高谷 高一(たかたに こういち、1905年10月 - 196… 高谷 高一(たかたに こういち、1905年10月 - 1966年3月)は、日本の都市計画家。三重県副知事などを歴任した。 福井県に生まれる。旧制第四高等学校を経て、1932年東京帝国大学工学部土木工学科を卒業。東京市役所土木部下水課に奉職するが、その後は都市計画地方委員会技師になる。1933年、神奈川地方委員会。1937年、都市計画東京地方委員会。1940年、興亜院。1943年、都市計画兵庫地方委員会。1944年、防空総本部。1945年、戦災復興院計画局土木課。その後建設院計画局建設課長。1950年、経済安定本部兼務。1951年、建設省都市局都市建設課長。1952年、同省復興課長事務代理。1955年、三重県観光開発株式会社副社長。
依田 新(よだ あらた、1905年9月30日 - 1987年… 依田 新(よだ あらた、1905年9月30日 - 1987年5月11日)は、日本の心理学者。 東京市麻布生まれ。学習院教授依田豊の長男。第八高等学校卒業。1929年、東京帝国大学心理学科卒業。 東京文理科大学助手。1937年、東京高等師範学校講師。1938年、教授。1936年から児童学研究会に参加し、さらに教育科学研究会教育科学研究部会に参加。戦時下弾圧を受ける。1948年、東京文理科大学教授。1949年、校名変更で東京教育大学教授。 1951年、名古屋大学教授(1958年まで東京教育大学教授併任)。1954年まで名古屋大学教育学部学部長。 1956年、東京大学教育学部教授(1959年まで名古屋大学併任)。
大竹 太郎(おおたけ たろう、1905年(明治38年)9月2… 大竹 太郎(おおたけ たろう、1905年(明治38年)9月29日 - 1987年(昭和62年)12月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期、自由民主党)。弁護士。 新潟県中頸城郡頸城村(現・上越市頸城区)出身。1930年(昭和5年)東京帝国大学独法科卒。弁護士となり、陸軍主計大尉、頸城運送倉庫社長を経て、新潟県議となる。1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙で旧新潟4区から自由民主党公認で立候補して初当選する。第3次佐藤内閣法務政務次官、衆議院法務委員長を歴任する。1976年(昭和51年)の第34回衆議院議員総選挙で落選し、政界を引退した。1983年(昭和58年)春の叙勲で勲二等瑞宝章受章(勲五等からの昇叙)。
帆足 計(ほあし けい、1905年9月27日 - 1989年… 帆足 計(ほあし けい、1905年9月27日 - 1989年2月3日)は、日本の商工官僚、政治家。衆議院議員(7期)。参議院議員(1期)。 大分県日田市で生まれる。旧制第六高等学校、二度落第。1931年東京帝国大学経済学部卒。在学中は新人会で学生運動に身を投じた。 朝日新聞社出身のソ連スパイ尾崎秀実、風見章、勝間田清一、穂積七郎らと共に近衛文麿の最高政治幕僚組織「昭和研究会」に所属した。商工省の革新官僚であり、第二次世界大戦中に重要産業統制協議会事務局長就任、統制経済を推進し、大日本帝国の国民経済を自由主義的市場経済から全体主義的計画経済へ移行させる経済新体制の確立を画策した。 昭和研究会には帆足ら革新官僚と尾崎ら転向左翼ら所謂「国体の衣を着けたる共産主義者」(近衛上奏文)が結集しており、彼らはマルクス主義に依拠して戦争を利用する上からの国内革新政策の理論的裏付けを行い、国家総動員法の発動を推進し、近衛新体制生みの親として大政翼賛会創設の推進力となった。
千葉 七郎(ちば しちろう、1905年(明治38年)9月27… 千葉 七郎(ちば しちろう、1905年(明治38年)9月27日 - 1987年(昭和62年)12月9日)は、昭和期の農民運動家、政治家。衆議院議員。 岩手県東磐井郡千厩町(現一関市)出身。1920年(大正9年)千厩町立千厩尋常高等小学校高等科を卒業した。卒業後は地元で職業を転々とした後、上京し、大日本麦酒株式会社に就職。政治運動に関わるようになる。 その後、帰郷し、千厩町役場書記を務めた。1927年(昭和2年)労働農民党に入党し、農民運動に加わる。1932年(昭和7年)衆議院総選挙に関わったことを理由に町職員を免職される。免職後は東京日日新聞と河北新報の嘱託記者となる。1933年(昭和8年)千厩町会議員に選出され3期在任した。
岩村 忍(いわむら しのぶ、1905年9月26日 - 198… 岩村 忍(いわむら しのぶ、1905年9月26日 - 1988年6月1日)は、日本の東洋史学者。専攻は内陸ユーラシア史・東西交渉史。戦後日本におけるシルクロード学の開拓者として知られる。 1905年、北海道小樽市で生まれた。旧制小樽中学(現:北海道小樽潮陵高等学校)卒業後渡米し、オタワ大学社会学部で学んだ。1929年に卒業。 1931年、新聞連合社(のち同盟通信社を経て、現:共同通信社)に就職。一方でトロント大学大学院経済史専攻に進み、1932年に修了。満州事変後のリットン調査団に随行して中国各地を回り、国際連盟のジュネーヴ本部などに勤務した。戦時期には東方社の理事に就任したほか、1942年から1945年にかけて文部省民族研究所研究員として在外研究にあたった。
高林 敏巳(たかばやし としみ、1905年9月26日 - 1… 高林 敏巳(たかばやし としみ、1905年9月26日 - 1993年7月26日 )は、日本の経営者。三井金属鉱業社長を務めた。静岡県浜松市出身。 旧制静岡県立榛原中学校、旧制第八高等学校を経て、1928年に東京帝国大学工学部鉱山学科を卒業し、同年に三井鉱山に入社。1951年に三井金属鉱業に転じ、1952年に取締役に就任し、1956年に常務を経て、1958年11月に副社長に就任し、1964年5月には社長に昇格した。1970年4月に会長に就任し、1974年5月までに務めた。経済団体連合会、日本経営者団体連盟各常任理事も務めた。 1965年10月に藍綬褒章を受章し、1976年11月に勲一等瑞宝章を受章した。
松枝 茂夫(まつえだ しげお、1905年9月25日 - 19… 松枝 茂夫(まつえだ しげお、1905年9月25日 - 1995年9月23日)は、日本の中国文学者。東京都立大学 (1949-2011)名誉教授。 1905年、佐賀県西松浦郡有田町に生まれた。幼時から母方の姓である松枝を名乗った。東京帝国大学支那文学科で学び、竹内好、武田泰淳、増田渉、周作人らと親交を結んだ。1930年、東京帝国大学を卒業。 1939年、九州帝国大学専任講師に採用された。1941年、助教授に昇進。1940年から岩波文庫で『紅楼夢』の刊行を始めるが、3冊を刊行したところで戦争のため中止となった。 戦後の1947年、東京大学文学部助教授となったが、翌1948年の妻の病没に衝撃を受けて退職し、九州へ戻った。
小糸 のぶ(こいと のぶ、1905年9月24日 - 1995… 小糸 のぶ(こいと のぶ、1905年9月24日 - 1995年12月13日)は、日本の小説家。 静岡県富士郡吉原町(旧・吉原市)(現・富士市)生まれ。静岡女子師範学校卒。小学校教員を経て、1941年(昭和16年)内閣情報局の国民映画脚本募集に「母子草」が一席入選し、映画化される(田坂具隆監督)。戦後1949年(昭和24年)に「おもかげ」で直木賞候補。恋愛通俗小説を書いた。
稲嶺 一郎(いなみね いちろう、1905年9月23日 - 1… 稲嶺 一郎(いなみね いちろう、1905年9月23日 - 1989年6月19日)は、日本の政治家・実業家・軍人。沖縄県国頭郡本部村出身。元沖縄県知事稲嶺惠一の父。
足羽 則之(あしば のりゆき、1905年〈明治38年〉9月2… 足羽 則之(あしば のりゆき、1905年〈明治38年〉9月22日 - 1966年〈昭和41年〉2月2日)は、日本の鉄道官僚、運輸官僚、実業家。小田急百貨店副社長。 鳥取県鳥取市西町の鳥取士族で、衆議院議員(鳥取市選出)、鳥取市会議長、鳥取県会議員などをつとめた木下義之の三男。足羽家に入る。1926年に第三高等学校文科乙類卒業。1928年に高等試験行政科合格。1929年に東京帝国大学法学部法律学科卒業。 鉄道省に入り鉄道事務官兼企画院・外務省各書記官、運輸大臣官房人事課長を経て1946年に新潟鉄道局長となり1949年に運輸省鉄道監督局長に転じ、1952年4月に退官、私鉄経営者協会専務理事事務局長に就任、関東鉄道協会常任理事事務局長の後1956年5月に小田急取締役に挙げられ、1959年2月に常務に推される。
金珖燮(キム・グァンソプ、朝鮮語: 김광섭、1905年9月2… 金珖燮(キム・グァンソプ、朝鮮語: 김광섭、1905年9月22日 - 1977年5月23日)は、日本統治時代の朝鮮と大韓民国の詩人、翻訳家、評論家、独立運動家。本貫は全州金氏。号は怡山(イサン、이산)。 死後、氏の精神と文学を称えるために1989年、怡山文学賞が作られ文学と知性社主管で施行されている。 咸鏡北道鏡城生まれ。鏡城公立普通学校を経て、1920年鏡城中央高等普通学校から転入し1924年に中東学校を卒業。同年、早稲田大学英語英文学科に入学し、1928年修了。1927年に同窓会誌に詩『蚊帳』を発表し、創作活動と文壇での活動を始めた。その後、中東学校の英語の教師を務め、1933年に劇芸術研究会に参加し、徐恒錫、咸大勲、毛允淑、盧天命らと知り合った。
島野 武(しまの たけし、1905年(明治38年)9月20日… 島野 武(しまの たけし、1905年(明治38年)9月20日 - 1984年(昭和59年)11月6日)は、日本の政治家、弁護士。元・仙台市長。 島野翠・はる夫妻の子として福岡県福岡市荒戸町に生まれる。島野家は伊達政宗以来の仙台藩士の家柄で、家格は納戸奉行などを務める大番士であった。父翠は同じく大番士の小野家から島野家に養子に入った人物で、陸軍に入り陸軍大佐まで進み、退役後には仙台藩士会会長、仙台市会議員を務めていた。 1908年(明治41年)、父の退役に伴い仙台市に移る。1912年(明治45年)、宮城県立師範学校附属小学校(現在の宮城教育大学附属小学校)に入学し、1年から6年まで級長を務めた。1918年(大正7年)、旧制宮城県立第一中学校に一番で入学し、その後には父の薦めで陸軍幼年学校を受験したが、視力が足りずに身体検査で不合格となった。
杉本健吉(すぎもと けんきち、1905年9月20日 - 20… 杉本健吉(すぎもと けんきち、1905年9月20日 - 2004年2月10日)は、日本の洋画家、イラストレーター、グラフィックデザイナー。
大江 賢次(おおえ けんじ、1905年9月20日 - 198… 大江 賢次(おおえ けんじ、1905年9月20日 - 1987年2月1日)は日本の小説家。妻は児童文学作家のおおえひで。 鳥取県溝口町(現伯耆町)出身。小作農の貧しい家に生まれたが、溝口尋常高等小学校時代最後の担任であった池田亀鑑に教えを受けたことが、彼の人生と文学に大きな影響を与えた。 21歳の時、池田の引きで実業之日本社に入社。両親を失い故郷で1年間農業を営み23歳で再び上京、武者小路実篤の書生となった。出世作『シベリヤ』(1930年5月)で『改造』懸賞小説2等当選、全日本無産者芸術連盟(ナップ)に入った。『絶唱』(1958年)は、幾たびか映画化、テレビドラマ化された。 2006年、長男の大江希望が未発表作品を含めた直筆原稿や著作などの資料を米子市立図書館に寄贈した。
大平 善梧(おおひら ぜんご、1905年9月19日 - 19… 大平 善梧(おおひら ぜんご、1905年9月19日 - 1989年3月10日)は、日本の法学者。専門は国際法。学位は、法学博士(慶應義塾大学・論文博士・1960年)。一橋大学名誉教授、青山学院大学名誉教授。キリスト教徒であり青山学院大学学長も務めた。従三位勲二等瑞宝章。妻は宮城県会議長・南條秀夫の長女。 1905年、福島県会津若松市で生まれた。1923年3月、 会津中学校を卒業して小樽高等商業学校(現小樽商科大学)に入学。1926年3月に小樽高等商業学校を卒業し、東京商科大学(現一橋大学)に進んだ。1929年3月に同校を卒業。 卒業後は、1929年7月より母校である東京商科大学の補手に着任。1930年11月、高等試験司法科試験に合格。
高木 孝詮(たかぎ たかのり、1905年9月19日 - 19… 高木 孝詮(たかぎ たかのり、1905年9月19日 - 1981年9月22日)は、日本の法学者。専門は、刑法・法学概論。八幡大学学長。香川県出身。 讃岐の塩・砂糖・綿・糀を生産する豪農家の長男として生まれる。幼少の頃は糀屋の坊ちゃんと呼ばれていた。13才で香川県立丸亀中学校に入学しその後香川師範学校に入学、一旦琴平の小学校に勤務した。大正14年に岡山第六高等学校に進学し昭和3年に九州帝国大学法文学部に入学した。帝大では法制史の金田平一郎教授に師事した。その後大学院で研究生となるが、昭和13年に九大法文学部国文科に再入学し江戸時代の町人文学の研究に没頭した。卒論は「西鶴における町人の経済的側面からの研究」であった。
西山 敏夫(にしやま としお、1905年9月19日 - 20… 西山 敏夫(にしやま としお、1905年9月19日 - 2000年12月)は、日本の児童文学作家。 神奈川県生まれ。早稲田大学高等師範部卒。太平洋戦争中、「ホアンの花」(1943年)などを『少国民文化』に発表。戦後は『新児童文化』『朝の笛』などに短編童話を掲載するほか、海外古典・日本古典の再話を多く行った。1958年『よこはま物語』で小学館児童出版文化賞受賞、1979年児童文化功労者。 ほかイソップ、アラビアンナイト、ディズニーなど多数。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
菊川 君子(きくかわ きみこ、1905年(明治38年)9月1… 菊川 君子(きくかわ きみこ、1905年(明治38年)9月18日 - 1990年(平成2年)10月17日)は、日本の婦人運動家、政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・巽。 北海道亀田郡戸井村汐首(現函館市)で生まれる。1924年、函館大谷女学校を卒業した。 その後上京して、看護婦見習いなど多くの職業に従事し、社会運動に関わるようになった。全国婦人同盟、無産婦人同盟の結成に加わり、無産婦人同盟常任委員、同財務部長を務めた。1931年、中野区に中野組合病院の設立に尽力し、会計を担当した。 戦後、日本社会党の結党に加わる。1947年の衆院選に夫の菊川忠雄が旧東京4区から社会党公認で立候補し初当選した。君子は党の婦人部員として運動を推進し、婦人問題研究会常任理事、東京家庭裁判所調停委員を務めた。
大井 次三郎(おおい じさぶろう、1905年9月18日 - … 大井 次三郎(おおい じさぶろう、1905年9月18日 - 1977年2月22日)は、日本の植物学者。牧野富太郎と並んで、日本の植物分類学の基礎を築いた人物である。 カヤツリグサ科の植物を中心に分類を行い、多くの植物を命名した。またその植物分類に対する功績をたたえ、ツクシオオガヤツリ (Cyperus ohwii) など、大井に献名された植物もある。 命名者として学名に記載される際には Ohwi の綴りが用いられるが、大井自身は当初 Ohi と綴っていた。しかし「Ohi では呼び声の『オーイ』と同じになってしまうから」という小泉源一の提案があり、Ohwi と記載されることになった。 1905年、東京市深川区の木材商の家に生まれた。
神本 利男(かもと としお、1905年〈明治38年〉9月18… 神本 利男(かもと としお、1905年〈明治38年〉9月18日 - 1944年〈昭和19年〉9月30日)は、満州国の警察官、日本陸軍のスパイ。 北海道十勝国中川郡本別町仙美里出身。「ハリマオ」こと谷豊を説得し、諜報員として引き入れた人物である。 1905年(明治38年)9月18日、開拓農民・神本利七の次男として生まれる。利七自身は農家だったが、家系は鳥取で先祖代々戦国時代から続く武家の名家だった。 1911年、釧路国足寄郡足寄村の愛冠小学校に入学、三隅小学校高等科を卒業。1920年4月、島根県の祖父宅に渡り、浜田中学に入学。武道では柔道を選択し、背負い投げの神本と呼ばれる。 1926年3月、拓殖大学予科入学。
山根 寛作(やまね かんさく、1905年9月17日 - 19… 山根 寛作(やまね かんさく、1905年9月17日 - 1988年9月9日)は、日本の経営者。中国電力社長、会長を務めた。山口県出身。 1927年に神戸高等商業学校を卒業し、同年に山口電気局に入社し、1942年に中国配電(のちの中国電力)に転じた。1960年に取締役に就任し、1962年に常務、1967年に副社長を経て、1971年に社長に就任。1981年に会長に就任し、1985年には相談役に就任。社長在任時に島根原発1号機、2号機の建設を推進。日本経営者団体連盟常任理事、経済団体連合会常任理事、中国地方経済連合会会長、中国放送、広島ガス、西日本旅客鉄道などの取締役などを歴任。 1967年に藍綬褒章を受章。
有坂 愛彦(ありさか よしひこ、1905年(明治38年)9月… 有坂 愛彦(ありさか よしひこ、1905年(明治38年)9月17日 - 1986年(昭和61年)10月7日)は、音楽評論家。軍人・有坂鉊蔵の四男として生まれる。弟に有坂秀世。1930年東京帝国大学文学部美学美術史美学専攻卒。1946年(昭和21年)1月22日、第二次世界大戦後の混乱期に日本音楽連盟結成に参加し、理事長に就任した。 1970年代前半には、TBSテレビが制作放映していた日本レコード大賞の審査員を務めた。
浜本 正勝(はまもと まさかつ、明治38年(1905年)9月… 浜本 正勝(はまもと まさかつ、明治38年(1905年)9月16日 - 平成8年(1996年)11月)は、日本の陸軍軍人、実業家。ホセ・ラウレルフィリピン大統領特別顧問(閣僚待遇)、東條英機首相秘書官、山下奉文陸軍大将軍属通訳などを歴任。戦後は戦犯となってGHQから追われ、完全に表舞台から姿を消してその生涯を閉じた。 アメリカに最後まで抵抗したとして「ダグラス・マッカーサーが最後までその行方を探した男」といわれる。 北海道余市町にニシン漁を業とする家に生まれる。正勝の名は、日露戦争終戦後に「正義は必ず勝つ」という意味を込めて名付けたという。やがて父親がハワイ沖にまで漁業に出るようになり、同地に移住すると同時に正勝も同行してオアフ島で教育を受ける。
片岡 文重(かたおか ふみえ、1905年(明治38年)9月1… 片岡 文重(かたおか ふみえ、1905年(明治38年)9月15日 - 2004年(平成16年)9月6日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員。 千葉県山武郡土気本郷町(土気町本郷を経て現千葉市緑区土気町)出身。1929年(昭和4年)日本大学専門部法律科を卒業した。 1924年(大正13年)鉄道省に入省し大井工場(現東京総合車両センター)に配属された。戦後、労働運動に加わり、国鉄新小岩工場(現川崎車両所)労組委員長、国鉄労働組合東京地方評議会議長、同本部書記長、全交通役員、全官公労役員などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で千葉県地方区に日本社会党公認で出馬して次点で落選。
相島 敏夫(あいじま としお、1905年9月14日 - 19… 相島 敏夫(あいじま としお、1905年9月14日 - 1973年2月17日)は、科学ジャーナリスト、科学解説者。 東京都出身。1931年、東京帝国大学工学部冶金学科卒業。同年、朝日新聞社に入社し、1943年に日本出版会に転出するまで学芸部記者を務めた。 日本出版会雑誌第一課長、日本出版協会雑誌課長、事務局次長などを経て、1949年に法政大学出版局長。 のち、科学評論家・解説者としてラジオ・テレビなどで活躍。1966年、科学技術庁長官賞受賞。1968年、NHK放送文化賞を受賞。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
楠美 省吾(くすみ せいご、1905年〈明治38年〉9月13… 楠美 省吾(くすみ せいご、1905年〈明治38年〉9月13日 – 1980年〈昭和55年〉1月13日)は、日本の政治家、衆議院議員(3期)。 青森県北津軽郡七和村大字高野(現五所川原市)出身。1925年、旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一高等学校)卒。同年旧制弘前高等学校入学。1931年東北帝国大学法律科卒。翌年満洲国大同学院卒。卒業後は満洲国に勤務する。1942年の翼賛選挙では郷里の青森県から非推薦で立候補して当選した。戦後、公職追放となり、追放解除後の1952年の第25回衆議院議員総選挙で青森2区から改進党公認で立候補したが落選、翌年の第26回衆議院議員総選挙で当選した。石橋、第1次岸内閣で行政管理政務次官に就任した。
田中 忠雄(たなか ただお、1905年9月13日 - 199… 田中 忠雄(たなか ただお、1905年9月13日 - 1991年5月30日)は、日本の保守評論家。 佐賀県出身。旧制佐賀中学、旧制佐賀高校を経て、1929年京都帝国大学文学部哲学科卒業。西田幾多郎に師事。京都市立第一工業学校で英語教師をするが(同僚に下村寅太郎、北川桃雄)、1937年主催誌『リアル』が治安維持法違反の嫌疑をかけられ二年投獄。その間澤木興道に傾倒、禅思想を研究。1939年上京し上智大学でカトリック大辞典を編纂。 戦後、保守思想に共鳴して生長の家関連の出版社である日本教文社に入社、編集局長。谷口雅春に帰依し、生長の家政治連合会長として政界で活動。1955年公職を離れる。1974年に自由民主党から第10回参院選に出馬するも落選。
李 海翼(イ・ヘイク、朝鮮語: 이해익、1905年9月13日… 李 海翼(イ・ヘイク、朝鮮語: 이해익、1905年9月13日 - 1984年9月24日)は、日本統治時代の朝鮮・大韓民国の官僚、政治家、実業家。創氏名は和永 博光。京畿道知事や、大韓民国農林部長官を務めた。 本貫は全州李氏。漢城府の現在の西大門区出身。京城第一公立高等普通学校を経て、1930年松山高等学校理科甲類卒業。1933年文官高等試験行政科合格。1934年東北帝国大学法文学部法科卒業。 朝鮮総督府に入庁し、黄海道新渓郡守を経て、1937年黄海道黄州郡守。1939年黄海道農村振興課長。1941年江原道地方課長。1943年開城府尹。1945年米軍政期の京畿道内務部長。 1947年自由新聞社専務。
瀬戸 團治(せと だんじ、1905年9月13日 - 1991… 瀬戸 團治(せと だんじ、1905年9月13日 - 1991年7月1日)は、日本の彫刻家。 長野県上伊那郡朝日村(後の辰野町の一部)に生まれる。伊北農商学校(後の長野県辰野高等学校の前身)を卒業後、地元で酒屋へ奉公に出たが程なくして辞め、1924年に上京し、鶴田吾郎や中川紀元、曽宮一念の下で画家を目指したが、1929年に小学校教員となるため帰郷し、郷里の小学校の教員として11年間勤めた。 この頃から斎藤素巌の下で、彫刻にを学び、1936年から日展に出品を始め、毎年出品し続けた。1933年、構造社展で初入選し、第二次世界大戦後には1949年から1951年にかけて、日展で3回連続特選となり、後には日展の審査員、評議員などを歴任した。
島居 辰次郎(しますえ たつじろう、1905年9月12日 -… 島居 辰次郎(しますえ たつじろう、1905年9月12日 - 1997年10月4日)は、日本の逓信官僚。海上保安官、海上保安庁長官。広島県尾道市出身。 広島県立福山中学校(現福山誠之館高等学校)、第一高等学校を経て1930年、東京大学法学部卒業。1930年、逓信省入省。1938年12月8日、ダグラス14人乗りの航空機DC-2(台北福岡ルート、フライトは台北のフィールド(この台北松山空港)から早朝6時30分、離陸、福岡、九州で飛ぶ)、"富士"がクラッシュを生き延びた。北海道海運局、近畿海運局長などを経て1953年海上保安庁次長。1955年5月から1958年12月まで海上保安庁長官を務めた。退官後は特定船舶整備公団理事長、日本原子力船開発事業団理事長などを務めた。
大野 實雄(おおの じつお、1905年(明治38年)9月10… 大野 實雄(おおの じつお、1905年(明治38年)9月10日 - 1994年(平成6年)11月26日)は、日本の法学者・裁判官だった人物。商法学者。専門は商法全般。早稲田大学名誉教授。「大野実雄」とも表記された。 長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)生まれ。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)、第二早稲田高等学院を経て、1930年早稲田大学法学部仏法科卒業。司法官試補(東京地方裁判所)。1931年、東京地方裁判所判事に就任。1948年、東京地方裁判所退官。早稲田大学法学部教授。1951年、教務部長。1958年、早稲田大学図書館長。1964年、第一法学部長。1970年、比較法研究所長。1971年、日本公証法学会理事長。
武内 俊子(たけうち としこ、1905年9月10日 - 19… 武内 俊子(たけうち としこ、1905年9月10日 - 1945年4月7日)は、童謡詩人、童謡作詞家、童話作家。僧侶であり世界探険家の渡辺哲信は叔父にあたる。広島県福山市の勝願寺住職足利瑞義の姪。 1905年(明治38年)広島県三原市西町の浄念寺に生まれる。 1912年4月広島市に転居、学齢期の6歳から土手町(現在の南区比治山町)で育った。広島県立第一高等女学校(現在の広島皆実高校)を経て、広島女子専門学校(現在の県立広島大学)に進学したが中途で退学。 その後、結婚して東京の世田谷に居住。1929年(昭和4年)頃から、童謡や童話の創作を始める。女性の社会進出が困難を伴った昭和初期にあって、4人の子供の育児と両立させ創作に励んだ詩人だった。
中村 綗(なかむら けい、1905年〈明治38年〉9月10日… 中村 綗(なかむら けい、1905年〈明治38年〉9月10日 - 没年不詳)は、日本の都市計画家。建築行政家。建築家。建築行政と都市計画に広く関わった人物。日本国内の都市や建築の他、戦前期は台湾で活躍し、戦後は関西方面で活動する。京都市生まれ。 1928年(昭和3年)、京都帝国大学工学部建築学科卒業。同年に警視庁建築技師。1933年(昭和8年)から、都市計画地方委員会の技師として、愛知県に赴任。 1937年(昭和12年)から台湾に赴任。同地の都市計画令施行を受け、台湾総督府土木局都市計画技師に就任。2年前から台湾に赴任していた京都帝大の先輩である内務局土木系技師の早川透とともに、都市計画事業にまい進する。
柘植 秀臣(つげ ひでおみ、1905年9月10日 - 198… 柘植 秀臣(つげ ひでおみ、1905年9月10日 - 1983年5月4日)は、日本の大脳生理学者。 東京府(現・東京都)出身。1929年東北帝国大学理学部生物学科卒。1937-38年新城新蔵が所長を務めていた上海自然科学研究所に嘱託として招かれ、以後中国問題に関心を持つようになり、38年、友人である尾崎秀実の勧めにより、設立されたばかりの国策研究機関・東亜研究所(東研)に入所した。第二次世界大戦開始後にはジャワに派遣され、軍政監部の下で行われた占領地調査の中心となった。戦後は民主主義科学者協会(民科)の幹事を務めた。また、ソヴエト条件反射選書の翻訳刊行に携わった。 1938年、東北大学理学博士。
福田 蓼汀(ふくだ りょうてい、1905年(明治38年)9月… 福田 蓼汀(ふくだ りょうてい、1905年(明治38年)9月10日 - 1988年(昭和63年)1月18日)は、日本の俳人、登山家。本名は福田幹雄(みきお)。 山口県萩町(現在の萩市)生まれ。父は陸軍中将の福田彦助、母は「ホトトギス」の俳人であった福田無声女。 東北帝国大学法文学部法科在学中に学友の勧めで高浜虚子門に入る。山口青邨の「夏草」にも所属し、1940年には「ホトトギス」同人。虚子が指導する「九羊会」の一員となり、川端茅舎、松本たかし、中村草田男らと交流を深める。1948年、「山火」を創刊・主宰。1958年、橋本鶏二の「年輪」、野見山朱鳥の「菜殻火」、波多野爽波の「青」と共同で四誌連合会を結成し、その世話役を務めた。
福井 英一郎(ふくい えいいちろう、1905年9月9日 - … 福井 英一郎(ふくい えいいちろう、1905年9月9日 - 2000年11月3日)は、日本の気候学者・自然地理学者。東京教育大学名誉教授。門下から多数の気候学者を輩出した「日本の気候学の父」。 1905年、福岡県福岡市に生まれ育った。旧制福岡高等学校を経て、東京帝国大学理学部地理学科で学んだ。1928年に卒業。 卒業後は、日本大学、立正大学、東京府立第一中学校(東京都立日比谷高等学校の前身)などで教鞭を執った。1930年4月、東京文理科大学の助手に採用。1933年、学位論文『日本気候論』を東京帝国大学に提出して理学博士の学位を取得。 1939年1月、大日本帝国陸軍気象部嘱託を兼ねるようになり、同年4月には東京文理科大学専任講師に昇任した。
ヘンリー大川(、1905年〈明治38年〉9月9日 - 197… ヘンリー大川(、1905年〈明治38年〉9月9日 - 1971年〈昭和46年〉5月27日)は、日本の俳優。埼玉県草加市出身。本名・旧芸名は大川 平八郎()。娘婿に俳優の小松英三郎がいる。 1905年、草加宿開拓者のひとりである大川図書の子孫、大川家13代頭首である大川十三代の三男として産まれる。 草加尋常小学校を卒業後、郁文館中学5年進級の際に「操行丙」で落第してしまったため[要出典]、アメリカで実業家になるために1923年に渡米。ペンパル・クラブで知り合ったフロリダ大学の教授を頼って行ったゲインズヴィルで1年過ごす。翌年アトランタへ移り住んで中華料理店で1年5ヶ月間働いた後、さらにニューヨークへ移ってクラブの皿洗いのアルバイトを始める。
生田 宏一(いくた こういち、1905年(明治38年)9月8… 生田 宏一(いくた こういち、1905年(明治38年)9月8日 - 1982年(昭和57年)9月15日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。 徳島県名西郡石井村石井で生田和平の息子として生まれる。徳島県立徳島中学校を卒業。 1935年(昭和10年)、徳島県会議員に当選。父の後継として1953年(昭和28年)、第26回衆議院議員総選挙に徳島県全県区から立候補し初当選。以来、1963年(昭和38年)まで4期を務める。 1958年(昭和33年)に第2次岸内閣で労働政務次官、1962年(昭和37年)に第2次池田第2次改造内閣で防衛政務次官を歴任した。 1975年(昭和50年)11月の秋の叙勲で勲八等から勲二等に叙され、瑞宝章を受章する。
小山 久二郎(おやま ひさじろう、1905年9月7日 - 1… 小山 久二郎(おやま ひさじろう、1905年9月7日 - 1984年1月12日)は、日本の出版人、実業家。出版社・小山書店の設立者で、安倍能成の甥。チャタレー事件の被告となったことでも知られる。 愛媛県松山市生まれ、温泉郡南吉井村(現東温市)出身。法政大学中退。岩波書店を経て、1933年に小山書店を設立する。1941年に下村湖人『次郎物語』がベストセラーとなる。 戦後、三木清『読書と人生』、出隆『哲学以前』などを出版し、1950年に発行した伊藤整訳『チャタレイ夫人の恋人』がわいせつ文書として告発される(チャタレー事件)。1957年、最高裁判決で有罪とされ罰金刑を受ける。のち、赤ちゃんとママ社を設立する。
国塩 耕一郎(國塩、くにしお こういちろう、1905年(明治… 国塩 耕一郎(國塩、くにしお こういちろう、1905年(明治38年)9月6日 - 1986年(昭和61年)6月7日)は、昭和期の内務・警察官僚、実業家。最後の官選茨城県知事、日本音楽著作権協会理事長。位階は正五位。 岡山県赤磐郡(後の山陽町、現在の赤磐市)で、国塩達太の長男として生まれる。静岡県立静岡中学校、第一高等学校を卒業。1928年(昭和3年)10月、高等試験行政科試験に合格。1929年(昭和4年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し広島県属となる。 以後、地方警視・愛知県警察部保安課長を経て、1935年(昭和10年)8月、警視庁警視・保安課長に就任。警官音楽隊(警視庁音楽隊)を創設した。
竹内 喜三郎(たけうち きさぶろう、1905年9月4日 - … 竹内 喜三郎(たけうち きさぶろう、1905年9月4日 - 1989年3月7日)は、昭和時代の研究者、経営者。大阪府大阪市出身。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
尾澤 金一(おざわ きんいち、1905年〈明治38年〉9月4… 尾澤 金一(おざわ きんいち、1905年〈明治38年〉9月4日 - 1987年〈昭和62年〉8月16日)は、日本の実業家。姓の「澤」は「沢」の旧字体であるため、尾沢 金一(おざわ きんいち)とも表記される。 日東肥料株式会社監査役、片倉製糸紡績株式会社監査役、尾澤組合名会社代表社員などを歴任した。 昭和年間に製糸業にて成功した実業家である。日本で有数の大規模な製糸業を展開し、「諏訪の六大製糸家」の一人と謳われた尾澤福太郞の嫡孫にあたる。福太郞から家督を継承し、家業の発展に力を尽くした。福太郞の率いる製糸会社である尾澤組と片倉製糸紡績との合併にともない、片倉財閥の幹部として興隆に力を振るった。日東肥料や片倉製糸紡績にて監査役を務めるなど、多くの企業で要職を歴任した。
小竹 武夫(おだけ たけお、1905年9月3日 - 1982… 小竹 武夫(おだけ たけお、1905年9月3日 - 1982年5月2日)は、日本の中国文学者。石川県金沢市生まれ。京城帝国大学卒。兄の小竹文夫とともに『史記』を現代語訳し、ついで単独で『漢書』を全訳、1978年中日文化賞、1980年読売文学賞を受賞した。金沢美術工芸大学教授などを務めた。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
天児 民和(あまこ たみかず、1905年8月31日 - 19… 天児 民和(あまこ たみかず、1905年8月31日 - 1995年4月6日)は、日本の整形外科医。九州大学名誉教授。 先祖は「滝根」と称していたが、明治三年の氏姓制度で「天児」姓を名乗る。「天児」は「あまがつ」と読み、『源氏物語』若菜にもみえる、災難を除くため祓に用いられた子供の人形のこと。しかし「あまがつ」と正確に読んでくれる人がいないため、呼びやすく「あまこ」にしたと伝え聞いている、という。 神戸市出身。1926年九州帝国大学医学部入学、1930年卒業、1931年同整形外科教室入局、神中正一教授に師事。1936年ドイツ留学(ライプッチヒ大学整形外科学教室)、同年開催のベルリンオリンピックの嘱託医師などを務め、1936年医学博士、九州大学助教授、軍医をへて、1945年新潟医科大学教授、1949年新潟大学医学部付属病院長。
茜ケ久保 重光(茜ヶ久保、あかねがくぼ しげみつ、1905年… 茜ケ久保 重光(茜ヶ久保、あかねがくぼ しげみつ、1905年〈明治38年〉8月31日 - 1993年〈平成5年〉3月5日)は、日本の政治家。日本社会党で衆議院議員(3期)、参議院議員(2期)を務めた。 宮崎県宮崎郡木花村(現・宮崎市)に、農家の次男として生まれる。1937年(昭和12年)早稲田大学政経科卒。在学中から反戦・労働・農民運動に参加。卒業後は群馬県水上町にあった阿能川鉱山に入り、所長となる。1940年(昭和15年)群馬県鉱業会理事長、1943年(昭和18年)全国鉱業会連合会理事長。 1945年(昭和20年)の日本社会党結党に参加。1948年(昭和23年)日本社会党群馬県連書記長、1950年(昭和25年)日本社会党本部中央委員。
沼田 嘉穂(ぬまた よしほ、1905年8月30日 - 198… 沼田 嘉穂(ぬまた よしほ、1905年8月30日 - 1989年5月23日)は、日本の会計学者。会計学、特に簿記学の研究・教育への啓蒙についても精力的に活動、著作も多い。横浜国立大学教授・駒澤大学教授を歴任。 明治38年、文京区本郷弓町にて出生。幼少時小石川小日向台町に移り、大正2年黒田小学校に入学。3年父の奉職先の大手町会計検査院官舎に移り、日比谷小学校(現麹町小学校)に転学、7年卒業。同年一ツ橋高等小学校に入学。8年錦城中学校に入学。12年夏に関東大震災により家屋壊滅。小石川林町に移転。13年錦城中学校卒業。同年東京商科大学(現一橋大学)専門部に入学、昭和2年同校卒業、就職に失敗し、同年本科に進学。
梶浦 善次(かじうら ぜんじ、1905年8月30日 - 19… 梶浦 善次(かじうら ぜんじ、1905年8月30日 - 1993年8月4日)は、日本の哲学者・教育者。専門は教育哲学・ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルに関する研究。北海道における学校経営者。 北海道留萌市出身。1925年札幌師範学校卒業。卒業後、北海道小樽市の小学校訓導として奉職するも、1926年に東京高等師範学校文科第三部に入学。1930年同学校卒業、北海道庁立札幌第一中学校(後の北海道札幌南高等学校)英語教諭。1938年北海道庁立小樽中学校(後の北海道小樽潮陵高等学校)英語教諭に転任。1942年東京文理科大学哲学科に入学、1944年同大学卒業。同年9月、北海道第一師範学校講師、同年12月教授。
橋本 聖準(はしもと しょうじゅん、1905年(明治38年)… 橋本 聖準(はしもと しょうじゅん、1905年(明治38年)8月30日 - 1994年6月24日)は華厳宗の僧侶。203世華厳宗管長、東大寺別当。 奈良市出身。写真家の入江泰吉とは幼なじみ。龍谷大学卒。龍藏院住職、執事長、大仏殿主任などを経て管長となる。修二会の声明の名手として知られた。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
村社 講平(むらこそ こうへい、1905年8月29日 - 1… 村社 講平(むらこそ こうへい、1905年8月29日 - 1998年7月8日)は、日本の陸上競技選手、指導者、毎日新聞記者。ベルリン五輪代表。 宮崎県宮崎市出身。小柄ながらも力強い走法で選手として活躍、引退後も毎日マラソンの設立や後進の育成など陸上界の発展に尽力した。 旧制宮崎中学校テニス部時代にロードレース大会で優勝したことをきっかけに長距離走を本格的に始めた。 1925年(大正14年)中学卒業後、都城歩兵第23連隊に入隊。1927年(昭和2年)に除隊し宮崎県立図書館に勤務。仕事のかたわら陸上競技を続けているうちに素質を認められ、1932年、27歳のときに中央大学法学部法律学科に進学。 中央大学在学中の1936年ベルリンオリンピックに日本代表として出場。