井上 利八(いのうえ りはち、1866年12月9日(慶應2年… 井上 利八(いのうえ りはち、1866年12月9日(慶應2年11月3日) - 1935年(昭和10年)3月12日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 備後国沼隈郡水呑村(広島県沼隈郡水呑町を経て現福山市)出身。鉄道院技手、広島県会議員、同議長となる。鉄道工事請負業に従事、鞆軽便鉄道(株)専務取締役となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において広島4区から立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、次の1928年の第16回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。1935年死去。
土橋 八千太(つちはし やちた、慶応2年10月28日(186… 土橋 八千太(つちはし やちた、慶応2年10月28日(1866年12月4日)- 昭和40年(1965年)3月11日)はカトリック司祭・天文学者・漢学者。上智大学第3代学長。洗礼名はパウロ。弟は日本で初めて電気炉製鋼を実用化した土橋長兵衛である。1964年勲三等瑞宝章受章。 慶応2年、信濃国諏訪郡下桑原村(甲州街道上諏訪宿)生まれ。明治14年(1881年)、前年に長野県上諏訪村小和田(現諏訪市)の小学校を卒業したばかりの八千太は、諏訪を訪れたパリ外国宣教会の宣教師・ジュル・ラングレーの説教に感激し、明治15年(1882年)カトリックの洗礼を受ける。 上京後の明治19年(1886年)に上海に渡って神学校のヨハネ学院で学び、明治21年(1888年)9月7日にイエズス会に入会する。
伊藤 乙次郎(いとう おとじろう、1866年12月2日〈慶応… 伊藤 乙次郎(いとう おとじろう、1866年12月2日〈慶応2年10月26日〉 - 1941年〈昭和16年〉3月27日)は、日本の海軍軍人。海軍中将従三位勲一等功四級。海兵13期首席、海大将校科1期優等。 旧尾張藩士伊藤久敬の息子として生まれる。愛知一中、攻玉社を経て、1887年2月、海軍兵学校(13期生)を首席で卒業し、1888年4月に海軍少尉任官。日清戦争では「比叡」航海長として出征した。海軍大学校では、丙種で学び、1897年12月、将校科(1期)を優等で卒業し、さらに選科でも学んだ。 その後、海軍省軍事課課僚、軍務局第1課局員、常備艦隊副官兼参謀、「常磐」航海長、「須磨」副長、「笠置」副長、ドイツ駐在などを歴任。
山座 円次郎(やまざ えんじろう、慶応2年10月26日(18… 山座 円次郎(やまざ えんじろう、慶応2年10月26日(1866年12月2日) - 大正3年(1914年)5月28日)は、明治・大正期の日本の外交官。外務省政務局長、駐中国特命全権公使。
下野 直太郎(しもの なおたろう、1866年11月30日(慶… 下野 直太郎(しもの なおたろう、1866年11月30日(慶應2年10月24日) - 1939年(昭和14年)11月22日)は、日本の会計学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。 現在の岐阜県生まれ。岐阜県中学校(現岐阜県立岐阜高等学校)を経て、1888年高等商業学校(現一橋大学)卒業。数学や英語が得意で、同じ岐阜出身の各務鎌吉(のちに東京海上火災保険社長)と首席を争ったが、次席となった。 また在学中、文部省による高等商業学校と東京外国語学校の合併案の不当性を訴え、各務や、上野季三郎(のちに大膳頭)、水島銕也(のちに初代神戸高等商業学校校長)、立花寛蔵(のちに初代大倉高等商業学校校長)らと議論を交わした。
西村 丹治郎(にしむら たんじろう、慶應2年10月22日(1… 西村 丹治郎(にしむら たんじろう、慶應2年10月22日(1866年11月28日) - 昭和12年(1937年)12月20日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→革新倶楽部→立憲民政党)。 備中国下道郡秦村(現在の岡山県総社市)の板野家に生まれ、高梁町の西村鶴太郎の養子となった。1890年(明治23年)、東京専門学校(現在の早稲田大学)政治経済科を卒業した。卒業後は2年にわたって欧米に留学して、政治学・経済学を学び、帰国後は新聞記者の職に従事した。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、14回の当選を重ねた。その間、第2次若槻内閣で農林政務次官を務めた。
名取 忠愛(なとり ちゅうあい / ただよし、1866年11… 名取 忠愛(なとり ちゅうあい / ただよし、1866年11月25日(慶応2年10月19日)- 1948年(昭和23年)8月21日)は、明治後期から昭和前期の政治家・実業家・名望家・歌人。貴族院議員、甲府市長(官選第10・12代)。号は楓園。 甲斐国甲府山田町(現在の山梨県甲府市中央)に、豪商・父「忠文」、母「かく」の長男として生まれる。 1879年(明治12年)4月に山梨県立師範学校予科に入学。1881年(明治14年)3月に退校し明倫舎で漢籍を修業。1884年(明治17年)9月に徽典館師範科に入学。1887年(明治20年)3月に卒業し甲府小学校訓導となり1893年(明治26年)10月に退職する。
荒木 寅三郎(あらき とらさぶろう、慶応2年10月17日〈1… 荒木 寅三郎(あらき とらさぶろう、慶応2年10月17日〈1866年11月23日〉 - 1942年〈昭和17年〉1月28日)は、日本の医学者。京都帝国大学総長、学習院長や枢密顧問官を歴任した。号に鳳岡。 慶応2年(1866年)に上野国碓氷郡板鼻宿(現・群馬県安中市板鼻)に、儒医・荒木保爾の次男として生まれた。長子の夭折により戸籍上は長男として育つ。1873年(明治6年)板鼻学校(現・安中市立碓東小学校)が開校されると8歳から11歳まで学んだ。11歳の時に上京し萩原西畴の塾に学ぶ。1882年(明治15年)東京大学医科大学別課医学科に入学。1887年(明治20年)同課を卒業後、郷里で医師として開業した。
近藤 会次郎(こんどう かいじろう、1866年11月20日(… 近藤 会次郎(こんどう かいじろう、1866年11月20日(慶応2年10月14日) - 1920年(大正9年)7月5日)は日本の技術者、経営者。浅野石油技師長。次男はピアニストの近藤柏次郎。 浅野財閥の石油事業に携わり、米国の石油技術を日本に導入した人物である。 1866年11月20日(慶応2年10月14日)に岐阜県安八郡仁木村藻池新田(現:輪之内町藻池新田)で古くからの農家の家に生まれた。1880年(明治13年)4月8日に岐阜県で最高学府だった華陽農学校に入学し、1883年(明治16年)7月13日に卒業すると、そこで助教諭として務めたが、半年後に辞職した。上京して共立英学校で数ヶ月学んでから、予備門(旧制第一高等学校)の入学試験に合格し入学し、1889年(明治22年)7月に卒業した。
内田 嘉吉(うちだ かきち、1866年11月18日〈慶応2年… 内田 嘉吉(うちだ かきち、1866年11月18日〈慶応2年10月12日〉- 1933年〈昭和8年〉1月3日)は、日本の逓信官僚、政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。 逓信省管船局長、台湾総督府民政長官、逓信次官、台湾総督(第9代)、貴族院議員などをつとめた。 東京出身。内田正八の長男として生まれる。岡山中学、第一高等学校を経て、1891年(明治24年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年7月、司法官試補、翌月、逓信省試補となり逓信省に入る。逓信事務官、逓信書記官(兼務)、船舶司検所司検官兼逓信省参事官、逓信大臣秘書官、官房秘書課長、人事課長(兼務)、高等海員審判所所長などを歴任。
石原 久(いしはら ひさし、1866年11月18日(慶應2年… 石原 久(いしはら ひさし、1866年11月18日(慶應2年10月12日) - 1941年(昭和16年)6月19日)は明治〜昭和期の医学博士、口腔外科医・歯科医。東京帝国大学教授、医科大学における日本で最初の「歯科」教室の創始者。 石原久は1866年(慶應2年)に武蔵国川越藩典医筆頭の石原昌迪(いしはら まさみち)の次男として生まれた。東京帝国大学医学部歯科学講座教授、医術開業試験委員、日本口腔科学会の前身である日本歯科口腔科学会初代会長を歴任した。
上野 金太郎(うえの きんたろう、1866年11月15日〈慶… 上野 金太郎(うえの きんたろう、1866年11月15日〈慶応2年10月9日〉 - 1936年〈昭和11年〉6月4日)は、日本の薬学者、薬学博士、東京薬学専門学校理事兼校長、資産家、実業家。大日本麦酒顧問。族籍は東京府士族。 東京府士族・上野銈三郎の三男。小石川久堅町(現・東京都文京区)生まれ。1883年、家督を相続した。 第一高等中学校を経て1891年7月、帝国大学医科大学薬学科を卒業、薬学士の称号を得た。日本麦酒会社に入り技師となり1906年、技師長に進んだ。同社解散に伴い大日本麦酒目黒工場長に就任した。1908年、薬学博士の学位を取得。 1917年、取締役に挙げられ転じて1925年、監査役となる。
小田桐 政信(おだぎり まさのぶ、慶応2年10月5日〈186… 小田桐 政信(おだぎり まさのぶ、慶応2年10月5日〈1866年11月11日〉 - 1945年〈昭和20年〉5月)は、明治から昭和時代戦前の実業家、政治家。青森市会議長。 青森県士族の小田桐伊三郎の長男として生まれ、1897年(明治30年)家督を継ぐ。青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)を卒業し、1895年(明治28年)青森警察署に出仕する。 青森製材製柾社長、青森製氷・函館運送社・青森運送合同・運送相互保証各取締役、青森薪炭監査役などを歴任し、のち推挙され青森市参事会員となる。ほか、1941年(昭和16年)8月に青森県会議員に当選した。のち青森市会議長在任中に死去した。
藤井 健次郎(ふじい けんじろう、1866年11月11日〈慶… 藤井 健次郎(ふじい けんじろう、1866年11月11日〈慶応2年10月5日〉 - 1952年〈昭和27年〉1月11日)は、日本の植物学者、遺伝学者。理学博士、東京帝国大学名誉教授。文化勲章受章。 1866年、加賀国金沢で[要出典]、加賀藩士の家に生まれる。幼くして両親を亡くし、叔母に育てられる。 1892年(明治25年)、東京帝国大学理科大学生物学科卒業。卒業後、同大学助手、助教授として植物学教室で研究と学生の指導を継続。 藤井は中等教育教科書の編纂に注力する一方で、長らく学位論文を提出せず、学位は論文提出ではなく、総長推薦によって授与された。 1901年から帝政ドイツ、英国に留学、植物形態学、細胞学、化石学などを学び帰国。
木村 駿吉(きむら しゅんきち、1866年11月8日(慶応2… 木村 駿吉(きむら しゅんきち、1866年11月8日(慶応2年10月2日) - 1938年10月6日)は、明治から昭和期の物理学者、工学者、教育者。日本海軍の軍属(技師)、特許弁理士のほか、第一高等中学校(現・東京大学)教授、立教学校(現・立教大学)教頭、第二高等学校(現・東北大学)教授、海軍大学校教授を歴任。海軍技師として、日露戦争の勝利に貢献した三六式無線電信機を開発したことでも知られる。 幕臣・木村摂津守喜毅(木村芥舟)の三男として江戸(芝 新浅座、現在の港区浜松町1丁目あたり)で生まれた。父・芥舟は、江戸幕府の海軍伝習所取締として日本の海軍創設に関わり、日本への西洋の科学技術導入の黎明期で活躍し、軍艦奉行として咸臨丸を指揮し、日本人による初の太平洋往復の渡航を成功させた人物である。
鳥居 鍗次郎(とりい ていじろう、慶応3年9月28日(186… 鳥居 鍗次郎(とりい ていじろう、慶応3年9月28日(1866年11月5日) - 大正8年(1919年)5月25日)は、衆議院議員(立憲同志会→憲政会)、弁護士。 越後国岩船郡村上本町(現在の新潟県村上市)出身。1888年(明治21年)、英吉利法律学校(現在の中央大学)出身。ついで代言人試験に合格し、弁護士を開業した。1898年(明治31年)、大阪区裁判所検事に転じ、翌年には大阪地方裁判所検事を務めるも、1900年(明治33年)に辞職して、再び新潟市で弁護士業務に従事し、新潟市弁護士会長も務めた。 新潟県会議員、新潟市参事会員を経て、1915年の第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第2次大隈内閣で内務副参政官を務めた。
松井 茂(まつい しげる、1866年11月4日(慶応2年9月… 松井 茂(まつい しげる、1866年11月4日(慶応2年9月27日) - 1945年(昭和20年)9月9日)は、日本の内務官僚、政治家。法学博士。族籍は東京士族。 1866年11月(慶応2年9月)、広島県広島市猿楽町(のち広島市中区大手町)生まれ。有隣の長男。広島尋常中学(広島国泰寺高等学校の前身)で、柴野登一(中村是公)、玉井喜作らと同級。1880年父親の転勤で丸亀に移り、翌1881年上京。獨逸学協会学校(現・獨協中学校・高等学校)、東京大学予備門(第一高等学校)を経て1893年東京帝国大学法科大学独法科卒業、引き続き法科大学研究科で警察法を研究。 日清戦争直前の1893年内務省入省。警視庁四谷警察署長を振り出しに香川県警察部長、警保局警務課長、警視庁第二部長兼任内務書記官、兼任消防署長(のちの消防総監)などを経て1905年、警視庁第一部長となり日比谷焼打事件の鎮圧指揮にあたった。
御手洗 忠孝(みたらい ただたか、慶応2年9月27日(186… 御手洗 忠孝(みたらい ただたか、慶応2年9月27日(1866年11月4日) - 1940年(昭和15年)2月11日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。愛媛新報社長。県会議員。愛媛県松山市長、温泉郡道後湯之町町長。立憲同志会、憲政会の中心人物。 松山城下西町で松山藩士の家に生まれる。若くして医学を志し上京するが、病により帰郷し、1890年(明治23年)愛媛新報社に入り記者となり、不迷と号した。 1891年(明治24年)松山市会議員を経て、1896年(明治29年)松山市長・白川福儀の懇請により助役に就任し、1900年(明治33年)まで務めた。助役を退くと、愛媛新報社に戻り、主筆として言論活動を続ける。
屋部 憲通(やぶ けんつう、1866年10月31日(尚泰王1… 屋部 憲通(やぶ けんつう、1866年10月31日(尚泰王19年9月23日) - 1937年(昭和12年)8月27日)は、戦前活躍した沖縄県の唐手家で陸軍軍人。最終階級は陸軍中尉。松村宗棍に師事した首里手の大家で松茂良興作、糸洲安恒にも師事した。 1866年(尚泰19年、慶応2年)、屋部憲通は首里山川村(ヤマガー)(現・那覇市首里山川町)に生まれた。隣家が松村宗棍宅であり幼少の頃から松村に唐手を師事した。屋部は松村死去後は同門で兄弟子の糸洲安恒の門下となった。屋部は他にも本部朝勇、本部朝基とともに泊手の松茂良興作に師事し変手を磨いた。 1890年(明治23年)、屋部は沖縄県立第一中学校(現・沖縄県立首里高等学校)を中退して陸軍教導団に志願入団した。
野坂 吉五郎( 慶応2年9月21日(1866年10月29日)… 野坂 吉五郎( 慶応2年9月21日(1866年10月29日) - 没年不明)は日本の実業家、政治家。元中国興業銀行常務取締役。元中国貯蓄銀行取締役。元米子町会議員、郡会議員。自治功労者。地主。 元衆議院議員野坂茂三郎の弟。元米子市長野坂寛治の叔父。洋食のレストラン“十字屋”経営主で米子市会議員を務めた野坂康久の養父。米子市長野坂康夫は曾孫にあたる。 伯耆国米子法勝寺町(現鳥取県米子市法勝寺町)の商家に生まれた。屋号は油屋。野坂與八郎の五男。 明治14年(1881年)家督を相続す。 大正2年(1913年)9月、町会議員(一級)に当選。 大正4年(1915年)9月30日 - 大正8年(1919年)9月29日、郡会議員。
杉山 義雄(すぎやま よしお 1866年10月26日(慶応2… 杉山 義雄(すぎやま よしお 1866年10月26日(慶応2年9月18日) - 1933年(昭和8年)4月8日)は、日本の実業家。 1866年、遠江国(静岡県)に出生。 明治法律学校(現明治大学)を卒業。 1920-1932年の長期に亘り、秀英舎(大日本印刷)社長を務めた。 社外に於いては、東京商工会議所副会頭や、東京印刷同業組合組長などの他、日本耐火工業や日本エッチビー特許製版の取締役、東台銀行、武田割引銀行、日本開墾の監査役などを務めた。 また、昭和女子薬学専門学校(現昭和薬科大学)の設立に参画し、理事長に就任した。 1933年4月8日、死去。68歳。
太田 覚眠(おおた かくみん、1866年10月24日(慶応2… 太田 覚眠(おおた かくみん、1866年10月24日(慶応2年9月16日) - 1944年(昭和19年)11月30日)は、明治時代から昭和時代(戦前期)の僧。伊勢国(三重県四日市市)出身。東京外国語学校(現在の東京外国語大学)卒業。 浄土真宗本願寺派法泉寺(四日市市京町に建立)の16世僧侶。その生涯をロシアと蒙古(モンゴル)での布教活動に捧げた近代の傑僧である。 日露戦争前年の1903年(明治36年)、開教使としてロシアのウラジオストクの浦潮本願寺に駐在となる。開戦直前の1904年(明治37年)2月、渡航していた多くの日本人に日本政府からの引揚げ命令が出され、各地に赴任していた人がウラジオストクに集結した。
今井 今助(いまい いますけ、慶応2年9月15日〈1866年… 今井 今助(いまい いますけ、慶応2年9月15日〈1866年10月23日〉 - 1948年〈昭和23年〉2月18日)は、明治・大正時代の日本の政治家、実業家。群馬県利根郡川場村出身。衆議院議員(2期)、群馬県会議員(5期)、利根郡会議員、川場村長などを歴任した。 川場村川場湯原の今井悟兵衛の長男として生まれる。今井家は代々名主を務める家柄で、父悟兵衛は領主から帯刀御免・御用達頭取を仰せつけられていた。 今助は1892年(明治25年)に群馬県会議員に当選し、以後1896年(明治29年)、1907年(明治40年)、1911年(明治44年)、1915年(大正4年)の5回当選を果たし、17年間務めた。 1896年(明治29年)、1899年(明治32年)、1903年(明治36年)の3度利根郡会議員に当選。
清家 吉次郎(せいけ きちじろう、慶応2年9月14日(186… 清家 吉次郎(せいけ きちじろう、慶応2年9月14日(1866年10月22日) - 昭和9年(1934年)2月23日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、愛媛県吉田町長。 伊予国宇和郡喜佐方村(現在の愛媛県宇和島市)に、清家権四郎の二男として生まれる。1889年(明治22年)、愛媛師範学校を卒業し、喜多郡大洲尋常高等小学校に訓導として赴任し、やがて校長に昇進した。1900年(明治33年)、南宇和郡視学に任命され、伊予郡、西宇和郡、北宇和郡の視学を歴任した。 1911年(明治44年)に官を辞し、北宇和郡から県会議員に当選。1919年(大正8年)からは議長を務めた。 1918年(大正7年)、吉田町長に就任。
赤堀 又次郎(あかほり またじろう、1866年10月18日〈… 赤堀 又次郎(あかほり またじろう、1866年10月18日〈慶応2年9月10日〉 - 1945年〈昭和20年〉)は、日本の国学者、国語学者、書誌学者、図書館学者。 明治10年代初頭の東京大学文学部は、洋学尊重の時代的風潮に影響されて和漢文学を専攻する学生は乏しかった。これを憂えた小中村清矩の献策に基づいて、文学部に古典講習科が付設された。赤堀はここに入学し、修業年限3年の後に卒業した。本科に比してこの科に学ぶものが多く、落合直文らの実力を有する学者が輩出して、古典研究の発展に寄与するものが少なくなかった。 1888年(明治21年)創立の私立言語取調所(会長伊達宗城)で、のちに『国語学書目解題』として出版される書籍の編纂に、林 美、落合直澄、逸見仲三郎とともに着手したが出版に至らず、1890年(明治23年)10月9日に取調所の図書、器具、金員の帝国大学への寄付が願い出られて許されたときに、この初稿も含まれていた。
渡邊 正清(わたなべ まさきよ、慶応2年9月9日(1866年… 渡邊 正清(わたなべ まさきよ、慶応2年9月9日(1866年10月17日) – 昭和3年(1928年)9月3日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、検事、弁護士。 1866年、長門国阿武郡萩町(現在の山口県萩市)に出生。1895年、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。同年に判事検事登用試験に合格し、司法官試補を経て、宇都宮地方裁判所・大分地方裁判所・福岡地方裁判所・大阪地方裁判所の検事を務めた。徳島地方裁判所の次席検事に昇進したが、1906年に退官し徳島市で弁護士を開業した。徳島市会議員、徳島毎日新聞社監査役、日本化学工業株式会社取締役等を歴任。 1927年の衆議院補欠選挙に憲政会より立候補して当選し、憲政会と政友本党が合同して立憲民政党が成立すると、徳島支部顧問となった。
小熊 幸一郎(おぐま こういちろう、1866年10月15日 … 小熊 幸一郎(おぐま こういちろう、1866年10月15日 - 1952年7月4日)は、日本の実業家。北洋漁業の近代化と函館の経済発展に貢献し、「函館の恩人」と呼ばれた。 越後国(現・新潟市)生まれ。8歳で養父母の小熊幸吉・タマ夫妻に引き取られる。1879年4月小学校卒業、翌1880年12月まで代用教員。1881年東京で丁稚奉公、その後新潟で海運業に従事。 1887年函館に渡り、廻船問屋に勤務。1895年独立して仲買店を開業。樺太、カムチャツカ、沿海州で漁業を展開し、母船式サケ・マス漁業を推進。函館の港湾改修や冷蔵施設の充実に尽力。 1918年(大正7年)、柳田藤吉が1901年に建設した赤レンガ倉庫群(柳田倉庫、後の弁天倉庫株式会社)を買収。
棚橋 寅五郎(たなはし とらごろう、1866年10月12日(… 棚橋 寅五郎(たなはし とらごろう、1866年10月12日(慶応2年9月4日)- 1955年(昭和30年)12月11日)は、日本の化学者、実業家である。 新潟に生まれる。後に東京帝国大学(現在の東京大学)応用化学科に所属し、ヨウ素の研究に尽き、特に海藻から抽出された医薬品用のヨードを生産した、ヨウ化カリウムの製造方法の研究によって有名となった。なおこの化合物は後にマッチ製造の原料にもなった。その後も硝酸カリウムや塩化カリウム、クロム酸塩等の研究や開発に携わり、同化合物を用いた肥料も開発した。またこの頃に工学博士を取得している。 1893年(明治26年)に卒業後は多くの企業の設立に携わり、1908年(明治41年)には日本化学工業の設立に携わった。
鳳凰 馬五郎(ほうおう うまごろう、1866年10月11日(… 鳳凰 馬五郎(ほうおう うまごろう、1866年10月11日(慶応2年9月3日) - 1907年(明治40年)5月4日)は、下総国千葉郡久々田村(現在の千葉県習志野市津田沼)出身で宮城野部屋(一時錦戸部屋に移籍)に所属した大相撲力士。本名は三代川 寅之助(後に宮城野姓)。最高位は大関。5代目年寄・宮城野を襲名。身長179cm、体重117kg。 1886年5月場所初土俵。1891年1月場所鳳に改名、1892年1月場所鳳凰に改名、1892年6月新十両、1893年1月入幕。1894年1月「鳳凰 馬五郎」に改名。1895年6月場所6日目、横綱・初代西ノ海嘉治郎との対戦で、西ノ海の寄りを土俵際で回り込み、逆に寄り切って軍配を受けたが西ノ海の師匠で当時権勢を揮っていた高砂が物言いをつけ預かりとなる。
氏家 丈吉(うじいえ じょうきち、旧姓・富樫、前名・吉郎、1… 氏家 丈吉(うじいえ じょうきち、旧姓・富樫、前名・吉郎、1866年10月5日〈慶応2年8月27日〉 - 1942年〈昭和17年〉8月8日)は、日本の政治家、実業家、資産家、宮城県多額納税者、地主。族籍は宮城県平民。 山形県東置賜郡屋代村字竹森(現・高畠町)出身。富樫六右衛門の二男。山形県立山形中学校を卒業。1888年、先代・丈吉の養子となり、1906年、家督を相続し前名・吉郎を改め襲名し、2代目丈吉となる。家業を継いだ。 「加登丈」と称し、金融業を営んだ。角田電気鉄道、角田製氷会社等の重役であった。角田製氷社長、東北冷蔵製氷、大日本水道水管各取締役などをつとめた。 明治末より角田町会議員、1915年より郡会議員であった。
得能 文(とくのう ぶん、1866年10月5日(慶応2年8月… 得能 文(とくのう ぶん、1866年10月5日(慶応2年8月27日) - 1945年(昭和20年)2月8日)は、日本の哲学者。 越中国(現富山県)生まれ。1892年東京大学文科大学哲学科選科修了。第四高等学校、東洋大学、日本大学、東京帝国大学講師、東京高等師範学校教授。1927年定年。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
岩村 俊武(いわむら としたけ、1866年10月5日(慶応2… 岩村 俊武(いわむら としたけ、1866年10月5日(慶応2年8月27日) - 1943年(昭和18年)11月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。団次郎が幼名だが成人後も長らくこの名前で通した。一時教通と名乗り大正4年(1915年)に俊武と改名。 慶応2年(1866年)、土佐国幡多郡宿毛(現・高知県宿毛市)に岩村通俊の次男として生まれた。明治20年(1887年)7月、海軍兵学校(14期)を卒業。明治22年(1889年)9月、海軍少尉任官。日清戦争、日露戦争に出征。特に水雷戦術に長じていた。日露戦争では第3艦隊参謀として出征し、その職のまま旅順要塞を攻略する第3軍に連絡将校として派遣され(途中で第1艦隊参謀に異動)、旅順開城委員の海軍代表として名を連ねた。
堀 三太郎(ほり さんたろう、1866年10月2日(慶応2年… 堀 三太郎(ほり さんたろう、1866年10月2日(慶応2年8月24日)- 1958年(昭和33年)7月19日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・瓜生。筑豊の五大炭鉱主と称された。 筑前国鞍手郡、のちの福岡県鞍手郡直方町新町(現直方市)で、醤油醸造業・瓜生幾次の長男として生まれる。小学校の課程を修了すると私塾で漢文学、数学を修めた。1886年(明治19年)8月、先代亡堀甚四郎の養子となり死跡を相続した。 1889年(明治22年)小竹町の御徳炭鉱の経営を始め、付近の海軍鉱区の払下げを受け、当時、直鞍地区随一の炭鉱に発展した。さらに本洞(直方)、若瀬(中間)、平山(嘉穂)、中津川(田川)、篠栗(篠栗)の各炭鉱を買収し、堀鉱業を設立し代表取締役となる。
山田 宗有(やまだ そうゆう、本名:山田寅次郎、慶応2年8月… 山田 宗有(やまだ そうゆう、本名:山田寅次郎、慶応2年8月23日〈1866年10月1日〉 - 昭和32年〈1957年〉2月13日)は、実業家、茶人。 茶道宗徧流の第8世家元であるが、家元継承以前の山田 寅次郎(やまだとらじろう)の名で実業界でも活躍した。明治25年(1892年)にエルトゥールル号遭難事件の義捐金を届けにオスマン帝国(後のトルコ)に渡って以来、日本とトルコの交流に深く関わった人物としても知られる。 宗有(寅次郎)は、幕末の慶応2年(1866年)に沼田藩用人・中村雄左衛門(莞爾)の次男として沼田藩の江戸上屋敷で生まれた。中村家は曽祖父の代から家老職を務めていた。8歳まで沼田で生活し、明治維新後に上京した。
李家 隆介(りのいえ たかすけ、1866年9月30日(慶応2… 李家 隆介(りのいえ たかすけ、1866年9月30日(慶応2年8月22日)- 1933年(昭和8年)7月23日)は、日本の内務官僚、政治家。県知事、錦鶏間祗候、下関市長。 長州藩御典医・李家隆彦の長男として京都で生まれる。京都府中学校、神田共立学校、大学予備門、第一高等中学校を経て、1890年7月、帝国大学法科大学政治科を卒業。1891年4月、内閣試補となり、同年7月、内務省に転じ内務試補となった。 以後、大分県・富山県の各参事官、岡山県・神奈川県の各書記官などを歴任。 1902年12月、富山県知事に就任。以後、石川県知事、静岡県知事、長崎県知事を歴任。1917年3月、長崎県知事を辞任し退官。同年12月15日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。
長 晴登(ちょう はると、1866年9月30日(慶応2年8月… 長 晴登(ちょう はると、1866年9月30日(慶応2年8月22日) - 1916年(大正5年)8月25日)は、日本の政治家、衆議院議員(3期)。 山形県東置賜郡赤湯村(現在の南陽市)出身。1880年に米沢中学(興譲館)を卒業し上京。中村正直の同人社、ついで慶應義塾大学で学ぶ。 1886年に中学校と師範学校の教師免許を取得し郷里に帰るが、教員にはならず、高名な宗教家である北畠道龍に師事して宗教学を学び、師と共に各地に布教活動を行った。 1891年に重野謙次郎、戸狩権之助らと山形自由クラブを結成。1892年に東置賜郡会議員、ついで1895年に山形県議会議員となる。のち立憲政友会に参加。 実業界では、1894年に赤湯町に設立された金融会社の監査役に就任。
平山 松治(ひらやま まつじ、1866年9月28日(慶応2年… 平山 松治(ひらやま まつじ、1866年9月28日(慶応2年8月20日) - 1925年(大正14年)7月23日)は、日本の薬学者。正四位勲三等。薬学博士。大阪衛生試験所長。富山薬学専門学校校長。族籍は大阪府士族。 美濃国(現岐阜県)出身。平山耕雲の長男。1890年、帝国大学医科大学薬学科を卒業、薬学士の称号を得た。京都府医学校教諭、衛生試験所技師等を歴任。1904年、大阪衛生試験所長となる。大阪市東区石町に居住。 1913年5月、薬学博士の学位を授与される。1921年、富山薬学専門学校長となる。富山市鹿島町に居住。1925年7月23日死去。享年60。遺族宅は東京市駒沢町上馬(現世田谷区上馬)。
西本 健次郎(にしもと けんじろう、1866年9月26日(慶… 西本 健次郎(にしもと けんじろう、1866年9月26日(慶応2年8月18日)- 1950年(昭和25年)6月)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・松永。 尾張国海西郡松島中島村(岐阜県海西郡松島中島村、海津郡東江村、海津町を経て現海津市)で、尾張藩士、普請奉行・松永林三郎の息子として生まれる。廃藩置県後に一家離散し、1877年(明治10年)名古屋の呉服商に奉公したが、将来は家業であった土木業での成功を願っていた。 1885年(明治18年)和歌山県和歌山区(現和歌山市)の土木建築業・西本用助の元で働き、見込まれて1893年(明治26年)9月15日、西本家の入夫となり家督を相続した。
黒川 義太郎(くろかわ よしたろう、1866年9月24日(慶… 黒川 義太郎(くろかわ よしたろう、1866年9月24日(慶応2年8月16日) - 1935年(昭和10年)9月20日)は日本の獣医、動物園長。 1866年安房国北三原村(現・千葉県南房総市)生まれ、ただし「自然誌古典文庫創始号(近藤, 1988)」によれば、「慶応2年(1866)8.16江戸番町に生れる」となっている。1892年7月、帝国大学農科大学獣医学科乙科(実科)を卒業し、同年7月15日、帝室博物館天産部付属上野動物園に採用され、上野動物園最初の選任獣医師となる。1907年3月に石川千代松動物園監督のもとでキリンが導入され、動物園の年間入園者が初めて100万人を突破する大変な人気となるが、キリン購入の経緯が上層部に報告されていなかったらしく、この問題で初代動物園監督であった石川千代松は同年5月15日に上野動物園を辞任する。
木下 義之(きのした よしゆき、1866年9月24日〈慶応2… 木下 義之(きのした よしゆき、1866年9月24日〈慶応2年8月16日〉 - 1923年〈大正12年〉6月9日)は、日本の政治家、衆議院議員(鳥取市選出、当選1回)、地主。旧姓は足羽。族籍は鳥取県士族。 伯耆国日野郡二部村(のち鳥取県日野郡溝口町二部、現・伯耆町)出身。士族・足羽純亭の六男。1889年、木下家に養子入りする。鳥取市会議員、同議長、鳥取県会議員、同参事会員、鳥取県農工銀行取締役となる。 鳥取電燈創立の際に監査役となり、のちに取締役となる。 1908年の第10回衆議院議員総選挙において鳥取市選挙区から立憲政友会公認で立候補して当選した。1912年の第11回衆議院議員総選挙には出馬しなかった。
粕谷 義三(かすや ぎぞう、1866年9月23日〈慶応2年8… 粕谷 義三(かすや ぎぞう、1866年9月23日〈慶応2年8月15日〉- 1930年〈昭和5年〉5月4日)は、明治から昭和期の政治家。号は竹堂。旧姓・橋本。 武蔵国入間郡上藤沢村(現在の埼玉県入間市)の地主・橋本要作の長男として生まれる。1879年(明治12年)に上京して漢学と洋学を修め、一時川越にあった郡役所の書記となるが、1886年(明治19年)にアメリカに留学、サンフランシスコで一時邦字新聞社に務めた後、ミシガン大学に入学、1890年(明治23年)に法学士を得て帰国して、自由新聞の主筆となる。翌年2月、同じ入間郡豊岡町の粕谷圭助の養子となり、翌月兄佳太郞の跡を相続。 1892年(明治25年)に埼玉県会議員に当選して県会副議長を務め、1898年(明治31年)の第5回衆議院議員総選挙に埼玉県第2区から自由党候補として出馬して初当選、以後憲政党・立憲政友会に移りながら通算10回当選を果たした。
大見嵜 八之助(おおみさき はちのすけ、1866年9月23日… 大見嵜 八之助(おおみさき はちのすけ、1866年9月23日(慶応2年8月15日) - 1939年10月9日)は、現在の千葉県大網白里市四天木出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は原 夘三郎(旧姓斎藤)。6代阿武松。174cm、83kg。最高位は東前頭2枚目。紫雲竜吉之助の伯父。 1887年1月序ノ口、1893年1月十両昇進。十両を1場所で通過し、1894年1月入幕を果たした。この時の四股名は玉竜。以来1903年1月の引退まで三役には昇進できなかったが幕内上位をキープした。1899年5月新進の関脇梅ノ谷、1901年5月にも大関梅ノ谷に勝利。引退後は阿武松を襲名し独立。甥の紫雲竜などを育成。勝負検査役を長年務め、1939年年寄として73歳で没。
大和田 金之助(おおわだ きんのすけ、旧姓・大橋、1866年… 大和田 金之助(おおわだ きんのすけ、旧姓・大橋、1866年9月17日〈慶応2年8月9日〉 - 没年不明)は、日本の商人(雑貨商)、実業家。大和田銀行監査役。大和田貯蓄銀行取締役。族籍は福井県平民。 滋賀県東浅井郡大郷村字曽根(現・長浜市)出身。大橋嘉兵衛の二男。24歳の頃に大和田荘七の二女たかの入夫となり、1910年に分家して一家を創立した。大和田家は敦賀町(現・敦賀市)で船舶代弁、倉庫、貿易業を営んでいたため金之助も大和田家に入った当初これに携わっていたが、1892年10月より旭町に煙草小売業を開始した。 1905年4月に福井県煙草之売捌人13名と計り煙草元売捌組合を創立し組合長に推され、1906年10月に嶺南四郡煙草元売捌組合長となり1931年7月に煙草元売捌官営に至る迄煙草元売捌を経営し、傍ら洋品雑貨業を始めた。
君島 五郎(きみしま ごろう、前名・寅一郎、1866年9月1… 君島 五郎(きみしま ごろう、前名・寅一郎、1866年9月15日〈慶應2年8月7日〉 - 没年不明)は、日本の温泉旅館業者、会社役員、政治家。栃木県会議員。 栃木県塩谷郡塩原村(のち塩原町、現・那須塩原市)出身。先代君島五郎の長男。1876年、家督を相続し、前名・寅一郎を改め襲名する。祖業を継ぎ、温泉旅館を経営し、同時に同温泉の改良発展に尽瘁する。また塩原電車取締役である。住所は栃木県塩谷郡塩原町、那須郡西那須野町(現・那須塩原市)。 君島家は塩原温泉草分けの旧家で、代々「明賀屋」と称し、温泉宿業を営む。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
松浦 寅三郎(まつうら とらさぶろう、1866年9月12日(… 松浦 寅三郎(まつうら とらさぶろう、1866年9月12日(慶応2年8月4日) - 1947年(昭和22年)1月15日)は、日本の教育者。女子学習院第二代院長。 肥前国(現・長崎県)生まれ。士族松浦縮蔵の子。東京府尋常中学校、第一高等学校を経て、1895年(明治28年)東京帝國大學法科大学法律学科英法科を卒業。1896年(明治29年)5月愛知県尋常中学時習館(現・愛知県立時習館高等学校)校長、1899年(明治32年)7月山形県立荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)校長を歴任。 以後、山口高等商業学校教授、第五高等学校校長を経て、1918年(大正7年)5月に神宮皇學館館長に就任。翌年2月、皇太子傅育官長となる。
柴原 亀二(しばはら かめじ、慶応2年8月4日(1866年9… 柴原 亀二(しばはら かめじ、慶応2年8月4日(1866年9月12日) - 昭和10年(1935年)3月)は、明治から昭和にかけての官僚・翻訳家・弁護士。養父は龍野藩士で明治維新後千葉県令・貴族院議員などを務めた柴原和。号は楫川(いつせん)。 龍野藩士・森井栄の長男として播磨国龍野(現在の兵庫県たつの市)に生まれる。18歳の時、叔父の柴原和の養子となった。明治21年(1888年)に東京帝国大学法科を卒業、翌年からヨーロッパに留学してケンブリッジ大学を卒業し、イギリス・フランス・ドイツなどで法律学を学ぶ。留学中に明治24年(1891年)に帝国大学卒業者の資格によって法制局に試補される。明治28年(1895年)に帰国後、一旦弁護士を開業するが、翌年台湾総督府参事官となり、後に台南県鳳山支庁長に転じる。
井深 彦三郎(いぶか ひこさぶろう、慶応2年8月2日〈186… 井深 彦三郎(いぶか ひこさぶろう、慶応2年8月2日〈1866年9月10日〉- 大正5年〈1916年〉4月4日)は、日本の政治家、大陸浪人。明治時代の陸軍工作員であり、衆議院議員当選1回。旧会津藩士族の出身で、兄に松平容保の小姓から後に宣教師、明治学院総理となった井深梶之助、娘にハンセン氏病患者の救済に尽くした井深八重がいる。 会津九家井深家の分家の出身である。父は藩校・日新館の学頭(校長)でもあった井深宅右衛門、母は会津藩家老・西郷頼母近思の娘であり西郷頼母近悳の実妹に当たる八代子。三男の彦三郎は分家の井深守之進家で養子となる。従兄弟には山田重郎、佐瀬(一瀬)熊鉄、西郷四郎らがいる。彦三郎2歳の時に戊辰戦争が勃発、敗れた会津藩は斗南に移され、貧困の内に幼少期を過ごす。
五藤 正形(ごとう まさかた、1866年9月9日(慶応2年8… 五藤 正形(ごとう まさかた、1866年9月9日(慶応2年8月1日)- 1936年(昭和11年)12月17日)は、明治・大正期の政治家。貴族院多額納税者議員。土陽美術会高知支部長。土佐図書倶楽部(土佐史談会の前身)創設者。板垣伯銅像記念碑建設同志会監事。勲四等・士族。安芸五藤家10代目当主。 慶応2年8月1日(1866年9月9日)、土佐藩家老(5000石)・五藤正身(内蔵助)の長男として土佐国安芸郡土居村(現・安芸市)に生まれる。母・利喜子(福留錠之助長女)は正身の側室であったため、正形は高知城下ではなく、父の所領の土居(※土佐藩における幕府へ無届けの城)で育つ。 父の正室・加賀野井多賀子(桐間成卓(主鈴)女)に、子が生まれなかったことから、明治2年(1869年)3月、土佐藩家老(執政)の父の招きにより、生母・利喜子と共に高知城下へ移る。
香川 熊太郎(かがわ くまたろう、慶応2年7月30日(186… 香川 熊太郎(かがわ くまたろう、慶応2年7月30日(1866年9月8日) - 1945年(昭和20年)10月12日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。愛媛県松山市長。 愛媛県久米郡平井谷村今吉(現・松山市平井町)にて農家の長男として生まれる。温泉郡小野村会議員、小野村耕地整理組合長、温泉郡会議員などを経て、1910年(明治43年)伊予米穀取引所専務理事、1920年(大正9年)同取引所理事長に就任。 ついで、松山市瓦斯会社社長に就任。同社の再建に尽力し、映画館経営、織物業など幅広く事業を手掛ける。その後、松山奥丁会議所副会頭を経て、1925年(大正14年)成田栄信と岩崎一高ら政友会県支部幹部の対立で傾きかけた海南新聞の社長に就任し、紙面刷新に努めた。
石井 義太郎(いしい よしたろう / ぎたろう、1866年9… 石井 義太郎(いしい よしたろう / ぎたろう、1866年9月5日(慶応2年7月27日) - 1927年(昭和2年)2月16日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。 佐賀城下水ヶ江にて、士族石井忠方の子として生まれた。生家は佐賀藩主鍋島氏の藩祖以来の外戚家門で、祖父石井忠彬は、藩の重職にあった。 明治19年(1886年)12月、海軍兵学校(12期)を卒業。兵学校時代の同期生には、同じ佐賀県出身の江頭安太郎らがいた。1888年(明治21年)1月、海軍少尉に任官。 明治25年(1892年)12月、海軍大尉に昇進し「筑波」航海長に就任。以後、「千代田」「扶桑」「吉野」「金剛」の各航海長を歴任。明治31年(1898年)2月、海軍少佐に昇進した。