尾崎 旦(おざき たん、1889年(明治22年)1月17日 … 尾崎 旦(おざき たん、1889年(明治22年)1月17日 – 1932年(昭和7年)6月4日)は、日本の歴史家・実業家。陽明社の創始者。高知県出身。中岡慎太郎の伝記を日本で初めて著した歴史家・尾崎卓爾の兄。 1889年(明治22年)1月17日、尾崎旦爾(手島熊吉)の三男として高知県安芸郡北川村大字野川896番地に生まれる。初名は「旦子(たんし)」のち、「子」がつくことによって女子を間違われるのを避けて「旦(たん)」と改名した。母は尾崎旦信(折蔵)の長女・亀。 1908年(明治41年)旧制高知県立安芸中学校を卒業し、慶應義塾大学部理財科(現・慶應義塾大学経済学部)へ進学。東京市芝区三田へ下宿。1913年(大正2年)3月31日、同校卒業。
安田 武雄(やすだ たけお、1889年(明治22年)1月16… 安田 武雄(やすだ たけお、1889年(明治22年)1月16日 - 1964年(昭和39年)8月23日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 岡山県出身。安田重朝の三男として生まれる。済美学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官し気球隊付となる。1912年(大正元年)11月、陸軍砲工学校高等科(18期)を優等で卒業。電信隊付などを経て、1913年(大正2年)9月、帝国大学理工学部陸軍派遣学生として東京帝国大学工学部電気科に入学し、1916年(大正5年)7月に卒業した。 支那駐屯軍司令部付、電信連隊中隊長、砲工学校教官、教育総監部付、ドイツ駐在、電信第1連隊付兼砲工学校教官、陸軍通信学校研究部主事、関東軍特務部員、通信学校研究部主事、陸軍省軍務局防備課長、兵務局防備課長などを歴任し、1937年(昭和12年)3月、陸軍少将に進級。
佐々木 喬(ささき たかし 1889年1月15日 - 196… 佐々木 喬(ささき たかし 1889年1月15日 - 1969年12月5日)は、日本の農学者。作物学、熱帯農学の権威。特にイネ科の穀物(禾穀類)の研究で名を残した。東京大学名誉教授。 1889年、旧鳥取藩士の子として生まれる。1914年、東京帝国大学農科大学農学科卒業。大学院を経て1920年に東京帝国大学助教授、1925年に京都帝国大学教授、1929年に東京帝大教授に就任。1949年に退官後、鳥取大学学長を1953年まで務めた。この間、日本作物学会会長、熱帯農業学会会長、綜合農学研究会会長などを歴任した。 1969年12月5日、東京都練馬区小竹町の住宅(後述)で老衰のため死去。80歳。 1934年、同潤会が東京都練馬区に建設した江古田分譲住宅を購入した。
大平 喜間多(おおひら きまた、1889年〈明治22年〉1月… 大平 喜間多(おおひら きまた、1889年〈明治22年〉1月15日 - 1959年〈昭和34年〉)は、日本の郷土史家。地元の松代を中心に活躍し、『佐久間象山』『真田幸弘と恩田木工』などを著す。松代町会議員も務めていた。 長野県埴科郡寺尾村(現・長野市松代町東寺尾)に生まれる。20歳前後で松代で発行されていた『勧業新聞』の記者になり、1913年(大正2年)に最初の書籍である『松代風土記』を発刊。その後、『中信時報』新聞社に移り、30歳で松代町史編纂主任に就任する。また、1937年(昭和12年)から昭和30年代までは松代町会議員も務めていた。 議員になってから活動はより狭い範囲になり、著書は多いが松代に関する小説的なものが多くなっていく。
棚橋 小虎(たなはし ことら、1889年1月14日 - 19… 棚橋 小虎(たなはし ことら、1889年1月14日 - 1973年2月20日)は日本の労働運動家、政治家。新人会などの学生運動、友愛会、労働総同盟などの労働運動にかかわり、日本労農党や社会党などの結成に関与した。 第三高等学校卒業後、東京帝国大学法科大学に進み、在学中に新人会に参加した。また、麻生久、山名義鶴と社会問題研究会である木曜会を結成した。この木曜会には後に岡上守道、佐野学、野坂参三が参加した。 東京帝国大学在学中から麻生らと共に吉野作造や安部磯雄の影響を受けて、友愛会入会を期したが会長の鈴木文治に断られ、1917年卒業と共に司法官試補となった。翌1918年、司法官試補を辞して友愛会入会を果たし、1919年には関東出張所主事となって日立鉱山争議などを支援した。
山根 徳太郎(やまね とくたろう、1889年1月12日 - … 山根 徳太郎(やまね とくたろう、1889年1月12日 - 1973年7月28日)は、日本の考古学者。文献史料に記載されていたが所在地が不明のままであった難波宮の研究を行い、難波宮の大極殿跡を発掘した。
藤井 真透(ふじい ますき、1889年〈明治22年〉1月11… 藤井 真透(ふじい ますき、1889年〈明治22年〉1月11日 - 1963年〈昭和38年〉9月19日)は、日本の道路技術者、内務官僚、政治家。 宮崎県都城市生まれ。1914年(大正3年)、東京帝国大学工科大学土木工学科卒業。同年、兵庫県技師となった。1917年(大正6年)、明治神宮造営局技師に転任した。折下吉延とともに、明治神宮外苑の銀杏並木道路を手がける。1922年(大正11年)、東京帝国大学講師となり道路工学や都市計画施工法を担当した。1924年(大正13年)には内務省土木試験所の内務技師も兼任するようになる。1931年(昭和6年)に日本大学工学部講師となった。1932年(昭和7年)に工学博士を取得した。
岩村 清四郎(いわむら せいしろう、1889年1月9日 - … 岩村 清四郎(いわむら せいしろう、1889年1月9日 - 1978年4月20日)は日本の牧師、教育者である。めぐみ教会(現大森めぐみ教会)を創設し、めぐみ幼稚園、めぐみ高等女学校を設立した。幼稚園、教会学校の働きを重視した宗教教育、「教育的伝道」に力を入れ、日本の日曜学校(教会学校)教育及びキリスト教幼児教育の草分け的存在となった。牧師、伝道者の木村清松は実兄。神学者で牧師の岩村信二は二男。 1889年(明治22年)に新潟県中蒲原郡五泉町(現五泉市)にて父木村定之十、母チウの9人兄弟の末弟として生まれる。家業は糀屋。五泉の小学校と高等小学校を卒業、兄木村清松の招きにより青山学院中学部2年に編入する。
菊亭 公長(きくてい きんおさ、1889年〈明治22年〉1月… 菊亭 公長(きくてい きんおさ、1889年〈明治22年〉1月8日 - 1944年〈昭和19年〉9月23日)は、日本の華族。貴族院侯爵議員、侯爵。 華族・菊亭脩季の長男として生まれる。父の死去に伴い、1905年(明治38年)11月6日、侯爵を襲爵。1914年(大正3年)1月7日、満25歳となり貴族院侯爵議員に就任。火曜会に所属し死去するまで在任した。 1915年(大正4年)、殿掌に就任したが、同年4月15日に依願免となった。 東山天皇の男系七世子孫である。東山天皇の孫(閑院宮直仁親王の子)で鷹司家を継いだ鷹司輔平の男系後裔。詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。 兼季 - 実尹 - 公直 - 実直 - 公行 - 実富 - 公富 - 教季 - 公興 - 季孝 - 公彦 - 晴季 - 季持 - 経季 - 公規 - 伊季 - 公香 - 公詮 - 実興 - 誠季 - 公言 - 実種 - 尚季 - 公久 - 実順 - 脩季 - 公長 - 実賢 - 直子 -
鈴木 翠軒(すずき すいけん、1889年〈明治22年〉1月5… 鈴木 翠軒(すずき すいけん、1889年〈明治22年〉1月5日 - 1976年〈昭和51年〉9月26日)は、愛知県生まれの書家、文化功労者。旧姓は長尾、本名は春視(はるみ)、翠軒は号。 愛知県渥美郡堀切村(現在の田原市堀切町)に生まれる。1903年愛知県立第四中学校(現在の愛知県立時習館高校)を卒業後、1910年愛知県立第一師範学校へ進学。翌年卒業して地元の小学校の訓導となる。1916年文部省習字科検定試験に合格すると、1919年に上京して丹羽海鶴に師事した。この時、比田井天来にも教えを乞う。1932年、『国定甲種小学書方手本』の揮毫者となり、1938年に完成させる。この国定教科書の書風は、その明快な用筆と結体により絶賛され「翠軒流」として世の中に広まった。
豊嶋 房太郎(てしま ふさたろう、1889年(明治22年)1… 豊嶋 房太郎(てしま ふさたろう、1889年(明治22年)1月5日 - 1979年(昭和54年)4月9日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。「豊島」と表記される場合がある。 山口県出身。農業・豊嶋鶴松の二男として生れる。防府中学校卒業を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官、歩兵第42連隊付となる。1916年11月、陸軍大学校(28期)を卒業。 以後、陸軍兵器本廠付(軍事調査部)、陸軍省軍務局課員、フィリピン出張、欧州出張、歩兵第33連隊大隊長、整備局課員(統制課)、朝鮮軍司令部付などを経て、1934年3月、陸軍大佐に進級し歩兵第23連隊長に就任。
前田 伍健(まえだ ごけん、1889年1月5日 - 1960… 前田 伍健(まえだ ごけん、1889年1月5日 - 1960年2月11日)は香川県高松市出身の川柳作家である。本名は久太郎。 父は画家の前田北水。ペンネームの由来は五剣山から始まり、五剣、五健を経て、伍健となる。 地元の旧制高松中学校(現・香川県立高松高等学校)を卒業後、愛媛県松山市に出て、現在の伊予鉄道に入社した。在勤中は東京の窪田而笑子(1867年〜1928年)の弟子となり、「媛傘」「番傘」など津々浦々の川柳雑誌の客員として活躍した。 絵は父である北水から始まり、堂本印象、近藤浩一路の指導を受けた後、村上霽月(1869年〜1946年)と出会い、川柳作家として普及活動を行った。愛媛県川柳文化連盟の初代会長となる。
平井 楳仙(ひらい ばいせん、1889年1月5日 - 196… 平井 楳仙(ひらい ばいせん、1889年1月5日 - 1969年8月30日)は、京都府京都市生まれの日本画家。帝国美術院展覧会審査委員。本名は平井秀三。 1906年(明治39年)に京都市立美術工芸学校絵画科卒業。1907年(明治40年)新古美術展四等受賞(夕月)第1回文展入選(宮苑の朝)。 1910年(明治43年)に京都市立美術工芸学校卒業生入江波光・榊原紫峰らによる研究会「桃花会」を結成し、翌年には、榊原紫峰・野長瀬晩花・星野空外ら京都大学文学研究者たちと「バトサヤ」を立ち上げる。文部省美術展覧会(初期文展・新文展)・帝国美術院展覧会に無鑑査出品を続け、戦後は後援会の楳推会を中心に活躍した。
夢野 久作(ゆめの きゅうさく、1889年(明治22年)1月… 夢野 久作(ゆめの きゅうさく、1889年(明治22年)1月4日 - 1936年(昭和11年)3月11日)は、日本の禅僧、陸軍少尉、郵便局長、小説家、詩人、SF作家、探偵小説家、幻想文学作家。他の筆名に海若藍平、香倶土三鳥など。現在では、夢久、夢Qなどと呼ばれることもある。戒名は悟真院吟園泰道居士。禅僧としての名は雲水(うんすい)、法号を萠円と称した。
浅井 茂猪(あさい しげい、1889年(明治22年)1月4日… 浅井 茂猪(あさい しげい、1889年(明治22年)1月4日 – 1956年(昭和31年)5月22日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。ジャーナリスト。 高知県安芸郡羽根村(現在の室戸市)出身。高知県立第一中学校を卒業し、小学校に勤務した。その後、早稲田大学に入り、1917年(大正6年)に政治経済科を卒業した。『土陽新聞』記者となり、シベリア出兵に従軍記者として派遣された。その後、土陽新聞社社長に就任した。また高知市会議員、同参事会員、高知県会議員、同副議長に選出された。 1938年(昭和13年)、衆議院議員に補欠当選を果たした。 その他、高知県書籍雑誌商組合長、高知木工工芸学校長などを務めた。
河上 丈太郎(かわかみ じょうたろう、1889年〈明治22年… 河上 丈太郎(かわかみ じょうたろう、1889年〈明治22年〉1月3日 - 1965年〈昭和40年〉12月3日)は、日本の政治家。右派社会党委員長、日本社会党委員長を歴任した。息子は衆議院議員・社会党国際局長をつとめた河上民雄。 東京都港区出身。古材木商河上新太郎の息子として生まれた。丈太郎が幼いときに、父がキリスト教に入信し、父の影響で丈太郎自身も敬虔なクリスチャンとなった。丈太郎は5歳の時から、父に連れられて霊南坂の祈禱会に通った。 ちょうど教会不振の折で、牧師の留岡幸助と本間俊平、河上父子の4人だったが、熱烈な会で2~3時間もかかり、幼い丈太郎は退屈した。しかし熱い祈りの印象が強く残った。
寺本 熊市(てらもと くまいち、1889年(明治22年)1月… 寺本 熊市(てらもと くまいち、1889年(明治22年)1月3日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 和歌山県伊都郡平野村(隅田村大字平野を経て現橋本市)で、八幡社神官・寺本政吉の三男として生まれる。五条中学、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第10連隊付となる。陸士生徒隊付などを経て、1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業した。翌月、歩兵第10連隊中隊長に就任。 1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、第3師団参謀を歴任。
石原 寅次郎(いしはら とらじろう、1889年(明治22年)… 石原 寅次郎(いしはら とらじろう、1889年(明治22年)1月3日 - 1977年(昭和52年)3月9日)は、日本の金属工学者(冶金学者)である。東北大学名誉教授。第2代富山大学学長を務めた。 岡山県岡山市の生まれ。東京帝国大学(現在の東京大学)卒業後、東北帝国大学(現在の東北大学)附属理科大学臨時理化学研究所に勤務する。1919年(大正8年)には同大学の講師となり、冶金学の教鞭を執った。その後は助教授を経て1923年(大正12年)には教授に昇格した。1924年(大正13年)から翌1925年(大正14年)まで冶金学の研究により、イギリスやフランス、ドイツ等ヨーロッパの津々浦々に留学した。留学中は蒸留マンガンの製造法や、鉄-マンガン及び鉄-ニッケル-マンガン合金の規則格子の研究に携わり、理学博士を取得する。
木村 謹治(きむら きんじ、1889年1月2日 - 1948… 木村 謹治(きむら きんじ、1889年1月2日 - 1948年1月13日)は、日本のドイツ文学・ドイツ語学者、東京帝国大学教授。文学博士。 秋田県南秋田郡大川村(現・五城目町)出身。県立秋田中学校(現秋田県立秋田高等学校)、慶應義塾普通部、第二高等学校を経て東京帝国大学独文科でカール・フローレンツに学ぶ。第四高等学校教授から、1924年東京帝国大学独文科助教授となり、1932年教授。同僚の相良守峯とともに編纂した独和辞典は「キムラ・サガラ」と呼ばれて長く使われた。またゲーテ研究に力を注いだ。生化学者の木村雄吉は実弟、ロシア文学者木村彰一及び外交官木村敬三は息子。画家の木村哲雄は孫。 秋田県南秋田郡大川村(後の五城目町大川)で父松助、母ナヲの7男3女の第3子として生まれる。
細井 魚袋(ほそい ぎょたい、1889年1月2日 - 196… 細井 魚袋(ほそい ぎょたい、1889年1月2日 - 1962年11月2日)は、日本の歌人。千葉県君津郡巌根村大字高柳字大海道(現・木更津市高柳)生まれ。尾上柴舟に師事した。 1889年、農家の三男として生まれる。千葉県立木更津中学校(現・木更津高等学校)在学中の1909年ごろより尾上柴舟に師事。1911年3月に卒業。1913年ごろより君津郡役所に勤務する。 1914年、尾上柴舟が歌誌『水甕』を創刊すると、これに参加。のちに主要同人となり、選者も務めた。 1921年、朝鮮総督府への出向が決まり、朝鮮半島に渡る。1922年、病気で入院中に、同じ病院に入院していた市山盛雄(1897-1988)と出会った。
川西 實三(かわにし じつぞう、1889年(明治22年)1月… 川西 實三(かわにし じつぞう、1889年(明治22年)1月2日 - 1978年(昭和53年)3月3日)は、日本赤十字社社長などを務めた内務官僚。労働問題の権威として知られた。息子は英文学者・東京大学名誉教授の川西進。義兄に、三谷隆正と三谷隆信。新渡戸稲造を師と仰いだ。
川西 實三(かわにし じつぞう、1889年(明治21年)1月… 川西 實三(かわにし じつぞう、1889年(明治21年)1月2日 - 1978年(昭和53年)3月3日)は、日本赤十字社社長などを務めた内務官僚。労働問題の権威として知られた。息子は英文学者・東京大学名誉教授の川西進。義兄に、三谷隆正と三谷隆信。新渡戸稲造を師と仰いだ。
京田 武男(きょうだ たけお、1889年1月2日 - 194… 京田 武男(きょうだ たけお、1889年1月2日 - 1940年5月26日)は、日本のアナウンサー、水泳家。 東京出身。早稲田大学政治科卒。雄弁会、水泳部に属して活躍した。卒業後、「二六新報」記者、「国民新聞」記者、「東京日日新聞」記者を経て、1925年、東京放送局(現在のNHK首都圏局)が開設されると初代アナウンサーとなり、第一声を発した。1935年、日本歯科医学専門学校(現在の日本歯科大学)主事となり、水泳でも活躍した。
田村 木国(たむら もっこく 1889年1月1日 - 196… 田村 木国(たむら もっこく 1889年1月1日 - 1964年6月6日)は、和歌山県出身の俳人・新聞記者。本名省三。笠田町(現かつらぎ町)生。大阪府立北野中学校(現大阪府立北野高等学校) 卒、三高文科を中退。1910年より大阪朝日新聞社で記者として勤め、のち大阪毎日新聞社に移った。 中学時代より句作を始め、大正初期に行友李風らと洗堰吟社を起こす。1917年、高浜虚子に師事。河東碧梧桐にも師事した。1922年、野村泊月、皆吉爽雨らとともに「山茶花」創刊。1934年、「ホトトギス」同人。1946年、休刊していた「山茶花」を復刊し主宰。「狩くらは大月夜なり寝るとせん」など、句に「大」の字を好んで用い、大らかな写生句を詠んだ。
江島 鐡雄(江島 鉄雄、えじま てつお、旧姓・熊野、1889… 江島 鐡雄(江島 鉄雄、えじま てつお、旧姓・熊野、1889年〈明治22年〉1月 - 1935年〈昭和10年〉)は、日本の政治家(下関市会議員)、家主、工学博士。参議院議員江島淳の父。参議院議員江島潔の祖父。 山口県人・熊野報介の三男。先代伊助の養子となり1916年、家督を相続する。海軍大尉に任ぜられる(のち海軍少佐)。1922年、京都帝国大学工学部電気工学科を卒業する。のち工学博士の学位を授けられる。 推されて下関市参事会員である。方面委員である。住所は山口県下関市貴船町。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
小林 鳴村(こばやし めいそん、本名・彦次。1889年-?)… 小林 鳴村(こばやし めいそん、本名・彦次。1889年-?)は、日本戦前期に活躍した写真家。 芸術写真(ピクトリアリスム作品、ブロムオイル作品)からはじまり、花和銀吾などの影響を受け、前衛写真(主として、シュルレアリスム的表現)にいたる(特に1930年以降)。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、カメラに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:写真/PJ:カメラ)。
張 乗運(ちょう じょううん、1889年 - 没年不明)は、… 張 乗運(ちょう じょううん、1889年 - 没年不明)は、中華民国の司法官・法学者。字は石郷。張承運表記もある。北京政府や中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会で司法官をつとめた。 日本に留学し、1912年(民国元年/大正元年)から京都帝国大学法科大学に入り、1915年 (民国4年/大正4年)に卒業した。1917年(民国6年)3月、直隷地方検察庁検察官として起用され、以後、奉天高等審判庁推事署理、修訂法律館纂修、司法官再試典試委員、大理院推事署理、総検察庁検察官と歴任している。これらの他、張家口地方法院院長、国立北京大学法学院教授、私立中央大学教授、国民政府司法行政部法官訓練所専任教授を歴任した。
武村 忠(たけむら ただし、1889年(明治22年)- 19… 武村 忠(たけむら ただし、1889年(明治22年)- 1976年(昭和51年))は、日本の建築家。 宮城県生まれ。1921年(大正2年)京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)卒業。卒業翌年に匠生として内匠寮に入る。1923年(大正8年)に宮内技手、1941年(昭和16年)に宮内技師となる。宮内省京都地方事務所工務課長を経て、内匠寮廃止後設けられた主殿寮に勤務する。宮内省を退官後、宮殿造営に際して専従調査員を委嘱された。 この項目は、建築・土木に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:建築/Portal:建築)。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
前田 巳之助(まえだ みのすけ、1889年 - 1966年)… 前田 巳之助(まえだ みのすけ、1889年 - 1966年)は、日本の造園家、園芸家。紅雨という号がある。大阪生まれ。 1910年(明治43年)、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科第一部卒業。 1917年(大正6年)から兵庫県立柏原中学校の教諭となる。1919年(大正8年)から石川県金沢女子職業学校教授嘱託となる。翌年1920年(大正9年)宮内技手として宮内省内匠寮勤務となり、1933年(昭和8年)宮内技師となった。1935年(昭和10年)休職満期。
金子 伊昔紅(かねこ いせきこう、1889年 - 1977年… 金子 伊昔紅(かねこ いせきこう、1889年 - 1977年)は、埼玉県秩父郡皆野町の開業医・俳人。卑俗とされた旧来の「皆野盆歌」を基に歌詞を公募・改作して再生し、のちに「秩父音頭」と呼ばれる現代的な民謡へと育てた。俳誌『若鮎』『雁坂』を拠点に秩父の俳壇を牽引し、「俳句の町・皆野」の基盤を築いた。俳人・金子兜太の父。 本名は金子元春。独協中学で俳人・水原秋櫻子と同級となり、のち京都府立医学専門学校に進学して医業の道へすすむ。卒業後は上海・東亜同文書院の校医を務め、帰国して郷里・秩父の国神村で医院を開業、のちに皆野町へ移転した。俳号「伊昔紅」は「我も昔は紅顔の美少年」の意である。 当地に伝わる盆踊り歌「皆野盆歌」は、半即興で卑猥な歌詞や振りが多く、公の場での踊りを官憲が禁じる状況にあった。
竹田 米吉(たけだ よねきち、1889年 - 1976年)は… 竹田 米吉(たけだ よねきち、1889年 - 1976年)は、日本の建築家、実業家、著作家。 東京市神田区で生まれる。父親は棟梁。大工職人として修行し、築地の工手学校(現工学院大学)を卒業。横河工務所(現横河建築設計事務所)に勤務し、横河民輔に師事。同所では鐘紡東京工場、王子製紙苫小牧工場などの建設を担当。 その後、横河民輔の学費援助により早稲田大学建築学科で近代建築学を学ぶ。1947年竹田建設工業を設立。56年著書『職人』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
石井 逸太郎(いしい いつたろう 1889年-1955年)は… 石井 逸太郎(いしい いつたろう 1889年-1955年)は、日本の地質学者、教育者。 熊本県生まれ。東京帝国大学卒業後、1925年に旧制富山高校に赴任する。 富山では、恩師である山崎直方が発見した立山の山崎カール(石井が命名)の調査を続け、1943年に発表した論文「立山連峰の氷河作用‐特に山崎圏谷に就いて」により、1945年に氷河地形としては初めて国の天然記念物に指定させる契機を作った。1947年、富山市立芝園中学校の初代校長に就任。また、同年行われた昭和天皇の北陸巡幸の際には進講役を務めた。 1955年8月、立山剱沢の調査を行っている最中、誤ってクレバスから滝へ転落して死亡。同年11月、功績を評価されて富山県文化賞文化特別感謝状を授与された。
大澤 章(おおさわ あきら、1889年(明治22年) - 1… 大澤 章(おおさわ あきら、1889年(明治22年) - 1967年(昭和42年))は、日本の法学者。国際法、憲法、外交史。西洋史書翻訳家。九州帝国大学名誉教授。学習院大学教授。法学博士。山村 静一(やまむら せいいち)の筆名で翻訳なども手がけた。 東京府出身。学習院を経て東京帝国大学法学部独逸法科卒業。その後、パリ大学博士課程に進む。1919年(大正8年)、パリ講和会議実施委員として渡欧する。以後国際連盟に勤務した。1922年(大正12年)には文部省在外研究員となり、1924年(大正13年)に九州帝国大学教授に就任する。以後法文学部長を務めた。 1930年(昭和5年)には九州法学校初代校長に就任した。
小島 勇之助(こじま ゆうのすけ、1889年 - 1964年… 小島 勇之助(こじま ゆうのすけ、1889年 - 1964年)は、日本の実業家・郵趣家。松竹キネマなどの企業の重役などを務めるとともに、精力的な切手蒐集を行い、1925年には当時まで発行された日本切手を完集したと宣言するなど、著名なコレクターであった。東京帝国大学在学中には陸上競技選手としても足跡を残している。 東京生まれ。父は実業家で衆議院議員も務めた山中隣之助。生まれて間もなく小島兼美の養子となる。実兄には山中勇(東京山中銀行頭取)がいる。 学習院高等科を経て東京帝国大学医科大学薬学科に学ぶ。在学中にはスポーツに打ち込み、1911年(明治44年)11月の東京大学運動会では100m走で優勝(12秒26)。
野間 守人(のま やすと、1889年 - 1945年)は、日… 野間 守人(のま やすと、1889年 - 1945年)は、日本の造園家。大正から戦前期まで官庁造園技師として活躍。福岡県生まれ。 1914年(大正3年)、第七高等学校を経て、1917年、東京帝国大学農科大学農学科を卒業し、東京府立園芸学校に教諭として赴任する。この間本多静六らの指導で各地の公園調査に参画、後に「理想の庭園及び公園」を公刊。 1923年(大正12年)まで園芸学校で教鞭をとっていたが、その後半年ほど京都府立農林学校で教職にあったあと、8月に御大典記念京都植物園の技師となって同園の開設、整備管理につくす。この頃から昭和初期までには学会誌等で都市公園面積の研究などを発表していた。 1934年(昭和9年)、名古屋市技師となり、狩野力の後任として土木部公園課長に就任。
横山 虎雄(よこやま とらお、1889年 - 1953年)は… 横山 虎雄(よこやま とらお、1889年 - 1953年)は渋沢氏出身の建築家。横山久太郎の婿養子となり、日本近代製鉄の礎を築いた釜石製鉄所で第3代所長を務めた。 埼玉県の八基村血洗島で六代・渋沢宗助(長忠)の二男、渋沢虎雄として生まれる。生家である東ノ家(ひがしんち)は渋沢一族の中でも特に栄えており、養蚕や生糸の貿易で巨万の富を築いていたが、父・長忠は放蕩に明け暮れ地元にも帰らず、財産の大半を一代で失ってしまったとされる。虎雄は1906年(明治39年)に東京府立第一中学校を卒業し、進学した岡山県の第六高等学校では庭球部に所属。1909年(明治42年)11月に開催された関西庭球大会では激戦の末ダブルスで優勝を飾った。
細川 永一(ほそかわ えいいち、1889年 - 1964年)… 細川 永一(ほそかわ えいいち、1889年 - 1964年)は日本の技術者、実業家。 ホソカワミクロン創業者。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
松田 昌平(まつだ しょうへい、1889年 - 1976年)… 松田 昌平(まつだ しょうへい、1889年 - 1976年)は、日本の建築家。松田軍平の兄。福岡市を中心に多くの作品を手がけた。 日本建築士会連合会の副会長や福岡県建築士会会長も務め、1968年(昭和43年)からは九州共立大学工学部の教授も務めた。 名古屋高等工業学校建築科の出身で、卒業後は南満州鉄道株式会社建築課に勤務した後、日本ゴム(現アサヒシューズ)嘱託、その後福岡市嘱託。 1931年(昭和6年)には松田建築設計事務所を構える。 主要作品には北九州市旧門司三井倶楽部(1921年、国重要文化財、近代化産業遺産)や杤木ビル(1920年、日本遺産)、旧日本足袋久留米第三工場(現アサヒコーポレーション第三工場、1930年)などが挙げられる。
李 康雨(イ・ガンウ、朝鮮語: 이강우、1889年 - 没年… 李 康雨(イ・ガンウ、朝鮮語: 이강우、1889年 - 没年不詳)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、教員、大韓民国の政治家。制憲韓国国会議員。 慶尚南道晋州出身。私立サンギ高等測量学校鉱山科、漢城官立外国語学校卒。普成専門学校(現・高麗大学校)法科在学中は反日演説を行い逮捕されたが、途中脱出して中国に亡命した。その後は日本に渡り、日本大学法科に入学した。在学中の1919年3月初、晋州で金在華らと共に独立万歳デモを計画した。独立宣言文と教諭文の印刷、太極旗の製作と民衆への配布を事前に行った上、3月18日の晋州市の日に市場に集まった群衆を糾合し、独立万歳デモを実施した。後に逮捕され、保安法と出版法違反により懲役1年6か月の有期刑を受け、しばらく監獄で過ごした後、日本大学に復学した。
向井 寛三郎(むかい かんざぶろう、1889年 - 1958… 向井 寛三郎(むかい かんざぶろう、1889年 - 1958年)は、大阪府出身の染織家、図案家。 京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科教授。武田五一の門下生のうちの一人。 大阪府(現在の交野市)出身。京都高等工芸学校図案科卒業。1917年に母校京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科へ招聘された。 1931年にドイツへ留学、ライマン工芸学校で室内装飾、平面図案、建築を学んだ。帰国後は図案に科学的定義づけを行った。 西洋建築史家の向井正也は子息に当たる。
鋤柄 熊太郎(すきがら くまたろう、1889年 - 1956… 鋤柄 熊太郎(すきがら くまたろう、1889年 - 1956年8月)は、日本の牧師。愛知県宝飯郡塩津村生まれ。 ピューリタン - シュペーナー - 敬虔主義 - フレンド派 - ジョン・ウェスレー - D・L・ムーディー - ジョージ・ホウィットフィールド - ジョナサン・エドワーズ - チャールズ・フィニー - A・B・シンプソン バックストン - ウィルクス - 竹田俊造 - 堀内文一 - 笹尾鉄三郎 - 松野菊太郎 - 秋山由五郎 - 御牧碩太郎 - 柘植不知人 - 土肥修平 中田重治 - 中田かつ子 - 中田あやめ - チャールズ・カウマン - レテー・カウマン - アーネスト・キルボルン - 三谷種吉 - 山崎亭治 - 米田豊 - 車田秋次 - 小原十三司 - 小原鈴子 - 一宮政吉 - 菅野鋭 - 野辺地天馬 - 金森通倫 - 小出朋治 - 小出忍 - 森五郎 - 江賀寅三 - 小林和夫 - 尾花晃 - 村上宣道 - 松木祐三 - 千代崎秀雄 - 峯野龍弘 - 安倍豊造 - 辻啓蔵 - 辻宣道 - 蔦田二雄 - 蔦田公義 - 藤本栄造 - 藤本満 メリマン・ハリス - 本多庸一 - 赤澤元造 - 釘宮辰生 - 阿部義宗 - 結城無二三 - 都田恒太郎 - 渡辺善太 河辺貞吉 - 河辺満甕 - 野田秀 ウィリアム・ブース - 山室軍平 - 山室武甫 マーガリット・バーネット - 舟喜麟一 - 舟喜拓生 - 舟喜信 - 安藤喜市 - 羽鳥明 - 羽鳥純二 小島伊助 - 佐藤邦之助 - 沢村五郎 - 森山諭 - 中田羽後 - 本田弘慈 - 中島秀一 平出慶一 - 大江邦治 - 大江捨一 - 大江寛人 喜田川広 - 本間俊平 - 土山鉄次 - 木村清松 - 岩井清 - 松原和人 - 大槻武二 中央福音伝道館(1901-1908) - 東洋宣教会(1908- ) - 日本聖教団(1911) - 日本ホーリネス教会(1917-1936) - 日本宣教会(1923) - 日本聖教会(1936-1941) - きよめ教会(1936-1941) - イムマヌエル綜合伝道団(1945- ) - ウェスレアン・ホーリネス教団(1992- ) - 基督兄弟団(1946- ) - 基督聖協団(1958 - ) - 東洋宣教団きよめキリスト教会(1940- ) - ホーリネスの群(1946- ) - 日本福音教会連合(1971- ) - 日本福音教団(1952- ) - 日本ホーリネス教団(1949- ) - 日本聖泉基督教会連合(1969- )
畝 為吉(うね ためきち、 1889年(明治22年)- 19… 畝 為吉(うね ためきち、 1889年(明治22年)- 1988年(昭和63年))は、広島県安芸郡坂町出身の人物である。上条トンネルをはじめとする坂町の道路建設に尽力し、町内の児童公園には銅像が建てられ、坂町の町史に紙幅を割いて紹介されるとともに、広島県内の小学校高学年向けの社会科の教材にも取り上げられている。 呉線の敷設工事で坂村にトンネルが開通したことにヒントを得て、上条トンネルをつくることを決意する。その後、上条トンネルを完成させ、上条トンネルの端に「共存共栄」「協力一致」という名前を彫った。
岸野 菊三郎(きしの きくさぶろう、1889年〈明治22年〉… 岸野 菊三郎(きしの きくさぶろう、1889年〈明治22年〉 - 没年不明)は、日本の商人(高知堂、文房具商)。信用組合巣鴨町金庫理事。 東京・池袋出身。地主・西巣鴨町会議員の岸野伊太郎の弟。区内の信望が厚く、宮本親和会副会長、巣鴨警察署協和会理事、豊島区防護団巣鴨第三分団常務理事等に挙げられる。1936年7月に宮本親和会会長、同会衛生組合長に推され、1937年2月に信用組合巣鴨町金庫理事に選ばれる。 大塚終点未発展の時代にあって常に意を付近発展に用い、よく後住者を指導して同所今日の発展に隠れた功績を残す。住所は東京市豊島区巣鴨7丁目。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
安達 悦二郎(あだち えつじろう、1889年(明治22年) … 安達 悦二郎(あだち えつじろう、1889年(明治22年) - 1987年(昭和62年))は、日本の政治家・実業家。北海道三笠市出身。1916年(大正5年)札幌師範学校(現・北海道教育大学札幌分校)卒業。北海道遠軽町長(1951年 - 1955年)。 学校卒業後、旧制中学校教諭、北見市教育委員会、遠軽営林署署長などを経て、1951年に営林署を辞職して、遠軽町長選挙に出馬し初当選。しかし、1955年(昭和30年)の遠軽町長選挙では落選。同年、北海林業代表取締役社長に就任。1956年より遠軽森林組合長や遠軽観光協会長、遠軽職業訓練校校長などを務めた。1960年(昭和35年)から遠軽商工会議所会頭( - 1978年)や北見工業短期大学客員教授( - 1966年)、旭川女子短期大学非常勤講師(1967年 - 1969年)も務めた。
鮫島 二男丸(さめじま じなんまる、1889年 - 不明)は… 鮫島 二男丸(さめじま じなんまる、1889年 - 不明)は、種子島南種子町初代町長。糖業の振興、煙草の誘致、水稲の早期栽培に尽力し、1963年(昭和38年)に名誉町民の称号を贈られた。 南種子町島間の上方の農家に生まれ、学生時代から成績優秀、兵役後村長らに懇願され役場に入る。勧業主任、農会書記兼務、農会技手兼務、南種子町糖業支部長、農会副会長兼務、産業組合長。助役を経て村長に。一度辞職し、県農業委員を務めたのちに再び村長になった。この2期目の際に町制実施のため初代町長に就任(1956年〈昭和31年〉)。1959年(昭和34年)70歳の時に惜しまれて退任。その功績に報いるべく1963年(昭和38年)に胸像が役場前庭に建立された。
東 健而(ひがし けんじ、あずま けんじ、とう けんじ、18… 東 健而(ひがし けんじ、あずま けんじ、とう けんじ、1889年(明治22年) - 1933年(昭和8年)3月20日)は、日本のユーモア作家、翻訳家、映画評論家。筆名は愚教師のほか、森田三祢子、森田みね子などを用いた。 東京都出身、正則英語学校卒。大正から昭和にかけて、ユーモア小説、雑文、シャーロック・ホームズ等の初期の翻訳家として活躍した。実父は「坂の上の雲」の秋山好古と陸軍士官学校同期の陸軍騎兵第二連隊長騎兵大佐東常久である。妻、静江は外務省参事官(広東総領事)森田寛蔵の息女。家族は長女冨士子(神奈川県三浦郡葉山町在住)の三人。 松竹キネマ俳優学校で映画劇史を教え、徳川夢声と知り合う。東の没後、夫人は友人の徳川夢声(徳川も妻に先立たれていた)と再婚した。
夏 粛初(か しゅくしょ、1889年〈光緖15年〉 - 没年… 夏 粛初(か しゅくしょ、1889年〈光緖15年〉 - 没年不明)は、中華民国の官僚・実業家。別号は旭初。中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会の要人。呉甌・李元暉と共に、王揖唐側近の部下と目された。 日本に留学し、京都府立第一中学、第一高等学校を卒業した。その後、ドイツにも留学し、ベルリン大学で学んでいる。帰国後の1929年(民国18年)10月21日、北平特別市政府秘書処秘書に任命された。後に黄郛配下となり、行政院駐平政務委員会で科長をつとめる。1935年(民国24年)12月に冀察政務委員会が成立すると、ここでも科長となった。 1937年(民国26年)12月に中華民国臨時政府が成立すると、夏粛初はこれに参加している。
松田 壽比古(まつだ としひこ、1889年(明治22年)- … 松田 壽比古(まつだ としひこ、1889年(明治22年)- 1917年(大正6年)7月18日)は日本のキリスト教伝道者。内村鑑三に影響を受け、弟の松田享爾と共にその配下である黒崎幸吉に師事した。現在の岡山県真庭市出身。 1889年(明治22年)岡山県真庭郡美川村(現在の真庭市)に生まれる。弟に松田享爾がいる。また、同郷出身者に小出義彦がいる。旧制岡山県立高梁中学校(現在の岡山県立高梁高等学校)を経て、1912年(大正元年)旧制第六高等学校文科丙類に進学した。1915年(大正4年)7月同校を26歳で卒業後、東京帝国大学法科大学へ進学し、そこで内村鑑三と出会う。同じ頃、弟の享爾も東京にある旧制第一高等学校へ進学した。
薬師寺 志光(やくしじ しこう、1889年(明治22年)-1… 薬師寺 志光(やくしじ しこう、1889年(明治22年)-1984年(昭和59年)7月23日)は、日本の民法学者。法政大学名誉教授、元愛知大学・國學院大學教授。 愛媛県吉田町に生まれる。宇和島中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部に入学する。1915年(大正4年)に東京帝国大学を卒業し、司法官試補をへて、1918年(大正7年)に東京地方裁判所判事に就任する。1920年(大正9年)に退官し、大学時代の恩師である乾政彦の法律事務所に勤務する。同年、法政大学法学部教授に就任する。1923年(大正12年)から1927年(昭和2年)までドイツ、イギリス、フランスに留学する。1934年(昭和9年)、『留置権論』により法学博士(東京帝国大学)を授与される。
保田 与天(やすだ よてん、1889年(明治22年)月日 -… 保田 与天(やすだ よてん、1889年(明治22年)月日 - 1969年(昭和44年)1月9日)は、和歌山県出身のゴルファー、ゴルフ場設計者。 保田与天は、1889年(明治22年)、和歌山県に生まれ、1917年(大正6年)、東京高等工業学校建築科(現・東京工業大学)を卒業した。卒業後、米国実費精算式請負法の研究などの仕事についていた。 その後、大倉土木(現・大成建設株式会社)に入社した保田与天は、1923年(大正12年)に、満州撫順に着任した。この時、ゴルフコースを造ったことがゴルフとの関わりとなった。また、「宝塚ゴルフ倶楽部」所属の村木章プロ(福井覚治プロの甥)にレッスンを受け、満州の「星ヶ浦ゴルフ場」のクラブ選手権や宝塚ゴルフ倶楽部で優勝した。