川田 正澂(かわだ まさずみ、文久3年12月27日(1864… 川田 正澂(かわだ まさずみ、文久3年12月27日(1864年2月4日) - 1935年12月9日)は、日本の教育者。 土佐国(現・高知県)生まれの士族出身。高知中学校(現・高知追手前高校)から選抜されて、東京日本橋箱崎町の旧土佐藩侯邸内・海南学校(現・高知小津高校)に上京し進学。のち廃校となり、明治義塾(のち廃校、その跡地に英吉利法律学校、日本中学創立)に移り外国人から英語を学ぶ。1888年(明治21年)、文部省中学教育検定試験に首席合格。同年9月に、第三高等中学校(のちの旧制三高)教員となる。1898年(明治31年)に静岡県立静岡中学校(現・静岡高校)校長に着任。1904年(明治37年)8月~1909年(明治42年)4月にかけて宮城県立仙台第一中学校(現・仙台第一高校)校長を務め、1909年(明治42年)から東京府立第一中学校(現・都立日比谷高校)校長に任ぜられる。
国分 三亥(こくぶ さんがい、文久3年12月25日(1864… 国分 三亥(こくぶ さんがい、文久3年12月25日(1864年2月2日) - 昭和37年(1962年)5月1日)は、日本の検事、朝鮮総督府官僚。錦鶏間祗候、宮中顧問官。教育者。 備中松山藩士の国分胤之(魚水実録を編纂)の子として生まれる。1883年(明治16年)に司法省法学校に入学し、1885年(明治18年)に卒業した。検事補となり、1887年(明治20年)に判事検事登用試験に合格。岡山地方裁判所検事、横浜地方裁判所検事、甲府地方裁判所検事正、高知地方裁判所検事正、大阪控訴院検事、大阪地方裁判所検事正を歴任した。1908年(明治41年)に韓国に渡り、韓国検事総長、統監府裁判所高等法院検事長に就任した。
菅村 太事(すがむら ふとじ、1864年2月2日(文久3年1… 菅村 太事(すがむら ふとじ、1864年2月2日(文久3年12月25日)- 1934年(昭和9年)3月6日)は、明治から昭和初期の日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、福島県会議長、福島県田村郡美山村長。旧姓・佐久間。 陸奥国田村郡北鹿又村(福島県田村郡美山村大字北鹿又村、船引町を経て現田村市船引町北鹿又)で、鹿股神社神職、農業・菅村嗣江の8人兄妹の第3子として生まれる。父は国学者で佐久間姓を明治維新後に鹿股神社の祭神・船大明神にちなんで菅村に改姓した。 自由民権運動に加わり田村郡の青年壮士として活動した。1882年(明治15年)11月、会津地方の応援に10人ほどの青年と駆け付けたが、同月29日、耶麻郡新合村(現喜多方市熊倉町新合)の会津自由党本部で逮捕され、2ヶ月間若松監獄に収容され、1883年(明治16年)2月、国事犯、凶徒聚衆教唆者として東京に護送されたが、同年4月13日に免訴釈放となった。
重岡 薫五郎(しげおか くんごろう、元治元年1月3日(186… 重岡 薫五郎(しげおか くんごろう、元治元年1月3日(1864年2月1日) - 明治39年(1906年)6月21日)は、日本の衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会)、弁護士。 伊予国喜多郡内ノ子村(現愛媛県内子町)にある呉服商兼雑貨屋の次男に生まれる。東京大学法学部を経て、司法省法学校速成科を卒業後、判事登用試験に合格するも、10日間で辞職。1887年(明治20年)からフランス・エクス大学(現エクス=マルセイユ大学)に留学し法学博士号を取得。帰国後、1892年(明治25年)に第2回衆議院議員総選挙に年齢を2歳ごまかして出馬するも、改進党系の有友正親に敗れる。第三高等中学校法学部教授や関西法律学校教授嘱託をつとめたほか、1893年(明治26年)に弁護士業を開業している。
小沢 愛次郎(おざわ あいじろう、1864年1月28日(文久… 小沢 愛次郎(おざわ あいじろう、1864年1月28日(文久3年12月20日) - 1950年(昭和25年)6月19日)は、日本の政治家、剣道家。 埼玉県会議員(4期)、衆議院議員(5期)を務め、剣道の中学校正科編入への請願運動に尽力した。流派は小野派一刀流。称号は大日本武徳会剣道範士。 武蔵国埼玉郡小針村(埼玉県北埼玉郡小針村、太田村を経て現行田市)で、小鹿原安次郎の弟、地主・田島竹之助の従兄弟として生まれ、桑崎村(岩瀬村を経て現羽生市)の素封家・小沢丈右衛門の養子となる。佐倉藩士・倉田幽谷から盈進義塾で漢学を学んだ。 1877年(明治10年)4月、14歳から忍町佐間(現行田市)の講武場道場で旧忍藩剣術指南役松田十五郎に小野派一刀流を学ぶ。
石川 喜三郎(いしかわ きさぶろう、文久3年12月16日(1… 石川 喜三郎(いしかわ きさぶろう、文久3年12月16日(1864年1月24日) - 昭和7年(1932年)2月5日)は、正教会の神学者。陸奥国仙台(現宮城県仙台市)出身。聖名はペートル(ペトル)。 生涯で活発に著述活動を行った。 1892年、日本ハリストス正教会の機関誌『正教新報』の編集人となる。亜使徒聖ニコライ大主教からセルギイ・チホミーロフ主教(肩書当時、のち府主教)に日本正教会の長が代わった際に『正教新報』は『正教時報』となるが、その編集人・発行人であり主筆であった。 1917年のロシア革命により母教会からの日本正教会への財政的援助が途絶え教会財政が逼迫する中、1923年の関東大震災により編集場所もなくなり、『正教時報』も縮小を余儀なくされ主筆の石川以外の人員が全て解雇され、石川の仮住居がそのまま正教時報社となるといった多大な困難にあって、石川は編集、発送、会計など全ての事務を担い続け『正教時報』発行継続に全力を尽くした。
田附 政次郎(たづけ まさじろう、文久3年12月15日(18… 田附 政次郎(たづけ まさじろう、文久3年12月15日(1864年1月23日) - 昭和8年(1933年)4月26日)は、日本の近江商人、実業家。大阪紡績取締役。東洋紡・日清紡ホールディングス・江商(現・兼松)の設立に関与した。また、綿糸相場師として活躍し『田附将軍』と呼ばれた。「売りの田附」として有名。ニュース・キャスターの国谷裕子の曾祖父。 文久3年(1864年)に近江国佐生村(後の滋賀県神崎郡五峰村佐生、神崎郡能登川町佐生を経て現・東近江市佐生町)に産まれる。船場八社の一つの田附商店を開業し、綿花取引や、綿業界をリードする存在であった。また、社会貢献として、京都大学に財団法人田附興風会、郷里の神崎郡五峰村に公益財団法人五峰興風会、帝塚山学院、大阪市に北野病院などを開設している。
塩谷 眞康(しおのや しんこう、文久3年12月14日〈186… 塩谷 眞康(しおのや しんこう、文久3年12月14日〈1864年1月22日〉 - 大正7年〈1918年〉3月24日)は、日本の政治家、教育家。衆議院議員(1期)、群馬県会議員(2期)。前名は塩谷 五十足(しおのや いそく)。 上野国吾妻郡小泉村(太田村を経て現・群馬県吾妻郡東吾妻町)出身。父は塩谷真雄。群馬師範学校(現・群馬大学教育学部)卒業後、郷里で教員となる。その後上京し1887年(明治20年)に慶應義塾を卒業。自宅の近くに春山館という私塾を開いて多くの若者を育成し、図書を多く収蔵して図書館の先駆となった。 1890年(明治23年)、群馬県会議員に当選。1894年(明治27年)に再選され常置委員となる。
坂野 兼通(ばんの かねみち、文久3年12月12日〈1864… 坂野 兼通(ばんの かねみち、文久3年12月12日〈1864年1月20日〉 - 昭和6年〈1931年〉8月12日)は、日本の銀行家。元山口合資会社理事長。 尾張国名古屋出身。1888年高等商業学校(現一橋大学)卒業、三菱合資会社銀行部入行。三菱合資会社銀行部大阪支店長を経て、1910年に町田忠治の後任として山口銀行上席理事に就任。1914年日本生命保険監査役。1918年大阪貯蓄銀行取締役。山口銀行の近代化を進めた。1924年には山口銀行筆頭常務を退任し、以降山口合資会社理事に専念し、山口合資会社理事長も務めた。1929年共同火災海上保険取締役会長。 ファミリア創業者の坂野惇子は、七男通夫の妻。長女の芳子は、衆議院議員横井時雄四男柳瀨存の妻。
小山 作之助(こやま さくのすけ、文久3年12月11日(18… 小山 作之助(こやま さくのすけ、文久3年12月11日(1864年1月19日) - 昭和2年(1927年)6月27日)は、日本の教育者・作曲家。日本教育音楽協会初代会長。 文久3年12月11日(1864年1月19日)越後国頸城郡潟町村(現在の上越市大潟区潟町)に生まれる。16歳で小学校を卒業した後、石油事業をしていた父の仕事を手伝うため高田町(のちの高田市、現在の上越市)へ移り住み、夜は漢学塾に通う生活をしていた。 1880年(明治13年)家人に無断で上京、大学予備門を経て築地大学(現在の明治学院大学)へ入学する。英語と数学を学び1883年(明治16年)2月、文部省音楽取調所に入学し、伊沢修二に師事。
清岡 等(きよおか ひとし、1864年1月16日(文久3年1… 清岡 等(きよおか ひとし、1864年1月16日(文久3年12月8日) - 1923年(大正12年)12月31日)は、日本の政治家、実業家。 陸奥国盛岡(現岩手県盛岡市)生まれ。父親行三の関係で秋田で過ごし太平学校(旧制秋田中学校、現秋田県立秋田高等学校)を卒業。1882年(明治15年)から1894年(明治27年)まで岩手県庁に勤務。1894年から1901年(明治34年)まで盛岡市長を務めた。1902年の第7回衆議院議員総選挙に出馬して原敬に敗れる。その後、盛岡電気社長、巖手日報の主筆、同社長などの事業を手がけた。
柴田 忠次郎(しばた ちゅうじろう、1864年1月16日 -… 柴田 忠次郎(しばた ちゅうじろう、1864年1月16日 - 1909年9月27日)は、明治時代の貿易商。日本における活動写真(映画)の導入に貢献した人物である。 愛知県豊田市出身。父は挙母藩の郡奉行を務めた柴田順平。弟に柴田鏡三郎。 東京・京橋の貿易商、新居商会に勤め、興行師の櫛引弓人や新居三郎と関わりを持つ。1893年(明治26年)のシカゴ万国博覧会に日本庭園を出品するため渡米。その後もアメリカ各地の催しに参加した。 1896年(明治29年)、友人の勧めで「ヴァイタスコープ」の上映を観賞。日本での上映を思い立ち、直ちに映写装置と16本のフィルムを3,500円で購入したが、代金が不足していたため、残額を日本で支払うこととなった。
盛田 善平(もりた ぜんぺい、1864年1月15日(文久3年… 盛田 善平(もりた ぜんぺい、1864年1月15日(文久3年12月7日) - 1937年(昭和12年)2月24日)は、日本の実業家。敷島製パンの創業者で初代社長。 尾張国知多郡小鈴谷村(現・愛知県常滑市)で造り酒屋を営んでいた盛田太助の五男で、敷島製パンの現社長盛田淳夫はひ孫。中埜酢店(現・ミツカン)の4代中埜又左衛門は叔父に当たる。 1864年1月15日(文久3年12月7日)、造り酒屋の五男として生まれた善平は家業を継ぐも酒税法の改正により廃業。当時ミツカンの創業家である中埜家の養子となっていた叔父の4代中埜又左衛門から「ビールづくりを手伝って欲しい」と頼まれたのを期に独学でビール造りを学び、1887年(明治20年)に又左衛門と共に丸三麦酒醸造所を創業する。
中田 錦吉(なかた きんきち、元治元年12月9日(1864年… 中田 錦吉(なかた きんきち、元治元年12月9日(1864年1月6日) - 大正15年(1926年)2月20日)は、第四代住友総理事である。 出羽国秋田郡大館町(現在の秋田県大館市)出身。1890年(明治23年)東京帝国大学卒業。同年横浜始審裁判所判事に任官。東京控訴院判事、横浜地方裁判所部長、水戸地方裁判所所長を経て、1899年(明治32年)東京控訴院部長に就任。1900年(明治33年)大学の3年先輩である鈴木馬左也の推挽によって住友に入り、1902年(明治35年)別子鉱業所支配人となる。1903年(明治36年)本店理事となり、1909年(明治42年)商工視察のため欧米へ出張し、1910年(明治43年)からは銀行支配人を兼務した。
井上 公二(いのうえ こうじ、1864年1月3日(文久3年1… 井上 公二(いのうえ こうじ、1864年1月3日(文久3年11月24日) - 1925年(大正14年)1月18日)は、明治期の実業家。古河鉱業会社に入り、足尾鉱業所長、古河合名会社理事を経て帝国生命保険(現・朝日生命保険)社長。古河財閥で大業を成し、昆田文次郎と並んで二大巨頭といわれた。 備中国(岡山県)上房郡高梁町(現・高梁市)生まれ。旧庭瀬藩士・井上公一の長男。漢学塾有終館に学び、岡山中学を中退。 16歳で単身上京し、有終館学頭だった三島中洲が開いた二松学舎、同人社に学び1883年(明治16年)慶應義塾入学、明治18年に卒業。1885年卒業と同時に米国に留学し、1888年帰国。時事新報を経て留学生支援を行う。
小松 謙次郎(こまつ けんじろう、1864年1月2日〈文久3… 小松 謙次郎(こまつ けんじろう、1864年1月2日〈文久3年11月23日〉- 1932年〈昭和7年〉10月15日)は、明治・大正期の官僚、政治家、貴族院議員。正三位勲一等。 信濃国埴科郡松代(現:長野県長野市松代町松代)に松代藩士横田数馬の次男として生まれる。和田英・横田秀雄の実弟。同藩士小松政昭の養子となる。藩校文武学校を経て、上京後、慶應義塾から帝国大学法科大学に転じ1888年(明治21年)に卒業。 司法省参事官、試験委員から逓信省に入り書記官となる。日露戦争中には韓国へ派遣され電信電話の普及に努める。逓信局長を経て次官で退官。同じくして1912年(大正元年)12月28日に貴族院議員に勅選された。
内田 恒太郎(うちだ つねたろう、1864年(慶應2年)1月… 内田 恒太郎(うちだ つねたろう、1864年(慶應2年)1月1日 - 1936年(昭和11年)2月10日)は、日本の会社役員。大日本麦酒(現サッポロビール)監査役。岡山県岡山市出身であり、族籍は岡山県平民。 岡山県上道郡富山村(現:岡山市)の内田武壽の長男として出生する。。1873年、家督を相続する。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、旧制横浜商業学校(現:横浜市立大学)を経て、三井物産へ入社する。三井物産横浜支店、山陽倉庫銀行、岡山銀行等に勤務して同郷の先輩馬越恭平の知遇を得て大日本麦酒に入り、以来累進して商務課長、名古屋出張所長及び東京出張所長、取締役、監査役等を歴任する。 妻は赤龍丸事件を起こした鹿児島士族江田(ごうだ)兼親の娘雪(俗名幾子)。
伊藤 為吉(いとう ためきち、1864年1月 - 1943年… 伊藤 為吉(いとう ためきち、1864年1月 - 1943年5月)は、日本の建築家・発明家。伊勢国松坂(現三重県松阪市)出身。
鹿島 平堂(かしま へいどう、元治元年(1864年) - 昭… 鹿島 平堂(かしま へいどう、元治元年(1864年) - 昭和19年(1944年))は日本の教育者、俳人。旧姓佐賀、本名昊(ひろし)。 上道村(現鳥取県境港市上道町)の農家佐賀家に生まれる。 明治17年(1884年)鳥取県師範学校米子支校卒業、同年境小学校訓導となる。上京して東京物理学校(現在の東京理科大学)に学ぶ。卒業後、東京の私立数学専門学校長として赴任、横須賀海軍鎮守府の艦内学校教授に転任し、以来在京、私立井上小、芝区桜井小、京橋泰明小と歴任し、文部省に入り学校衛生顧問会議の書記となる。 明治41年(1908年)宮沢玉淵、宮尾杜子たちと「半蔵会」を設立し活躍。 明治30年(1897年)より大正6年(1917年)まで東京市に奉職する。
中野 二郎(なかの じろう、元治元年(1864年) - 昭和… 中野 二郎(なかの じろう、元治元年(1864年) - 昭和3年(1928年)2月9日)は、大陸浪人。東邦協会創立会員、東亜同文会会員。天門と号した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
中井 養三郎(なかい ようざぶろう、1864年 - 1934… 中井 養三郎(なかい ようざぶろう、1864年 - 1934年)は、現在の鳥取県倉吉市出身で、島根県周吉郡西郷町(現在の隠岐の島町)を拠点とした漁業者。 1864年、伯耆国久米郡中河原村(鳥取県東伯郡小鴨村大字中河原を経て、現:倉吉市中河原)にて、醸造業者の家に生まれる。 竹島で、潜水器を使ってナマコやアワビをとる漁業に携わったが、自著『事業経営概要』の中で、「本島は鬱陵島に付属して韓国の所領なりと思はるるを以って、将に韓国統監府に就て為す所あらん」と記述し、中井から直接話を聞いた奥原碧雲も、『竹島及鬱陵島』(1907年)において「リャンコ島を以って朝鮮の領土と信じ、同国政府に貸下請願の決心を起こし」と記述している。
井上 安治(いのうえ やすじ、文久4年 / 元治元年〈186… 井上 安治(いのうえ やすじ、文久4年 / 元治元年〈1864年〉 - 明治22年〈1889年〉9月14日)は、明治時代前期の浮世絵師、版画家。名前はやすはると読むとする説もある。本名は安次郎。作品によっては安次、安二、安二郎、安はると署名し、探景とも号した。 小林清親の一番弟子とされ、短命であったが光線画に優品を残した。 井上清七の長男として浅草並木町(今の雷門二丁目)で生まる。父は川越鍛冶町(現・幸町)にあった高麗屋という錦織問屋(太物仲買商)に生まれたが、江戸に出て浅草駒形町にあった丸屋呉服店に勤め、のちに一番番頭となっている。兄弟は姉と弟がおり、13歳の時父が亡くなってからは母の手ひとつで育てられたようだ。
石川 貞治(いしかわ ていじ、1864年 - 1932年)は… 石川 貞治(いしかわ ていじ、1864年 - 1932年)は、日本の教育者・文化人類学者・技師・実業家・技官。 島根県浜田市生まれ。1884年札幌農学校入学。1888年同校卒業(7期)。卒業後、考古学や文化人類学の研究者として札幌農学校助教授に就任。1896年拓殖務省技師に就任。その後、北海道庁にて鉱山・測量の技術者となる。同庁を退官後、北海道における金山・炭坑・油田の開発や経営を手掛ける。特に、鉱床開発では、手稲山が有名で、鉱業権を取得し、手稲鉱山と命名。その後、大津和多理、大町信、岡元輔、浅羽靖と共に、札幌農学校予科入学を目指す中等教育機関として北海英語学校中等部を創立。また、北海中学校・北海高等学校の創立にも大きく寄与した。
宮川 勇(みやかわ いさみ、1864年〈元治元年〉 - 19… 宮川 勇(みやかわ いさみ、1864年〈元治元年〉 - 1940年〈昭和15年〉)は、北海道・大沼公園の観光地化に尽力した日本の実業家。明治時代から昭和初期にかけて活動し、鉄道や宿泊施設の経営、観光資源の開発を通じて地域経済に大きな影響を与えた。 岩手県宮古市金浜(旧下閉伊郡磯鶏村大字金浜第四地割七拾番地)に生まれる。祖父勝弥の次男多次郎(天保十四年十月二日生)が父である。ー 北海道へ出稼ぎに行った父を追って、16歳(明治十三年三月十四日)の時、船で函館へ渡るが多次郎には会えぬまま、土工現場に従事した。 17歳の時、森田常吉率いる博徒団体マルモ一家(マルモは○の内側にモ)の創設に参加。- 明治20年(1887)から、函館を本拠に、全盛期には北海道、樺太、東京、青森、宮城、山形、秋田、岩手、新潟の1府2丁6県下に勢力を持ち、2万余の子分を擁した一大組織マルモ一家のナンバー2だったが、38歳で脱退。
熊田 鉄次郎(旧字体: 熊田 鐵次郎、くまた てつじろう、1… 熊田 鉄次郎(旧字体: 熊田 鐵次郎、くまた てつじろう、1864年〈元治元年〉 - 1907年〈明治40年〉5月28日)は、明治期の漢文学者、国文学者、教育者。立教学校(現・立教大学)教授や大阪陸軍地方幼年学校教授を務めたほか、各地の旧制中学で教えた。字は黒金、号は彬斉(ひんさい)。弟は二松学舎学長を務めた山田準/済斎。 1864年(元治元年)、備中松山藩士で山田方谷門の木村豊(藩校・有終館の会頭)の次男として生まれる。岡山県高梁市甲賀町(のちの柿木町)出身。兄は木村信行/水洞、弟は山田準/済斎(二松学舎専門学校初代校長・学長)。 14歳の時に、家老・熊田恰の一族・熊田矩光(大輔)の養子となる。
天川 恵三郎(あまかわ けいさぶろう、1864年〈元治元年〉… 天川 恵三郎(あまかわ けいさぶろう、1864年〈元治元年〉 - 1934年〈昭和9年〉4月5日)は、アイヌの民族活動家。旭川の近文で、第7師団の移転に伴うアイヌの土地の詐取的な取り上げに対する返還要求運動に関わり注目され、金田一京助らから「アイヌの佐倉惣五郎」と呼ばれる。アイヌ名はイサラ。 現在の北海道小樽市の領域にあたるオタルナイにて生まれ、1873年(明治6年)、量徳小学校に第1期生として入学する。勉学に秀でていた天川は、小学校を視察した大隈重信、西郷従道、白仁武らの目に留まる。特に大隈は、「成長して東京へ出たら必ず寄れ」と言うほどであった。のち石狩支庁の浜益村に移住し、農業を営んだ。 旭川の近文には、アイヌへの給与地が存在した。
上野 富左右(うえの とみぞう、元治元年(1864年) - … 上野 富左右(うえの とみぞう、元治元年(1864年) - 1889年(明治22年)2月10日)は明治時代の自由民権運動家。現栃木県小山市出身。一時期小口姓。地元で自由民権運動に参加し、自由党急進派として大阪事件に関与、『西哲夢物語』を秘密出版して検挙され、獄中で病死した。 元治元年(1864年)下野国都賀郡高椅村に上野八五郎の二男として生まれた。1874年(明治7年)延島村下等小学第六級を修了し、茨城県小塙町に移り増田慈教に漢籍を学んだ。1878年(明治11年)高椅村小口音治養子となった。 1880年(明治13年)4月栃木県四等巡査となるが、11月辞職し、高椅村役場に勤めた。 1881年(明治14年)頃自由民権運動に参加し、3月13日下都賀中節社副会長小林枡吉の呼びかけで延島村学校での集会に参加した。
中田 弥平(彌平、なかだ やへい、1864年(元治元年2月)… 中田 弥平(彌平、なかだ やへい、1864年(元治元年2月) - 1928年(昭和3年)5月25日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 加賀国能美郡浅井村(のち石川県能美郡苗代村、現・小松市)出身。農業を営む。1883年、自由党に加入し、石川県会議員、同参事会員となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において石川2区から自由党公認で立候補して当選する。同年8月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党公認で立候補して当選した。衆議院議員を2期務め、1902年の第7回衆議院議員総選挙は不出馬。1928年に死去した。
西村 淳蔵(淳藏、にしむら じゅんぞう、1864年(元治元年… 西村 淳蔵(淳藏、にしむら じゅんぞう、1864年(元治元年3月) - 1939年(昭和14年)2月14日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。勲7等 但馬国養父郡八鹿村(のち兵庫県養父郡八鹿村→八鹿町、現・養父市)に生まれる。普通学を修め、上京し、慶應義塾に入り、1888年に卒業する。農業を営み、八鹿村長、同町長を長年にわたって歴任する。 1898年8月の第6回衆議院議員総選挙において兵庫9区から憲政党公認で立候補して当選する。1902年の第7回衆議院議員総選挙では兵庫県郡部から憲政本党公認で立候補したが落選した。1939年に死去した。 妻、小静は、但馬国歌詞柏原町の名家、田艇吉の長女、内助の功多く婦人会長として活躍した。
大森 治豊(おおもり はるとよ、嘉永5年11月10日(185… 大森 治豊(おおもり はるとよ、嘉永5年11月10日(1852年12月20日) - 1912年2月19日)は日本の外科医、医学博士。日本の腹部外科の開拓者。 1852年(嘉永5年)、上山藩御典医、大森快春の長男として江戸に生まれる。以後、出羽国上山藩に移り、藩校の明新館に入学。 1879年東京大学医学部卒業後、福岡医学校に赴任し、1885年同校校長となる。1885年日本で初めて帝王切開手術に成功し、以来次々に腹部手術を行う。 1903年、福岡医科大学が創設された際に、初代学長兼付属医院長となり、外科学講座をもつ。1909年病気により退官、1911年九州帝国大学名誉教授。 1910年、九州大学医学部に大森の銅像が建てられた。
岸本辰雄(きしもと たつお/ たつゆう、1852年12月18… 岸本辰雄(きしもと たつお/ たつゆう、1852年12月18日(嘉永5年11月8日) - 1912年(明治45年)4月4日)は、日本の法学者。明治大学の創設者。 因幡国南本寺町(現在の鳥取市)に鳥取藩士岸本平次郎の三男として生まれる。幼名、辰三郎。当初藩校尚徳館で蘭式兵法を修める。 戊辰戦争に従軍後、1869年(明治2年)、箕作麟祥の共学塾に入門。翌年、貢進生として鳥取藩の推薦を受け、大学南校(後の東京大学)に入学。1872年(明治5年)、新設の司法省明法寮(後に司法省法学校)に第一期生として入学。ジョルジュ・ブスケ、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードらにフランス法を学び1876年(明治9年)卒業。
八巻 九万(八卷 九萬、やまき くまん、1852年12月14… 八巻 九万(八卷 九萬、やまき くまん、1852年12月14日(嘉永5年11月4日)- 1929年(昭和4年)4月1日)は、明治から昭和初期の大地主、政治家。衆議院議員、山梨県会議長。号・水竹漁史。幼名は熊太郎。 甲斐国巨摩郡箕輪村(山梨県北巨摩郡安都那村箕輪、高根村、高根町を経て現北杜市高根町箕輪)で、大地主の家に生まれる。父は勘弥、母はちゑ子。徽典館で学び、その後も学業を続けたいとの希望がかなえられず出奔し、上京して慶應義塾で学んだ。父の病の知らせにより帰郷して看病に手を尽くしたが死去し、家督を相続して東京に戻り、学業を終えて帰郷した。 戸長、区長総代理、学区総取締などを歴任。1879年(明治12年)山梨県会議員に選出され、同議長も務めた。
広住 久道(ひろずみ きゅうどう、1852年12月7日(嘉永… 広住 久道(ひろずみ きゅうどう、1852年12月7日(嘉永5年10月26日) - 1910年(明治43年)2月5日)は、明治時代の政治家。自由民権運動家。衆議院議員(5期)。 遠江掛川藩領志太郡阿知ヶ谷村(静岡県志太郡六合村を経て現島田市)に生まれる。斎藤拝石に漢学を学び、15歳にして阿知ヶ谷村の名主になる。1871年(明治4年)同村に栄昌舎を創立し、後進の教育に尽くした。国会開設請願運動にも関わり、郷里の有志惣代として奔走した。1882年(明治15年)静岡県会議員に当選し、同年立憲改進党が組織されると静岡県改進党に入党した。 1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙では静岡県第3区から出馬し当選。
大江 正路(おおえ まさじ、1852年11月21日〈嘉永5年… 大江 正路(おおえ まさじ、1852年11月21日〈嘉永5年10月10日〉 - 1927年〈昭和2年〉4月18日, Ōe Shikei Masaji, 17th head of the Musō Jikiden Eishin-ryū)は、日本の武道家。無双直伝英信流居合術第17代宗家。大日本武徳会居合術範士、剣道教士。号は「蘆洲」。字は「子敬」と称した。 無双直伝英信流居合術第17代宗家で、英信流は土佐藩において長谷川流、英信流、長谷川英信流、無雙直傳流、無雙神傳流などとも呼ばれており、大江はこれを無双直伝英信流に統一し、あわせて業の形の統一を図った。江戸時代「御留流(おとめりゅう)」として藩外不出だった英信流を、明治の世になり全国に広く伝えた。
柏原 左源太(かしわら / かしわばら さげんた、1852年… 柏原 左源太(かしわら / かしわばら さげんた、1852年11月17日(嘉永5年10月6日) - 1920年(大正9年)12月1日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国磐城郡赤井村(現福島県いわき市平赤井)の旧家に生まれた。磐城平藩儒・大須賀筠軒に学び漢学を修めた。 自由民権運動に参加し興風社に加盟。赤井村長、福島県会議員を歴任。三島通庸県令への反対運動に加わるが福島事件での逮捕は避けられた。 その後、立憲政友会に加わり福島支部の発起人となる。1908年5月の第10回衆議院議員総選挙に福島県郡部区から出馬し当選。衆議院議員を一期務めた。その他、三星炭鉱 (株) 取締役、平銀行 (株) 取締役、赤井軌道 (株) 常務取締役などを務めた。
佐々木 鉄太郎(鐵太郎、ささき てつたろう、1852年11月… 佐々木 鉄太郎(鐵太郎、ささき てつたろう、1852年11月17日(万延元年8月26日) - 1919年(大正8年)11月15日)は、明治期の地主、実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国田村郡徳定村(福島県田村郡守山村、守山町、田村町を経て現郡山市田村町)で、地主、醤油類醸造家・佐々木一二の長男として生まれた。1890年(明治23年)3月、家督を相続した。 家業の醸造業、製糸業を営み、郡山真製合資会社取締役、須賀川銀行監査役、三星炭鉱監査役、勿来炭鉱取締役、本宮製糸合資会社代表社員、製糸販売組合東北社理事長などを務めた。 1882年(明治15年)田村郡徳定正直組合戸長に就任し、守山町会議員、田村郡会議員、福島県会議員、同参事会員、地方森林会議員などを務めた。
瀬木 博尚(せき ひろなお、嘉永5年10月6日〈1852年1… 瀬木 博尚(せき ひろなお、嘉永5年10月6日〈1852年11月17日〉 - 1939年〈昭和14年〉1月22日)は博報堂の創業者。富山県富山市桃井町出身。 富山藩士の瀬木博重の長男として生まれる。 富山の役人を経て、明治27年(1884年)に上京し、星亨の「めさまし新聞」に入社。 明治28年(1895年)10月に東京都日本橋本銀町に教育雑誌の広告取次店「博報堂」を開業。明治30年(1897年)、神田区末広町に移転。明治43年(1910年)、日刊『内外通信』を発刊、社名を「内外通信社」と改称する。なお、広告部門には「広告部博報堂」の名称を継続使用した。大正3年(1914年)、神田区錦町に移転。大正13年(1924年)、株式会社化し、初代取締役社長に就任。
大久保 不二(おおくぼ ふじ、1852年11月14日(嘉永5… 大久保 不二(おおくぼ ふじ、1852年11月14日(嘉永5年10月3日)- 1924年(大正13年)10月9日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。号・瑟菅村。 常陸国筑波郡高道祖村(新治県筑波郡高道祖村、茨城県筑波郡高道祖村を経て現下妻市高道祖)で生まれた。鈴木竹湾に師事し漢学を修めた。のち上京して益盛舎を設立して、史学、地理検田、測地、製図の学科を設け教育に当たった。 戸長、区長、郡書記を歴任。1878年(明治11年)下妻に政治結社・絹水社(のち同舟社に改称)を設けて自由民権運動を推進した。1882年(明治15年)茨城県会議員に選出され1890年(明治23年)まで在任。1898年(明治31年)県会議員に再選され1903年(明治36年)まで務めた。
横山 勇喜(よこやま ゆうき、1852年11月13日(嘉永5… 横山 勇喜(よこやま ゆうき、1852年11月13日(嘉永5年10月2日)- 1897年(明治30年)11月7日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員、秋田県会議長。 出羽国秋田郡東大館町長倉(秋田県北秋田郡大館町を経て現大館市長倉)で、久保田藩士・横山運之助の長男として生まれた。藩校・明徳館で学んだ。 1874年(明治7年)10月、父の死去に伴い家督を相続。農業を営む。 1879年(明治12年)3月、秋田県会議員に選出された。通算6期在任し、1891年(明治24年)4月から4か月間、同議長を務めた。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(秋田県第2区、立憲革新党)で当選したが、同年9月の第4回総選挙で落選し、衆議院議員に1期在任した。
伊集院 五郎(いじゅういん ごろう、嘉永5年9月28日(18… 伊集院 五郎(いじゅういん ごろう、嘉永5年9月28日(1852年11月9日) - 大正10年(1921年)1月13日)は、日本の海軍軍人。元帥海軍大将正二位勲一等功一級男爵。
高野瀬 宗則(たかのせ むねのり、1852年11月3日(嘉永… 高野瀬 宗則(たかのせ むねのり、1852年11月3日(嘉永5年9月22日) - 1915年(大正4年)4月3日)は、理学士。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。
横堀 三子(よこぼり さんし、1852年10月27日(嘉永5… 横堀 三子(よこぼり さんし、1852年10月27日(嘉永5年9月15日)- 1914年(大正3年)3月24日)は、明治時代の政治家、台湾総督府官僚。自由民権運動家。衆議院議員(4期)。旧姓は土屋で諱は龍、字は雲卿。号は鉄研。通称名は三子。 下野国那須郡黒羽(黒羽県、栃木県那須郡黒羽町を経て現大田原市)で、黒羽藩士土屋新二郎の二男として生まれ、のち同国大田原藩領芳賀郡祖母井村(祖母井町を経て現芳賀町)に移り住む。幼くして大田原藩の儒臣・金枝柳村の門に入り漢籍を修める。1874年(明治7年)横堀源平の養子となり、1876年(明治9年)3月1日家督を相続した。1878年(明治11年)芳賀郡書記を経て、1879年(明治12年) 栃木県会議員に当選し、同議長を務め、常置委員、地方勧業諮問会員、地方衛生会員などを歴任した。
2代 辻 兵吉(にだい つじ ひょうきち、旧姓・山内、185… 2代 辻 兵吉(にだい つじ ひょうきち、旧姓・山内、1852年10月22日(嘉永5年9月10日) - 1926年(大正15年)4月26日)は、日本の実業家、秋田県多額納税者。秋田銀行、秋田貯蓄銀行各頭取。秋田農工銀行取締役。族籍は秋田県平民。 出羽国雄勝郡(現・秋田県湯沢市)出身。山内三郎兵衛の五男。本間金之助の弟。辻兵吉の養子となった。1880年、家督を相続し、先代の名を襲名した。商業を営んだ。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。1925年6月1日現在の直接国税総額金は「14648円65銭」である。住所は秋田市大町。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
6代 色部 義太夫(いろべ ぎだゆう、嘉永5年9月9日(18… 6代 色部 義太夫(いろべ ぎだゆう、嘉永5年9月9日(1852年10月21日) - 1915年(大正4年)3月14日)は、明治時代の政治家、大地主。貴族院多額納税者議員。幼名・吉郎治、本名・義智(よしとも)。 信濃国埴科郡杭瀬下村(長野県埴科郡埴生町、更埴市を経て現千曲市)で、大地主・豪農の5代色部義太夫義祐(よしすけ)、義江子夫妻の長男として生まれる。山寺常山に師事し漢学を修めた。後に6代義太夫を襲名し、正式名には義太夫を用いた。 1873年(明治6年)5月、長野県の地券取調所出仕となり出納課附属となる。1876年(明治9年)2月、地租鑑定を命ぜられ、同年12月に長野県を辞した。1884年(明治17年)2月の補選で長野県会議員となり、同年10月、埴科郡連合町村会議員となる。
田 艇吉(でん ていきち、1852年10月18日〈嘉永5年9… 田 艇吉(でん ていきち、1852年10月18日〈嘉永5年9月6日〉- 1938年〈昭和13年〉11月17日)は、日本の政治家、実業家。号は楓軒、松鶴。 丹波国氷上郡柏原藩領の下小倉村(現在の兵庫県丹波市柏原町下小倉)にて、農家の田文平の長男として生まれる。8歳より村医だった長沢順方に師事して読み書きを学ぶ。12歳の時に小島省斎に入門。父親の病のため、13歳でその代理を務める。学問を修めた後、1870年(明治3年)には19歳で村総代となった。20歳で家督相続。 1879年(明治12年)、第一期兵庫県会議員に当選。氷上郡書記、氷上郡長などを歴任の後、1891年(明治24年)に衆議院議員に当選(以後衆議院議員として当選4回)。
桜井 郁二郎(さくらい いくじろう、嘉永5年9月6日〈185… 桜井 郁二郎(さくらい いくじろう、嘉永5年9月6日〈1852年10月18日〉 - 大正4年(1915年)2月10日)は明治時代、大正時代初期の医師、産婦人科医。 西洋医学による近代的な産婆術の普及に努め、民間で初めてといわれる近代医学に基づく産婦人科専門病院を開設し、産科学の発展と、婦人病の治療、母性衛生の啓蒙に尽くした。 上野国西群馬郡(現在の群馬県)に生まれる。幼名は理作。父は江戸で柔術の天神真楊流の師範代を務めた武道家で、明治維新後は群馬県前橋町で整骨師を始めた。理作(郁二郎)は幼い時より地元の儒者の下で勉強し、1868年(明治元年)17歳の時、郷里を出て前橋に行き、兄が家業を継ぐべく武術と整骨術の道に進む一方で、医学を志し蘭学者で医師の宮下慎堂に就いた。
米田 武八郎(よねだ ぶはちろう、1852年10月13日(嘉… 米田 武八郎(よねだ ぶはちろう、1852年10月13日(嘉永5年9月1日)- 1919年(大正8年)5月15日)は、明治から大正前期の銀行家、政治家。衆議院議員、広島県会議長。 備後国三谿郡、のちの広島県三谿郡吉舎村(双三郡吉舎村、吉舎町を経て現三次市)で、米田為三郎の長男として生れた。国学、漢学を修めた。1875年(明治8年)11月、家督を相続した。 副戸長、郡書記、町村連合会議員、同議長、広島県会議員、同常置委員、同議長、双三郡会議員、同議長、同参事会員、徴兵参事員、地方衛生会委員、広島県農会議長、双三郡教育会長、所得調査会長などを務めた。 1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙(広島県郡部、無所属)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
鹿島 秀麿(かしま ひでまろ、1852年10月10日(嘉永5… 鹿島 秀麿(かしま ひでまろ、1852年10月10日(嘉永5年8月27日) - 1932年(昭和7年)3月27日)は、日本の武士(徳島藩士)、明治期の政治家、ジャーナリスト、実業家。勲四等旭日小綬章。 近江国甲賀郡水口(現滋賀県甲賀市)で水口藩医師大村純道の次男として生まれた。幕末には徳島藩侍医鹿島家の養子となり、徳島藩に仕えた。明治維新後稲田騒動 (徳島藩家老の稲田邦植が淡路島の分藩を求めたことに対し、徳島藩士が激発した事件)に巻き込まれて藩職を去ったのち、上京して慶應義塾に学ぶ。神戸新報を立ち上げる。 帰淡後、教育・新聞出版事業に携わるとともに、立憲改進党に参加して兵庫県の自由民権運動の中心的存在となっていった。
石黒 磐(いしぐろ いわお、嘉永5年8月21日(1852年1… 石黒 磐(いしぐろ いわお、嘉永5年8月21日(1852年10月4日) - 昭和2年(1927年)4月13日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 尾張国中島郡、のちの愛知県中島郡長岡村(祖父江町を経て現在の稲沢市)出身。漢学・英学・法学を学ぶ。東京市で家塾を開き、英学・漢学を講義するかたわら、翻訳業に従事した。のち愛岐日報、愛知新聞の記者となった。愛知県会議員、同副議長、名古屋市会議員、同参事会員に選ばれた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
山田 才吉(やまだ さいきち、嘉永5年8月19日(1852年… 山田 才吉(やまだ さいきち、嘉永5年8月19日(1852年10月2日) - 1937年(昭和12年)1月31日)は、美濃国出身の実業家・政治家(愛知県会議員)。 嘉永5年(1852年)8月19日、美濃国厚見郡富茂登村(現在の岐阜県岐阜市大仏町)で料理屋を営業していた山田辰次郎の長男として生まれる。板前などを経て名古屋の熱田神戸町・大須門前町に店を構え、1881年(明治14年)には末広町3丁目(現在の栄)の若宮八幡社西隣に漬物屋「きた福(喜多福)」を開店。この頃に守口漬(守口大根味醂粕漬)を考案したとされ、これが評判を呼んだ。なお、才吉が創業したきた福は同店から暖簾分けした「松喜屋」に屋号など含めて生前に売却され、「喜多福総本家」として現在も守口漬の製造販売を続けている。