渡邊 玄宗(わたなべ げんしゅう、俗名:青柳与兵次、明治2年… 渡邊 玄宗(わたなべ げんしゅう、俗名:青柳与兵次、明治2年10月25日(1869年11月28日) - 昭和38年(1963年)12月9日)は、日本の曹洞宗の僧侶。總持寺独住17世貫首(円鑑不昧禅師)。号は本行。 曹洞宗の僧ながら、臨済宗円覚寺派宮路宗海の元に数年にわたり参禅し印可を得ている。近世以降、曹洞宗の僧で臨済宗の祖室を究めた人物は玄宗ただ一人とも言われている。 1869年(明治2年)、新潟県三島郡日吉村鳥越(現、長岡市)の農家青柳家の次男に生まれる。指物師の箕山家に養子に入るも、出家を望み、1892年に長野県松本市泉龍寺の渡邊俊龍に就いて出家する。 1897年に富山市光厳寺に移って修行を重ね、哲学館仏教専修科にも通学する。
増田 義一(ますだ ぎいち、1869年11月24日〈明治2年… 増田 義一(ますだ ぎいち、1869年11月24日〈明治2年10月21日〉 - 1949年〈昭和24年〉4月27日)は、日本の出版人、政治家。 新潟県中頸城郡板倉村戸狩(現上越市板倉区)に、父清四郎、母タケの次男として生まれる。12歳で豊原小学校高等科を卒業後、すぐさま代用教員となり、その後、独学で教員中等免状を取得。17歳で父を亡くし、母を亡くした1889年春、教員を辞し、改進党系の髙田新聞社に入社。翌1990年、東京専門学校(現早稲田大学)邦語政治科に入学、1893年9月に卒業し、同校研究科に進む。1894年、読売新聞社に入社し経済部記者となるかたわら、1889年、改進党系の髙田新聞社に入社。
曽根 松太郎(そね まつたろう、明治2年10月20日(186… 曽根 松太郎(そね まつたろう、明治2年10月20日(1869年11月23日) - 昭和20年(1945年))は、日本の教育者。文化書房主。号は金僊。 伊予国宇和郡吉田(現在の愛媛県宇和島市)出身。小学校訓導、松山中学校教諭、郡視学を歴任。1901年(明治34年)、金港堂に入り、雑誌「教育界」編集主任となった。1911年(明治44年)に独立して明治教育社を設立するが、やがて廃業した。1919年(大正8年)より南北社で編集長となるが、1922年(大正11年)に文化書房を興して再び独立した。 その他、東洋美術協会理事、中央教育品協会理事、愛媛県同交会長、帝国教育会評議員・出版部長、同理事を務めた。
秋鹿 見橘(あいか けんきつ、1869年11月20日(明治2… 秋鹿 見橘(あいか けんきつ、1869年11月20日(明治2年10月17日) - 1954年(昭和29年)12月8日)は、明治から昭和時代前期の教育者。師範学校校長を歴任した後、沼津精華学園を創設。「我が国教育の急務は女子教育にあり」として、女子教育に尽力した。 1869年、徳川家とともに静岡に移った幕臣・秋鹿見山の長男として、沼津城下の棟割長屋に生まれる。沼津兵学校ゆかりの集成舎(沼津小学校)に学び、江原素六が設立し米山梅吉が学んだ私立沼津中学校を経、県立静岡師範学校に進み、1887年年3月29日、静岡県尋常中学校卒業。 上京して1888年4月、高等師範学校文学科に入学、1891年卒業。新潟県師範学校、及び各地の師範学校に勤務。
岩崎卓爾(いわさき たくじ、明治2年10月17日(1869年… 岩崎卓爾(いわさき たくじ、明治2年10月17日(1869年11月20日) - 昭和12年(1937年)5月18日)は日本の気象観測技術者。石垣島において気象観測を通じ台風の研究を行った一方、沖縄県八重山地方の生物や民俗、歴史に関する研究も行い、著書などを通じて、それまであまり世に知られていなかった同地を広く世に知らしめた。南方熊楠同様、当時としては珍しい地方に根を下ろした多面的文化人といえる。 号は糸数原主人、袋風荘(たいふうそう)主人、蝶仙、蝶翁。 明治2年10月17日(1869年11月20日)、仙台藩士の子として宮城県仙台市に生まれる。第二高等中学校(現 東北大学)へ入学するも在学中に気象技師を志し中退。
松永 武吉(まつなが たけきち / ぶきち、1869年11月… 松永 武吉(まつなが たけきち / ぶきち、1869年11月19日(明治2年10月16日) - 1936年(昭和11年)1月15日)は、日本の逓信・朝鮮総督府官僚。官選島根県知事、錦鶏間祗候。 鹿児島県で旧薩摩藩士松永包泰の二男として生まれる。1891年7月、帝国大学法科大学を卒業。同年8月、逓信省に入省し試補・電気局勤務となる。 以後、逓信省事務官・大臣官房勤務兼電務局外信課長、同大臣官房秘書課長心得、同大臣秘書官、同大臣官房秘書課長、同参事官、横浜郵便電信局長、兼外務省参事官、郵便為替貯金管理所長、逓信省総務局文書課長、大阪通信管理局長などを歴任。 1904年11月、島根県知事に就任。1908年3月、知事を休職となり、1910年3月、休職満期。
麻田 駒之助(あさだ こまのすけ、明治2年10月14日(18… 麻田 駒之助(あさだ こまのすけ、明治2年10月14日(1869年11月17日) - 昭和23年(1948年)11月24日)は、日本の出版者、中央公論社の初期の社長。『ホトトギス』の俳人で俳号を椎花。 京都出身。京都府人麻田栄之進の長男として生まれ、京都府立中学校(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)卒。西本願寺内局に勤務し、大谷光瑞の意向により1892年(明治25年)、反省会庶務係となり上京、『反省雑誌』の編集に当たる。1899年(明治32年)同誌を『中央公論』と改称。1904年(明治37年)、反省会社長となり、滝田樗陰が編集を担当して言論・文芸雑誌として売り上げを拡大したため編集実務を滝田に委ね、1914年(大正3年)に社名を中央公論社と改めた。
水越 理庸(みずこし りよう、1869年11月14日(明治2… 水越 理庸(みずこし りよう、1869年11月14日(明治2年10月11日) - 1925年 (大正14年)6月22日)は、愛知県出身の官僚、実業家。位階および勲等は従四位・勲五等。
南 弘(みなみ ひろし、1869年11月13日〈明治2年10… 南 弘(みなみ ひろし、1869年11月13日〈明治2年10月10日〉- 1946年〈昭和21年〉2月8日)は、日本の官僚・政治家。 後の富山県氷見市仏生寺の豪農岩間覚平の次男・鉄郎として生まれる。岩間家は3代にわたり県会議員を輩出した名望家で、広大な屋敷地や山林を所有していた。生家の近くに御田神社があり、幼少時よりその宮司平井正承の教えを受けた。その後仏生寺小学校、富山中学校、第四高等学校に進み、1896年(明治29年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、文官高等試験に合格し官僚となった。 その後、同県高岡の旧家出身で第2代富山県会議長を務めた南兵吉の養子となり、その長女・操と結婚した際、「弘」と改名した。
西村 種礼(にしむら たねのり、1869年11月13日(明治… 西村 種礼(にしむら たねのり、1869年11月13日(明治2年10月10日) - 1932年(昭和7年)1月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 鹿児島県の阿久根出身。阿久根村長白浜貫以は兄。陸軍士官学校に入るが、眼病のため転学し、慶應義塾で学ぶ。事情により慶応義塾も中退し、阿久根へ帰郷して学務委員となる。農業と漁業を営む。兄貫以の後をうけ阿久根村長に就任。その後鹿児島県会議員、同参事会員、地方森林会議員となる。1908年鹿児島県会副議長。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において鹿児島県郡部から立憲政友会公認で立候補してトップ当選する。衆議院議員を1期務め、1920年の第14回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
横田 五郎(よこた ごろう、明治2年10月8日(1869年1… 横田 五郎(よこた ごろう、明治2年10月8日(1869年11月11日) - 没年不詳)は、日本の裁判官、検事。男爵横田國臣の弟。 豊前国宇佐郡封戸村(現在の大分県宇佐市)にて、島原藩士の子として生まれる。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。東京地方裁判所判事、同部長、検事・司法省参事官、東京控訴院検事、横浜地方裁判所所長を歴任した。のち、朝鮮総督府法務局長に転じ、さらに朝鮮総督府高等法院長も務めた。
高島 七郎右衛門(たかしま しちろうえもん、1869年11月… 高島 七郎右衛門(たかしま しちろうえもん、1869年11月9日(明治2年10月5日) - 1923年(大正12年)11月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。福井県多額納税者、福井新聞発起人(取締役)、越前電気取締役、越前製瓦代表、農業。旧名・多作。 福井県出身。東京法学院で学ぶ。丹生郡立待村(現在の鯖江市)会議員、同村長、福井銀行、越前電気各(株)取締役、福井県農工銀行監査役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において福井4区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1923年に現職のまま死去した。
江原 節(えはら せつ、1869年11月9日〈明治2年10月… 江原 節(えはら せつ、1869年11月9日〈明治2年10月6日〉 - 1921年〈大正10年〉1月19日)は、日本の政治家・衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。族籍は栃木県平民。 下野国河内郡、のちの栃木県河内郡平石村(現宇都宮市)に生まれる。栃木県平民・吉沢直次郎の弟。1889年(明治22年)、江原常蔵の死跡を相続する。はじめ栃木県師範学校に入学したが、東京専門学校(現在の早稲田大学)に移り、法律学を研究し、1890年(明治23年)に邦語法律科を卒業した。 代言人試験に合格した。1893年(明治26年)、弁護士事務所を宇都宮に設け、訴訟事務に従事する。宇都宮市会議員、同参事会員に選出された。 1906年(明治39年)、衆議院議員に補欠当選を果たした。
土肥 春曙(どい しゅんしょ、1869年11月9日(明治2年… 土肥 春曙(どい しゅんしょ、1869年11月9日(明治2年10月6日)- 1915年(大正4年)3月2日)は、日本の新派俳優、劇作家である。春曙は芸名で、本名は庸元。 書家であった土肥直康(樵石) とその妻のカジュの長男として、肥後に生まれる。東京専門学校(現在の早稲田大学)文科一期生として入学後、坪内逍遥に師事した。卒業後は読売新聞に勤務し、ジャーナリストとしての活動を経て、1901年(明治34年)には川上音二郎が座長を務める一座の座員となり、ヨーロッパ巡業に参加し、通訳等を務め俳優への道を志した。 帰国後は、大学時代の師匠である逍遥に再度師事し朗読会である「易風会」を創設に携わり、1906年(明治40年)には逍遥らが創設した文芸協会の設立時の俳優として、多くの作品に出演し主役を務め、端正な容貌や近代的な演技として名を馳せた。
小田切 磐太郎(おたぎり いわたろう、明治2年10月3日〈1… 小田切 磐太郎(おたぎり いわたろう、明治2年10月3日〈1869年11月6日〉 - 1945年〈昭和20年〉9月22日)は、明治後期から大正初期にかけての日本の内務官僚・官選県知事、昭和戦前期にかけての弁護士・政治家・実業家である。 現在の長野県須坂市の出身で、政界では衆議院議員(当選2回)、実業界では信濃電気の副社長や長野商工会議所会頭を務めた。 小田切磐太郎は、明治2年10月3日(新暦:1869年11月6日)、小田切豊太郎の長男として生まれた。父・豊太郎は長野県上高井郡須坂町、現在の須坂市の豪商小田切家(屋号は「東糀屋」)の一族で、3代目小田切新蔵の弟にあたる。1875年(明治8年)より須坂の地場産業である製糸業(山ヨ製糸所)を経営していた。
福田 辰五郎(ふくだ たつごろう、明治2年10月1日(186… 福田 辰五郎(ふくだ たつごろう、明治2年10月1日(1869年11月4日) - 大正7年(1918年)8月5日)は、衆議院議員(維新会→新政会)、弁護士。旧姓・丸山。 武蔵国入間郡南畑村(現在の埼玉県富士見市)出身。自由民権運動活動家で埼玉県会議員・衆議院議員の福田久松の養子となる。1890年(明治23年)、東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業し、翌年には東京法学院(現在の中央大学)を卒業。高等文官試験に合格して、前橋地方裁判所検事に任命された。1894年(明治27年)、横浜地方裁判所上席検事に昇進した。1898年(明治31年)、司法大臣曾禰荒助の勧めでアメリカ合衆国に留学した。アメリカではイェール大学・コロンビア大学で学び、博士号を取得した。
水上 斉之助(みずかみ さいのすけ / せいのすけ、1869… 水上 斉之助(みずかみ さいのすけ / せいのすけ、1869年11月4日〈明治2年10月1日〉 - 1944年〈昭和19年〉10月25日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 陸前国気仙郡吉浜村(のち岩手県気仙郡吉浜村→三陸村→三陸町、現・大船渡市)出身。気仙郡唐丹村(現・釜石市)で長年にわたり、水産業に従事する。兄の水上助三郎とともに千島列島近海のサケ・マス漁業やラッコ・オットセイ猟、メキシコ沿岸でのマグロ・カツオ漁に出漁し、帰国後は吉浜湾でのアワビの養殖に手を染め、中国への輸出を手掛けた。 政治面では、1910年に唐丹村会議員となり、3期務める。ほか、気仙郡会議員となり、1930年の第17回衆議院議員総選挙において岩手2区から立憲民政党公認で立候補して当選し、衆議院議員を1期務めた。
小山 松吉(こやま まつきち、1869年11月1日〈明治2年… 小山 松吉(こやま まつきち、1869年11月1日〈明治2年9月28日〉- 1948年〈昭和23年〉3月27日)は、日本の法学者、司法官僚、政治家。学位は法学博士。検事総長、司法大臣、貴族院勅選議員、法政大学総長を歴任。茨城県出身者では初の国務大臣である。 水戸の米穀商・高瀬儀平次の三男として生まれ、15歳で岡山県士族・小山高光の養子となる。二松学舎の学僕(学費免除の住み込み学生)を経て、獨逸学協会学校(現在の獨協大学)専修科を卒業し、法曹会雑誌編集委員、内田康哉内閣総理大臣臨時代理の奏請により懲戒裁判所検事、大審院検事などを経て1924年(大正13年)に検事総長となり、1932年(昭和7年)に齋藤内閣の司法大臣に就任するまでの8年間これを勤めた。
上山 満之進(かみやま まんのしん / みつのしん、1869… 上山 満之進(かみやま まんのしん / みつのしん、1869年10月31日〈明治2年9月27日〉- 1938年〈昭和13年〉7月30日)は、日本の官僚、政治家。農商務次官、台湾総督、貴族院議員、枢密顧問官。 郷里では旧藩主毛利敬親や毛利元徳の伝記編纂所の所長を務め、郷土史研究の出版や史跡跡保存事業などにも私費を投じた。上山の寄付で防府市立三哲文庫(現:防府市立防府図書館)が開館したことから「防府図書館の父」と呼ばれている。 周防国佐波郡江泊村(現:山口県防府市大字江泊)出身。庄屋格の上山与左衛門の二男として生まれる。周陽学舎)、山口中学、山口高等中学を経て、1895年(明治28年)7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業した。
石井 良一(いしい りょういち、1869年10月30日(明治… 石井 良一(いしい りょういち、1869年10月30日(明治2年9月26日)- 1950年(昭和25年)7月8日)は、日本の実業家、政治家、郷土史研究家。福岡県若松市長。旧姓・山崎。 肥前国杵島郡武雄村下西山(現佐賀県武雄市)で山崎又七の三男として生まれる。1884年6月、武雄中学校を卒業して九州鉄道に入社。1887年11月、石井宗直の婿養子となり石井に改姓。 九州鉄道では福岡、博多、小倉、門司の各駅長、門司運輸事務所長、本社調査係長などを務め、1907年7月、鉄道国有化後に帝国鉄道庁参事となる。1910年9月、植村俊平大阪市長に迎えられ大阪市主事となり、さらに大阪市電気鉄道部長を務めた。 1914年から1922年まで福岡県若松市長を務め、この間、武雄に株式会社蓬莱銀行を設立して頭取となった。
中村 清二(なかむら せいじ、明治2年9月24日〈1869年… 中村 清二(なかむら せいじ、明治2年9月24日〈1869年10月28日〉 - 1960年〈昭和35年〉7月18日)は日本の物理学者。位階および勲等は正三位・勲一等。 光学、地球物理学の研究で知られ、光弾性実験、色消しプリズムの最小偏角研究などを行なった。地球物理学の分野では三原山の大正噴火を機に火山学にも興味を持ち、三原山や浅間山の研究体制の整備に与力している。また、精力的に執筆した物理の教科書や、長きに亘り東京大学で講義した実験物理学は日本における物理学発展の基礎となった。1925年に創刊された理科年表には、物理部の監修者として名を連ねている。 定年後は八代海の不知火や魔鏡の研究を行なった。
望月 信亨(もちづき しんこう、1869年10月28日〈明治… 望月 信亨(もちづき しんこう、1869年10月28日〈明治2年9月24日〉 - 1948年〈昭和23年〉7月13日)は、日本の仏教学者・浄土宗僧侶。浄土宗総本山知恩院第82世門跡。 1869年、福井県今立郡国高村(現:越前市)で生まれた。本名は松原勝次郎。小学校を卒業した12歳の時に坂井郡新保村の円海寺に入り、加納法宣師のもとで得度。名を信亨と改め、浄土宗の僧籍に加わった。 18歳の時、京都に出て浄土宗西部大学林に入学。20歳の時、大正大学の前身たる浄土宗学本校に入り、仏教学を学んだ。25歳の時に望月有成(兵庫県藤之寺住職)の養子となった。1896年、27歳の時に浄土宗学本校全科を卒業した。 その後は浄土宗高等学院教授となった。
矢橋 賢吉(やばし けんきち、1869年10月24日(明治2… 矢橋 賢吉(やばし けんきち、1869年10月24日(明治2年9月20日) - 1927年(昭和2年)5月24日)は、日本の建築家。大蔵省営繕官僚。明治建築界三大巨匠の一人とされた大蔵省営繕の妻木頼黄の右腕。国会議事堂・旧総理大臣官邸 (総理大臣公邸)・枢密院庁舎(皇宮警察本部) などが代表的な作品。近代公共建築の中心人物。死没日をもって、勲二等旭日重光章受章、叙正三位。「先祖は嵯峨天皇の第12皇子で光源氏の実在モデルの有力候補とされる源融(みなもとのとおる)にまで遡る(アーカイブ)」矢橋家・惣本家の出身。 美濃国不破郡赤坂村出身。父は惣本家当主・矢橋藤十郎、母は矢橋宗太郎二女勝後改幾世。矢橋徳次郎は賢吉の長兄、矢橋為吉は次兄。
角田 浩々歌客(かくだ こうこうかきゃく、明治2年9月16日… 角田 浩々歌客(かくだ こうこうかきゃく、明治2年9月16日〈1869年10月20日〉 - 1916年〈大正5年〉3月16日)は、明治時代の詩人、北欧文学者、文芸評論家、新聞記者。本名:角田勤一郎。大阪の論壇・文壇で重きを成して世論形成に大きな力を持ち、東の坪内逍遥と並び称された。 新聞社ごとに号や筆名を使い分け、『國民新聞』では岳麓布衣、『大阪朝日新聞』では不二行者、出門一笑、『大阪毎日新聞』では迂鈍居士、鈍右衛門、『読売新聞』では剣南、伊吹郊人、豹子頭、『東京日日新聞』では浩々而歌閣主、他、剣南道士など。 駿河国富士郡大宮町(現・静岡県富士宮市)生まれで旧静岡藩士の家系。佐野天声の実兄である。
藤田 豊八(ふじた とよはち、1869年10月19日(明治2… 藤田 豊八(ふじた とよはち、1869年10月19日(明治2年9月15日) - 1929年(昭和4年)7月15日)は、明治・大正期の東洋史学者。文学博士。号は剣峰。 阿波国美馬郡郡里村(現・徳島県美馬市)に生まれる。徳島中学校、第三高等学校を経て、1895年(明治28年)帝国大学文科大学漢文科卒業。 早稲田大学や東洋大学において中国文学史を講じるかたわら、1896年小柳司気太・田岡嶺雲らと東亜学院を創立、「江湖文学」を創刊した。上海に渡り、1898年東文学社を設立、1904年広州では教育事業に協力、1905年蘇州の江蘇師範学堂を設立、1909年北京大学の教習として招聘されるなど中国の教育水準の向上に尽力した。
勝田 主計(しょうだ かずえ、1869年10月19日〈明治2… 勝田 主計(しょうだ かずえ、1869年10月19日〈明治2年9月15日〉- 1948年〈昭和23年〉10月10日)は、日本の大蔵官僚、政治家。理財局長、大蔵次官、蔵相、文相、内閣参議を歴任。同郷の俳人・正岡子規や海軍軍人・秋山真之の友人だった。勝田宰州、勝田明庵は俳号。 1869年(明治2年)、伊予国松山一番町(現在の愛媛県松山市)に生まれた。松山藩士・勝田久廉の五男。 勝山学校、伊予尋常中学、一高を経て、1895年(明治28年)に東京帝国大学法科大学を卒業、大蔵省に入省。主税局属。1901年(明治34年)6月の函館税務管理局長兼税関長時代に関税法などの調査のために2年間ヨーロッパに派遣される。
福田 笑迎(ふくだ しょうげい、1869年10月18日 - … 福田 笑迎(ふくだ しょうげい、1869年10月18日 - 1909年)は、日本の画家、著作家である。 出羽国五十目村(後の秋田県五城目町)の甚助・いへの第二子で長男として生まれる。生家は肝煎などの村役人を務めてきた旧家で、代々薬種商を営み、地主でもあった。幼名は貞助。幼少の頃より文才・画才に秀でて、当初は「瑞稲(ずいとう)」の号を用いて絵を描いていた。12歳のころに名を禎輔と改め、14歳ころからは笑迎の号を名乗っている。 生家が裕福な旧家であったため多くの書画を所有しており、就学前からそれらに親しんだ笑迎は、みずからも絵筆を走らせるようになっていた。師匠はなく、生家所蔵の書画を手本にした独学であったことから、作風には文人画、狩野派、浮世絵の画風が入り交じった独特のものになっている。
松村 八次郎(まつむら はちじろう、1869年10月15日(… 松村 八次郎(まつむら はちじろう、1869年10月15日(明治2年9月11日) - 1937年9月8日)は、日本の陶業家。 肥前国松浦郡曲川村(現在の佐賀県西松浦郡有田町)出身。1891年に東京高等工業学校陶器玻璃工科を卒業し、さらに専攻科で学んだ。1892年に名古屋の松村九助の養子となった。 1896年に硬質磁器の特許を得て、1902年に生産を始めた。
海山 太郎(かいざん たろう、1869年10月14日(明治2… 海山 太郎(かいざん たろう、1869年10月14日(明治2年9月10日) - 1931年(昭和6年)6月6日)は、土佐国土佐郡比島(現在の高知県高知市比島)出身で友綱部屋(入門は大坂相撲の猪名川部屋)に所属した大相撲力士。本名は笠井 兎之助(かさい とのすけ、外之助とも)。身長173cm、体重99kg。怪力で知られ、得意手は、小手投げ、すくい投げ、合掌捻り。最高位は関脇。二所ノ関一門の源流を創り上げた。 板垣退助の知遇を得て、高知市潮江新田の板垣邸内の角力場で稽古を積む。大坂相撲の猪名川部屋に入門し、鏡川の四股名を名乗る。1890年(明治23年)5月、板垣退助の推薦により同郷の初代海山太郎が師匠を務める東京の友綱部屋へ移籍、序二段付出となる。
木下 尚江(きのした なおえ、1869年10月12日(明治2… 木下 尚江(きのした なおえ、1869年10月12日(明治2年9月8日)- 1937年(昭和12年)11月5日)は、日本の社会運動家、作家。尚江は本名。 信濃国松本城下(現長野県松本市)に松本藩に代々仕えた下級武士であった木下廉左衛門秀勝の子として生まれる。生来病弱で、5歳の時には重い熱病を患い生死の間をさまよった。父は1876年(明治7年)には巡査となっている。開智学校に入学し、啓蒙主義教育を受ける。1877年に松本で自由民権運動が始まり、祖母に連れられて演説会を聞いていた。また在学中には福沢諭吉『学問のすゝめ』を読んで感動する。1881年に長野県中学校松本支校入学。この頃オリバー・クロムウェルを知って革命を意識、また飯田事件の被告が裁判所に送られる姿を見て怒りを覚える。
金子 有道(かねこ ありみち、1869年10月4日(明治2年… 金子 有道(かねこ ありみち、1869年10月4日(明治2年8月29日)- 1938年(昭和13年)3月18日)は、明治後期から昭和初期の政治家、歌人、神職、華族。貴族院男爵議員。旧名・健麿。 石見国安濃郡川合村(現島根県大田市川合町川合)で物部神社社家・金子有卿の長男として生まれる。父の隠居に伴い、1920年(大正9年)8月30日、男爵を襲爵した。 皇典講究所で学び、1896年(明治29年)物部神社禰宜に就任。1916年(大正5年)御歌所編纂部に嘱託として加わり、『明治天皇御集』『昭憲皇太后御集』の編纂に従事した。その他、久邇宮家御用掛、大礼使典儀官、御歌会始奉行、同頌講、御歌所参候などを務めた。
平出 鏗二郎(ひらで こうじろう、明治2年8月21日(186… 平出 鏗二郎(ひらで こうじろう、明治2年8月21日(1869年9月26日) - 明治44年(1911年)12月19日)は、日本の国文学者・歴史家。字あるいは号は鏗痴。明治期における風俗史研究で知られる。 明治2年(1869年)、尾張国名古屋(現・愛知県名古屋市)に生まれる。 明治23年(1890年)、愛知県立医学専門学校を卒業、翌年上京し、東京帝国大学文科大学国文学科に入学。 明治27年(1894年)、同大学を卒業して文部省図書課に勤め、教科書の検定審査を担当する傍ら、文科大学史料編纂所員として江戸時代国学者の伝記史料を蒐集した。 明治33年(1900年)、史料編纂員を経て文部省を退官。のち小学校修身教科書起草および教科書検定嘱託に就任。
木下 正中 (きのした せいちゅう、1869年9月24日(明… 木下 正中 (きのした せいちゅう、1869年9月24日(明治2年8月19日) - 1952年(昭和27年)1月1日)は、日本の産婦人科医師・医学者。医学博士、東京帝国大学教授。 1869年(明治2年)、木下凞(ひろむ。1844年 - 1914年)の長男として若狭国小浜に出生。木下家はもと小浜藩の藩医の家で、木下宗白が杉田玄白に師事して蘭方外科医になったのに始まり、凞が4代目にあたる。凞は明治維新によって官医となり、1869年(明治2年)から1873年(明治6年)にかけて横浜でヘボンとシモンズに就いて西洋医学の経験を積んだ。その後、京都に移って京都療病院(現在の京都府立医科大学)に勤務、のちに産婦人科医を開業した。
斯波 貞吉(しば ていきち、明治2年8月17日(1869年9… 斯波 貞吉(しば ていきち、明治2年8月17日(1869年9月22日) - 昭和14年(1939年)10月14日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、ジャーナリスト。 越前国福井に、藩士斯波有造の長男として生まれる。1891年(明治24年)にオックスフォード大学を卒業した後、東京帝国大学文科大学英文科に入り、1896年(明治29年)にその選科を卒業した。盛岡中学校と高輪中学校で教鞭をとり、さらに仏教大学(現在の龍谷大学)の教授を務めた。 1899年(明治32年)、黒岩涙香に招かれて「萬朝報」に入社した。当初は英文記者であったが、やがて編集局長、さらに主筆を務めた。特に普選運動には積極的に取り組んだ。
安藤 橡面坊(あんどう とちめんぼう、1869年9月21日(… 安藤 橡面坊(あんどう とちめんぼう、1869年9月21日(明治2年8月16日) - 1914年(大正3年)9月25日)は、岡山県出身の俳人。本名錬三郎。別号に影人、橡庵など。小田郡新賀(現笠岡市)生。1897年に大阪毎日新聞社に入社。校正部長を務めた。俳句ははじめ高浜虚子選の『国民新聞』に投句、のち正岡子規選の『日本』紙に投句。1901年、初代選者の桜井芳水の死を受けて「毎日唫壇(ぎんだん)」の二代目選者。 子規の俳句革新運動に加わり関西俳壇を盛り立てる。亀田小蛄主宰の糸瓜会の同人として活躍し「車百合」「宝船」「アラレ」の選者も務めた。「鴨川は千鳥に交じる落ち葉かな」「草花を集めて地蔵祭かな」など、日本派風の温厚な写生句を作った 。
小泉 成一(こいずみ せいいち、明治2年8月16日〈1869… 小泉 成一(こいずみ せいいち、明治2年8月16日〈1869年9月21日〉 - 1920年〈大正9年〉10月27日)は戦前日本の洋画家。備後福山藩出身。本多錦吉郎・小山正太郎門下。神奈川県尋常師範学校、宮城県立仙台第二中学校、私立東北学院等で絵画を教えた。 明治2年(1869年)8月16日備後福山藩士小泉卯一郎の長男として備後国深津郡福山に生まれた。本籍は西町。明治4年(1871年)旧知藩事阿部正桓が上京を命じられると、9月一家で神戸港から海路上京し、東京府駒込西片町9番地(現在の文京区西片一丁目)丸山屋敷内に移り住んだ。 1882年(明治15年)10月2日彰技堂に入学して本多錦吉郎に洋画・英学を学び、1883年(明治16年)4月5日から1885年(明治18年)12月まで東京英語学校、1886年(明治19年)3月1日から12月まで東京仏語学校にも通った。
和合 英太郎(わごう えいたろう、1869年9月20日(明治… 和合 英太郎(わごう えいたろう、1869年9月20日(明治2年8月15日) - 1939年(昭和14年)6月11日)は、日本の実業家。大日本製氷社長。製氷業のパイオニアといわれる。また今日言うM&Aの先駆け的経営者でもあった。族籍は東京府士族。 広島市土手町出身。広島藩士・和合善男と梅子の長男。岡山中学校卒業。1890年、渋沢栄一や浅野総一郎などが株主として名を連ねる青山製氷所が設立されると同時に入社する。この時代は寒冷地から天然氷を切って輸送し販売、氷を貯蔵した氷室で食品保存を行っていた。このため大量の氷を扱う製氷業は大きなビジネスであった。 1897年、気候によって価格が左右されやすく供給も不安定な天然氷に代わり、本格的な製氷機(機械製氷)を導入した機械製氷株式会社が設立された。
下島 勲(しもじま いさおし、通称いさお、1869年9月20… 下島 勲(しもじま いさおし、通称いさお、1869年9月20日(明治2年8月25日) - 1947年(昭和22年)5月30日)は、日本の医師、俳人。号は空谷(くうこく)。 長野県伊那郡原村(現・駒ヶ根市)出身。上京後苦学して商業学校、ついで東京慈恵医院医学校を卒業し軍医となる。日清戦争・日露戦争などに従軍して陸軍一等軍医となり、1907年軍隊を退く。同年、東京都田端348番地(現・東京都北区田端1丁目15番)に、楽天堂医院を開業。田端鉄道病院に嘱託医師としても勤めた。書画・俳句などを通じて芥川龍之介・室生犀星・久保田万太郎・菊池寛・板谷波山・萩原朔太郎ら多くの文士・彫刻家・画家などと親交を深め、「道閑会」という田端在住の文士・芸術家達の交流の会の主要メンバーを務めた。
河村 金五郎(かわむら きんごろう、明治2年8月13日(18… 河村 金五郎(かわむら きんごろう、明治2年8月13日(1869年9月18日) - 昭和16年(1941年)3月29日)は、宮内官僚、枢密院書記官長。 津山藩士河村弘貞の長男として生まれる。1894年(明治27年)に東京帝国大学法科大学を卒業。内務省参事官を経て、1897年(明治30年)に枢密院書記官に任命された。その後、法制局参事官や行政裁判所評定官などを兼ねた。1908年(明治41年)、枢密院書記官長に昇進し、1910年(明治43年)には宮内次官も兼任した。1913年(大正2年)からは枢密院書記官長を辞し、宮内次官専任となった。1915年(大正4年)、退官。 退官後は日本郵船の監査役を務めた。
江見 水蔭(えみ すいいん、明治2年8月12日(1869年9… 江見 水蔭(えみ すいいん、明治2年8月12日(1869年9月17日) - 昭和9年(1934年)11月3日)は、岡山市生まれの小説家、翻訳家、編集者、冒険家。本名:忠功(ただかつ)。 文学作品を皮切りに、通俗小説、推理小説、冒険小説、探検記など多岐に渡る分野に作品を残し、硯友社、博文館など数々の出版社で雑誌の編集発行に関わった。代表作に小説『女房殺し』、『地底探検記』、随筆『自己中心明治文壇史』、翻案戯曲『正劇 室鷲郎』など。 江見忠功は岡山の一番町一番屋敷に生れた。父の鋭馬は水蔭が幼少の頃死去。1881年、叔父の水原久雄の勧めで軍人を志して上京したが、次第に文学に惹かれるようになり、15歳のときに軍人を諦める。
那波 光雄(なわ みつお、明治2年8月10日(1869年9月… 那波 光雄(なわ みつお、明治2年8月10日(1869年9月15日) - 1960年(昭和35年)4月1日)は、明治時代中期から大正時代の土木工学者、鉄道官僚。 岐阜県に生まれる。1893年(明治26年)帝国大学工科大学土木工学科を卒業後、恩師の白石直治に招請され関西鉄道に入社する。1899年(明治32年)京都帝国大学助教授に転じ、ドイツへ留学後、1902年(明治35年)教授に進む。1906年(明治39年)九州鉄道に入るが、翌年同社が解散すると帝国鉄道庁技師に転じ、中津建設事務所長となる。 ついで鉄道院大分建設事務所長、工務部設計課長を経て、1917年(大正6年)より東京帝国大学教授を兼ね、鉄道院総裁官房研究所所長を経て、1926年(大正15年)退官した。
宮沢 長治(みやざわ ちょうじ、明治2年8月10日(1869… 宮沢 長治(みやざわ ちょうじ、明治2年8月10日(1869年9月15日) – 昭和7年(1932年)2月16日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 信濃国水内郡住良木村(現在の長野県長野市中条)出身。1893年(明治26年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。弁護士を開業し、上水内郡会議員、同参事会員、長野県会議員、同議長に選ばれた。その他、長野新聞主筆・取締役を務めた。 1923年(大正12年)11月、長野県第3区の衆議院議員補欠選挙で当選を果たした。
大熊 三之助(おおくま さんのすけ、1869年9月15日(明… 大熊 三之助(おおくま さんのすけ、1869年9月15日(明治2年8月10日) - 1947年(昭和22年)7月27日)は、明治時代後期から昭和時代戦前の政治家。弁護士。公証人。衆議院議員(2期)。 美濃国、のちの岐阜県本巣郡席田村(本巣郡糸貫村、北方町を経て、現本巣市北方町)に生まれる。1892年(明治25年)東京法学院および明治法律学校を卒業し、代言人のち弁護士となる。 鮎の人工孵化に成功し事業継続のため長良川水産組合を組織し組合長となる。その後、長良川水産会長、同顧問、岐阜県水産会副会長、同顧問、岐阜商業会議所特別議員を歴任した。 ほか、公証人、公証人会長、全日本司法保護事業連盟会評議員、財団法人明徳会岐阜支部顧問、岐阜同仁会会長を務めた。
白石 正邦(しらいし まさくに、明治2年8月8日(1869年… 白石 正邦(しらいし まさくに、明治2年8月8日(1869年9月13日) - 昭和18年(1943年))は、日本の教育者。 東京府出身。1898年(明治31年)、東京帝国大学文科大学国史科を卒業し、大学院に入った。麻布中学校教諭、陸軍教授・中央幼年学校附、学習院教授・学生監を経て、東京府立第五高等女学校校長を務めた。1939年(昭和14年)、退官。
折原 巳一郎(おりはら みいちろう、明治2年8月7日〈186… 折原 巳一郎(おりはら みいちろう、明治2年8月7日〈1869年9月12日〉 - 1933年〈昭和8年〉11月13日)は、日本の内務官僚、政治家。政友会系官選県知事、衆議院議員。 上野国邑楽郡、のちの群馬県邑楽郡大箇野村(現板倉町)に、村長・県会議員として活躍した折原逸太郎の長男として生まれる。第一高等学校を経て、1896年(明治29年)に帝国大学法科大学を卒業。内務省に入り警保局属に任官し戸籍課に配属。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格。 1897年(明治30年)愛媛県参事官となり、以後、静岡県・和歌山県の各参事官、大阪府第三部長、滋賀県事務官・第一部長兼第三部長、福岡県・兵庫県の各内務部長などを歴任。
尹 致旿(ユン・チオ、朝鮮語: 윤치오、1869年9月10日… 尹 致旿(ユン・チオ、朝鮮語: 윤치오、1869年9月10日 - 1950年12月22日)は、韓国(大韓帝国及び日本統治時代の朝鮮)の教育者、官僚。号は子亨、字は東庵。日本名は伊東致旿。 牙山生まれ。尹英烈の9男3女のうちの長男。5歳から四書三経のような漢文学を学び、神童と呼ばれた。祖父の尹取東と学んでいたが開化の潮流が起こり、取東は致旿に学者になるよう勧め、早婚(年少期の婚約)後に高僧の多い表訓寺に入り、仏典と有学を修める。以後、3年はそれに専念した。最初の妻は金潤晶の娘。 開化の道へ入ることを決め、推薦で1894年議政府主事。同年甲申政変で親族の尹雄烈、尹致昊が開化派として関与したことで致旿も開化派とされたため日本へ亡命。
椋本 龍海(むくもと りゅうかい、1869年9月10日(明治… 椋本 龍海(むくもと りゅうかい、1869年9月10日(明治2年8月5日) - 1950年(昭和25年)1月16日)は、真言宗泉涌寺の第148世長老(真言宗泉涌寺派管長)。徳島県阿南市椿泊町(旧徳島県那賀郡椿村)出身。 樫野吉六(天保3年6月6日 - 1909年(明治42年)8月27日)とミナ夫妻の間に誕生(龍海は二男三女の次男)。父は徳島藩中老で阿波水軍を率いた森甚五兵衛の家臣(家禄の石高は五石七斗)であった。 1879年(明治12年)徳島県那賀郡椿村(現在の阿南市椿泊町)の福蔵寺で得度する。高野山大学で学び、藤村密翁和尚に師事。ついで東京に出て哲学館(現在の東洋大学)に入った。この間、縁あって泉涌寺事務長釈玄猷師の弟子となる。
河上 清吉(かわかみ せいきち、1869年9月6日(明治2年… 河上 清吉(かわかみ せいきち、1869年9月6日(明治2年8月1日) - 1936年(昭和11年)6月16日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 越前福井藩領、越前国丹生郡国見村(現・福井県福井市国見町)出身。1894年(明治27年)陸軍士官学校第5期卒業。 任官後、日清戦争・日露戦争に従軍。さらに、1914年(大正3年)8月に盛岡連隊区司令官を経て、1917年(大正6年)8月に陸軍歩兵大佐・歩兵第35連隊長(第9師団 歩兵第31旅団)に任官しシベリア出兵に出征した。 その後、1921年(大正10年)7月に陸軍少将・歩兵第36旅団長を経て、1924年(大正13年)2月4日に待命、同月26日に予備役に編入した。
雨宮 亘(あめみや わたる、明治2年7月26日(1869年9… 雨宮 亘(あめみや わたる、明治2年7月26日(1869年9月2日) - 大正7年(1918年)9月4日)は、日本の実業家。旧姓:広瀬。義父・雨宮敬次郎の死後その全事業をうけつぎ、北海道炭礦汽船、日本製鋼所、桂川電力、日本電燈、大日本軌道などの各取締役、監査役を務めた。栄典は従六位。 明治2年(1869年)7月26日山梨県七里村広瀬久光の三男として生まれる。帝国大学(現在の東京大学)を首席で卒業。明治27年(1894年)3月に雨宮敬次郎の婿養子となる。敬次郎は工学士である亘に岩手県の仙人鉄山(仙人製鉄所)の経営をまかせた。明治34年(1901年)横川目村の国有林の払下げを受け製鉄所までのトロッコを建設。
小林 八右衛門(こばやし はちえもん、1869年8月29日(… 小林 八右衛門(こばやし はちえもん、1869年8月29日(明治2年7月22日) - 1939年(昭和14年)1月1日)は、明治から昭和時代初期の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。前名は八重郎。 小林小太郎の長男として、のちの山梨県南巨摩郡増穂村(増穂町を経て、現在の富士川町)に生まれる。1901年(明治34年)2月、家督を相続する。山梨県立甲府中学校、早稲田専門学校を経て、東京法学院を卒業し、増穂村学務委員となる。ついで所得税調査委員、増穂村会議員、山梨県会議員、小林銀行頭取、山梨農工銀行監査役、山梨貯蓄銀行取締、有信銀行監査役、同取締役を歴任する。ほか、南巨摩郡立第一養蚕伝習所長などを務めた。