藤田 武夫(ふじだ たけお、1905年2月27日 - 198… 藤田 武夫(ふじだ たけお、1905年2月27日 - 1988年10月6日)は、昭和期の経済学者、立教大学名誉教授。専門は財政学。財政学研究の第一人者として、地方財政論を開拓した権威。 1905年(明治38年)、京都府宮津市に生まれる。1930(昭和5年)九州帝国大学(現・九州大学)経済学部卒業。1934年(昭和9年)京都大学大学院修了。 立命館大学講師、財団法人東京市政調査会(現・後藤・安田記念東京都市研究所)調査課長、明治大学講師、中央大学講師を務めたのち、1946年(昭和21年)、立教大学教授に就任。 1952年(昭和27年)、立教大学経済学部経済学科長に就任。1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)まで経済学部長を務め、大学施設の増築にともない大学院読書室の開設を実現し、経営学科(現・経営学部)関連のスタッフの充実に尽力した。
師岡 栄一(榮一、もろおか えいいち、1905年〈明治38年… 師岡 栄一(榮一、もろおか えいいち、1905年〈明治38年〉2月26日 - 1991年〈平成3年〉2月28日)は、日本の実業家、無産運動家、政治家。衆議院議員。 埼玉県入間郡飯能町(現飯能市)で生まれる。1926年(大正15年)、明治大学専門部法律科を卒業。武州産業代表取締役に就任し、木工業大栄商会を設立した。 大学卒業後、無産運動に加わり、日本労農党中央委員、全国農労大衆党中央執行委員、社会大衆党西多摩支部長を務めた。 戦後の1945年(昭和20年)に日本社会党に入り、1948年(昭和23年)、同埼玉連合会長に就任。1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で埼玉県第2区から出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。
安藤 輝三(あんどう てるぞう、1905年(明治38年)2月… 安藤 輝三(あんどう てるぞう、1905年(明治38年)2月25日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は歩兵大尉。二・二六事件に関与した皇道派の人物で、軍法会議で首謀者の一人とされ死刑となる。 1905年(明治38年)2月25日、岐阜県揖斐郡揖斐町が本籍、父・栄次郎が石川県立金沢第二中学校の英語教師を在職中(1903年4月 - 1907年8月)に金沢市で三男として生まれる。父はその後慶応普通部の英語教師となる。輝三は宇都宮中学校、仙台陸軍幼年学校、陸士予科を経て、1926年(大正15年)7月に陸軍士官学校38期を207番/340名で卒業する。同期に二・二六事件の首魁のひとり磯部浅一(元近衛歩兵第4聯隊附、元一等主計)がいた。
鈴樹 忠信(すずき ただのぶ、1905年〈明治38年〉2月2… 鈴樹 忠信(すずき ただのぶ、1905年〈明治38年〉2月25日 - 没年不明)は、昭和時代の台湾総督府官僚。弁護士。台東庁長。 栃木県宇都宮市に生まれる。1928年(昭和3年)3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、在学中に高等試験行政科に合格する。同年8月、台湾総督府営林所勤務を拝命し、1931年(昭和6年)5月、台北州淡水郡守に任じた。ついで新竹州警務課長、台北州警務課長、同教育課長、高雄州地方課長、知事官房文書課長兼務、興亜院廈門連絡部在勤、米穀局総務課長を経て、台東庁長に就任した。 戦後、弁護士となり、熊谷、墨田、渋谷、久喜各簡易裁判所判事を経て、1975年(昭和50年)定年退官した。
筑波 藤麿(つくば ふじまろ、1905年〈明治38年〉2月2… 筑波 藤麿(つくば ふじまろ、1905年〈明治38年〉2月25日 - 1978年〈昭和53年〉3月20日)は、日本の元皇族。旧華族。山階宮菊麿王第3王子。靖国神社第五代宮司。位階勲等は従三位勲一等侯爵。皇族時代の名と身位は藤麿王。 1905年(明治38年)2月25日午後10時15分、山階宮菊麿王の第3王子として誕生。御七夜の3月3日に「藤麿」と命名された。 1925年(大正14年)2月25日、皇族として貴族院議員に就任。同年3月23日勲一等旭日桐花大綬章受章。 皇族男子として初めて皇族軍人としての義務を免除され、東京帝国大学国史学科で黒板勝美に師事する。義務を免除された理由は、明治天皇により、将来、伊勢の神宮の祭主となることが定められていたためとされる。
萬田 五郎(まんだ ごろう、1905年(明治38年)2月25… 萬田 五郎(まんだ ごろう、1905年(明治38年)2月25日 - 1994年(平成6年)5月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)、日立市長(3期)。 秋田県出身。1929年東京帝国大学英法科卒。日立製作所に入り、日立工場に勤務する。同工場労務係長、庶務課長を経て1943年総務部長に就任する。この間1939年に日立市議に選出された。1947年4月の第23回衆議院議員総選挙に日本社会党から立候補して当選する。衆議院議員を1期務めた後、日立電鉄専務取締役を経て、社長に就任した。1963年日立市長に就任、3期務め、1975年に引退した。1994年死去。死去後日立名誉市民に選ばれた。
白根 孝之(しらね たかゆき、1905年2月24日 - 19… 白根 孝之(しらね たかゆき、1905年2月24日 - 1981年11月10日)は、元軍人、マスコミ学者。 旧制山口高等学校を経て、九州帝国大学文学部哲学科卒。師範学校で教育学を教え、1937年応召、陸軍中尉として1941年『戦陣訓』を草す。戦後は日本教育テレビ(現・テレビ朝日)の創設期に調査部長、のち東京造形大学教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
丹羽 廉芳(にわ れんぽう、1905年(明治38年)2月23… 丹羽 廉芳(にわ れんぽう、1905年(明治38年)2月23日 - 1993年(平成5年)9月7日)は日本の僧。曹洞宗大本山永平寺第77世貫首。曹洞宗管長。道号法諱「瑞岳廉芳」、慈光圓海禅師。
生方 たつゑ(うぶかた たつえ、1905年〈明治38年〉2月… 生方 たつゑ(うぶかた たつえ、1905年〈明治38年〉2月23日 - 2000年〈平成12年〉1月18日)は、日本の歌人。沼田市名誉市民。日本歌人クラブ初代会長、日本ペンクラブ会員、日本文芸家協会会員、現代歌人協会理事。戦後の女流歌人の第一人者と称される。旧姓・間宮。 三重県宇治山田町宮後(現・伊勢市)生まれ。父・間宮斎一、母・きよの四女。出生時は7ヶ月の未熟児だった。宇治山田高等女学校(現・三重県立宇治山田高等学校)を経て、1926年(大正15年)に日本女子大学家政科卒業。帝国大学哲学科聴講生となる。同年10月、横山有策の媒酌により生方誠と結婚。群馬県沼田市で薬局「かどふぢ(角藤)」を経営する生方家に入る。
増谷 慶一郎(ますたに けいいちろう、明治38年(1905年… 増谷 慶一郎(ますたに けいいちろう、明治38年(1905年)2月23日 - 昭和45年(1970年)12月13日)は日本の実業家、政治家。境港商工会議所第2代会頭。元増谷薬局代表取締役。元境町会議員。三代目当主。本名は正巳。 鳥取県境港市出身。実家は薬種商。 米子中学校(現米子東高校)、金沢医科大学付属薬学専門部(現在の金沢大学薬学部)卒業。 大正14年(1925年)から大阪で自家製剤を修行して帰郷し、家業の薬種商・増谷薬店“杏花堂”を手伝う。昭和22年(1947年)境町の町会議員を務める一方、境港商工会議所初代会頭松本豊の後を受けて2代目会頭に就任する。 昭和25年(1950年)境町だけでなく米子駅前にも出店し、実弟・芳郎とともに有限会社増谷薬局を設立するなど、会社を大きく発展させた。
上山 雅輔(かみやま がすけ、本名:上山 正祐(うえやま ま… 上山 雅輔(かみやま がすけ、本名:上山 正祐(うえやま まさすけ)、1905年(明治38年)2月23日 - 1989年(平成元年)4月11日)は、日本の劇作家・小説家。姉は童謡詩人の金子みすゞ。
日高 輝(ひだか てる、1905年(明治38年)2月22日 … 日高 輝(ひだか てる、1905年(明治38年)2月22日 - 1987年(昭和62年)9月25日)は昭和期の日本の経営者。日本興業銀行常務、日産化学工業社長、山一證券社長・会長、国際電信電話会長を務めた。義父は元住友総理事・大蔵大臣の小倉正恒。
木村 義雄(きむら よしお、1905年(明治38年)2月21… 木村 義雄(きむら よしお、1905年(明治38年)2月21日 - 1986年(昭和61年)11月17日)は、将棋棋士。十四世名人。棋士番号は2。東京府東京市本所区本所表町(現:東京都墨田区)出身。日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人。 最初の実力制による名人、かつ最初の永世名人である。 江戸っ子である下駄屋の職人の子として育ち、幼い頃から囲碁と将棋が強く、大人にも負けなかったという。父は弁護士か外交官になることを望んでいたが、知人の説得に負けて義雄に囲碁の道場に通うことを許した。しかし生家の職業上糊として使うことから白米を常食としていた義雄は、囲碁の師匠の家である日出された麦飯を二口と食べられなかった。
牧野 周一(まきの しゅういち、1905年2月21日 - 1… 牧野 周一(まきの しゅういち、1905年2月21日 - 1975年5月3日、本名:宇野主一)は、日本の映画説明者、漫談家。東京演芸協会第2代会長。
北村 義男(きたむら よしお、1905年(明治38年)2月2… 北村 義男(きたむら よしお、1905年(明治38年)2月21日 - 1979年(昭和54年)12月1日)は、日本の医学者。石川県七尾市出身。第四高等学校(現:金沢大学)、東京帝国大学(現:東京大学)医学部卒業。 1930年(昭和5年)に東京帝国大学医学部卒業後、1930年(昭和11年)に医学博士号を取得。1936年(昭和28年)に徳島大学教授となる。1954年(昭和29年)から1956年(昭和31年)までは同大学医学部付属病院(現:徳島大学病院)の院長も兼任していた。その後は医学部長を経て1970年(昭和45年)に同大学学長に就任。 1977年(昭和52年)に四国女子大学(現:四国大学)学長に就任したが、1979年(昭和54年)に満74歳で逝去。
光村 甚助(みつむら じんすけ、1905年(明治38年)2月… 光村 甚助(みつむら じんすけ、1905年(明治38年)2月20日 - 1992年(平成4年)3月23日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(2期)。 鹿児島県肝属郡牛根村、後の垂水市牛根境に生まれる。貧農の塩屋家の8人兄弟の五男。小学校卒業後、母校の小間使いとして働く。1919年(大正8年)鉄道員の求人に応募し、福岡県の折尾駅に勤務。1年半後に鉄道員を辞め、大阪の紡績会社で給仕として働きながら夜学に通う。その後、上京して新聞配達をしながら神田の予備校に通ったが、関東大震災被災のため大阪へ戻って、ガラス会社の職工となり、1925年(大正14年)関西大学専門部別科入学。さらに京阪商業学校(後の大阪府立守口高等学校、現大阪府立芦間高等学校)を経て、1931年(昭和6年)関西大学専門部法科を卒業した。
本庄 陸男(ほんじょう むつお、1905年2月20日-193… 本庄 陸男(ほんじょう むつお、1905年2月20日-1939年7月23日)は、日本の小説家である。北海道石狩郡当別町出身。 北海道に移住した元佐賀藩士・本庄一興の六男として生まれる。家業は農業と雑貨商で、8歳のときに渚滑村(現紋別市)に移住。同地の尋常高等小学校卒業後、代用教員を務める。兄を頼って樺太で1年生活した後、上京して青山師範学校(現東京学芸大学)に編入する。小学校の教師として、東京の名門、誠之小学校に勤務していたが、新興教育運動に参加し、下町の学校を希望して、東京府深川区にある明治第二尋常小学校に転任する。そこでの経験はのちに「白い壁」という作品として結実した。 その後、1930年3月に東京教員消費組合の事件で検束されたことを理由として退職勧告を受ける。
米倉 壽仁(よねくら ひさひと、1905年(明治38年)2月… 米倉 壽仁(よねくら ひさひと、1905年(明治38年)2月19日 - 1994年(平成6年)3月18日)は、日本のシュルレアリスムの洋画家、詩人。 山梨県甲府市にて甲陽館米倉旅館を営む両親のもとに、次男として生まれる。 1922年、山梨県立甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)を卒業。1923年、名古屋高等商業学校(現名古屋大学)経済学部に入学し、後に日本にシュルレアリスムの紹介をおこなう詩人、山中散生と親交を結ぶ。1926年、名古屋高等商業学校を卒業する。 1928年、伯母が経営する伊藤学園甲府女子商業学校および甲府湯田高等女学校(現甲斐清和高等学校)の教諭となる。1930年、甲府市において辻葦夫、中村宗久、小柳津経広、田中常太郎、小宮山堅次とともに六人社を結成し、第1回展を開く。
平岡 倭文重(ひらおか しずえ、1905年(明治38年)2月… 平岡 倭文重(ひらおか しずえ、1905年(明治38年)2月18日 - 1987年(昭和62年)10月21日)は、作家・三島由紀夫(本名:平岡公威)の母。漢学者・橋健三の次女。加賀藩の漢学者・橋健堂の孫。少年時代の三島由紀夫の文学的才能を発見し、その成長を励ました。 1905年(明治38年)2月18日(土曜日)、倭文重は東京の小石川区指ヶ谷町92番地(現・東京都文京区白山)で、父・橋健三と母・トミの間に次女として生まれた。橋家は、代々金沢藩主・前田家に仕えていた儒者の家系であった。父・橋健三は漢学者で、東京開成中学校の5代目校長を務めた。倭文重の上には、健行、雪子、正男、健男、行蔵、の兄と姉、下には、妹・重子がいる。
初田 佐一郎(はつだ さいちろう、1905年2月18日 - … 初田 佐一郎(はつだ さいちろう、1905年2月18日 - 2001年3月18日)は、日本の実業家。滋賀県出身。 滋賀県立膳所中学校(現膳所高等学校)を経て、和歌山高等商業学校(現和歌山大学)卒業後、鉄道省に入省。太平洋戦争中は陸軍司政官としてフィリピンに派遣された。その後、京阪バス株式会社常務取締役、株式会社京阪交通社社長、株式会社日本レンタカー京阪社長等を務める。財団法人大阪陸運協会常任理事、財団法人大阪陸運協会会長を歴任後、財団法人大阪陸運協会顧問、京阪電鉄客員等を歴任した。著書には「生き残った者」洛陽社(1947年)等がある。
高橋 道男(たかはし みちお、1905年〈明治38年〉2月1… 高橋 道男(たかはし みちお、1905年〈明治38年〉2月18日 - 1969年〈昭和44年〉8月7日)は、昭和期の宗教家、政治家。参議院議員(1期)。 熊本県熊本市で高橋卯治郎の長男として生まれる。1928年(昭和3年)3月、京都帝国大学文学部文学科(独文学専攻)を卒業した。 1928年、天理外国語学校講師に就任。以後、天理図書館(現天理大学附属天理図書館)建築現場事務担当、天理教海外伝道部課長、天理図書館主任、天理教東京出張所長、同総務長、日本宗教連盟理事、天理教教会本部役員、天理教責任役員、天理大学理事兼評議員、(株)天御津組監査役、共立出版(株)監査役などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に全国区から緑風会公認で出馬して当選し、参議院議員に1期在任した。
川田 寿(かわだ ひさし、1905年(明治38年)2月18日… 川田 寿(かわだ ひさし、1905年(明治38年)2月18日 - 1979年(昭和54年)7月5日)は、日本の経済学者。元慶應義塾大学、大阪学院大学教授。 茨城県稲敷郡朝日村(現・土浦市および阿見町に分離)で生まれる。慶應義塾大学に進学し、社会科学研究会に加入するとともに、学生社会科学連合会再建運動に加わる(後者は野呂栄太郎の影響による)。しかし、1930年(昭和5年)に検挙され、大学は3年で中退した。 アメリカ合衆国に渡り、ペンシルベニア大学大学院でニューディール下の労働運動研究に従事する。アメリカでは反戦運動にも加わった。 1941年(昭和16年)に帰国して、世界経済調査会主事となる。 1942年(昭和17年)9月11日、神奈川県警察部特高課に「アメリカ共産党の指令を持ち帰った」という容疑により妻とともに検挙される。
宮崎 直勝(みやざき なおかつ、1905年(明治38年)2月… 宮崎 直勝(みやざき なおかつ、1905年(明治38年)2月18日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚。陸軍司政官。 佐賀県小城郡小城町(現小城市)に生まれる。1917年(大正6年)5月に渡台し、小中学を経て1927年(昭和2年)3月、早稲田大学付属早稲田第二高等学院を卒業し、1933年(昭和8年)10月、高等試験行政科に合格した。同月、鉄道部監督課勤務となり、台湾総督府交通局書記を拝命する。1937年(昭和12年)9月、台中州彰化市助役に就任し、1938年(昭和13年)8月、新竹州中壢郡守に転じた。のち地方警視、台北州警務部保安課長、交通局参事、鉄道部経理課長を経て、1942年(昭和17年)8月、陸軍司政官に任じた。
藤田 貞次 (ふじた ていじ、1905年2月17日 – 19… 藤田 貞次 (ふじた ていじ、1905年2月17日 – 1976年11月8日)は、日本のジャーナリスト。 東京書籍取締役、東京教育研究所理事。 明治38年(1905年)福井県遠敷郡雲浜村(現・小浜市)西山手で出生。小浜市立雲浜小学校、旧制小浜中学校、第四高等学校文科を経て、京都大学文学部哲学科、同大学院卒業。 昭和7年 – 朝日新聞社(大阪)入社、学芸部員、昭和22年から23年3月まで図書編集部次長。 昭和24年 – 東京書籍株式会社取締役、編集部長。 昭和28年 – 東京教育研究所理事、専務理事。昭和39年12月 – 東京書籍株式会社退任。
田辺 友太郎(たなべ ともたろう、1905年(明治40年)2… 田辺 友太郎(たなべ ともたろう、1905年(明治40年)2月17日 - 1970年(昭和45年)3月3日)は、日本の経営者、銀行家。北陸銀行頭取を務めた。 富山県出身。1929年(昭和4年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。電力会社を興し、商工会議所会頭を務めた田辺貫一と、西田牧三の三女の和子の次男として生まれる。1935年7月、祖父甚三郎や父が務めた十二銀行取締役に就任し、1957年3月には北陸銀行頭取に就任。1946年5月から1957年3月までに東洋精機社長を務めた。妻は密田良太郎の次女の節子。 1970年3月3日、尿毒症のために死去。65歳没。墓所は富山の光厳寺にある。
瀬崎 三木三(せざき みきぞう、旧姓:渡辺 三木三、1905… 瀬崎 三木三(せざき みきぞう、旧姓:渡辺 三木三、1905年(明治38年)2月15日 - 1975年(昭和50年) )は日本の実業家である。日産化学総務部長を経て日本証券代行(現:三井住友信託銀行)取締役。岡山県井原市出身。 1905年(明治38年)岡山県後月郡県主村(現:井原市)の渡辺家に生れる。1919年(大正8年)地元に近い旧制岡山県立高梁中学校(現:岡山県立高梁高等学校)に進み、同期に芥川賞作家の石川達三、日本教育テレビ(現:テレビ朝日)編成局次長になる金澤覚太郎、日本電気化学社長になる日野西義輝、倉敷紡績取締役になる翁孝文がいた。1924年(大正13年)卒業後、早稲田大学高等予科(商科)を経て、1926年(大正15年)早稲田大学商学部へ入学した。
浅野 清(あさの きよし、1905年2月15日 - 1991… 浅野 清(あさの きよし、1905年2月15日 - 1991年8月19日)は、愛知県名古屋市出身の建築学者・建築史家。工学博士(京都大学)。元奈良学芸大学・大阪市立大学・大阪工業大学・愛知工業大学教授。 古建築の復原研究の第一人者であり、建築遺跡発掘調査を伴う「建物復原調査法」の開発、「古代建築技法」の解明など、日本建築史学における偉大な業績を残した。また、社寺の建築や民家研究でも貢献した。 1926年名古屋高等工業学校(現:名古屋工業大学)建築科を卒業。1934年法隆寺国宝保存工事事務所技手、後に所長となり、法隆寺建築物の復元、修理に尽力する。1952年工学博士(京都大学)。同年、奈良学芸大学助教授および奈良国立文化財研究所研究員を併任。
宮崎 章 (みやざき あきら、1905年2月15日 - 19… 宮崎 章 (みやざき あきら、1905年2月15日 - 1988年8月9日)は、昭和時代の日本の外交官。 愛知県出身。東京帝国大学法学部卒業。1929年外交官試験および高等試験行政科に合格、同年12月外務省入省。英国、米国、中国などの勤務を経て、1943年満州国大使館1等書記官兼新京総領事となる。占領期には終戦連絡名古屋事務局長、終戦連絡東海北陸事務局長を務める。1951年10月政務局情報部長を経て12月に新設の情報文化局長に就任。1952年7月より駐米大使館参事官、54年1月より中華民国(台湾)大使館特命全権公使を歴任後、57年3月国際協力局長に就任。同局が翌58年5月に国際連合局に改編されるに伴い同局長となる。
黄 斗淵(ファン・ドゥヨン、朝鮮語: 황두연/黃斗淵、190… 黄 斗淵(ファン・ドゥヨン、朝鮮語: 황두연/黃斗淵、1905年2月15日 - 1984年5月24日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、教育者、牧師、政治家。順天邑副邑長、制憲韓国国会議員を歴任した。 本貫は昌原黄氏。同じく1948年の初代総選挙に出馬した牧師・過渡立法議員の黄保翼は兄で、元国会議員・全羅南道知事の黄聖秀は甥である。キリスト教徒。日本名は黄原斗淵。 順天郡出身。全羅南道麗水郡南面金鰲島(朝鮮語版)出身の昌原黄氏の5兄弟の1人である。全州新興中学校を経て、日本大学専門部法科3年中退または卒業、日本聖経学校卒。中央神学校での研究を経て、高興永泉学校教員・校長、順天美信会病院・安力山病院庶務課長を務めた。
秋山 日出夫(あきやま ひでお、1905年(明治38年)2月… 秋山 日出夫(あきやま ひでお、1905年(明治38年)2月14日 - 1976年(昭和51年)3月20日)は、昭和時代の合唱指揮者。戸籍上の本名は秋山 秀雄(読み同じ)。 東京本所北割下水にて生まれる。東京府立工芸学校(現・東京都立工芸高等学校)精密機械科卒業。アマチュア合唱団運動に加わり、1925年(大正14年)男声合唱団東京リーダーターフェル・フェライン(現・男声合唱団東京リーダーターフェル1925)の設立に参加する。戦時中は軍隊や職場慰問で活動し、戦後は職場合唱団の指導に従事する。 主に官庁の合唱団を指導し、1948年(昭和23年)の第1回全日本合唱コンクール全国大会職場部門に運輸省合唱団を指揮して出場、優勝を果たす。
岡 良一(おか りょういち、1905年(明治38年)2月14… 岡 良一(おか りょういち、1905年(明治38年)2月14日 - 1994年(平成6年)5月16日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)、金沢市長(第24-25代)。医学博士。 石川県金沢市出身。金沢市長として革新市政を貫いた人物である。 学生時代での文芸活動中に社会主義に出会い、1927年に労働農民党に入党。これが岡の革新市政の原点となる。1937年に社会大衆党に入党し、第2次世界大戦後は日本社会党を経る。 1975年には秋の叙勲で勲二等旭日重光章を受け、1987年には金沢市名誉市民として表彰を受けている。
桑田 猛(くわた たけし、1905年2月14日 - 2000… 桑田 猛(くわた たけし、1905年2月14日 - 2000年8月18日)は、日本の経営者、理学博士。協和醗酵工業(現在の協和キリン)社長を務めた。 京都府京都市出身。1931年に京都帝国大学理学部化学科を卒業し、協和化学研究所主任を経て、1949年7月に協和醗酵工業に入社し、常務にも就任。1956年に専務を経て、1962年8月に副社長に就任し、1969年8月には社長に昇格。1972年7月に取締役相談役に就任し、1978年3月に相談役に就任。 2000年8月18日気管支肺炎のために死去。95歳没。
檜原 敏郎(ひわら としろう、1905年(明治38年)2月1… 檜原 敏郎(ひわら としろう、1905年(明治38年)2月14日 - 1984年(昭和59年)1月10日)は、日本の経営者。近畿日本鉄道元副社長。近鉄百貨店元社長。三交不動産元取締役。伊勢志摩国立公園開発元監査役。関西経営者協会元副会長。位階は従四位。 兵庫県美嚢郡奥吉川村(現:三木市吉川町)出身。大阪府八尾市在籍。 1930年(昭和5年)京都帝国大学経済学部を卒業し、1932年(昭和7年)大阪電気軌道(現:近畿日本鉄道)に入社。1951年(昭和26年)取締役、同年12月常務に就任。1959年(昭和34年)6月専務を経て、1968年(昭和43年)5月副社長に就任した。 百貨店事業の担当になっていたため、1972年(昭和47年)4月に近畿日本鉄道から近鉄百貨店が分離・独立した際、社長に就任した。
小林 定義(こばやし さだよし、1905年(明治38年)2月… 小林 定義(こばやし さだよし、1905年(明治38年)2月14日 - 1997年(平成9年)5月23日)は、 日本のフィールドホッケー選手、ホッケー指導者。 明治大学を卒業した。 1932年、日本のフィールドホッケーチームのメンバーとして1932年ロサンゼルスオリンピックに出場し、銀メダルを獲得した。バックとして2試合に出場した。また、1964年東京オリンピック日本選手団ホッケー監督を務めた。 明治大学ホッケー部監督を務めるとともに、全国を巡って高等学校にホッケー部を設けて指導を行うなど、ホッケー界の振興に尽力した。 浅川増幸 | 猪原淳三 | 宇佐美敏夫 | 小西健一 | 小林定義 | 今治彦 | 酒井義雄 | 柴田勝見 | 左右田秋雄 | 永田寛 | 中村英一 | 浜田駿吉 | 三浦四郎 | 監督: 広瀬藤四郎 岩橋邦雄 | 岡部道夫 | 加奥成雄 | 木原征治 | 高島昭男 | 滝沢健治 | 武田守洋 | 田中博司 | 橋本征治 | 松本紀彦 | 三輪宏 | 山岡敏彦 | 山口順一 | 勇崎勝弘 | 勇崎恒也 | 吉村実 | 若林徹也 | 渡辺寛 | 監督: 小林定義 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。
米田 三星(よねだ さんせい、1905年2月12日 - 20… 米田 三星(よねだ さんせい、1905年2月12日 - 2000年1月23日)は日本の小説家、医師。本名は庄三郎。 1905年2月12日、奈良県吉野郡下市町生まれる。 1932年(昭和7年)、大阪帝国大学医学部卒業。1937年(昭和12年)、日華事変により応召、野戦病院付き軍医として華北、華中を転々し、翌年帰国。1945年(昭和20年)、奈良県立医学専門学校(現奈良県立医科大学)創設により、同校教授となり、1948年(昭和23年)、退職して診療所を開業する。 1931年(昭和6年)、投稿した『生きてゐる皮膚』が『新青年』に採用され、同年に他二編、翌年に一編を『新青年』に発表。他に『サンデー毎日』や『大阪時事新報』などにも作品を執筆していた。
田辺 茂一(たなべ もいち、本名の読みは「しげいち」、190… 田辺 茂一(たなべ もいち、本名の読みは「しげいち」、1905年2月12日 - 1981年12月11日)は、日本の出版事業家、文化人。紀伊國屋書店創業者。東京府(現:東京都新宿区)出身。 当時の東京市・新宿にて、紀州備長炭を商う「紀伊國屋」の跡取りとして生まれる。祖先は紀州和歌山の出身。 私立高千穂小学校在学中であった、1915年の大正天皇の即位大典の日、父に連れられて入った丸善で洋書に魅せられて、書店経営を志すに至る。卒業後、慶應義塾専門部予科に入学。同級に演出家の大江良太郎がいた。1926年3月、慶應義塾高等部(現・慶應義塾大学)を卒業。1927年1月、紀伊國屋書店(現・新宿3丁目の本店)を創業、当時の店舗は二階建てだった。
石岡 久夫(いしおか ひさお、1905年2月12日 - 20… 石岡 久夫(いしおか ひさお、1905年2月12日 - 2000年1月14日)は、日本の兵法研究者、文学博士、弓道家(弓道範士十段)、本多流師範。國學院大學教授、國學院大學弓道部元師範。号は榊舎弓人。 広島県生まれ。学生時代に今まで余り史学者が手掛けてこなかった分野を研究したいと模索していた時に、休職中だった海軍大佐の有馬成甫(のち海軍少将)と知り合い、兵法学について関心を持つ。1934年國學院大學国史学科を卒業すると、有馬の推挙で多くの兵法文献を所蔵する江田島の海軍兵学校教育参考館に嘱託研究員として就職する。海軍兵学校教育参考館には、伊予松山藩の野沢文庫、上泉流を主体とする鳥取池田藩の鷲見文庫など膨大な兵書文献を所蔵していた。
川上 和吉(かわかみ わきち 、1905年(明治38年)2月… 川上 和吉(かわかみ わきち 、1905年(明治38年)2月11日 - 1973年(昭和48年)12月19日)は、日本の内務・厚生官僚、国会職員。官選和歌山県知事。 大阪市東区備後町出身。大阪高等学校を卒業。1927年12月、高等試験行政科試験に合格。1928年、東京帝国大学法学部を卒業。内務省に入省し、千葉県属となる。 以後、北海道庁庶務課長、内務事務官、島根県経済部長、広島県経済部長、内務省土木局道路課長、厚生省医療局次長などを歴任。 1946年6月、和歌山県知事に就任。1947年2月、同県知事選挙に出馬のため知事を辞任。第一次選挙で一位となるが法定得票数に達せず、決選投票で小野真次と戦い落選した。
岩崎 徹太(いわさき てつた、1905年2月11日 - 19… 岩崎 徹太(いわさき てつた、1905年2月11日 - 1980年11月9日)は、日本の出版人。本名は岩崎乙巳(いわさき おとみ)。岩崎書店創業者。日本児童図書出版協会初代会長。第17回(昭和50年)日本児童文芸家協会児童文化功労者。早稲田大学専門部政治経済学科卒業。妻は岩崎美術社社長の岩崎治子、長男は精神医学者岩崎徹也、次男は建築家岩崎駿介、三男は岩崎書店を継いだ岩崎弘明。孫に作家岩崎夏海がいる。 1932年に古書店フタバ書房を開業して当時発禁となっていた白揚社、改造社、ナウカ社などの出版物を頒布し、1934年に慶応書房と改名してソ連文献の翻訳を中心とした出版もはじめた。1943年に治安維持法違反で検挙され8ヶ月の拘留を受け、慶応書房も廃業させられ、出版活動を再開しないことを条件に釈放された。
後藤 以紀(ごとう もちのり、1905年2月10日 - 19… 後藤 以紀(ごとう もちのり、1905年2月10日 - 1992年2月12日)は、日本の電子工学者。明治大学名誉教授。京都府生まれ。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
牧野 巽(まきの たつみ、1905年2月10日 - 1974… 牧野 巽(まきの たつみ、1905年2月10日 - 1974年11月3日)は、日本の社会学者、東京大学名誉教授。中国の家族を専門とした。 1905年、牧野謙次郎の長男として東京で生まれた。東京帝国大学文学部に入学し、社会学科で戸田貞三に師事した。同門の弟弟子には清水幾太郎がいた。牧野巽は清水幾太郎を弟と思い、清水幾太郎は牧野巽を兄と思い親しくしていた。1929年に卒業。 1929年4月、母校の東京帝国大学社会学研究室副手に就いた(〜1930年4月)。翌1930年、東方文化学院研究所所員になった。その後、東京高等師範学校教授。 1947年、『儀礼及び礼記に於ける家族と宗教』を東京帝国大学に提出して文学博士号を取得。
朴 済煥(パク・チェファン、朝鮮語: 박제환/朴濟煥、190… 朴 済煥(パク・チェファン、朝鮮語: 박제환/朴濟煥、1905年2月10日または2月11日 - 1995年3月23日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の公務員、政治家。第2・5代韓国国会議員、第17代農林部長官を歴任した。 本貫は竹山朴氏(朝鮮語版)。号は芝峰/芝峯。カトリック教徒。実業家の朴範植は息子、第12・14代国会議員の朴珪植(朝鮮語版)は甥。 京畿道富川市駅谷洞出身。1917年に水下公立普通学校に2学年編入したが、1919年の三・一運動の時にデモを主導したという理由で退学させられ、同年徽文高等普通学校に編入。1923年、徽文高4年修了し、同志社大学予科に入学した。日本留学中に新幹会京都支部長を務め、1929年同志社大学法学部経済学科を卒業した。
中地 熊造(なかち くまぞう、1905年2月10日 - 19… 中地 熊造(なかち くまぞう、1905年2月10日 - 1982年11月7日)は、昭和時代の労働運動家。全日本労働総同盟(同盟)初代会長。全日本海員組合組合長。 島根県海士郡海士村(現隠岐郡海士町)生まれ。1918年布施小学校高等科中退。1920年大阪に出て町工場で働いた後、1921年万世丸水夫見習を皮切りに海員生活に入る。1928年社会民衆党に入党。1933年日本海員組合に加盟。1934年日本海員組合革正同盟に加わり、1935年新日本海員組合結成に参加、大阪支部長。1945年8月海員組合創立準備会の設立を経て、同年10月全日本海員組合結成に参加。1946年8月から9月の人員整理反対闘争で主流派(右派)と中央闘争委員会派(左派)が対立し、右派の一員として実力で左派を排除。
青山 正一(あおやま しょういち、1905年(明治38年)2… 青山 正一(あおやま しょういち、1905年(明治38年)2月9日 - 1972年(昭和47年)6月6日)は、昭和期の水産業関係者、実業家、政治家。参議院議員。 石川県出身。中央大学法学部を修了した。 農林省嘱託、京都水産業会長、京都漁業組合連合会長、京都商工会議所参与、全国漁村同盟委員長、財団法人水産研究会理事、京都水産 (株) 会長、大日本水産会理事、日本定置網漁業組合理事、日本旋網漁業協会副会長、日ソ漁業対策協議会副会長などを務めた。 1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙で全国区から無所属で立候補して初当選し、1953年(昭和28年)4月の第3回通常選挙で全国区から自由党公認で立候補して再選され、参議院議員に連続2期在任した。
佐藤 信衛(さとう のぶえ、1905年2月8日 - 1989… 佐藤 信衛(さとう のぶえ、1905年2月8日 - 1989年5月20日)は、日本の哲学者、文芸評論家・同人作家。 茨城県生まれ。1928年東京帝国大学哲学科卒。1937年法政大学講師。三木清とともに『文學界』同人となる。 戦後1951年法政大学教授。1973年退任。 この項目は、哲学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:哲学)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
波多野 完治(はたの かんじ、1905年2月7日 - 200… 波多野 完治(はたの かんじ、1905年2月7日 - 2001年5月23日)は、日本の心理学者。文学博士。ジャン・ピアジェの発達心理学を中心に学び、アンリ・ワロンなどを紹介、また文章心理学、創作心理学、視聴覚教育などに多数の著作がある。
小野 佐世男(おの させお、1905年2月6日 - 1954… 小野 佐世男(おの させお、1905年2月6日 - 1954年2月1日)は、日本の漫画家、画家、随筆家、小説家。神奈川県横浜市出身。漫画評論家の小野耕世は長男。 1905年(明治38年)2月6日、父・小野鉄吉、母・銀子の長男として横浜に生まれる。名前の佐世男は当時日本最西端の駅であった佐世保駅に由来する。なお鉄吉は和歌山の建設会社西本組の社員で、鉄道施設の仕事を請け負う建築家であった。1910年(明治43年)、鉄吉が西本組東京事務所所長となり、東京赤坂に移る。1912年(明治45年・大正元年)、檜町小学校(現港区立赤坂小学校)に入学。フランス映画『ジゴマ』に夢中になり、小学校2、3年生の頃には六本木にあった活動小屋に通うなど映画ファンとなる。
渋谷 健一(しぶや けんいち、1905年 <明治38年> 2… 渋谷 健一(しぶや けんいち、1905年 <明治38年> 2月6日 - 1997年 <平成9年> 1月10日)は、日本の経営者。十條製紙社長、会長を務めた。位階は正四位。三重県出身。 1925年に中央大学専門部経済学科を卒業し、同年に富士製紙に入社。 王子製紙を経て、1949年に十條製紙に転じ、1952年11月に取締役に就任し、1958年11月に常務、1964年5月に専務を経て、1968年3月に副社長に就任し、1969年5月には社長に昇格。1976年6月に会長に就任し、1982年6月に取締役相談役を経て、1984年6月に相談役に就任。 1971年11月に藍綬褒章を受章し、1980年4月に勲二等旭日重光章を受章。
白井 晟一(しらい せいいち、1905年(明治38年)2月5… 白井 晟一(しらい せいいち、1905年(明治38年)2月5日 - 1983年(昭和58年)11月22日)は、日本の建築家。村野藤吾、吉田五十八、堀口捨巳、谷口吉郎らと並んで、昭和期の住宅において和風を手がけた代表的な建築家として知られる。他に役場や静岡市立芹沢銈介美術館といった公共施設、銀行の建物も手掛けた。 一方で、その独特な作風や言説から「哲学の建築家」「哲人建築家」「異端の作家」などと称されることもある。1950年代の「伝統論争」の論者としても知られる。 1905年2月5日に京都市の三条大宮で、白井七蔵・えんの長男として生まれる。本名は白井成一。兄弟には、7歳上の姉清子と、弟の隆吉がいる。
小泉 貞三(こいずみ ていぞう、1905年2月4日 - 19… 小泉 貞三(こいずみ ていぞう、1905年2月4日 - 1975年2月9日 )は、経済学者、経営学者、経済学博士。関西学院大学名誉教授・ 元関西学院大学商学部長。 交通経済学の研究において数多くの研究、業績を残し、その学問の発展に寄与された。滋賀県神崎郡生まれ。