緑嶌 友之助(みどりしま とものすけ、1878年1月12日 … 緑嶌 友之助(みどりしま とものすけ、1878年1月12日 - 1952年12月16日)は、石川県上新川郡(現:富山県滑川市)出身の大相撲力士。本名は高木 友之助(たかぎ とものすけ)。 1878年1月12日に石川県上新川郡で農家を営む家に二男として生まれた。父親は土地相撲で「緑山」の四股名で大関を務め、友之助も17歳の時点で5斗俵を差し上げて村人を大いに驚かせるほどの怪力を持っていた。当初は京都相撲に加入していたが、兄弟子からいじめを受けたために間もなく帰郷。 春日山部屋(師匠は元幕下二段目・朝日森の)へ、序二段・春柳(後の三段目・小猫又)の世話で入門した。 東京相撲では1898年1月場所で初土俵を踏むとすぐに頭角を現し、1901年1月場所で新十両昇進、1902年5月場所で新入幕を果たした。
垣内 松三(かいとう まつぞう、1878年1月11日 - 1… 垣内 松三(かいとう まつぞう、1878年1月11日 - 1952年8月25日)は、日本の国語教育学者・国文学者。 岐阜県高山市出身。旧姓は代情(よせ)。6歳で分家の垣内雲嶙の養嗣子となった。1903年東京帝国大学国文科卒。 東京帝国大学講師、東京女子高等師範学校教授、1919年ヨーロッパ外遊、1920年東京高等師範学校講師、1924年教授。のち東洋大学教授。 筆名として「まつみ」とも読ませた[要出典]。墓所は雑司ヶ谷霊園。 垣内は国学を研究すると同時に、言語学・心理学・現象学といった西洋諸科学とを止揚する学術体系の構築を目指し、生涯をかけてこれに取り組んでいるが、その渉猟する学術領域の広さ、探究する対象群の深さ、そして独創的な発想と理想の高さは、いずれにおいても他の追随を許さないものとなっている。
谷 信讃(たに しんさん、1878年(明治11年)1月11日… 谷 信讃(たに しんさん、1878年(明治11年)1月11日 - 1962年(昭和37年)3月5日)は、高野寺第4世住職。高野山真言宗宿老・宗機顧問。板垣会館設立発起人。 明治11年(1878年)1月11日、徳島県板野郡鳴門村(現・鳴門市)に生まれる。明治28年(1895年)、高野中学校に入学。明治31年(1898年)、同校卒業後、高野山大学へ進学。さらに京都東寺専修学校に学ぶ。同校卒業後、郷里に戻り、徳島県麻植郡・重楽寺の住職となる。のち、同県板野郡瀬戸町・吉祥寺の住職に転任。さらに同県里浦村師跡・宝珠寺の住職に転じ、鳴門村・潮明寺と兼務した。大正11年(1922年)、高知県高知市・高野寺の第4世住職に就任。
藤井 恵照(ふじい えしょう、1878年〈明治11年〉1月1… 藤井 恵照(ふじい えしょう、1878年〈明治11年〉1月11日 - 1952年〈昭和27年〉12月26日)は 浄土真宗本願寺派僧侶、教誨師。広島県福山市(旧沼隈郡)の正光寺出身。 この間、保護施設の台南累功舎の創立、高松讃岐修正会と東京の小菅真哉会の整備。1926年(大正15年)、両全会、帝国更新会と和敬会母子寮の創立に当たる。刑務所内の売店の権利を獲得して保護事業の資金にするなどのアイデアマンの一方、自宅官舎の一室を事務所兼施設代わりで母子寮を創始し、逝去するまで家族と共に施設内に住み込むなどこの道に献身した。1952年(昭和27年)、東京信濃町両全会において還化。行年77歳
尾竹 竹坡(OTAKE Chikuha、おたけ ちくは、明治… 尾竹 竹坡(OTAKE Chikuha、おたけ ちくは、明治11年(1878年)1月11日 - 昭和11年(1936年)6月2日)、は、明治から昭和期の浮世絵師、日本画家。いわゆる尾竹三兄弟の一人で、尾竹越堂は兄、尾竹国観は弟。 明治11年(1878年)1月12日、現在の新潟市に生まれる。本名は染吉。父は尾竹倉松。4歳で南宗派の笹田雲石に学び、竹坡の雅号を受ける。竹翁とも号す。5歳の時には襖絵などを描き、6歳の頃には花鳥画を器用な筆捌で描き上げ、神童と言われたという。また10歳の頃から絵をもって家計を助けたともいわれる。明治24年(1891年)富山に移り、兄・国一(越堂)とともに生活のために売薬版画の下絵や新聞『富山日報』挿絵を描く。
野口 小蕙(のぐち しょうけい、1878年〈明治11年〉1月… 野口 小蕙(のぐち しょうけい、1878年〈明治11年〉1月11日 - 1945年〈昭和20年〉4月2日)は、明治後期から昭和前期にかけて活躍した南画家、日本画家。 野口小蕙は、明治11年(1878年)1月11日に滋賀県蒲生郡綺田村(後の桜川村、現東近江市綺田町)で造酒業を営む十一屋の跡取りである野口正章(1849年 - 1921年)の長女として生まれ、郁子と名付けられた。母は奥原晴湖と共に明治女流南画家の双璧といわれる野口小蘋(のぐち しょうひん、1847年 - 1917年)である。父正章と母小蘋(本名親子)は、正章の父野口正忠(柿村(しそん)と号す)が近江・京の多くの文人と親交厚く、富岡鉄斎は長く野口家に居候をしているような美術愛好家で漢詩家であったことから知り合い、明治10年(1879年)結婚した。
籾山 梓月(もみやま しげつ、明治11年〈1878年〉1月1… 籾山 梓月(もみやま しげつ、明治11年〈1878年〉1月10日 - 昭和33年〈1958年〉4月28日)は、明治後期から戦前にかけての日本の俳壇の重鎮。旧姓は吉村、本名は仁三郎(じんざぶろう)。俳号に庭後、江戸庵など。茶道では宗仁と称す。 俳書堂・籾山書店の経営者であり、俳句総合雑誌の草分け『俳諧雑誌』の創刊者・主宰者。他、『時事新報社』、昭和化学などの取締役を歴任。 東京府日本橋区呉服町にて、代々飛脚屋と両替屋を兼ねる吉村家の9代目・吉村甚兵衛の長男として生まれる。父の吉村甚兵衛が始めた陸運元會社は現在の日本通運の前身である。陸運元會社は東京日本橋佐内町の和泉屋邸内に股立され、江戸時代から続く旧来の飛脚業者の再編成を行い、その元締めをしていた。
15代 西野 嘉右衛門(にしの かえもん、1878年(明治1… 15代 西野 嘉右衛門(にしの かえもん、1878年(明治11年)1月10日 - 1967年(昭和42年)5月16日)は、日本の実業家、政治家。藍商・酒造業、西野嘉右衛門家15代当主、貴族院多額納税者議員。旧名・保太郎。 徳島県勝浦郡小松島浦(現小松島市)で、豪商・西野保太郎の二男として生まれた。西野家は創業万治元年といわれる阿波藍商人(屋号・野上屋)で、現在は酒造の西野金陵として知られる。 1900年、専修学校(現専修大学)理財課を卒業。一年志願兵として入隊し陸軍二等主計に進み日露戦争に出征した。兄・14代嘉右衛門の死去により、1905年3月27日に家督を継承し15代嘉右衛門を襲名した。 家業の藍商が、外国産の安価な藍の輸入によって影響を受けたため、化学染料製造を開始した。
加藤 賢司(かとう けんじ、1878年1月10日 - 194… 加藤 賢司(かとう けんじ、1878年1月10日 - 1944年3月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県本巣郡、後の生津村出身。1901年、日本法律学校(現・日本大学)卒、同専攻科で学ぶ。日露戦争に従軍して、陸軍歩兵中尉となる。帰郷後は営農する。岐阜県参事会員、本巣郡農会長、岐阜県山林会評議員、地方森林会議員、郡林業協会副会長、県農会議員となる。治水事業に取り組んだ。1919年9月から連続3回13年に渡って、本巣郡選出の岐阜県会議員に当選した。また、1927年12月1日から1928年12月4日まで第37代同議長を務めた。また、これと前後して1920年8月から連続6回24年生津村会議員を務めた。
吉田 良三(よしだ りょうぞう、1878年(明治11年)1月… 吉田 良三(よしだ りょうぞう、1878年(明治11年)1月10日 - 1944年(昭和19年)7月12日)は、日本の会計学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。近代簿記会計の開拓者として知られる。早稲田大学教授、東京商科大学教授、中央大学教授を歴任し、会計教育でも大きな影響力を持った。 高知県高知市出身。旧姓・宇賀。海南中学校長の吉田数馬の書生となり、のち養子となる。1903年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部領事科卒、商学士。1935年「間接費の研究」で東京商科大学より商学博士の学位を取得。1902年から早稲田大学で講師として教え、1906年から早稲田大学教授を務める。1913年から欧米に留学し、コロンビア大学で原価計算のJ・リー・ニコルソンに師事するなどした。
伊藤 重治郎(いとう じゅうじろう、1878年1月9日 - … 伊藤 重治郎(いとう じゅうじろう、1878年1月9日 - 1964年2月26日)は、日本の商学者、法学者、教育者。立教大学経済学部元教授、早稲田大学元教授、東洋大学名誉教授。専門は交通論、商店経営。 山形県酒田市穂積の生まれの政治家、伊藤重治郎(1869年-1939年)とは異なる。 兵庫県明石市出身。東京英語専修学校(立教大学の前身校の一つ)で修学する。1903年(明治36年)早稲田大学英語政治科を卒業後、早稲田大学講師となる。1905年(明治38年)アメリカに留学し、シカゴ大学を経て、1906年(明治39年)にペンシルベニア大学に入学し、1908年(明治41年)に卒業。大学では交通論、商業学を専攻し、博士号(Ph.D.)を取得。
服部 文四郎(はっとり ぶんしろう、1878年1月8日 -… 服部 文四郎(はっとり ぶんしろう、1878年1月8日 - 1955年2月16日)は、日本の経済学者。学位はPh.D.(プリンストン大学)、経済学博士。早稲田大学教授、早稲田大学専門部政経科長、専修大学学監、千葉商科大学初代学長、明治学院大学初代経済学部長等を歴任。 1878年滋賀県生まれ。1902年東京専門学校(現・早稲田大学)英語政治科卒。1906年プリンストン大学大学院修了し、Ph.D.学位取得。アメリカ留学後、早稲田大学(旧制)の留学生としてイギリス、フランス、ドイツへ渡り、1908年に帰国。1909年早稲田大学講師を経て同大教授に就任し、貨幣論、金融論、経済原論を担当。1927年より早稲田大学専門部政経科長就任。
清河 純一(きよかわ じゅんいち、1878年(明治11年)1… 清河 純一(きよかわ じゅんいち、1878年(明治11年)1月7日 - 1935年(昭和10年)3月1日)は、日本の海軍軍人。海兵26期、海大甲種5期首席。最終階級は海軍中将。 清河公廉の長男として大阪・堺に生まれる。本籍鹿児島県。北野中学校7期生。1898年12月、海軍兵学校(26期)を卒業し、1900年1月、海軍少尉任官。日露戦争では「浅間」分隊長として出征する。黄海海戦後、第1艦隊参謀に抜擢され日本海海戦を経て連合艦隊参謀となる。1907年12月、海軍大学校(甲種5期)を首席で卒業した。 伏見宮博恭王付武官、「音羽」副長、横須賀予備艦隊参謀、軍令部参謀、兼東伏見宮依仁親王付武官、海大教官、第2艦隊参謀、軍令部参謀(第1班第1課長)、兼参謀本部員、欧米出張、国際連盟海軍代表随員、ワシントン軍縮会議随員などを歴任し、1922年12月、海軍少将に進級。
鈴木 孫彦(すずき まごひこ、1878年1月5日 - 193… 鈴木 孫彦(すずき まごひこ、1878年1月5日 - 1930年4月25日)は、日本の会計学者、俳人。初代専任京城高等商業学校校長。 静岡県磐田郡向笠村生まれ。1899年高等商業学校(現一橋大学)本科卒業。1904年同校専攻科卒業。1905年熊本県立商業学校教諭。1907年同校長。 1909年山口高等商業学校教授。1917年からイギリス、アメリカ合衆国、フランスに留学し、帰国後、1921年から京城高等商業学校校長を務め、朝鮮総督府の意向に反し、朝鮮民族美術館設立を支持した。 1927年叙従四位。1928年病気のため辞任し、山口市後河原の自宅で療養していたが、1930年に死去した。俳人としても活動し、俳号は芒生。
高木 音蔵(たかぎ おとぞう、1878年〈明治11年〉1月4… 高木 音蔵(たかぎ おとぞう、1878年〈明治11年〉1月4日 - 1958年〈昭和33年〉3月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 岐阜県海西郡、のちの海津郡海西村(平田町を経て現海津市)出身。京都高等蚕業学校(現・京都工芸繊維大学)卒。岐阜県蚕業取締所吏員、土岐蚕業講習所長、恵那郡蚕業技手、海西村議、同村長、水利組合会議員、県町村会評議員、郡農会、村農会、県農事協会、同地方協会各役員となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において岐阜4区から政友本党公認で立候補して当選した。のち立憲政友会に入り、衆議院議員を1期務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
門屋 尚志(かどや なおゆき、1878年〈明治11年〉1月3… 門屋 尚志(かどや なおゆき、1878年〈明治11年〉1月3日 - 1939年〈昭和14年〉7月21日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県温泉郡、のちの素鵞村(現松山市)で生まれ、伊予郡郡中町(現伊予市)で成人した。東京高等商業学校(現一橋大学)で学ぶ。松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)、洲本中学校(現・兵庫県立洲本高等学校)の教員となる。日本棉花(株)社員、日本棉花同業会理事長となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において愛媛2区から憲政会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1939年に死去した。
有田 延(ありた のぶ、1878年1月2日 - 1944年1… 有田 延(ありた のぶ、1878年1月2日 - 1944年10月19日)は、日本の造船技術者。海軍造船少将。 福岡県出身。1896年福岡県立尋常中学修猷館、1899年7月第五高等学校工科を経て、1902年7月東京帝国大学工科大学造船学科を卒業。東大在学中の1901年2月、海軍造船学生試験に合格。 1902年呉海軍造船廠に入り、その後、造船廠と造兵廠が合併し、呉海軍工廠が設立されると、その造船部部員となる。1907年佐世保海軍工廠造船部部員となる。ここで筑摩型防護巡洋艦の設計を行い、この型の巡洋艦として、筑摩、 矢矧、平戸の3隻が建造された。 1911年造船監督官として英国に出張。ヴィッカース社による戦艦金剛の建造を監督し、竣工まで立ち会っている。
小林 照朗(こばやし てるあき、1878年(明治11年)1月… 小林 照朗(こばやし てるあき、1878年(明治11年)1月2日 - 没年不詳)は、日本の社会学者・教育者。 大阪府出身。1905年(明治38年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。佛教大学(現在の龍谷大学)教授を務めるかたわら、京都帝国大学法科大学・文科大学大学院で学んだ。1908年(明治41年)、東京女子高等師範学校教授に任命され、翌年から東京帝国大学文科大学講師を兼ねた。1911年(明治44年)、教育学・社会学研究のためイギリス・フランス・ドイツに留学し、パリ大学・ベルリン大学で学んだ。留学中にロンドンで開催された万国人権会議と、ハーグで開催された万国道徳会議に出席した。1914年(大正3年)、帰国し、1917年(大正6年)に東京女子高等師範学校附属高等女学校となった。
市村 咸人(いちむら みなと、 1878年1月2日 - 19… 市村 咸人(いちむら みなと、 1878年1月2日 - 1963年11月28日)は日本の郷土史家、教育者。 長野県下伊那郡米川村(現飯田市)生まれ。1902年長野県師範学校講習課修了後、県下の小学校等で教諭を歴任し、1919年山本尋常小学校の校長に就任。1921年から1932年まで旧制飯田高等女学校の教諭を務めた。 1912年に下伊那郡役所から松尾多勢子に関する研究を嘱託されたのを皮切りに、長野県や県下各教育会の依頼を受けて、史論の執筆や調査研究に従事し、「信濃史料」「伊那史料叢書」「長野県史」「下伊那史」等の編纂に携わる傍ら、飯田図書館副館長を務めた。研究対象は考古学、史跡、建築、仏教美術等、多岐にわたる。
滝沢 七郎(瀧澤、たきざわ しちろう、1878年(明治11年… 滝沢 七郎(瀧澤、たきざわ しちろう、1878年(明治11年)1月2日 - 1963年(昭和38年)1月11日)は、明治時代後期から昭和時代の政治家。実業家。衆議院議員。 滝沢忠三郎の長男として、長野県小県郡上田町(現上田市)に生まれる。1921年(大正10年)家督を相続する。1897年(明治30年)長野県小県蚕業学校卒業。 陸軍に入り、三等主計に進む。蚕業に従事し、1897年(明治30年)には弟の徳太郎とともに蚕種、蚕具販売店を開き、雑誌『蚕友』を発刊した。ほか、長野県蚕種検査員、上田蚕業講習所所長、上田新聞社取締役を歴任した。 1911年(明治44年)家業を整理し上京し、1926年(大正15年)本所区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京鋳物工業組合、日本鋳物工業組合各連合会理事長、可鍛鋳鉄滝沢工業取締役社長、東京鋳物研究所各理事長、日本鋳物工業会長、日本可鍛鋳鉄工業会理事長を歴任した。
西 義一(にし よしかず、1878年〈明治11年〉1月1日 … 西 義一(にし よしかず、1878年〈明治11年〉1月1日 - 1941年〈昭和16年〉4月15日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功二級。 福島県出身。旧会津藩士・西忠義の長男として生れる。忠義は日高地方の開発に功績を挙げたことで生祀され、また臨時帝室編修局嘱託を務めている。弟の西義顕は満鉄社員で、犬養健、松本重治らと汪兆銘工作を行った。西は稚松会の評議員である。 栃木中学校を経て、1898年(明治31年)11月、陸軍士官学校(10期)を卒業し、翌年6月、砲兵少尉任官。1902年(明治35年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。陸士生徒隊付、第7師団弾薬大隊付を歴任。日露戦争では第2師団後備野砲中隊長として出征した。
古屋野 橘衛(こやの きつえ、1878年(明治11年)1月1… 古屋野 橘衛(こやの きつえ、1878年(明治11年)1月1日 - 1957年(昭和32年)4月10日)は、岡山県都窪郡豊洲村(現・倉敷市)出身の地方政治家。倉敷市長。 1878年1月1日、都窪郡豊洲村に槙尾利八の二男として生まれる。その後、古屋野家を継ぐ。旧制同志社中学、旧制第三高等学校を経て、京都帝国大学法学部へ進学する。 京都帝大卒業後は貿易業へ就き、その後アメリカへ渡る。17年間滞在し、1922年に帰国する。 1923年、万寿村長となり、その後、岡山県議会議員に3回当選する。1927年、倉敷市制実現のため、倉敷町・万寿村・大高村の3町村合併に尽力した。 合併後の、1928年、倉敷市議会議員となり、その後、市議会議長となる。
横瀬 夜雨(よこせ やう、1878年〈明治11年〉1月1日 … 横瀬 夜雨(よこせ やう、1878年〈明治11年〉1月1日 - 1934年〈昭和9年〉2月14日)は、日本の詩人、歌人。本名は虎寿()[要出典]。別号に利根丸、宝湖、処寿()[要出典]。 茨城県真壁郡横根村(現・下妻市横根)の名家に生まれる。3歳の時、くる病に冒されて歩行の自由を失い、生涯苦しんだ。1895年、『文庫』に「神も仏も」を発表し、河井酔茗らに認められる。1898年には民謡調の詩「お才」を発表し、この頃から「筑波嶺詩人」と呼ばれるようになる。1905年、詩集『花守』を刊行して詩人として有名になる一方で、この時期からくる病が悪化して歩行がほぼ困難となる。1907年には河井酔茗主宰の詩草社に参加し[要出典]、1908年から『女子文壇』の選者を務めた。
佐藤 市十郎(さとう いちじゅうろう、旧姓・海井、1878年… 佐藤 市十郎(さとう いちじゅうろう、旧姓・海井、1878年〈明治11年〉1月 - 1936年〈昭和11年〉3月2日)は、日本の実業家。海市商会社長。族籍は山口県士族。 山口県人・海井荒助の二男。先代ヒデの養子となり、1894年に家督を相続する。大阪高等商業学校を卒業。朝鮮の貿易商に就職の口があって渡鮮する。店務を帯びてたびたび大阪へ出張する所から、悪友に誘い誘われ酒色に耽溺し、滞鮮4年間は放蕩堕落の淵に沈淪し、主家へも迷惑をかけるに至る。 久原家に入り、欧州大戦中久原鉱業会社支店長としてロンドンに在勤し、帰朝後久原商事会社常務取締役に転じ、1921年にこれを辞する。1936年3月2日永眠。行年60才。
厨川 千江(くりやがわ せんこう、1878年 - 1928年… 厨川 千江(くりやがわ せんこう、1878年 - 1928年)は、日本の俳人、教育者。本名、厨川肇。東京帝国大学(現在の東京大学)卒業。旧制千葉県立佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)校長、山口県立山口図書館初代館長を歴任。 島根県浜田市出身。旧制島根県立第二中学校(現在の島根県立浜田高等学校)に在学中の頃から俳句を習う。熊本県の旧制第五高等学校(現在の熊本大学教養部)在学時代は、当時、旧制五高で教鞭を執っていた夏目漱石を主宰とした俳句結社紫溟吟社(しめいぎんしゃ)を寺田寅彦、蒲生紫川らとおこし、夏目漱石から俳句を学ぶ。五高時代、千江が髪を切って夏目漱石の自宅を訪れた事があったが、散髪後のさっぱりとした頭を見た漱石が「秋風や今そりたての頭より」という句を即興で詠み、とても感動したというエピソードがある。
内貴 清兵衛(ないき せいべえ、1878年(明治11年) -… 内貴 清兵衛(ないき せいべえ、1878年(明治11年) - 1955年(昭和30年))は日本の実業家、文化人。日本新薬の創設者、島津製作所・日本電池・京都織物などの役員を歴任、北大路魯山人等のパトロン。元京都市長・内貴甚三郎の長男。洛北や城南に広大な土地を保有した。田中源太郎、中井三郎兵衛らとともに「京都四天王」とよばれた。 1878年(明治11年)、京都市初代市長で実業家の内貴甚三郎の長男として生まれる。和仏法律学校(現法政大学)を卒業後、実家の呉服問屋『銭清』を継ぐ。 1919年(大正8年)に市野瀬潜と共に日本新薬を創設する。また、島津製作所・日本電池など多くの企業で役員を務める。 1928年(昭和3年)から1934年(昭和9年)、1936年(昭和11年)から1941年(昭和16年)まで、財団法人立命館の協議員を務めた。
根岸 太助(ねぎし たすけ、1878年〈明治11年〉 - 没… 根岸 太助(ねぎし たすけ、1878年〈明治11年〉 - 没年不明)は、日本の商人(呉服太物商、升屋)、実業家、政治家、名望家。多摩銀行、中武馬車鉄道各監査役。東京府西多摩郡青梅町長。東京府会議員。族籍は東京府平民。 川越に生まれ、根岸家に入る。呉服太物販売業を営む。青梅町長、同町会議員、郡会議員、東京府会議員などをつとめる。 6歳の時に青梅町仲町「升屋呉服店」の養子となる。 政友会に於ける地方の重鎮である。 信仰は仏教。趣味は書画、骨董。愛読書は伝記、自治書。住所は東京府西多摩郡青梅町(現・青梅市)。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
嵐 冠三郎(あらし かんざぶろう、1878年 - 没年不詳)… 嵐 冠三郎(あらし かんざぶろう、1878年 - 没年不詳)は、日本の俳優、元歌舞伎役者、元子役、元女形である。本名は北岡 力松(きたおか りきまつ)。関西歌舞伎から初期のサイレント映画に転向して牧野省三の映画製作を支えた、マキノ最古参俳優である。 1878年(明治11年)、京都府京都市上京区西陣の織物屋の家庭に生まれる。本名については、最初期の資料である『花形活動俳優内証話』(1918年)には「北國力松」とあるが、『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』などによれば、本名の姓は「北岡」である。『花形活動俳優内証話』には、芝居好きの両親が四代目實川延三郎(1864年 - 1905年)、片岡柳蔵(1870年 - 1923年)の贔屓であったため、幼児から日本舞踊を習得し、数え年8歳の年に、牧野省三(1878年 - 1929年)の経営する千本座の子役となり、同劇場で初舞台を踏んだ、という旨の記述がなされている。
吉岡 荒造(よしおか こうぞう、1878年 - 没年不詳)は… 吉岡 荒造(よしおか こうぞう、1878年 - 没年不詳)は、日本の台湾総督府官僚。
伊藤 徳五郎(いとう とくごろう、1878年(明治11年)-… 伊藤 徳五郎(いとう とくごろう、1878年(明治11年)- 1939年(昭和14年)1月22日)は、日本人の柔道家・プロレスラーである。「キューバの四天王」の一人。 ウェッブサイト "Cageside Seats" でジョン・S・ナッシュは、キューバの四天王はブラジルにおける「MMAの父」であった、との考えを述べている。 秋田県の南外(後の大仙市南外)坊田で、代々肝煎や村役人を務めてきた造り酒屋の地主・伊藤多吉の長男として生まれた。 坊田小学校を卒業し、秋田尋常中学校に進学するが同校のストライキの影響で退学し、東京の錦城中学校へと転学して卒業した。その後早稲田大学へ入学して本格的に柔道を始めるが、大学と柔道の両立に苦しみ中央大学、明治大学と転学して1902年(明治35年)に中退した。
崔 麟(チェ・リン、1878年 – 1958年)は、日本統治… 崔 麟(チェ・リン、1878年 – 1958年)は、日本統治時代の朝鮮における天道教の幹部。独立運動家から親日派へ転向した人物として知られている。号は古友(コウ、고우)、天道教道号は如庵(ヨアム、여암)。創氏改名時の日本名は佳山麟(かやま・りん)。
丁 仏言(てい ふつげん、1878年 〈光緒4年〉 - 19… 丁 仏言(てい ふつげん、1878年 〈光緒4年〉 - 1930年〈民国19年〉12月1日)は中華民国の政治家・書家・詩人・ジャーナリスト。仏言は字で、名は世嶧。号は邁純。 清の廩貢生。日本に留学し、1907年(光緒33年/明治40年)6月、法政大学法政速成科第四班を卒業した。帰国後はドイツの山東鉱山区占領に反対するため、保鉱会という組織を結成している。後に山東法政学堂教習(教官)となった。1910年(宣統2年)、山東咨議局議員に当選したが、翌年辞職する。武昌起義が勃発すると、革命派に与して山東省の独立を図った。 1912年(民国元年)、北京で臨時参議院議員に当選し、さらに『亜細亜日報』主筆もつとめた。
竹田 頴川(たけだ えいせん、1878年(明治11年)- 1… 竹田 頴川(たけだ えいせん、1878年(明治11年)- 1945年(昭和20年)9月9日)は、大正から昭和の終戦までを代表する臨済宗の禅僧。俗姓は最初は加藤で、のち竹田。法諱は恵恂、道号は頴川。室号は古渡庵。愛知県葉栗郡北方村の出身。臨済宗建仁寺派管長(1931年-1945年) 1878年(明治11年)、現在の愛知県一宮市北方町に生まれる。1889年(明治22年)、一宮市木曽川町の寶光寺の速水精道和尚について得度。1906年(明治39年)、竹田黙雷が開単した建仁僧堂に掛搭。その後僧堂師家兼管長の黙雷に7年参禅した後、1912年(大正元年)に、頴川が得度した寶光寺の住職となった。さらに黙雷の建仁僧堂に通参精進して遂に、1921年(大正10年)黙雷より嗣法する。
福田 啓作(ふくだ けいさく、1878年〈明治11年〉 - … 福田 啓作(ふくだ けいさく、1878年〈明治11年〉 - 1969年〈昭和44年〉12月27日)は、昭和期に活躍した教育者、郷土史家。邑楽館林地方の郷土史研究のため尽力した。群馬県邑楽郡富永村(現在の邑楽郡千代田町)出身。 1899年(明治32年)に群馬師範学校を卒業後、館林町、西谷田村(現板倉町)の小学校教師を歴任。1913年(大正2年)、多々良村の多々良尋常高等小学校(現館林市立第八小学校)校長となる。1916年(大正5年)には北甘楽郡視学となり、その後は佐波郡豊受村、邑楽郡小泉町、多々良村、館林町の尋常小学校長を歴任した後、1933年(昭和8年)3月に退職した。同年の12月には初代の館林町立図書館館長に就任し、1946年(昭和21年)3月まで同職を務めた。
京山 若丸(きょうやま わかまる、1878年(明治11年) … 京山 若丸(きょうやま わかまる、1878年(明治11年) - 1953年(昭和28年)5月13日)は、明治~昭和期の浪曲師。本名、坂上仁三郎。広島県白市村(現・東広島市)出身。 22歳で大阪に出て2代目京山恭安斎の弟子となる。修行時代は「義士伝」なども読んだが、デビュー後は関西では珍しく、旧ものは読まず自作自演の「新談(新作)読み」で通した。明治維新に想を得た「乃木将軍」や「召集令」、「江藤新平」、「大西郷」などの傑作を残している。1908年(明治41年)6月、桃中軒雲右衛門、2代目吉田奈良丸に次いで上京。セリフの切れよし、声よし、人物描写に長け、品格のある立派な舞台姿で人気を博し雲右衛門、吉田奈良丸、京山小円らと覇を競い、浪曲の第1期黄金時代を築いた。
妻沼岩彦 (Iwahiko Tsumanuma、Thomas… 妻沼岩彦 (Iwahiko Tsumanuma、Thomas S.Rockrise 1878年~1936年)は、日系アメリカ人建築家。妻沼は、トーマス・S.・ロックライスの名の下に、おもにアメリカ合衆国で活躍した。長男・George T. Rockriseも建築家。塩田武雄と組み、ニューヨークでYamanaka & Companyのギャラリーのデザインなどを手掛けた。 出身は山形市。若くして家業に従事するが失敗し、21歳で国を離れ、アジアとヨーロッパを経由してアメリカに着く。アメリカの高等学校入学卒業を経て、1912年、シラキュース大学建築科に進学し、卒業後、ニューヨークに。TアンドL、バレル・ホフマン建築事務所などを経て、1918年、独立した。
氏家 謙曹(うじいえ けんそう、1866年12月30日(慶応… 氏家 謙曹(うじいえ けんそう、1866年12月30日(慶応2年11月24日) - 1939年10月25日)は、日本、清国の教育者。 氏家作造の長男として岩手県水沢に生まれる。1893年東京帝国大学理科大学物理学科を卒業。 1893年福岡県立尋常中学修猷館教諭を皮切りに、山口高等中学校教授、第二高等学校教授、宮城県立仙台第一中学校校長を歴任し、1904年再び第二高等学校教授となる。 1904年、在官のまま、清国政府の招聘に応じて京師大学堂(現・北京大学)師範館教習に就任し、1909年帰国したが、官を辞し、再び清国政府の招聘に応じて河南省開封府の優級師範学堂教習となる。 1911年早稲田大学理工科教授および評議員に就任し、早稲田高等学院教授・理科主任も務め、物理学を講じた。
吉田 増蔵(よしだ ますぞう、1866年12月29日〈慶応2… 吉田 増蔵(よしだ ますぞう、1866年12月29日〈慶応2年11月23日〉 - 1941年〈昭和16年〉12月19日)は明治~昭和時代の漢学者。昭和の元号の考案者である。号は「学軒」。 1866年(慶応2年)、福岡県京都郡勝山町(現:みやこ町勝山)で生まれた。村上仏山(村上彦左衛門)の漢学塾・水哉園で学び、漢詩文に抜群の才能を示した。京都帝国大学に入学して支那哲学を専攻。卒業後、英語を学ぶためにアメリカに渡った。 帰国後は、更に漢学・漢詩研鑽に力を注ぎ、奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)、山口県立豊浦中学校(現豊浦高等学校)で教職に就いた。奈良時代に、宮内省帝室博物館が管理する正倉院に出張してきた帝室博物館総長兼図書頭の文豪・森鷗外と知り合う。
山科 慎次郎(やましな しんじろう、慶応2年11月23日(1… 山科 慎次郎(やましな しんじろう、慶応2年11月23日(1866年12月29日) - 昭和10年(1935年)5月5日)は、日本の衆議院議員。弁護士。 備後国御調郡三原(現在の広島県三原市)出身。1893年(明治26年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業した。1894年(明治27年)、弁護士試験に合格し、翌年から尾道市に事務所を開いた。1901年(明治34年)より尾道市会議員に選ばれ、1913年(大正2年)には議長に就任した。その他、尾道商業会議所特別議員を務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
西田 為之(爲之、にしだ ためゆき、1866年12月27日(… 西田 為之(爲之、にしだ ためゆき、1866年12月27日(慶応2年11月21日)- 1925年(大正14年)7月24日)は、明治から大正期の教育者、実業家、政治家。衆議院議員、大阪府三島郡玉櫛村長。 摂津国島下郡内瀬村(大阪府島下郡玉櫛村大字内瀬、三島郡玉櫛村大字内瀬を経て現茨木市)で、西田為三郎の息子として生まれる。1888年(明治21年)7月、大阪府師範学校を卒業した。 大阪市内の東区高等小学校の校長代(1893年)、首座教員(1894年)を務め、1895年(明治28年)10月から1906年(明治39年)まで船場尋常小学校で訓導・校長に在任した。 その後、帰郷して父の跡を継ぎ、玉櫛村会議員に選出された。
大喜多 寅之助(おおきた とらのすけ、慶応2年11月20日(… 大喜多 寅之助(おおきた とらのすけ、慶応2年11月20日(1866年12月26日) - 1961年(昭和36年)2月13日)は、名古屋市長。弁護士。 美濃国大垣出身。1866年に父・次助と母・幸の第6子(五男)として生まれる。大垣小学校、岐阜華陽学校大垣分校、大学予備門、第一高等中学校を経て、1888年(明治21年)に東京帝国大学法科大学に入学した。1892年(明治25年)に卒業した後は名古屋市で弁護士事務所を開業した。弁護士業務のかたわら、愛知法律学校を創設して校長に就任し、また『金城新報』の編集監督も務めた。1896年(明治29年)には名古屋弁護士会長に選出された。 名古屋市会議員、同参事会員、名古屋市会議長に選出され、1921年(大正10年)には名古屋市長に就任した。
宮崎 敬介(みやざき けいすけ、1866年12月23日〈慶應… 宮崎 敬介(みやざき けいすけ、1866年12月23日〈慶應2年11月17日〉 - 1928年〈昭和3年〉10月17日)は、明治末期から昭和初期にかけて活動した大阪の実業家。大阪堂島米穀取引所理事長、神戸商品取引所理事長、大阪電灯社長、大同電力副社長を歴任し、大阪土地建物や門司築港を創設するなど、関西実業界の重鎮として活躍した。旧姓は角中、別名は主一郎。 宮崎敬介は、慶應2年11月17日(1866年12月23日)、角中豊平の四男として生まれた。出身は熊本県天草郡・天草上島の島子村(有明町を経て現・天草市)。生まれは東京、または大阪ともされる。熊本県人・宮崎勇太郎の養子となり宮崎姓を称し、1895年(明治28年)に分家した。
九津見 雅雄(くつみ つねお、1866年12月22日(慶応2… 九津見 雅雄(くつみ つねお、1866年12月22日(慶応2年11月16日)- 1943年(昭和18年)7月25日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。 美作勝山藩(現・岡山県真庭市)出身。1889年(明治22年)4月、海軍兵学校(15期)を卒業し、少尉候補生として「金剛」(金剛型コルベット一番艦)に乗組む。1894年(明治27年)4月、「鳥海」航海士となり日清戦争に出征した。その後、佐世保水雷団水雷艇隊艇長、「吉野」航海長、駆逐艦「曙」艦長などを経て、日露戦争に出征。 日本海海戦では第1艦隊第1駆逐隊・駆逐艦「有明」艦長として参加。海軍大佐となり、1910年(明治43年)、「葛城」艦長に就任。
安藤 正楽(あんどう せいがく、1866年12月21日(慶応… 安藤 正楽(あんどう せいがく、1866年12月21日(慶応2年11月15日) - 1953年(昭和28年)7月24日)は、愛媛県議会議員、歴史学者、画家、俳人である。 伊予国(現在の愛媛県)宇摩郡小富士村出身。幼名岸蔵、通称鬼子太郎。寺小屋にて本田某に学び、1872年(明治5年)に小学校(方正校)に入る。小学校卒業後、尾崎星山、合田福太郎に学ぶ。1886年(明治19年)正楽と改名。1888年(明治21年)福沢諭吉の「学問のすすめ」に感動。1889年(明治22年)10月上京し、明治法律学校(現在の明治大学)に入学し、イタリア人パテルノストロ博士や岩谷孫蔵らから国際法を学ぶ。卒業後、1892年(明治25年)京都帝大教授になった岩谷に従い京都にてローマ法の翻訳に従う。
山之内 一次(やまのうち かずじ、1866年12月12日〈慶… 山之内 一次(やまのうち かずじ、1866年12月12日〈慶応2年11月6日〉- 1932年〈昭和7年〉12月21日)は、日本の内務・鉄道官僚、政治家。第1次山本内閣の内閣書記官長、第2次山本内閣の鉄道大臣、貴族院勅選議員。 後の鹿児島県鹿児島市上之園町出身。鹿児島藩士・山之内時習の長男として生まれる。錦城学校を経て旧制第一高等学校卒業。1890年(明治23年)7月、東京帝国大学卒業後、内務省に入省。1899年(明治32年)3月、警保局保安課長となる。 1901年(明治34年)4月、官選青森県知事に任命。1904年(明治37年)4月、逓信省鉄道局長。1907年(明治40年)1月、南満州鉄道株式会社監理官となり、同年4月には帝国鉄道庁副総裁を兼任。
守谷 吾平(もりや ごへい、1866年12月12日〈慶応2年… 守谷 吾平(もりや ごへい、1866年12月12日〈慶応2年11月6日〉 - 1929年〈昭和4年〉4月8日)は、明治から昭和初期にかけての日本の実業家。 専門商社・守谷商会の創業者。 備中国浅口郡本庄村(現在の岡山県浅口市)に、守谷金八の長男として生まれた。 幼少期から林李渓に学んだ。1885年に岡山県師範学校中等科を卒業し、県下の小学校(1886年からは尋常小学校)に勤務した。 その後上京して慶応義塾本科で学ぶ。慶應義塾への入学は、『慶応義塾入社帳 第4巻 入社帳24号-29号』(慶應義塾、1986年)によると1891年10月だった(同書p.174)。1892年に慶應義塾を卒業する。卒業後は三井組に入り、地所部から、芝浦製作所の工場事務、三井銀行の本店や支店に勤務した。
小久保 恵作(こくぼ けいさく、1866年12月11日(慶応… 小久保 恵作(こくぼ けいさく、1866年12月11日(慶応2年11月5日)- 1929年(昭和4年))は、埼玉県出身の医師である。 武蔵国秩父郡高篠村定峰出身。貧しい百姓の家に生まれ苦労したが、辛酸奮励の中で医学を修め医者となる。1887年(明治20年)医学開業試験に合格した後、軍医として、日清戦争や日露戦争に参戦する。 明治34年(1901年)より3年間ドイツ・プロイセン国ゲッティンゲン大学医学部へ留学し、「脳の腫瘍に関する症候」についての論文を記して医学博士号(ドクトル・メディチーネ)を取得して帰国する。ゲッティンゲン大学では、当時医学部長であったヴィルヘルム・エップシュタイン教授や特任講師であったビッケル講師、ルートゥビッヒ・アショフ教授(1903年からマールブルク大学教授となり、心臓のペースメーカーの生みの親といわれる田原淳博士と共に過ごした時期もあった)に師事。
乾 奈良吉(いぬい ならきち、1866年12月10日(慶応2… 乾 奈良吉(いぬい ならきち、1866年12月10日(慶応2年11月4日) - 1936年(昭和11年)8月15日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 大和国平群郡、のちの奈良県生駒郡平端村(昭和村、郡山町を経て現大和郡山市)出身。漢学を学ぶ。金糸巻機械を発明し、その製造に当たる。平端村長、生駒郡会議員、奈良県会議員、同参事会員となる。 1904年(明治37年)第9回衆議院議員総選挙において奈良県郡部から無名倶楽部公認で立候補してトップ当選した。衆議院議員を1期務め、1908年(明治41年)第10回衆議院議員総選挙は不出馬。1936年に死去した。
日比野 寛(ひびの ゆたか/ひろし/かん、1866年12月9… 日比野 寛(ひびの ゆたか/ひろし/かん、1866年12月9日(慶応2年11月3日) - 1950年(昭和25年)4月2日)は、日本の教育者、政治家。衆議院議員。旧姓は織田(おだ)。日本におけるマラソン指導の始祖とされている。 尾張国中島郡大里村(現:愛知県稲沢市日下部中町)に、織田文信の三男として生まれる。 愛知県中学校(旧制・愛知一中、現在の愛知県立旭丘高等学校)を経て第一高等学校に入学。同校2年生の時に健康診断で胃腸病を発見された。以後彼は、健康のため「歩き方・姿勢」に気を配るようになる。1895年(明治28年)帝国大学法科大学英法科卒業。農商務省に勤務した。 1898年(明治31年)、日比野家(日比野紋左衛門)の養子となる。
渡辺 又次郎(わたなべ またじろう、慶応2年11月3日(18… 渡辺 又次郎(わたなべ またじろう、慶応2年11月3日(1866年12月9日) - 昭和5年(1930年)11月22日)は、日本の教育者。位階勲等は従三位勲三等。 武蔵国川越藩出身。1893年(明治26年)、東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、1898年(明治31年)に同大学院を修了した。そのかたわら東京法学院(現在の中央大学)と哲学館(現在の東洋大学)で論理学・倫理学の講師を務め、1897年(明治30年)には帝国図書館司書長に任命された。翌年、第二高等学校教授となり、1900年(明治33年)に第五高等学校教授に転じ、教頭となった。1907年(明治30年)に辞して、翌年から東京市立日比谷図書館主事となり、さらに東京市主事に転じた。