時野谷 常三郎(ときのや つねさぶろう、1881年12月 -… 時野谷 常三郎(ときのや つねさぶろう、1881年12月 - 1942年12月21日)は、日本の歴史学者。ヨーロッパ政治外交史専攻。
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時野谷 常三郎(ときのや つねさぶろう、1881年12月 -… 時野谷 常三郎(ときのや つねさぶろう、1881年12月 - 1942年12月21日)は、日本の歴史学者。ヨーロッパ政治外交史専攻。
小林 愛雄(こばやし あいゆう、1881年11月30日 - … 小林 愛雄(こばやし あいゆう、1881年11月30日 - 1945年10月1日)は、日本の詩人、作詞家、翻訳家。元早稲田実業学校校長。家族・友人間の親称は ちかお。 日本で初めてオペラの創立に尽力したことで知られる。 1881年11月30日、東京市に生まれる。父親は旧幕臣、後に東京府府会議員、大蔵省局長、万世生命保険会社社長となった小林好愛。 1892年に東京高等師範学校附属小学校尋常科(現・筑波大学附属小学校)、1899年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第六高等学校(現・岡山大学)を経て東京帝国大学英文科にて夏目漱石、佐佐木信綱に師事。父親の小林好愛と共に樋口一葉とは家族ぐるみの付き合いがあり、慈雲寺 (甲州市)にある樋口一葉女史文学碑には田山花袋、森鷗外、与謝野晶子と共に愛雄の名も刻まれている。
石井 英橘(いしい えいきつ、1881年(明治14年)11月… 石井 英橘(いしい えいきつ、1881年(明治14年)11月30日 – 1945年(昭和20年)9月6日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1881年(明治14年)11月、和歌山県に石井武次郎の二男として生まれた。1901年(明治34年)11月22日に陸軍士官学校(13期)を卒業し、1902年(明治35年)6月23日に工兵少尉に任ぜられ、同日付で鉄道大隊付に補される。1904年(明治37年)8月2日に工兵中尉に昇進し、1907年(明治40年)12月18日に陸軍砲工学校(13期)高等科を卒業後、同月21日に工兵大尉に昇進し鉄道連隊付に補せられた後、1912年(明治45年)7月10日には東京帝国大学理科大学実験物理学科を卒業した。
吉田 白甲(よしだ はっこう、1881年〈明治14年〉11月… 吉田 白甲(よしだ はっこう、1881年〈明治14年〉11月28日 - 1961年〈昭和36年〉11月3日)は、日本のドイツ文学者。元陸軍大学校勅任教授・教頭。本名は吉田 豊吉(よしだ とよきち)。 新潟県北蒲原郡新発田町(現 新発田市)出身。1899年(明治32年)3月に新潟県尋常中学校を卒業、1902年(明治35年)7月に第一高等学校を卒業、9月に東京帝国大学文科大学独逸文学科に入学。 1903年(明治36年)7月23日の夜に東京音楽学校奏楽堂で日本人が初めて上演した歌劇、グルック作曲のオペラ『オルフォイス』の歌詞の和訳を石倉小三郎、乙骨三郎、近藤逸五郎たちと4人で担当した。 1904年(明治37年)11月に第一高等学校の1年生の時からの友人の小山内薫、川田順、武林無想庵、上村清延、太田善男、高瀬精太たちと7人で同人雑誌『七人』を創刊、夏目漱石に短編小説『琴のそら音』を寄稿してもらった。
一瀬 一二(いちのせ いちじ、1881年(明治14年)11月… 一瀬 一二(いちのせ いちじ、1881年(明治14年)11月25日 – 1935年(昭和10年)8月5日)は、衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 熊本県玉名郡小田村(現在の玉名市)に一瀬彦四郎の長男として生まれる。明治大学に学ぶ。国民新聞社社長徳富蘇峰の門下にあり、後に独立して大日本新聞社を経営した。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第18回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他、財団法人青山会館常任理事を務めた。
藤井 種太郎(ふじい たねたろう、1881年(明治14年)1… 藤井 種太郎(ふじい たねたろう、1881年(明治14年)11月22日 - 1968年(昭和43年)6月22日)は、日本の教育者。宮中顧問官。文学博士。 兵庫県出身。1903年(明治36年)、陸軍歩兵少尉となり、日露戦争では歩兵第40連隊に属して出征し、中尉に昇進した。1908年(明治41年)、広島高等師範学校英語部を卒業し、さらに1911年(明治44年)に京都帝国大学文科大学哲学科を卒業。明治専門学校(現在の九州工業大学)生徒監・教授を務め、1918年(大正7年)に学習院教授に就任。さらに広島高等師範学校教授、広島文理科大学教授を歴任した。1932年(昭和7年)からは宮内省に入り、皇后宮職、皇子御養育掛長を務め、1937年(昭和12年)に宮中顧問官に任命された。
時実 秋穂(ときざね あきほ、1881年(明治14年)11月… 時実 秋穂(ときざね あきほ、1881年(明治14年)11月22日 - 1962年(昭和37年)1月21日)は、内務官僚、福岡市長、岡山市長、玉野市長。 岡山県邑久郡長浜村(現在の瀬戸内市)に時実惣次郎の長男として生まれた。1907年(明治40年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年に高等文官試験に合格し、翌年に岩手県事務官に任じられた。その後、徳島県事務官・警察部長、愛媛県警察部長、島根県警察部長、茨城県内務部長を歴任した。1919年(大正8年)、朝鮮総督府忠清南道知事に転じ、朝鮮総督府監察官を経て、1923年(大正12年)に京畿道知事に任じられた。 1926年(大正15年)に福岡市長に選出され、5年間在任した。
国友 末蔵(くにとも すえぞう、1881年〈明治14年〉11… 国友 末蔵(くにとも すえぞう、1881年〈明治14年〉11月17日 - 1960年〈昭和35年〉10月17日)は、明治後期から昭和時代にかけて活動した日本の電気技術者、実業家である。新潟県上越市(旧・高田市)の電力会社中央電気にて技師長および専務取締役を務め、同社の電源開発に携わった。京都市出身。 1881年(明治14年)11月17日、京都の三条通白川橋にて国友藤九郎の四男として生まれた。国友家は戦国時代から近江国坂田郡国友村(現・滋賀県長浜市)で鉄砲を生産していた鉄砲鍛冶の家だが、父・藤九郎は明治維新後京都へ移り活版印刷機の生産にあたっていた。国友は京都府立第一中学校を経て京都の第三高等学校へ進学し、1903年(明治36年)7月に卒業。
吉田 秀弥(よしだ しゅうや、吉田秀彌、1881年(明治14… 吉田 秀弥(よしだ しゅうや、吉田秀彌、1881年(明治14年)11月15日 - 1955年(昭和30年)11月19日)は、日本の実業家。京成電鉄第3代取締役社長。 福島県西白河郡滑津村(現中島村)の吉田精一郎の長男として生まれる。 1907年、早稲田大学政治学科を卒業し、二六新報に入社。もっぱら政治畑を歩く。 1916年5月、当時の京成電気軌道に庶務課長兼電燈課長として入社し、1931年取締役総務部長、1937年常務取締役。 1946年1月、今日の京成の基礎を築いた後藤圀彦が前年死去したため、第3代社長に就任。戦後混乱期の会社を牽引した。また、同年に鉄道連隊演習線の払い下げを受け、新京成電鉄を発足させる。
正宗 敦夫(まさむね あつお、明治14年(1881年)11月… 正宗 敦夫(まさむね あつお、明治14年(1881年)11月15日(戸籍上は11月30日) - 昭和33年(1958年)11月12日)は、日本の国文学者、歌人。 岡山県和気郡穂浪村(現・備前市穂浪)生まれ。兄に小説家で文学評論家の正宗白鳥がいる。東京を活動の拠点とした兄とは違い郷里で家業を営み、その傍ら作歌をし、国文学の研究を行った。1897年(明治30年)から井上通泰に師事し、島木赤彦、斎藤茂吉などとも親交を持った。1909年(明治42年)、歌文珍書保存会を主宰し、古書・稀少本を収集・刊行を行った。1925年(大正14年)与謝野寛・与謝野晶子夫妻と「日本古典全集」シリーズを刊行する。1927年(昭和2年)、株式会社日本古典全集刊行会を設立するが倒産する。
田子 一民(たご いちみん、1881年〈明治14年〉11月1… 田子 一民(たご いちみん、1881年〈明治14年〉11月14日 - 1963年〈昭和38年〉8月15日)は、日本の官僚、政治家。位階は正三位。 衆議院議長(第34代)、衆議院副議長(第27代)、官選三重県知事、農林大臣(第4次吉田内閣)、衆議院議員(通算9期)などを務めた。岩手県盛岡市出身。東京帝国大学法科大学卒業。 岩手県士族の田子勘治の次男として生まれる。現在の盛岡市立城南小学校、盛岡中学、旧制二高を経て、1908年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、内務省に入省。山口県警部、山口県都濃郡長、山口県警察部長、内務省社会局第一課長兼第二課長、社会局長、官選三重県知事などを歴任し、その後政界に転じる。
渋谷 伊之彦(しぶや いのひこ、1881年11月14日 - … 渋谷 伊之彦(しぶや いのひこ、1881年11月14日 - 1935年12月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
小沢 碧童(おざわ へきどう、1881年(明治14年)11月… 小沢 碧童(おざわ へきどう、1881年(明治14年)11月14日 - 1941年(昭和16年)11月17日)は、日本の俳人。本名は清太郎、のちに西徳。忠兵衛とも。東京都出身。 1881年(明治14年)に日本橋区(現在の中央区)本船町で生まれる。生家は魚問屋を営んでいたが、8歳で祖父の元に養子に出された。祖父は「西徳めぐすり」という目薬を作って生計を立てていた。当初は正岡子規門下の松下紫人から定形俳句を学んでいたが、やがて河東碧梧桐の新傾向俳句に傾倒し、前述の目薬を碧梧桐が買いに来た縁で、碧梧桐の主宰する『海紅』に参加、自由律俳句を詠むようになる。明治37年、上根岸町(現在の台東区根岸)の自宅を骨立舎と命名して俳道場も開いた。
松平 濱子(まつだいら はまこ、1881年11月13日 - … 松平 濱子(まつだいら はまこ、1881年11月13日 - 1967年3月16日)は、日本の教育者、歌人。学校法人関東学園の創設者である。旧姓は細谷。 群馬県佐波郡伊与久村(佐波郡境町を経て現伊勢崎市)に生まれる。日本女子大学校(当時は専門学校)に進学し、その最初の卒業生となった。東京帝国大学が聴講生として女性の受講者を認めた際に、その最初のひとり(国文学専攻)ともなっている。 1924年、現在の東京都新宿区西新宿(当時は淀橋町)に「関東高等女学校」(のちの関東国際高等学校)を開設し、これが関東学園の始まりとなる。太平洋戦争の空襲で校舎を失ったため、1946年に館林市で「関東女子専門学校」(関東短期大学の前身)を開校した。
磯部 愉一郎(いそべ ゆいちろう、1881年11月11日 -… 磯部 愉一郎(いそべ ゆいちろう、1881年11月11日 - 1970年5月20日)は、日本の経営者。関東電化工業株式会社の創業発起人及び代表取締役専務、旭電化工業株式会社の専務取締役及び代表取締役、花王油脂株式会社の取締役社長及び会長を務めた人物。 また、早稲田大学の「早稲田大学百年史」の歴代箇所長一覧に代表取締役と早稲田大学の「早稲田二十日会」の副会長を務めていた。「早稲田二十日会」は、二十日会の第3代会長の佐々木省三によると、実業界で活躍していた日本化薬の原安三郎と日本工業倶楽部常任理事の中村元督らが話し合った結果、早稲田の卒業生で実業界に籍をおく者たちに呼びかけ「二十日会」をつくり、毎月二十日に日本工業倶楽部で会合を開き、勉強会を開くとともに大いに親睦を旨とすることにしたとの記述がある。
安国 幸左衛門(安國 幸左衛門、やすくに こうざえもん、18… 安国 幸左衛門(安國 幸左衛門、やすくに こうざえもん、1881年〈明治14年〉11月8日 - 1949年〈昭和24年〉5月12日)は、日本の政治家、地主・家主。神戸市会議員。 兵庫県武庫郡西灘村(現・神戸市)出身。安国幸右衛門の長男。早稲田大学政治経済科卒業。一年志願兵として軍務に服し、三等主計に進む。除隊後父業に従事する。在郷軍人分会長に推される。 1929年、西灘村が神戸市に編入されるにあたって推されて市会議員に当選する。岩屋青年会会長、灘信用組合理事、神戸商業大学柔道師範、兵庫県柔道有段者会会長等の名誉職を兼ねる。1948年、公安委員に任命される。 趣味は柔道、銃猟、釣魚、乗馬。住所は兵庫県神戸市灘区岩屋町。
山田 乙三(やまだ おとぞう、1881年(明治14年)11月… 山田 乙三(やまだ おとぞう、1881年(明治14年)11月6日 - 1965年(昭和40年)7月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
吉原 正隆(よしはら まさたか、1881年(明治14年)11… 吉原 正隆(よしはら まさたか、1881年(明治14年)11月5日 - 1926年(大正15年)6月24日)は、明治末から大正期の政治家。衆議院議員(立憲政友会)、貴族院多額納税者議員。位階は正五位。勲等は勲三等。 福岡県三潴郡大川町(現在の大川市)出身。1906年(明治39年)京都帝国大学法科大学経済科を卒業し、さらに大学院で植民政策学を専攻した。 1912年(明治45年)第11回衆議院議員総選挙に出馬し当選。第14回総選挙に至るまで4回連続当選を果たした。その間、野田卯太郎逓信大臣の秘書官を務めた。 1925年(大正14年)福岡県多額納税者として貴族院多額納税者議員に互選され、同年9月29日に就任し、研究会に所属し死去するまで在任した。
貝島 太市(かいじま たいち、1881年11月3日 - 19… 貝島 太市(かいじま たいち、1881年11月3日 - 1966年8月28日)は、日本の実業家。貝島炭礦社長。 貝島炭礦の創始者である貝島太助の四男として、福岡県遠賀郡に生まれる。1895年、福岡県立尋常中学修猷館に入学、在学中の1898年、貝島鉱業合名会社を、社長・貝島太助、社員・貝島六太郎(太助の次弟)、貝島嘉蔵(太助の三弟)、貝島太市の4名で設立する。1901年、東京高等商業学校(現・一橋大学)を目指すため、修猷館を退学して東京商工中学校へ入学し、1902年、東京高等商業学校に進学する。在学中の1904年、旧長州藩士鮎川弥八の三女で鮎川義介(日産コンツェルン創始者)の妹であるフジと結婚する。
桑山 鉄男(くわやま てつお、1881年(明治14年)11月… 桑山 鉄男(くわやま てつお、1881年(明治14年)11月1日 - 1936年(昭和11年)2月20日)は、日本の逓信官僚。貴族院勅選議員。従三位、勲二等。 愛媛県出身。桑山吉輝(大津事件の犯人津田三蔵巡査の上司(大津警察署長))の長男として生まれる。旧制第三高等学校を経て、1906年に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、高等文官試験に合格。逓信省に入省し、通信事務官、京都郵便局管理課長、長野逓信管理局長、逓信省参事官、逓信官吏練習所教官、逓信監察官、逓信大臣秘書官などを歴任した。1920年、初代簡易保険局長に就任。1924年6月、逓信次官に就任し、1929年7月まで在任した。次官在任中、新設の逓信省航空局長を兼任し、大礼使参与官を務めた。
藤井 實(ふじい みのる、1881年11月または1880年1… 藤井 實(ふじい みのる、1881年11月または1880年11月6日 - 1963年)は、日本の外交官。また、東京帝国大学在学中の1902年に、特殊な電気計時装置を使った測定で100メートル競走に10秒24という記録を残したとされる人物としても知られる。名前は藤井実と表記されることもある。 東京・本郷に、昌平黌の漢学教師を父として生まれる。旧制郁文館中学校から第一高等学校を経て、1902年に東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)に進学する。体格に恵まれていた(帝大1年当時、身長179cm、体重71kg)藤井は中学時代から各種のスポーツに親しみ、一高時代には陸上競技で並ぶもののない成績を収めていた。
鶴見 一之(つるみ かずゆき 1881年(明治14年)11月… 鶴見 一之(つるみ かずゆき 1881年(明治14年)11月 - 1959年(昭和34年)10月12日)は、日本の土木工学者。仙台高等工業学校(東北大学工学部の前身)と東北帝国大学で教授、仙台高等工業学校・仙台工業専門学校では校長を務めた。 東北土木学会の設立等に尽力し、仙台工専の後継となる東北大学工学部土木工学科の礎を築いた。 新潟県士族、鶴見保四郞の長男として生まれ、1900年(明治33年)3月古志郡立長岡中学校(現在の新潟県立長岡高等学校を卒業した。1906年(明治39年)東京帝国大学工科大学土木科を卒業し、仙台高等工業学校教授となる[要出典]。 長岡市の下水道整備事業や、仙台市の上下水道事業[要出典]に携わった。
西尾 寿造(にしお としぞう、明治14年(1881年)10月… 西尾 寿造(にしお としぞう、明治14年(1881年)10月31日 − 昭和35年(1960年)10月26日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功一級。初代支那派遣軍総司令官。
遠藤 為春(えんどう いしゅん、明治14年(1881年)10… 遠藤 為春(えんどう いしゅん、明治14年(1881年)10月26日 - 昭和44年(1969年)2月6日)は、日本の歌舞伎研究家。 東京市日本橋馬喰町出身。東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業。1908年三菱銀行入行。1911年歌舞伎座入社。 1914年には自宅の庭にあった演舞館を三渓園の入口に移築し、横浜演舞館とした。 家業の柏木運送店専務を務めた他、1915年松竹理事。1937年松竹取締役。 第二次世界大戦後は、松竹演劇部相談役や新橋演舞場常務などを務めた。また、評論、随筆などを執筆した。 1964年藍綬褒章受章。1968年勲四等瑞宝章受章。1969年死去。一乗寺で葬儀が行われた。本名は弥市。
兒玉 友雄(こだま ともお、1881年10月23日 - 19… 兒玉 友雄(こだま ともお、1881年10月23日 - 1961年5月9日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。 本籍山口県。児玉源太郎の三男として生れる。学習院中等科を経て、1902年11月、陸軍士官学校(14期)を卒業、翌年6月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第2連隊付となり、1904年2月、日露戦争に出征。1910年11月、陸軍大学校(22期)を卒業した。 参謀本部員兼軍務局課員、近衛師団参謀、参謀本部員などを経て、1914年5月、イギリスに私費留学し、翌年、イギリス軍に従軍した。帰国後、参謀本部員、陸軍省軍務局課員、兼航空部事務官、兵器局課員、軍務局課員(軍事課)、近衛歩兵第3連隊付、歩兵第34連隊長、参謀本部課長などを歴任し、1929年8月、陸軍少将に進級。
海江田 準一郎(かいえだ じゅんいちろう、1881年(明治1… 海江田 準一郎(かいえだ じゅんいちろう、1881年(明治14年)10月23日 - 1935年(昭和10年)12月22日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、衆議院議員(1期)、陸軍歩兵少尉。 海江田平治の長男として鹿児島県日置郡市来郷湊村(西市来村、市来町を経て現いちき串木野市)に生まれる。1906年(明治39年)に慶應義塾大学部法律科を卒業。同年、一年志願兵として陸軍に入隊し、陸軍歩兵少尉で除隊した。西市来村会議員を経て、日置郡米穀商同業組合長、海江田銀行頭取、明正社、鹿児島化学研究所、日本橋商事各取締役、東海化学工業監査役などを務めた。 1914年(大正3年)鹿児島県多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年9月7日から、1918年(大正7年)9月28日まで1期在任。
塚原 嘉藤(つかはら よしふじ、1881年(明治14年)10… 塚原 嘉藤(つかはら よしふじ、1881年(明治14年)10月22日 – 1930年(昭和5年)11月13日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 長野県東筑摩郡日向村(現在の麻績村)出身。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、第二高等学校を経て、東京帝国大学法科大学でドイツ法を学び、1909年(明治42年)に卒業した。卒業後は弁護士・弁理士事務所を開業し、株式会社小穴製作所・日本無線電信電話株式会社などの法律顧問を務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。1923年(大正12年)、関東大震災の際に保険金問題について活躍し有名になった。 その他、社団法人日本アルプス理事・社団法人清涼飲料研究所理事などを務めた。
佐々木 千秀(ささき ちひで、1881年10月21日 - 1… 佐々木 千秀(ささき ちひで、1881年10月21日 - 1947年12月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 広島県出身。東京専門学校で学ぶ。呉市会議員、同参事会員、呉商工会理事、呉銀行取締役頭取、ハート麦酒(株)取締役副社長、呉劇場、呉酒造(株)取締役社長となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において広島2区から憲政会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1947年に死去した。
岸本 正雄(きしもと まさお、1881年〈明治14年〉10月… 岸本 正雄(きしもと まさお、1881年〈明治14年〉10月19日 - 1963年〈昭和38年〉5月20日)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選県知事、樺太庁長官。 鳥取県出身。税吏・岸本俊一の長男として生まれる。父の転勤のため東北各県に居住。福島県立会津中学校を経て第二高等学校を首席で卒業。1906年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、秋田県事務官(高等官)、山形県事務官・警察部長、同県警察部長、滋賀県警察部長、福岡県警察部長、香川県内務部長、関東庁警務局長などを歴任。 1922年10月、秋田県知事に就任。町村農業技術員、産米検査員、農業補習学校教員の三者を一体化した「三職兼務制」を実施し、合理的な農政推進を図った。
三津木 春影(みつぎ しゅんえい、1881年10月15日 -… 三津木 春影(みつぎ しゅんえい、1881年10月15日 - 1915年7月8日)は、小説家・翻訳家。本名は一実(かずみ)。男性。
正親町 公和(おおぎまち きんかず、1881年(明治14年)… 正親町 公和(おおぎまち きんかず、1881年(明治14年)10月14日 - 1960年(昭和35年)12月7日)は、日本の華族、実業家、『白樺』初期の文学者。その文業は『明治文学全集 初期白樺派文学集』に収められている。 伯爵正親町実正の長男として東京に生まれた。弟の実慶も『白樺』の作家で、日下諗(くさか しん)の筆名を持った。学習院初等科に入り、高等科の時に志賀直哉、武者小路実篤、木下利玄と知り合う。『学習院輔仁会雑誌』の編輯委員となり小品を発表。1906年に高等科を卒業して東京帝国大学英文科に入るが中退。1908年、志賀らと回覧雑誌『望野』を始め、1910年には『白樺』創刊に参画、ほかに里見弴・園池公致・児島喜久雄らと交わる。
橘 樸(たちばな しらき、1881年10月14日 - 194… 橘 樸(たちばな しらき、1881年10月14日 - 1945年10月25日)は、日本のジャーナリスト、評論家で、清末から日中戦争期にかけての中国で、『遼東新報』や『京津日日新聞』などに拠って活動した。 1881年、大分県臼杵の下級士族の家に長男として生まれた。中学時代は各地を転々とした後、第五高等学校に学んだが、退校処分となった。その後早稲田大学に入学したが、中退。 1905年に北海道に渡り、『北海タイムス』の新聞記者となった。しかし翌年の1906年に清末の大連へ渡り、『遼東新報』の記者となった。以降、記者として『京津日日新聞』『済南日報』といった新聞や、『日華公論』、『支那研究資料』、『月刊支那研究』、『調査時報』、『満蒙』、『新天地』、『読書会雑誌』、『満州評論』などの雑誌類に関わった。
河上 哲太(かわかみ てつた、1881年(明治14年)10月… 河上 哲太(かわかみ てつた、1881年(明治14年)10月13日 – 1952年(昭和27年)11月17日)は、衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 愛媛県周桑郡国安村(現在の西条市)出身。1905年(明治38年)、東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業。卒業後は、国民新聞社に入社し、経済記者として活動。経済部長に昇った。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。9回連続当選を果たした。その間、加藤高明内閣で文部参与官に就任し、その他に政友会総務を務めた。 戦後、大政翼賛会の推薦議員のため公職追放となる。1951年(昭和26年)、追放解除となるが、翌1952年(昭和27年)11月17日死去。
福島 喜三次(ふくしま きそうじ、1881年〈明治14年〉1… 福島 喜三次(ふくしま きそうじ、1881年〈明治14年〉10月10日 - 1946年〈昭和21年〉9月17日)は日本の実業家。三井合名会社理事。内閣調査局専門委員及び企画院参与を務めた。日本人初のロータリアンで、元ダラスロータリークラブ会員。 佐賀県西松浦郡有田村に福島喜平の六男として生まれる。2歳のとき父を亡くす。小学校時代から終始級長を務めるなど秀才で鳴らし、長崎商業学校(現・長崎市立長崎商業高等学校)を経て、1904年(明治37年)7月に東京高等商業学校(現・一橋大学)を首席で卒業。同期には星野唯三、園部潜、佐藤尚武、山崎一保、向井忠晴、黒田慶太郎、梁瀬長太郎らがいた。なお、同校では上級の優等生を選び夏季休業中に実地研究を課したが、福島も3年次に選ばれ「清国上海ニ於ケル貨幣事情調査報告書」を提出している。
伊江 朝助(いえ ちょうじょ、1881年(明治14年)10月… 伊江 朝助(いえ ちょうじょ、1881年(明治14年)10月10日 - 1957年(昭和32年)11月26日)は、沖縄県出身の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員、向氏伊江家十四世。号・馬巖。 首里当蔵村(現那覇市首里当蔵町)で、伊江家十三世・伊江朝真の長男として生まれる。父が尚侯爵家御用係兼家扶となり首里小学校卒業後に上京。私立順天中学校、早稲田大学高等予科を経て、1907年(明治40年)7月、同大学部政治科を卒業した。1908年(明治41年)12月、一年志願兵として歩兵第48連隊に入隊し、1909年(明治42年)12月に満期除隊。 帰郷後、1911年(明治44年)5月、沖縄電気軌道会社常任監査役に就任。
松山 二三郎(まつやま にさぶろう、1881年10月10日 … 松山 二三郎(まつやま にさぶろう、1881年10月10日 - 1991年4月3日)は男性長寿日本一であった石川県の男性。 寺子屋で学んだ後、家業の農業に従事。長男ら家族8人で暮らし、子7人、孫16人、ひ孫29人、やしゃご4人がいた。妻は1949年に亡くなった。耳が少し遠く、足腰は弱っていたが、103歳頃までは自宅から500メートル離れた畑にまで出かけ、毎日農作業に精を出していた。106歳頃から横になっていることが多くなった。 1990年3月6日、藤原喜一が109歳で亡くなったことにより、松山が108歳で長寿日本一の男性となる。 男性長寿日本一となった際「おかげさまで。みんなにかわいがられて」と何度もお礼を述べた。
柏戸 宗五郎(かしわど そうごろう、1881年10月10日 … 柏戸 宗五郎(かしわど そうごろう、1881年10月10日 - 1946年8月13日)は、現在の新潟県上越市出身で伊勢ノ海部屋に所属した力士。本名は伊勢ノ海 富太郎(旧姓江口)。9代伊勢ノ海。189cm、116kg。最高位は東小結。 日露戦争で勲功があり、従軍中に知合った伊勢ノ海部屋の力士から角界入りを勧誘され、1907年1月幕下付出で初土俵。1909年6月十両昇進、1910年1月には入幕し、1914年1月に小結に昇進した。しかし心臓病の為に全休し、以後は振るわなかった。すでに師匠が亡くなり二枚鑑札となっており、1918年5月引退し年寄稼業に専念することになった。師匠としては藤ノ川雷五郎などを育てたが、1933年1月場所後錦島部屋に弟子を預け、一時部屋を閉じた。
松本 倭重(まつもと わじゅう、1881年〈明治14年〉10… 松本 倭重(まつもと わじゅう、1881年〈明治14年〉10月9日 - 1943年〈昭和18年〉11月13日)は、日本の会社役員、地主、政治家。鳥取県会議員(政友会)。鳥取県西伯郡県村長。米子共立検番監査役。合資会社米子均一タクシー自動車商会有限責任社員。 鳥取県西伯郡県村(現・米子市)出身。鳥取県立農学校卒業。郡会議員、県村会議員、学務委員、鳥取県会議員、参事会員等を歴任。1923年、県村長に就任。 大日本國粹会鳥取県米子支部長である。住所は鳥取県西伯郡県村大字日下。
下村 忠助(しもむら ちゅうすけ、1881年〈明治14年〉1… 下村 忠助(しもむら ちゅうすけ、1881年〈明治14年〉10月8日 - 1916年〈大正5年〉5月31日)は、日本の海軍軍人。 第一次世界大戦で観戦武官として戦死した海軍中佐である。海大甲種10期首席。正六位勲四等功四級。 1881年(明治14年)10月8日、山形県米沢市に生まれた。下村正助海軍中将は実弟である。幼くして母と死別し、父と共に北海道根室に移住したが、中学進学のため帰郷し、米沢中学に進んだ。翌年父を失っている。1899年(明治32年)に海軍兵学校に入校し、1902年(明治35年)12月、187名中8番で卒業した(30期)。百武源吾、松山茂のほか、今村信次郎、松浦松見、池田宏平ら同郷の7名が同期生である。
香月 清司(かつき きよし、1881年〈明治14年〉10月6… 香月 清司(かつき きよし、1881年〈明治14年〉10月6日 - 1950年〈昭和25年〉1月29日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。功二級。 佐賀県出身。陸士14期、陸大24期。 佐賀藩士・香月雄次の長男として生まれる。佐賀中学校、陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業した。 第12師団長、近衛師団長を歴任、1937年(昭和12年)7月11日には重篤となった田代皖一郎中将に代わって、盧溝橋事件渦中の支那駐屯軍司令官に、同年8月の北支那方面軍創設で第1軍司令官となり、河北省での作戦を指揮した。盧溝橋事件の停戦協定を結ぶ際に宋哲元と和平しようとしたものの、蒋介石が宋に妥協を禁じたために失敗した。
折下 吉延(おりしも よしのぶ、1881年10月5日 - 1… 折下 吉延(おりしも よしのぶ、1881年10月5日 - 1966年12月23日)は、日本の造園家、都市計画家。官庁技師として活躍。また造園分野の教育者として後進の指導に当たった。日本における公園整備の第一人者として、世界的に知られる。 山形県新庄市出身。1881年(明治14年)新庄藩主戸沢子爵の東京麻布の邸内に、山形県士族折下済の長男として生まれた。麻布中学校、第一高等学校を経て、1908年(明治41年)東京帝国大学農科大学農学科を卒業。卒業後、宮内省内苑寮園芸掛技手となって新宿御苑に奉職。福羽逸人の指導の下で御苑と代々木御料地の管理に関与。御苑にて、洋蘭の品種改良や菊、果樹疏莱、庭園芸などを研究した。
岡本 馬太郎(おかもと うまたろう、1881年〈明治14年〉… 岡本 馬太郎(おかもと うまたろう、1881年〈明治14年〉10月4日 - 1958年〈昭和33年〉4月30日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 愛媛県風早郡横谷村(温泉郡河野村、北条町、北条市を経て現松山市横谷)出身。1901年愛媛県小学校教員養成所(現・愛媛大学教育学部)卒。小学校教諭、河野村長、愛媛県議、同議長、県農会長、同乾繭組合連合会長となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では愛媛1区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本進歩党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。1951年追放解除。1958年死去。
中川 正左(なかがわ しょうざ、1881年(明治14年)10… 中川 正左(なかがわ しょうざ、1881年(明治14年)10月3日 – 1964年(昭和39年)1月19日)は、日本の鉄道官僚。実業家。教育者。 奈良県吉野郡十津川村出身。1905年(明治38年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。逓信省鉄道局に入り、逓信書記官、鉄道院参事、同理事、中部鉄道管理局運輸課長、逓信大臣秘書官、鉄道院総裁秘書、鉄道省運輸局長、鉄道次官を歴任した。 退官後は、東京地下鉄道副社長、日満亜麻紡織株式会社取締役、玉川電鉄取締役、池上電気鉄道取締役、目黒蒲田電鉄取締役、東京横浜電鉄取締役、東武鉄道取締役、理研重工業取締役、鉄道同志会理事・副会長・会長、ジャパンツーリストビューロー常務理事、帝国自動車協会副会長、日本交通協会常務理事・会長、日満実業協会監事・常務理事、東亜経済懇談会常務理事、東京商工会議所交通部長、鉄道軌道統制会会長、東京帝国大学経済学部講師、拓殖大学講師、昭和高等鉄道学校校長、豊島商業学校校長、東京交通短期大学学長など多くの公職に就いた。
田代 皖一郎(たしろ かんいちろう、1881年〈明治14年〉… 田代 皖一郎(たしろ かんいちろう、1881年〈明治14年〉10月1日 - 1937年〈昭和12年〉7月16日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。佐賀県多久市出身。陸士15期、陸大25期。 第一次上海事変終結直前にテロに倒れた派遣軍司令官白川義則大将の参謀長として事件を早期に収拾し、その手腕は高く評価された。その後、支那駐屯軍司令官となるが病を得て、司令官の職を香月清司中将に譲り、1937年(昭和12年)7月16日に亡くなった。盧溝橋事件が起ったとき、北京武官だった今井武夫陸軍少将は戦後、当時を回想して、「穏健で部下から信望を集めていた田代軍司令官が、危篤状態でなく、健在だったならば、日中戦争にいたらなかったかもしれない。
増永 元也(ますなが げんや、1881年10月 - 1956… 増永 元也(ますなが げんや、1881年10月 - 1956年7月5日)は、日本の官僚、政治家。衆議院議員。
栂尾 祥雲(とがのお しょううん、1881年9月30日 - … 栂尾 祥雲(とがのお しょううん、1881年9月30日 - 1953年5月27日)は、真言宗の僧、仏教学者。 香川県三野郡吉津村(現・三豊市)の宮本伝蔵の三男。幼名は伊半太。1891年仁尾村(現・三豊市仁尾町)の不動護国寺栂尾本元について得度、養子となって祥雲と名のる。真言宗連合高等中学卒。1910年高野山大学講師、1921年ヨーロッパ、インドに学ぶ。1924年帰国、高野山大学教授。1945年学長。1947年高野山密教研究所長。
井田 金七(いだ きんしち、1881年〈明治14年〉9月26… 井田 金七(いだ きんしち、1881年〈明治14年〉9月26日 - 1932年〈昭和7年〉11月23日)は、日本の酒造家、政治家(群馬県会議員、群馬県佐波郡玉村町長、同町会議員)、群馬県多額納税者。前名・保一。11代・井田金七の長男として生まれ、12代・金七を襲名した。 群馬県佐波郡玉村町大字上新田に生まれる。生家・井田家は江戸時代には日光例幣使街道・玉村宿の名主・問屋・脇本陣を務める家柄で、宝永2年(1705年)より酒造業・和泉屋を営んだ。遠祖は畠山重忠とも、那波一族とも那波氏の家臣ともいい、17世紀の井田勘解由を初代としている。 11代井田金七の長男として生まれた保一は、東京の旧制開成中学校を卒業。
花見 朔巳(はなみ さくみ、1881年9月23日 - 194… 花見 朔巳(はなみ さくみ、1881年9月23日 - 1946年4月27日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学史料編纂官、大学講師などを務める。主な研究対象は会津、名古屋、安土桃山時代の三分野で、安土桃山史の権威であった。歴史地理学会幹事。 海軍中佐(海兵57期)で天霧駆逐艦長としてJ.F.ケネディー海軍中尉指揮する魚雷艇を撃沈し、戦後に塩川町長を務めた花見弘平、陸軍少佐の花見侃(第36師団参謀、陸士47期、陸大57期)は甥である。 現在の福島県喜多方市に地主の次男として生まれる。会津中学に学び、植村恒三郎、陸軍少将佐藤美千代と同期であった。1903年に第二高等学校を卒業し、1906年に東京帝国大学文科大学を卒業。
青木 賢一郎(あおき けんいちろう、1881年〈明治14年〉… 青木 賢一郎(あおき けんいちろう、1881年〈明治14年〉9月20日 - 1940年〈昭和15年〉5月25日)は、日本の政治家。長野県会議員。長野県参事会員。長野県下高井郡養蚕業組合長。有限責任北信共同乾繭販売組合理事。 長野県下高井郡延徳村(現・中野市)生まれ。青木彦兵衛の長男。小県蚕業学校、足利工業学校を卒業。県農工技手に就任。 1年志願兵として歩兵第15連隊に入り累進、中尉に任官。日露戦争に従軍して、勲六等、功五級金鵄勲章を賜う。凱旋後下高井郡農商学校教諭となった。中野農学校養蚕教師として奉職し、1923年に退職。 下高井郡書記、郡農会技師、農林技師、県農会技師、須坂支所長等を歴任。1906年以来県養蚕連合会に関係し、県養蚕連合会評議員、全国養蚕連合会評議員である。
倉田 謙(くらた けん、1881年9月19日 - 1940年… 倉田 謙(くらた けん、1881年9月19日 - 1940年1月9日)は、日本の建築家。明治末期から昭和初期にかけて九州帝国大学技師を務め、九州大学(箱崎キャンパス)の校舎を多く設計したことで知られる。 1881年(明治14年)、東京生まれ。第一高等学校(旧制)を経て、1906年(明治39年)東京帝国大学工科大学建築学科を卒業(岡田信一郎、本野精吾らと同期)。 京都市嘱託技師、東京高等工業学校講師を経て、1911年(明治44年)11月、創設されたばかりの九州帝国大学技師に就任し、臨時建築掛長として大学施設の整備に当たる。その後、1918年(大正7年)、臨時建築掛が建築課になるとその初代課長に就任。