赤城 源三郎(あかぎ げんざぶろう 1904年 ‐ 1999… 赤城 源三郎(あかぎ げんざぶろう 1904年 ‐ 1999年9月17日)は、日本の郷土史家。 新潟県東蒲原郡津川町生まれ。1929年、早稲田大学商学部を卒業。新潟県立津川高等学校等で教員を務める傍ら、東蒲原郡を対象とした地域史研究、民俗学研究を行う。東蒲原郡は越後国でありながら、会津藩領でもあったことから、自らの研究手法を「両属論」と名付けた。新潟県史編さん参与も務めた。
岩片 秀雄(いわかた ひでお、1903年(明治36年)11月… 岩片 秀雄(いわかた ひでお、1903年(明治36年)11月22日 - 1970年(昭和45年)6月11日)は、昭和時代の電気工学者、通信技術者。 東京に生まれる。1927年(昭和2年)早稲田大学電気科を卒業後、1931年(昭和6年)早稲田大学助教授、1943年(昭和18年)教授となる。1942年(昭和17年)工学博士。早稲田大学では電気通信工学科主任教授を務めた。ほか、電気通信学会副会長、東京支部長などを歴任した。著書に『電磁界及空中線』、『無線工学原論』など。 戦前は主にアンテナおよびマイクロ波伝送回路について研究し、その応用研究の成果は軍用レーダーの開発に生かされた。戦後はファラデー効果をマイクロ波で実現する研究を行い、マイクロ波用の高性能フェライト材料を試作・開発。
梁 柱東(ヤン・ジュドン、1903年8月16日〈太陰暦: 6… 梁 柱東(ヤン・ジュドン、1903年8月16日〈太陰暦: 6月24日〉 - 1977年2月4日)は、大韓民国の詩人、評論家、国文学者、英文学者、翻訳家、随筆家、教授。本貫は南海梁氏(済州梁氏)。号は无涯(ムエ、무애)。 京畿道開城に生まれた。幼児期をいっとき平壌で過ごし、長淵で育った。京城中東高等普通学校を経て渡日し、1928年に早稲田大学英語英文学科卒業。1919年に廉想渉と共同で『文芸公論』を発刊し、崇実専門学校(現・崇実大学校)教授を務め、1923年同人誌『金星』で文壇に登場した。1930年には詩集『朝鮮の脈拍』を出版した。その後、郷歌の研究をし、1942年に郷歌25首の解読を行った『朝鮮古歌研究』を出版した。
栗田 直躬(くりた なおみ、1903年5月10日 - 199… 栗田 直躬(くりた なおみ、1903年5月10日 - 1998年6月12日)は、日本の中国哲学研究者、中国学者。早稲田大学名誉教授。 1903年、茨城県水戸市で生まれた。第一早稲田高等学院を卒業し、早稲田大学文学部西洋哲学専攻に進学。戸川行男と共に津田左右吉の講義を受講したことを機に、以後、津田に師事。 1933年に早稲田大学文学部助手となった。1937年から2年間北京に留学。1939年に帰国し、早稲田大学文学部専任講師に昇格。1948年に早稲田大学文学部教授となった。1974年に早稲田大学を退職し、名誉教授となった。1998年に死去。 近代的な中国思想研究を日本に導入した先駆者として知られ、特に中国古代思想の分野で優れた業績を上げた。
入江 啓四郎(いりえ けいしろう、1903年4月20日 - … 入江 啓四郎(いりえ けいしろう、1903年4月20日 - 1978年8月13日)は、日本の国際法学者・ジャーナリスト。 鳥取県西伯郡春日村(現・米子市)生まれ、上海で育つ。1919年豊浦中学校中退。1921年日本中学校卒業。1923年第一早稲田高等学院卒業。1927年3月、早稲田大学法学部卒業。1927年4月、ジャパンタイムズに記者として入社。その後、日本新聞連合社記者を経て、1936年1月、同盟通信社に勤務、1937年に同社パリ支局長。1939年に同社ジュネーヴ支局長。『ヴェルサイユ体制の崩壊』全3巻を上梓する。1945年同社編集局外信部長。1945年、時事通信社編集局外信部長。1946年、同社時事研究所長。
長谷川 晃一(はせがわ こういち、1903年(明治36年)4… 長谷川 晃一(はせがわ こういち、1903年(明治36年)4月1日 - 1967年(昭和42年)4月25日)は、早稲田大学政治経済学部教授、同学部教養諸学研究会評議員、早稲田大学世界連邦研究会会長、世界連邦建設同盟常任理事・国際部長。 1903年4月1日、長野県上田市に生まれる。 1920年5月、渡米しカリフォルニア州の商業高校に入学し、1923年6月に卒業する。同年9月、オハイオ州のマイアミ大学に入学する。1927年6月に卒業し、政治経済学でB.A.の学位を受ける。同年9月、シンシナティ大学大学院都市行政学科に入学する。1928年6月、修了しM.A.(修士)の学位を受ける。同年9月、コロンビア大学大学院の市政学科に入学する。
金澤 理康(かなざわ まさやす、1903年(明治36年)3月… 金澤 理康(かなざわ まさやす、1903年(明治36年)3月28日 - 1948年(昭和23年)1月17日)は、日本の法学者。早稲田大学教授。専門は日本法制史、西洋法制史、英国法。 1903年3月28日、埼玉県北葛飾郡吉田村(現・幸手町)において、金澤理三郎・あゑの長男として生まれる。吉田小学校尋常科、粕壁中学校、第一早稲田高等学院文科を経て、1926年3月に早稲田大学法学部英法科を卒業する。 1926年4月から早稲田大学法学部大学院に進学して法制史を専攻し、早稲田大学法学部の助手となる。論文『明治初期に於ける消費貸借法の変遷』により学会デビューを果たす。同年、文官高等試験司法科に合格する。 1931年5月から早稲田大学在学研究員として、ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク、フンボルト大学ベルリン、ロストック大学に留学し、西洋法制史を研究する。
戸川 行男(とがわ ゆきお、1903年2月1日 - 1992… 戸川 行男(とがわ ゆきお、1903年2月1日 - 1992年1月3日)は、日本の臨床心理学者。早稲田大学名誉教授。 東京出身。早稲田大学卒。1945年早稲田大学教授、58年「適応理論及び欲求理論の研究」で早稲田大学より文学博士の学位を取得。73年定年、名誉教授、明星大学教授。臨床心理学を日本に導入。文化についても発言した。
江家 義男(こうけ よしお、1903年〈明治36年〉1月2日… 江家 義男(こうけ よしお、1903年〈明治36年〉1月2日 - 1958年〈昭和33年〉5月11日)は、日本の法学者。北海道出身。専門は刑法、刑事訴訟法。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
佐藤 慶二(さとう けいじ、1903年1月1日 - 1998… 佐藤 慶二(さとう けいじ、1903年1月1日 - 1998年6月4日)は、日本の哲学者、早稲田大学名誉教授。 岩手県西磐井郡花泉町(現・一関市)出身。早稲田大学哲学科卒業。1975年まで早大教授。1998年、肺炎のため死去。
黒田 辰男(くろだ たつお、1902年7月20日 - 199… 黒田 辰男(くろだ たつお、1902年7月20日 - 1992年12月22日)は、日本のロシア文学者、早稲田大学名誉教授。 1902年、大阪府生まれ。早稲田大学文学部を卒業。駐日ソ連大使館に勤務。 戦後の1946年、母校である早稲田大学教授に着任。1960年「ロシヤ・シンボリズム詩文学の成立過程」を早稲田大学に提出して文学博士号を取得。1962年に雑誌『ソヴェート文学』を創刊。1973年に早稲田大学を定年退任し、名誉教授となった。
大藤 時彦(おおとう ときひこ、1902年7月16日 - 1… 大藤 時彦(おおとう ときひこ、1902年7月16日 - 1990年5月18日)は、日本の民俗学者。 1902年、山口県生まれ。新潟県古志郡長岡町(現・長岡市)育ち。 早稲田大学文学部を中退。柳田國男に師事し、日本民俗学会を設立し、代表も務めた。大橋図書館に司書として勤務したほか、成城大学教授として教鞭をとり、1973年定年退職し、名誉教授となった。
野村 平爾(のむら へいじ、1902年(明治35年)6月1日… 野村 平爾(のむら へいじ、1902年(明治35年)6月1日 - 1979年(昭和54年)1月22日)は、日本の法学者。専門は労働法。学位は、法学博士(早稲田大学・論文博士・1958年)(学位論文「日本労働法の形成過程と理論」)。早稲田大学名誉教授。 千葉県出身。早稲田大学法学部卒。欧米に留学後早稲田大学法学部助教授、教授。1958年「日本労働法の形成過程と理論」で早稲田大学より法学博士の学位を取得。1973年定年退任、名誉教授、日本福祉大学教授、学監。労働法研究、戦後の労働運動を理論的に支えた。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
常安 弘通(つねやす ひろみち、1902年2月28日 - 1… 常安 弘通(つねやす ひろみち、1902年2月28日 - 1988年10月3日)は、日本のジャーナリスト、新聞編集者、郷土史家。 佐賀県唐津市出身。1923年3月福岡県立中学修猷館を経て、1929年3月早稲田大学文学部哲学科を卒業。 1929年4月朝日新聞社大阪本社に入社。1936年3月中華民国北平(北京)特派員となる。1937年7月7日勃発した盧溝橋事件において、事前にその情報を掴み、現場に一番乗りして取材し、7月9日の朝日新聞朝刊の一面を飾るスクープをものにした。1939年10月西部本社編集局東亜課、1941年東京本社を経て、1942年3月中華民国済南支局長兼青島支局長、1944年9月奉天支局長を歴任するが、ここで終戦を迎え、抑留された後、1946年7月帰国。
中島 正信(なかしま しょうしん、1902年(明治35年)2… 中島 正信(なかしま しょうしん、1902年(明治35年)2月12日 - 1973年(昭和48年)7月25日)は、早稲田大学名誉教授、早稲田精神昻揚会会長、早稲田船上大学研究会会長、早稲田大学新聞会会長。専攻は商業英語、国際経済論、世界経済論。 1902年2月12日、山口県豊浦郡神玉村に生まれる。 山口県立豊浦中学校、早稲田大学第一高等学院文科を経て、1923年4月に早稲田大学商学部に入学する。1926年3月に卒業後、東京材木輸入協会に入り、貿易実務に従事する。 1930年4月から早稲田大学商学部助手となり、同年7月からアメリカ合衆国のコロンビア大学へ留学する。 1937年4月から早稲田大学専門部商科教授、1941年4月早稲田大学商学部教授となる。
山上 八郎(やまがみ はちろう、1902年(明治35年)2月… 山上 八郎(やまがみ はちろう、1902年(明治35年)2月5日 - 1980年(昭和55年)4月15日)は、日本の軍事史学者。特に日本の甲冑についての研究で名を知られる。 山上が帝国学士院より受賞した研究『日本甲冑の新研究』は、上下巻を合わせて2500ページに迫る膨大なもので、その中で紹介されている日本全国の甲冑資料も、非常に豊富である。現代の甲冑研究にも強い影響を与え続けている大著である。 「万巻の書を読み千里の道を行く」を一生の目標とし、大学時代より日本各地を旅行して甲冑を捜索した。服飾史学者の河鰭実英や城郭研究者の鳥羽正雄と親交があったが、特に鳥羽とは小学校以来の付き合いがあり、山上が東洋大学より文学博士号を取得したのも鳥羽の推薦があったためという。
武藤 運十郎(むとう うんじゅうろう、1902年(明治35年… 武藤 運十郎(むとう うんじゅうろう、1902年(明治35年)1月6日 - 1993年(平成5年)4月8日)は、昭和時代の日本の弁護士(法学博士)、政治家。元衆議院議員(旧群馬3区選出、日本社会党所属)。社会党左派の論客として名をはせた。衆議院不当財産取引調査特別委員会委員長などの要職を歴任。 1902年1月、群馬県碓氷郡八幡村(現高崎市)に生まれる。1927年、早稲田大学専門部法科を卒業。弁護士開業後、日本借家人組合を組織し委員長になる。1947年、第23回衆議院議員総選挙に社会党公認で旧群馬3区より出馬し衆議院議員に当選。1948年、国会でハンセン氏病の問題を取り上げる。1954年、社会党代議士会長に抜擢される。
井伊 玄太郎(いい げんたろう、1901年12月14日 - … 井伊 玄太郎(いい げんたろう、1901年12月14日 - 1998年)は、日本の社会学者。 鳥取県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。早大教授、72年定年退職、名誉教授。社会思想研究会理事、民主社会主義連盟評議員。ジャン・ジャック・ルソー、エミール・デュルケーム、アレクシ・ド・トクヴィルなどを研究・翻訳した。
山本三吾(やまもと さんご、1901年11月17日 - 19… 山本三吾(やまもと さんご、1901年11月17日 - 1964年8月31日)は日本の法学者、翻訳家。山本琴子はその妻。 新潟県生まれ。早稲田大学政治経済科を出て、同大学の講師を務める。その傍ら、『外交時報』に国際法関係の論文を寄稿。L・H・モルガン『古代社会』、マックス・アドラー(英語版)『マルキシズム国家観』(山本琴名義)、『マル・エン全集』23巻の一部などの翻訳を行った。埼玉県で没する。
高 権三(コ・グォンサム、朝鮮語: 고권삼/高權三、1901… 高 権三(コ・グォンサム、朝鮮語: 고권삼/高權三、1901年5月31日 - 没年不詳)は、大韓民国の歴史学者であり政治学者である。済州島出身。『大阪と半島人』(1938年)著者。 祖先は世宗時代最後の87代漢城府尹であった済州高氏の高得宗。祖父は李氏朝鮮王朝末期の官吏であり、旌義、高敞の県監を歴任した高啓正。兄は独立運動家で初代済州道城山面長の高殷三。 1921年5月1日、城山青年会(旌義面城山里)創立。『消費組合設立の件」「労働夜学開設の件」をここで決議するなど早くから無産階級を視野においた政治活動を行っていた。その後日本に渡り、1927年3月に早稲田大学政治経済学部を卒業。卒業後も同大学院研究室に残り歴史研究を続けた。
斎藤 一寛(さいとう かずひろ、1900年7月25日 - 1… 斎藤 一寛(さいとう かずひろ、1900年7月25日 - 1978年4月16日)は、フランス文学者、早稲田大学名誉教授。 山梨県生まれ。1927年早大仏文科卒、日本女子高等学院教諭。1929年早大出版部入社、1930年退社し著述に専念、1934年日本電報通信社入社、1947年第二早稲田高等学院講師、1949年早大講師、1950年教育学部教授、1956年から1957年までパリ留学、1960年から1962年まで教育学部長、1966年から1968年まで早大理事、1971年早大を定年退任、名誉教授。 フランス演劇を専攻し、晩年は比較文学にも手を染めた。
吉村 正(よしむら ただし、1900年〈明治33年〉3月23… 吉村 正(よしむら ただし、1900年〈明治33年〉3月23日 - 1984年〈昭和59年〉4月9日)は、日本の政治学者。早稲田大学教授、東海大学教授、東海大学初代政治経済学部長を務めた。 1900年(明治33年)、福井県福井市木田町に生まれる。1919年4月、早稲田大学高等予科に入学。1921年(大正10年)4月、早稲田大学政治経済学部政治学科に入学。1924年3月、同大学卒業。同大学大学院に進み、高橋清吾の下で政治学を専攻する。1929年9月~1931年12月、コロンビア大学に留学、マッキーヴァ―の指導を受ける。その後、イギリス、ドイツでの研究を経て、1932年9月に日本に帰国。 同年9月に早稲田大学講師、1934年に同大学助教授、1938年に同大学教授に就任。
趙 憲泳(チョ・ホニョン、朝鮮語: 조헌영、1900年または… 趙 憲泳(チョ・ホニョン、朝鮮語: 조헌영、1900年または1901年1月8日 - 1988年5月23日)は、日本統治時代の朝鮮、大韓民国および朝鮮民主主義人民共和国の韓医学者、韓医師、政治家、独立運動家。制憲・第2代韓国国会議員、元在北平和統一促進協議会書記長。 本貫は漢陽趙氏(朝鮮語版)。字は応文、号は海山。趙光祖の子孫で、元義兵隊長の趙承基は祖父、教育者の趙寅錫は父。元国立図書館長の趙銀泳は兄、元大邱市長・慶尚北道知事の趙俊泳は弟、時調詩人の趙愛泳は妹。詩人の趙芝薫(趙東卓)と趙東振(朝鮮語版)は息子、外交官・外交部長官の趙兌烈は孫。 慶尚北道英陽郡日月面出身。祖父と父から四書三経や漢文を学んだ後、大邱公立高等普通学校卒。
尾島庄太郎(おじま しょうたろう、1899年〈明治32年〉9… 尾島庄太郎(おじま しょうたろう、1899年〈明治32年〉9月28日 - 1980年〈昭和55年〉3月24日)は、英文学者、早稲田大学名誉教授。 富山県出身。早稲田大学英文科卒。オックスフォード大学卒。早稲田大学助教授、1949年教授。1952年「イギリス文学におけるセルト的要素」(鷲尾 1952)で早大文学博士。1970年定年退任、名誉教授、立正大学教授、明星大学教授。アイルランド文学、イェーツを研究。日本イェイツ協会初代会長。
田辺 泰(たなべ やすし、1899年1月14日 - 1982… 田辺 泰(たなべ やすし、1899年1月14日 - 1982年4月1日)は、日本の建築史・美術史学者。工学博士(1939年)。早稲田大学の建築史担当教授を伊東忠太、佐藤功ーより引き継ぐ。昭和初期に関東地域の社寺建築の調査を行ない、関東系の建築史を大成する。後年は古建築の復元・創作、文化財保護に活躍した。 岡山県倉敷市生まれ。広島県出身。 1924年早稲田大学理工学部建築学科卒、同助手、1925年助教授、1939年「関東地方に於ける古建築の研究」で工学博士の学位を取得。1941年教授。1969年定年、名誉教授。1930 (昭和5) 年、中国および沖縄の建築調査(1931まで、1934-35)。1964(昭和39)年、日本建築大工技能士会会長。
十河 佑貞(そごう すけさだ、1899年(明治32年) 1月… 十河 佑貞(そごう すけさだ、1899年(明治32年) 1月4日 - 1989年(昭和64年) 1月7日 )は、日本の西洋史学者。専門は、ドイツ近世史。 香川県高松市出身。生家は旧高松藩の御用商人を務めた旧家の次男として生まれる。雅号は悠亭。父の忠貞(襲名権三郎)は、中川愛山に学んだ画人でもあり自由民権運動団体「博文社」の会頭の一人でもあった。 郷里の高松中学時代は、1歳で父親を癌で亡くしたこともあり、身体を鍛えるために海水浴、武徳会での柔道、ボートなど勉強そっちのけで遊んだという。不勉強がたたり浪人を強いられたが、方丈記、徒然草、夏目漱石を耽読し勉強に気が入らなかったという。 2年間の浪人の末、早稲田大学高等予科の文学科に入学した。
福井 康順(ふくい こうじゅん、1898年4月27日 - 1… 福井 康順(ふくい こうじゅん、1898年4月27日 - 1991年1月21日)は、日本の仏教学者、中国学者。元大正大学学長、早稲田大学名誉教授。天台宗の僧籍を持ち、日光山輪王寺内にある唯心院の住職を経て、妙法院の門跡となる。 1898年(明治31年)、長野県小県郡長久保新町(現長和町)で生まれた。父は町役場に勤める公務員で、母は寺院の生まれであった。1910年に日光の輪王寺で得度。早稲田大学文学部哲学科で学び、1924年に卒業。同大学大学院に進み、津田左右吉に師事した。 1928年(昭和3年)に大正大学文学部講師に着任。翌1929年には文学部講師に昇任。1932年から1934年まで中国に留学。
小林 竜雄(こばやし たつお、1898年3月27日 - 19… 小林 竜雄(こばやし たつお、1898年3月27日 - 1976年1月17日)は、フランス文学者、早稲田大学名誉教授。 熊本県生まれ。早大仏文科卒。1968年まで早大商学部教授。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
外岡 茂十郎(とのおか もじゅうろう、1898年3月25日 … 外岡 茂十郎(とのおか もじゅうろう、1898年3月25日 - 1986年8月27日)は、日本の法学者。学位は法学博士。静岡県出身。 静岡県賀茂郡三坂村(現在の賀茂郡南伊豆町)入間に生まれる。賀茂郡立中学豆陽学校から早稲田大学に進学し、1925年に早稲田大学教授に就任。 1942年から1964年まで早稲田大学野球部部長を務める。あわせて東京六大学野球連盟理事長も務め、1943年には出陣学徒壮行早慶戦を敢行している。 戦後はオール早慶戦の開催、1946年春の六大学野球再開を実現させ、12月に日本学生野球協会が結成されると副会長として30年間アマチュア野球の発展に尽力した。その後は中京大学へと移り、1966年の同大学法学部の開設に関わり、1975年まで法学部長を務めた。
里見 岸雄(さとみ きしお、1897年3月17日 - 197… 里見 岸雄(さとみ きしお、1897年3月17日 - 1974年4月18日)は、日本の思想家、人文学者、国体学者、法学者。国柱会を創設した田中智学の三男として東京で生まれ、のちに里見家へ養子に入る。日本国体学の創始者として知られ、戦前の言論に大きな影響を与えた。 1920年旧制早稲田大学哲学科卒業。1922年から1924年にかけて英独仏などに遊学し、帰朝後に里見日本文化学研究所を創立。1936年、日本国体学会を創立。後に立命館大学法学部教授に就任、法学博士号を同大より授与され、国体学科を創設。主任教授となる。 近年、戦前期の国家主義に関する研究が進む中、大谷栄一による近代日蓮主義運動史研究、大塚桂・昆野伸幸による政治思想史研究、林尚之による憲法学史研究などにおいて、その独自性が評価されつつある。
京口 元吉(きょうぐち もときち、1897年(明治30年)2… 京口 元吉(きょうぐち もときち、1897年(明治30年)2月28日 - 1967年(昭和42年)9月3日)は、日本の日本史学者。 兵庫県姫路市出身。朝鮮で小学校教師ののち早稲田高等学院卒。1926年早稲田大学文学部史学科卒。学生時代は尾崎一雄らと同人誌をやっていた。1929年早大附属高等学院講師、1933年教授、1940年早稲田大学文学部助教授。この間明治文化研究会で活動。 警視庁から「反軍国的なマルキスト」「自由主義的」であると問題視され、1941年3月11日付で大学を引責辞職する。1946年2月1日付で文学部講師として復職する。同年5月から助教授となる。1947年教授、1967年定年退職。
中野 銀郎(なかの ぎんろう、1896年11月1日 - ?)… 中野 銀郎(なかの ぎんろう、1896年11月1日 - ?)は、日本の郷土史家、柔術家である。号は剣堂。 1896年11月1日(明治29年)に三重県花野木村大字下之庄に生まれる。 15歳の春に眼病に罹り一年ほど半盲人同様の身となる。失明は免れたが極端な乱視となり右耳も聞こえなくなった。また後年の柔道修行の際に左耳を負傷したことにより聴力を失った。 1917年(大正6年)に帝國尚武會に入り野口潜龍軒より神道六合流を学ぶ。 帝國尚武會の神道六合流における段位は1920年5月(大正9年)に初段、1921年9月(大正10年)に二段、1923年1月(大正12年)に三段となっている。 1922年(大正11年)4月に上京し早稲田大学政治経済科に入学するが、1923年(大正12年)帰省中に関東大震災が起きる。
長谷川 安兵衛(はせがわ やすべえ、1896年(明治29年)… 長谷川 安兵衛(はせがわ やすべえ、1896年(明治29年)7月20日-1942年(昭和17年)10月29日)は、日本の会計学者、早稲田大学商学部教授、商学博士、陸軍司政長官。 1896年7月20日、埼玉県北埼玉郡羽生町(現在の羽生市)に生まれる。埼玉県立不動岡中学校を経て、1915年4月、早稲田大学第四高等予科に入学する。1916年8月、早稲田大学大学部商科に進み、1919年7月に卒業する。卒業後、横浜の増田貿易株式会社に入社し、木材部を担当する。1921年4月、早稲田大学海外留学生に決定され、同年12月からペンシルベニア大学において、1923年からロンドン大学において、会計学を専攻する。同年8月に帰朝後、早稲田大学商学部の講師となる。
香原 一勢(こうはら かずなり、1896年‐1981年10月… 香原 一勢(こうはら かずなり、1896年‐1981年10月12日)は、日本の編集者、哲学者。 福岡県北九州市出身。1918年早稲田大学文学部哲学科卒。神田豊穂の興した春秋社に入り編集者として活躍、雑誌『帝国教育』『日本歴史』などを編集。香原志勢は長男。墓所は多磨霊園。
内藤 藤一郎(ないとう とういちろう、1896年 - 193… 内藤 藤一郎(ないとう とういちろう、1896年 - 1939年5月13日)は、美術史家。 大阪出身。早稲田大学卒。飛鳥時代の彫刻を主とした仏教美術を研究し、ギリシャ彫刻との比較研究をおこなった。
小寺 融吉(こでら ゆうきち、1895年(明治28年)12月… 小寺 融吉(こでら ゆうきち、1895年(明治28年)12月8日 - 1945年(昭和20年)3月29日)は、日本の舞踊研究家、民俗学者。 東京生まれ。小寺芳次郎の四男。開成中学校卒、1918年早稲田大学文学部英文科卒。歌舞伎舞踊、民俗舞踊を研究、1927年柳田國男、折口信夫らと民俗芸術の会を結成、『民俗藝術』を創刊した。小寺駿吉、中村伸郎の兄。小寺廉吉、小寺健吉の弟。
浅原 六朗(あさはら ろくろう、1895年2月22日 - 1… 浅原 六朗(あさはら ろくろう、1895年2月22日 - 1977年10月22日)は、日本の小説家、作詞家、俳人、大学教授。 代表作は「ある自殺階級者」「H子との交渉」「混血児ジヨオジ」など。童謡「てるてる坊主」の作詞者、浅原鏡村としても知られる。 1982年(昭和57年)3月27日 てるてる坊主の館浅原六朗文学記念館が竣工。同年6月1日に開館となった。館内には浅原六朗の蔵書・ノートに書かれた青春日記・交友のあった作家たちの書簡及び写真、自筆の書や筆記用具なども展示されている。また、隣接する池田町文化財資料館にも「町ゆかりの文学者」として紹介されており、長野県池田町を代表する文学者である。 また、町役場の屋上で鳴らされていたサイレンも、「てるてる坊主」のメロディーに替わった。
根来 治(ねごろ おさむ、1895年(明治28年)1月24日… 根来 治(ねごろ おさむ、1895年(明治28年)1月24日 - 1971年(昭和46年)2月25日)は、日本の郷土史家である。号は鉄蕉。 大阪府東鳥取村(後の東鳥取町、現在の阪南市)に生まれる。後に上京し早稲田大学に入学するが、中退し故郷に帰った。 後に同地で「鳥取史談会」の結成に携わり、同郷の郷土史家と共に東鳥取の歴史が書かれた『東鳥取村誌』の編纂の一人となった。なお、この著書は1958年(昭和33年)に刊行されている。その後は『鳥取郷史』の編纂にも携わるが編纂中に死去し、死去から2年後の1973年(昭和48年)に刊行された。 この項目は、大阪府に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:日本の都道府県/大阪府)。
平賀 文男(ひらが ふみお、1895年(明治28年)1月20… 平賀 文男(ひらが ふみお、1895年(明治28年)1月20日 - 1964年(昭和39年)4月19日)は、山梨県出身の登山家、郷土史家。 山梨県北巨摩郡穂坂村(現・韮崎市)に、父「延富」、母「ふで」の長男として生まれる。1909年(明治42年)4月に山梨県立甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)に入学したが1911年(明治44年)3月に中退し同年4月に東京の目白中学校に転入。同校卒業後の1914年(大正3年)に早稲田大学政治経済学科に入学し1917年(大正6年)に卒業とともに帰郷。 1921年(大正10年)に穂坂村村会議員に当選、また北巨摩郡農会議員を務めるなど村治や新興産業発展につくし、特に地域の開発に熱心で広く各地の山野を跋歩し、未知の景勝、山岳などを調査研究し、甲斐山岳会の設立を提唱して実現。
末高 信(すえたか まこと、1894年9月4日 - 1989… 末高 信(すえたか まこと、1894年9月4日 - 1989年4月4日)は、日本の社会保障学者、商学博士。生命保険修士会名誉会長ならびに生命保険アンダーライティング学院創立者。東京都台東区出身。 上記以外に、日本保険学会名誉会員、健康保険組合連合会顧問、社会保険診療報酬支払基金理事等を兼ねた。 松平信生(長州征伐に旗頭として参加した松平左金吾の十一男)の長男として1894年(明治27年)に生まれる。末高姓は父である信生(のぶなり)が仕えていた徳川慶喜が大政奉還の後、駿府入りした際に旗本の末高家の養子になり改姓したことに依る。父、信生は 西南戦争の後徳川家のもとを離れることになり、東京日本橋で漆器問屋の娘きくと結婚、家持(地主)を営むが、チフスで急逝した。
黒川 兼三郎(くろかわ かねざぶろう、1893年11月30日… 黒川 兼三郎(くろかわ かねざぶろう、1893年11月30日 - 1948年5月1日)は日本の電気工学者、早稲田大学教授、工学博士。音響学の功績も大きく、大隈講堂の音響設計を担当したことでも知られる。黒川兼行は長男。
犀川 長作(さいかわ ちょうさく、1893年11月5日 - … 犀川 長作(さいかわ ちょうさく、1893年11月5日 - 1931年9月3日)は、大正から昭和期の日本の弁護士、法学者、教育者、立教大学教授。 富山県東礪波郡出身。早稲田大学卒業。大正から昭和にかけて弁護士を務めた。 1925年(大正14年)には衆議院議員選挙法(普通選挙法)改正によって男子普通選挙が実現されたが、この際、犀川は同改正法のほか、改正貴族院令及び同時に制定された治安維持法の解説書を出版するなど、法律学に関する執筆活動も行った。 大正期には立教大学経済学部教授を兼務し、細野三千雄とともに民法と刑法を講じた。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
森口 多里(もりぐち たり、1892年8月7日 - 1984… 森口 多里(もりぐち たり、1892年8月7日 - 1984年5月5日)は、日本の美術史家・美術評論家、民俗学者。本名は多利(たり)。 岩手県胆沢郡水沢町大町(現:奥州市)にて金物商を営む父森口伊三郎、母カネヨの次男として生まれる。一関中学校(現:岩手県立一関第一高等学校)を経て、1910年(明治43年)に早稲田大学文学部予科に入学。在学中、佐藤功一から美術品の調査を依頼される。また、日夏耿之助主宰の同人誌『假面』同人となる。1914年に早稲田大学文学部英文科を卒業した。卒業後は美術評論活動を行い、『ミレー評伝(ロマン・ロラン著)』の翻訳や『恐怖のムンク』といった評論文を執筆した。森口の多彩な文筆活動は、美術史・美術評論に留まらず、戯曲、建築、そして民俗など多岐にわたり、生涯で50冊余の書作を世に送り出している。
藤井 新一(ふじい しんいち、1892年(明治25年)8月2… 藤井 新一(ふじい しんいち、1892年(明治25年)8月2日 – 1971年(昭和46年)3月4日)は、大正末から昭和期の政治学者、法学者、政治家。参議院議員(1期)。 香川県三木郡平井村井上(木田郡平井村、平井町を経て現三木町井上)で、藤井宇平の三男として生まれる。平井村北尋常小学校、木田郡五ケ村組合立白山高等小学校高等科、香川県立大川中学校(現香川県立三本松高等学校)を経て、1917年(大正6年)7月、早稲田大学高等師範部英語科を卒業した。アメリカ合衆国に留学し、同年9月、語学習得のためカリフォルニア州サンタバーバラ郡ユバチノ公立小学校第1学年に入学し、1918年(大正7年)1月に同州サンノゼ市公立ヘスター第1小学校に転校し、同年7月、小学課程を9ヶ月で卒業した。
大槻 憲二(おおつき けんじ、1891年11月2日 - 19… 大槻 憲二(おおつき けんじ、1891年11月2日 - 1977年2月23日)は、日本の精神分析家、心理学者、文芸評論家。兵庫県洲本市出身。早稲田大学卒。孫に翻訳家の長井那智子。 日本における精神分析の草分けの一人であり、代表的な紹介者である。ジークムント・フロイトやその他の精神分析家の翻訳者としても著名である。文芸評論家としては『文藝日本』『新潮』などにマルキシズム文学論批判の評論を発表している。 1928年、矢部八重吉や長谷川天渓(本名、長谷川誠也)らとともに東京精神分析学研究所を創設し、後に所長となった。1933年には日本初の精神分析学の雑誌、『精神分析』を創刊した。 戦後創設された日本精神分析学会には大槻は入会していない。
大濱 信泉(おおはま のぶもと、1891年10月5日 - 1… 大濱 信泉(おおはま のぶもと、1891年10月5日 - 1976年2月13日)は、日本の法学者(専門は商法)・教育者。第7代早稲田大学総長(1954年 - 1966年)。旧名大濱 信陪。妻は評論家の大浜英子。
島田 兵蔵(しまだ ひょうぞう、1891年8月25日 - 1… 島田 兵蔵(しまだ ひょうぞう、1891年8月25日 - 1967年11月28日)は、日本の経営者、工学博士。中国電力初代社長。神奈川県川崎市出身。 1915年に早稲田大学電気科を卒業。浜田電気での勤務を経て、1936年6月に取締役に就任し、常務を経て、1942年4月に中国配電理事に就任し、1946年12月には社長に昇格。1951年5月に中国電力社長に就任。1961年10月に会長を経て、1964年11月には相談役に就任。 1955年11月に藍綬褒章を受章。 1967年11月28日胆嚢炎のために死去。76歳没。
中野 登美雄(なかの とみお、1891年(明治24年)7月1… 中野 登美雄(なかの とみお、1891年(明治24年)7月13日 - 1948年(昭和23年)5月21日)は、日本の法学者、早稲田大学第5代総長、立教大学元教授。専門は公法学。 1891年7月13日、北海道札幌市に遠藤俊の五男として生まれ、後に中野家の養子となる。 1913年6月、早稲田大学高等予科を、1916年6月、早稲田大学大学部政治経済科を卒業し、同年9月、早稲田大学研究科に入学する。副島義一、中村進午の下で国法学、国際法学を専攻する。 1918年9月、アメリカ合衆国に留学し、シカゴ大学で語学研修等を受けた後、1919年10月から1922年6月までジョンズ・ホプキンズ大学に在学し、ウェステル・ウィロビー(英語: Westel W. Willoughby)の下で政治学、公法学を学ぶ。
高橋 清吾(たかはし せいご、1891年〈明治24年〉3月3… 高橋 清吾(たかはし せいご、1891年〈明治24年〉3月3日 - 1939年〈昭和14年〉1月17日)は、日本の大正から昭和前期の政治学者。早稲田大学教授を務め、ビアード、グッドナウ、ベントリーらのアメリカ政治学を日本に紹介した。 1891年(明治24年)、宮城県宮城郡利府村(現・利府町)に生まれる。1911年(明治44年)9月、早稲田大学専門部政治経済科第二学年に入学。1913年(大正2年)7月、同科卒業。1914年8月、コロンビア大学に留学、チャールズ・ビアードの指導を受ける。1916年2月、同大学でM.A.を取得。1917年7月、同大学でPh.D.を取得。その後帰国まで、ニューヨーク市政調査会で調査研究にあたる。
武者 金吉(むしゃ きんきち、1891年(明治24年)2月2… 武者 金吉(むしゃ きんきち、1891年(明治24年)2月22日 - 1962年(昭和37年)11月7日)は日本の地震学者、地理学者、英語教師。本業である英語教師としての業務のかたわら、独学で地震学を学んだ。ほとんど独力で膨大な量の歴史地震に関する史料を収集し、『増訂大日本地震史料』としてまとめた。 1891年(明治24年)2月22日(戸籍上は3月1日)、東京市本所区向島須崎町(現在の墨田区)に生まれる。浅田家の第4子であったが、間もなく武者家の養子となる。 府立三中を経て、1910年(明治43年)9月、早稲田大学文学部英文学科に入学。1911年7月と1912年7月の2回、首席となり早稲田大学特待生となって授業料を免除される。