(現・甲賀市)の親類の寺院で得度し、「正順」と改名するが、明治大学政治経済学部進学のため還俗している(のちも名を正二に戻さず、「まさより」ないし「せいじゅん」で通した)。 明大卒業後の1936年、ミシンの外交販売員を経て、NHKのアナウンサー採用試験に合格し、入局。
岡西 明貞(おかにし あきさだ、1913年(大正2年)9月1… 岡西 明貞(おかにし あきさだ、1913年(大正2年)9月19日 - 2003年(平成15年)7月16日)は、昭和期のジャーナリスト、政治家。衆議院議員(2期)。 長崎県西彼杵郡、現在の時津町出身。1939年(昭和14年)明治大学商学部を卒業した。 福岡日日新聞記者となる。長崎県物価統制協力会議事務局長、長崎県価格査定委員会事務局長、長崎民友新聞社取締役などを務めた。 1948年(昭和23年)11月に実施された、今村等の公職追放、本田英作の死去に伴う第23回総選挙の長崎県第1区補欠選挙に民主自由党公認で出馬して初当選。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙で再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
西谷 能雄(にしたに よしお、1913年9月8日 - 199… 西谷 能雄(にしたに よしお、1913年9月8日 - 1995年4月29日)は、出版社・未來社の創業者。新潟県佐渡島出身(北海道生まれ)。 旧制佐渡中学卒業後、ストライキで東京外国語学校ロシヤ語科を退学になり、1937年明治大学文藝科卒業。京都大学で哲学を教えていた従兄西谷啓治の世話により京都の弘文堂に勤務する。当時、弘文堂は学術出版社として名高く、「東の岩波、西の弘文堂」と言われたほどで、ほぼ官立大学・国立大学の教授の著書しか出版せず、権威主義の傾向が強かった。しかし西谷は当時まだ無名だった木下順二の『夕鶴』を弘文堂の啓蒙的叢書「アテネ文庫」に入れることを企画会議で頑強に提案した。この企画が当たって『夕鶴』が版を重ねたことから、無名の著者の原稿でも優れていれば刊行すべきであるとの信念を持つに至る。
洪 淳熙(ホン・スニ、朝鮮語: 홍순희、1913年8月5日 … 洪 淳熙(ホン・スニ、朝鮮語: 홍순희、1913年8月5日 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の産業組合幹部、教育者、政治家。第4代韓国国会議員。 本貫は南陽洪氏。実業家・社会運動家で親日派の洪鍾轍(朝鮮語版)は父、元国会議員の洪永杓(朝鮮語版)は甥(弟の息子)。 日本統治時代の全羅北道(現・全北特別自治道)高敞郡出身。明治大学法科卒。高敞産業組合常務理事、高敞面協議会議員、高敞郡学校評議会員、高敞東中学校理事、高敞女子中学校理事、高敞産業組合長、全北人事処長署理、民主党高敞乙区党委員長・政策委員・中央委員を務めた。1958年の第4代総選挙で民主党の候補として国会議員に当選し、対自由党闘争の闘士として活動したが、在任中に自由党に移籍したため非難を受けた。
村上 重夫(むらかみ しげお、1913年7月3日 - 194… 村上 重夫(むらかみ しげお、1913年7月3日 - 1945年)は、愛知県出身のプロ野球選手(外野手)。
竹内 啓治(たけうち けいじ、1913年〈大正2年〉6月20… 竹内 啓治(たけうち けいじ、1913年〈大正2年〉6月20日 - 1997年〈平成9年〉3月2日)は、日本の実業家。住金鋼材工業(株)(現・日鉄建材)社長、コスモ経済企画研究所会長、藤島町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)。
朴 良載(パク・ヤンジェ、朝鮮語: 박양재、1913年6月3… 朴 良載(パク・ヤンジェ、朝鮮語: 박양재、1913年6月3日 - 没年不詳)は、大韓民国の政治家。第2代韓国国会議員。 全北完州出身。明治大学法学科卒。金融組合理事を務めた。1950年の第2代総選挙に完州郡甲選挙区から無所属で出馬し当選した。その後は自由党に入党した。 この項目は、政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
瀧内 正(たきうち ただし、1913年(大正2年)5月16日… 瀧内 正(たきうち ただし、1913年(大正2年)5月16日 - 2006年(平成18年)6月11日)は、日本の政治家。都城市長を2期歴任した。 福岡県浮羽郡、のちの浮羽町(現うきは市)で生まれた。1934年(昭和9年)福岡師範学校を卒業。さらに1943年(昭和18年)明治大学法科を卒業。 1944年(昭和19年)1月、都城市役所に入所した。同市職組合長、資材課長、厚生課長、庶務課長、総務課長を歴任。1953年(昭和28年)都城市議会議員に選出され2期在任。1976年(昭和51年)都城市長に選出され2期在任した。 1976年、前市長の堀之内久男が衆議院議員総選挙出馬に無所属で出馬を表明したために、後任の市長を選出するための選挙を行う。
大横田 勉(おおよこた つとむ、1913年4月20日 - 没… 大横田 勉(おおよこた つとむ、1913年4月20日 - 没年不明)は日本の水泳選手。1932年ロサンゼルスオリンピック400メートル自由形で銅メダルを獲得。明治大学出身。
加藤 愛子(かとう あいこ、1913年〈大正2年〉4月17日… 加藤 愛子(かとう あいこ、1913年〈大正2年〉4月17日 - 1982年〈昭和57年〉)は、日本の女性税理士の草分け。全国女性税理士連盟初代会長。 愛知県春日井郡鳥井村(現:春日井市)に生まれる。幼くして外交官の父が亡くなったため苦しい生活を余儀なくされたが、母や兄たちは末っ子の愛子を上級学校に行かせようと学資を貯め、金城女子専門学校(現:金城学院大学)に進学した。卒業後、1931年(昭和6年)に上京して明治大学専門部女子部に進学。同部では雄弁部に所属し、野球の試合で応援団長の代わりを務めたエピソードなどを持つ。 1934年(昭和9年)に女子部、1937年(昭和12年)に法学部を卒業し、明大卒業後に中武三が所長を務める中税務会計事務所に就職。
宮本 幹也(みやもと みきや、1913年3月20日 - 19… 宮本 幹也(みやもと みきや、1913年3月20日 - 1993年11月2日)は、日本の作家。本名は正勝(まさかつ)。 長野県上水内郡吉田村(現長野市)生まれ。旧制長野中学(長野県長野高等学校)を経て、明治大学文学部卒業。1932年「青春街」がサンデー毎日新人賞を受賞し、作家デビュー。週刊朝日に「霧の中の獣心」「渋柿」を掲載、1935年日活撮影所脚本部員となり、1937年社会浪漫派同人となる。1940年国民文化建設同盟を結成し、1941年『公論』編集長となる。1943年に軍に応召し、1945年復員、1949年から文筆業に復帰。戦後、ユーモア小説、通俗小説を多く書いたが、50代で筆を折ったようである。
平井 義一(ひらい ぎいち、1913年(大正2年)3月15日… 平井 義一(ひらい ぎいち、1913年(大正2年)3月15日 - 2007年(平成19年)9月6日[要出典])は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。 福岡県築上郡八屋町(現・豊前市)出身。1939年(昭和14年)明治大学法学部卒。東京地方専売局に勤務した後、計理士となり、麹町区議、東京市会議長秘書を歴任する。1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙で福岡4区から日本自由党公認で立候補して初当選。以来5期務める。炭鉱国管疑獄では、1948年(昭和23年)衆議院不当財産取引調査委員会に証人喚問されている。第4次吉田内閣で郵政政務次官に就任する。1955年(昭和30年)の保守合同により自由民主党衆議院議員となる。
大野 元美(おおの もとよし、1912年〈大正元年〉11月1… 大野 元美(おおの もとよし、1912年〈大正元年〉11月17日 - 1982年〈昭和57年〉4月19日)は、日本の政治家、実業家。埼玉県川口市長(第8・9・10・11・13・14代)。位階は正五位。勲三等瑞宝章。 長男はライオンズクラブ国際理事やゼネラル・サービス代表取締役社長を務めた大野元昭。孫は第61代埼玉県知事の大野元裕。 埼玉県北足立郡川口町(現・川口市)出身。父は元川口市会議員の大野元次郎。1933年(昭和8年)3月、明治大学専門部商科を卒業。大野電機鋳造所社長に就任。 埼玉県水泳連盟会長、県教育委員、川口市議会議員などの公職を経て、1957年(昭和32年)2月から1972年(昭和47年)4月までの4期、1976年(昭和51年)5月から1981年(昭和56年)4月までの2期、通算6期22年の長きにわたり川口市長を務めた。
孫 基禎(そん きてい、ソン・ギジョン、1912年8月29日… 孫 基禎(そん きてい、ソン・ギジョン、1912年8月29日 - 2002年11月15日)は、日本統治時代の朝鮮の新義州近郊出身のマラソン選手。1936年ベルリンオリンピックではアジア地域出身で初めてマラソンで金メダルを獲得した。大韓民国建国後は韓国の陸上チームのコーチや陸連会長を務めた。 当時の平安北道新義州府新義州(現在の朝鮮民主主義人民共和国新義州市)付近の町で育つ。 実家は雑貨店を営んでいたが、家計は貧しく、冬に周囲の子供たちが鴨緑江で興じるスケートの靴を買ってもらうことができなかった。そのため、普通学校(内地の尋常小学校に相当)の頃から走ることに興味を抱いて、通学などで足袋を履いて走り、高学年になると自ら練習を考案して走っていたという。
中村 三郎(なかむら さぶろう、1912年7月3日 - 没年… 中村 三郎(なかむら さぶろう、1912年7月3日 - 没年不明[戦死])は、長野県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、内野手。 諏訪蚕糸学校(現・長野県岡谷工業高等学校)在学中に、甲子園に2回出場(春1回〔1930年〕、夏1回〔1930年〕)。1930年春の大会では、優秀選手賞を受賞。そして、最後の出場となった1930年夏の大会では準優勝投手に輝いた。長野県きってのNo.1投手との誉れ高く、その後明治大学やノンプロの諏訪紡績でも活躍した。 1937年に大東京へ入団。プロ野球入団後は内野手に転向し、「三振か長打か」の荒削りなバッティングで人気を博した。同年春季シーズンで喫した46三振は、リーグ最多三振記録(1939年に佐藤武夫〈東京セネタース〉が56三振をマークするまではプロ野球記録でもあった)。
朴 哲雄(パク・チョルン、朝鮮語: 박철웅、1912年6月1… 朴 哲雄(パク・チョルン、朝鮮語: 박철웅、1912年6月14日 - 1999年1月8日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の教育者、公務員、政治家、実業家。朝鮮大学校の共同設立者で第1・4・7代総長、第2・4・5代韓国国会議員(第5代は参議員)。 本貫は密陽朴氏、族譜名は玟洙。漢字表記は朴喆雄とも。父は朝鮮末期の農民戦争に参加した農民軍の朴学俊。実業家の朴誠燮、コラムニストの朴誠賢(朝鮮語版)ら4男3女がいる。 全南高興出身。全州新興学校在学中光州学生運動に参加して全州刑務所に29日間収監された。1941年明治大学政経学部政治科卒。1943年日本高等科法制経済教員免許取得。全羅南道運輸課長、光州夜間大学院設立者、朝鮮大学園設立者・総長、朝鮮大学附属中学院・中学校設立者・校長・理事長、初代・第4・7代朝鮮大学校総長(1948年5月26日~1960年5月26日、1963年11月6日~1980年8月6日、1986年12月2日~1987年12月25日)、光州新報社長、無所属および自由党所属の民議員、無所属の参議員、国際連合韓国協会全南支部長・韓国首席代表、誠実工高技術学校設立者、木浦工業技術校設立者、木浦護国工高校設立者、全羅南道8郡農工技術校設立者、高麗セメント会長を務めた。
鈴木 銀之助(すずき ぎんのすけ、1912年6月5日 - 1… 鈴木 銀之助(すずき ぎんのすけ、1912年6月5日 - 1959年8月13日)は、岩手県出身のプロ野球選手。ポジションは三塁手。 1929年に旧制岩手県立福岡中学校(現在の岩手県立福岡高等学校)を卒業後、明治大学などを経て、1950年に発足したばかりの広島東洋カープへ入団。しかし当時すでに38歳となっていて、結局一軍公式戦は3試合の出場となり1年限りで引退。 指導者として非凡な才能を発揮し、昭和6年、昭和15年、昭和22年の母校福岡中学の甲子園出場は鈴木の指導に追うところが多かった。「練習は厳しく、試合はリラックス」を指導方針とし、選手が試合中に失敗しても決して怒ることがなかったが、練習では伝説の猛ノックで選手を鍛えた。