荻原 巖(おぎわら いわお、1888年 - 1975年)は、… 荻原 巖(おぎわら いわお、1888年 - 1975年)は、日本の医師、開業医、栄典は勲五等瑞宝章。
子:12,771人
荻原 巖(おぎわら いわお、1888年 - 1975年)は、… 荻原 巖(おぎわら いわお、1888年 - 1975年)は、日本の医師、開業医、栄典は勲五等瑞宝章。
長崎 敏音(ながさき としお、1888年 - 不詳)は、日本… 長崎 敏音(ながさき としお、1888年 - 不詳)は、日本の土木技術者、都市計画家。 福井県に生まれる。1898年、工手学校土木科卒業後、福井県、つづいて千葉県に勤務した。1906年、東京市に移籍。月島や芝浦などの埋立事業と河川の改修工事に従事。また、工手学校の教授を務める。 1918年、内務省に都市計画課が設置された際、招請されて六大都市の都市計画に参画。1919年、都市計画実行に移すため、名古屋市土木課長に転出、第一期街路築造事業として六大幹線の計画を樹立し実施する。これは同市の新都市としての計画の噂失となった。 その後、呉市土木課長に転じ、呉港海陸連絡工事などにあたる。1923年には、豊橋市土木課長に招かれ、その後技師長、工務課長、水道部長を兼任、同市の土木、都市計画、営繕事業の推進に尽くした。
須藤 兼吉(すどう けんきち、1888年 - 1980年)は… 須藤 兼吉(すどう けんきち、1888年 - 1980年)は、日本の英語学者、東京高等商船学校(現・東京海洋大学)教授、元神奈川大学外国語学部教授。旺文社顧問。J・A・サージェント、J・B・ハリスと共著の『Systematic English & American Conversation系統的英米会話』が有名[要出典]。 長野県西筑摩郡福島町(現木曽町)に生まれる。1911年(明治44年)、東京外国語学校英語科(現・東京外国語大学)を卒業する。 東京高等商船学校(現・東京海洋大学)を経て、神奈川大学外国語学部教授となる。
堀内 貞(ほりうち さだ、1888年(明治21年) - 没年… 堀内 貞(ほりうち さだ、1888年(明治21年) - 没年不詳)は、日本の建築技師。 1910年(明治43年)、東京高等工業学校卒業後、三越呉服店意匠係となる。のち、工手学校に入学、1913年(大正2年)に卒業する。 その後の1915年(大正4年)に宮内省内匠寮匠生を拝命。1919年(大正8年)には宮内技手となった。 1931年(昭和6年)には宮内技師と帝室林野局技師を兼任している。同年退官。
根岸 栄隆(ねぎし ひでたか、1888年-1977年)は、日… 根岸 栄隆(ねぎし ひでたか、1888年-1977年)は、日本の川柳名人、文筆家、著述家、作家。 十四世川柳名人を号し、東京川柳会を主宰。鳥居の研究者としても知られる。都市計画家石川栄耀の実兄。東京都出身。 青山学院旧中等科をへて、1915年、日本大学法学部法学科卒業。その後小説の指導を村上浪六に師事し採掘場の管理人などを務めながら著述活動を展開。しばらくして下野新報や日刊ラジオ新聞などの記者を歴任する。 1937年、弟栄耀と商業都市美協会を立ち上げて常任幹事に就任すると同時に機関紙「商業都市美」編集主幹、また人形町通商店街商業組合で指導委員を務める。その他東京府商店街商業組合連盟会の活動にも関与する。
市川政司(いちかわ まさし、1888年 - 1961年)は、… 市川政司(いちかわ まさし、1888年 - 1961年)は、日本の造園家。長く東京市役所に奉職し、造園技師として活躍した。新潟県高田市生まれ。 1906年(明治39年)、新潟県立高田農学校を卒業。1907年、東京市役所道路課に入所する。1910年に技手となった。1924年(大正13年)に東京市技師、1928年(昭和3年)、保健局公園課技術掛長、1942年、東京都発足と職制改正によって、公園部技術課長に就任するが同年に定年退職する。 首都東京の公園、また街路樹と墓地(霊園)など市の公園緑化事業に関して、上司の公園課長井下清を支え、都内の街路樹整備と関東大震災後の東京の公園復興事業、老樹保護方法の研究、公園事業としての社会人園芸趣味普及等の業績をつむ。
千野 光茂(ちの みつしげ、1888年 - 1957年)は、… 千野 光茂(ちの みつしげ、1888年 - 1957年)は、日本の遺伝学者。 長野県諏訪市出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業。女学校などでの教鞭の傍ら、遺伝学研究に没頭した。その実績が認められ、京都帝国大学に招かれ、京都帝国大学理学部助教授を務める。1940年日本遺伝学会賞受賞。 戦後、母校である旧制諏訪中学が新制諏訪清陵高校になるのに伴い、郷土出身の著名な学者を呼ぼうということになり、初代校長(旧制諏訪中学を含め第13代校長)を務めた。校長当時、生徒だった人物に、1996年に第5回相澤忠洋賞を受賞した考古学者武居幸重がいる。1937年京都帝国大学理学博士。論文の題は「黒猩々蝿の遺傳學的研究 」。
池野 勇(いけの いさみ、1888年(明治21年) - 19… 池野 勇(いけの いさみ、1888年(明治21年) - 1978年(昭和53年)3月)は、日本の医師、社会福祉家、動物愛護者、羽黒町名誉町民(現・鶴岡市名誉市民)。 開業医を務める傍ら、羽黒町の社会福祉と動物愛護のために多額の私費を投じて奉仕活動を行った。
大城 朝恕(おおしろ ちょうじょ、1888年 - 1939年… 大城 朝恕(おおしろ ちょうじょ、1888年 - 1939年)は、沖縄県出身の空手家。 県立工業高校の教職の傍ら同校生徒に空手を指導する。 沖縄第一の棒者知念親雲上三良の直弟子で、その棒術は沖縄県下一品であった。 金城が多くの影響を受けたのは、少年時代(中学二年以降)からの師だった大城朝恕である。大城は学校系統の唐手家(工業学校教師)ながら、平安を教えず、首里手の格闘技法の研究に熱心だった。大城の友人だった道場系統の喜屋武にもこの傾向があり、徳田安文らの学校教師は別として、首里手回帰の傾向が強かった。 1925年、吉田安昌から「各流派合同で道場を設け、総合的研究を含めて教える」ことの提案があり、10月、沖縄で初めての空手道場「唐手研究会」が「沖縄空手研究倶楽部」に改組設立。
貝澤 藤蔵(かいざわ とうぞう、1888年〈明治21年〉- … 貝澤 藤蔵(かいざわ とうぞう、1888年〈明治21年〉- 1966年〈昭和41年〉)は、アイヌ民族の社会活動家。小冊子『アイヌの叫び』の著者。藤蔵の妻・コヨは旭川、近文アイヌの長・川村カ子トと才登の妹であり、砂沢クラの親友。門別薫は、藤蔵の子。 カリワウクの子として北海道日高の二風谷で生まれる。宣教師ジョン・バチェラーが団長となって設立された「アイヌ伝導団」の第1回総会(1921年)で二風谷委員として出席しているので、34歳までは二風谷で生活していたとみられる。二風谷時代は平取村役場に勤務。この時期にコヨと結婚し、1922年に長男が生まれた。 1926年(大正15年・昭和元年)頃に、熊坂シタッピレにならって木彫を試み、木彫り熊とクワ(アイヌ語で杖の意)を残す。
飯島 幡司(いいじま まんじ、1888年 - 1987年)は… 飯島 幡司(いいじま まんじ、1888年 - 1987年)は日本の経済学者、実業家。神戸高等商業学校(現神戸大学)教授、 大阪鐵工所専務、朝日放送社長、関西経済連合会会長を歴任。ローマ法王庁聖グレゴリオ勲章、イタリア共和国グランデウフィチアレ勲章受章。
石井 五郎(いしい ごろう、1888年 - 1951年)は、… 石井 五郎(いしい ごろう、1888年 - 1951年)は、日本の実業家。阪神電鉄副社長、草創期の大阪野球倶楽部監査役などを務めた。 1904年(明治37年)東京府立第一中学校を卒業。以後、第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学卒業。1912年(大正元年)、高文合格。近江銀行入行。1934年(昭和9年)朝日海上火災保険(現在のあいおいニッセイ同和損害保険)専務取締役就任。 1935年(昭和10年)4月25日、阪神電鉄の堀啓次郎社長、山口覚二常務が辞任し、今西与三郎専務が社長に就任すると、その後任専務として石井が朝日海上火災専務取締役から阪神電鉄専務取締役に就任した。山口の後任常務には岡喜太郎が就いた。
石本 暁曠(いしもと ぎょうこう、1888年 - 1935年… 石本 暁曠(いしもと ぎょうこう、1888年 - 1935年8月23日)は、日本の彫刻家。別号は暁海。本名は石本 恒介。 島根県能義郡広瀬町(現・安来市)出身。1905年、京都市立美術工芸学校卒。米原雲海に師事。第6回文展に出展し入選。1931年、帝展無鑑査。1933年、京都市立美術工芸学校の教員となる。1935年、死去。享年48。
佐野 勝也(さの かつや、1888年 - 1946年8月19… 佐野 勝也(さの かつや、1888年 - 1946年8月19日)は、日本の宗教学者。 熊本県出身。鎮西学院卒、1917年東京帝国大学文学部宗教学科卒、1935年「使徒パウロの神秘主義」で文学博士。ハーバード大学に学び、1925年九州帝国大学法文学部宗教学科助教授、1926年初代教授。在任中58歳で死去した。
下元 連(しももと むらじ、1888年 - 1984年10月… 下元 連(しももと むらじ、1888年 - 1984年10月2日)は、日本の大蔵官僚、建築家、工学者(建築学)。 日本建築学会副会長、戦災復興院技監、戦災復興院営繕部部長、工学院大学工学部教授などを歴任した。 大蔵省(のちの財務省)に所属する技師として、総理大臣官邸(のちに総理大臣公邸に転用)をはじめとする多数の官公庁を設計した。退官後は、下元設計事務所の代表として活動すると同時に、工学院大学工学部の教授として後進を育成した。 1888年、福岡県小倉市(のちの福岡県北九州市)にて生まれた。大志を抱いて上京し、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学に入学し建築学を学んだ。1914年、東京帝国大学工科大学の建築学科(のちの東京大学工学部建築学科)を卒業し、学士号を得た。
今岡 十一郎(いまおか じゅういちろう、1888年 - 19… 今岡 十一郎(いまおか じゅういちろう、1888年 - 1973年9月2日)は日本のハンガリー語学者。専門のハンガリー語の他、フィンランド語辞典の著もある。また叢書『フィン・ウゴル研究』を編集刊行し、日本におけるウラル学の先駆者やハンガリーにおける日本文化紹介者として知られる。島根県出身。 松江市生まれ。1914年、東京外国語学校ドイツ語科卒業。同年、来日中のハンガリーの民俗学者バラートシ・バログ・ベネデク(ハンガリー語版)のアイヌ・ギリヤーク・オロッコ研究旅行に通訳として同行し、北海道や樺太を巡る。これが縁で、バラートシからツラニズムの日本普及に協力するよう求められる。 東京帝国大学経済統計研究室などに勤務した後、アメリカを経てドイツに留学し、程なくしてバラートシ=バログの招きで1922年にハンガリーへ移り、ブダペスト大学哲学科を卒業。
岡登 貞治(おかのぼり ていじ / さだはる、1888年 -… 岡登 貞治(おかのぼり ていじ / さだはる、1888年 - 1976年5月9日)は、美術教育家、手工芸家。長崎県出身。東京美術学校卒。長崎で小学校の図工教師をしながら文様の研究を続ける。
金光 家邦(こんこう いえくに、明治21年(1888年) -… 金光 家邦(こんこう いえくに、明治21年(1888年) - 昭和63年(1988年))は、金光教の二代管長、金光教内では二世管長と呼ばれた。 明治21年10月21日、今の岡山県浅口市金光町大谷に生まれる。金光萩雄の三男。母は赤沢古満(こま)。明治44年嫡系の次男で、管長の後継者とされていた兄金光之照の死去に伴い、父萩雄の死後家督を継ぎ二代目管長となる。 若年のためと、従兄で、金光宅吉の死後四十年以上結界奉仕をし、既に三代金光様と呼ばれていた金光攝胤や、父金光萩雄に比べ、多くの金光教信奉者からの人望も得られず、教団自覚運動とも呼ばれる昭和九年十年事件の結果。昭和16年、管長が世襲から選挙制に変わり、金光攝胤が三代目管長に任命された。
佐藤 耕方(さとう こうほう、1888年〈明治21年〉‐19… 佐藤 耕方(さとう こうほう、1888年〈明治21年〉‐1937年〈昭和12年〉5月28日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本画家。本名は藤太郎。水野年方および尾形月耕の門人であった。 1888年、岩手県水沢(現・奥州市)に、文化年間から繁栄してきた太物商の5代目当主として生まれる。藤太郎の出生直後に母ハツは19歳で死去、一関から来た父は実家に戻ってしまい、戸籍上で祖父弥一と祖母ミノの子となった。しかし、祖父は小学校在学中に死去。小学校卒業後は呉服修業のため上京、奉公先の子守をしながら近所に住む水野年方宅の庭先において年方が絵を描くのを見ることが日課となり、その熱心さを買われて年方に入門する。
塚原 葦穂(つかはら あしほ、1888年(明治21年) - … 塚原 葦穂(つかはら あしほ、1888年(明治21年) - 1965年(昭和40年)2月21日)は、日本の政治家、教育者。長野県諏訪市長。勲五等瑞宝章。 長野県諏訪郡豊平村(現茅野市)生まれ。旧制諏訪中学(長野県諏訪清陵高等学校)を経て、長野師範学校卒業。諏訪郡高島小学校訓導、同郡宮川小学校長、上高井郡視学、長野県視学を経て、1933年(昭和8年)高島小学校長兼高島裁縫専修学校長となる。また諏訪教育会長として二・四事件の事後処理に奔走した。また郷土史研究に力を入れ、『諏訪史』の編集刊行に尽力し、1937年(昭和12年)第2巻後編の刊行代表者を務めた。また同年から『諏訪史料叢書』の刊行に当たった。
関場 茂樹(せきば しげき、1876年(明治9年)12月29… 関場 茂樹(せきば しげき、1876年(明治9年)12月29日 - 1942年(昭和17年)1月7日)は、日本の橋梁設計者。日本の橋梁建設黎明期から橋梁会社技師長として活動し、登録有形文化財の犀川大橋、澱川橋梁などを設計した。 青森県出身である。父の忠武は斗南藩権少属を務め、青森県少属を経て、内務省に出仕した。関場は忠武の内務省時代に誕生している。関場不二彦は兄、林権助、大瀬甚太郎は義兄である。 一高を経て、東京帝国大学を卒業。土木工学科の同級生に八田嘉明がいる。関場は渡米してアメリカン・ブリッジで5年弱の研鑽を積む。樺島正義は同僚で、飲み仲間でもあった。20世紀初頭の米国では橋梁建設が盛んに行われ、日本の橋梁関係者の関心を集めており、増田淳も渡米している。
君島 八郎(きみしま はちろう、1876年(明治9年)12月… 君島 八郎(きみしま はちろう、1876年(明治9年)12月28日 - 1955年(昭和30年)10月14日)は、日本の土木工学者。工学博士、九州帝国大学教授。日本における道路研究の先駆者であり、その著書『君島大測量学』と『河海工学』は戦前土木名著100書に選ばれている。 福島県若松町諏訪町四谷の旧会津藩士君島勝平の次男として生まれる。1895年(明治28年)会津中学を一回生として卒業する。松江春次、森俊六郎、平石弁蔵らが同級生で、特選生として野口英世が通学しており、のちに留学先で再会している。二高第二部工科を首席で、1901年(明治34年)には東京帝国大学を19名中首席で卒業した。 大学院在学中に『道路学一斑』を著し、母校の講師や助教授、独国、仏国、米国での留学を経て、1911年(明治44年)、新設された九州帝国大学の工学部教授に就任。
安藤 秋三郎(あんどう あきさぶろう、1876年(明治9年)… 安藤 秋三郎(あんどう あきさぶろう、1876年(明治9年)12月28日 - 1962年(昭和37年)3月11日)は日本の教育者。大正時代から昭和中期にかけて、尾張地方の人材教育に尽力した。 1876年(明治9年)12月28日、愛知県丹羽郡重吉村(現:愛知県一宮市丹陽町重吉)で出生。生家は農業を営んでいた。地元の高等小学校を卒業後、尋常小学校の代用教員となる。その後愛知県尋常師範学校、東京高等師範学校を卒業後、明治37年(1904年)に北海道庁立上川中学校(現:北海道旭川東高等学校)生物科教員。上川中学に在籍中の明治40年、小泉秀雄含め教諭ら5人と高校生らのグループで初めての大雪山の植物収集調査を行う。
納富 陳平(のうとみ ちんぺい、1876年(明治9年)12月… 納富 陳平(のうとみ ちんぺい、1876年(明治9年)12月26日 - 1934年(昭和9年)3月1日)は、日本の政治家、実業家、銀行家。衆議院議員。北浜銀行取締役兼支配人、福岡銀行取締役などを歴任。 福岡県怡土郡神在村(糸島郡加布里村大字神在、前原町、前原市を経て現糸島市神在)で、納富義雄の二男として生まれる。1896年(明治29年)福岡県立尋常中学修猷館、1899年(明治32年)第五高等学校法科、1903年(明治36年)京都帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年8月、北浜銀行に入行。陸軍三等主計となる。 その後、北浜銀行取締役兼支配人となり、1919年(大正8年)12月、同行破綻の整理を行い退職。
速水 滉(はやみ ひろし、1876年12月23日 - 194… 速水 滉(はやみ ひろし、1876年12月23日 - 1943年6月27日)は、日本の心理学者。 1876年、岡山県生まれ。東京帝国大学を卒業。旧制山口高等学校、第一高等学校教授、1924年京城帝国大学教授、のち総長。墓所は多磨霊園
稲垣 陽一郎(いながき よういちろう、1876年〈明治9年〉… 稲垣 陽一郎(いながき よういちろう、1876年〈明治9年〉12月22日 - 1949年〈昭和24年〉4月1日)は、日本の神学者、聖職者、教育者、翻訳者。聖公会神学院校長、日本聖公会の司祭。 1894年(明治27年)和歌山聖救主教会で、アイザック・ドーマン宣教師から受洗。同年9月、開設された立教学校(現・立教大学)専修科に入学する。この時、信仰復興運動の中心となる永野武三郎(1877‐1898)も立教学校の3年に編入している。 翌1895年(明治28年)、稲垣、永野、池澤駿太郎(1876‐1956)らで、雑誌『廿八年』を発行して「十字同盟」を結成したことをきっかけに、寄宿舎の一室で祈祷会が朝夕開かれるようになり、盛んに伝道活動が行われた。
野田 正昇(のだ まさのり / せいしょう、1876年(明治… 野田 正昇(のだ まさのり / せいしょう、1876年(明治9年)12月21日 - 1947年(昭和22年)6月11日)は、明治から昭和前期の農業経営者、政治家、陸軍軍人。衆議院議員、愛知県会議長、愛知県丹羽郡大口村長、陸軍歩兵少尉。 愛知県丹羽郡大屋敷村(太田村、大口村を経て現大口町)で、代々庄屋を務めた野田家当主・野田庄右衛門の長男として生まれる。1886年(明治19年)家督を相続した。陸軍教導団に入団し日露戦争に従軍。陸軍歩兵少尉に進み陸軍幼年学校教官として務め予備役編入となった。1907年(明治40年)早稲田大学専門部法律科を卒業して帰郷し、農業を営む。 丹羽郡養蚕組合長、同桑苗組合長、同農会長、愛知県養蚕業組合連合会長、同耕地協会副会長などを務めた。
九条 恵子(くじょう やすこ、1876年(明治9年)12月1… 九条 恵子(くじょう やすこ、1876年(明治9年)12月19日 - 1956年(昭和31年)5月8日)は、公爵・九条道実(九条道孝の長男)の妻。大谷光瑩の次女。母は木下俊愿の三女・恒子。 跡見女学校(現跡見学園女子大学)卒業。名家の子女が学ぶ学校として著名だった跡見女学校の卒業生のなかでも、とくに才能が秀でており、「跡見三才媛」の一人と呼ばれた。道実との間に一男五女を儲けた。長男は道秀。長女・兼子は侯爵佐竹義春(佐竹義生の長男)、次女・豊子は中山輔親(中山孝麿の子)、四女・敏子は賀陽宮恒憲王に嫁いだ。恵子は大日本婦人教育会評議員、愛国婦人会本部評議員、婦人法話会幹事として活躍した。79歳で死去。
加護谷 祐太郎(かごたに すけたろう 1876年(明治9年)… 加護谷 祐太郎(かごたに すけたろう 1876年(明治9年)12月19日 - 1936年(昭和11年)6月7日)は、日本の建築家。 兵庫県明石生まれ。姫路中学、第三高等学校(京都)を経て東京帝国大学工科大学建築学科に進む。 1904年(明治37年)、東京帝国大学を卒業。同年、奈良県技師となり、東大寺大仏殿の修理に携わる。その後、山梨県(県立病院)、辰馬汽船、兵庫県(鶴林寺太子堂修理など)、大分県(県庁)などで業務に従事。1922年に東京市技師、建築課長。翌年関東大震災が起こり、1925年まで震災復興に当たる。東京市退職後は丹羽鋤彦、竹内季一と共同で建築事務所を開設。1931年より加護谷建築事務所を主宰。
須藤 吉之祐(すどう きちのすけ、1876年12月19日 -… 須藤 吉之祐(すどう きちのすけ、1876年12月19日 - 1956年10月2日)は、日本の経済学者、教育者。立教大学元学長、立教大学経済学部元教授。 1894年(明治27年)、立教学校(現・立教大学)卒業。同期には木村重治(立教大学元学長)がいる。 1897年(明治30年)にアメリカに留学し、ペンシルベニア大学に入学。1900年(明治33年)に同大学を卒業。 その後、母校である立教大学の教員となり、経済学部教授を務める。 1932年(昭和7年)9月に、杉浦貞二郎の後任として木村重治が立教大学学長に就任し、経済学部長を兼任すると、経済学科長に河西太一郎、商学科長に須藤吉之祐が着任した。 1936年(昭和11年)7月、立教大学学長(事務取扱)に就任し、翌年3月まで務めた。
島木 赤彦(しまき あかひこ、1876年(明治9年)12月1… 島木 赤彦(しまき あかひこ、1876年(明治9年)12月16日 - 1926年(大正15年)3月27日)は、日本の明治・大正時代のアララギ派歌人。本名は久保田俊彦。別号、柿乃村人。 長野師範学校を卒業後、小学校教員を務める傍ら、1903年に歌誌「比牟呂」を創刊、やがて伊藤左千夫の門下となった。 1909年には「比牟呂」を「アララギ」に合流させ、以来、斎藤茂吉、土屋文明らと並ぶアララギ派の有力歌人として活躍。左千夫と長塚節なきあとは上京し、「アララギ」の編集責任者となった。 1876年(明治9年)12月16日、長野県諏訪郡上諏訪村角間(現諏訪市元町)に旧諏訪藩士・塚原浅茅と妻・さいの四男として生まれる。
高階 瓏仙(たかしな ろうせん、1876年12月15日 - … 高階 瓏仙(たかしな ろうせん、1876年12月15日 - 1968年1月19日)は、日本の仏教学者、僧侶。曹洞宗大学(現駒澤大学)教授。總持寺独住第12世貫首、永平寺第71世貫首、曹洞宗第18代管長、全日本仏教会長を歴任。道号は玉堂。 福岡県嘉穂郡臼井村生まれ。1890年永泉寺の高階黙仙住職について得度。1901年曹洞宗大学林(現駒澤大学)卒業。同年より曹洞宗の内地留学生として京都で仏教研究。1903年福岡県の永泉寺住職。1904年可睡斎の日置黙仙に4年に渡り随待参禅し、1905年静岡県の崇信寺住職となる。1909年曹洞宗大学教授に就任。1910年曹洞宗特選議員となり、以後宗議会議長、宗務院総務を歴任。
一柳 貞吉(ひとつやなぎ さだきち、1876年(明治9年)1… 一柳 貞吉(ひとつやなぎ さだきち、1876年(明治9年)12月15日 - 1941年(昭和16年)11月4日)は、日本の実業家・著述家。王子製紙取締役・監査役を務めるかたわら、一柳家にまつわる歴史の編纂や史跡の保護にあたった。諱として「直幹」、号として「南峰」を称している。 1876年(明治9年)、岐阜県大垣生まれ。父は大垣藩で藩校教授を務めていた一柳元吉(1842年 - 1919年、諱は「薫」、号「芳洲」)。実弟に、文部省社会教育局長・国民精神文化研究所所長となる関屋龍吉がいる。生家の一柳家は、江戸時代初期に伊予国西条藩主であった一柳家の流れを汲む。西条藩一柳家は3代藩主一柳直興の時に改易処分を受けたが、直興の弟・一柳直照が5000石で別家を立てており、その家は大身旗本として幕末まで存続した。
菅沼 周次郎(すがぬま しゅうじろう、1876年(明治9年)… 菅沼 周次郎(すがぬま しゅうじろう、1876年(明治9年)12月15日 - 1963年(昭和38年)12月26日)は、明治時代から昭和時代の日本海軍軍人、教育者。西海学園高等学校の創立者である。 旧平戸藩士菅沼量平の二男として長崎県松浦郡平戸(現平戸市)に生まれる。兄は平戸派南進論者として知られた菅沼貞風で、幼時よりその指導を受けた。 兄の死後、海軍兵学校(26期)に進み海軍入り。日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦に従軍。 1924年(大正13年)に少将・佐世保鎮守府人事部長を最後に退官した後、佐世保市助役に推されたが辞退し当時佐世保に無かった男子の進学できる私立普通中学の創設を志した。退官翌年の1925年(大正14年)、「西海中学」(のちの西海学園高等学校)を佐世保市八幡町に開校。
馬渡 俊雄(まわたり としお、1876年(明治9年)12月1… 馬渡 俊雄(まわたり としお、1876年(明治9年)12月14日 - 1946年(昭和21年)2月1日)は、日本の内務・警察官僚、実業家。官選県知事。旧姓・加藤。 東京府豊多摩郡淀橋町で加藤弘之の三男として生まれる。1885年7月、佐賀藩の家老諫早一学の家臣で、判事や弁護士を務めた馬渡俊猷の養子となる。第一高等学校を経て、1901年9月、東京帝国大学法科大学政治学科に入学。1905年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1906年、東京帝大を卒業し内務省に入省、愛知県属となる。 以後、滋賀県事務官、大阪府事務官、山口県事務官・警察部長、福岡県事務官・警察部長、神奈川県警察部長、和歌山県内務部長、新潟県内務部長などを歴任。
川村 数郎(かわむら かずろう、1876年〈明治9年〉12月… 川村 数郎(かわむら かずろう、1876年〈明治9年〉12月14日 - 1939年〈昭和14年〉12月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県、のちの岐阜市出身。貿易業を営む。朝鮮煙草、日本テレビン油、丸山乾燥各(株)取締役、(株)中井商店、新公論社各理事、中外化学工業(株)、岐阜毎夕新聞、濃飛日報各社長となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において岐阜4区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙では政友本党から立候補したが落選した。1928年の第16回衆議院議員総選挙では岐阜2区から立憲民政党公認で立候補したが落選した。
禱 苗代(祷 苗代、いのり しげしろ、1876年(明治9年)… 禱 苗代(祷 苗代、いのり しげしろ、1876年(明治9年)12月12日 - 1927年(昭和2年)5月13日)は、明治から昭和初期の教育者・弁護士・政治家。衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。 鹿児島県大島郡赤尾木村(龍郷村を経て現龍郷町)で、禱朝衡、みよ の長男として生まれた。沖縄師範学校を卒業し、1898年(明治31年)、沖縄県国頭小学校校長となり、1905年(明治38年)には東京市東陽小学校校長に就任した。その後、日本大学に入り、1909年(明治42年)に卒業した。同年、司法官試補となったが、翌年に退官し、東京で弁護士を開業した。 帰郷して1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙(鹿児島県第8区、立憲政友会公認)で当選。
津末 良介(つのすえ りょうすけ、1876年(明治9年)12… 津末 良介(つのすえ りょうすけ、1876年(明治9年)12月11日 - 1949年(昭和24年)12月3日)は、日本の衆議院議員(立憲同志会→憲政会→新政会)。弁護士。 大分県大分郡滝尾村(現在の大分市)出身。第五高等学校を経て、1904年(明治37年)に京都帝国大学法科大学独法科を卒業。司法官試補となり大分地方裁判所に勤務したが、辞して1905年(明治38年)に同地に弁護士事務所を開いた。1908年(明治41年)に大分弁護士会長に選ばれ、1911年(明治44年)には大分市参事会員に選ばれた。 1912年(明治44年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第13回に至るまで連続3回当選を果たした。
藤田 若水(ふじた わかみ、1876年(明治9年)12月11… 藤田 若水(ふじた わかみ、1876年(明治9年)12月11日 – 1951年(昭和26年)12月30日)は、日本の弁護士、衆議院議員(立憲民政党)。司法参与官。広島市長(官選)。早稲田大学評議員。 愛媛県新居郡中荘村大字中村(現在の新居浜市)出身。藤田甸之の四男。 1898年(明治31年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)邦語行政科を卒業。1900年(明治33年)、弁護士試験に合格。 1901年(明治34年)、大阪に弁護士事務所を開き、1903年(明治36年)に広島市に移った。広島では弁護士副会長や弁護士会長を務めた。 広島市会議員、広島県会議員、県参事会員、県会副議長を歴任した後、1927年(昭和2年)の衆議院議員補欠選挙に当選。
太田 水穂(おおた みずほ、1876年(明治9年)12月9日… 太田 水穂(おおた みずほ、1876年(明治9年)12月9日 - 1955年(昭和30年)1月1日)は、明治期から昭和期の日本の歌人・国文学者。本名は太田貞一、別号・みづほのや。歌人・太田青丘は養子。 長野県東筑摩郡広丘村(現・塩尻市)に、太田億五郎の三男として生まれる。太田家は太田道灌の一族との伝がある。幼少から父より孝経の素読や百人一首の和歌を教えられる。 広丘高等小学校(現・塩尻市立広丘小学校)卒業後、長野県師範学校(現・信州大学教育学部)に進学。教師には高橋白山、浅井洌、高島平三郎がいた。在学中に詩歌に興味を持ち、文芸雑誌「文学界」に新体詩の投稿を始め、信濃毎日新聞に「和歌日抄」を掲載する。
稲葉 岩吉(いなば いわきち、1876年12月4日 - 19… 稲葉 岩吉(いなば いわきち、1876年12月4日 - 1940年5月23日)は、日本の歴史学者。専門は朝鮮史・中国史。旧姓は小林。号は「君山」。 1876年(明治9年)、現在の新潟県村上市で生まれた。1900年、高等商業学校附属外国語学校中国語部を卒業後、中華民国の北京に留学。1904年に勃発した日露戦争の際には、陸軍の通訳として従軍し、その後大阪商船に一時期勤務した。 1909年に満鉄調査部に入り、「満州朝鮮歴史地理調査」に携わった。1915年、陸軍大学校の教官に着任し、主に中国情勢についての講義を担当。 1922年、朝鮮総督府朝鮮史編纂委員会の委員兼幹事に任じられ、1925年からは修史官として歴史書『朝鮮史』の編集にあたった。
20代 木村 庄之助(にじゅうだい きむら しょうのすけ、1… 20代 木村 庄之助(にじゅうだい きむら しょうのすけ、1876年〈明治9年〉12月3日 - 1940年〈昭和15年〉3月9日)は、大相撲の立行司。 本名:後藤子之吉(旧姓・名川-鯉沼)。栃木県鹿沼市出身。所属は伊勢ノ海部屋、のち出羽海部屋。8代式守伊之助の弟子で、のち養子になった。21代庄之助は弟弟子にあたる。 明治後期から昭和初期の大相撲界を支えた近代名行司の第一人者で、行司史上屈指の名人と謳われている。人望、見識ともに備わり、名行司の証とも言われる 「松翁」 の称号を番付上に冠した。土俵態度、裁きともに秀で角界内では一目置かれていた。行司生活54年間に裁いた取組で差し違えはわずか2番のみであったという。
直木 倫太郎(なおき りんたろう、1876年(明治9年)12… 直木 倫太郎(なおき りんたろう、1876年(明治9年)12月1日 - 1943年(昭和18年)2月11日)は、日本の土木技術者・土木工学者、都市計画家。元帝都復興院技監。大陸科学院初代院長。元大阪市都市計画部長。関西工学専修学校(現:大阪工業大学)の創設時協力者。元大林組取締役。 新聞に投稿して入選した俳句から燕洋と号した。技術者の地位向上分野の先駆をなした「日本工人倶楽部」の活動でも活躍した技術官僚。 1876年、兵庫県で真島顕蔵の長男として生まれ、17歳で実業家・直木政之介(日本燐寸製造創業者)の養子となる。 姫路中学校、第三高等学校、第二高等学校を経て、1899年7月、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。
江藤 栄吉(えとう えいきち、1876年(明治9年)12月 … 江藤 栄吉(えとう えいきち、1876年(明治9年)12月 - 1928年(昭和3年)4月27日)は、広島県出身の教育者、政治家。衆議院議員。
奥山 清治(おくやま せいじ、1876年(明治9年)11月3… 奥山 清治(おくやま せいじ、1876年(明治9年)11月30日 - 1965年(昭和40年)5月17日)は、日本の外交官。駐ギリシャ公使。 山形県北村山郡出身。1896年(明治29年)に旧制山形中学卒業。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、翌年に外交官及領事官試験合格した。シンガポール領事官補、オーストリア公使館三等書記官、外務省参事官、ロシア大使館一等書記官、外務省人事課長、同文書課長、国際連盟事務局次長、駐ギリシャ公使を務めた。 退官後は国際連盟協会主事を務めた後、満州国駐日大使館最高顧問となった。
石谷 源十郎(いしたに げんじゅうろう、1876年〈明治9年… 石谷 源十郎(いしたに げんじゅうろう、1876年〈明治9年〉11月30日 - 1951年〈昭和26年〉)は、日本の実業家、政治家、鳥取県多額納税者、地主。鳥取県会議員。鳥取県八頭郡智頭町会議員。八頭銀行頭取。因幡木材会社社長。因伯時報社取締役。 鳥取県八頭郡智頭町大字智頭出身。石谷源蔵の長男。1896年、鳥取中学校を卒業する。1905年、家督を相続する。父祖の家業である農業、林業の経営に従事する。 1911年、鳥取県会議員に当選し1期間をつとめ政友会鳥取県支部の幹部として活躍し、1919年、政友会鳥取県支部幹事長に挙げられる。 政友会に属し、地方名望家としてその名を知られる。政友会系統の政治家として智頭町を二分してアンチ米原民政派の勢力の中心だった。
金子 薫園(かねこ くんえん、1876年11月30日 - 1… 金子 薫園(かねこ くんえん、1876年11月30日 - 1951年3月30日)は、日本の歌人。
松岡 均平(まつおか きんぺい、1876年11月28日 - … 松岡 均平(まつおか きんぺい、1876年11月28日 - 1960年6月10日)は、法学博士。男爵・松岡康毅の長男。男爵、貴族院議員。東京帝国大学法科教授。
川口 誠三郎(かわぐち せいさぶろう、1876年(明治9年)… 川口 誠三郎(かわぐち せいさぶろう、1876年(明治9年)11月28日 - 1921年(大正10年)9月24日)は、明治から大正期の政治家、実業家。衆議院議員。 福島県安積郡、のちの郡山町(現:郡山市)の製糸業・川口半右衛門の二男として生まれる。質屋を営む。平郡線(磐越東線)の敷設、水郡線の開通に尽力した。 郡山町会議員、安積郡会議員、福島県会議員を務めた。1920年(大正9年)5月、第14回衆議院議員総選挙(福島県第4区、立憲政友会公認)で郡山初の衆議院議員に当選したが、議員在任中の1921年9月に死去した。
真崎 甚三郎(まさき じんざぶろう、旧字体: 眞崎 甚三郞、… 真崎 甚三郎(まさき じんざぶろう、旧字体: 眞崎 甚三郞、1876年〈明治9年〉11月27日 - 1956年〈昭和31年〉8月31日)は、日本の陸軍軍人。陸軍士官学校9期、陸軍大学校19期。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位勲一等功四級。 荒木貞夫と共に皇道派の頭目の一人として、青年将校の衆望を集める。青年将校が起こした二・二六事件においては、犯人らの主張に沿って収束を図ったが、昭和天皇の強い反発を招き失敗した。 弟に海軍少将、衆議院議員の真崎勝次。長男に外務省、宮内庁の官僚で昭和天皇の通訳を長く務めた真崎秀樹。 1876年(明治9年)11月27日、中農の真崎要七の長男として佐賀県に生まれた。 佐賀中学(現佐賀県立佐賀西高等学校)を1895年(明治28年)12月に卒業後、士官候補生を経て1896年(明治29年)9月に陸軍士官学校に入学した。