鏑木 政岐(かぶらぎ まさき、1902年(明治35年)7月2… 鏑木 政岐(かぶらぎ まさき、1902年(明治35年)7月24日 - 1987年(昭和62年)12月27日)は、日本の天文学者。専門は恒星天文学。東京大学名誉教授。 石川県金沢市に神官の子として生まれる。旧制第四高等学校を経て、1926年(大正15年)に東京帝国大学理学部天文学科を卒業し、同学部の助手ならびに東京天文台の技手となる。 1934年(昭和9年)理学博士の学位を授与され、1934年(昭和9年)東京帝国大学理学部助教授に就任。1946年(昭和21年)東京大学理学部教授となり1963年(昭和38年)に定年退官した。1963年(昭和36年)東京理科大学理学部教授となり1973年(昭和48年)に退職。
小堀 四郎(こぼり しろう、1902年(明治35年)7月20… 小堀 四郎(こぼり しろう、1902年(明治35年)7月20日 - 1998年(平成10年)8月9日)は、日本の油彩画家。愛知県名古屋市中区南呉服町生まれ。小堀遠州の子孫。
原 圭一郎(原 奎一郎、はら けいいちろう、1902年7月2… 原 圭一郎(原 奎一郎、はら けいいちろう、1902年7月20日 - 1983年7月24日)は、日本の伝記作家。本名:貢。
原 奎一郎(はら けいいちろう、1902年〈明治35年〉7月… 原 奎一郎(はら けいいちろう、1902年〈明治35年〉7月20日 - 1983年〈昭和58年〉7月24日)は、日本のジャーナリスト、著作家。本名は貢(みつぎ)。原敬の養嗣子。娘はスタイリストの原由美子。 大阪府出身。首相の原敬の姪の子で、幼児期に養嗣子となる。1915年(大正4年)東京府立一中入学。同期に小林秀雄、迫水久常、千頭暎臣、石丸重治(半途退学)、西竹一(半途退学)らがいる。以降、慶應義塾大学予科在学中に英国留学のため1921年(大正10年)中退。 1940年(昭和15年)、同盟通信記者。1946年(昭和21年)に退社して、ファッション評論なども手掛けた。1950年(昭和25年)に「原敬日記」を乾元社で公刊(原敬の遺言で、公開は没後30年程度を経てからと定めていた)。
種子島 時休(たねがしま ときやす、1902年(明治35年)… 種子島 時休(たねがしま ときやす、1902年(明治35年)7月20日 – 1987年(昭和62年)8月7日)は、元大日本帝国海軍技術大佐。大学教授。日本初のジェット機橘花の開発者として著名である。 薩摩国種子島領主であった種子島氏の末裔で、宗家の種子島男爵家の分家筋にあたる。父は海軍造兵大技士で無線通信の専門家だった種子島時盈。その長男として横須賀市の海軍官舎で生まれた。 1921年(大正11年)に海軍機関学校を卒業し、1929年(昭和4年)に海軍大学校選科合格、翌年には東京帝国大学航空学科に入学。1931年(昭和6年)に大野千代子と結婚。1933年(昭和8年)、東京帝大航空学科を卒業。1935年(昭和10年)の4月から2年に渡ってフランスへと留学。
黒田 辰男(くろだ たつお、1902年7月20日 - 199… 黒田 辰男(くろだ たつお、1902年7月20日 - 1992年12月22日)は、日本のロシア文学者、早稲田大学名誉教授。 1902年、大阪府生まれ。早稲田大学文学部を卒業。駐日ソ連大使館に勤務。 戦後の1946年、母校である早稲田大学教授に着任。1960年「ロシヤ・シンボリズム詩文学の成立過程」を早稲田大学に提出して文学博士号を取得。1962年に雑誌『ソヴェート文学』を創刊。1973年に早稲田大学を定年退任し、名誉教授となった。
織田 ステノ(おりた ステノ、1902年〈明治35年〉7月2… 織田 ステノ(おりた ステノ、1902年〈明治35年〉7月20日 - 1993年〈平成5年〉4月30日)は、日本のアイヌ文化伝承者。アイヌ口頭文芸、アイヌ口承文学の第一人者とされ、特にユカㇻの伝承者として知られる。晩年のアイヌ語、アイヌの神事、口承文芸、生活文化などでの後進の指導、研究者への協力などでも知られている。ユカㇻを始めとするアイヌの生活文化全体について伝承者の少なくなった近世においては、最も信頼のおける人物の1人とされており、北海道静内地方のアイヌ文化は研究成果も資料も少ない中、アイヌ文化全般の知識を有する貴重な存在ともされている。「ステノ」の名は晩年に自称したアイヌとしての名であり、戸籍名は織田 ステ。
森田 民夫(もりた たみお、1902年(明治35年)7月18… 森田 民夫(もりた たみお、1902年(明治35年)7月18日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。 和歌山県那賀郡に生まれる。1928年(昭和3年)3月、京都帝国大学経済学部を卒業し、同年高等試験行政科に合格。1930年(昭和5年)4月、台湾総督府内務局に出仕する。1933年(昭和8年)10月、地方理事官となり新竹州中壢郡守に任じ、花蓮港庁庶務課長、府事務官、興亜院事務官、官房情報課長などを歴任し、1942年(昭和17年)1月に官を辞し、皇民奉公会中央本部参事となった。
植田 清次(うえだ せいじ、1902年7月18日 - 196… 植田 清次(うえだ せいじ、1902年7月18日 - 1963年10月30日)は、日本の哲学研究者。兵庫県出身。早稲田大学卒。早大助教授、1946年、教授。1963年、「プラグマティズムの基礎的研究」で文学博士。授与は死去の日付。英米哲学。
川合義虎(かわい よしとら、1902年7月18日 - 192… 川合義虎(かわい よしとら、1902年7月18日 - 1923年9月4日)は、大正時代の労働運動活動家で、初期の共産主義運動活動家。本名は川江善虎。関東大震災の混乱時に、亀戸警察署に検束され、労働運動の活動家であったために虐殺される。 長野県上田市出身。小学校を終えた後、日立鉱山の旋盤工となる。 1920年同志とともに上京して暁民会に参加。同年、日本社会主義同盟創立大会で検挙され入獄。1922年、日本共産党(第一次)の創立とともに入党し、渡辺政之輔らと南葛労働協会を結成、野田醤油労働争議など各地の労働争議に当たる。1923年4月5日、日本共産青年同盟(共青)の創立とともに委員長となる。 同年9月1日関東大震災発生時、川合は東京市麻布区(現・東京都港区)におり、東京府南葛飾郡亀戸町(現・東京都江東区亀戸)の自宅に帰る途中母子が家の下敷きになっているのに遭い、母親は助け出せなかったが3人の幼児を救い出し、食べ物を与えたりして一晩下谷区(現・台東区)上野公園で抱いて過ごした。
梯 明秀(かけはし あきひで、 1902年7月16日 - 1… 梯 明秀(かけはし あきひで、 1902年7月16日 - 1996年4月14日は、日本の哲学者(経済哲学)。立命館大学名誉教授。 ヘーゲル、マルクスを専門とし、京都学派左派の戦時下抵抗思想と三木哲学批判で知られる。 徳島県出身。1928年京都帝国大学文学部哲学科(社会学)卒。西田幾多郎・田辺元にも師事。唯物論研究会に所属するが、1938年に検挙され転向。戦後は第六高等学校教授を経て、1950年に立命館大学教授。1959年「資本論の学的体系性 マルクス主義経済哲学の基礎づけのために」で立命館大学経済学博士。立命館大学経済学部教授、1963年定年退任、名誉教授。橘女子大学教授。1964年に廃止された立命館大学吉田寮の寮監を務めていた。
大藤 時彦(おおとう ときひこ、1902年7月16日 - 1… 大藤 時彦(おおとう ときひこ、1902年7月16日 - 1990年5月18日)は、日本の民俗学者。 1902年、山口県生まれ。新潟県古志郡長岡町(現・長岡市)育ち。 早稲田大学文学部を中退。柳田國男に師事し、日本民俗学会を設立し、代表も務めた。大橋図書館に司書として勤務したほか、成城大学教授として教鞭をとり、1973年定年退職し、名誉教授となった。
富澤 赤黄男(とみざわ かきお、1902年(明治35年)7月… 富澤 赤黄男(とみざわ かきお、1902年(明治35年)7月14日 - 1962年(昭和37年)3月7日)は愛媛県出身の俳人。本名富澤正三(とみざわ しょうぞう)。新興俳句の担い手として、現代詩の一分野としてのモダニズム俳句を追求した。代表句に「蝶墜ちて大音響の結氷期」がある。 1902年、愛媛県西宇和郡川之石村(現八幡浜市保内町琴平)に開業医の長男として生まれる。 1920年宇和島中学校卒、1926年早稲田大学政経学部を卒業。在学中、松根東洋城の門人に勧められ松根の主宰誌「渋柿」に投句するも、熱心に打ち込むことはなかった。同4月、国際通運(現在の日本通運)東京本社に入社、1928年国際通運大阪支社に転勤。
西 竹一(にし たけいち、1902年7月12日 - 1945… 西 竹一(にし たけいち、1902年7月12日 - 1945年3月22日)は、日本の陸軍軍人、華族(男爵)。最終階級は陸軍大佐。愛称・通称はバロン西(バロン・ニシ、Baron Nishi)。
桜井 和市(さくらい わいち、1902年(明治35年)7月1… 桜井 和市(さくらい わいち、1902年(明治35年)7月11日 - 1986年(昭和61年)1月12日)は、日本のドイツ語学者。 明治35年7月11日長野県南佐久郡岸野村(現佐久市)生まれ。 1919年 旧制野沢中学(現長野県野沢北高等学校)卒業。 1922年(大正11年3月31日) 旧制松本高等学校文科乙類卒業。 1925年(大正14年3月31日) 東京帝国大学独文科卒業 1925年(大正14年9月30日)旧制静岡高等学校教授。 1937年 (昭和12年3月31日)文部省在外研究員として独逸語独逸文学及び語学教授法研究のためドイツ出張(昭和13年11月30日まで) 1939年(昭和14年4月1日) 学習院教授 1944年(昭和19年1月10日)学習院高等科独語科主任 1947年(昭和22年3月31日)組織変更により学習院は財団法人学習院となる学習院教授、学習院高等科長 1947年(昭和22年4月1日)日本独文学会理事(46年5月8日まで) 1947年(昭和22年10月7日)学習院理事(26年5月31日まで) 1949年(昭和24年3月31日)法の定めるところにより財団法人学習院は学校法人学習院となる 1951年(昭和26年6月1日)学習院評議員(45年8月31日まで) 1956年(昭和31年4月1日)学習院大学文学部独文学科主任(37年4月30日まで) 1957年(昭和32年7月12日)学習院理事(45年8月31日まで) 1959年(昭和34年4月1日)文部省大学基準等研究協議会委員(35年3月31日まで) 1963年(昭和38年4月1日)学習院大学文学部長(45年5月31日まで) 1964年(昭和39年5月1日)財団法人ドイツ語学文学振興会理事長(52年7月19日まで) 1965年(昭和40年3月22日)ゲーテ・インスティトゥート(西独)からゲーテ牌(銀)受賞 1968年(昭和43年6月23日)私立学校教職員共済組合運営審議会委員(45年6月22日まで) 1968年(昭和43年7月1日)文部省国立高等専門学校ドイツ語教員選考および高等専門学校教員資格認定委員(50年3月31日まで) 1970年(昭和45年9月1日)学習院長(理事長)(56年8月13日まで) 1972年(昭和47年4月1日)私立大学懇話会副会長(52年6月9日まで) 1972年(昭和47年10月1日)文部省私立大学審議会委員(53年10月31日まで)
桜井 和市(さくらい わいち、1902年(明治35年)7月1… 桜井 和市(さくらい わいち、1902年(明治35年)7月11日 - 1986年(昭和61年)1月12日)は、日本のドイツ語学者。長野県南佐久郡岸野村(現佐久市)生まれ。
小松 信太郎(こまつ しんたろう、1902年(明治35年)7… 小松 信太郎(こまつ しんたろう、1902年(明治35年)7月9日 - 1987年(昭和62年)9月29日)は、昭和期の農業協同組合指導者、政治家。衆議院議員。 福島県安達郡本宮町(現本宮市)出身。1918年(大正7年)市立仙台商業学校(現仙台市立仙台商業高等学校)を卒業した。 本宮町農業協同組合長、本宮地区消費生活協同組合長、福島県信用農業協同組合連合会理事、福島県消費生活協同組合連合会理事などを務めた。 政界では、本宮町議会議員、福島県議会議員に在任。1955年(昭和30年)2月の第27回衆議院議員総選挙に福島県第1区で当選した鈴木周次郎について、1957年(昭和32年)公職選挙法違反による当選無効が確定したため、同年9月に実施された再選挙に日本社会党公認で立候補して初当選し、1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
一色 於菟四郎(いっしき おとしろう、1902年(明治35年… 一色 於菟四郎(いっしき おとしろう、1902年(明治35年)7月9日 - 1986年(昭和61年)6月28日)は、昭和時代の獣医師。家畜寄生虫学者。農学博士。 東京府に生まれる。1926年(大正15年)3月、東京帝国大学農学部獣医学実科を卒業。 同学部助手を経て、1930年(昭和5年)朝鮮総督府獣疫血清研究所助手となる。1937年(昭和12年)5月、水原高等農林学校(現ソウル大学校校農業科学生命大学)助教授、1938年(昭和13年)朝鮮総督府農事試験場技師、1939年(昭和14年)水原高等農林学校獣医学科教授となり、終戦を迎えた。 戦後帰国し、1945年(昭和20年)長野県北佐久郡農学校教諭、1946年(昭和21年)大阪獣医畜産専門学校を経て、1949年(昭和24年)浪速大学(現大阪府立大学)農学部教授となった。
神子上 恵竜(神子上惠龍、みこがみ えりゅう、1902年7月… 神子上 恵竜(神子上惠龍、みこがみ えりゅう、1902年7月9日 - 1989年1月4日)は、日本の仏教学者。浄土真宗の僧侶。 兵庫県東保福専寺・神子上憲了の子。1926年龍谷大学卒業。1961年「他力廻向思想の研究」で龍谷大学より文学博士の学位を取得。龍谷大学教授、1963年奈良大学教授、名誉教授。浄土真宗勧学。子は神子上恵群(1936- 、2003-07年龍谷大学学長)。
戸田 清(とだ きよし、1902年7月8日 - 2001年9… 戸田 清(とだ きよし、1902年7月8日 - 2001年9月19日)は、日本の数学教育学者、柔道家。 1902年、岡山県生まれ。岡山の六高で高専柔道に励む。1921年までに初段となる。1921年、六高が開発した脚への関節技・膝跨関節十字固(膝十字固め)に最も熟練していて対四高戦で新兵器として使用した。相手が怒りだし蹴飛ばされる。相手は審判から注意され、耐えて引き分けとなる。だが、四高側が反則だと猛烈に抗議し出し、協議の結果、暫定的に以降使用禁止となる。この後、柔道で本格的に禁止技になったが、サンボやプロレス、MMAで使用されるようになった。 東京帝国大学理学部数学科を卒業。卒業後は広島高等師範学校教授。
佐瀬 昌三(させ しょうぞう、1902年7月8日 - 200… 佐瀬 昌三(させ しょうぞう、1902年7月8日 - 2001年6月23日)は日本の政治家、法律家、法学博士、衆議院議員、裁判官、法政大学教授、弁護士 1902年(明治35年)7月8日に千葉県山武郡上堺村(現在の横芝光町屋形)で生まれる。 法政大学法学部に入学し、在学中は法政大学弁論部に所属。1924年(大正13年)に法政大学卒業。同年高等文官試験行政科、司法科に合格し、検事に任官する。1930年(昭和5年)に法政大学講師となり、フランスに2年間留学をする。パリ法科大学で刑事法学研究室に所属し刑事法学を専攻する。 帰国後、1932年(昭和7年)に判事に転官し、東京地方裁判所判事の傍ら法政大学教授に就任し、刑法及び仏法の講義を行う。
今泉 篤男(いまいずみ あつお、1902年7月7日 - 19… 今泉 篤男(いまいずみ あつお、1902年7月7日 - 1984年1月19日)は、日本の美術評論家。 山形県生まれ。旧制山形高校を経て東京帝国大学卒。1932年ヨーロッパに渡り、パリ大学、ベルリン大学に学ぶ。1934年帰国、美術評論を始め、1936年美術批評家協会を創立、1952年国立近代美術館次長、1967年京都国立近代美術館館長、1969年まで務めた。
廣田 昴(ひろた こう、1902年7月5日 - 没年不詳)は… 廣田 昴(ひろた こう、1902年7月5日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名喜多 猶光(きた なおみつ)、新字体表記広田 昴のほか、広田 昂、広田 昻、広田 宏と表記に揺れがある。 1902年(明治35年)7月5日、兵庫県西宮市に生まれる。 大阪の旧制・大阪市立工業学校(現在の大阪市立都島工業高等学校)建築科を卒業し、喜多村緑郎、秋月桂太郎らが道頓堀の朝日座を拠点にした新派の劇団「成美団」(第2期)の俳優になる。1926年(大正15年)、御室撮影所時代のマキノ・プロダクションに入社する。1928年(昭和3年)、同社を退社、同じく同社を退社して独立した中根龍太郎が設立した中根龍太郎喜劇プロダクションに合流する。
矢口 麓蔵(やぐち ろくぞう、1902年(明治35年)7月5… 矢口 麓蔵(やぐち ろくぞう、1902年(明治35年)7月5日 - 1990年(平成2年)8月13日)は、日本の外交官。初代外務省入国管理部長、初代外務省移住局長、駐チリ特命全権大使、駐キューバ特命全権大使。 山形県出身。旧制山形県立鶴岡中学校(現山形県立鶴岡南高等学校)を経て、1924年神戸高等商業学校(現神戸大学)本科卒業。1931年外務省入省。特別調達庁事業局次長兼経営部長、連絡調整中央事務局第三部長、外務省管理局入国管理部長などを経て、外務省移住課参事官として移民政策を構想した。日本・カンボジア平和条約が締結された1955年からは外務省移住局長を務め、農業労働者のカンボジアへの移民を行う旨の大綱について合意を獲得した。
三品 彰英(みしな あきひで、みしな しょうえい、1902年… 三品 彰英(みしな あきひで、みしな しょうえい、1902年7月5日 - 1971年12月19日)は、日本の歴史学者、神話学者。海軍教授、大谷大学教授、同志社大学教授、大阪市立博物館館長、佛教大学教授などを歴任。 1928年、京都帝国大学文学部史学科を卒業。戦前は、智山大学講師、京都帝国大学講師、海軍教授などを務めた。 戦後の1945年、海軍教授を退職して大谷大学講師となり、1946年に同教授、1955年から同志社大学教授を1960年まで務める。退職後は大阪市立博物館館長・佛教大学教授など歴任。朝鮮古代史で著名な東北大学名誉教授の井上秀雄などを指導したほかに、1960年から日本書紀研究会を主宰するなどして関西の日本古代史研究者を多く育てた。
深水 惣吉(ふかみ そうきち、1902年7月5日 - 198… 深水 惣吉(ふかみ そうきち、1902年7月5日 - 1982年5月24日)は、日本の実業家。山陽電気鉄道社長・会長、山陽百貨店代表取締役・会長などを務め、山陽グループの発展に大きく関与した。経理・会計部門出身の実務家として知られ、鉄道、百貨店、交通、観光、メディアなど幅広い関連事業の経営に携わった。 山口県大津郡仙崎通村(現在の長門市)出身。 彦根高等商業学校(現 滋賀大学経済学部)を1927年3月に卒業し、同年4月に宇治川電気(のちの関西電力、山陽電気鉄道)へ入社した。のちに会計畑を歩み、1942年4月に山陽電気鉄道の会計課長、1946年3月に会計部長となる。その後は山陽電気鉄道の経営陣に加わり、1947年10月に取締役、1952年2月に常務取締役、1954年11月に専務取締役へ昇進した。
岸本 誠二郎(きしもと せいじろう、1902年7月5日 - … 岸本 誠二郎(きしもと せいじろう、1902年7月5日 - 1983年4月5日)は、日本の経済学者。京都大学名誉教授。専門は理論経済学。「分配と価格」に関する基本原理を作り上げた。 岡山県出身。第六高等学校を経て1925年東京帝国大学経済学部卒、同大学院入学。1940年「価格の理論」で経済学博士(東京商科大学 (旧制))。法政大学経済学部長、東京高等師範学校教授を経て、1946年京都帝国大学教授・経済学部長となる。京都大学経済研究所の創設に尽くし1962年初代所長となる。1966年定年退官、名誉教授、國學院大學経済学部教授。その後、同経済学部長。1979年國學院大學栃木短期大学3代学長(~1981年)に就任。
槇田 献太郎(まきた けんたろう、1902年(明治35年)7… 槇田 献太郎(まきた けんたろう、1902年(明治35年)7月4日 - 1964年(昭和39年)10月)は、日本の政治家。鳴門市長。九州帝国大学法文学部卒業。 1928年(昭和3年)、九州帝国大学法文学部法科を卒業後、南満州鉄道へ入社。 1932年(昭和7年)、満州国国務院総務庁法制局統計処資料課長に起用され、その後、同国官吏として新京特別市財務処長、ハルピン郵政管理局長、国務院総務庁参事兼厚生参事官などを歴任。 戦後は愛媛県松山市共催の愛媛県産業大博覧会事務局長として腕を振るい、1951年(昭和26年)4月26日に徳島県の鳴門市長に就任。 市長退任後は松山市に住み、日刊工業新聞松山市局長を勤めたが、1964年(昭和39年)10月、同地で死去。
吉野 秀雄(よしの ひでお、1902年〈明治35年〉7月3日… 吉野 秀雄(よしの ひでお、1902年〈明治35年〉7月3日 - 1967年〈昭和42年〉7月13日)は、近代日本の歌人・書家・文人墨客。号は艸心。多病に苦しみながら独自の詠風で境涯の歌を詠んだ。多数の美術鑑賞や随筆を残し、書家としても知られている。 『南京新唱』を読み、会津八一にひかれて師事。生涯を病とたたかいつつ、良寛を愛し、万葉調を基調にした、純粋な人間への愛憐を詠む。『寒蟬集』(1947年)、『晴陰集』(1950年)などの歌集がある。 群馬県高崎市に次男として生まれる。家は織物問屋の株式会社吉野藤であった。 1909年(明治42年)身体が病弱であったため富岡上町の祖父母のもとに移り住み、富岡小学校に入学。
山内 恭彦(やまのうち たかひこ、1902年7月2日 - 1… 山内 恭彦(やまのうち たかひこ、1902年7月2日 - 1986年10月14日)は、日本の理論物理学者。東京大学名誉教授。理学博士(東京帝国大学、1938年)。神奈川県生まれ。祖父は山内堤雲(六三郎)。
淡野 安太郎(だんの やすたろう、1902年(明治35年)7… 淡野 安太郎(だんの やすたろう、1902年(明治35年)7月2日 - 1967年(昭和42年)9月28日)は、日本の哲学者。台北帝国大学助教授、東京大学教授、学習院大学教授を歴任。 兵庫県出身。京都帝国大学哲学科卒。台北帝国大学助教授、東京大学教養学部助教授、1957年教授、63年定年退官、学習院大学教授。専門はフランス哲学、社会思想史。
柴野 和喜夫(しばの わきお、1902年7月2日 - 198… 柴野 和喜夫(しばの わきお、1902年7月2日 - 1982年12月18日)は、日本の政治家、農林官僚。滋賀県知事(第34代)。石川県知事(第44-45代)。参議院議員(1期)。石川県出身。
猪熊 兼繁(いのくま かねしげ、1902年7月1日 - 19… 猪熊 兼繁(いのくま かねしげ、1902年7月1日 - 1979年1月7日)は、日本の歴史学者、国学者。京都大学名誉教授。専門は日本法制史。 京都府京都市生まれ。父は有職故実学者の猪熊浅麻呂。祖父の猪熊夏樹は白鳥神社の10代宮司・宮中進講(皇族のための教師)。兄に猪熊兼幹。妻は吉村伊助の娘。子に猪熊兼勝。甥に猪熊兼年。孫に猪熊兼樹。 旧制第三高等学校文科乙類を経て、1928年に京都帝国大学法学部を卒業。1962年「倭国法研究序説」で京都大学より法学博士の学位を取得。 1947年京都大学法学部教授となり、1966年退官。 家学である有識故実の研究にも従事。京都の葵祭や時代祭、都をどりなどの時代考証を行った。
城多 二郎(しろた じろう、1902年7月 - 1940年代… 城多 二郎(しろた じろう、1902年7月 - 1940年代)は、日本の元俳優、元映画監督である。本名は城田 二郎(読み同じ)。鈴木傳明、岡田時彦、高田稔ら松竹蒲田撮影所のスターが連袂退社するに伴い入社、二枚目俳優として主演を務めていたが、短命に終わった。 1902年(明治35年)7月、東京府東京市豊多摩郡千駄ヶ谷町(現在の東京都渋谷区)に生まれる。出生地についてはアメリカ合衆国ハワイ州の説もある。 幼少期に渡米し、現在のハワイ州ヒロにあった私立学校ヒロ・ボーディング・スクール(Hilo Boarding School、現存せず)に進学する。同校卒業後、日本に帰国して慶応義塾大学に進学するが、この頃から身長173cm・体重67.5kgという体格を活かしてスポーツマンとしてならし、特に水泳と柔道に優れていた。
井戸崎 好次(いどさき よしつぐ、1902年 <明治35年>… 井戸崎 好次(いどさき よしつぐ、1902年 <明治35年> 6月30日 - 1977年 <昭和52年> 10月27日)は、日本の経営者。栗本鐵工所社長を務めた。 和歌山県出身。1926年に関西大学専門部経済科を卒業し、同年に栗本鐵工所に入社。 1946年11月に副社長に就任し、1961年5月には社長に昇格。1967年10月に相談役を経て、1969年6月には特別顧問に就任した。 1964年に藍綬褒章を受章し、1974年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1977年10月27日、老衰のために死去。75歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
外島 健吉(としま けんきち、1902年6月30日 - 19… 外島 健吉(としま けんきち、1902年6月30日 - 1994年1月23日)は、日本の実業家。神戸製鋼所社長、会長を務めた。奈良県出身。 1927年に京都帝国大学工学部を卒業し、1932年11月に神戸製鋼所に入社した。1949年8月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1958年11月から社長に就任し、在任中は鉄鋼業界で初めてプラントの輸出に手掛けたり、同社で初の海外事務所を開設し、海外進出にも積極的に取り組んだ。1972年5月から1974年11月までに会長を務めた。 1976年11月から1982年10月までに神戸商工会議所会頭と日本商工会議所副会頭を務め、1981年の神戸ポートアイランド博覧会の開催に尽力した。
阿子島 俊治(あこしま しゅんじ、1902年〈明治35年〉6… 阿子島 俊治(あこしま しゅんじ、1902年〈明治35年〉6月29日 - 1954年〈昭和29年〉4月30日)は、日本のジャーナリスト、政治家。 宮城県刈田郡白石町(現・白石市)生まれ。1927年早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業し、国民新聞社に入社。政治部記者、政治部次長、論説委員を歴任した。 政治ジャーナリストとして活動する一方早くから政界入りを志し、1936年に立憲民政党公認で第19回衆議院議員総選挙に立候補したが落選。その後1942年に行われた翼賛選挙で翼賛政治体制協議会の推薦候補として立候補し初当選、翼賛政治会・大日本政治会に所属した。 阿子島が総選挙に初当選したのは翼賛選挙だったが、落選したとはいえ政党解消前に民政党公認で総選挙に立候補したことがあったことや、ジャーナリスト時代に衆議院議長を務めたこともある民政党の大物政治家・藤沢幾之輔の伝記を上梓したこともあったため、阿子島は翼賛議会においては戦前の民政党の系譜を受け継ぐ政治家とみなされた。
秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう、1902年〈… 秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう、1902年〈明治35年〉6月25日 - 1953年〈昭和28年〉1月4日)は、日本の皇族。大正天皇と貞明皇后の第二皇子。明治天皇の皇孫にあたる。兄に昭和天皇、長弟に高松宮宣仁親王、次弟に三笠宮崇仁親王がいる。第125代天皇明仁は甥、第126代天皇徳仁と秋篠宮文仁親王は大甥にあたる。妃は勢津子(旧会津藩主・松平容保の四男で外交官を務めた松平恆雄の長女)。 宮家の一つである秩父宮の家祖。御称号は淳宮(あつのみや)。身位は親王。お印は若松(わかまつ)。大日本帝国陸軍の軍人でもあり、階級は少将。勲等功級は大勲位功三級。勢津子妃との間に子女はいない。 東京・赤坂の青山御所(東宮御所)で誕生し、兄の迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)とともに、生後4カ月で皇孫御養育掛・枢密顧問官の川村純義(海軍中将伯爵)邸に預けられた。
市原 豊太(市原 豐太、いちはら とよた、1902年6月22… 市原 豊太(市原 豐太、いちはら とよた、1902年6月22日 - 1990年8月14日)は、日本のフランス文学者、随筆家、翻訳家。 東京で生まれる。父市原卯之助は、山形県出身で帝国海軍将官だった。 1915年に東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、1920年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中学の同級生には、下村三郎(元最高裁判所判事)、菊池正士(物理学者)、坪井忠二(東京大学名誉教授)、中島健蔵(フランス文学者)などがいた。旧制第一高等学校を経て、1926年東京帝国大学文学部仏文科卒。 浦和高等学校教授、第一高等学校教授、東京大学教養学部教授、1963年定年退官、青山学院大学教授、獨協大学教授、獨協大学学長代行を経て名誉教授。
伏見 朝子(ふしみ ときこ、1902年〈明治35年〉6月20… 伏見 朝子(ふしみ ときこ、1902年〈明治35年〉6月20日 - 1971年〈昭和46年〉4月3日)は、日本の旧皇族。元華族。博義王の妃。一条実輝公爵令嬢。母は、細川護久侯爵令嬢・悦子。旧名は、一条 朝子(いちじょう ときこ)。皇籍離脱前の身位は王妃で、皇室典範における敬称は殿下。皇族時代の名は、博義王妃 朝子(ひろよしおうひ ときこ)であった。 香淳皇后とは女子学習院の同級生で、梨本宮家の方子女王と並んで昭和天皇のお妃候補の一人であったとされる。後に学習院の同窓会組織「常磐会」の会長も務める。1919年(大正8年)12月23日に、博義王と結婚、翌年北海道を訪れている。1男3女をもうける。関東大震災時は皇族による被災者の慰問活動として、1923年(大正12年)9月23日に新宿区(当時の淀橋町)の被災児童避難所を慰問・視察した。
袖山 喜久雄(そでやま きくお、1902年6月20日 - 1… 袖山 喜久雄(そでやま きくお、1902年6月20日 - 1960年1月31日)は、日本の経営者。東洋レーヨン(現在の東レ)社長を務めた。 茨城県出身。1926年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、同年に東洋レーヨンに入社。 1945年に取締役に就任し、1947年に常務を経て、1948年に社長に就任。 1960年1月31日、胃癌のために死去。57歳没。墓所は多磨霊園。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
岡田 美子(おかだ よしこ、1902年(明治35年)6月20… 岡田 美子(おかだ よしこ、1902年(明治35年)6月20日 - 1966年(昭和41年)4月18日)は小説家・劇作家。 国府町(現・鳥取市)に嫁いだ後、岸田國士に師事するなどしながら、戯曲や小説を発表した。 鳥取県西伯郡御来屋村(現在の大山町)に生まれる。1919年(大正8年)、姉清子が医師岡田道壽と結婚する。1922年(大正11年)、鳥取県立米子高等女子高卒業。庄内小学校の代用教員となる。姉、清子が死去。1923年(大正12年)、教員を退職する。義兄岡田道壽と結婚する。1929年(昭和4年)、姪の伊良子不二子が睡眠薬で自殺する。1932年(昭和7年)、私淑していた岸田國士の元に上京し、師事する。
鳥濱 トメ(とりはま トメ、1902年6月20日 - 199… 鳥濱 トメ(とりはま トメ、1902年6月20日 - 1992年4月22日)は、鹿児島県の食堂経営者。 川辺郡知覧町(現在の南九州市知覧町郡104)で「富屋食堂」を営み、多くの特攻隊員の面倒を見た。 名前の読みは戸籍上「トメ」であるが、相星雅子の聞き取りによるとこの「トメ」を嫌って人には「トミ」と呼ばせており、これが富屋食堂の名前の元になっている。また1945年に富屋食堂を取り上げた新聞記事にも「おとみさん」という名で掲載されている。 1902年(明治35年)、川辺郡西南方村坊下浜(現在の南さつま市坊津町坊)に生まれた。18歳で旧家出身の鳥濱義勇と結婚する。 1929年(昭和4年)にトメが27歳の時に富屋食堂を開業。
木村 京太郎(きむら きょうたろう、1902年〈明治35年〉… 木村 京太郎(きむら きょうたろう、1902年〈明治35年〉6月19日 - 1988年〈昭和63年〉6月11日)は、大正・昭和の社会運動家。 奈良県南葛城郡小林村(現在の御所市)出身。1922年4月、水平社の支部である小林水平社を結成、翌月の奈良県水平社に参加する。同月、大正村(旧小林村等が合併して成立)の高等小学校における差別糾弾事件で逮捕され、水平社が関わる部落解放運動での逮捕者第1号となった(奈良県大正村事件)。この事件で禁錮6か月の刑を受けるが運動内の注目を集め、翌1923年の全国水平社青年運動結成の中心人物となった。 更に1924年には全国水平社本部常任に抜擢され、機関紙『選民』の編集を担当する。
吉田 澄夫(よしだ すみお、1902年〈明治35年〉6月17… 吉田 澄夫(よしだ すみお、1902年〈明治35年〉6月17日 - 1987年〈昭和62年〉2月26日)は、日本の国語学者、文部官僚。文学博士(東洋大学・論文博士・1958年5月14日)。埼玉大学名誉教授、武蔵野女子大学名誉教授、国語学会名誉会員。筆名は伊夜彦。 新潟県新潟市医学町通1番町(現 新潟市中央区医学町通1番町)の吉田真澄の次男として出生。 新潟師範学校附属小学校を経て、1919年(大正8年)3月に新潟中学校を4年で修了(四修)、1922年(大正11年)3月に新潟高等学校を卒業、1926年(大正15年)3月に東京帝国大学文学部国文学科を卒業。 1926年(大正15年)4月に文部省図書局国語調査嘱託に就任、5月から文部省臨時国語調査会嘱託を兼任、1934年(昭和9年)12月から文部省国語審議会書記を兼任、1940年(昭和15年)12月に文部省図書局国語課国語調査官に就任、1944年(昭和19年)11月から文部省国語審議会幹事を兼任。
平井 呈一(ひらい ていいち、1902年(明治35年)6月1… 平井 呈一(ひらい ていいち、1902年(明治35年)6月16日 - 1976年(昭和51年)5月19日)は、日本のイギリス文学翻訳者・編集者で、多くの訳書を通じ海外怪奇小説を紹介した。 1902年、神奈川県中郡平塚町(現・平塚市)で生まれる。本名は程一。江戸下町育ちで、没時まで和服で通した。 東京府東京市日本橋区浜町(現・東京都中央区日本橋浜町)の養家で居住。浜町尋常小学校から1920年に日本大学附属中学校(現在の日本大学第一中学校・高等学校)を経て早稲田大学文学部英米文学科中退。河東碧梧桐に師事して俳句に親しむ。永井荷風と佐藤春夫に師事し、江戸文学に造詣が深い翻訳者となった。中菱 一夫の筆名で、小説「真夜中の檻」「エイプリル・フール」を著している。
桂 壽一(桂 寿一、かつら じゅいち、1902年6月16日 … 桂 壽一(桂 寿一、かつら じゅいち、1902年6月16日 - 1985年11月20日)は、日本の哲学者。専門は西欧近世哲学。 東京生まれ。1926年東京帝国大学卒。旧制新潟高等学校教授を経て、戦後東京大学教養学部教授を務め、1953年文学部哲学科教授、文学部長を務め、1963年定年退官、同年中央大学教授。1965年日本学士院会員。デカルトなど近世初期哲学を専攻。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
阿達 英次郎(あだち えいじろう、1902年6月11日 - … 阿達 英次郎(あだち えいじろう、1902年6月11日 - 1989年)は、日本の医師、医学博士、開業医、栄典は勲五等・瑞宝章。
斎藤 達雄(さいとう たつお、1902年6月10日 - 19… 斎藤 達雄(さいとう たつお、1902年6月10日 - 1968年3月2日)は、日本の俳優、映画監督。 松竹蒲田撮影所に入り、独特の存在感を持つ飄々とした演技で、脇役や短篇喜劇映画の主役として多くの作品に出演した。初期の小津安二郎監督作品に欠かせない俳優でもあり、『肉体美』『会社員生活』『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』などの小津作品に主演した。戦後も貴重な脇役として活躍し、監督作も発表している。 1902年(明治35年)6月10日、東京府東京市深川区佐賀町(現在の東京都江東区佐賀)に生まれる。父は米の仲売人で日本橋区に店を構えていた。父は芝居道楽で、家業そっちのけに一座の勧進元になって巡業に出たりして財産を蕩尽し、5歳の時に佐賀町の家をたたんで神田明神近くへ引越しする始末だった。
佐田 一郎(さた いちろう、1902年〈明治35年〉6月9日… 佐田 一郎(さた いちろう、1902年〈明治35年〉6月9日 - 1991年〈平成3年〉9月1日)は、日本の実業家、政治家。佐田建設社長、参議院議員(2期)。元衆議院議員・佐田玄一郎は孫。 1902年(明治35年)6月9日、群馬県勢多郡桂萱村(現・前橋市三俣町)に小作農の父徳蔵・母はつの長男として生まれる。勢多郡桂萱尋常小学校(現・前橋市立桂萱小学校)から高等科に進むが1年で退学。 1920年(大正9年)徳蔵が土木請負業「佐田組」を創業。同年一郎は藤岡の私立高山社蚕業学校別科を卒業して養蚕教師となるが、1926年(大正15年)養蚕教師を辞め佐田組に入社。 1930年(昭和5年)桂萱村村会議員となり、3期13年務める。